ラベル 小説『18のときの恋』 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 小説『18のときの恋』 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2010年1月7日木曜日

小説『18のときの恋』(20100107)

 
  昭和2112月の暮れ、いよいよ死期を知ったともゑは信夫にいつものように「起こしておくれ。」と言った。その時は「背中をさすっておくれ。」とは言わず今度は「東を向けておくれ。」と言った。信夫はやせ細ったともゑが何故そう言ったのか理解できぬままともゑの言うとおりにしてやった。すると「お仏壇からお線香を持ってきておくれ。」という。ともゑの言うとおりにしてやるとともゑは「お父さんを呼んできておくれ。」と言って東に向いて両手を合わせた。

  信夫の父親は家の裏の山に、当時おくどや風呂の焚きつけ時の燃料にするための落ち松葉を掻き集めるため行っていた。信夫が父親を探して戻ってきたとき既にともゑはこと切れていた。死床の周りに祖父母や近所の人たちが集まっていた。父親は自分が無力で苦しむ妻に何もしてやれなかった悔しさに耐えかねて、ともゑの傍であたりかまわず号泣した。人生には自分の能力と努力でなんとかできることと、それだけではどうにもならないこととがある。天命に従い、事にあたり己の最善を尽くし、わが事において後悔しない精神を常に持ち続けることが人のあるべき生き方であり、死に方である。

  そのような精神を身につけている千代のお陰で信夫は念願の東京建築大学に入学することができた。同級生たちは皆年下であったが信夫は一心に勉学に励みその大学を首席で卒業し、1級建築士の国家資格も取得することができた。その努力が実を結び信夫は都内にある世界的に有名な飛鳥建築設計事務所に就職することができた。

  信夫はその会社で良い上司に恵まれた。信夫の上司は信夫より年下であったが以前から信夫のことをよく知っているかのようであった。否、その上司ばかりではなく社長以下全員が信夫の家族のようであった。信夫はその会社で15年間修業を積み、その会社の関連会社として新しい会社を興し、グループ企業の一翼を担うようになった。

  チームワークという言葉がある。真のチームワークは個々のチームメンバーがそれぞれの役割を果たすネットワークである。社長もチームのメンバーの一人であり、社長という役割を担っているにすぎない。社長が社員よりエライわけではない。チームワークはタテの関係のワークではなく、ヨコの関係のワークでもなく、ネットワークである。その要要にリーダー、サブリーダーなどの役割を担うメンバーがいるワークである。そのようにして全体の和が重んぜられるワークである。そのワークは古来日本人が自然に身につけて来たワークである。例えば人々が飢饉で苦しんでいる時、領主も共に苦しみ、困難を乗り切るため領主も領民も一丸となって頑張る。そのような文化を古来から日本人は大切にしてきたのである。その根底には‘お陰さま’がある。近年その日本でそのような文化が廃れてきた感がある。

  信夫の今の幸せは一重に千代のお陰で得られているものであると信夫は思っている。信夫と千代の三人の子供たちもそれぞれ幸せなよい人生を送っている。すべて‘お陰さま’のお陰である。信夫がもし千賀子と結婚していたと仮定した場合、今の幸せが得られたかどうかは判らない。しかし信夫が18の時の千賀子との間も友達以上恋人以下の関係も‘お陰さま’のお陰である。仏さまの方便である。千賀子も信夫から忘れられたというショックを乗り越えて幸せな結婚をし、よい家庭を築いた。人生で起きるすべての物事には、仏様から見れば意味のないことは何一つないのである。(終)

(関連記事:「お陰さまで(20091227)」、「現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)」)

2010年1月6日水曜日

小説『18のときの恋』(20100106)

 
  ある日千代は「信夫さん、貴方がいつも言っているように人生は投資だと思います。貴方にはこれまで内緒にしてきましたが、私は貴方が貴方の人生に投資するためのお金を十分準備できています。一緒に上京して大学に通いませんか?」と突然言った。信夫はその時信夫が10歳のとき33歳で死んだ母親・ともゑのことについて、当時40前であった父親が信夫に語った言葉を思い出した。

