ブッダ『感興のことば』を学ぶ(46) (20100505)
ちばてつや氏や里中満智子氏ら漫画家たちの識見や品性に大いなる疑問を感じる。彼らの漫画は世界中で良く売れているらしい。彼らは児童ポルノ漫画の弊害に目を向けず、実に尤もらしい「表現の自由を守る」という大義名分を掲げて自分たちの利益を守ろうとしているようにしか、我々には見えない。
東京都は漫画の中で「子どものへの強姦など反社会的な性行為の描写」を禁止したいと言う。これに対して山口貴士という弁護士は彼ら漫画家たちの側に立ち、「実在する子どもが映されている児童ポルノと創作物は明確に区別されるべきである」と尤もらしいことを言っている。もしかして彼の弁護士は彼ら漫画家たちから何某かの金をもらっているのではないかと疑いたくなる。
一方、後藤啓二という弁護士は「写真的な漫画は児童への性被害を助長する」、と言って東京都の側に立っている。事実、児童ポルノの漫画に刺激されて性犯罪をした男たちがいる。彼らは普段平気な顔をして官庁や会社勤めをしている男たちである。
政府はインターネット接続業者に対して児童ポルノへのアクセスをブロッキングするよう要請した。漫画たちもその動きを見て児童ポルノ漫画を描くことは多少自粛するかもしれない。その理由は、インターネット接続業者たちもブロッキングにより利益が減るので、文句を言う矛先が漫画家たちに向けられる可能性を漫画家たちも警戒するだろうと考えられるからである。これはうがった見方かもしれないが・・・
今の社会を動かしている世代の方たちの中にはしっかりした倫理観や道徳心が欠けている者の割合が若干多いのではないだろうか?あるいは、豊かな社会に生まれ育ったため極端に寛容な人々が圧倒的に多くなっているのではないだろうか?
手元に明治神宮社務所が刊行した『明治天皇御製 教育勅語 謹解』という本がある。若いころ明治神宮に参拝した折に買ったものだと思う。この教育勅語の中に「父母に孝(こう)に兄弟(けいてい)に友(ゆう)に夫婦相和し朋友相信じ恭倹己れを持し博愛衆に及ぼし学を修め業を習い以て智能を啓発し徳器を成就し進んで公益を広め・・。」とある。
インターネット接続業者や漫画家たちには「公益を広める」ため正しい考え方をし、行動をしてもらいたいと願うものである。
鳩山総理大臣が沖縄を訪問し、北アジアの状況に対処するため沖縄の米軍基地は必要である、政権を担ったばかりの頃はその重要性に気付かなかった、という趣旨の発言をした。政治家たちは軍事のことが多少分かるようになった。大変喜ばしいことである。現実の世界では軍という‘暴力装置’は存在し続ける。その装置は、こちらが抑止力を働かせない限り勝手な行動をしがちである。理想ばかりを言っていては相手の‘暴力装置’に侮られるのが現実の世界である。
17 つねに善き思考をはたらかせよ。しかしつねに悪を避けよ。そうすれば、吹き上げられた塵を雨がしずめるように、諸の思考と思索とを捨て去るであろう。
2010年4月17日土曜日
ブッダ『感興のことば』を学ぶ(28) (20100417)
女房が観たいと言っていたNHKハイビジョン番組「プレミアム8人物100年インタビュー」を一緒に観た。元首相・中曽根康弘氏へのインタビューである。なかなかよい番組であった。あの田中角栄氏とは国会議員当選の同期で、共に29歳で当選、田中氏は佐藤栄作派、中曽根氏は重光葵派であった由。中曽根氏は海軍主計少佐として終戦を迎え、田中氏とともに戦後の日本の政治史上非常に大きな役割を果たしている。
「風見鶏」と揶揄されたとき、風見鶏は中心が固定されていて時の政治情勢を見ながら回るからそう言われることは結構であると言ったとのこと。この「中心が固定されていて回る」という考え方が面白い。元軍人として一本筋の通ったところ、気骨のあるところに共感を覚える。今の政治に対して批判はせず、見守ってゆこうという中曽根氏の姿勢に女房は「立派な方だ」と褒める。「総理大臣として苦労したからね。元軍人でもあったところが違う。」と応じる。今のリーダー層は戦後生まれか終戦前後生れの世代で、その親たちは戦前戦後の急激な価値観の違いの中でものの考え方が定まらなかった世代である。そのような親たちに育てられたから国家に対する観念も中途半端なところがあるのかもしれない。
平成維新と言い、若い政治家たちは張り切っていろいろやろうとしているが、はなはだ未熟である。その若い政治家たちを指導するリーダー層が、しっかりした歴史観、国家観を持っていないから、アメリカや中国などからなめられている。今日(15日)の読売新聞の夕刊の2面トップにわが国の首相のことをアメリカのワシントンポスト紙が「哀れでますますいかれた鳩山首相」と酷評したという記事が出ている。まことに情けないことである。情けないことであるが、国会議員を選んだのは国民である。現状に疑問を抱く若い世代の有権者たちが、4、5年後には状況を変えてくれるだろう。それに期待したい。
世の中の風紀が乱れつつある。電車の中で若い女性に対して淫らな行為をする男が多いため関東地域のJR列車内に監視カメラを付けようという話がある。一部の路線で取り付けてみたところその列車内での性犯罪は減ったという。ウエブデザイナーと自称する29歳の男が男子ポルノ犯罪で逮捕された。この男はそのウエブ犯罪で得た収入以外に収入はないという。風紀を正すには徹底した取り締まりと厳罰以外に良い方法はないと思う。
教室で中3の男子が刃渡り17cmの包丁を隠し持ち、教師に取り押さえられた。この少年が凶器を所持していた理由は、制服のボタンを留めていないなど服装上のことで注意を受けたためだという。自分の子供のしつけもろくにできないのにちょっとしたことで学校に怒鳴りこむ馬鹿親が多い。こどもの社会では大人から見ていろいろな心配事が多いが、近年その心配事の内容が深刻化してきている。先日は中学生の間に浸透しつつある大麻汚染のことがニュースになった。親たちの道徳観念が希薄になってきている。民放の女子アナのきんきん声、あれはなんとかならないものか!彼女らは馬鹿親予備軍であると言いたい。
24 徳行をそなえ、法(のり)にしたがって生き、恥を知り、真実を語り、自分のなすべきことを行う人を、世人は好ましいと見なす。
2010年4月14日水曜日
ブッダ『感興のことば』を学ぶ(25) (20100414)
中学生の間で大麻が広がりつつあると言う。安売りスーパーの倒産、スーパーに豆腐を納入している業者が原価割れに近い価格での納入を余儀なくされているという。普天間基地問題の解決は非常に難しくなってきているという。国民の間で閉塞感が漂っている。
諸悪の根源は何か?日本は何故こうなってしまったのか?政治家を選んだのは国民である。現政権を選んだのも国民である。国会議員の数は多すぎることは確かであるが、国会議員が多すぎるからこうなったのではない。誰が悪いのでもない。われわれ国民ひとりひとりが今の状況を作ったのである。
政党も一つの組織である。組織というものは生き物である。生き物は自らを保存しようとする。すべての有機的なものは‘自己を保存’しようとする。時にそれが悪い方に働く。「数は力なり。」と言わんばかりに行動し、大義を見失ってしまう。
タイでは独立の行政機関としての選挙管理委員会が政党の解散を命じることができるということであり、この度の騒動で現政権の与党を解散させようとしている。わが国にはそのようなシステムは無いが、普天間の問題で国民に信を問うことを求める世論が高まれば、昨年夏、衆議院で圧倒的な多数を得た民主党でも衆議院の解散に踏み切らざるを得ないという状況になる可能性がある。
