2012年11月30日金曜日


日韓関係の改善のために(102)「天皇皇后両陛下の沖縄ご訪問」(20121130)

 天皇皇后両陛下は去る1118日、全国海づくり大会式典にご臨席あそばされた。その後県内各地や久米島などを行幸あそばされた。その折、新聞やテレビではどういうわけか報道されなかったが、非常に多くの沖縄県民が提灯行列をもって歓迎した。提灯を掲げ「万歳!万歳!」を叫ぶ民衆に、両陛下はホテルの窓から提灯をお持ちになられお応えになられた。その様子が下に引用するとおり、ネット動画で紹介されている。日本はこのような国家である。(夜、川向こうのホテルの窓から天皇皇后両陛下がそれぞれ提灯をかざされ、民衆にお応えになられているご様子は、下の「ニコニコ動画」の終りの方に出ている。)

今、日本は日本国憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持」することが困難な状況にある。降りかかる火の粉は自ら払わなければならない。日本は一日も早く自主憲法を制定し、現行憲法を廃棄し、国の背骨となる国防軍をもち、日本を本来あるべき国に再生させなければならない。

日本自身が先ずそのような国家に再生されれば、いずれ日本と韓国の間も日本とシナ(中国)との間も、相互に恵みを得、お互い繁栄する関係だけは進展することだろう。そして将来、「反日」は次第に影を潜め、日韓・日中両国民同志お互いに親密な関係に発展することだろう。




2012年11月29日木曜日


日韓関係の改善のために(101)「128年前の朝鮮と似たような日本の状況」(20121129)

 小沢一郎氏の「国民の生活が第一」党は解散し、嘉田由紀子岐阜県知事が立ち上げた「日本未来の党」に合流することになった。その他、河村たかし名古屋市長ら共同代表の「減税日本・反TPP・脱原発」党や谷岡郁子参議院議員ら共同代表の「みどりの風」党も「日本未来の党」に合流することになった。「日本未来の党」は「脱原発(原子力発電に依存しない)」でなく「卒原発(原子力発電依存から卒業する)」のスローガンを掲げているが、これは言葉の遊びであって実質の中身は同じようなものである。「日本未来の党」は「卒原発」で「代替エネルギーの開発などを進めながら段階的に全ての原子力発電所の廃炉を目指し、10年後の2022年までにその方針を実現させる」としている。

 大きな政党を大まかにグループ分けすると①「自由民主党」・「日本維新の会」、②「民主党」・「公明党」③「日本未来の党」④その他、ということになる。①、②、③の各グループを多少荒っぽいが、128年前の朝鮮の状況と見比べながら考えてみる。①は金玉均・朴泳孝など急進開化・独立志向派、②は閔泳翊・金弘集ら穏健開化派、③は大院君・閔妃ら守旧派とそれぞれ対比させることができる。極端なことを言えば、③は美辞麗句を並べ立てるがそこに集う政治家たちは皆、国家のことよりも自己保身のことを考える人たちのように見える。128年前、朝鮮の開化・独立を推し進め、当時の状況から結局は韓国を併合した日本は、①、②、③、④の各グループに審判を下す立場に相当する。さて、来る16日の選挙で各グループにどういう審判が下るだろうか。

社会的に影響力がある人物が「将来は大中華圏の時代が到来する。日本は中国の属国として生きていけばよい。それが日本が幸福かつ安全に生きる道である。尖閣が領土問題ではないなんて世界の笑いもの。尖閣諸島を日中共同の核廃棄物の最終処理場にすればいい」などと堂々と言うような状況、「日中韓で東アジア共同体をつくる」ことを目指す政治家たちがいるような状況は、戦後、日本の国家観に関する教育が疎かにされた結果である。もし、学校教育の現場で「教育勅語」が唱えられ、日本の歴史に関する教育は勿論のこと、神武天皇以来万世一系の天皇を頂く日本の歴史観に関する教育も良く行われていたならば、上記のような考え方を持つ日本人は決して出てこないだろう。日本は、自主憲法を定めて現行憲法を廃止し、教育勅語と旧皇族を復活させ、日本国家の「背骨」として「国防軍」を創建することが急務である。

