外交と防衛(終り)(20110108)
菅総理は‘本免許’を得てから、「志」を明確にし、西郷南洲のごとく「自ら安きを謀ろうとせず」この日本の為、身を捧げようとしているように見える。片や、鳩山前総理は相変わらず「友愛」を口にし、「民主党の団結の為大きな度量が必要」と言い、小沢氏にエールを送っている。それは自分の政治的立場を守ろうとする「私利私欲」であるように、老人には見える。その小沢氏は先のAPECで「中国の胡錦濤国家主席の招きに応じて胡主席と会った」と、自らインターネット番組で発言したことを、勘違いだったと訂正した。老人は昨年2月25日のこのブログ(タイトル『国の為、内閣を改造せよ』)で「馬鹿げた情報である」と書いたが、そのとおりだった。
年末年始の期間『外交と防衛』と題して、『大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に書かれていることを引用し、参考にしながらある種の思考過程としてこの記事を書いてきた。辿りついた結論は、日本国家として、日本の外交・防衛のリーダーになる人たちを養成する国家機関が必要である、ということである。リーダーになる人たちは国の外交と防衛について、外務省の‘何とかスクール’出の官僚や、外部の識者などに頼って政治を行うのではなく、自らの「志」で政治を行うことができるような資質を有していなければならないと老人は思う。何故なら、国家の意思や戦略は始終一貫したものでなければならないからである。
その基本は、日本はアメリカや西欧諸国と価値観を共有し、またインドやベトナム、東南アジア諸国と緊密な友好関係を築き、それを維持することである。そして韓国とは歴史認識を共有できるよう、粘り強く努力することである。その上で中国、ロシア、北朝鮮とおつきあいをする。これを人間関係で言えば、親友、友達、客という関係である。日本にとってアメリカや西欧諸国は「親友」、韓国、インド、ベトナム、東南アジアは「友達」、中国やロシアや北朝鮮は「客」である。「客」が将来「友達」になり、「友達」が「親友」になることは望ましいが、そのよう関係になる時はずっと先のことであろう。21世紀中は無理かもしれない。日本人はそのように割り切って考えるべきである。
日本のリーダーたちが、国の為命を捧げた人々の御霊が祀られている靖国神社に公式参拝することに、何の躊躇も要らない。国会で東京裁判は誤っていたと議決すればよいのだ。
最後に前掲の本の記事のごく一部を引用してこのタイトルの記事の投稿を終える。
東京裁判の前提となる「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいて・・(中略)・・日本軍の仕業に見せかけたものだという・・(中略)・・コミンテルンのソヴィエト共産党は、相手を貶めるためには全くのウソを平気で言い、しかも真実の如く宣伝するのは彼らの常套手段である。・・(中略)・・中国が言う盧溝橋事件の最初の一発は日本軍よりの一発であるとは全くのウソであり、それは中国共産党の教本にも誇らしく書かれている如く、毛沢東の命令で劉少奇の指揮によって撃ったものであった。また南京大虐殺も後から作った謀略デマであるのに、日本も世界もすっかり騙されていたのである。・・(後略)・・」。 日本人よ、眼を醒ませ! (終り)
2011年1月7日金曜日
外交と防衛(続き)(20110107)
勝手に李承晩ラインを引いて、その内側に強引に日本の領土竹島を入れ、独島と称し、日本海を‘東海’と称し、国際的に承認させようとする韓国は、歴史認識を誤り、日本を誤解している。このことを日本はことあるごとに主張すべきである。その上で日本は韓国とより積極的に友好親善関係を深めて行くべきである。主張すべきことは主張し続ける、この態度が今の日本にとって大変重要である。
中国はもっと性質が悪い。日本に対して悪意で歴史を捏造し、中国人民に対して共産党政権への求心力を高めようとしている。ロシアは日本の北方領土は「日本との戦争で勝ちとったものである」とロシア国民に説明している。「自国の領土に大統領や政府の高官が訪れるのは誰も非難することはできない」と、尤もらしいことを公然と主張している。
近代の歴史、特に明治時代の日本を取巻く外交や軍事の歴史を、特に政治家や中央官庁の官僚は徹底的に勉強すべきである。歴史を知らずにこれらの国々に対峙することは大変危険である。外務省には通称‘チャイナスクール’とか‘ロシアスクール’があるらしいが、歴史の学習は付け焼刃では何の役にも立たないので、将来日本の指導者になるような政治家や官僚には、国家としてなにか特別な教育機関で体系的な歴史教育を施すという、何か特別な仕組みが是非必要である。
そしてそのような特別な仕組みで歴史教育を受けた人々が‘シビリアンコントロール’の役割を担い、これらの‘特殊な’国々との「外交の手段としての軍事」を統制し、日本国として始終一貫した方針で臨むことが重要である。‘○○諮問委員会’とか‘外部の有識者’とかに国の最も重要なことを、決して任せてはならない。
このような確固不動・強靭強烈な外交姿勢でこれらの国々に対峙する一方で、相互理解を深めるためあらゆる施策を総動員し、政府・民間・個人のあらゆるチャネルでこれらの国々との交流・友好・親善を深める、そのような態度がこれからの日本には必要である。
前掲の本で著者・岩間 弘氏は、韓国人に最も嫌われている伊藤博文が、本当は韓国に最も良いことをし、誤解されて暗殺されたことや、日本を憎悪していた李承晩が「日本の憲兵によって爪を抜かれた」としたのは誤りであることを具体的に説明している。
当時の大韓帝国政府は自らの失策と無力のため、李承晩も加わっている独立教会により攻撃されていた。韓国政府は「皇国協会」というテロ団を作り、この独立教会を排除する陰謀を進めた。独立教会が大集会をもって政府を糾弾しとき、政府は独立教会を弾圧し、解散命令を出し、独立教会の幹部全員を逮捕した。当時の幹部の一人であった李承晩も拷問を受け、爪を抜かれた。それを彼は「日本の憲兵隊によって爪を抜かれた」と言った。
岩間 弘氏が著した『大東亜解放戦争』は分厚い本で、上下2巻のものである。その中で岩間氏は、現在の韓国で、往時の李氏朝鮮や大朝鮮国や大韓帝国当時、朝鮮の近代化に貢献した人々が国賊扱いにされていることを指摘している。つまり、歴史を歪曲している。その結果、北朝鮮、韓国の人々は日本に対する反感を植え付けられている。片や、日本人も東京裁判の結果、戦前までの「日本は侵略国家であった、アジアの国々に対して悪いことをした」という自虐史観を植え付けられた。どちらも両国民にとって不幸なことである。
勝手に李承晩ラインを引いて、その内側に強引に日本の領土竹島を入れ、独島と称し、日本海を‘東海’と称し、国際的に承認させようとする韓国は、歴史認識を誤り、日本を誤解している。このことを日本はことあるごとに主張すべきである。その上で日本は韓国とより積極的に友好親善関係を深めて行くべきである。主張すべきことは主張し続ける、この態度が今の日本にとって大変重要である。