  その頃信夫の父親は自分の甲斐性なさのため、苦労を共にしてきた妻をむざむざ死に追いやってしまったと悔いていた。信夫に「死のうと思ったがお前たちのことが可哀そうで死ねなかった。」と話したことがあった。そのとき「お前たちのお母さんはとてもしっかりしていたぞ。お母さんは先の先のことまでよく考えていた。お母さんは何をするにも順番を良く考えて行っていた。決して無駄が無かった。」というようなことを信夫に話していた。

  千代はとてもしっかりしている女性である。人の性格は子供の時に既に形成されている。千代が小学校5年のときに学級の生徒全員が写っている写真がある。千代は前列の中央にいる。信夫はパソコンでその全体写真の中から千代だけを切り取って拡大し印刷したものを作ってみた。11歳のときの千代の顔つきにはすでに何かの覚悟ができているようである。信夫はその写真を見て、千代は信夫に尽くすためこの世に送り込まれたのだと思った。

  千代は信夫に尽くすという役割を自覚しているわけではないが、結果的にそのような形になっている。千代は信夫のキャリアアップのため必要な資金を信夫には気付かれないようにして計画的に準備してきたのである。信夫は母親がもし生きていたら同じようなことをしたであろうとふと思った。

  信夫の母親・ともゑの胸には朝鮮から引き揚げた20年夏、既にがんのしこりができていた。その年の10月父親が引き揚げてきたが、何も彼も失って引き揚げてきた父親には直ぐには為す術もなかった。いろいろ金の工面をし、つてを頼って翌年早々ともゑを別府の病院に入院させた。ともゑはその病院でがんに侵された左右両方の乳房を間をおいて順番に切除する手術を受けたが既に手遅れであった。

  信夫は別府のその病院で母親のがんの塊を見たことがある。その頃の病院は荒っぽかったのかもしれないが、病院の中庭の池に飼われていた亀にそのがんの白い塊を餌として与えていたのを見た。信夫は父親に連れられて病院長の家に行く途中の廊下の窓からその塊を見た。病院長の家には祖母からことづけけられた大根やカボチャなどを入院代替わりに贈るため行ったのであった。

  今のように抗がん剤が揃っているわけでもなく、乳がんの治療法は限られたものであった。ともゑは結局それ以上の手の打ちようもなく病院から見放された。そして信夫の父親の家に身を寄せ死の床に臥していた。母親の背中にはがんが転移し沢山の小さながんのこぶができていた。「信夫、起こして、また背中をさすっておくれ。」と言うたびに10歳の信夫は母親を寝床から起こして上げ、背中をさすってやっていた。今思えば全身に転移したがんはともゑに相当な苦痛を与えていた筈である。しかしともゑは信夫にその苦痛の顔を少しも見せることはなかった。誇り高い士族の孫娘として息子に身をもって生き方と死に方を教えようとしたのであった。しかしその時の信夫は自分の母親が既に死の床にあることを知らなかったし、母親の信夫に対する思いも理解していなかった。(続く)

2010年1月5日火曜日

小説『18のときの恋』(20100105)


  しかし当の信夫の方は千賀子がそれほどまで信夫のことを想っていたとは知らずじまいであった。50歳のときの同級会で千賀子は「あなたがどんな女性と結婚したのか知りたくて、市役所に行き貴方と奥さんのことを調べたのよ。」と淡々として話した。級友たちは千賀子の話を黙って聞いていた。信夫は千賀子に悪いことをしてしまったな、と自分の無知を悔やんだ。しかし千賀子が信夫を別に怨んでいる様子も見せなかったし、東京でスタイリストをしている娘の写真も皆に見せながら長い齢月の間にいろいろあったことなどを語ってくれたので、信夫は救われた気持ちになることができた。

  信夫に結婚話が持ち上がったのは、信夫が下士官になって艦隊勤務から離れ江田島にある海上自衛隊の術科学校で教官をしていたときのことである。そのまま順調に行けば部内出身の士官候補生になる道もあった。しかし信夫は自分の人生の目標をはっきり決めていた。それは建築家になることであった。信夫は上司の熱心な勧めを有り難く思いながらも士官候補生になるための勉強はせず、玉川大学の通信教育を受け数学の勉強をしていた。建築設計技術者として生きてゆくためには数学の素養は必要であると考え玉川大学の通信教育を受けたのである。建築設計技術者になり将来は独立して事務所を持ちたいという信夫の希望は、信夫の父親を通じて千代の父親にも伝わっていた。