日本がこうして再生されれば、韓国に不法占拠されている竹島を取戻し、北方領土を回復し、尖閣諸島周辺海域にシナ(中国)の公船をうろちょろさせないだろう。アメリカは日本に一目も二目も置き、日本に敬意を表し、日本とアメリカはゆるぎなきパートナーシップを以てアジア・太平洋地域の安定に貢献することだろう。

2012年11月28日水曜日


日韓関係の改善のために(100)「日朝修好条約締結後日本が絡んだ事件」(20121128)

 日朝修好条約締結後日本が絡んだ事件は二つあった。一つは1884年(明治17年)(干支:甲申)124日決行された金玉均らによるクーデターの支援である。他の一つは1895年(明治28年)(干支:乙未)108日の閔妃殺害への関与である。後者については朝鮮の志士たちの意を受けて在朝鮮の日本人志士たちが日朝志士連合の形で決起し、これに日本の三浦公使以下在朝鮮の日本軍及び朝鮮の第二訓練隊の兵士らが合流して決行されたものであった。いずれも日本政府が直接関わったものではない。しかし日本政府はそれを是認していた。このことをもって、韓国は、日本は韓国併合を進めるためそのような事件を引き起こしたのだと主張するのかもしれない。しかし物事には必ず二面性があるので、韓国を併合せざるを得なかった当時の状況について日韓両国民ともよく勉強し、状況を正しく知り、併合の功罪についても良く検証し、お互い理解すべきところは理解し合うべきである。何事も問題が起きれば一旦原点に立ち戻ればよいのである。そうすることが日韓関係を改善するきっかけになるであろう。しかし現状では、韓国は韓国独自の歴史認識を日本に押し付けるだけである。関係改善は永久に無理と考える方が現実的である。

甲申クーデターの場合は、“日本の竹添公使は初めある者の讒言(ざんげん)を聞いて金玉均を疑いの目で見ていたが、その誤りに気付いた後、金玉均に自分の不明を詫び、その後金玉均の朝鮮独立への志を評価し、クーデターを決行するならば支援することを約束した。時に十一月七日であった。”(このいきさつについては『甲申日録』に竹添進一郎公使ほか金玉均ら朝鮮側関係者の発言の記録として呉 善花 箸『韓国併合への道 完全版』に紹介されている。)

乙未事件については、“日本人による王宮侵入から閔妃虐殺に至るまでのなりゆきは、王宮内にいたアメリカ人侍衛隊教官ダイーとロシア人技術者サバティンに目撃されており、彼らは見たままを証言したのである。そのため、三浦公使の「事件は大院君が結託して起こした軍事クーデターであり、日本軍は国王の依頼を受けてその衝突の鎮圧に出動したのだ」という主張を信じる外国公使はなく、国際的に大きな非難の的になったのである。苦境に立たされた日本政府は、急遽三浦公使を解任召喚し、閔妃殺害に関与した軍人八名を軍法会議にかけ、四八名を広島刑務所に収容し予審に付したが、いずれも無罪・証拠不十分として釈放された。・・(以下略)”(この部分は、呉 善花 『韓国併合への道 完全版』より引用。)


 甲申クーデターの背景には1882年(明治15年)(干支:壬午)723日に起きた李朝の旧軍兵士らと下層市民ら反乱デモ隊が “閔妃皇后を捕らえろ」「皇后を亡き者にしないと我々は生きておれない」”と叫びながら日本の“堀本少尉を殺害し、官庁、閔氏一族の屋敷、日本公使館などを襲撃して王宮に乱入”するという大暴動(壬午軍乱)があった。この壬午軍乱が起きる6年前、1976年(明治9年)326日、日朝修好条約が締結され、日本の主導により朝鮮の近代化が進められていた。殺害された堀本少尉は“明治十四年(一八八一年)五月、日本のすすめによって閔氏政権は近代化の軍隊として・・(中略)・・近衛士官(王室を守る将校)の養成を行”うため、閔氏政権によって招かれていた将校である。

壬午軍乱を契機に李朝に対するシナ(当時、清国)の軍事介入があった。シナ(清国)は朝鮮に対する宗主権復活の好機ととらえ、積極的に行動を起こしたのである。当時の情勢を考えて見れば、南下を目指すロシアも宗主権を守りたいシナ(当時、清国)も、李朝の王族や両班階級の人々も、近代化に目覚めた若手官僚や一般市民たちも皆、あたかも加熱された物質を構成する分子が激しく動きまわりぶっつかり合うように社会全体が沸騰するような状況で、みなそれぞれ自分たちが「生きのびる(=自存)」ため行動していたのである。東アジアにおける各国の「自存」の行動は今再び活発になりつつある。日本は戦後「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して来たが、現状ではそれでは生き残ることは出来ない。日本の周囲の諸国に公正と信義などはない。それが現実である。