中国はもっと性質が悪い。日本に対して悪意で歴史を捏造し、中国人民に対して共産党政権への求心力を高めようとしている。ロシアは日本の北方領土は「日本との戦争で勝ちとったものである」とロシア国民に説明している。「自国の領土に大統領や政府の高官が訪れるのは誰も非難することはできない」と、尤もらしいことを公然と主張している。
近代の歴史、特に明治時代の日本を取巻く外交や軍事の歴史を、特に政治家や中央官庁の官僚は徹底的に勉強すべきである。歴史を知らずにこれらの国々に対峙することは大変危険である。外務省には通称‘チャイナスクール’とか‘ロシアスクール’があるらしいが、歴史の学習は付け焼刃では何の役にも立たないので、将来日本の指導者になるような政治家や官僚には、国家としてなにか特別な教育機関で体系的な歴史教育を施すという、何か特別な仕組みが是非必要である。
そしてそのような特別な仕組みで歴史教育を受けた人々が‘シビリアンコントロール’の役割を担い、これらの‘特殊な’国々との「外交の手段としての軍事」を統制し、日本国として始終一貫した方針で臨むことが重要である。‘○○諮問委員会’とか‘外部の有識者’とかに国の最も重要なことを、決して任せてはならない。
このような確固不動・強靭強烈な外交姿勢でこれらの国々に対峙する一方で、相互理解を深めるためあらゆる施策を総動員し、政府・民間・個人のあらゆるチャネルでこれらの国々との交流・友好・親善を深める、そのような態度がこれからの日本には必要である。
前掲の本で著者・岩間 弘氏は、韓国人に最も嫌われている伊藤博文が、本当は韓国に最も良いことをし、誤解されて暗殺されたことや、日本を憎悪していた李承晩が「日本の憲兵によって爪を抜かれた」としたのは誤りであることを具体的に説明している。
当時の大韓帝国政府は自らの失策と無力のため、李承晩も加わっている独立教会により攻撃されていた。韓国政府は「皇国協会」というテロ団を作り、この独立教会を排除する陰謀を進めた。独立教会が大集会をもって政府を糾弾しとき、政府は独立教会を弾圧し、解散命令を出し、独立教会の幹部全員を逮捕した。当時の幹部の一人であった李承晩も拷問を受け、爪を抜かれた。それを彼は「日本の憲兵隊によって爪を抜かれた」と言った。
岩間 弘氏が著した『大東亜解放戦争』は分厚い本で、上下2巻のものである。その中で岩間氏は、現在の韓国で、往時の李氏朝鮮や大朝鮮国や大韓帝国当時、朝鮮の近代化に貢献した人々が国賊扱いにされていることを指摘している。つまり、歴史を歪曲している。その結果、北朝鮮、韓国の人々は日本に対する反感を植え付けられている。片や、日本人も東京裁判の結果、戦前までの「日本は侵略国家であった、アジアの国々に対して悪いことをした」という自虐史観を植え付けられた。どちらも両国民にとって不幸なことである。
2011年1月6日木曜日
外交と防衛(続き)(20110106)
日朝条約が成立し、大朝鮮国は開国・開化の道を歩むことになった。後年、清国も同様であったが、大朝鮮国は日本の近代化を学ぶことになった。大朝鮮国から大規模な視察団や多数の留学生が日本に派遣された。清国も多数の留学生を日本に送り込んだ。現在中国や韓国で常用されている学術用語など多くの用語は日本で造られた用語である。
幕末の日本同様、大朝鮮国内にも国論が分かれ抗争が起きた。大朝鮮国内では従前通りあくまで清国(当時の中国)との宗属関係を守ろうとする復古派、斬新的に開化を進めてゆこうとする穏健派と、新しい文明を積極的に取り入れ、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする急進派の三つのグループが争った。急進派は独立党、開化党とも言われた。
そのような状況下、大朝鮮国で反乱が起き、軍事訓練を担当していた日本の堀本少尉が殺害されたり、日本公使館を襲撃されたりした反乱が起きた。そして事態鎮静のためとして清国に北洋艦隊・兵員4000名が仁川港に到着した。これに対抗して日本からも清国との衝突を覚悟の上で軍艦3隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1500名を仁川港に送り込んだ。
日本と清国間の交渉結果、朝鮮は日本に損害賠償金を払うこと、日本に謝罪団を送ることなどの条約が締結された。しかし清国は朝鮮の高宗国王の要請に便乗し、4000人の兵隊を漢城に駐留させ、漢城を制圧した。これは今から1350年前の663年に、日本が百済救援に向かった白村江の戦いで当時の唐軍が漢城を制圧していたのと同じ状況である。
清国の朝鮮に対する宗主権が強化され、朝鮮国内で清国兵士による乱暴狼藉が頻繁に発生した。前掲「独立党」は日本の支援を得てクーデターを起こし、新政権が樹立された。その政権の政策は国王の稟議を経て発表された。しかし新政権は3日間で崩壊した。復古派が清国軍を引き入れたからである。この時清軍により日本の磯崎大尉が殺害された。
この後、日本と朝鮮の間で「漢城条約」(日本の全権大使・井上薫)、日本と清国の間で「天津条約」(日本の全権大使・伊藤博文)が結ばれた。
「漢城条約」では朝鮮から日本への謝罪、賠償金の支払いなど、「天津条約」では日清両国軍の漢城からの撤退、両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しないこと、将来朝鮮に重大な変乱が発生した場合、日清両国もしくは一国が出兵する時は、互いにその旨を通告して、事が収まれば直ちに撤兵することの3項目が定められた。
この第3項目目で日清戦争が起きた。復古派のトップ、李王朝の高宗もその妃で穏健開化派の閔妃も、朝鮮に対する日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第に親ロシア政策を打ち出すようになった。大朝鮮国の王や王妃がロシアに保護を求める秘密協定を結ぼうとする動きがあり、これを察知した清は仁川に北洋艦隊を派遣してそれを阻止した。
朝鮮とロシアの秘密協定の動きが起こると1885年(明治18年)4月、英国東洋艦隊はロシア極東艦隊の通路を遮断するため突如として朝鮮半島南方沖海上の巨文島を占領した。
このような動きの中、儒教・仏教・道教を一本化した「東学」を提唱するグループの軍が出現した。朝鮮の政府はこれを鎮圧するのに清国軍を引き入れた。清は日本との条約に従い日本に通告してきたが、その文の中に「属邦保護」という語があった。
日朝条約が成立し、大朝鮮国は開国・開化の道を歩むことになった。後年、清国も同様であったが、大朝鮮国は日本の近代化を学ぶことになった。大朝鮮国から大規模な視察団や多数の留学生が日本に派遣された。清国も多数の留学生を日本に送り込んだ。現在中国や韓国で常用されている学術用語など多くの用語は日本で造られた用語である。