折しも潜水艦2隻を含む中国の艦隊が沖縄本島と宮古島の間の公海上を通過し沖の鳥島方面に向かっているという。中国海軍のヘリコプターがわが護衛艦から60mの近くまで接近し、護衛艦は航行に支障が生じかねない状況になったという。アメリカが沖縄から手を引けばわが国の安全保障上どういうことになるか。
そろそろ国民は永田町で繰り広げられるパフォーマンスに飽きてくるだろう。事業仕訳も重要であるが国民の間に漂う閉塞感の打破のため、与野党ともマニフェストにとらわれない新たなメッセージを国民に示して、国民に信を問うようにすべきである。自民党も政官業癒着打破のため事業仕訳を行うと言えば良い。国会議員の定数を減らすと言えばよい。国際宇宙ステーション(ISS)への往復のため宇宙ステーション補給機(H-II Transfer Vehicle: HTV)を改良してスペースシャトルに代わって人をISSに送り届け、ISSから人を地球に帰還させるようにすると言えばよい。宇宙で太陽光発電をして日本本土の施設に送電する計画、風力・波力・圧力発電増強計画、マグロなど大型魚の栽培・畜養を含む日本周辺海域での大規模水産工場建設計画、周辺海底資源開発計画など大型プロジェクトを示し、状況に応じて核武装(ただし当面潜在的能力としての武装)も含む自前の抑止力を増強または削減することを世界に向けて堂々と示せば良い。
13 もしも自分を愛しいものだと知るならば、自分を悪と結びつけてはならない。悪いことを実行する人が楽しみを得るということは容易ではないからである。
2010年3月6日土曜日
ブッダ「真理のことば」を学ぶ(43)(20100306)
埼玉の蕨で両親が5歳児を虐待し死なせた。新藤正美(47歳、無職)・早苗(37歳)が次男に十分な食事も与えていなかった。近所の主婦の話によれば子供が敬語で「水を下さい」と訴えたとき母親がすごい剣幕で「お前にやる水なんかない!」と怒鳴りつけ、ペットボトルで子供を叩く音も聞こえ警察に届けたという。児童相談所が調査に乗り出していたが虐待の実情は確認できなかったという。
この夫婦は次男が生れたとき路上生活をしており、一時期その次男は2歳まで児童相談所に保護されていたということである。虐待の容疑で逮捕されたときその夫婦は、「逮捕されるようなことはしていなかった。」と白を切ったという。
最も大きな問題は、児童相談所の対応である。犯人が「自分は犯人です。」と言う筈がない。事は子供の命に関わることである。児童相談所はその夫婦の言うことを信用せずあらゆる方法で虐待の事実をつかむ努力をすべきであった。場合によっては親権を無視してでもその児童を強制的に引き取ることをすべきであった。これは、児童相談所所長ら幹部の保身が招いた不幸である。そういう役人は直ちに左遷されるべきである。子供の命を守るために社会のシステムを変えて行かなければならない。人権が前面に出ると一番大事なことがおろそかにされることがある。この日本では都市化が進み、人口の大半が都市に住むようになり、隣人のことに関心を持たない人たちが増えてしまった。日本人が昔から培っていた助け合いの気風が薄れてしまった。先日「いじめられていた」という遺書を残して自殺した子供がいたが、学校におけるいじめの根本原因はその辺りにあると思う。
政治活動に走る教員、竹島は韓国の領土であると教える教員、国旗や国歌を大事に思わない教員、そのような教員の組織である日教組は解体されなければならない。集票のためなら、自分の権力基盤を固めるためなら何でもしようと考える小沢氏らも批判されなければならない。民主党は自民党でできなかったことを一生懸命やろうとしているが、何が最も正しい行動なのか、思考なのか、見方なのか考える必要がある。さもないと7月の参院選では敗北を喫するだろう。矛盾はいずれ必ずはじけるものである。
件の夫婦は自分たちの子供(=他人)を虐待して快楽を得ていた。政治家が自分権勢維持のためにとる行動も自分の快楽のためである。ブッダ「真理のことば」第二十一章「さまざまなこと」を学ぶ。
291 他人を苦しめることによって自分の快楽を求める人は、怨みの絆(きずな)にまつわられて、怨みから免れることができない。
292 なすべきことを、なおざりにし、なすべからざることをなす、遊びたわむれ放逸なる者どもには、汚れが増す。
293 常に身体(の本性)を思いつづけて、為すべからざることを為さず、為すべきことを常に為して、心がけて、みずから気をつけて人々には、もろもろの汚れがなくなる。
2010年2月21日日曜日
ブッダ「真理のことば」を学ぶ(30)(20100221)
2歳の自分たちの子供を虐待して死亡させた35歳の夫婦が裁判員裁判にかけられた。その虐待は、これが人のすることかと思うほど残酷なものであった。その様子はここに書くに忍びない。死んだこどもの顔を「安らかな顔だった。あれでよかった。」と件の母親は言ったという。弁護士はこの夫婦が「反省している」と弁護した。反省ですまされることではない。この夫婦はそれぞれ人間の顔をしてはいるが、犬畜生にも劣る‘生き物’である。
この夫婦はそれぞれ子供の時、親から虐待を受けていたのであろう。その親も子供のとき親から冷たく扱われていたのであろう。子供を虐待し死亡させた親は、次の世において最も苦しむところに転生して生まれてくることだろう。
バンクーバーで行われている冬期オリンピックでは、500mスピードスケートで長島圭一郎が銀、加藤条治が銅メダルを取った。フィギュアスケートショートプログラムで高橋大輔が3位に、織田信成が4位になり、小塚崇彦は8位につけた。女子カーリングではアメリカに勝ったがカナダには負けた。明日中国と対戦する。スノーボードでは服装のことで開会式に出ることが出来なかった国母和宏が大技で挑んだが最後の着地で痛恨の失敗をしてしまった。スプリントでは善戦するも準決勝進出はならなった。これから女子フィギュアに浅田真央や安藤美姫らにメダルの期待がかかる。オリンピックの大舞台で若者が世界の頂点を目指して技を競い合っている。
人の一生は様々である。罪を犯す若者がいる一方で自分を鍛え、技を磨き、競技を観る人々に感動を与える若者がいる。その両者の何処が違うかと言うと、罪を犯す者は自分が満たされない原因を他に求めている。自分自身を強固な拠りどころにしていない。一方、スポーツ選手は競技に勝つために自分自身を知りつくし、自分の弱点を克服するため考え、弱点を補う努力をし、自分の能力の限界まで力を発揮するようにしている。
ブッダは「自分を洲とし、自分を拠りどころとし、他を拠りどころとしてはならない。」と繰り返し言っておられる。罪を犯す者は自分が拠って立つ洲にはならず、ものごとがうまく行かない原因を他に転嫁し、他を拠りどころとしている。要するになんでも人のせいにするのである。悪事を正当化するための理屈を作るのである。
民主党政権で子ども手当が支給されるが、給食費を払わない人に子ども手当を出すことについて議論された。車を持ち、携帯電話を持ち、月々相当な費用を払っている人が「給食の内容がよくないから払わない。」と言って払わず、子供につらい思いをさせている。
235 汝はいまや枯葉のようなものである。閻魔王の従卒もまた汝に近づいた。汝はいま死出の門路に立っている。しかし汝には旅の資糧(かて)さえも存在しない。
236 だから、自己のよりどころをつくれ。すみやかに努めよ。賢明であれ。汚(けが)れをはらい、罪過(つみとが)がなければ、天の尊い処に至るであろう。
