2013年4月10日水曜日


「道」(20130410

 「生者必滅会者定離」。生きている者は必ず死ぬ。会うことは別れの始まりである。人生は定まりなく時の流れに身を委ねるしかない。

合気道という武道がある。大相撲を見ていて思ったことがある。白鵬の相撲を見ていると「これは合気道だ!」と思うことがしばしばある。白鵬は強い相手の力を一瞬のうちに利用して勝っているように思う。勿論そのような動きが無意識に出来るようになるまでには相当な修練が必要であろう。頭で理解して「会得」していても体が無意識のうちに動くようになっていなければ決して「体得」したことにならない。白鵬は意識しなくても相手の力の向く方に自分の力を向けて相手を制しているように見える。白鵬は敵対する相手の力の向く方向、つまり相手の「気」の流れに逆らわず、その方向に自分の力の向きを合わせている。それも無意識のうちに行なっている。これは白鵬が意識していなくても自然に合気道の技を「体得」しているからであろう。白鵬は広大なモンゴルの平原に生まれ育っているから、幼少のころから宇宙と一体になるような感覚が自然に身に付いているに違いない。そのような生来の特質をもって相撲道に励んだからあのような大横綱になることができたのであろう。

仏道・剣道・柔道・華道・茶道など日本古来の「道」の修行においては何よりも「精神」が大事である。武士道も同じである。日本人はその「精神」を取り戻さなければならない。

「道」ということにおいては「人生道」も同じである。その「人生道」において「精神」は何であるか?それは「合気」のように大宇宙の時間の流れに逆らわず、自分が大宇宙に漂っているとても大きな船に乗っているような気持をもって、一日を一生のように思ってその一生を懸命に生きることではないだろうか?

自分の人生をそのように考えると冒頭の「生者必滅会者定離」の意味を深く理解できるのではないだろうか?現に生きている自分がある日突然死ぬことになったとき、その死を恐れおののくのか、或いは従容自若として頬笑んで死を受け容れるのか、それはその人の「人生道」の修行の仕方如何によるのだと思う。また趣味の会などで深い縁ができた仲間たちと別れるとき後ろ髪を引かれるような気持になったとしても、「会うは別れの始まりである」という人生の真実に思いを致して「また何処かでお会いしましょう」と言って別れることができるだろう。「生者必滅」「会者定離」「一日一生」「一期一会」などそれぞれ四字の短い句の中に「人生道」の「精神」が凝縮してこめられている。

それにしても漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字の「文字」を自由自在に駆使し、天皇を頂き、「道」の「精神」を知る日本国民は何と幸せな国民であることよ!