幕末の日本同様、大朝鮮国内にも国論が分かれ抗争が起きた。大朝鮮国内では従前通りあくまで清国(当時の中国)との宗属関係を守ろうとする復古派、斬新的に開化を進めてゆこうとする穏健派と、新しい文明を積極的に取り入れ、日本に見習って一日も早く近代国家を建設しようとする急進派の三つのグループが争った。急進派は独立党、開化党とも言われた。
そのような状況下、大朝鮮国で反乱が起き、軍事訓練を担当していた日本の堀本少尉が殺害されたり、日本公使館を襲撃されたりした反乱が起きた。そして事態鎮静のためとして清国に北洋艦隊・兵員4000名が仁川港に到着した。これに対抗して日本からも清国との衝突を覚悟の上で軍艦3隻、輸送船3隻、陸軍歩兵1500名を仁川港に送り込んだ。
日本と清国間の交渉結果、朝鮮は日本に損害賠償金を払うこと、日本に謝罪団を送ることなどの条約が締結された。しかし清国は朝鮮の高宗国王の要請に便乗し、4000人の兵隊を漢城に駐留させ、漢城を制圧した。これは今から1350年前の663年に、日本が百済救援に向かった白村江の戦いで当時の唐軍が漢城を制圧していたのと同じ状況である。
清国の朝鮮に対する宗主権が強化され、朝鮮国内で清国兵士による乱暴狼藉が頻繁に発生した。前掲「独立党」は日本の支援を得てクーデターを起こし、新政権が樹立された。その政権の政策は国王の稟議を経て発表された。しかし新政権は3日間で崩壊した。復古派が清国軍を引き入れたからである。この時清軍により日本の磯崎大尉が殺害された。
この後、日本と朝鮮の間で「漢城条約」(日本の全権大使・井上薫)、日本と清国の間で「天津条約」(日本の全権大使・伊藤博文)が結ばれた。
「漢城条約」では朝鮮から日本への謝罪、賠償金の支払いなど、「天津条約」では日清両国軍の漢城からの撤退、両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しないこと、将来朝鮮に重大な変乱が発生した場合、日清両国もしくは一国が出兵する時は、互いにその旨を通告して、事が収まれば直ちに撤兵することの3項目が定められた。
この第3項目目で日清戦争が起きた。復古派のトップ、李王朝の高宗もその妃で穏健開化派の閔妃も、朝鮮に対する日清両国の干渉に耐えられなくなり、次第に親ロシア政策を打ち出すようになった。大朝鮮国の王や王妃がロシアに保護を求める秘密協定を結ぼうとする動きがあり、これを察知した清は仁川に北洋艦隊を派遣してそれを阻止した。
朝鮮とロシアの秘密協定の動きが起こると1885年(明治18年)4月、英国東洋艦隊はロシア極東艦隊の通路を遮断するため突如として朝鮮半島南方沖海上の巨文島を占領した。
このような動きの中、儒教・仏教・道教を一本化した「東学」を提唱するグループの軍が出現した。朝鮮の政府はこれを鎮圧するのに清国軍を引き入れた。清は日本との条約に従い日本に通告してきたが、その文の中に「属邦保護」という語があった。
2011年1月5日水曜日
外交と防衛(続き)(20110105)
前掲の『大東亜解放戦争』に明治維新後の日本と朝鮮の外交のことが書かれている。これを読むと日本が粘り強い交渉の末樹立させた大韓帝国が、それ以前何世紀もの間、清(当時の中国)の柵法体制下に慣れきっていたため独立国家としての自立はできず、日韓併合に至らざるを得なかった事情がわかる。また後年韓国初代大統領となった李承晩が日本を誤解していた事情も分かる。以下、その本に書かれていることを引用しながらこれを書く。
明治維新政府は朝鮮に対し、新政府の樹立を通告するため明治元年(1868年)12月19日、日本使節対馬藩家老樋口鉄四郎一行が釜山港に入港した。しかし大院君政権下の李朝は日本の使節が持参した国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に署名、印章ともにこれまでのものと異なっていることであった。李朝の言い分は「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味するものである。朝鮮王は中国皇帝の臣下であるというものであった。
当時、朝鮮はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスそれぞれが朝鮮に武力攻撃を加えたとき、犠牲者を出しながらも相手側にも犠牲者を出させ、欧米・ロシア列強の侵攻を排撃し、自信をつけていた。しかし、日本は朝鮮の開国にこだわった。その理由は朝鮮がいつまでも開国を拒否したならば、欧米やロシアなどによっていずれ侵略されると思っていた。それは既に清国を含むアジア諸国が欧米列強の侵略を受けて植民地になっているところが多いのを見ても明らかであったからである。もし朝鮮も欧米列強の植民地になったら、日本としても重大なことになると思ったから、日本は朝鮮の開国にこだわったのである。
前掲の本には日本、清国(当時の中国)、李氏朝鮮の三者の関係、李氏朝鮮から大韓帝国に政治体制が変わってゆく状況など非常に詳しい歴史が書かれている。それを読むと日本は、なかなか開国に踏み切らない李氏朝鮮を開国に向かわせるため、かつてペリー艦隊が徳川幕府に対して行った同じような手法を李氏朝鮮に対して行っていたことが分かる。
それは軍艦・雲揚を江華島 に派遣したことである。ここで後に江華島事件と言われる小規模の戦闘が行われ、この戦闘で李朝側の戦死者35名、捕虜16名、日本側は戦死1名、負傷1名だけという犠牲者を出している。
朝鮮側は雲揚に対して江華島砲台から激しく砲撃したが、その弾丸は雲揚には届かず、逆に応戦した雲揚からの艦砲射撃で草芝鎮台は甚大な被害を受けた。雲揚は草芝鎮台の南にある永宗島の永宗鎮台に陸戦隊を上陸させ、そこを占領し、大砲38門などの兵器を捕獲して長崎に帰着した。
この事件を転機として対朝鮮問題は解決の方向に向かった。日本は「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。日本は参議・陸軍中将黒田清隆が全権大使となり、兵員乗組員総勢800名乗せた艦隊が江華島に上陸した。「大日本」の「大」など紆余曲折を経たのち日朝修好条約批准書に「大朝鮮国王之宝」という玉璽(ぎょくじ)が捺印され、大日本国天皇の批准が行われ、条約は成立した。しかし条文中の「自主の邦」の理解が日朝双方で異なっていた。日本の理解は大朝鮮国が清国の柵法下でなくなるということであったが、朝鮮はその言葉を日朝対等の意味であると理解していた。