この二つの詩は第十八章「汚れ」の冒頭にあるブッダのことばである。
2010年2月12日金曜日
ブッダ「真理のことば」を学ぶ(21)(20100212)
昨日(8日)、山本病院の理事長・山本(医師)と塚本(医師)が不必要な手術をして患者を死亡させたとして逮捕された。手術前のエックス線写真で肝臓に腫瘍ができていないと判断されていたにもかかわらず、その判断が誤りだと言って強引に手術をし、出血多量の状態になったにもかかわらず、適切な処置もせず放置したという。
テレビで山本の顔が映し出された。その顔つきはいかにもそのようなことをやりそうな顔つきである。その親、母親の顔が想像されるような顔つきである。塚本はその病院に雇用されたばかりのときであったので、理事長山本の命令に従わざるを得なかったという。
これが殺人でなくて何だろうか? 世の中にこのような傲慢な輩は沢山いる。自分が偉いと思いこんでいる。「先生」とか「先生御侍史」と呼ばれて悦にいっている。人間に対する尊厳の心は微塵だにもない。その「先生」の妻たちも、たいして教養もないのに世間から敬意を表されて、身を金銀真珠などの装飾でつつみ「~ざあますのよ」とお高く止まっている。世間の人々はそのような人種に軽蔑の眼を向けながらも、そのような人種に憧れ、そのような人種と交流していることを誇りたがる。
テレビの朝の番組で同世代と思われる各界の人士が昨今の話題についてわいわいがやがやと語り合っている。皆楽しそうである。現在の社会では大学時代の交友の雰囲気を卒業後も持ち続けるのが楽しいのかもしれない。其処には‘個’としての自己が確立されているように見えて、実は自立していないように見える。彼らはあとで何処かに立ち寄りビールのジョッキを傾けたりするのであろうか?皆、他者を差別しないと不安なのだ。
皆、誰か、何かに寄りかからなければ不安のである。「自分自身」ではない「他者」に拠りどころを持たなければ、不安で仕様がないのである。かくいう男自身も例外ではない。しかし、少なくとも男はブッダの教えを学ぼうとしている。齢も齢なので多少「自己を拠りどころ」にして行きたいと思っている。33歳で従容として逝った生母のことが念頭にある。
男がもしもっと早い時期からブッダの教えを真剣に学んでいたならば、と思うことがあるが、その時期は若く元気で煩悩の真最中にあった。今の時代、生きて行くために学ばなければならないことが余りにも多く、ブッダの教えを学ぶ時間が余りにも少ないのだ。
ブッダ「真理のことば」第十四章を続ける。
183 すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄(きよ)めること、これが諸の仏の教えである。
184 忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。他人を害する人は出家者ではない。他人を悩ます人は(道の)人ではない。
186 たとえ貨幣の雨を降らすとも、欲望の満足されることはない。「快楽の味は短くて苦痛である」と知るのが賢者である。
2010年1月29日金曜日
ブッダ「真理のことば」を学ぶ(7)(20100129)
13 屋根を粗雑に葺いてある家には雨が洩れ入るように、心を修養していないならば、情欲が心に侵入する。
14 屋根を粗雑に葺いてある家には雨の洩れ入ることがないように、心をよく修養してあるならば、情欲の進入することがない。
15 悪いことをした人は、この世で憂え、来世でも憂え、ふたつのところで共に憂える。かれは、自分の行為が汚れているのを見て、憂え、悩む。
16 善いことをした人は、この世で喜び、来世でも喜び、二つのところでともに喜ぶ。かれは、自分の行為が浄(きよ)らかなのを見て、喜び、楽しむ。
17 悪いことをなす者は、この世で悔いに悩み、来世でも悔いに悩む。「わたくしは悪いことをしました」といって悔いに悩み、苦難のところ(=地獄など)におもむいて(罪の報いを受けて)さらに悩む。
18 善いことをなす者は、この世で歓喜し、来世でも歓喜し、ふたつのところで共に歓喜する。「わたくしは善いことをしました」といって歓喜し、幸あるところ(=天の世界)におもむいて、さらに喜ぶ。
新聞に悲しい二つの事件の記事が載っていた。一つは初めテレビでニュースを聞いていたため読みたくない記事である。それは小学校1年生の男の子を22歳の実の母親と、31歳の男(母親の結婚相手)が虐待死させた事件である。もう一つは自分が産んだ幼い娘の裸の写真を携帯電話で送信したり、いかがわしい行為をされると知りながら男に引き合わせたりしたとして、大阪、宮城、神奈川など8都府県の母親ら13人が昨年6月以降、相次いで摘発されたという記事である。
自分が産んだ息子が親をかばい「いじめられていない。悪いことをしたら叱られるけど。」と言っていたが、この子が描いた絵には目を吊り上げた親熊とそのそばに目が丸い小熊が描かれていた。この親もその夫も自分が犯した罪で一生苦しむだろう。自分の娘を小遣い稼ぎの道具、しかもいかがわしい情欲の道具に使った母親たちも同じである。
釈尊はここで来世のことを語られている。釈尊ご自身、「前世」が有るか無いかとか「来世」が有るか無いかとか、「我」が有るとか無いとか、形而上学的に存在の有無を論じることを「無記」として禁じられている。しかし男は、「前世」から「今生」へ、「今生」から「来世」へと永遠に続く‘もの’があるということは、それを思惟して確信することができる者にしか理解できないことであると思っている。
前に、ブッダの「化身」についてこのブログに書いたことがあるが、男は上記のような罪を犯した人たちもブッダの「化身」であると理解する。「化身」はブッダが人々に真理を教え、人々を真理の世界に導く「方便」として現れている姿である。(関連記事:「法身・報身・応身または化身(20100116)」)
2009年12月18日金曜日
暖かい家(ホーム)(2091218)
暖かい家(ホーム)とはどんなホームなのか考えてみた。先ず、夫婦相和しいていなければならないだろう。では、連れ合いの片方が先に逝ってしまったらどうだろうか。多分、そのホームは家族に囲まれていなければ淋しいだろうな、と男は思う。では、家族の居ないホームはどうなのだろうか。その場合、独居であることに耐えられる何か別の価値を持っていなければ独りでは生きてゆけないだろうと思う。別の価値とは例えば愛犬とか、宗教的なものとかである。独居していても誰かが何くれと声をかけてくれるとか、今の時代時々顔を見せ、電話などでよく連絡があるとか、とにかく「自分は独りぼっちではない」という気持ちでいられると独りでも生きてゆけるだろう。男と女房の母親がそうである。
この冬の寒いとき、失職して路上生活を余儀なくされている人たちには、なにか孤独を慰めてくれるものがあるのだろうか。男は昨日陶芸スクールに通ったが、その道すがら公共のトイレに近いところの無人倉庫のような建物の軒先に腰をおろして何か単行本を読んでいる40代後半ぐらいの男性を見かけた。おそらく彼は毎日職探しをしながら路上生活をしているのだろうと思う。彼の故郷はどこなのだろうか。身内はいるのだろうか。家族はいたのだろうか。今、わが国ではそのような失職した人たちが大勢いる。
