2013年1月31日木曜日


日本国歌「君が代」と世界の国歌を比べて考える(20130131

 日本の国家は「君が代」である。自虐史観に捉われている世代の日本人は国家「君が代」と聞くと戦争にまつわる歌というイメージを抱く。事実、元首相菅直人氏は国会における質問に答えて「日本の国歌は変えた方がよい」という趣旨の答弁をした。今はどうか知らないが当時公立学校で国歌斉唱時起立しない教師たちがいた。彼らは処分を受け、その処分をめぐって裁判で争われた。

 サッカーの試合などで国歌「君が代」が演奏されるが日本の選手たちの多くは大きな声で斉唱しているようには見えない。これはおかしなことである。大阪の橋本市長は国旗・国歌に対し敬意を表しない教師は処分すると宣言し、実行している。

 日本の国歌は「君が代は 千代に八千代にさざれ石のいわおとなりて 苔のむすまで」というもので、原型は『古今和歌集』巻第七「賀(がの)(うた)」の343番の歌に「題しらず」「読人しらず」として「わが君は千代にやちよに さざれ石の巌(いはほ)となりて 苔(こけ)のむすまで」である。その歌詞にある「君」について学者・著名人・日教組等からいろいろな意見があることは事実である。しかし、古代において天皇は「大君(おほきみ)」と呼ばれていたことも事実である。古代において「君」は一般に大切な人や高貴な人を指していた。例えば万葉集巻一の二〇に、天智天皇が蒲生野(がもうの)に遊猟されたとき同行した大海人皇子(後の天武天皇)に対して額田王(ぬかたのおおきみ)「あかねさす 紫野行(むらさきのゆ)き 標野行(しめのゆ)き 野守(のもり)は見(み)ずや 君(きみ)が袖(そで)(ふ)る」とあるように「君」は大海人皇子であった。額田王は天智天皇に寵愛されていたという宮廷歌人である。この歌に対して大海人皇子は「むらさきの にほへる妹を 憎くあらば 人嬬(づま)ゆえに 我が恋ひめやも」と答えている。

 現代において友人や同僚などに対して「〇○君」と言ったり、会話で例えば「君(きみ)、それは違うだろう」と言ったりするように、「君」は明らかに天皇を指すものではないことは確かである。国会議員同士は議会で「〇○君」と呼んでいる。そこで国歌「君が代」を現代風に解釈すると「わたしたちの国・日本国は、わたしたちの子子孫孫の末の代に至るまで、今後千年も八千年経ても、細石が大きな岩になってそれにさらに苔が生えるほどになるまでも、長く長くずっと続きますように」という意味になる。

 これに対して世界の国々の国歌はどうであろうか。

 フランス国歌「(前略)子どもや妻たちの首をかっ切るためにやつらは我々の元へやってきているのだ! 市民らよ武器をとれ 軍を組織せよ 進め! 進め! 我らの田畑に汚れた血を飲み込ませてやるために!」

 シナ(中国)国歌「いざ立ち上がれ 隷属を望まぬ人々よ! 我らが血肉で築こう 新たな長城を築かん・・(中略)・・敵の砲火に立ち向かうのだ! 進め!進め!進め!」

 イタリア国歌「(前略)主が創りたもうたローマの僕(しもべ) 我がイタリア その美しい髪を捧げよ さあ隊列を組め 我等は死をも恐れない イタリアが呼んでいる そうだ!」

 アメリカ国歌「おお 見えるだろうか 夜明けの薄明かりの中我々は誇り高く声高に叫ぶ 危難の中城壁の上に 雄々しく翻(ひるがえ)る太き縞に輝く星々を我々は目にした 砲弾が赤く光を放ち宙で炸裂する中 我等の旗は夜通し翻っていた ああ 星条旗はまだたなびいているか? 自由の地 勇者の故郷の上に!」

 一部の人々はなぜ日本国歌「君が代」が嫌いなのだろうか? 世界各国の国歌に比べて日本の国歌ほど歴史と伝統があるものはないのではないだろうか? 白地に赤い日の丸の日本国旗とともに「君が代」の日本国歌は万世一系の天皇を頂く日本の国体とともに、日本人の魂の根源である。深層心理学でいう「セルフ」を表すものである。これを否定したら日本人の精神状態は正常では無くなること必定である。

 日本を貶めたいと考える人々は、あらゆる謀略・思想工作・情報工作を通じて日本人の深層心理にある「セルフ」そのものを破壊しようとするだろう。事実その活動に踊らされている政治家や一部の日本国民やマスコミがいる。日本人は自身の心の深層にある「日本人としてのセルフ」に気付くことが最も重要である。他国が自らの愛国心教育のため行っていることを無批判に受け入れ、「日本人は悪いことをした」と心の何処かで思っていることは大変間違っている。過去を反省することは必要であるが、自虐史観は払拭してしまわなければならない。さもないと日本が「千代に八千代に」栄えることはできないだろう。

2013年1月30日水曜日


日本人は等質であると言われるが・・・(20130130

 よく「日本人は等質である」と言われる。それはそうかもしれない。万世一系の天皇がいるような国は世界中に存在しない。その天皇は古代では自ら日本のリーダーとして政治を行い、強大なシナ(隋)に対しては、例えば隋王朝の皇帝・煬帝に対して「日出(ひいず)(ところ)天子、書日没(ひぼっ)スル(ところ)天子(いた)。恙無(つつがな)キヤと親書を届けたように対等の立場を貫いていた。そのシナ(唐)は当時先進国であったから、日本は遣唐使を送って唐からいろいろ学んだ。しかし学ぶにあたっては取捨選択し、日本の文化にふさわしくないものは決して取り入れなかった。但し非常に能吏ではあったが私心があった朝臣姓の藤原(後に氏を‘藤原恵美’と改めた)仲麻呂(後に名を‘押勝’と改めた)によって、官制も官服も唐の様式に改められた時期があった。似たようなことは現代でもシナ(中国)に好意的な売国的政治家たちによって真似されかねない。

 等質と言われながら日本人は非常に多様性に富んでいる。これは日本人の遺伝子が分厚い縄文人の遺伝子の上に長江中流域からやってきた渡来系弥生人の遺伝子が重なり、更に大陸の国内動乱等のため五月雨的に日本にやって来た大陸・朝鮮半島からの帰化人たちの血も混じっているためであろう。万世一系の天皇を中心とし日本固有の文化と多様な遺伝子が等質でありながら多様性に富む日本人の特質を形成しているのである。多様性は創造性と実用主義を育む。この点に関して日本人とアメリカ人とは似たようなところがある。