壬午軍乱が起きた当時の李朝では“同じ開国、開化派にも二つの派があって、一つはあくまでも清国との宗属関係を守って行こうとする事大主義に立つもので、斬新的に開化を進めようとする穏健開化派といわれるもので、閔泳翊(ミンヨンイク)、金弘集(キムホンジブ)といった政治家達がこれに属する。
一方、もう一つの開化グループは新しい文明を積極的に取り入れて、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする独立党とも開化党とも言われた。その中心人物は金玉均(キンギョクキン)、朴泳孝(ボクエイコウ)など若手政治家であった。
だから朝鮮は大きく分けて、大院君が進めた復古、鎖国攘夷派と閔氏政権内の穏健派と、それに対する急進的開化派の三つの勢力があった。”(“”内は岩間 弘 著『決定版 大東亜顔袍戦争 上巻』より引用。)

 三つの勢力のうち、大院君が進めた復古、鎖国攘夷派は、シナ(清国)にすり寄ったりロシアにすり寄ったりして、結局は朝鮮の独立・開化の妨げになった。白人優位の人種差別があった当時の世界において、朝鮮はロシアの属国になりかねない状況にあった。中でも閔妃を中心とする勢力はシナの属国であることに甘んじ、朝鮮人民の幸福のことなどよりも、自分たちの幸福のことしか考えていなかった。幕末の日本の武士たちは違っていた。自分たちの身分を守ることよりも、まず日本の国が世界の中で「生きのびる(=自存)」ことを考えていた。大東亜解放戦争を戦って死んでいった日本の軍人たちも同様であった。

在中国特命全権大使だった丹羽宇一郎氏が在任中「将来は大中華圏の時代が到来します」「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」「それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」(『WILL 20127月号)”と発言していたが、TPPや原子力発電に揺れる「日本」を「大院君が進めた復古、鎖国攘夷派」という言葉に置き換えて、日本が平和に安全に、繁栄を享受しつつ「生きのびる(=自存)」のため取るべき政策はどうあるべきか考えてみると面白い。真に国の為になる理念や政策は何なのか。それは表向きの美辞麗句の下に見え隠れするシナ(中国)の属国になることも視野に入れたような政策ではないことだけは確かである。

2012年11月27日火曜日


日韓関係の改善のために(99)「閔妃殺害後の状況(20121127)

 閔妃殺害にいたる状況について岩間 箸『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』から“”で引用する。閔妃殺害後第四次金弘集内閣が成立したが、ロシアの手を借りた義兵によるクーデターが起き、金弘集らは殺害された。閔妃殺害は閔妃自身が李朝内の親露派の中心人物であったため、そのままでは朝鮮はロシアによって支配されるであろうという強い懸念が日本にも李朝内の開化派にもあったためである。

韓国は盧武鉉政権時代の200512月、「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を制定し、117年~128年前(明治17年~明治28年)に朝鮮の開化・独立・改革のため行動した志士たちを国賊扱いにし、志士たちの子孫が受け継いだ財産までも国家が没収すること、さらに日本による統治をプラスに評価した者を国家が処罰できることを正当化した。韓国民はその法律に縛られ、日本のように自由にものを言えないようである。日本も民主党が「人権侵害救済法案」を閣議決定しているが、もしこの法案が成立すれば、「物言えば唇寒し秋の風」というような時代になることだろう。

関連:20121123日金曜日『日韓関係の改善のために(95)「三国干渉後の世界」(20121123)』)http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2012/11/blog-post_23.html

 “排日、親露気運の高まる中「閔妃を葬れ!」の思いは在朝鮮の日本人志士のみならず、反閔妃派の朝鮮政客の叫びであった。朝鮮側から親日派の李周会将軍、訓練隊隊長の李斗璜、禹範善等が反閔妃決起の志を日本人志士達に通じて接近し、ここに日朝有志の連合が成ったのであった。(黒竜会「先覚志士記伝」上)(中村燦「大東亜戦争への道」再引)

