2010年9月30日木曜日

母・ともゑ (20100930)


  日本が戦争に敗れた時から、朝鮮にいた日本人と韓国人の立場が変わった。朝鮮にいた日本人の教師たちはそれぞれ朝鮮での勤務履歴を証明する書類を貰い、日本に引き揚げた。信輔の父・一臣は9月末、帆船で引き揚げてきた。引き揚げの船を待つ間、引き揚げ者達は須美子が語ってくれたように、釜山に造られたテントによる臨時の収容施設で暮らしていたのであろう。信輔は父・一臣から帆船で引き揚げてきたということ以外、何も聞いていない。しかし当時36歳であった一臣は、他に引き揚げ者が多かったので汽船には乗ることはできなかったらしい。元気な者は帆船などで引き揚げてきたのだと想像する。

  信輔は息子が韓国に事務所がある会社に勤めていたとき、妻・幸代とともに韓国旅行をしたことがある。そのとき、信輔は終戦前まで住んでいた醴泉に行き、当時の醴泉国民学校を訪れてみたいと思った。信輔と幸代は息子が韓国人の同僚と一緒に案内してくれて醴泉まで行くことができた。しかしその時当時の国民学校が何処にあったのかよく調べていなかったし、柳川という名前が付いている小学校であるということも事前に調べてもいなかったので、当時の柳川国民学校を見つけることはできなかった。しかしそれらしい小学校を見つけることはできた。それは当時の柳川国民学校に良く似ていた。その小学校は門を入って左側に住宅があり、校庭の左手に台地があった。台地には果樹は植えられてなかったが、小さな樹が並んで植えられていた。右側は山地であった。住宅は日本風の建物ではなかった。何か倉庫のような形をしていた。

    その小学校ではたまたまその日は休日であったに関わらず何か催し物の準備が行われていて、校長先生も教頭先生もおられた。信輔たちはその小学校の戦前の古い写真集を見ることができた。集合写真の中央にいる人は日本人の校長であるに違いない。写っている子供たちも戦前の日本の子どもたちと全く変わらない。坊主頭で皆しっかりした引き締まった顔つきをしている。韓国人先生方も含まれていたに違いないが、皆同様の顔つきである。

    校長室に案内されて、校長が歴代の校長の名前が書かれている掲示板を示してくれた。それは校長室の壁に掲げられていた。歴代校長は昭和20年9月まで、伊地知某などの日本人の名前が書かれていた。10月からはハングル文字の名前が書かれていた。日本人の名前の中に信輔の父の名前はなかった。旧柳川国民学校はもうなくなっているのかもしれない。

    終戦後9月まで、信輔の父親もその学校に残っていたのかどうかは今となっては確かめようもない。いずれにせよ、信輔の父・一臣は終戦後すぐには引き揚げることができなくて、9月末になって引き揚げてきているのである。

 

  戦後、小学校の教員の給与は米1升分程度だったらしい。一臣は父親、つまり信輔の祖父・又四郎の家に居候していた。妻、つまり信輔の母・ともゑが乳がんを患ったこともあったし、すぐには教職に復帰することもできなかったのであろう、一臣は又四郎に対して肩身の狭い思いをしながら実家の農業を手伝ったり飼っていた牛の世話をしたりしていた。

2010年9月29日水曜日

母・ともゑ (20100929)


    そのような確固たる考え方もなく、日本人はA級戦犯として処刑された人たちを、その処刑された人たちによって戦地に送られ命を失った人たちと同じ処遇で靖国神社に祀ってしまった。その結果、未だに日本人はアジア、特に中国や朝鮮半島の人たちから誤解され続けている。「すまなかった」と頭を下げ続けている。

    戦前の日本に反感を持つようなことがあったため、反日的になった韓国の初代大統領・李承晩は第4代国王となった世宗の兄・譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君は李氏朝鮮の第3代国王・太宗((1397年-1450年)の長男である。この太宗は初代国王李成桂の五男で本名を李芳遠(イ・バンウォン)という。初代国王李成桂は女真族であったという。

  女真族は満州族と言われる種族で中国の清王朝を建てた。その女真族は寛仁3年(1019年)3月27日、船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島民を殺害し放火をして暴れまわっている。国司・対馬守遠晴は島から脱出し大宰府に逃れた。

  女真族の賊徒は對馬に続いて壱岐を襲撃し、老人や子供を殺害したうえ壮年の男女を船にさらい、人家を焼きはらい牛馬など家畜を食い荒らした。知らせを聞いた国司の壱岐守・藤原理忠はただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向ったが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまった。

  賊徒はその後筑前国(現在の福岡県)怡土郡に襲来し、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を散々荒らし回った。これに対して大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。

  この事件は、蒙古人の元(当時の中国)が、自ら支配していた朝鮮半島で船を造らせ、鋼線半島の人々を兵士として雇い、北九州に来襲した事件の250年ほど前の事件である。当時女真族の国は「刀伊」と呼ばれ、その事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。

  日本と中国大陸・朝鮮半島の間には古来ずっと緊張関係が続いて来ているのである。そのことを東京裁判の結果魂を抜かれた日本人は忘れてしまっている。鳩山元総理や小沢元幹事長などは、そのような歴史観もなかったため、この日本国を今危うい状況に陥れてしまっている。彼らは今この危機のとき、国の為何か一つだに役に立とうとはしていない。



    戦前戦後を通じた諸状況の推移のなか、「朝鮮」という語は韓国の人たちにとっては日韓併合を許した李氏朝鮮を想起させるものとして好まれない語となっている。1948年(昭和23年)、李承晩大統領による大韓民国樹立後は、「朝鮮人」は「韓国人」と呼ばれるようになった。従いこの書では今後「韓国」という語を用いる。

    須美子が語ってくれたことによると、須美子は日本の敗戦直後は韓国人の同僚たちから暖かい心で接して貰っていたということである。しかし帰国に際し釜山で船を待っている間の2週間、須美子ら引き揚げ者は集団でテント暮らしをしていたということである。

2010年9月28日火曜日

母・ともゑ (20100928)


  日本が韓国を併合していた時期の歴史は、後の世には日韓両国民によって、左右両極端に偏ることなく、正しく認識されるようになるであろう。信輔が記憶しているように、終戦間際一臣たち一家もそれが暴徒に対処するための訓練だったのか、実際に暴徒がやってきたのか定かではないことが起きていたし、一臣もピストルを渡されていたような緊迫的な状況があったことは確かである。実際信輔の同級生は男装して引き揚げてきている。

    インターネット上には総督府の命令に背いてまで朝鮮人の子供たちの親代わりをし、その深い子供たちに愛情を注いできた日本人の一家が、戦後の混乱期に無残な方法で殺されたという記事が出ている。両親を殺され飢えで死んだ娘・ひみこは哀れだった。

  明治維新後近代国家として歩み始めた日本は、幕末から明治維新後の国際情勢の中で、欧米・ロシア列強に伍し自立自存のため必死に頑張ってきた。武士道精神を楯にして、国際信義を守り、国家間の正式な取り決めを交わしながら、自衛の為、アジア諸国の自立と共栄という大義のため、日本は孤軍奮闘してきた。

    その状況の中で国際コミンテルンによる謀略工作があり、日本はずるずると戦争の深みにはまり、結果として東京裁判で日本は侵略国家の烙印を押されてしまった。その結果、日本人は自分たちの父祖が流した血に目をそむけ、自虐的史観に陥ってしまった。現在70歳代前後になっている人たちは、自分の父祖たちが命をかけて行ってきたことを否定し、東京裁判の結果にまともに批判の目を向けようとはしない。

    その一方で、戦後生まれの世代の人たちの中には反動的に右翼の思想に共鳴する人たちがいる。物事の両極端に正義はない。あるのは私心・私利・私欲だけである。今に至る歴史の中で日本は蟻地獄にはまったように苦しみもがき、結果的に310万もの犠牲者を出してしまった。その中には原子爆弾やB-29による無差別爆撃で死んだ何10万人という一般市民も含まれている。自らそのような犠牲者を出す一方で、日本はアジア諸国の人々にも多大の苦しみを与えてしまった。

    もし、中庸でことを納める知恵があったならば、そのような悲惨な結果になる前に日本は蟻地獄から抜け出すことが出来ていたかもしれない。当時の日本の指導者たちにはそのような力量が足りなかったのである。

    東京裁判でA級戦争犯罪人とされた人たちは、1100 万人ものユダヤ人を毒ガスで殺したナチスドイツの戦争犯罪人と同じような扱いで処刑されてしまった。本来ならば彼らは日本だけではなく、日本が統治していたアジア諸国にも多大な苦しみを与えたという結果の責任を問われて然るべきところである。しかし戦後日本の知識人たちはそのことに無関心であった。それだけではなく同胞の日本人に自虐的史観を植え付けることに熱心であった。

    東京裁判で日本がアジア諸国を植民地にするため侵略したという構図が造られてしまった。しかし日本人が行ったことは「統治国と被統治国の間の契約により‘統治’した土地」を統治したのであって、欧米人の概念にある「植民地」を造るため侵略したのではない。

2010年9月27日月曜日

母・ともゑ (20100927)


    1952(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩は海洋主権宣言を行い韓国政府は一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を設定した。韓国政府はこのラインの韓国側に日本の固有の領土である竹島を勝手に含めた。

    韓国政府は海洋資源の保護のためと称してこのラインの内側の韓国付近の公海で、韓国籍の漁船以外が漁業を行うことを禁止した。その本当の狙いは韓国で獨島と称する竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説もある。

  韓国政府は一方的に宣言した海洋主権宣言に基づき、これに違反した日本の漁船を臨検し、拿捕・接収した。逃げようとした日本の漁船を銃撃し、船員が殺害されるという事件も起きた。1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いた。1965年(昭和40年)、日韓漁業協定の成立によってラインが廃止されるまでの13年間に韓国が抑留した日本人は3929人、拿捕した船の数は328隻であった。死傷者は44人を数えた。

  李承晩の政府が日本と韓国の間の公海上に、国際的慣例に照らしても違法な軍事境界線を設置し、またその境界線内に日本の固有の領土・竹島を編入したことについて、日本とアメリカ両国の政府は韓国に対し「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。アメリカ政府は竹島をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、及び李承晩ラインの一方的な宣言は違法であることを韓国政府に伝えている。このことは1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書にある。

  竹島は江戸時代から日本の支配が及んでいた島である。韓国の史料の史料に照らしてみれば、竹島は位置的にも島の大きさからも、韓国が竹島を自国の領土と言うのは全く不当である。竹島問題は日本と韓国の間に突き刺さった厄介なとげである。