 そのことはさておいて、日本人の等質性は戦後の教育制度や社会制度によって失われてきているようである。例えば結婚ということについて考えると、昔は結婚とは家と家との結びつきであった。今でも結婚式場には「〇○家・△△家ご両家」などと表示される。しかしそれは上辺だけのことである。嫁になる実父が婿の実父に対して臆面もなく「私は娘を〇○家に嫁がせたとは思っていない。結婚は本人同士のことであって家と家のことではないと」言う。それは多少昔の家族制度の経験がある者にとっては一瞬「えっ!」と思うことである。その一方でその父親は「娘を良く躾けていないので」と恐縮している。

 安倍首相は教育の現状を日本の危機の一つと捉えている。戦後教育で間違っていることは礼節とか忠孝の精神を疎かにしてきたことである。例えば戦後間もない頃までは、田舎では盆・正月は祭りのとき、娘たちは嫁ぎ先から実家に来て先ずは仏壇で手を合わせた後居間で正座して待っている親たちの前に進み出て、正座してきちんと両手を‘ハ’の字に揃え、丁寧な言葉づかいで挨拶をしていたものである。それが節度ある礼の作法であった。今、そういう礼儀作法は茶道や武道などで教え込まれるが親子の間が友達同士か兄弟姉妹のような感じになっている家の中では、そういう礼儀作法は照れくさくて行われていない。教育の再生はそういう基本的なことから、先ずは形から入ってゆくべきである。

2013年1月29日火曜日


恍惚の人(20130129

 35年ほど前だったか『恍惚の人』という題名の映画があったかと思う。男はその映画を観ていないが宴会か何かの席で仲間たちが皆の前でその題名でお芝居を演じて皆を笑わせたことがあった。「恍惚の人」は本人自身が本当に幸せでないと「恍惚」ではないだろう。

 今、差別用語は使わないということで「痴呆」のことを「認知症」という。アルツハイマー病のため直近のことを忘れるようになり、本人はもとより本人の家族もいろいろ悩みを抱えることになる。医療や福祉制度の充実とともに人間の寿命が延び、社会の高齢化が進み認知症の高齢者が増えている。男の継母(以下‘婆さん’という)もその一人である。

 数日前の夜中にその婆さんから突然電話が入った。「どうしたの?」と問うと「物忘れがひどくなった」と訴える。男は、婆さんは淋しくなったのだろうと思った。一年前婆さんは真夜中に家を抜け出し、日中よく散歩で通る警察署に行き「誰か見知らぬ男と女が勝手に家にきて泊っている」と訴えた。男と女房は独り暮らししている婆さんの面倒を看るため盆・正月はもとより、大体2カ月ごとに帰っていた。婆さんが認知症になってきているということはかかりつけの医師から聞いていた。その症状が妄想となって現れたのである。

 前の晩、婆さんは10時前に就寝し、男と女房も就寝した。その前に婆さんの様子が少しおかしかった。就寝後間もなく婆さんが男と女房が休んでいる部屋にやってきてなんだかかんだ話しかけてきた。男は婆さんを適当にあしらって寝室に帰した。ところが夜中の3時ごろ男は物音で目が覚めた。婆さんがまた何か言いに来たのだろうと思って寝ぼけ眼で「どうしたの?」と多少怒って言った。すると突然電灯が灯って「警察の者です」と男の声である。びっくりして飛び起きた。見ると警察官が二人立っている。婆さんがとんでもないことを警察に訴えたものだからそういう事態になった。

 翌朝婆さんはけろっとして「今朝早く散歩してきた」という。これはもう完全に認知症が進行している、独り暮らしは無理だと判断して急きょケアマネージャーに相談し、婆さんをとりあえずはショートステイに預けることにした。そして四月に開設される地域密着型の特別養護老人ホームに入居できるようにした。これはかかりつけの医師のアドバイスで7、8年も前から婆さんを幾つかの特別養護老人ホームのどれかに入居させることができるようにと申し込みを行っていたお陰で、非常に幸運にそのようなことができたのである。

 新しい老人ホームは個室でテレビや電話などを持ち込んで婆さんが普段独り暮らししている雰囲気を作ることができるようになっている。婆さんは其処で偶然にも35年前別れた近所の同じ年の女性とも出会って毎日同じような内容であるが話がはずみ、毎晩845分ごろ男と女房が電話するたびに「なんでも美味しい」「楽しい」「よく歩ける」「死ぬるのを忘れたようだ」「いつも電話ありがとうございます」と言ってくれている。長年独り暮らしをし、デイサービスを受けていた頃にくらべれば、その老人ホームでの暮らしは何人かの友達もでき、話し相手もいて、家屋敷を守ることとか一切の心配はしなくてもよく、まるで天国のようであるのだろう。認知度チェックのため「晩ご飯は何だった?」と質問してみたら「カレーライスだったよ。美味しかった」と返事が返ってきた。

 毎晩845分ごろ電話をすると「今帰ってきたところ」と必ず言う。「皆元気?孫たちも元気?」と言うのも口癖である。孫たち、つまり男と女房の息子たちはそれぞれ嫁たちが息子の名前で婆さんの誕生日や「敬老の日」やお正月に必ずお菓子を贈ってくれている。女房はときどき「年寄りの原宿」といわれる巣鴨などに行って婆さんに着せる衣類を買い求め贈っている。婆さんはそれを着ると友達から関心を持たれる。93歳にもなっているが「女だから新しい洋服を貰うと嬉しい」と言う。

 婆さんは毎晩845分ごろまで共同の部屋で夕食後友達とテレビをみたり、しゃべったりして時間を過ごしている。婆さんに毎晩定刻に電話することを時々忘れていたが、数日前、夜中に婆さんから突然電話が来て以来、男と女房はタイマーをセットして毎晩845分という定刻に婆さんに電話を入れている。婆さんはそのことを感謝してくれている。男と女房にとって婆さんが毎日幸せだと口癖のように言ってくれていることが大変有難い。男と女房はノロウイルスが流行っているから面会は出来ないという連絡があって今度のお正月には帰らなかったが、春になれば帰って婆さんに会おうと考えている。「死ぬことを忘れたみたい」という婆さんも、いつ急変があるか判らない。「終わり良ければ全て良し」である。男と女房にとって婆さんが寿命の尽きるときまで「幸せ、幸せ」と言い続けてくれることが有難いのである。