前掲の『大東亜解放戦争』に明治維新後の日本と朝鮮の外交のことが書かれている。これを読むと日本が粘り強い交渉の末樹立させた大韓帝国が、それ以前何世紀もの間、清(当時の中国)の柵法体制下に慣れきっていたため独立国家としての自立はできず、日韓併合に至らざるを得なかった事情がわかる。また後年韓国初代大統領となった李承晩が日本を誤解していた事情も分かる。以下、その本に書かれていることを引用しながらこれを書く。
明治維新政府は朝鮮に対し、新政府の樹立を通告するため明治元年(1868年)12月19日、日本使節対馬藩家老樋口鉄四郎一行が釜山港に入港した。しかし大院君政権下の李朝は日本の使節が持参した国書の受け取りを拒否した。その理由は第一に文面に「皇上」「奉勅」の文字が使われていること、第二に署名、印章ともにこれまでのものと異なっていることであった。李朝の言い分は「皇」は中国皇帝のみ許される称号であり、「勅」は中国皇帝の詔勅を意味するものである。朝鮮王は中国皇帝の臣下であるというものであった。
当時、朝鮮はアメリカ、ロシア、ドイツ、フランスそれぞれが朝鮮に武力攻撃を加えたとき、犠牲者を出しながらも相手側にも犠牲者を出させ、欧米・ロシア列強の侵攻を排撃し、自信をつけていた。しかし、日本は朝鮮の開国にこだわった。その理由は朝鮮がいつまでも開国を拒否したならば、欧米やロシアなどによっていずれ侵略されると思っていた。それは既に清国を含むアジア諸国が欧米列強の侵略を受けて植民地になっているところが多いのを見ても明らかであったからである。もし朝鮮も欧米列強の植民地になったら、日本としても重大なことになると思ったから、日本は朝鮮の開国にこだわったのである。
前掲の本には日本、清国(当時の中国)、李氏朝鮮の三者の関係、李氏朝鮮から大韓帝国に政治体制が変わってゆく状況など非常に詳しい歴史が書かれている。それを読むと日本は、なかなか開国に踏み切らない李氏朝鮮を開国に向かわせるため、かつてペリー艦隊が徳川幕府に対して行った同じような手法を李氏朝鮮に対して行っていたことが分かる。
それは軍艦・雲揚を江華島 に派遣したことである。ここで後に江華島事件と言われる小規模の戦闘が行われ、この戦闘で李朝側の戦死者35名、捕虜16名、日本側は戦死1名、負傷1名だけという犠牲者を出している。
朝鮮側は雲揚に対して江華島砲台から激しく砲撃したが、その弾丸は雲揚には届かず、逆に応戦した雲揚からの艦砲射撃で草芝鎮台は甚大な被害を受けた。雲揚は草芝鎮台の南にある永宗島の永宗鎮台に陸戦隊を上陸させ、そこを占領し、大砲38門などの兵器を捕獲して長崎に帰着した。
この事件を転機として対朝鮮問題は解決の方向に向かった。日本は「全権特派大使を江華島に派遣する」と李朝政府に通告する一方で、清国に対しては日朝間の交渉の斡旋・仲介を依頼していた。日本は参議・陸軍中将黒田清隆が全権大使となり、兵員乗組員総勢800名乗せた艦隊が江華島に上陸した。「大日本」の「大」など紆余曲折を経たのち日朝修好条約批准書に「大朝鮮国王之宝」という玉璽(ぎょくじ)が捺印され、大日本国天皇の批准が行われ、条約は成立した。しかし条文中の「自主の邦」の理解が日朝双方で異なっていた。日本の理解は大朝鮮国が清国の柵法下でなくなるということであったが、朝鮮はその言葉を日朝対等の意味であると理解していた。
2011年1月4日火曜日
外交と防衛(続き)(20110104)
1847年 (弘化四年)ロシア皇帝ニコライ1世はアヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されて、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方侵出政策を行わせた。
1853年 (嘉永六年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府は国書を正式に受け取り、翌年回答することを約束し、とりあえず日本を去らせた。
その直後、ロシア使節プーチャーチンも長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。
1854年 (安政元年)日米和親条約締結。この条約はアメリカに一方的に最恵国待遇を与える不平等な条約であった。
ペリーに次いでロシアのプーチャーチンも再び来日し、下田で日露和親条約を締結した。この条約では下田、函館のほか長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉以南を日本領、得撫(ウルップ)島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地とし、境界を決めないことにした。
ついでイギリス、オランダとも同じ内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に休止符を打って開国することになった。
1858年 (安政五年)日米修好通商条約締結。大老井伊直助は孝明天皇の勅許なしに独断でこの条約を結んだ。
1860年 (万延元年)安政の大獄。
この年、第二次アヘン戦争といわれるアロー号事件で清国(当時の中国)はイギリス、フランスに敗北し、北京条約が成立したが、ロシアはその仲介に入り、その北京条約の成立を口実に、その見返りとして露清北京条約を結び、ウスリー江以東の沿海州をロシア領とすることに成功した。そしてウラジオストック港を建設し、極東・太平洋方面への侵出の拠点とした。「ウラジオストック」とは「東方支配」を意味する言葉である。
1861年 (万延ニ年)対馬がロシア艦隊に占領されたが、幕府はイギリスに頼んで半年後ロシア艦隊を退去させた。
1867年 ロシアはアメリカにアラスカを売却した。価格は720万ドルであった。
1871年 (明治四年)日清修好条規締結。これは日本が外国と結んだ最初の対等な条約で、相互に開港し、相互に領事裁判権を認め合っていた。
1873年 (明治六年)ロシアはニコライエフスク鎮守府をウラジオストックに移した。
1875年 (明治八年)樺太・千島交換条約調印。ロシアによる南樺太への進出が始まるにつれて、日露両国人雑居の地であった樺太(現在のサハリン)全島はロシアに譲り、その代償として千島全島を日本領と定めた。
1876年 (明治九年)当時アメリカとの所属問題が未解決のまま残されていた小笠原諸島についても、アメリカ政府はそれが日本領であることを正式に認めた。
以上が幕末から明治初期にいたる日本の歴史であり、ロシアが日本海を経て太平洋に侵出しようとする明確な意思を証明する歴史である。また中国が西欧・ロシア列強の餌食となった歴史である。アメリカの現在に至る明確な意思を推察することができる歴史である。
1847年 (弘化四年)ロシア皇帝ニコライ1世はアヘン戦争でのイギリスの勝利に刺激されて、ムラヴィヨフを初代東シベリア総督に任命し、積極的な東方侵出政策を行わせた。