彼らの今の境遇について、社会のセーフティネットが十分でなかった面も勿論ある。国際競争に勝ち国を豊かにして行こうとする政策のなかで効率的な人材派遣システム(企業側から見れば人材取得システム)の構築を積極的に支援した面もある。一方、若者たちの中には「働きたいときだけ働き、金がある間は‘自己実現’のため、あるいは‘快楽享受’のため働かない」という安易な考え、甘えた考えもあったと思う。アメリカのように徹底した個人主義の国では自己責任が問われる。しかし日本には古来家族主義が根強いため、働く人たちの中にはそのような安易な考え、甘えた考えがあるのは仕様がないことである。
近頃草食人間とか肉食人間という言葉が流行っている。草食人間は自己責任の観念が薄い人間なのだろうと男は思う。責任を他に転嫁するような人間たちだろうと思う。
明治時代、国民が貧しく、列強の圧力、大陸(当時の明国やロシア帝国など)から蹂躙されることを恐れていた時代、士族、特に下級士族たちは先頭に立って国民を引っ張り、国民もまた強烈な自己責任をもって和魂洋才・富国強兵の方針に従った。中心に天皇がいた。今の時代、為政者たちは国のことより自分のことしか考えていないように男には見える。
暖かいホームには暖かい心の持った人、特に女性がいる。常に他者を思いやり、他者に気遣いをし、他者に心配りをしている。20代、30代の若い女性たちでも、自分の母親がそのような人である場合、意識せずともごく自然にそのような振る舞いができる。父親でも母親でも、自分が親になって自分の子供に関わるとき、注意が自分の子供のことばかりに向くのではなく、周囲の人のことを思いやるものである。『坂の上の雲』には理想的な親の姿が描かれているのであろうが、そのドラマの中の親たちは皆立派である。
暖かい心を持っている女性たちに共通することは、先ず「相手を思いやる気持ち」「自分は一歩下がって相手を立てる気持ち」「相手を喜ばせる気遣いや心配りができること」「礼儀作法がきちんとできること」「家事がきちんとできること」「たとえ貧しい暮らしであっても一本の花を添え、或いは庭先に花を育て、四季折々に沿った形をつくることができること」などである。(関連記事:「六義園と小石川植物園の散策(20091128)」)
2009年10月23日金曜日
若者たちのうっぷん晴らし(20091023)
日曜日の朝、20代の男女5、6名の群れが川の堤防の上の道で悪ふざけをして遊んでいる。マンションの部屋から見ていると彼らは何処からか手に入れて来たらしい氷の塊を堤防の下のコンクリートの道に投げつけて砕けるのを楽しんでいる。そして2、3人の男の子は堤防の上のコンクリートの道に寝そべって秋の日和を浴びて気持ちよさそうにしている。傍らに氷の塊を入れて来たらしい段ボール箱の切れ端など紙くずを散らしている。ジョギングをしながら傍を過ぎゆく大人たちは若者たちにちらっと目を遣るか無視している。
男はその様子を観察していて思った。彼らは何か日々の不満のはけ口がないのだと。女房は「小さいとき家に帰ってもお母さんが働きに出ていて家にいなかったり、パチンコをしに行って家にいなかったりで淋しい日々を過ごしてきた子たちだと思う。」と言う。高尾山に猿の群れの様子を観察できるところがあるが、その施設の人が「猿の社会でも優れた母猿から育てられた子供は成長して高い地位に就くと言っていた。この親にしてこの子あり、よく教育されていない母親に育てられた子供は、またよく教育されない。
チンパンジーやゴリラなどのオスたちは、「ディスプレイ」と言う示威行動をして、自分の優越性を他の猿たちに見せる。それは、その群れの一団のリーダーを脅かそうとする行動である。人間社会ではそれを集団で行う場合が多い。出来の悪い若者たちは群れを作って自分たちの存在を世に知らせようとする。
男は思う。どんな人たちでも何か優れたものを持っている。それを社会にアッピールできる仕組みが社会に沢山あると育ちの悪かった若者たちにもディスプレイをすることによって不満のはけ口を持つことができるのではないかと。そのキーワードは「多様性」である。アメリカのように沢山の人種から成る国では、いろんな遊びがあり、次々と新しい遊びが生み出されている。それらは日本にも入って来ている。しかし日本では自ら積極的に多様な遊びを開発しようとする動きが少ないように思う。確かにゲーム機やアニメなどは沢山ある。しかしそれは屋内で、独りで楽しむものが多い。日本は土地が狭いせいか屋外で皆が見ている前で遊ぶ施設は非常に少ない。
スポーツは、それをする人にとってある意味でディスプレイである。スポーツ選手になり大勢の観客が見ている前でディスプレイ出来る人は限られている。問題はそのようなスポーツ選手に成らなくても、皆が見ている前で誰でもディスプレイできる場所がないということである。都会の中でも良く考えて智慧を出し合えばそのようなディスプレイができる場所を作ることはできるのではなかろうか。人前でわいわいがやがや騒音を立てて誰でもディスプレイができることを、文化として広める動きを、政府として率先奨励するならば、良い智慧も生まれるはずだ。
男の長男は高校生の時アメリカ留学をしてその高等学校を卒業している。彼が留学の体験として男に語ってくれたところによると、アメリカでは出来の悪い生徒でも、何かで単位を取得して高校を卒業できるという。例えば陶芸をして単位を貰ったクラスメートもいたという。日本にはまだまだ一律性を強調する文化が根強い。多様性をキーワードにして落ちこぼれのない若者を育てるようにしなければならない。
男は堤防の上で悪さをしていた若者たちを非難する気持ちにはなれなかった。彼らが散らかしたものを後で拾って始末して置こうと思った。
2009年10月18日日曜日
老いれば時の移ろいの中に身を委ねた方がよい(20091018)
電車の中で男より年長と思われる男性がきちんとスーツを着込んで、床上に大きな黒い鞄を置いて、手に日本経済新聞を持ってドア付近に立っている。痩せ顔で鼻がとんがっていて唇は薄くへの字に閉じている。その男性が座席に座っている男をちらりと見て、にやりと笑った。何を思って笑ったのか男には理解できない。多分、「俺はこのようにまだ現役で働くことが出来ているのに、まだお若いお前さんは手に職もなく何処かに遊びに行くようだ。俺は偉いぞ」とでも思ったのだろうか。
隣に座っていた女房は「あの方は働くことが生き甲斐なのよ。働いて沢山お金を貯めて、死ぬ時は子供に‘有難う’と全部持って行かれるのだ」と言った。男はその男性のように働いて稼ぐ能力がないため、毎日日曜日のように過ごしているだけである。その代わり、その男性にはできないような生き甲斐を持っている。そして毎日あの世に逝くための支度をしながら時の移ろいを楽しんでいる。
人間年を取ると霊的になるようであるが、男も前世とか来世のあることを信じて、自分が生かされてきたこと、そして今なお生かされていることを感じつつ、もっと仏の道を学ばなければならないと考えているところである。
こういうとき夢窓国師の『夢中問答集』に出会えたことは大変幸せなことである。男はこの本をいつも携行して折に触れ読んでいる。今日読んだところに「祖意」について問答があった。「祖意」とは「誰でも具えている本体の根本」で、「初心の修学者は先ず第一に祖意(根本の意味)を会得するがよい。句のもとにじっとしていてはならぬ。昔の人も根本の中身が判ってから三十年、五十年と綿密に練磨して前世からの悪業の障害をかたづけることを長養(長く修行すること)の工夫と名づけている。長養がすっかり熟れてしまえば、これをば打成一片(一つに成りきる)という。こうなると自然にたくみな話しぶりの優れた働きも出て来るので、他人のためにつくす手立てもまた自由自在である。これを意句倶到(中身も表現もともにととのった)の人と言う」とその本に書かれている。