2013年1月28日月曜日


自分の聴力を知ること(20130128

 音が聞こえない人や難聴の人は手話が判る相手と手話で通話する。健常者が当たり前と思っていることでもそういう人たちにとっては当たり前ではない日常がある。先日テレビでそういう人たちが集まる居酒屋のことが紹介されていた。男はそれを見ていて大変楽しそうだなと思った。しかし、そういう仲間に入るには自分自身が手話で通話することができなければならない。その居酒屋の常連客の中には手話通話が堪能な健常者もいるようである。街角にそういう手話で話が通じる店が増えればきっと楽しいに違いない。

 同じように目の不自由なひとたちのためにそのような店ができるとよいと思う。おそらくそういう店を開いても採算が合わないだろう。そこはそういう店を開くことを支援するような社会的仕組みが必要である。昔はそういう耳が不自由とか目が不自由な人たちに対してあまり目を向けていなかった。今は豊かになってそういう人たちに国も地方自治体も目を向けるようになった。

 一方で加齢とともに目も耳も歩行も不自由になってくる。若い人たちでも年をとると皆そのような社会的弱者になる。それから逃れることはできない。勿論、メガネとか補聴器とか歩行器などの器具をうまく使えば不自由さをかなり減らすことは可能である。人は必ず衰えてゆくのだから、まだ若い元気なうちに自分自身がそういう社会的弱者に必ずなるということ知って、早々と手を打っておくことが利口な生き方である。

 実は男は詩吟をやっているため最近気になることがある。それは聴力に関してである。自分が録音した自分の吟詠を聞いてみて以前のように力強さや声の伸びが無くなったと感じている。加齢とともに聴力は必ず落ちる。普通は高音域が低下するがそれとともに低音域も低下する。

  男は以前定年退職後一時期、補聴器を専門に取り扱う店でアルバイトをしたことがあった。其処のオーナーが良い人だったので男は短期間でかなり専門的なことができるようになっていた。補聴器を合わせるため耳の穴の形をとることもコンピュータで補聴器を調整することもできるようになっていた。

  介護専門のNPOを立ち上げそのNPOの経営の基盤を作る仕事が忙しくなったのでそのアルバイトは辞めたが、その店で働いていたお陰で耳のことにはある程度専門的な知識を身につけることができた。だから詩吟をやっている自分の聴力のことが気になりだしたのである。男は一度自分の聴力を専門的に測定してもらおうと思っている。

  今はどうか知らないが、その店では当時70歳上の人には無料で聴力を測定するサービスを提供していた。其処では音域が横で聴力が縦に出るグラフを顧客に提供していた。自分の聴力の実態が把握できれば対処の仕方がある。男はもし自分の聴力に問題点があれば、詩吟を詠うとき補聴器を付けてやってみようと思う。軽度の難聴で必要に応じて使用する補聴器は音域の調整が可能な耳かけ式のもので十分である。

2013年1月27日日曜日


健康診断で「潜血反応・要精密検査」の報告(20130127

 男は今年二つの目標を掲げている。一つは英語力をつけ、英語を母国語のように話せるようになり、できればこのブログも英文で書くことができるようになりたい、ということである。もう一つは自分の体のメタボの腹を凹ませようということである。ところが自分の意志の強さの問題もあってなかなか思うようには進まない。それでも一日に一度は英語のリスニングをしているし、食べ過ぎないように、運動も欠かさないようにしている。ただ、そのためどれだけ真剣に集中しているいかというとはなはだルーズである。英語力をつけることに関してはそれに十分な時間を割くことができていない。今書いているこの文章もブロークンイングリッシュである程度の表現はできるな、と思いながら書いている。

 今男の女房が放送大学で専攻しているコースは普段の一般家庭の主婦にはほとんど縁が薄い「社会と産業」である。あと少しで卒業できるところまで来ているので、女房は単位認定試験を受けるため真剣に勉強している。女房はこれまで二つのコースを卒業して学位を得ているので、そのコースを卒業すると放送大学で三つ目の学位を得ることになる。実は男も3、4年前放送大学に再入学して学籍を得ている。しかしこれまで一度も単位を得るための努力はしていない。大学側から男のところに心配して電話がかかって来た。あと2年間科目登録をしないと除籍になるという。男は女房から「お父さんは忙しくて勉強する時間などないのだからお金の無駄だわ」と科目登録を反対されている。男は自然系のコースを専攻しているのだが何か一科目だけ登録し、今度こそ本気で勉強しようと思っている。

 女房のところに昨年受けた健康診断の結果が送られてきた。見ると大腸に潜血反応があり精密検査を受けるようにと書かれている。女房に「試験どころではないので大腸の内視鏡検査を受けよ」と勧めるのであるが、女房はあと2科目の単位認定試験が終わるまで精密検査を受ける気は全くない。潜血反応が出たからといって必ずしも大腸か直腸に異常があるわけではないので内視鏡検査を受けるのは1週間後でも問題はないかもしれぬ。しかし医者に行ってすぐ内視鏡検査を受けることができるわけではなく、順番待ちや事前の準備もある。その手続きだけは早くやっておくことに越したことはない。

 大腸がんについて薬で治す臨床試験が行われることになった。その薬はがんの幹細胞に直接作用するものであるという。女房は潜血反応が出たというだけであって、がんになっているというわけではない。がんは10年という長い時間をかけて成長するものらしいので、その間に身体に備わっている免疫力で消滅することもある。しかし日本人の三分の一ががんに罹る時代である。早期発見・早期治療を行うに越したことはない。女房の試験が終わるまで男は気をもみながら待たなければならない。男はその間、大腸がん・直腸がんに関するいろいろな情報を集めたり、医療機関について調べたりしておこうと思っている。