1853年 (嘉永六年)アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めた。幕府は国書を正式に受け取り、翌年回答することを約束し、とりあえず日本を去らせた。
その直後、ロシア使節プーチャーチンも長崎に来航し、開国と国境の画定を要求した。
1854年 (安政元年)日米和親条約締結。この条約はアメリカに一方的に最恵国待遇を与える不平等な条約であった。
ペリーに次いでロシアのプーチャーチンも再び来日し、下田で日露和親条約を締結した。この条約では下田、函館のほか長崎も開港することを定め、国境については千島列島の択捉以南を日本領、得撫(ウルップ)島以北をロシア領とし、樺太は両国人雑居の地とし、境界を決めないことにした。
ついでイギリス、オランダとも同じ内容の条約を結び、200年以上にわたる鎖国政策に休止符を打って開国することになった。
1858年 (安政五年)日米修好通商条約締結。大老井伊直助は孝明天皇の勅許なしに独断でこの条約を結んだ。
1860年 (万延元年)安政の大獄。
この年、第二次アヘン戦争といわれるアロー号事件で清国(当時の中国)はイギリス、フランスに敗北し、北京条約が成立したが、ロシアはその仲介に入り、その北京条約の成立を口実に、その見返りとして露清北京条約を結び、ウスリー江以東の沿海州をロシア領とすることに成功した。そしてウラジオストック港を建設し、極東・太平洋方面への侵出の拠点とした。「ウラジオストック」とは「東方支配」を意味する言葉である。
1861年 (万延ニ年)対馬がロシア艦隊に占領されたが、幕府はイギリスに頼んで半年後ロシア艦隊を退去させた。
1867年 ロシアはアメリカにアラスカを売却した。価格は720万ドルであった。
1871年 (明治四年)日清修好条規締結。これは日本が外国と結んだ最初の対等な条約で、相互に開港し、相互に領事裁判権を認め合っていた。
1873年 (明治六年)ロシアはニコライエフスク鎮守府をウラジオストックに移した。
1875年 (明治八年)樺太・千島交換条約調印。ロシアによる南樺太への進出が始まるにつれて、日露両国人雑居の地であった樺太(現在のサハリン)全島はロシアに譲り、その代償として千島全島を日本領と定めた。
1876年 (明治九年)当時アメリカとの所属問題が未解決のまま残されていた小笠原諸島についても、アメリカ政府はそれが日本領であることを正式に認めた。
以上が幕末から明治初期にいたる日本の歴史であり、ロシアが日本海を経て太平洋に侵出しようとする明確な意思を証明する歴史である。また中国が西欧・ロシア列強の餌食となった歴史である。アメリカの現在に至る明確な意思を推察することができる歴史である。
2011年1月3日月曜日
外交と防衛(続き)(20110103)
ロシア・アメリカを含む列強の日本を巡る年表をここに書き留めておく。これはロシアを中心とした列強の日本及び清(当時の中国)、清の始祖の出身地・満州及び清の柵法体制下の朝鮮に関係する事項である。(記事は前掲『大東亜解放戦争』より引用)
1706年 ピョートル1世(大帝)のとき,ベーリング海峡を発見。アラスカはロシアの領有地となる。
1727年 ピョートル2世は清の雍正帝(ようせいてい)の時、キャフタ条約を結び、アルダン川よりアルタイト山脈に至るモンゴル方面での国境線を取りきめた。
1792年 (寛政五年)ロシア皇帝エカチェリーナの使節ラスクマンが根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光大夫らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は長崎に行けば入港許可証を与えるとの信牌を与えた。
1796年 (寛政八年)イギリス人ブロートンが蝦夷地室蘭に来航し、近海の海図を作成するという事件が起きた。
1798年 (寛政十年)幕府は近藤重三や最上徳内らに千島(得撫(ウルップ)島まで)を探査させた。
1799年 (寛政十一年)東蝦夷地を直轄地とした。
1802年 (享和二年)函館奉行を設けた。
1804年 (文化元年)ロシア使節レザノフがラスクマンが持ち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商を求めた。幕府は拒否した。
1806年 (文化三年)その年から翌年にかけてロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃した事件(フヴォストフ事件)が起こり、特に択捉守備兵が敗走したことから日本国内は騒然とした雰囲気になった。
1807年 (文化四年)幕府は松前、蝦夷地をすべて直轄とし、松前奉行を置いた。
1808年 (文化五年)幕府は樺太も直轄にしたが、その周囲すら不詳のため、間宮林蔵らに探査を命じた。間宮は樺太が島であることを確認し、沿海州と樺太の間を間宮海峡と名付けた。間宮は対岸の沿海州に渡り、清国の役所があるデレンまで足を踏み入れた。
1811年 (文化八年)国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローニンを、彼が密かに国後を探査・測量した件で逮捕し、函館、ついで松前に計2年3ヵ月監禁した。
1812年 (文化九年)ロシア側も報復として択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を捕えた。
1813年 (文化十年) ロシア側は「ロシア軍艦による蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく。出先の軍人が行ったものである」という文書を日本側に提出し、ゴローニンは釈放された。
1840年 アヘン戦争が起きた。イギリスによるアジア侵略が始まった。
1846年 (弘化三年)アメリカ東インド洋艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。清国との貿易の船舶や捕鯨船の寄港地として開国を求め、国交と通商を要求してきたが、幕府はこれを拒否した。
ロシア・アメリカを含む列強の日本を巡る年表をここに書き留めておく。これはロシアを中心とした列強の日本及び清(当時の中国)、清の始祖の出身地・満州及び清の柵法体制下の朝鮮に関係する事項である。(記事は前掲『大東亜解放戦争』より引用)
1706年 ピョートル1世(大帝)のとき,ベーリング海峡を発見。アラスカはロシアの領有地となる。
1727年 ピョートル2世は清の雍正帝(ようせいてい)の時、キャフタ条約を結び、アルダン川よりアルタイト山脈に至るモンゴル方面での国境線を取りきめた。
1792年 (寛政五年)ロシア皇帝エカチェリーナの使節ラスクマンが根室に来航し、漂流民で伊勢白子の船頭大黒屋光大夫らを日本に送還するとともに通商を求めてきた。幕府は長崎に行けば入港許可証を与えるとの信牌を与えた。