男はそのような立派な人には到底なれない。しかしこのような本を読み、仏教のことをいろいろ勉強し、少しでもそのような人になれるように努力したいと思う。男は決して豊かではないが、さりとて貧乏でもない。日々の暮らしは質素であるが、十分満ち足りている。足りないものは何一つない。女房も同じ心境である。これは明らかに前世からの縁である。その幸せに甘んじていると次の生れたときその生で苦しむことになる。従って仏法の勉強をしながら修養しなければならぬ。しかし男は修験者のような厳しい修行はしたいと思わない。そんな苦しみをわざわざ進んで行うことはしたくない。普通どおりの暮らしの中で楽しみながら仏道に励めばよいと思っている。古事に「厚く仏法僧を敬え」とある。そのことだけは大事に思って可能な範囲で実行したいと思っている。(関連記事「前世、今生、来世(20091001)」、「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/10/20091002-200909831-20090915.html
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2009年10月16日金曜日
「義務教育が危ない」、バラの写真をテレビで映していたとき見た番組(20091016)
今日(12日)男は女房に誘われて深大寺植物公園にバラの花を観に行った。それぞれ別のデジカメを使って撮った写真の善し悪しを比べることと昨年其処に行ったとき立ち寄った蕎麦屋に行って蕎麦を食うこと、そして併せて良く歩いて運動をすることが目的であった。
幸いお天気も良く、それぞれ沢山写真を撮った。蕎麦も美味かった。その蕎麦屋は公園から深大寺門を出て左手に行くとすぐ近くに「雀のお宿」と看板が出ている店である。中に入った所の右手にちょっとした小屋があって、去年は其処が空いていたのでその中で蕎麦を食ったが今回は先客が居て其処は利用できなかった。その代わり靴を脱いで縁側に上がったコーナーのテーブルで座椅子に座り足を投げ出してゆったりした気分でひと時をすごした。初めに何を食べるか注文して、それぞれ趣のある場所で空いている席を利用する方式である。女房はざるを男は胡麻だれをそれぞれ注文したが、美味しかった。
歩いた距離は約9000歩であった。女房は毎日朝晩新式の血圧計で自分の血圧を測り平均値を記録している。血圧計は平均値が出せるようになっている。記録簿には夜入浴後測っている体重や体脂肪値と一日の歩数も併せて記録している。最近男も女房が以前使っていて腕が締め付けられるため嫌がっていた血圧計を使って朝晩自分の血圧を測っているが朝は135/69位、夜は119/64位である。勿論15位高いこともある。女房も男も今晩は高かった。血圧は低気圧が近づくと高くなるらしい。男の血圧は普通であるが、女房は中血圧である。
いつものようにテレビにカメラを接続して今日撮ってきた写真を見た。今日は男が撮った写真が断然よく撮れていた。男は今回は花一輪だけを良く撮ることに集中した。女房の方は景色の方に集中した。写真の美しさから言えば花一輪だけを撮った方が綺麗であった。景色の方は桜花、柳、池、小屋などを入れた遠景を撮るならば美しく撮れるが、花だけを撮る場合テーマがはっきりせず単調なものになってしまうようである。
テレビに今日撮った写真を出して見ていて入力切り替えのためテレビにしたとき丁度「義務教育が危ない」という番組が放送されていたので、それを見ることにした。テレビには一部の貧しい家庭の子供たちが朝ご飯を食べずに学校に来たり、夕ご飯も食べずに過ごしたり、学校給食だけで一日を過ごしたり、習字の時間に使う筆や硯などの道具を買うお金がなく我慢していたり、熱があるのにお金がかかるから医者にも行けず学校に来たりしている状況、母親が子供に我慢させていることを悲しんで涙を流しながら訴えている状況が映し出されていた。女房は「可哀そうに」とぽつりと言った。男はこの豊かな日本の片隅でそのような状況を放置してきた旧政権に対し腹が立ってきた。
官僚の天下り先に14兆円もの金を使いながら一方で小学校6年間で僅か58万ほどしかかからない諸費用さえも考慮しなかった旧政権は、一体どこを向いて政治をして来たのかと怒りを覚える。男は現政権が国の安全についてしっかりとした考え方をしてくれさえすれば、後は政官業の癒着の解消のため大ナタを振るうことには大賛成である。
ただ、国の経営は優秀な官僚があってこそ可能である。優秀な官僚を確保するためには例えばキャリア官僚は「第1種特別国家公務員」とし、第2種は軍人(現行憲法下では自衛官)など、以下必要に応じ第3種等を決め、キャリア官僚たちが国のために良い仕事をし、成果を上げる限り生涯にわたり非常に高いステイタスが保障されるような仕組みにすべきであると思う。そうすれば天下りはさせずにすむと思うし、させてはならないと思う。
2009年10月9日金曜日
「助けて!」と言えず、39歳男性の孤独死(20091009)
男は昨夜あるテレビ番組を見て胸が詰まる思いであった。青年期に母を亡くしていた39歳失職男性が、学生時代に親しくしてくれていた同級生の母親に「おばさんの作った牡丹餅をもう一度食べたい」と言った。その女性はそれを作り重箱に詰めてその男性に渡した。その男性の顔色がさえず、痩せていたのでその母親は心配して「少し痩せたようだが」と言ったら、その男性は「大丈夫です」と言ってにこりと笑顔を見せ、礼を言って帰って行った。それが最後だった。その男性はとうとう食べ物もなくなり、遺書一通を残して自ら命を断った。遺書にはそれまでその男性がどうしても言えなかった言葉「助けて」という文字が書かれていた。その母親は自分の息子と同じ年のその男性と別れた時のことを思い出すたびに、「あのときもう少し話をしてあげれば良かった」と悔やんで涙ぐむ。
その男性は九州のある弱電メーカーで派遣社員ではあったが福利厚生などは正社員並みに扱われ、気持ちの上ではそのメーカーの正社員のつもりで働いていた。しかし不況で失職し、遂に会社の寮を追われ、ホームレスとなってしまっていた。その男性は高校時代まで故郷のある離島で育った。成績は常にトップクラスで将来は故郷からそう遠くない北九州で暮らしたいと思っていた。その男性は今は亡き母が漁業協同組合で一生懸命働きながら仕送りしてくれた学資と、学業の合間に居酒屋のアルバイトをしながら稼いだ金で何とか大学を出た。しかし当時は就職氷河期、なかなか就職はできなかった。
そこでその男性はアルバイトをしながら専門学校で学び、技術を身につけ、ようやくある人材派遣会社に就職することができた。そしてその会社から北九州のある大手の弱電メーカーの工場に派遣され、そこで働くことができるようになった。勤務成績も良く派遣社員ながらその工場である工程の作業チームのリーダーを任された。交際している女性がいて、いずれ所帯を持つ希望を抱いていた。その矢先失職したのである。
