2015年5月28日木曜日

フォルダー内の一連のファイルが乗っ取られた!


 デスクトップのあるフォルダーに入れてあった一連のファイルが何者かに乗っ取られた。元のファイルの名前はそれぞれ異なっているものであったが同じカテゴリーのファイルであった。それらのファイルの名前が全部同じ名前に変わっていた。セキュリティソフトを起動させ、システムの完全スキャンを行ったが何も異常は見つからなかった。もし名前を変えられたファイルを開けばウイルスがコンピュータの中に侵入してしまう恐れがある。そこでそのフォルダーをそのまま削除した。そのフォルダーは外付けのハードディスクに保存してあったものをデスクトップにコピーして、その中に作業したファイルをその都度追加していたものである。

そのハードディスクは必要の都度コンピュータに接続している。従い、そのハードディスク内の当該フォルダーの中のファイルには被害が及ばずに済んだ。デスクトップで被害を受けたフォルダー内の各ファイルは、そのハードディスクに記憶させてあるパスワードのコピーに関連している。そこでそのパスワードを共通の情報として、ファイルの名前の書き換えが外部からの遠隔操作で行われた可能性がある。

 実はデスクトップにコピーして置いてあったフォルダーに新たなファイルを追加する前に、セキュリティソフトをupdateし最新の状態にしていた。セキュリティソフトのタスク状況を確認すると「権限のないアクセスを遮断しました(プロセストークンを開く)」というメッセージが非常に多い。このコンピュータではMcAfeeを使っていないので、googleupdateと衝突しているらしい。これは放置しておいてもよいらしい。しかし上記の被害となにか関係があるのではないかと思っている。

 もし新手のウイルスがその原因であるとすれば、このコンピュータのOSを入れ替える必要があるが面倒である。このセキュリティソフトは信頼できるものであると思うので、それほどまで対応しなくても良さそうである。


 これまでこの国の行く末を案じる記事を沢山投稿してきたが、今回上記のような被害を受けたことを契機にそのような記事は今後一切投稿しないことにした。その理由は後2年で傘寿となる齢になったので、自分の最期に向けてエネルギーを傾注しなければならない事があるからである。この度の事は本当に良い機会となった。「誰に」というのではないが、「ありがとう」と言っておこう。

2015年5月8日金曜日

コメ ――― 生産・精米・販売のシステムを大改革すべきではないのか? ―――


よく利用しているスーパーマーケットでコメを買った。従来、我が家では九州の田舎から贈答の返礼の意味も込めて親戚の農家からコメが送られてくる。老夫婦二人暮らしだとその消費も僅かなので、送られて来たコメの半分以上は遠隔地に住む子供たちにおすそ分けして送っている。農家が作ったコメは驚くほど安い価格で引き取られている。ところが都会地の消費者は価格が高く、しかも美味しくないコメを食べさせられている。

そのスーパーマーケットで買ったコメは特別栽培米コシヒカリ4kgである。原料玄米は滋賀県認証品で「環境にこだわり農産物」と表示がある。精米年月日は「15.04.04」と表示されている。兵庫県の神戸には大手の精米業者がいるらしい。東北各県のコメもいったん神戸まで運ばれ、神戸で精米されて市場に出されているようである。

コメ生産農家は作ったコメを採算が合わない低価格で売っている。運送業者・精米業者・卸売業者などが中間利益を確保していて、そのしわ寄せがコメ生産農家と都会地の消費者に来ている。この現実をジャーナリズム・マスメディアは大いに問題にすべきである。有名芸能人たちの恋愛・結婚・離婚などのゴシップなどにうつつを抜かすようでは情けない。

そのスーパーマーケットで買ったそのコメには白化したコメが2割以上混じっているようである。これがそのコメの品質を下げている。精米段階で古米や低級のコメがブレンドされていると疑わざるを得ない。我が家に田舎から送られてくるコメはそのようなことはない。白化されたコメはほとんど混じっていない。炊き上げるととても美味しそうな香りがしていてキラキラ光っている。老夫婦二人で消費するコメの量は僅かなので、今後はそのスーパーマーケットではコメを買わないことにした。美味しいコメの生産地で精米されたコメを直接買うことも選択肢の一つとするつもりである。

コメ生産農家も汗水たらして働いて作ったコメを安く買い取られないような工夫をするべきである。テレビである大規模農業会社がコメの代わりに家畜の飼料を生産している様子が映し出されていた。コストが安いからと言って農薬に汚染された飼料を輸入して牛に食べさせると、その牛の肉の中に有害な物質が含まれるのではないか?家畜の飼料を日本国内で生産すればその点安心感はある。ただし家畜の飼料とする穀物の生産に関して農薬や除草剤の使用基準が定められているのだろうか?