1796年 (寛政八年)イギリス人ブロートンが蝦夷地室蘭に来航し、近海の海図を作成するという事件が起きた。
1798年 (寛政十年)幕府は近藤重三や最上徳内らに千島(得撫(ウルップ)島まで)を探査させた。
1799年 (寛政十一年)東蝦夷地を直轄地とした。
1802年 (享和二年)函館奉行を設けた。
1804年 (文化元年)ロシア使節レザノフがラスクマンが持ち帰った信牌を携えて長崎に来航し、通商を求めた。幕府は拒否した。
1806年 (文化三年)その年から翌年にかけてロシア艦隊が樺太や択捉を攻撃した事件(フヴォストフ事件)が起こり、特に択捉守備兵が敗走したことから日本国内は騒然とした雰囲気になった。
1807年 (文化四年)幕府は松前、蝦夷地をすべて直轄とし、松前奉行を置いた。
1808年 (文化五年)幕府は樺太も直轄にしたが、その周囲すら不詳のため、間宮林蔵らに探査を命じた。間宮は樺太が島であることを確認し、沿海州と樺太の間を間宮海峡と名付けた。間宮は対岸の沿海州に渡り、清国の役所があるデレンまで足を踏み入れた。
1811年 (文化八年)国後島に上陸したロシア軍艦艦長ゴローニンを、彼が密かに国後を探査・測量した件で逮捕し、函館、ついで松前に計2年3ヵ月監禁した。
1812年 (文化九年)ロシア側も報復として択捉航路を開拓した淡路の商人・高田屋嘉兵衛を捕えた。
1813年 (文化十年) ロシア側は「ロシア軍艦による蝦夷地襲撃はロシア政府の命令ではなく。出先の軍人が行ったものである」という文書を日本側に提出し、ゴローニンは釈放された。
1840年 アヘン戦争が起きた。イギリスによるアジア侵略が始まった。
1846年 (弘化三年)アメリカ東インド洋艦隊司令長官ビッドルが浦賀に来航。清国との貿易の船舶や捕鯨船の寄港地として開国を求め、国交と通商を要求してきたが、幕府はこれを拒否した。
2011年1月2日日曜日
外交と防衛(続き)(20110102)
明治維新前、欧米・ロシア列強諸国は先を争ってアジアを侵略し、植民地化しており、座視していれば日本も白人たちの国々の餌食になりかねない状況であった。日本は国の政治の権限を天皇陛下に奉還し、非常に短い期間でそれら列強に伍する力を付け、逆に植民地化を阻止し、解放する戦いに挑んだ。そしてその戦いには非常に多くの犠牲者を出して1945年8月15日、最終的に降参した。降参したが、「アジアの国々の植民地化の阻止、植民地からの解放」の目的は達成した。
1919年2月、国際連盟規約委員会において大日本帝国全権大使・牧野伸顕氏は国際連盟の規約に人種的差別撤廃の条項を入れるように提案した。国際会議において人種的差別を明確に主張したのは日本が初めてであった。しかし、この提案は多くの植民地を有するイギリスや白豪主義をとるオーストラリアなどから猛反対された。紆余曲折を経たのち修正案は16票中11票の賛成があり、日本の提案は採択される寸前まできた。しかし、議長国アメリカが「全会一致すべきせる」と主張して結局日本の提案は実現しなかった。
そのような歴史的事実が示すように日本はアジアの国々が国際社会において平等に扱われるよう努力し、結局310万人の戦死・戦没者を出してアメリカとの戦争には敗れ、アメリカを中心とし、中国やロシアなども参加した「戦勝国」に降参した。しかし戦争の目的は達成した。その目的とは「アジア諸国を植民地から解放する」という目的であった。
しかし東京裁判において、日本は「侵略国家」という「烙印」を押され、日本人は委縮してしまった。陰謀や不法な侵略により東京裁判で日本を「侵略国家」にすることに成功した中国やロシアは、その時点を出発点として太平洋の防波堤のような日本を弱体化し、太平洋をアメリカの海から、中国やロシアの海にしようとする意思を実行する遠大な行動を開始した。ロシアは不法に日本の北方領土を占拠し、実効支配し、決して手放そうとはしない。中国は隙あれば太平洋に進出しようと実行動に出始めた。韓国さえも我が国固有の領土である竹島をしっかり押さえ、対馬をも支配しようと考えている。
日本は植民地を解放したという目的を達成したが、日本国民はそれが「侵略」であったと「思い込まされ」た。それは日本をずっと将来に渡ってアメリカの傘下に置いておこうというアメリカの戦略的意思を実行する戦術でもあったと老人は思う。吉田元首相は日本が戦争に負けたことが必ずしも悪いことばかりではなかったと言ったと言う。アメリカに降参した結果、今日の日本がある。
日本一国の力では中国やロシアや「朝鮮」には対抗できない。例え日本が核兵器を持ったとしてもアメリカとの連帯なしには、大陸からの圧力に日本は抗し得ないだろう。日本は未来永劫アメリカや西欧という日本と価値観を共有し得る。しかし、中国やロシアや「朝鮮」とは今後何世紀経っても価値観の共有はできないであろう。勿論、これらの国々との間の貿易は盛んになり、一衣帯水状況は深化するだろう。人民同士のレベルでは友好関係は一層深まるだろう。しかし、性格の合わない人同士は親友にはなれないように、日本はこれらの国々とは親友になれない。そのことを日本国民は自覚すべきである。「友好の海」はあるだろうが、決して「友愛の海」は有り得ないのだ。
明治維新前、欧米・ロシア列強諸国は先を争ってアジアを侵略し、植民地化しており、座視していれば日本も白人たちの国々の餌食になりかねない状況であった。日本は国の政治の権限を天皇陛下に奉還し、非常に短い期間でそれら列強に伍する力を付け、逆に植民地化を阻止し、解放する戦いに挑んだ。そしてその戦いには非常に多くの犠牲者を出して1945年8月15日、最終的に降参した。降参したが、「アジアの国々の植民地化の阻止、植民地からの解放」の目的は達成した。
1919年2月、国際連盟規約委員会において大日本帝国全権大使・牧野伸顕氏は国際連盟の規約に人種的差別撤廃の条項を入れるように提案した。国際会議において人種的差別を明確に主張したのは日本が初めてであった。しかし、この提案は多くの植民地を有するイギリスや白豪主義をとるオーストラリアなどから猛反対された。紆余曲折を経たのち修正案は16票中11票の賛成があり、日本の提案は採択される寸前まできた。しかし、議長国アメリカが「全会一致すべきせる」と主張して結局日本の提案は実現しなかった。
そのような歴史的事実が示すように日本はアジアの国々が国際社会において平等に扱われるよう努力し、結局310万人の戦死・戦没者を出してアメリカとの戦争には敗れ、アメリカを中心とし、中国やロシアなども参加した「戦勝国」に降参した。しかし戦争の目的は達成した。その目的とは「アジア諸国を植民地から解放する」という目的であった。