2013年1月26日土曜日


天涯孤独になったある友人のことを思う(20130126

 男より9歳年長であるが心が通い合うある友人から封書の手紙が届いた。封を閉じる所にローマ字表記の名前とアラビア語表記の名前を併記したものを線で囲ってある金色の印が押されている。彼は現役時代中東のある国でその国の電気通信網の建設に従事していた。男とは仕事を通じて知り合った。男にはもう一人同様に仕事を通じて親しくしている年長の友人がいる。彼は男が管理していたある施設の植栽を担当する企業に勤めていた。どういうわけか男はそういう年長の方々に目をかけられていた。年長のそういう親しい友達がいずれあの世に逝ってしまったら、男はきっとさびしくなることだろうと思う。その前にしておかなければならないことを考え、是非しておこうと思う。

アラビア語併記の印を押した封書の手紙をくれたその友人は、300年も続いた旧家の出である。その旧家は跡を継ぐ者が絶え、末弟であったその友人が都内のある大きなお寺に頼み込んでその旧家のご先祖の供養の祭祀を行うとともに、自分自身に子がいないので家名も絶えてしまうことをご先祖に報告し、詫びたという。

 その友人は2年前に最愛の奥様を亡くされた。その奥様の葬儀は奥様の実兄がいる実家でその兄がその友人の実の兄のようにして、すべて取り仕切って行ってくれたそうである。ところがその兄が突然他界してしまった。男の友人は拠り所を一切失ってしまったのである。その友人は自分がいずれこの世を去った後も最愛の奥様の供養ができるようにと件のお寺に頼んで亡き奥様の50回忌に亘る通歴の法要もしてもらっていた。

 男はその友人からそのような経緯が綴られている手紙を頂いて、ふと唐の時代の文章家で詩人であった柳宗元という人が作った詩『江雪』に込められている情景を頭に浮かべた。その詩というのはこうである。
 千山鳥飛絶(千山鳥飛ぶこと絶え) 萬経人蹤滅(万経人蹤滅す)
孤舟蓑笠翁(孤舟蓑笠の翁)    獨釣寒江雪(独り釣る寒江の雪)

この詩を男は以下のように解釈した。
山々を見れば鳥一羽も飛ぶ姿はない。道という道は雪に埋もれ人が通ったような足跡もない。一艘の舟の中に笠をかぶり蓑を着た独りの老人が座っている。その老人は寒々とした冬の川に釣り糸を垂れている。風景の中から切り取ったその情景はまるで薄墨で描いた水墨画のようである。その情景の中に、独りの老人として私(柳宗元)自身、或いはこの詩を鑑賞する人自身が投影されている」と。

笠をかぶり蓑を着た独りの老人が一艘の舟の中に座って寒々とした冬の川に釣り糸を垂れている。その老人が天涯孤独の身になった件の友人と重なる。その友人は会社を定年で退職した後九州のある田舎町に家を建て、奥様と二人で暮らしていた。その奥様が亡くなられたあと一人住まいをしている。ご近所の方々がその友人のことをあれこれ何かと気遣ってくれているそうである。

男は明日その友人に電話を入れ何処かで会う話をしようと思った。会って何かを話してその友人を慰めようというのではない。できれば名所旧跡にでも一緒に訪れ、一緒に温泉に浸かって身体を温め、良い板前さんが造る新鮮な魚料理を美味しい大吟醸酒と一緒に味わう機会を持とうと考えている。

アルジェリアで日本の企業戦士10人がイスラム武装集団によるテロによって非業の死を遂げた。男のその友人は現役時代ある大手の通信機器メーカーに勤めていて、中東のある国の電気通信網の建設に関わりその国の発展に貢献していた企業戦士であった。男は9歳年長のその友人から、ローマ字表記とともにアラビア語で表記した名前が併記されている印を押してある封書の手紙を頂いて、企業から派遣された遠い外国で、その企業のため、日本のため、そしてその国の発展のため貢献している名もなき戦士たちのことを思わずにはいられない。国家観がなく、日本国民として恩恵を受けていながら自分の国を愛さず、大企業を悪ととらえ、社会的弱者のみに目を向ける政党や政治家たち、国家のことよりも自分自身の利益のため行動する政治家たちに対して、既にあの世に辿り着くまでそう長い時間はかからない年齢になっている男は強い憤りを覚えざるを得ないのである。

2013年1月25日金曜日


アルジェリアで息子の命を奪われ何もかも失ってしまった老婆(20130125

 このたびのアルジェリアにおけるイスラム武装集団による襲撃で尊い命を奪われた日本人の中に、2年前の3.11大震災で被災し、そのとき家も家財も一切を巨大津波で流されて何一つ残っていないまま仮設住宅暮らしをしているある老婆の一人息子がいる。その老婆は息子がアルジェリアでの仕事を終え、帰ってくるのを大変楽しみにしていた。ところがその老婆はたった一人の最愛の息子さえも失ってしまった。なんという悲しいことだろうか!イスラム武装集団を断じて許すことはできない!

 これまで日本は「人命は地球よりも重い」として、法を犯してまでもして武装過激集団の理不尽な要求を呑んできた。しかし彼らには人道主義は通用しない。彼らに通用するのは力だけである。理性のない野獣に人間の理性は通用するだろうか?この論理は人間でありながら野獣のような行動をする全ての組織に当てはまることである。人の体の中で増殖するがん細胞を自己免疫力や薬の投与だけで抑え込むことができれば問題ないが、それができないがん細胞についてはこれを外科手術で取り除くしかない。日本はアルジェリアで起きた悲惨な事件を経験したことを契機に、非合法な武装勢力に対しては「目には目」「歯には歯」の力で抑え込み、これを撲滅する道も選択しなければならない。

 公然と力で他国の領土を奪い取ろうとする国に対しても同様の論理で対決しなければならない。日本人の間で通用する論理は彼らに対しては通用しないのである。富の獲得・分配をめぐって、中世において日本国内でも起きていたような争いは、交通・通信・情報が高度に発達した現代においては世界中で、国家と国家の間や集団と集団の間で起きている。アルジェリアの天然ガス関連施設で起きた暴力で命を奪われた日本人たちはそういう争いの最前線で働いていたのである。「治安状態が良くなったから」といって決して気を抜いてはいけなかったのである。むしろ逆に、平和に感じられる状況であっても常に警戒心を緩めず、その警戒心を一層研ぎ澄まして、ありとあらゆる状況を想定した対策を講じておくことが肝要である。これは日本国家として真剣に取り組むべきことである。