 明治二十八年十月七日、朝鮮政府が訓練隊解散と武装解除を通告すると、八日未明閔妃排除を深く決意した日本の三浦梧楼公使の指示を受けた訓練隊と、日朝有志は大院君を擁して、王宮に侵入した。

 この際日本軍訓練隊歩兵第十八大隊四百五十名、朝鮮訓練兵士及び日本人壮士たち(領事館員、居留日本人など)が合流して景福宮に乱入し、王宮を警備していた第一訓練隊を銃撃戦で敗退させ、さらに近衛の侍衛隊を打ち破って王宮を占拠した。さらに閔妃が寝室に居たところを探し出し、斬殺し、遺体を王宮の外に運び出して焼き捨てた。時に四十五歳であった。これを閔妃事件或いは乙未(いつぴ)事変という。(呉善花「韓国併合への道」)

 こうして、親露派に代わって親日派が権力を掌握したが、日本政府は、急遽三浦公使を解任召喚し、閔妃殺害に関与した軍人八名を軍法会議にかけ、四十八名を広島刑務所に収容し、予審に付したが、いずれも無罪、証拠不十分として釈放した。

予審に於いて、三浦ら公使館の者たちは、日清戦争直前の王宮占拠の前例にならって行ったものであり、政府がそれを是認している以上、我々はなんら罪を負うべきものではない、といった意味のことを述べている。(呉善花「韓国併合への道」”(続く)

2012年11月26日月曜日


日韓関係の改善のために(98)「大中華圏と日本圏(20121126)

韓国大統領選で反日思想が強い文在寅氏が野党統一候補となった。もし文氏が当選した場合、日韓の間は一層厳しい状況になるだろう。韓国民が130年前のようにシナ(中国))の属国となる道を選ぶことになるのかどうか、戦後、平和ボケしてしまった多くの日本人が「そんな馬鹿な、130年前のようなことは絶対あり得ない」と思い込んでいる間に、世界の状況は「歴史は繰り返す」方向に向かっているのだ。

芝原郁生/美根慶樹箸『21世紀の中国 軍事外交編』を紹介する細谷雄一国際政治学者・慶応大学教授による書評に“中国は、現在の国際環境に不満を持つ。中国政府は自らがアメリカの軍事同盟などに包囲され、また適切な地位を得ていない現状を修正しようとする。さらに、中国は海洋への進出が出遅れたと認識し、「海洋権益」の擁護に猛然と取り組んでいるという。それゆえ、自らの「海洋権益」を拡大するために、実力行使を辞さない強硬な海洋進出が目立っている。そのような中国に対して、二人の著者は、「海洋は国際公共財であり、公海での自由航行や国際秩序の維持の重要性について中国を説得する」必要を指摘する。”とある。この本は是非購入して熟読したいと思う。

シナ(中国)は海外の「中国系人(華僑)」にも協力させ、この地球上に「大中華圏」をつくることを目指していると思う。在中国特命全権大使だった丹羽宇一郎氏は在任中「将来は大中華圏の時代が到来します」「日本は中国の属国として生きていけばいいのです」「それが日本が幸福かつ安全に生きる道です」(『WILL 20127月号)”と発言していた人物である。送別会の席上で“「中国の領海侵犯は仕方ない」「尖閣が領土問題ではないなんて、世界の笑いもの」「尖閣諸島を、日中共同の核廃棄物の最終処理場にすればいいじゃないか」”と言ったという。彼は民主党岡田克也氏の推薦で中国特命全権大使に任命されたと言われる。その岡田氏の家は代々商家で父親はジャスコ(イオン)の創立者である。そのイオンのシナ(中国)黄島店(青島市)は先の反日デモで手痛い被害を被ったが、このほどようやく復旧し、従来どおり営業を始めた。

商いの道(商道)は国境を越えて人々の交流を活発にさせ、言語文化が異なる国民同士を結び付ける働きがある。「政道」において衝突が無い限り、「商道」は国際平和と繁栄に貢献する。イオン黄島店はあれほど深刻な被害を受けたにも拘わらず10週間ぶりに事業を再開し、従来通りの賑わいを見せ始めたということは喜ばしい。しかし、政治家は今の時代の「武士」である。政治家はしっかりした国家観を持ち、「商家」を管理・統制しなければならない。丹羽氏のような言動をする者は、昔ならば厳しい処罰を受けただろう。