しかし東京裁判において、日本は「侵略国家」という「烙印」を押され、日本人は委縮してしまった。陰謀や不法な侵略により東京裁判で日本を「侵略国家」にすることに成功した中国やロシアは、その時点を出発点として太平洋の防波堤のような日本を弱体化し、太平洋をアメリカの海から、中国やロシアの海にしようとする意思を実行する遠大な行動を開始した。ロシアは不法に日本の北方領土を占拠し、実効支配し、決して手放そうとはしない。中国は隙あれば太平洋に進出しようと実行動に出始めた。韓国さえも我が国固有の領土である竹島をしっかり押さえ、対馬をも支配しようと考えている。
日本は植民地を解放したという目的を達成したが、日本国民はそれが「侵略」であったと「思い込まされ」た。それは日本をずっと将来に渡ってアメリカの傘下に置いておこうというアメリカの戦略的意思を実行する戦術でもあったと老人は思う。吉田元首相は日本が戦争に負けたことが必ずしも悪いことばかりではなかったと言ったと言う。アメリカに降参した結果、今日の日本がある。
日本一国の力では中国やロシアや「朝鮮」には対抗できない。例え日本が核兵器を持ったとしてもアメリカとの連帯なしには、大陸からの圧力に日本は抗し得ないだろう。日本は未来永劫アメリカや西欧という日本と価値観を共有し得る。しかし、中国やロシアや「朝鮮」とは今後何世紀経っても価値観の共有はできないであろう。勿論、これらの国々との間の貿易は盛んになり、一衣帯水状況は深化するだろう。人民同士のレベルでは友好関係は一層深まるだろう。しかし、性格の合わない人同士は親友にはなれないように、日本はこれらの国々とは親友になれない。そのことを日本国民は自覚すべきである。「友好の海」はあるだろうが、決して「友愛の海」は有り得ないのだ。
2011年1月1日土曜日
外交と防衛(続き)(20110101)
日本の古代史について岩間氏はこう書いている。「一例をひくと、東京書籍の歴史には次のように書いてある。「・・・そのころ、日本には邪馬台国という国があり、魏と交わりを結んだ。魏の歴史に記した『魏志』の倭人伝には、邪馬台国の様子が書かれており、小さな国々がしだいに大きな国にまとめられていった様子がうかがわれる。邪馬台国の女王卑弥呼は使いを魏の都へ送り、魏の皇帝から倭王という称号と金印を授けられ、また銅鐸百枚など、たくさんの贈り物を授けられた」と書かれている。どこにも日本の神話としての古事記、日本書紀に書かれている天照大神も三種の神器も神武天皇も出て来ない。
支那民族は常に自国を中華と云い、周りの国を東夷、南蛮、北戌、西戎と言って蔑視し見下げて来た。その当時の日本は日本語として、すでに極めてはっきりした発音の日本語が一般に使われていたと思われる。ただそれを表す文字が無かったのである。その日本語を悪意を持って書いたのが魏志倭人伝である。「邪馬台国」は「大和国」を、「倭人伝」は「和人伝」を「卑弥呼」は「日御子」或いは「日美子」即ち「天照大神」をわざわざ卑しめて付けた言葉であることは間違いない。それを日本語に訂正しなくては本当の歴史教科書とは言えないのではないかと思う。日本神話及び日本の歴史上の偉人を教えないで愛国心が育つ筈がない。」と。
老人は岩間氏の主張に100%同意する。明治政府は皇国史観を強調するあまり、本当は東大寺大仏の建立に使う黄金を帰化人で陸奥国司に任命された百済王氏が、赴任先で発見したとき大友家持が喜んで詠った中に「海ゆかば」があり、大東亜解放戦争(老人も岩間氏に同感し「太平洋戦争」と言わない)中、この部分を兵士を鼓舞する歌にしてしまった。
『続日本紀』のその主要部分の現代語訳は以下のとおりである。(Wikipedia)より。
「葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、」。
学校で日本のこのような古代史をきちんと教えないのは本当に間違っている。
日本の古代史について岩間氏はこう書いている。「一例をひくと、東京書籍の歴史には次のように書いてある。「・・・そのころ、日本には邪馬台国という国があり、魏と交わりを結んだ。魏の歴史に記した『魏志』の倭人伝には、邪馬台国の様子が書かれており、小さな国々がしだいに大きな国にまとめられていった様子がうかがわれる。邪馬台国の女王卑弥呼は使いを魏の都へ送り、魏の皇帝から倭王という称号と金印を授けられ、また銅鐸百枚など、たくさんの贈り物を授けられた」と書かれている。どこにも日本の神話としての古事記、日本書紀に書かれている天照大神も三種の神器も神武天皇も出て来ない。
支那民族は常に自国を中華と云い、周りの国を東夷、南蛮、北戌、西戎と言って蔑視し見下げて来た。その当時の日本は日本語として、すでに極めてはっきりした発音の日本語が一般に使われていたと思われる。ただそれを表す文字が無かったのである。その日本語を悪意を持って書いたのが魏志倭人伝である。「邪馬台国」は「大和国」を、「倭人伝」は「和人伝」を「卑弥呼」は「日御子」或いは「日美子」即ち「天照大神」をわざわざ卑しめて付けた言葉であることは間違いない。それを日本語に訂正しなくては本当の歴史教科書とは言えないのではないかと思う。日本神話及び日本の歴史上の偉人を教えないで愛国心が育つ筈がない。」と。
老人は岩間氏の主張に100%同意する。明治政府は皇国史観を強調するあまり、本当は東大寺大仏の建立に使う黄金を帰化人で陸奥国司に任命された百済王氏が、赴任先で発見したとき大友家持が喜んで詠った中に「海ゆかば」があり、大東亜解放戦争(老人も岩間氏に同感し「太平洋戦争」と言わない)中、この部分を兵士を鼓舞する歌にしてしまった。
『続日本紀』のその主要部分の現代語訳は以下のとおりである。(Wikipedia)より。
「葦の生い茂る稔り豊かなこの国土を、天より降って統治された 天照大神からの神様たる天皇の祖先が 代々日の神の後継ぎとして 治めて来られた 御代御代、隅々まで支配なされる 四方の国々においては 山も川も大きく豊かであるので 貢ぎ物の宝は 数えきれず言い尽くすこともできない そうではあるが 今上天皇(大王)が、人びとに呼びかけになられ、善いご事業(大仏の建立)を始められ、「黄金が十分にあれば良いが」と思し召され 御心を悩ましておられた折、東の国の、陸奥の小田という所の山に 黄金があると奏上があったので 御心のお曇りもお晴れになり 天地の神々もこぞって良しとされ 皇祖神の御霊もお助け下さり 遠い神代にあったと同じことを 朕の御代にも顕して下さったのであるから 我が治国は栄えるであろうと 神の御心のままに思し召されて 多くの臣下の者らは付き従わせるがままに また老人も女子供もそれぞれの願いが満ち足りるように 物をお恵みになられ 位をお上げになったので これはまた何とも尊いことであると拝し いよいよ益々晴れやかな思いに満たされる 我ら大伴氏は 遠い祖先の神 その名は 大久米主という 誉れを身に仕えしてきた役柄 「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」と誓って、ますらおの汚れないその名を、遥かな過去より今現在にまで伝えて来た、」。