    竹島問題は、1963年(昭和48年)、李承晩退陣後日韓両国の思惑・相互利益のため棚上げされた。1970年以降突然、尖閣諸島を自国領土と主張するようになった中国も日中両国の思惑・相互利益の上で、中国としては「尖閣諸島は歴史的にも中国固有の領土であるが、棚上げしている問題である」と国際的に印象付けようと考えているのかもしれない。

    韓国第2代大統領・朴正煕は、自国(韓国)の工業化を進めて国を富ませ、南北朝鮮の統一のため資本と技術を他国に求める必要があった。そこで目を付けたのは日本であった。日韓両国の思惑と相互利益のため、竹島問題は棚上げされた。しかし、竹島は韓国により不法に占拠されたままの状態が現在までも続いている。


    国際関係の歴史の狭間で一臣とともゑはそれぞれ人生の一時期、それぞれ一個人として韓国社会に深く関わった。二人は教育という分野で、韓国の子供や青年たちに一定の影響を与えた。それが良い影響であったか、悪い影響であったかの評価は今後の歴史の中で評価されるであろう。すべての物事には正反両面あり、ある時期に‘正’とされ続けてきたことも後世にそれは‘反’であったと認められるようになるものである。

2010年9月26日日曜日

母・ともゑ (20100926)


  ともゑは昭和13年(1936年)3月末から昭和20年(1945年)8月末までの7年間余り、後に大韓民国となる南朝鮮の慶尚北道で暮らしていた。南朝鮮に大韓民国が正式の発足したのは3年後の1948年8月15日のことである。当時南朝鮮では多くの反対を押し切って3ヶ月前の5月10日総選挙が実施され、李承晩氏を初代大統領とする大韓民国が樹立された。その萌芽は既に1919年(大正8年)、彼が上海で亡命政府・大韓民国臨時政府を設立したときに始まっている。李承晩氏は1940年その活動の拠点を重慶に移している。

  大韓民国の‘大韓’は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称、「韓」に由来している。明治28年(1895年)4月17日に山口県の赤間関市(現在の下関市)で日清戦争後の講和会議が行われた。この講話会議の結果、日清講和条約、通称下関条約(中国では馬関条約)が締結され、締結後李氏朝鮮の第26代国王・高宗(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)は清国(当時の中国)の柵封支配から離脱することができ、大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)となった。しかし大日本帝国による大韓帝国併合後、高宗は大日本帝国の王族となり、徳寿宮李太王と称されるようになった。

  李承晩が日本に反感を抱くようになった根本の原因は、日韓併合前後の諸状況の中で起きた日本と韓国との間の確執にある。李氏朝鮮時代末期の1898年(明治29年)、李承晩は李氏朝鮮の親ロシア派政権によって捕えられ、李氏朝鮮が大韓帝国になってからの1904年(明治37年)まで獄中にいた。しかし同年2月8日、日露戦争勃発により釈放された。

    日露戦争は三国干渉および北清事変後満洲を勢力圏としていたロシア帝国の朝鮮半島への南下を防ぐことを目的とした戦争であった。三国干渉とは、明治28年(1895年)の下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が明治28年(1895年)4月23日に日本に対して行った勧告のことである。

    この戦争後、当時の力関係は別として大日本帝国と大韓国帝国との間に取り交わした議定書や第1次から第3次までの協約をベースに、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が日韓の間で成立し、日本は合法的に韓国を併合している。

    日本による韓国併合の前、当時の大韓帝国の政権は日本が軍事・外交・経済総ての面で大韓帝国に浸透してゆくことに危機感を抱いた。そのため1904年(明治37年)李承晩を釈放し、アメリカに派遣し、アメリカの援助を求めようとしたのである。

    李承晩は時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出した。しかし、ルーズベルトは請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。このため李承晩は駐米韓国公使館に赴いた。

    しかしそこはすでに日本が押さえており、李承晩によるルーズベルトへの要請は失敗に終わってしまった。彼は日本が大韓帝国を併合後ハワイ滞在中、朝鮮の独立運動に携わり、上海で亡命政府を設立し、昭和20年(1945年)の日本の敗戦を契機に大韓民国を設立した。

2010年9月25日土曜日

母・ともゑ (20100925)


  女学生たちが持っているお握りはそれぞれ2個づつであった。女学生たちはお握りを食べ始めた。そのときちらっと信輔の様子を見た女学生の一人が、お握りを1個信輔に分け与えてくれた。するともう一人の女学生が1個信直に与えてくれた。信輔たちは頭を下げ、女学生たちに顔を向けて丁寧な言葉で「有難うございます」と礼を言った。女学生たちはにこっと微笑んだ。その様子を傍で見ていたともゑは、「御親切に、有難うございます」と礼を言い、信輔たちに「よかったね。このご親切を決して忘れないようにね」と言った。信輔たちは頂いたお握りを両手で持ち、母親の顔を見ながら「うん」と頷いた。

  信輔たちは美味しそうにお握りを食べていた。ともゑはその様子をじっと見ていた。先ほどまで憂鬱であった気持ちも晴れて、手提げ鞄の中からビスケットを取り出し、富久子に与えながら自分も口にした。

  汽車は別府に到着した。ともゑ母子は別府にある借家に向かった。その借家は前々から確保されていたもので、昨年、昭和19年の初冬、幸雄の祝言の時帰ってきたときにも使っていた家である。一臣は大分師範学校を出て以降、長男の身でありながら実家に帰った時でもそこに泊ることは数回しかなかった。ともゑと結婚した後も実家から離れて暮らしていた。そのため何処に居ても別府に自分たちの家が必要であったのである。

  一臣は日本の敗戦前、慶尚北道公立国民学校長を兼ね、柳川国民学校長の補せられ柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託されていた身であったので、直ぐ引き揚げて帰国するわけには行かなかった。一臣の帰国は9月末のことであった。

  ちなみに、昭和20年(1945年)、日本の敗戦直前の8月8日 、ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻している。8月15日、大日本帝国による朝鮮半島の統治は終了し、北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することになった。

    同年、1945年9月8日、アメリカ軍第24軍団第一陣が仁川に上陸し、翌9日、日本の朝鮮総督府が降伏文書に調印している。それまで一臣はアメリカ軍政下、学校の業務などを朝鮮側に引き継ぐ仕事が残っていたのである。

  同年9月11日、アメリカは在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布している。アメリカ陸軍司令部軍政庁は10月に朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も承認を拒否している。その後、北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立された。同年12月には、モスクワで朝鮮半島の信託統治について話し合うためアメリカ、ソ連、イギリスによる三者会談が行われた。南朝鮮はアメリカと統治下に置かれた。

    その翌年、昭和21年(1946年)10月1日に慶尚北道の大邱(テグ)でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺した事件が起きた。これに端を発して、南朝鮮全土で230万人が蜂起し、136名が犠牲となっている。日本の敗戦直後はまだ左程混乱はなかったが、その後時を経るにつれて朝鮮半島は戦乱の渦に巻き込まれることになったのである。

2010年9月24日金曜日

母・ともゑ (20100924)


    便所の戸が開かれ誰かが外の様子を窺っていた。やがて静かになった。暫く経ってから一家も客人も家の中に戻った。信輔はその時本当に暴徒がわが家に来たと思っていた。後年その時のことを思い出して、あれは多分、暴徒に備えた訓練ではなかったかと思った。信輔は、あの時の客人は緊急避難訓練の状況を観察し、評価するための役目をもった警察官ではなかったか、それも朝鮮人ではなかったかと思っている。

    日本が戦争に負けたときの状況を信輔は全く覚えていない。覚えていないということは、日本が戦争に負けても醴泉の片田舎ではきっと普段と変わらなかったに違いなく、信輔の印象に残るようなことは起きていなかったということである。もし、信輔の父親や母親が信輔に戦争に負けたときのことを何か語っていれば、信輔はその時のことを例え一時的に忘れていても信輔の頭脳の中で再構成され、記憶としてしっかり残っている筈である。

    信輔が覚えているのは引き揚げの船の中の出来事以降のことである。あれは釜山と博多の間の連絡船であっただろう。船の中は真ん中の通路を挟んで畳敷きのような広い船室があり、乗客で混に合っていた。船はゆっくり大きくローリングしていた。信輔はその通路が誰かの嘔吐で汚れたままになっていたことを記憶している。

    その船の中であったのか、博多に着いた後のことであったのか、信輔は定かに覚えてはいないが、皆に弁当が配られたことを覚えている。弁当は赤い色がしているご飯であった。沢庵か昆布かなにかが添えられていた。赤い色はコーリャンというものであった。それが美味しかったかどうか信輔は覚えていない。多分、それは美味しくもなく、美味しくなくもなかったのであろう。つまり信輔にとってそれはコーリャン弁当という以外、特に印象はなかったのである。コーリャン弁当という言葉はその時誰からか聞いていたのであろう。

  一臣は朝鮮に残ったまま、先ずともゑ母子4人が引き揚げた。母子は博多から汽車に乗り、小倉で汽車を乗り換え別府に向かった。小倉の駅に降りるとき、一人の小父さんがいて、ともゑに「私も小倉で降ります。荷物を持って上げましょう」と言った。2歳の富久子を背負い、大きな旅行鞄を二つ抱え、9歳と7歳の男の子二人を連れて引き揚げて来たともゑにとって、その男の親切な言葉は嬉しかったに違いない。

  駅のホームには先ず信輔が降り、信直がそれに続き、ともゑが旅行鞄を一つ持って降りた。その時ともゑは後ろのめりに転倒してしまった。信輔は背中に富久子をおんぶしたまま仰向けに転倒してしまった母をなじった。その様子を後ろで見ていた男はホームに降りることなく、ともゑから預かっていた旅行鞄を持ったまま何処かに消えてしまった。ともゑはその親切そうな男に騙されてしまったのである。その上ホームで転倒し、信輔になじられ、悲しかったに違いない。ともゑは傷心のまま子供たちを連れて別府に向かった。

  別府に向かう汽車の中は混み合ってはいなかった。客車の進行方向右側の座席に、信輔は窓側、信直は通路側に座っていた。ともゑは信直の隣り、通路を挟んだ席で座っていた。向かいの席に進行方向を背にして女学生が二人座っていた。女学生たちは弁当を広げた。弁当は白いご飯のお握りだった。信輔たちはそれをじっと見つめていた。

2010年9月23日木曜日

母・ともゑ (20100923)


    それは昭和20年(1945年)春、須美子が京城(ソウル)女子師範学校を出て大邱(テグ)の国民学校に教師として赴任する前、慶尚北道醴泉郡のど田舎にあった柳川国民学校の校長官舎に住む義兄・一臣の一家を訪れた時のことであった。校長官舎は校門に近く、校庭の隅に周囲が塀で囲われた中にあった。まだその国民学校では3学期は終わっていなかった。ともゑは3学期から音楽の代用教員を務めていた。