  信夫と結婚した千代は医師の資格を生かして江田島の海上自衛隊病院の非常勤医師を務めながら信夫の自尊心を傷つけずに信夫の長年の夢を実現させるため心配り、気働きを忘れることはなかった。医師でもあるのでその知識を活かして自分自身のことは元より信夫の健康維持にも気を配った。信夫は千代のそのようなやさしさを嬉しく思い、いつも心の中で「ありがとう」と手を合わせていた。

  千代は信夫の勉学のためにと秘かに貯金をしていた。千代は信夫と結婚する時父親から「千代、これは父さんがお前のために毎月少しずつ貯金してきたものだ。将来きっと役立つときがある。そのときまで大事に持っておくように。」と1冊の郵便貯金通帳を渡されていた。そのお金と合わせると信夫が4、5年間は働かなくても暮らして行けるだけの十分な金額になっていた。千代はそのお金を使うべき時がきたと思った。

  二人の間に二人の男の子が授かり、平和で暖かな家庭生活が続いていた。家庭の暖かさは千代の人柄が作りだすものである。千代には生来のおおらかさと明るさとやさしさがある。家事は人一倍良くこなす。花が大好きで家の内外は花や観葉植物で一杯である。

  信夫は千代に口癖のように「男の子は体が丈夫で意志が強ければ生きて行くことができる。子供を立派に育て上げ、社会に送り出すことが人生の大事な事業である。経験は学習の一つである。」とよく口にし、実際そのとおりに実行していた。二人の息子たちを子供時代よく山野海岸に連れて行き、少年時代にはスポーツ少年団に入団させ、高校・大学時代にはそれぞれ1年間の海外留学もさせた。

  千代は子供たちへのしつけは厳しいが本当にやさしい母親である。赤子におっぱいを含ませるとき、赤子の顔を見つめながら語りかけ、すこし大きくなれば膝の上に載せて両手を引いたり押したたりしながら語りかけ、成長した後も食卓での母子の会話は絶えなかった。子供たちは学校でのできごと、会社でのできごとなど何でも千代に話した。信夫はそばで母子の会話に相槌を打ちながら耳を傾けていることが多かった。(続く)

2010年1月4日月曜日

小説『18のときの恋』(20100104)


  写っている女性は信夫が10歳の時に他界した信夫の母親に良く似ていた。信夫の母親は終戦の翌年、昭和21年の暮れ、乳がんで逝った。信夫の父親は乳がんを患った自分の女房をよく看てやることもできず死なせてしまったことを終生悔やみ続けていた。信夫の父親は大野郡の田舎で間借り生活するという極貧の暮らしを陰に日向に支えてくれた信夫の今の母と再婚したが、後妻に内緒で死んだ前妻の墓石の欠片を秘かに所持していた。そのことがその父親の死後明らかになった。母は「隠さなくっても良かったのに。」と嘆いていた。

  信夫は父親が「お前はこのひと(女性)と一緒になれ。」と半ば命じるように言った。信夫自身かつて「結婚しよう」とまでいった同級の女性がいたことを父親には話していなかった。それに千賀子との付き合いはお互い手も握ったこともなく、今でいう「友達以上、恋人以下」の純愛を貫いていた、というよりは信夫は男女の関係については晩熟であった。

  信夫の父親はそういう息子に自分の死んだ女房、信夫の生母に良く似た女性を信夫に勧めたのである。信夫の生母は幕末の熊本藩士で船舶・港湾の行政を担うお船奉行の孫娘であった。豊臣秀吉の政策で今の大分県である豊後国は幾つかの藩に分割され、参勤交代の時の出入りの港があった鶴崎地方は熊本藩の所轄であった。信夫の父親が大野郡で教師をしていた頃、視学(今の県教育長)が信夫の父親を見込んでその熊本藩士の孫娘を妻合わせたのである。当時信夫の母親は父母とも死別し幼い妹を養いながら国東で教師をしていた。 

  信夫の父親が「お前はこの女性と一緒になれ。」と言った女性は信夫の父親の親友で教師をしていた人の娘であった。その親友は信夫の父親に「お前の息子なら俺の娘の千代を嫁にやってもよいぞ。千代は医者の免許も取ったので何かの役に立つだろう。」と言ったという。