その男性が失職する5年ほど前、若いながら会社の社長になり、億万長者になりマスコミにもてはやされる人たちがいた。彼らは勝ち組と言われていた。その一方で負け組になりたくないと頑張る人たちがいた。その男性もその一人である。世界的不況でそうなったとはいえ、失職したのは自分に能力が足りなかったからだとその男性は自分を責めた。他人には自分が落ちぶれた姿を見せたくはなかった。インターネットカフェや公園などで野宿はしていても、常に身だしなみには気を付けていた。故郷にもう親は居ないが故郷の親戚には自分が失職したことを内緒にしていた。そして毎日ハローワークに通い、職を探した。しかし定まった住所がないため面接にこぎつけても、いつも初回で不合格となった。それでもその男性は何とか就職しようと毎日頑張った。他人に「助けて欲しい」という気持ちがあるが、どうしてもそれを口に出すことができなかった。「助けて!」という悲痛な叫びを遺書の中に一言残しただけであった。
男と女房にもその男性と年よりは4歳前後年上だが世代的にはそう違わない二人の息子がいる。お陰さまで二人ともそれぞれ一流の企業の中堅幹部としてばりばり働いている。男と女房の息子たちはたまたま運が良かっただけだとは決して思わないが、同世代の子供を持つ親として、その男性のことは可哀そうでならない。「助けて!」と周囲に言えない文化があり、自分たちもその文化を肯定してきたのではないかと反省もする。これからは不況で失職した40歳前後の人たちのことをもっと思いやらなければならないと思う。
2009年10月7日水曜日
子供たちが遊ぶところがない!(20091007)
東京の足立区のある公園で子供たちが歓声を上げて遊ぶのがうるさいと、近くの住民が訴え出て、区はその公園で子供たちが遊ぶのを禁止する措置をとった。男は、行政側は声を大きくして文句を言ってくる人の意見を取り上げてそのような措置をとったのか、ならば逆に親たちは子供たちの遊ぶ権利を主張して逆に‘声を大にして’ 訴え出ればよいのだ、と思った。
そこではもう何十年も続けて来た朝のラジオ体操の音もうるさがられているという。毎朝ラジオ体操をしている人たちはラジオ体操の音楽のボリュームを下げて秘かに続けているらしい。近頃都会では寛容さがなくなってきたと嘆く人たちがいる。
そこではもう何十年も続けて来た朝のラジオ体操の音もうるさがられているという。毎朝ラジオ体操をしている人たちはラジオ体操の音楽のボリュームを下げて秘かに続けているらしい。近頃都会では寛容さがなくなってきたと嘆く人たちがいる。
一方で、あるお家の人は、窓の外のシャッターの表面を指差して、子供たちがボール遊びをしてそのボールがシャッターに当たり、何か所か凹みができているのを指差しながら、昔はこんあことはなかった、子供たちの遊ぶ声も楽しかった、しかし、今は逆に苦痛を覚えるようになった、という。原因は町内に集合住宅が何か所かできて、その住宅の子供たちが遊びに来ているが、ご近所とのつながりがなく、害だけが目立つことにある。
ある町内では、わざわざスノーボード遊びができる場所を造り、その場所に各地からスノーボードを楽しむために人が集まる様子が放映された。町の人たちは初め、スノーボードに非常な不快感を持っていた。しかし、スノーボードを楽しむメンバーにリーダーが居て、根気よく町の人たちに理解を求め、ルールを決め、ルール違反を行えば、直ちにその場所が使用できなくなるというペナルティーの規則までつくり、それだけではなく、スノーボードのメンバーが町の人たちとその公園の清掃まで行っている。
NHKのある番組で、第一線の科学者や哲学者が「人間(ヒト)とは」という定義をしたことが放映されていた。ある方は「ヒトとは、他者の中に自分を見たがる動物である」と定義した。ある方は「ヒトとは、心的世界を持ち、それを他者と共有する動物である」と定義した。ある方は「ヒトとは、深読みをする霊長類である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、他者を通じて‘私’とは何か、を知る存在である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、自分を訓練する存在である。」と定義した。ある方は「ヒトとは、相手が心を持っていると信じることができる生き物である。」と定義した。
そう、ヒトは他者との関わりの中でしか生きて行けない存在なのだ。件の公園の騒音問題を‘騒音(そうおん)’ではなく、‘煩音(はんおん)’であると、NHKの番組である方が言っていた。行政に苦情を言ったり、裁判所に訴え出たりする前、誰かが動いてお互い話合うようにすれば良いのだ。行政も裁判所も、先ずその話し合いの仲介、橋渡しをすることが出来ない筈はない。そのような文化を導くことができる立場にあるのだから・・。
近頃、金儲けに走る寺や生臭坊主がいる。大乗仏教は、人々を仏の世界に導く立場だ。それなのにその役割を果たしているとは言えない。檀家も減ってお寺の経営もままならない状況になってきたのは、彼らが真剣に仏教を広めようと努力しないからだ。中には仏教の仮面をかぶって政治運動にも手を出した団体もある。そのような風潮が広まってきたのは、僧侶たちが団結して立ち上がらないからだ。『夢中問答』(夢窓国師)には、「今生で気が付かずに自らの罪業のため、真の仏法の修行をすることがない。行いによって次生に人間界に生を受けるか、畜生界に生まれる。」というようなことが書かれている。男は、皆心を素直にして、仏教を学んで欲しいと思う。
2009年8月13日木曜日
幼児の躾(20090813)
公共の場で2歳くらいの男の子がぎゃんぎゃん泣いてわめいている。その親は黙って取り合わずにいる。幼児がいくら自分の要求を通そうとしても聞き入れない。幼児は執拗にわめき続けている。男の女房がそれを見ていて「頬っぺたの一つでもひっぱたいてやればよいのに」と言う。男もそう思う。
その幼児は日頃家の中でも、自分の要求を通そうとして泣きわめいているに違いない。三つ子の魂は百までと言うが、善いことはよい、悪いことはわるいと善悪のけじめを三つ子の時からしっかりと植えつけておかないと、そのこどもが成長したときに親は苦労することになる。
女房は、「年取ってできた子供は格別可愛いものらしいよ。」という。男も若いころ叔父が50歳ころ出来た子供を可愛がっていたのを知っている。ある日その子供の名前を呼び捨てにして話していたところ、後でその叔父から電話がかかってきて何の電話かなと思っていたら「さっきお前は○○のことを、○○と呼び捨てにしたな。」と怒っている。男は血のつながった甥っ子であるので親愛の情をこめてそう呼び捨てにしていたのであるが、それがいけないというのである。その時女房は、「それはあなたが間違っている。○○君と呼ぶべきよ。」と言った。男もその時それはそうだな、と反省したものである。しかし一般に親が年をとって出来た子供は可愛いものらしい。
男も女房も子供の躾には厳しいところがあった。しかしお陰様で子供は委縮せずに立派に育ってくれた。それは善いことについて男も女房も大変おおらかに認めていたからであると思う。善いことには危険を伴うこともある。男は全く気にしていなかったが女房の方は子供が善い経験をするため万一命を落とすようなことがあったとしても、それは運命だと覚悟を決めているところがあった。先日男は初めて聞いて知ったことであるが、女房は息子たちがそれぞれ留学や遊学で海外に出るとき「これが今生の別れになるかもしれない」、と思って息子たちを見送ったそうである。女房は男が会社の研修でアメリカに行くときも空港でそういう思いをしながら見送ってくれたのであろう。