    3学期、その国民学校では日本人は信輔だけであった。鎌田君は父親が転勤したため日本人の生徒は信輔一人だけとなっていた。ともゑは信輔がいる1年生の教室で生徒たちにオルガンを弾きながら日本の唱歌を教えていた。須美子は姉・ともゑの教えぶりを真似ようと教室の後ろでともゑの授業をじっと観察していた。ともゑは「出た出た 月が丸い丸い まん丸い盆のような 月が・・・」という歌を教えていた。須美子はそのときの様子を信輔に語ってくれたことがある。


    須美子は「あのときね、のぶちゃんはとても上手に歌っていたよ。でも、朝鮮人の子供たちは‘盆のような’のところでどうしても上手く歌えなかった。あそこのところは子供たちにとって難しかったのね。」と言い、自分が子供たちに同じ歌を教えるときの参考にしたようである。信輔が詩吟をやっていると言ったとき、須美子は「のぶちゃんには小さい時から音楽の素質があったのよ。」と感心していた。


  須美子が柳川の田舎にいたとき、ともゑが何かのことで須美子に腹を立て、「大邱に帰りなさい!」と須美子の追い出しにかかったが、信輔と信直は須美子の側に立って母・ともゑに反抗していた。結局ともゑが須美子の旅行鞄を庭に投げ戻さなくなったことにより、その騒ぎは収まった。数日後須美子は大邱の自分の宿舎に戻り、新学期から教壇に立った。信輔は2年生になり、信直は柳川国民学校の1年生になった。その学校の日本人の先生は信輔たちの両親だけとなっていた。ともゑは音楽を教える臨時の代用教員であった。


  日本の敗戦の色が濃くなり、世情は不安定になってきつつあった。その時期その片田舎の国民学校でも空襲に備えた避難訓練などが行われていた。その国民学校の校長であり、その地域の青年訓導所の主事でもあった一臣は、日本人は自分たち一家しか住んでいない慶尚北道醴泉郡柳川邑の片田舎で日本の国の方針を一身に背負って頑張っていた。


  その頃一臣は警察からかピストルを一丁渡されていた。何事にも興味津津な性格がある信輔は食卓の上に無造作に置かれていたそのピストルを手にし、引き金に指をかけたことがあった。そのとき実弾は入っていなかったかどうかは分からないが、父親・一臣は血相を変えて信輔を叱りつけた。


    そのような時期、ある日の夜一人の日本人の来客があった。一臣とその客人は町で暴動が起きているという話をしていた。突然何か不穏な状況が起きた。その一臣一家はその客人の手助けで便所の側から塀の外に逃れた。最後に客人が塀によじ登り終わった時、突然家の中に人が入って来て怒声と物音がした。その客人は塀の上に這いつくばったまま息を殺していた。塀の外の一臣達も息を潜めてじっとしていた。

2010年9月22日水曜日

母・ともゑ (20100922)


    話は前後するが、2学期になる前の夏休みに信輔は母親から鍛えられたことがあった。その鍛え方は、学校の校庭の隅にあった井戸端で母親がバケツに汲んだ水を信輔に浴びせ、信輔がグラウンドを走って一周し、戻って来るとまたバケツの水を浴びせ、信輔がまたグラウンドを走って一周して来るというやり方であった。それは信輔が母・ともゑから強制されて行った運動ではなく、母と子の遊びのようなものであった。信輔の母親は転校してきたわが子が、日本人の生徒が鎌田君とわが子しかいない学校で淋しくないようにと遊ばせていたのである。井戸端には大人の女性が一人いてともゑと話をしていた。

    その女性は日本人ではなかったかもしれない。信輔の記憶ではその女性は鎌田君のお母さんではなかったように思う。ある日、母・ともゑとその女性が井戸端で鶏を処理していた。信輔はその女性が騒ぎ立てる鶏を抑えて刃物で首を刎ねたら、その鶏が首のないまま1、2メートル突っ走りバタンと倒れたのを見たことがある。鶏はその晩の夕食のおかずになったに違いないが、信輔はその晩のおかずが何であったかは覚えていない。

    信輔の父・一臣は田舎の学校の校長としてまた青年訓導所の主事として、地域の状況を把握しようと考え、信輔を連れて何軒かの朝鮮人の家を訪問したことがあった。それは信輔が柳川の公立国民学校に転校する前のことであった。その日は信輔も永川の学校に通う必要がなかった休校日であった。

    家庭訪問の道で丸い小山の脇を通ったとき、その小山に穴があった。一臣は「これは狐の巣だ」と信輔に言った。山間の谷間に家が点々とあった。一臣はその中の一軒の家を訪れた。子供であった信輔は父親がその家の主人と何を話したのか、関心もなかったから覚えていない。ただ、その家で出された菓子のことを覚えている。それは白く長方形の形をしていて噛めば形が崩れ落ちるようなサクサクとした歯触りの菓子であった。米で作った菓子であったのだろう。帰路一臣は信輔に正露丸を2錠与えて呑みこませ、自分も呑んだ。

    冬に入る前、ともゑは庭に埋め込んだ壺に朝鮮漬けを仕込んだ。ともゑは朝鮮の人から朝鮮漬けの作り方を習っていて、そのとおりに漬けた。食卓には朝鮮漬けがあったに違いないが信輔は覚えていない。日常のおかずが何であったかということは全く記憶がない。

    しかし非常に印象的であったことだけは覚えている。それは小さい心に興味が深かったことだけである。例えば、ある日信輔は一臣が庭でミツバチを飼ってハチに唇を刺され、唇が腫れあがっていたことや、炭焼きをして木炭を造っていたことや、寒い冬の日に妹・富久子の足の土踏みの部分に霜焼けができて腫れていたとき、一臣は其処に針を刺して血を出して治療したことなどを覚えている。幼い富久子は痛がったに違いない。うっ血した個所に針を刺して血を出し霜焼けを治す方法を、一臣は朝鮮の人に教わって実施したに違いない。針は火に炙り、朝鮮の焼酎か何かで消毒していたことであろう。

   気候が穏やかな日、朝食は一家5人揃って官舎の脇の屋外でテーブルを囲んで食べた。ともゑは子供のおやつにするため砂糖で紅白の模様が付いた飴を作ったりしていた。それは日本が戦争に敗れる3ヶ月ほど前の、朝鮮の片田舎に住む日本人の家の暮らしの一コマであった。

2010年9月21日火曜日

母・ともゑ (20100921)


    信輔は職員室に呼ばれ、校長である父親の前に立たされ強く叱責された。何故か鎌田君は呼ばれていなかった。校長であり、柳川公立青年訓導所主事でもある信輔の父親は、建前として自分の息子が主犯であり、鎌田君は信輔に強要されたためやむを得ず従ったに過ぎないという構図を描き、主犯者に全責任があるという考え方を朝鮮人の教職員たちに示そうと考えたに違いない。その考え方を日本人の教頭・鎌田先生と予め示し合わせていたに違いない。鎌田君は家でお父さんの教頭先生からこっぴどく叱られていた筈である。

    教頭以外朝鮮人である先生方の皆の前で、父親は蠅たたきのような先の柔らかい物で信輔の頭を、「何故そのような行いをしたのか!」と言いながら一発びしりと叩き、「お前は級長だぞ、級長がそんなことをしても良いのか!」と言いながらまたばしッと叩き、「馬鹿もの!」言ってまた叩いた。信輔は初めから無言で父親である校長の為すまま、言うままにしていたが、「もう、このようなことは二度とやってはならんぞ!」と言われたとき初めて口を開き「はい」と素直に一言だけ答えた。その様子を職員室の朝鮮人の先生たちは黙って見ていた。信輔は放免された。以来、信輔は鎌田君とは遊ぶことはなく、朝鮮人の同級生たちと遊んでいた。しかし、永川の学校にいたときのような楽しいことはなく、信輔が73歳になっても懐かしく想い出す5歳年上の新井玄観のような友達はいなかった。

    校長室で叱られた日の夕方、家で校長対生徒ではなく父対子となった時、一臣は信輔に笑顔を作って「もうあんなことはもう絶対してはならんぞ」と諭した。信輔は職員室での屈辱感を思い出しながら「うん」と一言言っただけで後は何も言わなかった。ともゑも信輔の行為を許しがたいと考えていたのか、信輔は母親からもかばってもらったという記憶は全くない。もし「物事の善悪の判断の正しさ」と「屈辱感」とを天秤にかけたら、信輔にとって「屈辱感」の方が重かった。しかし、その気持ちはやがて信輔の心の深層に畳み込まれ、長年思い出すことはなかった。

    その年、昭和19年(1944年)の初冬、一臣一家は一臣の弟、つまり信輔の父方の叔父・幸雄の祝言で又四郎の家に帰った。そのときの集合写真に写っている信輔は父・一臣からも母・ともゑからも離れた端っこに独りぽつんと立って写っていて、その表情は淋しげである。子供ながら1年生の2学期の学校生活は面白くなかったのであろう。

    翌年、昭和20年(1945年)春、須美子は京城(ソウル)女子師範学校を繰り上げ卒業して教師として赴任する前に義兄・一臣と姉・ともゑの家にやって来た。須美子はそこがとても辺鄙な田舎であったことを後年信輔に語ってくれた。その時丁度春休みで信輔は2年生になろうとするときであり、信直は小学校(当時国民学校)に上がろうとするときであった。信直は4月1日生まれなので学校は信直と一級違いである。

    ある日、ともゑは妹・須美子の態度を怒って須美子を家から追い出そうとした。ともゑが須美子の旅行鞄などを庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がそれを拾って家の中に入れた。ともゑはそれをまた庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がまた拾い上げて中に入れた。

2010年9月20日月曜日

母・ともゑ (20100920)


    母子は家に帰る途中、松林の中に入り、おやつを食べるのが楽しみであった。信輔はおやつを食べながら学校での出来事や放課後玄観らと遊んだときの様子などをともゑに報告した。先生方は年長の玄観らに信輔のことをよく見守るように言ってあったに違いない。小学校1年生の男の子の汽車による通学については、駅長以下職員たちも信輔をよく見守るように手配されていたに違いない。天候が悪い日にはともゑは駅まで信輔を迎えに来ていた。そのような手厚い見守りがあって、1学期末までの短い期間ではあったが信輔は汽車通学を無事続けることができていた。ともゑは信輔を途中で出迎えるようにし、松林の中に入っておやつを広げ、わが子の成長の状況を観察していた。

    そんなある日、いつものようにおやつを広げて母子団らんのひと時を過ごしているとき、信輔の小さな腕に蟻が這い上がって噛みついたらしく、その腕に点々と水膨れのようなものができたことがあった。ともゑは「ああ、大丈夫、大丈夫」と言って何か膏薬のようなものを塗ってくれた。水ぶくれはいつの間にか治っていた。