  人物の判断は表面的なものだけで判断するよりも、表には見えないものを直感で判断する方が万事うまくゆくことがある。その直感の奥底にあるものは人智を超えた、ある意味では過去世、今生、来世を通じた永遠的な絶対的なものに委ねられているものである。そのような直感は生まれつき持っていた素質と生後親や周囲の人たちによる教育と本人の真摯な努力により身につくものである。千代の父親は信夫の父親から信夫のことをよく聞かされていたが、ある日信夫に初めて会って二言三言言葉を交わしただけで信夫の人物を見抜き、自分の親友がその父親にしてその子あり、と納得したのである。

  信夫の父親と同じ明治生まれのその人は「この男に自分の娘を合わすことは天命である。娘がこの男に尽くし、男子を産み、良く育てて世に送り出すことが娘の人生の役目である。」と直感したのである。歴史上そのような判断をした例は幾つかある。‘お役目’という言葉は、ただ単に現実世界の組織の中での職務を指す言葉ではなく、判りやすく言えば ‘特定の目上の人に仕え、そのお方が為すべき事業が成就するようにと常に心を配り、気働きをし、真心をもってお仕えする立場’であるということである。今時そのような古風な考え方をする女性は殆どいない。否皆無と言ってもよい。しかし千代はそれが自然にできる女性であった。

  信夫は余り迷うことなく「判りました」と返事した。見合い結婚話はトントン拍子に進み、信夫が25歳のとき、4つ年下の今の女房との結婚式を挙げた。千賀子は風の便りに音信のない信夫が結婚したことを知り、大変ショックを受けた。(続く)

2010年1月3日日曜日

小説『18のときの恋』(20100103)


    70を超えた信夫は自分自身の実践はともかくとして、政治の動きや社会の動向について相手のことにおかまおいなしに友人たちとあれこれ議論するのが好きである。友人たちの中で女性たちは信夫がしゃべりだすと「またか」とあからさまにうんざりする顔をする。

  高校を卒業直前のある日信夫は千賀子と『荒城の月』で有名な豊後竹田城を日帰りで訪れたことがあった。周囲のうるさい目を逃れて親にも誰にも内緒で、初めて遠出のデートをした。そのときのムードに惑わされたのか、信夫は千賀子に「将来時期が来たら」という言葉を省略して、いきなり「結婚しよう」と言ってしまった。千賀子は信夫の急な話に驚いた。年を重ねて人生経験を積んだ今から考えると、千賀子は信夫からの愛の告白を本当は嬉しく思っていたはずである。しかし「まだ18ですよ!」と信夫は千賀子にたしなめられてしまった。信夫と千賀子の交際は豊後竹田への日帰り小旅行を最後に途絶えた。


  信夫と千賀子の交際が途切れた大きな理由がある。信夫は高校卒業と同時に海上自衛隊に入隊し厳しい新隊員教育を受けた。そして護衛艦の砲雷科に配置となり艦が居住する場所となった。艦とともに日本国内だけではなく幹部(士官)候補生たちを乗せた遠洋航海や砲術訓練などで海外にも出るなどして各地を訪れた。艦隊勤務が毎日楽しくて仕方かった。初めの頃は海上自衛隊で海曹(下士官)になり所帯を持てるだけの自信がついたら千賀子に改めて結婚を申し込もうと思っていた。しかしそんなことは忘れてしまっていた。自分には千賀子以外の自分にふさわしい伴侶が必ず現れるはずだと確信するようになっていた。今思えば信夫は千賀子に恋焦がれるほどに千賀子を愛してはいなかったのである。

  信夫は後で知ったことであるが、かつて信夫が高校生のころ千賀子との交際の噂が広まって、千賀子の母親が信夫の家を訪れ、応対に出た信夫の叔父の嫁に「うちの子と交際させないで欲しい」と申し入れられていたことがあった。信夫の母親は信夫が10歳のとき乳がんで他界してしまっていたので、信夫の母親代わりを祖母や同居している信夫の叔父の嫁が務めてくれていた。その嫁は「若い日の時の思い出として胸にしまっておきなさい。そして千賀子さんとは手を切った方が貴方の幸せになる。」と信夫を諭した。