今回の事件では何人かの内通者がいたようである。ボーイング787をめぐる問題につても然り、‘旺盛な疑心’をもってありとあらゆる可能性に対するありとあらゆる予防措置を講じておくべである。他者に対する親近感があると、「そんなことはあり得ないだろう」という「感情」を生む。工学的な専門知識があると「そんなことは起こり得ないだろう」と判断する。今回起きたアルジェリアでの事件やB787の不具合は、表に出ていない潜在的な「問題」が惹き起こしたものである。それらの「問題」は‘旺盛な疑心’があれば事前に見つかっていたかもしれないものである。日本は今後、表題の老婆のような状況が絶対起きないように、あらゆる予防措置を講じる努力をするべきである。

2013年1月24日木曜日


「器具」と「道具」を上手に使って自分の最期まで「快く」生きる方法(20130124)

 男は自分の亡父と同年のあるお方からもう何年も前に、女房と一緒に「戒名」を授けて頂いている。その戒名が余りにも立派なので男はその戒名に恥じない日々を送らなければならないと常々思っている。一方女房が頂いている戒名は全く女房の心と姿と行いのとおりで、女房は男から見てまるで観音様のようである。それに対して男の心には純白な紙の上に薄墨を散らしたような汚点があるようなものである。であるからと言って男は現世に生きてゆく上で生臭さから抜け出してまでして聖者のようになりたいとはちっとも思っていない。勿論男の女房とてその心は純白のようであるが現世を生きる上で己を全く捨て去ってまでして他者に奉仕するというような、まるで聖女のようでは決してない。男の女房はごく常識的であり、心と行いが正しく賢くおおらかで、他者に対する心温かい思いやりと気働きがある。それ以上のものではない。男はそういう女房と一緒であるから自分自身は純白の紙の上を薄墨で汚したようであっても幸せなのである、と男は常々思っている。

男と女房に戒名を授けて下さったお方は随分前にあるお寺で修行され、得度して僧侶になられたお方である。そのお方は先日103歳の誕生日を迎えられた。男はそのお方に所縁があり男と男の女房よりも何年か前に戒名を授かっている友人二人と一緒に、そのお方に会いに行った。そのお方は大変お元気であるが脚力も衰え聴力も低下している。そのお方との会話で肝心なところは筆談で行った。そのお方は良い補聴器は持ってはいるがそれを使うのが面倒だから使っていないとのことであった。視力の方はそう衰えてはいず、眼鏡を必要としない。男は亡父と同じ年齢のそのお方の年まで生存しているかどうか、ふとそう思った。ただもし生存しているとするならば早い時期から補聴器の取り扱い慣れておこうと思った。また足腰の衰えに対してはそのうちに歩行補助trousersのようなものが出来るであろうと思うからそれを装着しようと思った。「器具」は人間の「機能」の衰えを補助する物であり、「道具」は人間の「能力」を拡張する物である。人間は「器具」と「道具」を使いこなすことによって、最期まで自立して生きてゆくことができるのだと思う。

男とその友人二人はそのお方のお宅を出て、ある私鉄の駅ビルの喫茶店で暫く歓談した。話題になったのは「行動」の原理である。「快か不快の刺激」と「環境」は「行動」を惹き起こす。年老いて最期まで生き生き生きるため重要なことは「快」の刺激と良い「環境」を得ることである。例えば閉じこもりの高齢者を誘い出すため、その高齢者にとって何が「快」なのか何がよい「環境」なのか良く考えてみる必要がある。最も良い「快」をもたらすものは若い異性の声や姿ではないだろうか。勿論美味しい食べ物も「快」をもたらすに違いない。しかしとりわけ要なものは「性」であろう。「行動」は「‘快’の刺激」と「‘良い’環境」によって惹き起こされるものである。この原理を上手く使えば高齢者も生き生きと日々を送ることが出来るに違いない。男と友人の三人はそのような議論を楽しんだ。

2013年1月23日水曜日


犠牲者が出る前に「問題」の存在に気付くことが大切である(20130123)

 この度アルジェリアで起きたイスラム武装勢力によるテロリズムで非常に多くの犠牲者が出た。日本人の犠牲者は確認されただけでも7名である。アルジェリアの「日揮」の天然ガス関連施設ではそのようなテロを警戒して二重三重のセキュリティシステムを設置していた。それにも拘わらず内通者もいたようで国際的なテロリストの組織に襲撃された。犠牲者は銃で頭部を撃ち抜かれた。無事生還したが自分のすぐ近くで外国人同僚が殺害されたある日本人は「自分も殺される」と覚悟したそうである。

 ボーイング787の機体・システムのトラブルで高松空港に緊急着陸したとき乗っていたある会社員は緊急着陸で高度が急激に下がって行くとき「遺書を書かなければならない」と一瞬思ったそうである。787の操縦システムに電力を供給するリチウム電池が過充電のため加熱し機内に煙が出た。同型機はアメリカの空港に着陸後電池室に火災が発生したり誘導路を移動中燃料漏れを起こしたりしていた。もし飛行中その電池に火災が発生すれば搭載している燃料に引火し重大な事故が発生しかねない。幸いこの最新鋭機では犠牲者が出る前に緊急対策措置が講じられている。

 中央高速道路のトンネル内の天井板落下事故で多数の犠牲者が出た。原因は天井板取り付け部の経年劣化であった。これについては高速道路を全国的に緊急に点検する措置が講じられ、一部のトンネルでは天井板が撤去された。高速道路では首都高速道路網も含め、経年劣化が進行しており、抜本的対策を講じる必要に迫られている。

 大阪の市立高等学校ではサッカー部の顧問の教師による体罰で主将が自殺に追い込まれた。橋本市長は同校の体育科を廃止する決定を下し、市の教育委員会は体育科の入学試験の科目は同じにして普通科にすることを決定した。これにはかなりの抵抗があった。しかし橋本市長は顧問の教師による体罰を暴力と認定し、そのような暴力が起きる体質を抜本的に変えてしまおう強硬手段をとることにしたのである。

 人々は犠牲者が出て初めて「問題」の存在に気が付く。それまではその「問題」は表に出ていないので意識的に「問題」を見つけ出すようにしない限り潜在している「問題」に気が付かない。犠牲者の発生はブッダが人々を教え導くための方便かもしれない。ブッダの深い慈悲は人々にそのような「問題」が潜在していることを事前に気付かせることだと思う。「文化」「知識」「感情」の三つが潜在する「問題」の発見を邪魔している。「問題」を解くことも大切であるが「問題」を見つけ出すことも非常に大切である。家庭・学校・企業・社会で「問題」発見の技法を教え、広める運動が必要である。安倍新政権には是非このことに着目して必要な施策を講じて欲しいものである。