一方、発想の転換も必要である。この地球上に降り注ぐ太陽のエネルギーは約3.85×1018MJ(メガジュール)であり、そのうち約0.1%が植物によって吸収され、植物内に固定されているという。そのエネルギーの総量は世界のエネルギー需要の10倍弱にあたるそうである。これは相当なエネルギー量である。ブラジルではトウモロコシからバイオエネルギーを得ている。農地を効率の良いバイエネルギーを生み出す土地に改造できないものか。

コメの生産地で協同して精米工場を所有し、インターネットを利用して全国の消費者のニーズにあった白米を売るようにする。生産者と消費者を直結させる仕組みを作る。古米や品質の悪いコメを良いコメにブレンドしていながら、例えば「環境保護に貢献している」というような宣伝文句・美辞麗句を並べたて消費者をだましている悪質な精米業者や大手の小売業者がいるとすれば、そのような画期的な仕組みでそれらの悪徳業者を締め出すことができるだろう。


こういうことは農林水産省がやるべき仕事であるが、農林水産省はかつての農業政策で余ったコメの処理に悩んでいることだろう。もし、そのような事実があるとすれば、という疑いの目で言うことであるが、天下りや利権が働いていて、消費者が美味しいコメを比較的安く手に入れることができないことが黙認されているではないのか?農耕地の有効利用について農林水産省・経済産業省・環境省の三省が合同して日本の食料・エネルギー・環境保護政策を推進するべきである。ジャーナリズム・マスメディアにはもっと正義感をもって社会に潜む問題点を洗い出してもらいたいものである。

2015年5月6日水曜日

農耕集団の子孫と二丁拳銃のカウボーイの子孫の握手


 司馬遼太郎の『街道をゆく3 陸奥のみち 肥薩の道』を読んで感じたことがある。我々日本人は彼が言うように弥生式農耕を身につけた農耕集団の子孫である。農耕集団の子孫である日本人は昔から環境に対する適応性に非常に富んでいた。その適応性は人間関係においても国際関係においても発揮されている。

 放送大学で『植物の科学』という科目を学んでいる。そこで知ったことは、「植物は簡単な化合物から複雑な化合物を合成することができるが、ヒト(人間)を含むすべての動物は、植物が行っているそのようなことはできない。従って動物は植物を食べることによって、或は他の動物を食べることによって必要な化合物を得て生きて行くことができる。

 植物は炭素・水素・酸素・窒素など16種類の必須の元素がないと生きて行けない。それらの元素のうち植物が沢山必要とするが土壌の中では不足しやすいものが窒素・リン・カリウムの三つの元素である。リンはリン鉱石から作られるが、経済的に採掘可能なリン鉱石は遠くない将来この地球上では枯渇するであろうと予測されている」ということである。

 植物内に寄生する微生物を利用して植物の生育に必要な窒素肥料やリン肥料の使用量を減らす技術、同様に植物内に寄生する微生物を利用して、害虫にとっては毒素となるものを作らせて農薬の使用量を減らす技術、遺伝子技術を用いて乾燥に強い作物を作る技術など、農業に関する技術の研究開発が活発に行われている。そのような研究開発は自国のみならず後進国の発展のためも役立っている。

 先進国ではそのような技術の研究開発に関する情報ネットワークが発達し、なおもそのネットワークの進化が進んでいる。それは脳の神経回路が発達を続けているような状況に似ている。ある環境の状況に適応するため情報ネットワークが発達する。脳の神経回路も環境に適応するため発達する。環境への適応は日本人・日本国が最も得意としていることである。

 他人の言動に一喜一憂し、感情的になって他人を非難し他人を見下げることを言ったり行ったりして溜飲を下げ、自己満足することに自分のエネルギーを費やす人がいる。しかし理性的になって物事の真実を知る努力、生きるために必要な能力を高める努力をして世の中のためになる物を新たに創り出すことにエネルギーを費やすことのほうが、その人を幸せにする。そのような人は尊敬される。他人のことが気になって仕様がない人は自己満足を得るため多くのエネルギーを消費している。そのような人は尊敬されない。

 国家も同じである。日本は他国の言動に振り回されてはならない。ただし日本は理性的に、論理的に、静かに、穏やかに、あらゆる機会を通じ、あらゆる方法を用いて日本の正しさを示し続ける必要がある。方法の一つに「武士が腰に差している日本刀」がある。それは滅多に抜くことはないが、抜けば相手を切り倒すことができる武力のことである。従来、日本人には謙譲の美徳があり、相手は自分のことを分かってくれていると思いがちである。しかし現代の社会ではそのような美徳は通用しない。国際社会でも同様である。

 日本国憲法の前文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しようと決意した」とある。しかし、日本をとりまく環境に「諸国民の公正と信義に信頼」することができない国々が存在していることは事実である。この前文は理念として残されてもよいが、憲法改正の際には日本が存続してゆくための理念となるような文言が憲法前文に書き加えられるべきである。


 日本は血みどろな戦いをした相手であるアメリカと和解し、日本とアメリカはお互い最も信頼し合える関係となった。これも国のため死んだ吉田松陰が生きていた江戸幕府末期のころからの日本とアメリカの関係があったことが非常に大きく影響している。『武士道 Bushido—Soul of Japan』を著した新渡戸稲造、同志社英学校(現在の同志社大学)を創設した新島襄、女性の教育のため女子英学校(現在の津田塾大学)を創設した津田梅子らは、幕末から明治の初期にかけてアメリカで学んでいる。農耕民族の子孫は2丁拳銃のカウボーイの子孫としっかりと手を組んだのである。映画『THE  LAST  SAMURAI の最後のシーンのように・・。