  当時信夫の父親はかつて朝鮮で羽ぶりのよい校長職までしていたが、戦後米1升が教員の月給とほぼ同額であった時代であったので生きて行くために長く教職を離れ、保険の外交員などしていた。しかし教職への夢は忘れられず師範学校時代の級友の助力を得て、42歳にもなって初めは助教という資格で教師として再出発し、その後正教員に復帰することができて、大野郡の田舎の小学校の校長として頑張っていた。しかし安月給のため信夫を養育してくえている信夫の祖父母に信夫や信夫の弟妹たちのための仕送りはできずにいた。ともかく信夫は祖父母や叔父夫婦の援助で高校を無事卒業することができた。

  信夫がある日父親に「大学には将来働きながら進学する。先ずは独りで生きてゆける自衛隊に入る」と言ったら、父親は信夫に「済まぬ」と一言言って「自衛隊でまじめに精一杯頑張るんだぞ」と言った。信夫は陸海空どこに入るか考えた末、視野を広めるため海上自衛隊の入隊試験を受けた。無事合格し、海上自衛隊での人生が始まった。新隊員教育を受けたのち護衛艦きたかぜの砲雷科に配属され信夫の艦隊勤務が始まった。信夫は勤務成績が極めて優秀で昇任試験に合格してトントン拍子に昇進し、最短期間で下士官に昇進した。信夫が24歳になったある日父親から見合い写真が送られてきた。(続く)

2010年1月2日土曜日

小説『18のときの恋』(20100102)


  一方芳郎は父親から相続した家と広い屋敷の管理で忙しい日々を送っている。寛政年間に建てられたと伝わる重厚な建物は管理が行き届いていないので傷みが激しい。雨漏りもしている。2階の天井裏には錆びついた刀や槍などの武具があり、そのまま放置しておくのは勿体ないと考えなんとか建物とともに文化財として後世に遺すことができないかと奔走している。その一方で自分の祖先のことを詳しく知りたくて、郷土歴史研究会というサークルで活動している。信夫はその研究会の研究成果をまとめた資料を芳郎から貰っている。

  信夫や坂田が帰郷する時、二人は必ず辰ちゃんと芳郎君に連絡している。今年の盆休みのとき信夫は2年ぶりに帰郷をした。帰郷前辰ちゃんに帰る日を伝えたら辰ちゃんは「おい藤君、今度の盆休みに江藤千賀子を呼んで一緒に食事しようと思うんだがどうだろうか」と突然言う。江藤千賀子の名字である江藤は旧姓で、今の名前は緒方千賀子である。
千賀子は結婚して福岡に住んでいる。福岡と言っても久大線沿線の浮羽町で信夫の郷里の日田に近い。級友たちが集まる場所として日田は好都合である。

  辰ちゃんがなぜ千賀子のことを持ち出すかと言うと信夫と千賀子の間に恋物語があったのを彼らが知っているからである。そのことは皆が50になったとき学級担任の阿部先生などを呼んで集まった同級会で千賀子が信夫に話していたことを聞いているからである。

  信夫はあのとき千賀子から初めて聞いたのであるが、千賀子は「結婚しよう」とまで言った信夫のことが忘れられず245歳にもなって風の便りに信夫には既に婚約者がいることを知り、悔しくてその女性がどんな人であるかということを知りたくて市役所に行き、いろいろ調べたというのである。千賀子はそのことを同級生の皆の前で暴露したのである。その時はお互いそれぞれ結婚生活も長く、千賀子には東京でスタイリストをしている娘さんもおり幸せな暮らしをしていたので、深刻な状況にならずに済んだのであった。しかし辰ちゃんたちはそのことが信夫をからかう格好の材料にしているのである。

  辰ちゃんが信夫が帰郷するたびに「江藤千賀子を呼ぼうか」と言う。信夫は「いやいやそれはいいよ。彼女も迷惑だよ。」と言うと、「いや、そうでもなさそうだよ。この間同級生名簿を作るため彼女に電話し、今度の盆に‘藤倉君が帰ってくるのだが出て来ない?’と言ったら、‘都合がつけば行くわ、日が決まったら知らせて’と言っていたよ。」と言う。

  信夫は高校時代千賀子と交際していた。当時高校生の分際でアベックでいることが人の目にとまればたちまち大きな噂になった。信夫と千賀子はそんなことを気にせず日田の日隈川や亀山公園などでデートを重ねていた。しかし信夫は千賀子の手さえ握ることもなかった。