2013年1月22日火曜日


『花の合気道』という歌(20130122)

 男は自分自身の年齢のこともあって毎年躊躇しながらもある合気道の会の新年会に顔を出している。新年会は東京都内の某ホテルで行われている。この新年会はE八段・師範の指導を受けた弟子たちが毎年正月に師範ご夫妻を慕って一同に会し賀詞を交換する会で、もう何十年も続けられている。師範ご自身の合気道指導のモットーは「合気道の稽古をして楽しいこと」である。弟子たちの中にはお互い合気道の稽古を通じて知り合って師範ご夫妻の媒酌で結婚式を挙げ、子供も授かっているカップルが何十組もいる。

 その新年会に顔を出すと男は自分よりも年若い旧友たちに会い、懐かしく歓談して「今年も来てよかった」と思う。これが後何年続くことか。同じ年齢同士が集う同級会などではお互い飲食の量や内容に気を付けるが、若い人たちが多く集まる会合で調子に乗って酒を飲み過ぎたりしても良くない。男はある時期には心に決めて新年会には顔を出すことを遠慮しなければならぬと思っている。人は「そんなことをすると淋しくなるよ」と言うかも知れぬ。しかし男は別に淋しくなるとはちっとも思っていない。

 遣唐使船に乗って唐に渡りその地で没した阿倍仲麻呂と交流があった盛唐の詩人李白は、『山中問答』と題する作詞で「余に問う何の意あってか碧山(へきざん)に棲むと。笑って答えず心自(おのず)ずから閑なり。桃花流水杳然(ようぜん)として去る。別に天地の人間(じんかん)に非ざる有り」と詠った。男はいつか訪れる自分の最期に向けて日々支度をしているから、李白のように「此処は俗世間とは異なる別天地なのである。私は此処に独り住むことを楽しんでいる」という心境に近い。だからE師範の新年会に顔を出さなくとも淋しくなるとは思わないのである。しかしE師範の奥様は男のそういう心境を察してか、男に「こういう会とは別にS道場建設委員会メンバーだけが泊りがけで集う会を持ちたいですね」と言って下さっている。男もそういう会なら喜んで参加したいと思っている。

 その新年会で『花の合気道』という歌があることを初めて知った。メロディーは演歌調であるが、その詩の内容が素晴らしい。歌詞はこうである。「一、合気の道はひとすじに 己を磨くためにある 他人(ひと)のためなら身を捨てる つよい覚悟が和をまねく。 二、正義にうすい今の世に 我慢のならぬことばかり ここに合気の真髄で 破れ時代の邪(よこしま)を。 三、流れる水はただ清く 転がる石に草はない これぞ合気と知るまでは 汗の試練を積むがよい。 四、ひとたび内に備えれば 外にはすべて憂いなし 技とこころの一体を こめた演武に花が咲く。」


 以下の動画はE師範が基本技を紹介している。手刀を実際の短刀と思えば基本は同じである。E師範はこの歌詞にあるように「技と心が一体」のような大変素晴らしい先生である。今年行われるS道場の20周年記念行事のため、ヨーロッパなどからE師範の弟子たちが既に100人以上参加を申し込んで来ているという。

 

2013年1月21日月曜日


スマートフォンを利用するオンデマンドの公共バスのシステム(20130121)

 東京大学が開発したというスマートフォンを利用するオンデマンドの公共バスのシステムについてテレビ番組で紹介されていた。バスの利用者が年々減ってゆくなか、各地の民間のバス会社では工夫をこらして乗客数を増加させようと努力している。従前、民間の公共バスは長年国家によって一定の規制をされるとともに保護もされてきた。各家庭で個人の自動車が1、2台あるというのが当たり前の時代になって、特に田舎では、高齢者たちは不便な公共バスよりも自分自身や自分の家族が運転する自動車で何処でも気軽に出かけるようになった。この結果乗者数の少ないバス路線が廃止されるようなり、都会地は別として、田舎では公共バスは時代遅れの乗り物となってきている。

 田舎では、自分自身で車を運転できない年寄りたちは家にいる嫁や孫たちに頼んで病院や買い物などのため外出しなければならない。嫁や孫たちに快く送ってもらうため、年寄りたちは気を遣う。例えば一回につき数千円お小遣いとして渡したり、お世辞を言ったり、何かと同情して貰うようにしたりしなければならない。遠慮もしなければならない。これは田舎の年寄りたちにとってストレスである。年寄りたちはそのストレスのため体調を崩したりする。年寄りたちが体調を崩して入院することを内心喜ぶ家族もいることだろう。

 東京大学が開発したというスマートフォンを利用するオンデマンドの公共バスのシステムでは年寄りたちがごく簡単な操作でスマートフォンを利用し、自宅の前まで公共バスを呼ぶことができる。しかも、何時何分ごろ自宅の前にそのバスが到着するのかスマートフォン上の画面で知ることができる。そのバスは予め決められた運航路線というものがなく、時刻表もない。途中飛び入りの乗客がある場合に、そのバスの到着を待つ年寄りには自宅の前にそのバスが到着する時刻が変わったことが知らされる。言うなればそのシステムは相乗りタクシーのような便利さと、バスの到着時刻が判る便利さが一緒になったようなシステムである。しかも地域社会の中で顔見知り同士がそのバスの中で語り合ったり、一緒に買い物に行ったり病院に行ったりするので、対面会話の機会が増える。

 そのオンデマンドの公共バスのシステムについては、地方の自治体が深い関心を示しているという。地方自治体でこのシステムを導入すれば、年寄りたちは家族に気を遣うことなく自由気ままに外出し、楽しむことができる。不健康な年寄りたちが減る。地域が活性化する。地方自治体は年寄りたちのため使う予算を減らすことができる。東京大学は非常によいシステムを開発してくれたものである。さすが東大!安倍新政権はこのシステムを是非全国的に広めるように、必要な施策を講じて貰いたいものである。

2013年1月20日日曜日



「平癒祈願」の願いは届くか?(20130120)