2015年5月1日金曜日

20150501日本人の「道(どう)」の精神


 日本には武士道がある。日本には剣道・柔道・空手道・合気道・居合道・薙刀道・弓道・相撲道など日本発祥で、かつ日本古来の伝統武道がある。日本には華道・茶道・香道などの日本発祥・古来の「道(どう)」文化がある。日本には琴・尺八・歌舞伎・能楽・狂言・人形浄瑠璃・神楽・舞踊・盆踊り・小唄・都々逸・講談・落語・浪花節・漫才・吟剣詩舞・詩吟など日本発祥・古来の伝統芸能がある。これもそれぞれの芸能「道(どう)」の文化である。

 「○○道(どう)」と呼ばれるいろいろな修業・鍛錬の道は古来日本人が名付けたものである。「道(どう)」とは、上述のようなそれぞれの道(みち)を通じて、その道(みち)において「自分自身の技術・能力・知識・人格・品格などを高め、自分に関わる他者との間で、「形が有る状態」或は「形が無い状態」で「共に生きる」道である。たとえ修業・鍛錬の道(みち)において自分に関わっていた他者が居なくなっても、自分はその居なくなった他者とともに依然として生きている道(みち)、それが「道(どう)」である。道(みち)を「道(どう)」と呼ぶとき、それは非常に高い精神性を帯びる。

 ちなみに韓国の国技であるテコンドーまたは跆拳道(たいけんどう)は空手に起源がある。その空手はもともと明治初頭の頃の沖縄で、手(て、琉球方言でティー)もしくは唐手(とうで、琉球語でトゥーディー、トーディー)と呼ばれていたものである。唐手とは中国から伝来した拳法である。沖縄の「空手」はその後「空手道」として日本の「道(どう)」文化の大きな柱の一つになったのである。

 日本人は、特に日本の若い人たちは、自分たちの先祖・父祖が築いた日本発祥の日本古来の伝統文化について学習し、外国人に説明ができるようになるべきである。日本人が自国の伝統文化についてよく知るということは、日本という国家がどのように進化しているかということを知ることでもある。日本人は戦後何を失い、何を得たのか、失ったものの中に取り戻さなければならないものは何なのか、得たものの中に棄てるべきものは何なのか、よく考えなければならない。日本人は自らの伝統文化についてよく知れば、何を取り戻し、何を棄てるべきかの判断基準を得ることができる筈である。

 日本には「道(どう)」の文化がある。それはその「道(みち)」に根差した精神的なものである。大工にも大工道がある。左官には左官道がある。ラーメンは日本で起こった文化の一つであるが、一杯のラーメンでもそれをいかに美味しいものにするかはその食堂のラーメン職人の腕次第である。ラーメンの修業者には「ラーメン道(どう)」という修業の道(みち)があると言える。何事でもその道(みち)一筋に精進した者は称賛され、その中でも社会に対して特に顕著な功績があった者に対しては天皇陛下から褒章が授けられる。

 日本人が工業分野で独創性を発揮し、他人が真似できないような物を開発し、他人が真似できないような品質の製品を作ることができるのは、日本の伝統文化と無縁ではない。日本人がものづくりの現場・工事の現場・作業の現場において他人に批判されないような仕事をするように心掛けるのは、日本の伝統文化と無縁ではない。

 直感的には、日本人の「道(どう)」の精神は究極のところ天皇という一点に収斂されると言えるだろう。ただしそれは天皇への崇拝という意味では全くない。日本という風土の中の精神は本人が自覚していようといまいと、「日本一家の一員」であることに根差すものである。その「日本一家」の中心に「天皇」という抽象的かつ具象的な存在がある。そういう意味で上記のように「収斂される」と言えるのである。世の中にはそのような観方を批判する人たちがいるだろうが、世界には頭で考えても完ぺきに把握できず、一点の批判も受けないように完ぺきに説明できないようなことがある。日本人の「道(どう)」の精神はそのようなものである。

 人は何事においても「道(どう)」を実践しなければ、その精神を体得することができないものである。ヨーロッパ人でその「道(どう)」を実践して、その精神を体得した人は沢山いる。中には師範になって逆に日本人にその「道(どう)」を教えている人も何人かいる。特に日本の国技である相撲においてはアメリカのハワイ出身の力士やモンゴル・ヨーロッパ・ロシア・エジプトなど出身の力士が大いに活躍していて、横綱・大関に昇進し、その後親方になり後輩の日本人の力士たちを指導している人たちがいる。彼らは日本人以上に日本人的である。

 欧米人の間には日本の伝統武道に親しむ人たちが非常に沢山いる。オリンピック競技種目になっている柔道は別にして、左欄YOUTUBE動画にあるように合気道や空手道に親しむ欧米人は多い。特に「道(どう)」の精神について、日本人と欧米人の間で共通の認識が得られているのは何故なのか。日本人、特に日本の若い人たちはそのことについて一度考えてみるべきである。