結局、子供が立派に育つかどうかは、父親よりも母親の影響が極めて大きいと実感する。近年女性が強くなって男性が女性の尻に敷かれている情景をよく見かける。そういう女性たちでも「子供を立派に育て上げ社会に送り出す」という、動物たちが本能的にやっているようなことができる女性であれば、立派な母親になれると思う。一方、父親たちも子供たちを育てるにあたり男は逞しく、女は美しく、という遊牧民的な野性的な理念を持っていれば子供は立派に育つと思う。
男はこの間自分の娘をあたかも自分の親友のようにして道を歩いている母娘連れを見かけたことがあった。「きっとあの母親は淋しいに違いない。」と言ったら、女房は「友達親子が多い。」と言う。近年子育てができない母親が多いようである。政府は育児経験者をボランティアとして募り、子育てアドバイザーにしたら良いのではないかと考える。
2009年8月9日日曜日
子供の躾(20090809)
これは男の女房の話である。女房が先日ある女子トイレに行った時、そこに4歳ぐらいの女の子がいた。その子は手を洗おうとして洗面台に手を伸ばし水道のコックを触ろうとするが手が届かない。傍らにいた女房を見てこのおばちゃんなら手伝ってくれると思ったのか、女房に訴えかけるような顔をしている。女房がその子を抱えて手を洗わせてやった。その後手を拭くペーパーボックスにも手が届かない。そこでまた女房がその子を抱えてやってその子に自分でペーパーを取らせてやった。
ところが、その子は女房に「ありがとう」の一つも言わずに去って行った。女房が外に出るとその子のおじいちゃんらしい人がベンチに座ってその子に何か話しかけている。そのおじいちゃんは女房を見たが何も言わなかった。
以上のような話を女房は男に話した。男は女房に言った。「その女の子に‘ありがとうは?’と言ってやればよかったのに。俺だったらすぐそう言うね。社会教育だよ。」と。女房は「それはそうだけど、その時唖然としてすぐには言えなかった。」と言う。男は「そのおじいちゃんにも一言言ってやればよかったのだ。‘子供に、ありがとうと言わせるようにして下さい’とね。教えざるの罪というものがあるのだよ。」と言ったが、女房は「私にはそんなことは言えない。何十年も生きてきた人間が今更変わるわけではない。」と言う。
件のおじいちゃんも女の子も言語障害を持っているわけではあるまい。ただ人に頭を下げて「ありがとうございました。」と言う習慣が身についていないだけなのだ。道にぽいと投げ捨てする人間も、行楽地の川に平気でゴミを捨てる若者たちも、皆悪い習慣を身につけているだけだ。つまりよい習慣について小さいときから誰からも教えられていないのだ。氏や生まれが悪いわけではない。生後の教育が悪かったのだ。電車やバスの中で「携帯電話は電源を切るかマナーモードにして周囲のお客様に迷惑にならないようにして下さい。」と繰り返し車内放送されるから、人々はその行為を自制しているのである。もし女性のマナーについて「社内ではお化粧はやめましょう。」と放送されるようになれば、そのような行為はなくなるだろう。
日本では公共の機関が公衆道徳について繰り返し呼びかけても、あまり非難の声は上がらない。わが国は日本国家として精神の背骨をしっかり確立し、日本人が昔から身につけている「他人に後ろ指をさされないようにする。」「名誉を重んじる。」と言うような秩序を大事に考えるべきである。日本人は日本人である。外国の、特にアメリカの悪いところを真似すべきではない。美しい日本、古い文化と伝統のある日本が一番である。
日本人はいくら洋装しようと、また世界の中で生き抜くため白人のような思考様式を身につけようとも、心の中ではちょんまげ姿で、着物を着、袴を穿き、腰に大刀を帯び、悠然と立っている姿のイメージが最も似合うのである。今の時代でも武士道の精神を身につけている日本人を欧米の心ある人たちは尊敬の眼で見るのである。心の中まで白人のように変わる必要はない。若者よ! 幕末から明治の父祖たちのごとく、真の日本人であれ!
2009年8月4日火曜日
年寄りの靴(20090804)
横浜のみなとみらいの象の鼻公園を老いた男が中年の女性のガイドに付き添われて楽しそうに会話しながら散歩している。その老人は若い人が好んで履くような格好の良いスニーカーを履いている。しかしそのスニーカーのかかとの部分が2、3センチも隙間があるようなぶかぶかの靴である。女房は「年寄ってあんなぶかぶかの靴を履きたがるのよね。履き易いのかしら。」と言う。
男は「そうだと思う。福祉用品の靴で、横でぱちっととめるような履きやすい靴があるよね。でも店で売っているものはどれも格好が良くない。メーカーは体が不自由になった年寄りの靴はそのような靴がよいと頭から決めてかかっている。しかし年寄りは若い人のような格好の良い靴を履きたいのだ。」と自分があのような一人では散歩できないような年寄りになったときのことを想像しながら、女房の言葉に応じた。
男はメーカーが若者が履くような格好の良いもので年寄りが履きやすい靴を作れば、多少値段が高くっても年寄りはその靴を買うだろう、年寄りの心理をよく汲み取った靴を作れば、年寄りは買うはずだ、とそのとき女房には話していた。しかし今これを書いているとき、男は自分があの老人のような年齢になってみないと、あの年齢の老人の本当の気持ちは分からないだろうな、と思っている。
2009年8月1日土曜日
なかなか大人になれない青年男女が多い(20090801)
私立大学は在籍学生数が減少するとその経営を圧迫する。某私立大学では中途退学者が3割を超える状況であるため、学生を大学に踏み止まらせようといろいろ苦心しているようである。その一つとして大学内に学生が夜遅くまで残っていて仮眠もできる部屋を用意している。学生の居場所を作るというわけである。また、大学の授業の中で3年後、4年後の自分の履歴書を想像して書かせるという。教員が学生に「これを書いてくれるかな?」と頼んでいる。男はそのテレビ報道を見て顔をしかめた。
昔はそんなことはなかったが、もう10年も前ごろから大学の入学式や卒業式に「わが子」の晴れ姿を見て自分もその雰囲気を共有したいと親が参加するようになっている。もう23、4歳にもなる青年男女の卒業式に親も出席する。もう18、9歳にもなる青年男女の入学式に親が同伴する。今の時代は子供が24、5歳になってやっと成人するということか。
高校卒業後すぐ就職したり、専門学校に行って生きる力を身につけたり、自衛隊や警察や消防などに就職したりする青年男女がいる一方で、まだまだ大人になりきれない青年男女がこの日本には沢山いる。特に女性は、もうとっくに結婚して子供を育てているべき年齢に達しても、いつまでもカワイイ女の子でありたがる者が多い。電車の中で人目もはばからず化粧をしている。尤も時々いい年のオバさんが、そのようなことをしている場面をみかけることがあるが・・・。
日本全国の青年男女の中で大人になりきっていない者はどのくらいの割合で存在しているか調査しているのだろうか。多分どこかの調査機関でそのような調査をしていると思うが、男はそのような未熟の青年男女は青年男女全体の数の3、4割はいるのではないかと思う。来月末衆議員議員の選挙が行われるが、立候補者の中でどのくらいの人が、次代を担う世代に潜在する問題を、問題として認識しているだろうか。
調査機関が発表する統計データを鵜呑みにするのは危険である。街頭を歩きながら、或いはテレビや新聞や雑誌の報道を大雑把に入手しながら、自分自身の感覚で状況を把握し、問題があるかないか判断することが大変重要である。その上で統計データを参照し、自分の判断が正しいかどうか判定すればよい。