  信夫は古本屋に売ってしまい今は手元にないが、千賀子から『千夜一夜物語』をプレゼントされたことがあった。千賀子は女であるから思春期は男よりませている。信夫があれほど千賀子とデートを重ねながら‘その気’が全く感じられないことに千賀子は多少苛立っていたのかもしれない。信夫は千賀子に何もプレゼントしたことがなかった。

  ある日千賀子は信夫の将来を占って信夫に「藤倉さんは将来評論家か技術者が向いている」と言ったことがある。その占いは当たっている。信夫は1級建築士として評判もよく、確かに千賀子の言った通り建築設計技術者である。もう一つ評論家についても当たらずとも遠からずと言ったところである。(続く)

2010年1月1日金曜日

小説『18のときの恋』(20100101)


  坂田も大概2位か3位で時には信夫を抜き1位になることも何度かあった。信夫と坂田は小学校時代から仲が良く、喧嘩もし、ライバル関係にあった。だから70を過ぎた今でもお互い相手の名前を呼び捨てにしているのである。坂田は3男坊であるから、芳郎と信夫のように父親同士は同じ年ではない。坂田の父親は信夫や芳郎の父親より年長であった。

  信夫は坂田のことを‘坂田’と呼ぶのであるが、他の級友たちは坂田のことを敬意をこめて‘泰さん(やっさん)’と呼んでいる。そう呼んでいるのは、彼が中学時代野球選手として活躍し、チームのリーダー的存在であったからでもある。野球仲間で後輩が‘やっさん’と呼ぶようになり、それが皆に広まったのである。しかし信夫だけは坂田と呼んでいる。辰ちゃんや芳郎君と話すときは「‘坂田’に聞いた」などと言い、坂田と話すときは‘坂田’と呼び捨てにしている。坂田も同様に信夫のことを‘藤倉’ と呼び捨てにしている。

  信夫、芳郎、泰治らが中学校に上がったとき町村合併があり、二隈地区が山鹿地区と同じ行政区になった。そのとき旧二隈地区にあった西中から梶山辰夫や中村志乃や江藤千賀子らが移ってきた。先生たちが故意にそうしたのかどうか知らないが、中学合併後も信夫と芳郎と泰治は同じクラスであり、担任の先生は美人で独身で音楽を担当する阿部桃子先生であった。そのクラスに西中からきた千賀子もいた。

  千賀子は色白ではないが目鼻立ちのはっきりしたちょっとおませで利発な女の子であった。あるとき先生が「皆さん、新聞を読んでいますか?」と皆を見まわしながら質問したことがあった。そのころ信夫は先生が何故そのような質問を中学生にしたのか未だに判らない。がしかし信夫が印象に残っているのは、その時千賀子が「はいっ!」と手を挙げて「大分合同新聞を読んでいます」と答え、先生が続けて「何処を読みますか?」と問うたとき「社説です」と答えていたことである。信夫は社説などに目を通したこともなかったので、そのとき「へえっ?」と思ったものである。先生はまじまじと千賀子を見つめながら感心していた。信夫もクラスの皆も千賀子に注目していた。

  坂田も信夫同様東京近郊に住んでおり、郷里にはたまにしか帰らない。坂田は当時山鹿地区で手広く林業を営む旧家の3男坊であった。高校卒業後東京の野田塾政経大学を出て船舶機械輸出を業とする商社日東に入社し、大学時代の後輩と結婚し、海外生活も送っていたが40歳のとき自分で輸出入経営コンサルタント会社を興し、千葉の船橋に豪奢な邸宅を構え、すっかり千葉の住人になっている。奥さんは宮崎県の延岡の出身である。

  辰ちゃんは高校卒業後大阪電機大学を出て東京に本社がある東京電業という大手の電気部品メーカーに勤め、名古屋支店の支店長で定年を迎えた。管理職になって札幌や福岡など転勤が多かった。入社後間もなく建てた田無の住宅を人に貸したままの状態が続き、その家に落ち着いて住む期間は殆ど無い状態であった。そこで辰ちゃんは定年後は郷里で落ち着いた暮らしがしたいという思いが非常に強かった。奥さんを説得して田無の住宅を処分し、大分県山浦郡八田の丘陵地に家を新築した。其処は辰ちゃんの小学校・中学時代の級友、つまり辰ちゃんの竹馬の友・梶原信行がその丘陵地の南面傾斜地で豊後牛の大規模な牧場を経営している土地である。辰ちゃんは企業年金も沢山貰っているので働かなくても食べて行けるのであるが、生産を全くしない暮らしが嫌で自然環境の中で家庭菜園程度の農業と牧場の手伝いで余生を送ることにしたのである。(続く)