上掲の本はまだ読んでいないが、古代と違って情報通信・運輸交通や兵器が高度に発達した現代においても、日本は「日出処」の国の「天子(天皇)」が国事を行う国として、古代からずっと現代に到るまでのように、シナ(中国)に対しては警戒を怠らず、「大中華圏」に対する「日本圏」を護り抜かなければならない。

2012年11月25日日曜日


日韓関係の改善のために(97)「閔妃殺害(20121125)

 日本が韓国を併合するに至った過程において道義に反した事件があった。「道義に反した」というのは、私個人の見解である。但し私が「道義に反した」とする部分は閔妃殺害そのものを問題にしているのではない。また日本による韓国併合が間違っていたと言うのでも断じて無い。私が「道義に反した」とする部分の一は、日本公使の三浦梧楼陸軍中将率いる日本軍がやったのか、日本の壮士たちがやったのか或いは朝鮮の志士たちがやったのか明らかではないが、殺害した閔妃の遺体を王宮の外に運び出して焼き捨てたこと、その二は、閔妃殺害に関与した朝鮮側の親日派李周会将軍らは朝鮮側の裁判で死刑に処せられたが、同じく閔妃殺害に関与した日本公使三浦梧楼陸軍中将は急遽解任・召喚され、関係者は全員軍法会議にかけられ、広島刑務所に収容されて予審に付されたものの、すべて証拠不十分ということで無罪とされたこと、この二点である。

閔妃の遺体を王宮の外で焼くというのは「武士の情け」も無いやり方である。また朝鮮の志士たちが朝鮮の官憲に捕えられ処刑されたことは残念なことである。日本も朝鮮の志士たちも共に閔妃排除が目的の行動をしたのであれば、三浦公使は朝鮮の志士たちを徹底的に守り抜く準備も怠りなく行った上で行動すべきであったのではないかと思う。しかし歴史に「もしも」は後世の者が言うことである。この事件は朝鮮国内で起きたものであり、李朝の政府は機能しており、当時の状況としてはこれが限界であってどうにもならなかったことかもしれない。岩間 『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』から“”で引用する。

“この事件で朝鮮側の裁判は厳しかった。・・(中略)・・李周会以下三人が死刑、四人が終身流刑、四人が懲役刑であった。
(註)李周会は三浦公使以下が下獄したことを聞くと「日本の我が国に尽くすこと国を挙げて至らざるなし。この事変に会し、多数の志士の拘送見るに至る。義としてこれを看過すべきにあらず」と言って従容として縛につき、刑場の露と消えた。義に準じた李の行為に深く感じた日本人志士達は後年、処刑された李周会ら三名の碑を建て、その義烈を後世に伝えた。(黒竜会「先覚志士記伝」上、中村「大東亜戦争への道」再引”

 上記引用と前後するが“日清戦争後、日本に対して行われた三国干渉に日本が屈服すると親日派は動揺してロシアに迎合し、日本侮辱の感情が起こり、親日派官僚は排除され、親露派の人物が多数入閣して閔妃一派もロシア公使ウェーバーとの接近を深めていった。

 当時王宮を護衛していたのは米国人指揮下の侍衛隊であったが、これは規律な旧兵であり、軍律ある部隊は日本人教官に訓練された二大隊(八百人)の訓練隊であった。ロシアは親日派一層のため、先ず訓練隊を廃止して、武器を押収せんとしたため、訓練隊は激昂した。(中村「大東亜戦争への道」)”(続く)

2012年11月24日土曜日


日韓関係の改善のために(96)「シナ(中国)とどう向き合うべきか(20121124)

 シナ(中国)人が古来日本をどう見ていたかは、『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』(岩波文庫、昭和21年)や『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(岩波文庫、昭和31年)を読めばわかる。シナ(中国)人が日本人を嫌うようになったのは、元寇以降のようである。シナ(中国)皇帝が日本を以前のように「倭」と言わず「日本」と言うようになったのは、モンゴル人がシナ(中国)の皇帝になった元の時代以降である。舊唐書倭国日本傳(旧唐書倭国日本伝)には「日本國者倭國之別種也」(日本国は倭国の別種なり)という記述がある。