 田舎に住む親戚の叔父87歳ががんの為入退院を繰り返している。昨年11月のある日、昨日までグラウンドゴルフを楽しんでいたのに体調不良を感じて病院に行ったら「肺がん」であることを知らされ、急遽入院した。その叔父と叔母は男の女房が小さい頃父親代わりのような存在であった人であり、男もいろいろ世話になっている。男と女房は叔父が入院したというので急遽田舎に帰り、入院中の叔父を見舞った。

 その翌月、老人施設に入居中の母(叔父の姉・女房の実母・男の継母)に会うことも兼ねて年末年始を田舎で過ごすため新幹線の切符を買っていたが、その施設から「ノロウイルスが流行っているため面会はできない」旨知らせがあった。その施設では男と女房がわざわざ遠方から帰ってくるので、特別に別室で母に会って頂くようにしていると言ってくれていた。しかしその好意は有り難く受け取って、こちらもノロウイルスを持ち込む可能性はあるので面会はお断りした。母は女房に「お正月には帰ってきてくれるの?」と電話の向こうから言っているという。今年94歳になるその母は認知症の症状が進んでいるようである。お正月はとっくに過ぎているが「お正月には帰るからね」と言って安心させている。叔父はその母の弟である。

 遅い初詣であったが川崎大師にお参りし、その叔父の病気平癒を祈願した。護摩のお札は10日ほど後に田舎の叔父のところに届けられるというので祈祷料とともにその郵送料も払っておいた。ところが10日過ぎても叔父のところにそのお札が送られて来ない。川崎大師に電話を入れて確認したら「昨日80%まで送ることができた。21日までには必ず届く」という返事であった。田舎から出てきて都会地に住んでいる人たちが川崎大師でお参りして故郷の親などに護摩のお札を送っている。その数があまりにも大量であるため祈祷に時間がかかり祈祷を終えたお札の発送にも時間がかかっているのだろう。そう思っていたら田舎から電話が入り、そのお札が届いたという。

 非常に多くの善男善女が川崎大師にお参りし、護摩の祈願をしている。勿論その護摩の祈祷のためお札の大きさに応じて一定のお金を払う。それは商売のようなものである。護摩を申し込む場所の混雑を緩和するためその手続きは流れ作業のように行うことができるようになっている。川崎大師には相当な収入があることだろう。それでもご利益があるのかと男は思う。しかし叔父は届けられた護摩札を家の中の聖なる場所に飾り、男の女房が自分のことをこれほどまで思ってくれていると喜んでくれることだろう。そして闘病の意欲が増す。これがご利益である。

 世の中は理屈では分からないような現象が起きる。叔父の肺がんも薬によって縮小している。あと一回の抗がん剤を使えば完治しそうだという。それは叔母の話であるが・・・。

2013年1月19日土曜日


アルジェリアの天然ガス関連施設を武装勢力が占拠(20130119)

 アルジェリア東部イナメスにある天然ガス関連施設をイスラム武装勢力が占拠し、アルジェリア軍がその武装勢力を排除するため強硬措置に出た。このためその武装勢力の人質にされていた34人と武装勢力のメンバー15人が死亡したという。その関連施設で働いていた大手プラントメーカー「日揮」の社員17名中3名の無事は確認されているが何名かの死亡者も出たようだ。残余の日本人の安否は不明である。安倍総理を初め日本政府はアルジェリアに対し攻撃の中止を要請していたが、これまで武装勢力を抑え込んできてその経験豊かなアルジェリア政府は、少数の人命の犠牲をやむなしとしてイスラム武装勢力をアルジェリア国内から排除することを第一優先に行動したのだろうか?同施設にはフランス人・イギリス人・アメリカ人など多くの外国人が働いていた。そのイギリス人の中にも犠牲者が出た。イギリスのキャメロン首相はイギリス人の犠牲者の数が増えることを覚悟しなければならない旨の声明を出した。現地の日本人の多くは単身赴任であるに違いない。横浜を初め日本国内で夫や父親が無事であることを祈っている家族の心情は如何ばかりであろうか?すべての日本人はこのたびの事件で亡くなった方々のご冥福を心から祈ろう。

 日本はエネルギー資源の多くを中東に依存している。アルジェリアは中東ではないが、其処にもエネルギー資源の開発のため日本人が働いている。エネルギー資源の多くを海外から輸入しなければならない日本は原子力以外のエネルギー源を出来得る限り増やすようにしなければならないが、それは簡単なことではない。化石燃料や再生可能エネルギーにより発電したものを電力会社が買い取る費用は、その電力を消費する一般家庭や企業が負担することになる。また、海外からエネルギー資源を安全に輸入するためには、その輸送船の航行の安全を確保しなければならない。そのための費用も同様に負担しなければならない。安全・安心のための費用は決して安いものではない。一般国民や企業の安全・安心は多くの人々の公共に対する思いあってこそ実現できるものである。「日揮」の広報部長はテレビの前で、「日揮」の社員たちはそれなりの覚悟で現地に赴いていると話していた。

 昔旧建設省からある大手商社に転出し、経営幹部になったK氏から彼が若いころの話を聞いたことがあった。その話は彼が中東で経験した話で、1940年ごろのことであっただろうと思う。K氏は30数名の部下を引き連れ中東の某国で働いていた。そのときの苦労話である。当時は電気通信網も整備されておらず、故国に残した妻との連絡も取れず、非常につらい思いをしたという。そのK氏は我が国初めての民間通信衛星を保有し運用する会社の社長となった。国家公務員出身のK氏の頭にあったものは常に「国の為」ということであった。日本が今日の繁栄を見るようになったのは総合商社のそういった気骨のある社員たちのお陰であった。全ての日本人は、「ここは地の果てアルジェリア」と歌われる砂漠の中で、エネルギー資源確保のため命をかけて働いている日本人たちがいることを思おう。

2013年1月18日金曜日


ボーイング787の緊急着陸(20130118)

 全日空(ANA)が山口県宇部空港から羽田に向けて香川県上空の高度9100メートルを飛行中、緊急事態が発生して高松空港に緊急着陸し、乗客・乗員は緊急脱出用シューターで脱出した。乗客は129人で、脱出時乗客数人が腰を打つなどして軽いけがをしたが乗客・乗員とも全員無事だった。トラブルの原因は機体前方の下部にあるリチウム電池が過熱し、溶解し、機体内部に煙が出たためである。このリチウム電池は日本製である。機体の三分の一を含め、このボーイング787には日本の技術が結集されている。燃費が従来のものより約40%も節約できるようにするため、操縦システムには従来の油圧式に代わって全て電気式になっているという。バッテリーに対する負荷が許容量を超えている可能性がある。