    1学期が終わった日、信輔は汽車がまだ完全に停止しないうちにホームに飛び降り、転んで軽い怪我をしてしまった。多分信輔は鉄道の関係者がまだ動いている車両からホームに降りる様子を見ていて真似しようと思ったに違いない。駅長は慌てて一臣に電話を入れた。怪我は大したはことなく、膝に擦り傷ができただけであった。

    信輔のそのような冒険心は信輔がまだ4歳のときに発揮されていた。大邸に住んでいたころ、信輔は道路わきの自分の背丈よりもかなり高い場所にあった石垣の上に建っている塀の下の狭い場所を、両手を広げて塀を抑えながら移動したことがあった。信輔は下の道路に転落せず無事移動できて得意になっていたが、後でともゑから厳しく注意された。

    幼いころからあった好奇心は生涯続くらしい。信輔は73歳になった今でも好奇心は旺盛である。信輔が中学生になったとき、信輔は大変危険な行為をしている。それは乙津川にかかっている鉄橋の上で、走る列車の客車のデッキから隣りの客車のデッキに手足を伸ばして移動したことがある。当時は客車は蒸気機関車が牽引していた。デッキから顔を出し、前方の機関車を見ながらデッキからデッキに渡ったのである。それは一度だけであった。

  話は横道にそれたが、信輔の汽車による通学は第一学期だけで終わり、信輔は父・一臣が校長を務める国民学校に転校した。その学校は鎌田君を除いて同級生は全員朝鮮人であった。それまで鎌田君が級長をしていたが、二学期から信輔が級長に命じられた。

    その年の秋のある日、級長になったばかりの信輔は鎌田君と一緒にその学校の校庭の脇にある台地の上に登り、そこで育てられていた梨園の中に入った。梨がよく熟れていた。信輔は鎌田君と一緒にそれぞれ一個づつもぎ取って食べた。信輔をその梨園に連れて行ったのは鎌田君であった。「梨が熟れている、食べよう」と言いだしたのも鎌田君であった。信輔たちが無断で梨畑に入り、梨をもぎ取って食べている様子を誰かが見ていて職員室に告げられた。校長の息子が盗みを働いたのであるから大問題であった。

2010年9月19日日曜日

母・ともゑ (20100919)


  柳川は醴泉郡の田舎の邑である。柳川公立国民学校の敷地内に校長官舎があった。永川から其処に引き越すとき、信輔と父・一臣は引越し荷物を運ぶトラックの助手席に乗って移動し、信輔の母・ともゑと弟・信直、妹・富久子は汽車で移動した。その時、信輔は8歳になったばかりであり、信直は6歳、富久子はまだ2歳になっていなかった。

 後に信輔の妻となった幸代の叔父・正造は当時19歳で鮮鉄(朝鮮総督府鉄道局の略称)の機関士として乗務していたが、もしかしたらともゑ達が乗った汽車の機関士は正造であったかもしれない。正造は終戦前にたまたま公務で日本に帰っていたので、終戦時の混乱を免れることができた。正造が後年韓国旅行をした際、当時の鮮鉄の韓国人の仲間と再会し旧交を温めたという。

    ある日、正造が運転していた汽車が前方から誤って走行してきた汽車に正面衝突され、正造は急ブレーキをかけたが間に合わず、前方から突進して汽車は正造の機関車の上に乗り上げ、相手の機関士(日本人)が死ぬという重大事故が起きてしまった。そのとき正造は憲兵隊に逮捕され、冬の寒い最中牢獄に入れられ、便所も我慢することがあったような辛い日々を送っていた。しかし2週間ばかりして正造は無罪放免された経験をもっている。

    信輔は柳川への移動するときの朝鮮人の運転手が温厚な優しい人であったことを記憶している。信輔は左側の窓際に肩を寄せてちょこんと座っていた。一臣はなるべく信輔の方に身を寄せ、運転の邪魔にならないようにしていた。トラックが川に架かっていた橋の上を走る時、窓から川面がきらきら輝いているのが見えた。

    トラックは夕刻近く柳川国民学校の校長官舎に着いた。官舎には既にともゑ達が着いていて一臣と信輔の到着を待っていた。新校長の受け入れ準備は教頭の鎌田さんが行ってくれていた。一臣達はトラックから引き越し荷物を降ろし、一段落して鎌田さんの家に挨拶に行った。鎌田さんの家では夕食の支度を整えてくれていた。一家は鎌田さんの家でおかずとして卵焼きが1個付いていた夕食を頂いた。天井に暗い電灯が1個ぶら下げっていた。

    鎌田さんの子供に信輔と同じ年の男の子がいて、信輔の遊び仲間になった。ただ、遊ぶときは週末など学校が休みの時に限られていた。と言うのは柳川への引き越しは新学期が始まった1ヵ月後の5月のことなので、信輔は、信輔は既に永川の国民学校に入学していて、柳川の校長官舎から通学していたからである。

    信輔は国民学校に入学したとき7歳であった。同級生に5歳も年上の新井玄観という朝鮮人の同級生がいたが、信輔は玄観を兄のように慕っていた。玄観は信輔たちをよく遊びに連れていってくれた。川辺のポプラ並木のところで遊んだ時、玄観はそのポプラの小枝で笛を作って信輔に与えてくれたり、何処かの家の軒下から雀の卵を採り出して、その卵をネギの筒の中に割って入れて火にあぶり、信輔に食べさせてくれたりしていた。

    信輔が下校し汽車に乗って帰り駅を出て歩いていると、前方からともゑが乳母車に信直と富久子を載せ、おやつを持って迎えにきてくれていた。

2010年9月18日土曜日

母・ともゑ (20100918)


  信直がコピーして送ってくれた写真には信直が母・ともゑに抱かれて微笑んでいる写真がある。ともゑは信輔と信直の二人の子供を授かり人生で最も幸せな時期を送っていた。その頃のことになると信輔の記憶も確かなものになっている。ある日ともゑは夫・一臣との間に何かいさかいがあって家を飛び出したことがあった。家を飛び出したものの感情が収まって直に戻ってきている。それは大邱(テグ)に住んでいた頃のことであった。

  大邱の家には大邱に部隊があった陸軍の将校が一人、ホームステイで泊ったことがあった。その将校は日本刀を抜いて電灯の下にかざし、一臣となにやら会話を交わしていたが、信輔はその将校が無口な男で、一臣は接待に苦労しているように見えた。

  その頃家に須美子は居なかった。須美子は大邱高等女学校2年生のとき転入試験を受けて別府高等女学校に転校している。ともゑは須美子が初めから別府女学校を受験しなかったことについて須美子を叱っていたという。須美子は別府高等女学校の入学試験に受かる自信がなかったので受験しなかったと述懐している。

  昭和16年(1941年)3月、一臣は慶尚北道の永川南部公立尋常小学校勤務となった。尋常小学校という校名は翌月、公立国民学校という呼び方になった。翌17年(1942年)、一臣は永川公立青年訓導所の指導員を嘱託された。

  一臣は永川の官舎に朝鮮人の女学生たちを多数招待し、日常の生活に関することを実地に指導していた。ともゑは茶や菓子を出して彼女たちを楽しませながら、夫の仕事を手伝っていた。

  ちなみに信輔の妻・幸代が子供のころ、大家族のなかで一番末の妹のように扱われていたが、幸代の母方の祖父・要造は食事のとき必ず子供たちに箸の上げ下げの作法のことまで細かく指導していたという。幸代にとって齢があまり離れていない‘叔父・叔母’たちが玄関を上がる時履物を無造作に脱ぎ放しにしていると、「こらッ!照子ッ!」などとよく叱っていたという。今の時代、そのような厳しい躾をする親は極めて少なくなっている。

  昭和19年(1944年)5月、日本が徐々に敗戦に傾きつつある頃、一臣は慶尚北道公立国民学校長兼柳川国民学校長兼柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託され、非常に多忙になったが非常に張り切っていた。

  その年の11月、一臣は一家を引き連れて弟・幸雄の祝言のため一時、又四郎の家に帰ってきている。祝言は又四郎の家で行われた。座敷にお膳が並べられ、祝言を上げた後戦地に往く弟、つまり信輔の父方の叔父の結婚を祝った。その時の集合写真がある。それは信直がコピーして送ってくれたものである。その写真に一臣一家5人も写っている。ともゑは1歳の富久子を抱いている。一臣は父・又四郎の横でちょび髭を生やして写っている。

  実は一臣が師範学校を出て初赴任した学校で校長が髭を生やしているのを見て、一臣はその校長に面と向かって「髭を剃れ」と言ったという。そのことが、一臣の師範学校の同級生の弔辞の中に書かれている。当の本人が校長になって同じことをしたのである。その時一臣は35歳、若いのに偉くなったので、威厳を作る必要があったのであろう。

2010年9月17日金曜日

母・ともゑ (20100917)


    一臣、ともゑ、信輔、須美子一家4人は大邱で平穏な暮らしをしていた。別府の文造の家では貴金属の商いも順調に進み、後妻と二人だけで暫く平穏無事な生活が続いていた。しかし文造は以前から持病の腰を悪くしてしまい、店を続けて行くことが出来なくなってきた。そこで文造は店で使っていた人に貴金属販売の商権を譲り渡した。そして別府市内のちょっと大きめの木造2階建て住宅を借りてそこに転居した。

    それは昭和14年(1939年)のことで信輔が2歳半のとき、丁度年末年始の期間であった。その期間でないと朝鮮からともゑや須美子が引越しの手伝いに帰ってくることが出来なかったからである。引越しの手伝いに、当時満州の建設会社に勤めていた弟・業政も帰ってきた。業政は大邸に立ち寄り、初めて甥っ子・信輔に会った。ともゑはと業政と須美子ともに信輔と信直を連れてその転居先の2階屋に帰って来た。その時一臣は仕事の都合で帰っていない。

    年が明けた昭和15 年(1940 年)の正月、信輔は祖父・文造に手を引かれて街中を歩いたことがあった。それは信輔にとって母方の祖父と過ごした唯一の懐かしい記憶である。路地で円座になって遊んでいる女の子たちがいた。お正月ということもあって文造の家は賑やかであった。信輔は2階から階段を足を踏み外して転げ落ちた少女を見た記憶がある。

    3歳にはまだなっていない男の子の記憶としては強烈な印象のことしか残っていない筈である。記憶は大人たちとの会話を通じて増幅される。しかしそれも断片的なものである。信輔は母・ともゑから「おじちゃんと一緒にお散歩して楽しかったねえ」とか「何か面白いことを見ましたか?」とか言われて、印象深かったことを答えていたであろう。段々大きくなるにつれて自分を散歩に連れて行ってくれた人が誰であったか、印象深かった事象がどういうものであったか心の中でその時どきの状況が構築されてゆくものである。