2009年12月31日木曜日

小説『18のときの恋』(20091231)


 藤倉信夫は農業を営む藤倉家の跡取りであるが家督は弟に譲り、自分自身は建築設計家として東京三鷹市に事務所を構え、そこに住みついている。家督を実弟に譲ったのは親子2代で、信夫の父親も家督を末弟に譲っている。設計・監理の仕事が忙しく帰郷することは年に一度あるかないかぐらいである。しかし、このところ今年92歳になる母が入院騒ぎを起こしたりしたため、仕事の合間をみてできるだけ帰郷することにしている。弟に家督を譲ったときの条件で、信夫が帰郷したときの居場所として、2階の部屋を信夫専用の部屋とするようにしているので、信夫は帰郷したときでも気持ちよく過ごすことができる。

 信夫には郷里が同じ大分県日田郡山鹿地区で小学校時代・中学校時代同級の、いうなれば竹馬の友である佐藤芳郎・通称芳郎君と坂田泰治・通称泰さん(やっさん)がいる。もう一人樺山英雄がいた。樺山は善福寺というお寺の住職の息子であったが高校生の時肺結核で他界してしまった。信夫と芳郎と英雄が学んだ小学校には三人の父親同士も同じ小学校で学んだ。卒業生名簿の同じ年には三人の父親の名前が載っている。

 芳郎のことを‘君’づけして呼ぶのは芳郎の家柄に由来する。芳郎の家の紋は下がり藤で藤原の血を引いており地域で知られていた名家であった。戦前までは江戸時代から続く旧家で、江戸時代には名主をしていた家柄であり、戦前までは田畑を人に貸してその年貢で暮らす資産家であった。しかし戦後のマッカーサーによる改革で多くの土地を失った。芳郎のことを皆は小さい時から呼び捨てにせず‘君’付けして呼んでいたから、その習慣がその後もずっと続いているのである。

 芳郎君と辰ちゃんは信夫のことを藤君(とうくん)と呼んでいる。何故そう呼ばれているかと言うと、理由の一つは芳郎と信夫の父親同士が同じ年の親友同士であり、お互い相手のことを‘君’づけして呼んでいたのがそれぞれの長男にも及んだのだと考えられる。信夫の先祖は平安末期京都から下って来て山鹿の地区に土着したらしい。遠祖は藤原氏族で長和年間奥州黒河に居住し会津に知行を得たことが信夫の父親が遺してくれた系図に書かれている。多分信夫の遠祖は摂関家の荘園を管理する役目を負っていたのであろう。その嫡子は父親の働きぶりが良かったせいか民部大輔の地位まで昇り詰めている。

 面白いのは信夫の父親が藤君と呼ばれ、その長男である信夫も同じ藤君と呼ばれていることである。しかし芳郎の父親は信夫の父親から‘佐藤君’と呼ばれていたということである。芳郎の父親は戦後まもなく肺結核で他界している。

 信夫らは小学校2年のとき終戦を迎えたのであるが、そのころの担任の先生は荒っぽかった。ある日信夫たち男子生徒は未だにその理由は判らないのであるが教室の中で一列に並ばされ、平川という男の先生からスリッパでパチッパチッパチッとびんたを喰らったことがあった。その先生は軍隊上がりで戦後教職に復職したらしい。まだ9歳の男の子たちをまるで新兵のように考え、罰を喰らわせたのだと思う。別の先生は悪さをした級友に水を満たしたブリキのバケツを両手に持たせて廊下に立たせていたことがあった。今時の教師は口だけ達者な母親の剣幕を恐れ、体罰はしない、皆平等の扱いしかしていないが、終戦後何年もしない頃、保護者にとって先生はエライ人であったのだ。

 昭和25年に入った中学校では期末試験の成績の一覧表が廊下に貼ってあり、信夫はどの科目でも大概1位か2位であった。(続く)