 このボーイング787を巡っては日本航空の同型機がアメリカの空港で電池室内で煙が発生したり、バルブの緩みで燃料漏れを起こしたりしている。日本国内では飛行中コックピットの窓ガラスにひびが入るなど数件のトラブルが発生している。ANAの社長は「初期故障」の範疇に入るという認識を示しているが、それは大間違いである。大きな事故というものは小さな事故の積み重ねの結果起きるものである。ドミノ倒しのように、或る日突然大事故が発生する。小さな事故はその都度徹底的に排除してゆくことが肝要である。

 今、シナ(中国)は尖閣を巡って公然と日本との戦争を口にするようになっている。一市井の老人の直感であるが、シナ(中国)共産党‘王朝’は崩壊寸前にあるように思う。温家宝元首相は海外に数百億円の個人資産を持っていると報道されたことがあった。シナ(中国)共産党中枢の幹部は殆どのものがいつでも海外に脱出することができるような準備をしていると聞く。シナ(中国)国内ではシナ(中国)共産党政府によりマスメディアに対し厳しい締め付けが行われているようである。それに対して「言論・報道の自由」を求める人々が立ち上がっている。シナ(中国)国内では毎日どこかでデモや暴動が起きているらしい。シナ(中国)では、中央・地方で共産党幹部が汚職・腐敗のため大量に処分された。処分した側もいつかはシナ(中国)大衆によって処分されることになるのだろう。過去数千年の間にシナ(中国)国内で起きた紛争・戦争・政変を思えばそういう気がする。

 「窮鼠猫をかむ」という諺がある。シナ(中国)共産党は‘生きのびる’ためどんなことでもやるだろう。日本としては相当な警戒と軍事衝突に備えたあらゆる準備が必要である。もしかしてボーイング787のトラブルの原因は、煎じ詰めればシナ(中国)共産党による謀略であったと判明することにならないだろうか?そうあって欲しくないが・・・。

日本の知識人や鳩山元首相など親シナ(中国)的な政治家たちは、日本とシナ(中国)との間にある「問題」を敢えて見つけ出そうとはせず、「問題」の存在が分かっていても敢えてそれを表に出したくないという心理があるのではないのか?「問題」を見つけ出したり、明らかにしたりする上で障害となる三つの要素がある。それは「感情」と「文化」と「知識」である。「そんなことはあり得ない」「戦争は絶対起こり得ない」「北京などに住み、シナ(中国)国内を旅したが皆親日的で、親切で、日本人と変わらない」などなど、①「感情」の上でシナ(中国)が日本に対し牙を剥いているとは到底思えない。「日米安全保障条約がありアメリカは尖閣を防衛すると議会で決議した」「総合的軍事力においてはシナ(中国)はまだまだ脅威にはならない」などなど、②「知識」の上でシナ(中国)が日本に対し戦争を仕掛けて来るとは到底考えられない。「今盛んに情報戦が行われている。これはシナ(中国)人が得意としてこれまで行ってきたことである」「シナ(中国)人と日本人は同じアジア人同士である。文化も共通している部分が多い」「かつて日本はシナ(中国)に多大な迷惑を与えた」などなど、③「文化」の上でシナ(中国)とは仲良くやって行きたい。このようなことがシナ(中国)共産党‘王朝’にとって好都合な状況ではないのか?

日本の危機管理システムは当然のことながら一市井の老人が考えているようなことも考慮に入っていることだろうと思いたい。一市井の老人の憂いはこれを書いたこともって終わりとしたい。老人は「あの世」に向けて、他にしなければならぬことが沢山あるのだ。

2013年1月17日木曜日

因果応報は必ずある(20130117)

 仏教で教える「因果応報」という言葉には、実は非常に深い意味、人智を超えた意味があるように確信している。それは自らの実体験に基づく確信である。日々、物事が不思議に運んでいると感じることが非常に多い。勿論、「不思議」と感じるかどうかはその人次第である。「不思議」と感じない人にはこの話をしても意味がない。何故ならそれは「不思議」が判る人にしかわからないことなのであるからである。

 この「不思議」なことは一人の時はあまり起きないように思う。一人の人間ともう一人の人間がお互い尊敬しあい、愛し合い、協力し合うことによって、その「不思議」なことは良く起きるものだと思う。「1+1=2」ではなく「1+1=2+α」なのである。この「+α」はそれを認識できる者にしか認識できない。逆に「1+1=2-β」になる場合がある。二人一緒であっても二人分にはならないから「-β」となるのである。

 我が家の洗面所のリフォームをして工事が完了し残金の請求書が来たので、ゆうちょ銀行のATMで支払った。それが終わり後ろを振り向くと一人の女性がそのATMが空くのを待っている。「お待たせしました」と挨拶したがその女性は笑顔ひとつ見せることもなく無言でそのATMの方に向かった。その女性は年の頃30歳ぐらいである。76歳の男が丁寧に挨拶したのにその女性は無表情で無愛想であった。

 その女性のそのような振る舞いは後に何かのことで必ず報いを受けることだろう。その女性の親は自分の娘がそのような人柄にならぬように育て上げていなかったと思う。その親も当然相応の報いを受けることになるだろう。その女性が学校で教育を受けるとき先生は挨拶・会釈の大切さについて教えていなかったに違いない。その教師も当然報いを受けることになるだろう。この様に因果応報が現れる。それを因果応報であると感じず、考えもつかない者は日々の暮らしの中で必ず報いを受けるに違いない。そして自分の不運や不幸を嘆き、それを他者のせいにすることだろう。その人からはますます幸せが遠のく。

 安倍政権となって教育の再生が進行中である。手始めに高等学校でキャリア教育を行うことになった。高等学校を卒業して社会に出た場合、一人の社会人として立派に生きて行けるようにと考えられたシステムである。このキャリア教育の中において挨拶や会釈の大切さを良く教え込んで欲しいものである。

 一組の夫婦が子供を授かり、その子供を養育し、社会に送り出すまで間に、「1+1=2+α」になるか、「1+1=2-β」になるかによって、その子供が挨拶や会釈ができる社会性豊かな人格を持つようになるか否かが決まる筈である。それは因果応報である。