    ともゑは別府に帰っていたときの出来事について息子・信輔と何度か会話を交わしていたに違いない。その年か翌年に祖父・文造が70で死に一家は皆葬式に帰っている筈であるが、信輔にはその記憶が全くない。写真でもあれば記憶が構築されるのであろうが、その写真もない。そこのところが不思議である。信輔には悲しい出来事は敢えて記憶しないという特性が、すでにその時から備わっていたのかもしれない。

    実は信輔が17歳になるときまで家族が写っているアルバムを自分の手元に置いていた。そのアルバムには信輔が覚えている母・ともゑの写真が何枚かあったが、信輔はどれも破って灰にしてしまっている。当時の信輔の心理としては自分の過去を総て消してしまってその時点から自分独りで未来だけに目を向けて人生を歩もうという思いがあった。今手元にある何枚かの母・ともゑが写っている写真は、信輔の要請を受けて弟・信直が所持している写真をコピーして送って来てくれたものである。

    ただ、信直が所持している写真は限られたものである。信輔が焼き捨ててしまったものは元々父・一臣が作成していたものであったから、祖父・文造が写っている貴重な写真もあったに違いない。今思えば真に馬鹿なことをしてしまったものだと信輔は後悔している。

2010年9月16日木曜日

母・ともゑ (20100916)


  文造が再婚したので、ともゑと須美子の国東での生活は1年間ほどで終わり、別府の家に戻った。須美子は継母に良く可愛がられていた。しかしともゑは継母との折り合いが悪かった。別府に戻ったともゑは自立して家を出たいと考えていた。ともゑは父・文造の仕事を手伝いながら代用教員の職を探していた。しかし別府ではなかなか代用教員の職は見つからなかった。教員の採用人事は別府市の視学の権限であった。須美子が高等女学校に上がる前に、姉・ともゑに見合いの話が持ち上がった。

  大分県の視学は県内の教員の状況を把握する責任があった。ともゑが国東の尋常小学校で代用教員として採用されたという情報は当然、県視学に把握されていた。視学は今の教育委員長のようなもので、学事の視察や教育の指導・監督を行ない、教員の人事にも関与する。当時の視学は岩尾という人でともゑの親戚筋の人だったので、ともゑの身上について深い関心があった。ともゑの状況を知り、何とかしてやらねばと考えていた。

  岩尾視学はともゑを誰かと結婚させ、生活を安定させてやろうと考えた。一臣が昭和3 年(1928年)に大分師範学校を出て玖珠郡の野上尋常高等小学校を皮切りに大分郡内の尋常高等小学校訓導としての勤務成績や大分県公立青年学級助教諭を兼務して実績を上げていることに目を付け、一臣の実家の家柄も悪くないことを知って、一臣がともゑの結婚相手としては申し分ないと判断した。そこでともゑを一臣に引き合わせることにした。

  見合いは貴金属店を営むともゑの父・文造の家で行われた。文造夫婦とともゑが支度を整えて待っているところに岩尾視学が一臣を伴ってやってきた。形通りの挨拶が交わされ、岩尾が一臣の人となりについて話した。文造は、一臣が実直で頭が良く、なかなか気骨のある男であり、将来必ず大成する人物でると見込んだ。須美子のことは自分の後妻が面倒を見てやれる。ともゑをこの男にやれば何の憂いもなくなると思った。縁談はトントン拍子に進んだ。一臣の両親、つまり信輔の祖父母・又四郎とシズエもともゑに会い、一臣の嫁としてともゑを迎え入れることに全く異存は無かった。

  ともゑと一臣の祝言は別府市内の料亭で行われた。そのとき須美子はどういうわけか独りで留守番をさせられた。須美子の話によれば、父・文造はもし須美子がその祝言の席に行けば多分面倒なことになると判断したのではないかと言う。

  昭和11年(1936年)春、一臣はともゑと所帯を持ち、翌12年5月長男・信輔が生れた。ともゑは信輔を産むとき一臣の家に滞在していた。ともゑの実母・まさが、ともゑが15のとき他界してしまっていたから初出産のときは不安であったが、9人もの子供を産んだ経験のある義母・シズエの温かい思いやりや手助けは非常に有難かった。

  その翌年昭和13年(1938年)、一臣は朝鮮慶尚北道に出向を命じられ一家は朝鮮に渡った。そのとき須美子も一緒に朝鮮に渡った。一臣は慶尚北道公立小学校訓導を命じられ、大邱(テグ)公立尋常小学校に勤務することになった。須美子は義兄・一臣と姉・ともゑのもとで大邱(テグ)高等女学校を受験して合格し、その学校に入学した。

2010年9月15日水曜日

母・ともゑ (20100915)


  ともゑは大正2年(1913年)、安田文造と妻・まさの長女として生まれた。文造の父、つまりともゑの祖父・幸人は熊本藩士で御船奉行をしていた。その妻、つまりともゑの祖母は岩といった。江戸時代から明治時代の初期にかけて女性の俗名は‘お’を付けて呼んでいたから、岩は‘お岩’である。‘お岩’と言えば四谷怪談に出てくる名前である。ちなみに、信輔の新宅の有馬家に信輔が子供のころ‘おかめ’お婆さんがいた。‘かめ’という名前に‘お’を付けて‘おかめ’という愛称で呼ばれていた。しかし信輔の父方の祖母は本名が‘マチ’で通称は‘シズエ’であった。現代ではそのように本名(仏式の俗名)と通称が異なる例は少なく、大概‘ちゃん’付けを通称としている。

  ともゑの祖父・幸人は武士であった。信輔はこれまでずっと思い続けてきたことがあり、これからも自分の最期の刹那まで思い続けるであろうことが一つある。それは、母・ともゑが33歳という短い生涯を終えるに当たり、息子・信輔に対して武士の生き方と死に方は如何にあるべきであるかということを、自らの身をもって示したのだということである。

  ともゑの祖父であり信輔の母方の曾祖父である幸人は、幕末のころ‘鶴崎番代’という熊本藩の飛び地の総責任者の下で、熊本藩の藩士として参勤交代の船団の船の警備などを担当していた。鶴崎番代は1年交代であったが、幸人は鶴崎に何年も前から住んでいたと思う。ともゑの弟、つまり信輔の母方の叔父・業政は戦前満州の建設会社で働いていたが終戦でソ連に抑留された。その時安田家の系図を逸失してしまった。業政も他界してしまっている。このため、幸人が何年前から鶴崎に居住していたかということは分からない。

  鶴崎港には参勤交代で熊本藩主が乗る御座船・波奈之丸以下引船、御馬船、御荷船などの藩船など常時100隻余りの船で賑わっていた。幕末に勝海舟が坂本龍馬を伴って、鶴崎に立ち寄って一泊している。その時次の歌を作って遺している。「大御代は ゆたかなりけり 旅枕 一夜の夢を 千代の鶴さき」。幸人は勝海舟や坂本龍馬に会ったことがあるかもしれない。

  幸人は明治維新後平民となり別府に移住している。平民となったとき相応の御下賜金があり、その金で貴金属を商うという‘武士の商法’を始めた。しかしその商売がうまく行っていたかどうかは分からない。本格的に貴金属販売店を経営したのは文造のときである。

   信輔の母方の祖父・文造は別府市内で店舗付きの平屋住宅を借りて貴金属類の商いをし、結構繁盛していた。信輔の母・ともゑは別府高等女学校に通学していた。そういう時、文造の妻、つまり信輔の母方の祖母・まさが病気で死んでしまった。一家の状況が変わった。

   ともゑは高等女学校を卒業すると直ぐ、まだ小学校に上がらない幼い妹・須美子を連れて親戚を頼って国東に行った。国東で親戚の家などを転々しながら職探しをいた。親戚もあまりいい顔はしなかった。そうこうするうちに運よくある小学校の代用教員になることができて親戚の家を出、幼い須美子を養いながら薄給で暮らしていた。

   一年ほど経って父・文造が再婚した。ともゑは須美子を連れて別府の父・文造の家に戻った。

2010年9月14日火曜日

母・ともゑ (20100914)


  信輔がお経を上げるとき信直も傍に座って一緒に経を読んでいた。「門前の小僧習わぬ経を読む」諺のとおり、お経を上げていてもその経の内容や意味について理解しているわけではなかった。ただ、ひたすらに経を上げていたのである。ただ「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)南无不可思議光(なーもーふーかーしーぎーこう)法藏菩薩囙位時(ほーぞーぼーさーいんにーじ)在世自在王佛所(ざいせじーざいおうぶっしょ)」と、ご院家様のお経の上げ方を真似て高低長短の節をつけてお経を上げると気持ちが良かった。特に気持ちが良かった幾つかの句があった。例えば「萬善自力貶勤修(まんぜんじーりきへんごんしゅー)圓滿徳號勸専稱(えんまんとくごーかんせんしょう)三不三信誨慇懃(さーんぷさんしんけーおんごん)」という下りなど特に気持ちが良かった。お経を唱えていて気持ちが良かったから、お経の中身は全く知らなかったが73歳になった今でも信輔は部分的に覚えているのである。

  信輔はお経を上げても母に会えるとは思っていなかった。ただ仏壇の前に座りお経を上げると何故か心が安らいでいたことは覚えている。子供心に何か満たされないものがあったのであろう。母が亡くなったという現実を受け入れていなかったのではないかと思う。

  当時57歳であった信輔の祖母・シズエは9歳を頭に7歳、3歳、1歳の子供たちの母親代わりをしていた。シズエは病死した3人の子供を含め9人の子供を産み、育てたうえに、母を失った4人の子供をまた育てねばならなかった。信輔は子供時代、母の死を受け入れぬまま母が居る子供のようにしていることができたのは、祖母・シズエのお陰であったと思う。

  信輔は子供のころのことであったのでおぼろげながらしか記憶は残っていないが、シズエは病院から見放され死の床についていた嫁・ともゑの背中を拭いてやっていたり着替えをさせてやったりしていた。信輔にともゑは「起こしておくれ」「背中をさすっておくれ」と言っていたが、シズエは信輔の知らないところで誰かの世話なしでは起きることもできなくなっていたともゑの下の世話もしていた筈である。その期間は1ヵ月ぐらいのことであっただろう。病院に入院してすぐ手術を受け、治癒の見込みもなくなって病院を出るまでの期間も2ヵ月ぐらいのことであっただろう。信輔が記憶しているのは、ともゑが入院していたのは夏から秋にかけての頃であった。少なくとも真夏ではなく、また寒い時期でもなかった。