旧唐書倭国日本伝は西暦904年、唐王朝滅亡後、五代後晋(936946年)(日本では平将門の乱があった頃)の劉昫(887946年)らの奉勅撰の巻一九九上・東夷傳のうちに収められている。古来シナ(中国)人(漢族)は自分たちの文化の中心を「中華」と呼び、周辺国はその文化の恩恵を受けていないとしてきた。「夷」はもともと「殷」(紀元前1550年頃から紀元前1066年頃)の人々が東の地域に住んでいた小柄な未開人種を指して「夷」と呼んで蔑視していたものであった。

「殷」人は周辺諸族を征服し混血した。「殷」の後に興った「周」(紀元前1066頃~紀元前222年)は、「殷」に敵対する諸族と連携して強敵「殷」を倒して成立した国家である。漢族が言語文化が異なる諸族・諸人種を従えることができたのは「漢字」を発明したお蔭であった。「周」は「殷」の時代に祭祀・占い用であった文字をコミュニケーションの手段にした。「周」の時代にも周辺諸族・諸人種の間で混血が一層進み、現在の漢民族になった。漢民族は元々の漢族が周辺の部族・異人種を征服し、混血して成り立った民族である。

元々、縄文人と長江中流域から渡来してきた弥生人の混血種であった原日本人が住んでいた日本列島には、特に後漢滅亡(西暦219年)以降、主に朝鮮半島から漢人(漢民族)や韓人(朝鮮民族)らが次々と渡って来て、日本人と混血し、同化し、現在の日本民族になっている。言語や文化が異なっていても「漢字」によって十分なコミュニケーションが行われ、渡来人たちの中から有能な人たちは朝廷に仕え、日本の発展に多大の貢献をした。万世一系の天皇は彼らに然るべき氏姓と官位を与えた。頼山陽は『日出る処』という漢詩の中で、「贏顚劉蹶趁日没 東海一輪依舊出(贏(えい)は顚(たふ)れ劉(りゅう)は蹶(つまづ)きて日没(にちぼつ)を趁()ひ東海(とうかい)の一輪(いちりん) (きゅう)に依()りて出()ず)。(贏(えい)氏の建てた秦の国も倒れて滅び、劉(りゅう)氏の建てた漢の国も蹶(つまづ)いて転ぶように亡んでしまった。それは、あたかも落日を追うが如くであり、次から次へと王朝が倒れている。それに反して、東の海からは、一輪の太陽が、もとと変わらず差し昇るのである。それは、わが国の皇統が万世一系で太陽の如く窮(きわま)りないのに似ている。)」と詠っている。日本人は頼山陽が詠ったこの詩の意味を今一度かみしめて味わうべきでる。

その漢字を導入した日本はシナ(中国)からみて「東夷」、すなわち「東方の未開の国」であった。今でもシナ(中国)は日本のことを「小日本」と言って蔑視している。シナ(中国)が東シナ海にある尖閣諸島を先ず狙い、ゆくゆくは沖縄・奄美・先島(八重山)諸島を占領しようと狙っているのは、その心理の深層において古来、シナ(中国)に従属しようとしてこなかった日本、すわなち「東夷」を攻め滅ぼして「大中華圏」に囲い込みたいということであろう。その意思はすでに北朝鮮において着々と実行されつつある。韓国も「反日」思想のためシナ(中国)と連携を模索しているが、しっかりした国家観を持っていない限り、折角日本が128年前、正に血のにじむような努力をしてシナ(当時清国)との宗属関係を断ち切ってやったのに、またシナ(中国)の支配下に入ってしまうことになるだろう。朝鮮半島はアメリカと日本の力なしには、いずれ満洲のように、シナ(中国)に同化した地域になってしまうことだろう。(関連:201283日金曜日『沖縄・尖閣・八重山各列島の防衛(20120803)
2012915日土曜日『人民解放軍将官10人、釣魚島について共同声明を発表(20120915)(緊急投稿)』

因みに漢民族を征服し、元朝を興したモンゴル人は「北狄」(北方の未開人)であった。「狄」という文字は「火を燃やして犬を横に追い払う」という意味がある。漢民族は既に内モンゴル自治区を支配し、混血を進め、モンゴル族をシナ(中国)に同化させつつある。シナ(中国)北部中ほどにある「青海」・黄河源流域から甘粛省東部にわたる地域に住んでいたチベット系ないしトルコ系の人々は「西戎(せいじゅう)」と呼ばれていた。その少数民族もいずれ漢民族に圧迫され、漢民族と混血・同化してゆくだろう。「戎」には「つわもの・武器を持つ兵士」という意味がある。