男はそのような統計データを見ずに言うのであるが、親の庇護から離れられない大人が多いことは確かであると思う。親と同居していれば衣食住には困らない。親も身近に相談できるわが子が居れば安心である。そのような親子が我が国の全体の親子の5、6割はいるのではないかと思う。男の近くにもそのような親子がいる。
男が息子たちを育てていたとき、男の子は意志が強くて体が丈夫であれば人生を生き抜いて行くことができる、子供は塾に無理やり行かせる必要はないと考えてそのとおり実行した。男の女房も子供にはいろいろ経験させる、経験がいい勉強になると言ってそのとおり実行した。二人の息子たちには希望通り、高校や大学を休学させて、それぞれ1年間海外での経験をさせた。その間、息子が命を落としたかもしれない危険にも遭ったこともある。二人とも20歳前後のときに家から出て、列車を利用すれば1時間ぐらいで行けるところに住んだ。男と女房は、それぞれ家を出て一人住まいさせるとき、アパートの敷金、権利金、テレビ、冷蔵庫、エアコンなどの初期費用相当分を補助してやった。
上の息子は小学校4年のときからアルバイトをした。勿論親である男の了承なしには新聞店は雇わなかったが本人が希望するのである新聞店に雇ってもらい、数ヶ月間早朝の新聞配りをした。その後冬のまだ朝も明けやらぬうちから豆腐屋で働き、得た給金で男に冬の防寒着を買ってくれたことがある。高校生になって夏の暑い日に鉄工所で板金加工のアルバイトをしたこともある。男の家では子供にそのようなことをさせなくても十分豊かな暮らしが出来ていたが、男と女房は、子供の教育のためそのような経験をさせたのである。息子は高校2年の時カルフォニアの公立高校に留学したが、帰国後教育について書いた論文に「日本の教育は‘教’であり、アメリカの教育は‘育’である」という趣旨のことを論述してあった。男は息子のその論文を読んで非常に感心した。また「アメリカでは息子が18歳になると親父は息子にポイとボストンバッグを与え、この家から出てゆけ、と言う。」と話してくれたことがある。
下の息子は大学4年の時1年間インド、ネパール、パキスタン、中近東諸国、ギリシャ、イタリー、オーストリー、ドイツなどを独り旅して回った。インドでひと月ほど滞在していた。その間香港で知り合った韓国の画家と一緒に1日1000円前後の経費でインド国内を旅し、水が合わず下痢をし、インド人が進めてくれた治療薬で治ったこともあった。
トルコでドイツの青年と知り合い、その縁でドイツ南部のある町のその青年の家に泊めてもらった。ドイツからオーストリーのウイーンまでヒッチハイクで行き、そこから韓国まで飛び香港で知り合った画家の家に泊って数日間過ごし、ようやく日本に帰国した。その資金の多くは自分でアルバイトをしながら貯めたお金である。息子が旅行中の連絡はアメリカンエキスプレスカードの各国の現地事務所である。そこに手紙やちょっとした品物を送っておけば、事務所を訪れた息子が受け取ることができた。インドでは息子が求めてきたのでせっかく送ってやった味噌などが本人に届かなかったこともあったが・・・。
今二人の息子はそれぞれ26、7歳で結婚し子供ももち、それぞれ青年時代の経験が役に立って、それぞれ海外にもよく出張する大きな仕事を成し遂げている。特に上の息子はひと月の大半を日本や韓国の取引先の顧客と一緒に海外に出張しているような仕事をしている。男の父親も韓国で教職に就いていた。何か見えざる糸で繋がっているのだろうと思う。
男も女房も親として思い残すことは何もない。息子たちは男が自分の人生で出来なかったことを次々成し遂げている。男も女房もそれぞれ自分たちの人生に十分満足しきっている。一日朝が来て晩になり、また明日の一日を迎える。自然とともに、宇宙の運行とともに、余生を静かに送るだけである。それぞれ生かされ、天命の役割を果たした人生である。
人にはぞれぞれ天に与えられた役割がある。その役割は何か、若いうちに自覚することが重要である。それには人生の先輩からの教え導きが必要である。大河ドラマ『篤姫』の義父・島津斉彬や実父実母が篤姫を教え導いたように・・・。
2009年7月5日日曜日
今は昔の性(20090705)
小学校教諭だった男が27人もの女子児童の裸の写真を撮ってその写真をそれら児童に対する脅迫材料に用い、「ばらしたらこの写真を皆に見せるぞ」と脅し、女子児童に対する淫行の罪を重ね、懲役30年を求刑されたというニュースがあった。とんでもない野郎だ。テレビに映った件の男の写真は薄禿げ頭で、いかにもそのようなことをしそうな顔である。教職にある者としてあるまじきことをしてしまったとその男は反省しているようであるが、大人になるまでに形成された性格というものは決して変わるものではない。行動は変えることができるかもしれないが、その人が置かれた環境によってその人の性格が表に出て、同じ過ちを必ず繰り返すものである。性格は決して変わるものではないのである。
男は一緒にそのニュースを見ていた女房に「そういう奴は似たような性犯罪を繰り返すに違いないから強制的に去勢したら良い」と言った。事実かどうかはやぶさかではないが、男は実際にどこかの国でそのような手術が行われていると聞いたことがある。少なくともGPSの装着が義務付けられていて、行動が常に監視されるようになっている国はあり、日本でも検討されていると聞いたことがある。
去勢と言えば、昔中国では宦官といって去勢された男が皇帝に仕えていた。去勢されているから女官たちに何か色ごとをする能力はないし、皇帝が交わる女性との間にできた子を皇帝の実子であると認定することができたであろう。お茶の間テレビで人気のあった『篤姫』では、将軍と寝るときは衝立一つ隔てたすぐ隣に息をひそめている監視役がいたし、ものの本によれば同じ部屋で背中を向けて寝ている監視役がいたそうである。古代日本は中国からいろいろなことを学んだが、この宦官の制度と辮髪だけは真似しなかった。
人の心や営みは平安時代の昔から変わるものではない。男は田舎に時々帰るが、田舎の亡父の書棚の中から今東光が著した光文社の『今昔物語入門』と言う本を見つけ、持って帰った。それを読むとつい噴き出してくるほど面白い。男はその本があまりにも面白いので、書店に行って角川ソフィア文庫の『今昔物語集 本朝世俗部上・下巻』(佐藤謙三校注)を買ってきた。この本は現代語訳がないが、読むのにさほど苦労はしない。男は平安時代のことを知るために、この本をぼつぼつ読んでゆこうと思っている。
この本には性に関するよもやま話が書かれている。上は皇族から下は庶民にいたるまで、いろいろな話が出てくる。「今は昔云々」と始まる語り草には人の名前が実名で出てくるから上流階級の人も話題に上っており面白い。男が噴き出した話の一つは、巻第二十六の「東(あずま)の方に行く者、蕪(かぶら)をとつぎて子を生みし語」である。
この話は要するにある男が京から東国に出張で出かけるとき女体のことを妄想し、どうにもならなくなって通り筋の大根畑に入り、蕪を一つ引っこ抜いて刀で穴を開け、その穴に致した後その畑の中にぽいと捨てたのであるが、後日その畑の持主の娘がそれを拾って食べたらお腹が大きくなり赤子が出来てしまった。心当たりが全くないのに起きたことなので仕方なしに育てていたら、件の男、その畑のわきを通りすぎるとき従者にかつて自分がどうしようもなくて致したことを話しているのを娘の親が聞いていてはたと思い付き、娘にできた子の父親が認知され、めでたしめでたしとなったという話である。
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