  農家としても忙しい時期にシズエは信輔以下の子供の世話もしなければならず、死に前の病人の世話もしなければならなかった。そういう時期、嫁いでいるシズエの娘たち、つまり信輔の叔母たちも時々在所に戻ってきては何かと手伝っていた。特に、近くに住むマツエはよく手伝っていた。

  信輔の母は有馬家の長男・一臣に嫁いで来たが信輔のお産んだ時以外その家に住むことはなく、小学校の教師である一臣と一緒に住み、夫・一臣が朝鮮慶尚北道に転勤となったときも一緒に朝鮮に渡っていた。夫の家に住居を移したのは終戦の年、昭和20年(1945年)8月の終わりごろから翌年1218日に死んだときまでの僅か1年半だけであった。

2010年9月13日月曜日

母・ともゑ (20100913)


  ともゑは線香に火を付け両手を会わせながら「お父さんを呼んできておくれ」と言った。信輔は裏の山に枯れた松葉など落ち葉を掻き集めに行っていた父親の一臣を呼びに行くため走った。子供ながら母親の異変に気付いていた。信輔は息せき切って一臣に「お母さんが、お母さんが、お父さんを呼んできてと言っているよ」と告げた。

  一臣は作業を中断して急いで家に戻った。信輔も父親と一緒に走った。一臣がともゑの床に駆け付けたとき、ともゑは既に息を引き取った後だった。ともゑは信輔を父親のもとに走らせた後、東に向かって手を合わせそのまま倒れた。異変に気付いた義母、つまり信輔の祖母・シズエがともゑの傍にかけつけ、倒れたともゑを床に寝かせ、近所や親戚に急を知らせるように手配した。一臣と信輔が戻ってきたとき、ともゑの床の傍に祖父・又四郎や祖母・シズエや新宅のおかめお婆さんらがいた。一臣はともゑの姿をみて号泣した。

  信輔は母親が死んでしまったことを理解できずにいた。ただ呆然としているだけであった。信輔の祖父・又四郎の家に親族やともゑの妹、つまり信輔の叔母・須美子が駆けつけてきた。近所の人たちも集まってきた。皆、遺された信輔や信直やまだ幼かった富久子や赤子の哲郎を見て憐れんでいた。哲郎は乳飲み子であったが母親の乳房は無くなっていたので重湯で育てられていたのである。ともゑは三つになったばかりの富久子や自分のお乳を与えることができなかった赤子を遺し死んでゆかなければならない運命を悲しんでいたに違いない。しかし信輔は自分の母親が死んだのに人ごとのように振る舞っていた。

  葬式には信輔の同級生の母親である専想寺の脇寺の住職のご院家(いんげ)さんが来てお経をあげてくれた。ともゑは正座して両手を合わせた形で棺桶に入れられた。棺桶に入れるとき又四郎が「お経を上げればともゑの身体が柔らかになる」と言っていた。

  ともゑを入れた棺桶は叔父たちに担がれ、家の前方、約100メートル先の墓地に運ばれ、予め穴が掘られていたその中にそっと置かれ、土がかぶされた。その真中に一本の竹の筒が立てられ、その周りに大きめの石ころが沢山積み重ねられた。叔父たちは塩で手を清め、ともゑの葬式は終わった。翌年、2歳になった哲郎が母親の後を追うように死に、ともゑの墓の隣りに同様の墓が造られた。ともゑと哲郎の墓は長年その状態に置かれたままだった。

  ともゑの葬式の夜は凍るように寒かった。空には二つの星の間に三日月がかかっていた。信輔の祖母・シズエの甥にあたる丹生の小父さんは須美子と一緒に空を見上げている信輔に「あのように二つの星の間に三日月がかかっているのは不吉なしるしだ」と話していた。

  翌日から信輔は仏壇の前に座ってお経を上げるようになった。それは『正信念佛偈(しょうしんねんぶつげ)』というお経で、「歸命无量壽如来(きみょーむりょーじゅにょーらいー)」と唱え始めるお経である。信輔はいつの間にかこのお経の全文を暗唱して唱えることができるようになっていた。あるとき新宅の博小父さんが仏壇にお参りにきてくれて、信輔に「お経を一生懸命お経を上げちょれば、きっとお母さんに会えるけんの」と言ってくれたことがあった。信輔は「はい」と素直に答えて、また一生懸命お経を上げ続けていた。

2010年9月12日日曜日

母・ともゑ (20100912)


  鶴崎臨海工業地帯には製鉄会社、石油会社、石油化学コンビナ-トなど日本の基幹産業の工場が建設され、そこで働く従業員及び家族が鶴崎地方に流入して人口が急増し、かつてののどかな田園地帯は住宅地となって一変してしまった。信輔や洋介や芳郎ら別保小学校、鶴崎中学校が同級生である竹馬の友の故郷は、それぞれの記憶の中にしか存在しなくなった。特に、信輔や洋介や貞行ら東京近辺の都会地に住んでいる者たちにとって、故郷はとても懐かしいものである。貞行とは江藤貞行のことである。神奈川で建築関係の会社をやっていて座間に住みついている。皆同じ鶴崎中学校3年7組の同級生たちである。

  今から57年前の昭和28年(1953年)3月、大分市鶴崎町立中学校から377名の少年・少女たちが巣立ち、町内の普通高校や工業高校、大分商業高校などに進学した。県外の高校に進学した者もいたし高校に進学せず働きに出た者も多かった。

  今年4月、地元の同級生の呼びかけで有志50数名が別府で1泊2日の同級会があった。そのとき幹事から物故者50名がいることが報告され、懇親会に先立ち一同黙とうした。同級生は校区内には120余名、大分市内に80余名、県内に20余名残っており、残りは県外に住んでいる。東京近辺には男女半数づつ20名ほど住んでいる。皆、子供時代から少年少女時代を豊かな田園地帯で過ごしている。特に、県内に残った多くの同級生たちは二十歳代の前半ごろまで田園地帯で過ごしている。鶴崎中学校を昭和28年に卒業した377名の生徒たちのような経験をしている例は、全国的にみても珍しいのではないかと思う。



  信輔は自分の子供時代、少年時代、青年時代のことを回想している。その中で特に信輔が9歳の時、乳がんで死んだ母親の死に際のことをいつも思い出している。信輔の母親は死に際まで身をもって信輔に生き方と死に方を教えてくれていたのである。

  信輔の母・ともゑは義父・又四郎の家の居間の隣の四畳半の部屋で死の床に就いていた。両方の乳房は切り取られて無くなっていて、背中にはがんの転移のしこりが沢山できていた。相当苦痛を感じていた筈である。しかし、ともゑはその苦しみを信輔に見せることは一度もなかった。信輔が見ていないところでは苦痛に顔をゆがめ、泣いていた筈である。

  信輔は度々「お兄ちゃん」という声でともゑに呼ばれていた。信輔がともゑのところに行くと「起こしておくれ」とともゑが言うので信輔はともゑを抱きかかえるようにして起こしてやっていた。すると「背中をさすっておくれ」という。信輔がこぶだらけの背中をさすってやると「ありがとう」と言ってしばらく床から起きたままにしていた。信輔は母親・ともゑの苦しみを子供ながら分かっていたと思うが、痩せ細り一面こぶだらけになっている母親の背中を、無言でたださすってやるだけであった。そんなことが何度かあった。

  ある日、ともゑはいつものように「起こしておくれ」と言い、信輔がそのようにしてやると今度は「東に向けておくれ」と言う。その通りにしてやると、「御仏壇から御線香をもって来ておくれ」と言った。信輔は無言でそのとおりにしてやった。

2010年9月11日土曜日

母・ともゑ (20100911)


  入学式は4月である。信輔は5月生まれである。従って入学のときは満7歳である。信輔が母親に連れられて朝鮮の慶尚北道から日本に引き揚げてきたのは終戦の年の8月、小学校2年生のときであった。その時は満9歳になっていた。一方、洋介は8月末生まれであったので、終戦の時はまだ満8歳だった。数えならばお互い同じ9歳であった。お互いもう73歳にもなって先はそう長くはない。いずれあの世にゆく。

  信輔は「昔はね、俺も前ばかり見ていたよ。今は、後ろばかり見るようになった。」と今の心境を洋介に話した。洋介は他の竹馬の友と違い70を過ぎてようやく初孫を得た。女の子だった。そこで息子には「頑張ってもう一人男の子を産ませろ」とけしかけているそうである。その一方でできるだけ長生きしようと頑張っている。数年前から膝の関節の具合が悪くなり、それをなんとか直したいと今日も医者に行ってきたという。信輔は「俺の弟・信直も君と同じように膝をやられている。ヒアルロンサンとか何かの注射を打ってもらっているらしいよ。」「実は俺も今日それを打ってもらって来たんだ」と洋介は笑いながらそう言った。信輔は母・ともゑのことに話を持って行った。

  「君のお母さんはいつ亡くなったのか?俺はあの頃そんなことは全く知らずにいたなあ」と洋介が言った。信輔はともゑの死に際の状況を洋介に話して聞かせた。「俺は母上(はあじょう)のことを小説に書こうと思うんだ」。

   信輔は以前、中学・高校校時代の恋のことを題材にした短編小説を書いてブログで公開していた。その小説には洋介も芳郎も別名で登場させている。そしてその小説のコピーを当時の竹馬の友数人に渡してある。勿論、洋介にも渡してある。その小説の中で恋の相手は洋介も芳郎も良く知っている同級生であるので、信輔もそれらの女性にはコピーを渡すことはできずにいる。しかし、彼女らも風の便りに信輔が自分を登場させた小説を書いたことを聞いているに違いない。

  信輔は洋介からの「また、いいのが出来たらコピーを送ってくれ」という要求に、「ああ、そうするよ」と言って、久しぶり洋介との会話を終えて電話を切った。

 

  信輔や洋介や芳郎らが子供の頃過ごした土地はその昔、摂関家の領地であった豊後高田庄と言われていた大分県の鶴崎地方である。その鶴崎地方の臨海部に工業地帯を造成する構想は戦前からあったが、昭和30年代(1955年代)に入って具体化し、昭和32年(1957年)8月に大分・ 鶴崎臨海工業地帯造成計画が決定され、11月には 兵庫パルプ鶴崎工場 ( 鶴崎パルプ)が操業に入っている。

  昭和34年(1959年)10月には 大野川左岸から大分川左岸まで1,066万㎡が埋め立てられ、昭和35年(1960年)から39年(1964年)にかけて、九州石油、富士製鉄 ( 新日本製鉄 )の進出が決まり、昭和39年(1964年)には、九州で初めての製油所である九州石油が日産4万バーレルで操業を始めている。

2010年9月10日金曜日

母・ともゑ (20100910)