またシナ(中国)人はインドシナをはじめとする南海の諸国は「南蛮」と呼んでいた。「南蛮」には「南方の野蛮人」という意味がある。南シナ海に浮かぶ南沙諸島など手中に収めようとしているのは、シナ(中国)の大中華思想において「南蛮」である東南アジア諸国をその「大中華圏」内に囲い込みたいという意志の顕われであろう。

日本は古来「中華圏」の外にあって、常に自主独立してその文化・文明を高めてきた国である。「大東亜解放戦争」に敗れ、アメリカに「降参」したが日本の国体は守り通された。それは東条英機元首相ら七人の烈士たちのお蔭である。日本はこれからも「大中華圏」に加わらない独自の文化・文明圏である「日本圏」ともいうべきものを護ってゆかなければならない。「南蛮」と蔑まされていた東南アジア諸国の独立の維持のためにも・・。

2012年11月23日金曜日


日韓関係の改善のために(95)「三国干渉後の世界(20121123)

 日本が「三国干渉」に屈した結果、李朝内に親露派が台頭した。この結果、日本が精魂傾けて朝鮮の近代化に取り組んだ努力も水の泡となった。しかし日露戦争の結果、日本は遼東半島(旅順)や奉天(瀋陽)からロシアを駆逐した。そして日本は韓国を併合し、朝鮮を日本国内並みに改革する政策を進めた。今、シナ(中国)が旧満州も含めてシナ(中国)の主権が及ぶ地帯になったのも、朝鮮が一流国並みになることができたのも、日本がロシアと戦って勝ったお蔭である。そのことを全ての日本人は知っておくべきである。

その上で、愛国心教育のため近代史をねじ曲げて誤った歴史教育を行い、自国民に反日思想を受け付けて続けているシナ(中国)と韓国に対しては、国際的大々的キャンペーンも含め、日本は徹底的にその誤りを正すようにするべきである。日本人は押し付けられた憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義」に信頼することは止め、「騙すよりも騙される方が悪い」と考え、自らは他国民を決して騙すようなことはしないが、決して騙されないようにしなければならない。

ただし用心しなければならないことがある。シナ(中国)が女真族の満州を漢族に同化させることに成功したことは、古来、中華思想を捨てないシナ(中国)漢族がやってきた独特やり方である。尖閣・沖縄・奄美・八重山も含めシナ(中国)が隙あれば掠めとろうと行動していることについては、日本はアメリカに頼らずとも自力で対処する自覚と実力を持たなければならない。
引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』から“”で引用する。

 “一八九四年(明治二七)七月の甲午政変によって金弘集内閣が成立すると、金弘集を総裁官とし、魚允中、金允植、兪吉濬ら新改革派官僚を会議員とする軍国機務処という名の改革推進機関が設立された。そして彼らによって、一〇月までに政治制度、経済体制、社会体制、地方制度の改革が次々に行なわれていった。(第一次甲午改革)

 しかし改革は高宗・閔妃派・大院君派官僚たちから大きな圧力を受けていたため、日本がめざす近代民族国家体制の創出にまでは、手をつけることができないでいた。そのため一〇月に大鳥圭介に代わって着任した井上馨公使”の要請によって、一二月に軍国機務処が廃止され、日本へ亡命中の朴泳孝とアメリカへ亡命中の徐光範を呼び戻し、彼らを含んだ第二次金弘集内閣が新たに組織された。そしてこの挙国一致内閣によってさらに近代化が推し進められたのである。(第二次甲午改革)。

 しかしながら日本が三国干渉に屈したため、翌年六月に第二次金弘集内閣は崩壊し、井上の改革構想は一気に頓挫することになってしまった。

 それでも朴泳孝はなんとか実権を確保したものの、急速に親露派が台頭し、朴泳孝は彼らと対立に敗れて失脚し七月に再び日本へ亡命する。ロシア公使の閔妃への接近を防止するため、王宮警護を訓練隊(日本士官が指導する朝鮮部隊)にまかせようと建議して高宗の反対を受けたたことが、彼の失脚を招いたのである。