学校で日本のこのような古代史をきちんと教えないのは本当に間違っている。
2010年12月31日金曜日
外交と防衛(20101231)
老人は新幹線の中で『大東亜解放戦争』(岩間弘著、創英出版)を読んだ。この本は、現政権の首脳やスタッフ、外交・防衛関係の大臣やスタッフたちに是非読んでもらいたい本である。
と言うのは、外務大臣になることを希望していると噂される鳩山元首相やその取り巻きや、鳩山氏に影響を与えたとされる寺島実郎氏などは「冷戦時代の安保体制からの脱却」という切り口だけを金科玉条のように主張するが、それでは対ロシア、対北朝鮮、対中国外交戦略については、「軍事力は外交の非常に重要な手段である」という視点を持っていないように老人には思えるからである。
新幹線の中に「ご自由にお持ち帰り下さい」と注記のある『WEDGE 2011 1』号が各座席に置かれている。それを読むと次のような記事が目にとまった。谷内正太郎氏・早稲田大学教授・元外務次官)が寄港した『TPP参加は「強い安保」「強い経済」への分水嶺』と題する記事である。
「2020年頃には、中国軍の総合的能力は、米国を除けば、東アジア随一のものとなるであろう。これに対抗できる勢力は、米国の太平洋防衛網しかない。・・(中略)・・仮に、大きな紛争になれば、米国は、同盟国である欧州主要国にも援軍の要請が出来る。・・(中略)・・軍事的実態を見れば、東アジアが、北米や欧州と切り離されて、米欧に対抗する独自の国際政治の場を構成するという考えが、いかに幻想的かよくわかるであろう。また、東アジアにおいて、日本が、中国やロシアを押さえて、他のアジアの国々を従えてリーダーシップをとる、或いは、日本が、米国と中国やロシアの間を仲介するという議論が、どれだけ現実離れしているか分かるであろう。・・(中略)・・環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び終えるべきバスであることは自明であろう。・・(中略)・・閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直人総理は「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかなければならない。(後略)」
日本国憲法前文にあるような「公正と信義」は、中国にもロシアにも北朝鮮にも、また韓国さえにも「ない!」。「友愛の海」はない。日本は近現代の歴史に鑑み、冷徹な目でこれら「特殊な」国々と対峙しなければならない。ドイツがやったように、アメリカの「核のボタン」も、一朝有事の際には日米共同で押すということを日本は決意し、そのことを彼の国々の政府関係者に分からせなければならない。
そういう意味で日本を過った方向に導くことになる鳩山氏や小沢氏は、考え方を改めるまで「黙って」いて貰わねばならぬ。マスコミもいつも同じ顔ぶれの論者だけではなく、谷内氏のように「正論」を唱える方々をテレビに出てもらうようにすべきである。
冒頭に示した本には、「東京大学等出身の左翼、共産主義の学者や政治家が、文部科学省はじめ、多くの官庁に多数いて、日本を左へ、左へと向かわせ、最終目標を天皇制の廃止、打倒に向けている」と書かれている。この本で日本とロシアや中国や朝鮮との間の歴史を正しく紹介している。これについて今後このブログで書き留めておきたい。
老人は新幹線の中で『大東亜解放戦争』(岩間弘著、創英出版)を読んだ。この本は、現政権の首脳やスタッフ、外交・防衛関係の大臣やスタッフたちに是非読んでもらいたい本である。
と言うのは、外務大臣になることを希望していると噂される鳩山元首相やその取り巻きや、鳩山氏に影響を与えたとされる寺島実郎氏などは「冷戦時代の安保体制からの脱却」という切り口だけを金科玉条のように主張するが、それでは対ロシア、対北朝鮮、対中国外交戦略については、「軍事力は外交の非常に重要な手段である」という視点を持っていないように老人には思えるからである。
新幹線の中に「ご自由にお持ち帰り下さい」と注記のある『WEDGE 2011 1』号が各座席に置かれている。それを読むと次のような記事が目にとまった。谷内正太郎氏・早稲田大学教授・元外務次官)が寄港した『TPP参加は「強い安保」「強い経済」への分水嶺』と題する記事である。
「2020年頃には、中国軍の総合的能力は、米国を除けば、東アジア随一のものとなるであろう。これに対抗できる勢力は、米国の太平洋防衛網しかない。・・(中略)・・仮に、大きな紛争になれば、米国は、同盟国である欧州主要国にも援軍の要請が出来る。・・(中略)・・軍事的実態を見れば、東アジアが、北米や欧州と切り離されて、米欧に対抗する独自の国際政治の場を構成するという考えが、いかに幻想的かよくわかるであろう。また、東アジアにおいて、日本が、中国やロシアを押さえて、他のアジアの国々を従えてリーダーシップをとる、或いは、日本が、米国と中国やロシアの間を仲介するという議論が、どれだけ現実離れしているか分かるであろう。・・(中略)・・環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び終えるべきバスであることは自明であろう。・・(中略)・・閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直人総理は「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかなければならない。(後略)」
日本国憲法前文にあるような「公正と信義」は、中国にもロシアにも北朝鮮にも、また韓国さえにも「ない!」。「友愛の海」はない。日本は近現代の歴史に鑑み、冷徹な目でこれら「特殊な」国々と対峙しなければならない。ドイツがやったように、アメリカの「核のボタン」も、一朝有事の際には日米共同で押すということを日本は決意し、そのことを彼の国々の政府関係者に分からせなければならない。
そういう意味で日本を過った方向に導くことになる鳩山氏や小沢氏は、考え方を改めるまで「黙って」いて貰わねばならぬ。マスコミもいつも同じ顔ぶれの論者だけではなく、谷内氏のように「正論」を唱える方々をテレビに出てもらうようにすべきである。
冒頭に示した本には、「東京大学等出身の左翼、共産主義の学者や政治家が、文部科学省はじめ、多くの官庁に多数いて、日本を左へ、左へと向かわせ、最終目標を天皇制の廃止、打倒に向けている」と書かれている。この本で日本とロシアや中国や朝鮮との間の歴史を正しく紹介している。これについて今後このブログで書き留めておきたい。
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