   今年の夏の暑さは異常で北海道や青森など東北地方の北部を除き連日30度以上、それも35前後が殆どで、場所によって37度、38度という高温の日が1ヵ月半も続いている。9月に入って台風が日本海を回り東北地方を横切ってオホーツク海に抜けた日は北寄りの風が吹き込んで涼しかったが翌日にはまたいつもの暑さがぶりかえした。天気予報ではこの暑さも12日以降は幾分和らぐということである。

  このところ信輔は久しく会っていない竹馬の友、洋介のことが気になっていた。電話してみようと思いながらずるずる今日まで経ってしまった。信輔が半年ぶりに洋介に連絡をとったきっかけは信輔が今朝見た夢であった。信輔は今朝明け方母・ともゑの夢を見て目が覚めた。夢の内容は覚えていないが間違いなく母の夢であった。

  ともゑは信輔が10歳の時、日本がアメリカとの戦争で負けた翌年の昭和21年12月18日、33歳の若さでこの世を去った。1年前の8月、ともゑは信輔ら子供3人を連れて朝鮮から引き揚げて信輔の祖父にあたる義父・又四郎の家に身を寄せたが、そのときともゑの乳房には異変があったに違いない。その年の9月末に信輔の父である夫・一臣が朝鮮人の同僚たちに仕事の引き継ぎを終えて引き揚げてきた。その後昭和21年の正月を挟んで、戦地から信輔の叔父たちも次々帰還してきて又四郎の家は急に大家族になった。そういう状況の中でともゑの乳房のしこりが目立つようになり、ともゑは親戚筋にあたる別府の内田病院に入院した。その時は既に手遅れの状態であった。

  洋介は千葉の松戸に住んでいる。「お・げ・ん・き・で・す・か?」「お、おー、有馬か、ま、なんとか生きていているよ、毎日暑いねー」。有馬は信輔の名字である。洋介の名字は内田である。信輔と洋介は小学校のときからお互い名字だけで呼び合っていた。同じ竹馬の友でも‘君(くん)’づけで呼ぶ友もいる。鈴木芳郎に対してはどういうわけか小さい時から「よしろうくん」と呼んでいた。鈴木、佐藤、犬の糞(くそ)というほど鈴木とか佐藤という名字は多いのでそう呼んでいたのか、芳郎君の家は大資産家であったため子供ながら敬意を表してそう呼んでいたのか定かではない。

  「俺、今朝、母上(はあじょう)の夢を見てね。急に君に電話したくなったんだ。さっき君が前に送ってくれた子供のころの写真を取り出してみて見たんだ」。洋介のところでは夕食も終え、内縁の妻の立場である美千代さんが電話の向こうで何やら言っている声が聞こえる。洋介は信輔の子供の頃のことを聞いてその頃のことをいろいろ確かめたくなった。

 竹馬の友といっても、信輔や洋介や芳郎がお互いの家を行き来して遊んだのは信輔が終戦後別保小学校に転校した昭和20年9月以降のことである。しかしお互い子供の時のことなので良く覚えていない。洋介は信輔と一緒に別保小学校に入学したと思い込んでいた。

  「小学校に入ったのは数えで8歳、満で7歳」と洋介が言う。「違うよ、満8歳だよ。」と信輔。「ん?俺たちは昭和12年生まれ」。「そう、1937年だ、戦争が終わったのは昭和20年、1945年だ。そのとき俺は9歳だった」。信輔も頭の中がちょっと混乱してきた。

2010年9月9日木曜日

東京裁判(補足)(20100909)


 この「東京裁判」というタイトルでの記事を昨日で終わらせるつもりであったが、男は孫たちに日本の近代史を勉強してもらいたく、これまで公開した記事のうち東京裁判の部分を抜き出し、補足を加えてまとめた。以下は、その補足の部分である。


 東京裁判(正式名称「極東国際軍事裁判」)では、南京虐殺が正当化された。勿論、日本軍による不条理な殺人行為が全くなかったといえば嘘である。しかし「鼻を削ぎ、耳を削ぐ」といった残虐行為を日本軍が組織的に行ったという事実はなく、全くのでたらめである。

 日本軍は南京攻略にあたり「オープンシティ」を提案し、大量のビラ撒いたがたがシナ軍は応じなかった。「オープンシティ」とは「これ以上攻撃すれば市民に被害がでるから町を明け渡せ」ということである。日本軍が撒いたビラは東京裁判では採用されなかった。南京郊外にある中山陵(ちゅうざんりょう)という孫文を祀った丘がある。支那事変で日本軍はその丘に大砲を置き、世田谷区ほどの広さの南京に向かって砲撃すれば一番命中しやすい。しかし日本軍は其処は孫文の墓がある場所であるためその丘は使わなかった。

 いわゆる南京事件というものはシナ軍の敗残兵によって引き起こされたものであった。敗残兵が上記のような残虐行為を行った。それを日本軍のせいにされてしまった。

 戦後、中国は東京裁判の結果を最大限に利用した。中国は南京大虐殺紀念館、中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」を建設した。

 この南京大虐殺紀念館の建設にあたり、「元日本社会党委員長であった田辺誠は1980年代に南京市を訪れ当館を建設するよう求めた。しかし当初、中国共産党は資金不足を理由に建設には消極的だった。そのことから同氏は総評から得た3000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。3000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。また記念館の設計は日本人が手がけた。」(「」内はWikipedia記事)。

 中国はこの記念館を中国人の愛国教育に最大限に活用している。その中で掲げられている写真の多くは偽造されたものであることが分かっている。

 日本軍が敬意をもっていた孫文について、8日付の読売新聞によれば、上海万博の日本館で中国革命の先駆者とされる孫文(1868~1934年)と、盟友で多額の資金援助をした長崎出身の実業家・梅屋庄吉(1868~1934)の交流を紹介する特別展が開かれ、2万人以上が足を運ぶ人気企画となったということである。

 このようにして日中両国間で間違った歴史認識が徐々に是正されてゆけば喜ばしいことである。


 マッカーサーは朝鮮戦争を指揮し、原爆を使うことを提案して当時のアメリカ大統領トルーマンから解任された。

 朝鮮戦争から呼び戻されたマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会で「Their purpose, therefore, in going to war was largely dictated by security (彼ら(日本人)の戦争に入った目的は、主として自衛のために余儀なくされたものである。)」と証言した。これは東京裁判における東條の主張と全く同じである。

 靖国神社にA級戦犯の方々が祀られている。A級戦犯の方々には確かに結果として悲惨な戦争をやめさせることが出来ず310万人の戦争犠牲者を出してしまった責任がある。

 戦争犠牲者310万人のうち兵員は230万人、一般市民80万人である。兵員230万人のうち約5万人は現在の韓国・北朝鮮及び台湾の人たちである。

 しかもこの兵員230万人のうち玉砕で戦死した方々、南方の島々で飢えと病気で亡くなった方々、特攻隊で亡くなった方々が非常に多い。

 A級戦犯という扱いは不当なものであったが、国の指導者たちがこれほど多くの犠牲者を出した責任は重い。そういう意味で彼らは靖国神社に祀られるべきではなかったと思う。祀られるならば、国として別の然るべき社を建て、そこに彼らの霊を祀られるべきである。そのようにすれば、国家の命令で戦地に送られ、死んでいった方々を内閣総理大臣が国家を代表して、堂々とお参りできる筈である。別に立てる社への参拝は、個人個人の宗教観に基づいて行えばよいことである。


 日本国政府として公式に東京裁判の結果を受け入れているが、時代も変わり、世代も変わり、考え方も変わってきている。

 何処の国でも自存自衛の権利はある。近代の日本はマッカーサーが証言したように、自存自衛のため行動したのである。その結果、蟻地獄に陥ったようにずるずる最悪の事態まで行ってしまったのである。

 日本がとった自存自衛のための行動は間違っていなかった。国会議員の立法で東京裁判の結果の見直しを行い、近代の日本が取った行動は決して間違っていなかったと決議すべきである。その一方で、日本がとった行動の結果、中国、韓国、北朝鮮、東南アジア諸国の人々に多大な苦痛を与えてしまったことを率直に認めればよいのである。

 近代日本が列強諸国とのせめぎ合いのなかで自存自衛のためとった行動の結果、ずるずる深みにはまり込んでしまった。そのことについてある大学の教授が「それを侵略と言うんだ」と声を露わにして田母神元航空幕僚長を非難した。自民党の石破氏までもが田母神氏を非難した。

 日本人は東京裁判の判決が間違っていたことを知り、自虐的史観から立ち直り、自存自衛のため命を懸けて戦い、死んでいった人たちに感謝の気持ちを持ち、未来に向かって正しい歩みをしなければならない。日教組など若い世代や子どもたちに間違った歴史観を植え付けようとする連中は、国賊である。

2010年9月8日水曜日

東京裁判(エピローグ)(20100908)


 男はこのタイトルで毎日少しずつ勉強したことを書いてきたが、今日はその結論を書く。昨日母のことを中心に私小説を書くと宣言したが、それは明日から本格的に取り組むことにする。そのためこのタイトルを終わらせることにした。

 日本人の近代史観、とくに明治以降日本が中国や朝鮮と関わった歴史観については、最左翼に自虐的史観があり、最右翼に皇国史観があると思う。自虐的史観は東京裁判の判決を正しいものとし、中国や朝鮮に対して日本は悪いことをしたという思想である。一方、皇国史観は東京裁判の判決は勝者側が敗者・日本に憎しみと憎悪を表したものであって、日本は先の戦争では中国や朝鮮や東南アジアの近代化に良いことをしたという思想である。何れも正しくない。日本は引くことを知らぬため、ずるずる深みにはまっただけである。

 清朝末期、中国は欧米・ロシア列強の餌食になっていた。東南アジアは欧米列強の植民地であった。中国大陸に日本が進出したことについて、日本が欧米・ロシア列強と同じことをしたし、そうしなければ日本の安全は保たれないという理屈はあった。当時の状況としてそれは正しい理屈であり、日本だけが侵略者扱いされることは不公平である。

 しかし東京裁判の判決では敗者・日本だけが悪者扱いにされ、A級戦犯とされた東条英機、板垣征四郎、土肥原賢二、松井石根、木村兵太郎、武藤章、広田弘毅、7人の指導者たちは絞首刑に処せられた。しかもそれはナチスドイツの指導者の犯罪と同列の犯罪者として扱われた非常に不当なものであった。

 Wikipediaから引用;絞首刑になった7人の判決理由は次のとおりであり、全く不当なものであった。これには原爆投下というアメリカの犯罪を隠すためであったという見方がある。