 八月に第三次金弘集内閣が成立するが、そこでは開化派は斥けられ、閔妃派や欧米派の官僚たちが登用された。こうして閔妃勢力が権力を回復し、彼らはロシアの後援を得てほぼ開化派勢力の抑制に成功したのである。

 ただ、甲午改革は朝鮮近代史のうえできわめて大きな意義があった。甲午改革によって推進されたのは、政治・経済・社会全般にわたる大幅な近代化であり、農民軍から提議されていた幣制改革にも応えうるものであった。基本的には金玉均らが甲申改革の最中に示した「甲申政綱」を引き継いだものであった。

主なものをあげると次のようになる。
   王府と政府との分離
   清国との宗属関係の廃止
   近代的政治制度・官僚制度の導入と科挙制度の廃止
   地方自治制度の導入  
   租税の金納化・幣制改革をはじめとする財政改革
   軍隊・警察制度の改革
   近代的学校制度の導入
   司法権の独立と近代的裁判制度の導入
   諸身分の廃止と嫡子・庶子差別の撤廃
   女史の再婚の自由と早婚の禁止

しかしながら、これらの改革推進には国王・閔妃・大院君各派の反発が強く、結局は実を結ぶことはなかった。…(中略)・・・

親露派官僚たちは、ロシア公使館内で国王に国王親政を宣言させ・・・(中略)・・・金弘集と鄭秉夏は光化門を出たところで群衆に打ち殺され、魚尹中は故郷へ逃げる途中で民衆に殺害され、金允植は逮捕されて済州島へ終身流刑され・・(中略)・・ここに旧独立党派も穏健改革派も完全に壊滅させられ、日本が精力を傾け続けてきた朝鮮内政改革への流れが終焉するのである。” (続く)

2012年11月22日木曜日


日韓関係の改善のために(94)「日清戦争への道(続)(20121122)

 1894年(明治27年)9月、日本軍が平壌を占領したことにより朝鮮が直ちに「自主の邦」にはならなかったが、朝鮮半島からようやくのシナ(中国)の勢力が一切無くなった。李氏朝鮮が始って以来実に520年ぶりである。初代李氏朝鮮王は高麗王の臣下の武将であり、女真族の血を引いていると言われる。満州族は女真族であった。高麗王は旧高句麗の大族の末裔だと言われるが最近になって漢人(漢族)の末裔であるという新説がシナ(中国)の研究者によって出されているという。(参考:Wikipedia

 日清戦争は大日本帝国海軍がシナ(清国)北洋艦隊を全滅させ、鴨緑江を越えて満洲(清)に進入した第一軍(司令官山県有朋陸軍大将)と遼東半島に進入した第二軍(司令官大山巌陸軍大将)の陸軍が首都北京に迫ろうとしたとき、シナ(清国)から講和の申し込みがあって終結した。以下、岩間 『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。

 “講和談判は下関の春帆楼で、我が国全権伊藤博文、及び陸奥宗光、清国全権李鴻章、李経方父子の間で行われ、明治二十八年(一八九五年)四月十七日に調印された。内容は
   清国は朝鮮国が完全無欠の独立自主の国であることを承認する。
   清国は遼東半島、台湾全島及び澎湖諸島を永遠に日本に割与する。
   清国は軍費賠償金二億両(テール)(邦貨約三億円)を支払う。
   日清間の一切の条約は交戦のため消滅したので新たに通商航海条約を結ぶ。
   本条約批准後、直ちに俘虜を返還する。清国は送還された俘虜を虐待あるいは、処刑せぬこと。
これが日清講和条約の骨子である。だが、この直後に我が国は青天の霹靂(へきれき)に見舞われることになった。条約に対する三国干渉であった。(中村  「大東亜戦争への道」”
 
  善花 著『韓国併合への道 完全版』からも“”で引用する。
 下関条約が結ばれた直後に“ロシア・ドイツ・フランスが、日本が戦利として得た遼東半島の清国への返還を要求し、日本はこれに屈して遼東半島の領有を放棄する。(三国干渉)。後に三国が日本への干渉の代償として清国から、遼東半島をはじめとする各地の利権を得たことは言うまでもない。

 ただ、下関条約の第一条で、中国と朝鮮の宗属関係を廃棄して朝鮮を「独立自主の国」とし、それに伴って旧来の「貢献典礼」を廃止すると宣言されたことは、まさしく朝鮮半島の歴史にとって一大画期をなす出来事であった。”(続く)