東條英機:第40代内閣総理大臣・・ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪

板垣征四郎:満州国軍政部最高顧問・・中国侵略・米国に対する平和の罪

土肥原賢二:第12方面軍司令官・・中国侵略の罪

松井石根:中支那方面軍司令官(南京攻略時)・・捕虜及び一般人に対する国際法違反

木村兵太郎:、ビルマ方面軍司令官・・英国に対する戦争開始の罪

武藤章:第14方面軍参謀長(フィリピン)・・一部捕虜虐待の罪

広田弘毅:文民、第32代内閣総理大臣・・南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任

 Wikipediaに東條英機のことがいろいろ出ている。彼は「前へ前へ」の一点張りで引くことを知らぬ面があった。統帥の中枢にありながら陸海軍一元化の統帥ができなかった。彼の取巻き(憲兵)が彼に反抗するものを左遷し予備役に入れる措置をとったり、徴兵し2等兵として前線に送ったりもした。

 男はもし小沢氏が首相になれば似たような状況になるのではないかとふと思った。ただ軍人である東條には潔癖さはあり、「金と数」をたのむような面は全くなかった。

2010年9月7日火曜日

東京裁判7(20100907)


 男は今朝母の夢を見た。その内容は忘れた。母は男が10歳のとき、終戦の翌年(昭和21年(1946年)の12月18日、乳がんで死んだ。男は「あの世」に行く前に、是非、母のことを中心に、できるだけ事実に基づき、事実がはっきりしないことは多少の想像も含めて、小説的に書き遺しておきたいと思った。それは一般に公開し、男の子や孫の世代、その先まで、男の母のことが語り継がれるようにしたいと思った。

 何故、そうしたいのか。男は命の永遠性を確信しているからである。現世に生きる男は、あと10年前後の間に、或いはもっと先に、「この世」を去り、「あの世」に逝く。男は「あの世」で母に会え、父に会え、祖父や祖母たちに会え、叔父や叔母たちに会えると確信している。皆、男が子供のころ、男を暖かく見守り、愛してくれた人たちである。

 男が子供のころ過ごした土地は昭和45年(1960年)ごろから鶴崎臨海工業地帯及び周辺の住宅地域として急激に都市化され、子供のころの田園風景は全く無くなってしまった。しかし、男が昭和28年(1953年)中学校を卒業したときの同級生たちは約3分の2、約200名が当時の鶴崎校区や大分県内に居住している。小学校・中学校を通じて友達、‘竹馬の友’であった人たちもその地に多く居住している。東京近辺に住んでいる竹馬の友も数人いる。皆、齢73歳になっている。

 今年の4月末、別府のパストラルホテルで同級生50数名が一泊して有志の同級会が開かれた。57年ぶり顔を合わせた同級生が多かった。かつての女子中学生たちも年老い、中には座椅子でないと座れなくなっていた人もいた。かつての男子中学生たちも皆老人になった。57年ぶりに会って、話しているうちにようやく往時の面影を思い出す状況であった。

 男は母の思い出を中心に小説を書き遺しておくことは、非常に大きな意味があると思った。女房にこのことを話したら、「また忙しい仕事ができましたね」と言われた。それはそうであるが、このような小説を書くと言うことは男の生き甲斐でもある。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 盧溝橋付近で起きた最初の発砲については、シナ(支那)軍の偶発的発砲とか、日本軍の自作自演説とか、中国共産党の陰謀説など諸説があったが、少なくとも実包をすべて封印して演習中の日本軍がはるかにかずの多いシナ軍を挑発して戦闘を誘発するような行為を仕掛ける理由は全くなかった。

 発砲は偶発的であり、その目的もわからなかった。その結果、小規模な戦闘が行われ、その間には停戦の折衝も行われた。しかし停戦協定はシナ軍によってすべて破られた。

 シナ軍による発砲事件が繰り返されるうちに、昭和12年(1937年)7月29日に北京の郊外にある通州で日本人200人以上が虐殺される事件が起きた。これを契機に日本軍とシナ軍との全面的な衝突へと発展していった。

 後日わかったことは、発砲事件は蒋介石の国民党軍に潜り込んでいた共産党員によるものであったことである。毛沢東の陰謀であったのである。そのことにつては明日続きを書く。

2010年9月6日月曜日

東京裁判6(20100906)


 今朝、NHKの日曜討論に菅・小沢両氏が出演した。そこで小沢氏が口にする「多数決」について気になった。民主主義における多数決は本人の自由意思で決め、多数を占めた意見・考え方などを多数の意思と見なすものである筈である。

 ところが小沢氏の言う「多数決」は、色々な形で‘締め付け’を行って多数を決めるやり方であるように、どうしても見えてしまう。実際に小沢氏が直接‘締め付け’を行うことはあまりないであろうが、取り巻きの人たちがそのようにすると思う。小沢氏の側近たちは皆‘正義感’に燃え、山岡氏は「小沢氏はステーツマンであって、エンタテイナーではない」と公言した。これは物言わぬ一般国民を馬鹿にした発言である。

 小沢氏を初め側近たちは「圧力」をかけることが好きなようである。インターネット上にはそのような話題が沢山出ている。「圧力」をかけることができる政治家を人々は「実行力がある政治家である」ように見える。小沢氏が「自分ならできる」と力強く発言すれば、人々は彼を頼もしく思う。

 新聞報道によれば小沢ガールズの一人・山尾志桜里衆議員議員が菅氏を応援すると表明したら「小沢氏の恩義を忘れたか」と抗議の電話が来ているという。小沢氏はマスコミにより悪者にされていると思う人たちからであろう。

 昨年夏の第45回衆議院選挙では民主党の得票数は小選挙区で33,475,334.854票、得票率47.43%、比例区で得票数29,844,799票、得票率48.3%で何れも投票総数の過半数には満たない。民主党は国民の意思によって政権を担ったことは間違いないが、国民の過半数の意思を得ていたわけではなかった。

 国民の多数が過半数が民主党を支持したわけではない。然るにこれまでの政権運営の結果、マニフェストを修正せざるを得なかったことを小沢氏は全く認めようとはしない。彼の多数決の考え方が彼を及び側近たちそのような間違った信念に駆り立てている。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 北清事変は、当初は義和団を称する秘密結社による排外運動であったが、1900年に清国の西太后がこの反乱を支持して欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった戦争である。この戦争で日本はイギリスの要請を受けて5000人規模の軍を派遣した。戦争は1年ほどで終了し、北京議定書が締結され、清国は歳入が8800万両強であったにもかかわらず、課された賠償金の総額は4億5000万両、利息を含めると9億8000万両という莫大な額であった。清国内は乱れ、その隙に乗じてロシアは満州に侵攻し、満州全土を占領してしまった。これが日露戦争の原因となった。(以上はWidipediaによる。)

 北清事変終結後北京議定書に基づき、日本を含む欧米やロシア列強各国は自国の公使館を保護するため軍隊を駐留させていた。そういう状況下、昭和12年(1937年)7月7日、北京の南西にある盧溝橋付近で兜もかぶらず空砲で軍事教練を行っていた日本軍に対して何者かが発砲してきた。これは毛沢東の謀略であった。こうして支那事変が起こった。

2010年9月5日日曜日

東京裁判5(20100905)


②細野氏が「苦渋の決断」で小沢氏支持を表明した。言動は穏やかであるが常に計算づくめで語っているように見え、権力志向的に見え、地元の身近な‘おっさん、おばさん’達の言うことに動かされやすく見える彼の性格では、当然の行動であろう。彼は小沢氏にそのようなところを見込まれ、党内でそれなりの立場に就くことができたと思う。そしてマスコミに注目されるようになった。

 しかし、男は将来彼が一国のリーダーになることは国にとって小沢氏同様危険であると思う。もし彼が将来一国の総理大臣を目指すならば、国の為私心を持たず命を懸けて行動した幕末の志士たちのようにあらねばならない。しかしそのような志の元は幼少の頃から培われるものである。その素質は自ずから人相・風格に顕れるものである。

 若い民主党員たちも‘永田町の論理’に毒されて‘物言わぬ一般庶民’の心底の願いや思いを理解できずにいる。柔道のやわらちゃんなど先輩の‘おっさん議員’達に持ち上げられて、小沢氏の出陣式で得意になって音頭をとった。あほらしい!

 ベター論でゆくならば現職菅総理が頑張って是非民主党代表に再選されてほしいと思う。それが大方の国民の願いである。そしてリーダーシップの基盤を固め、自民党やみんなの党やたちあがれ日本や新党改革などと連携して国民の願いを一つ一つ実現して行って欲しい。さもないと時期衆院選挙で民主党は立ち上がれないほど大敗するであろう。

 小沢氏に付和雷同のようにくっついている国会議員たち、即ち陣笠小物議員たちは、そのとき自分に都合がよい政党に流れてゆくだろう。今朝、日本テレビに出演した川内氏は鳩山グループに所属しているようであるが、口角泡を飛ばせて小沢氏を擁護していた。彼も付和雷同組、良く言えば鳩山氏同様国民からかけ離れた見識の持ち主であると思う。

 民主党政権になって、一般国民の見識も一層高まってきた。これからの政党はそのような国民のレベルを読み間違うと大失敗すること必定である。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 満州族の王朝である清朝は長くシナの土地を支配するが、19世紀半ばになると西欧列強の脅威に晒されるようになった。とりわけ1840年(天保11年)のアヘン戦争、1857年(安政4年)から1860年(安政7年)にかけて起こったアロー戦争で清国はイギリスに敗れ、何とか独立は維持できたものの半ば植民地化された。19世紀末になるとやりたい放題の外国人たちに不満を募らせた民衆が清国軍とともに北京にいた外国人を取り囲むという事件が起こった。このとき、列強八カ国(日本・ドイツ・イギリス・フランス・ロシア・アメリカ・イタリア・オーストリア)が自国民の保護のため軍隊を派遣した。

 このときロシアは氾濫に乗じて満州に侵攻し満州を占領してしまった。日英米が抗議するとロシアは撤兵を約束したが居座り続け、北朝鮮に入ろうとした。日本は列島の安全を保つためロシアの朝鮮半島への南進を阻止ししようとして日露戦争(明治37~38年)(1904~1905年)が起きた。日本はこれに勝利し、満州をロシアから奪還し、清国に返還した。

2010年9月4日土曜日

東京裁判4(20100904)


 菅氏と小沢氏が日本記者クラブで討論会を行った。今朝(3日)のテレビ朝日で小沢氏が生出演した。一般的な印象は、菅氏はクリーンな政治を目標とし、組織内の調和・調整を重視して国政を行うタイプ、小沢氏は権力を集中して自分の思い通りに国政を行おうとするタイプである。一般国民は閉塞感から独裁者の出現を心の深奥では願っているだろう。

 小沢氏ならば何かやってくれるのではないかと期待している人たちは多いだろう。しかし、成熟したこの日本の社会では、一般国民はもう小泉氏のようなタイプのリーダーの出現を望まない。中庸で調和のとれた政治を望んでいると思う。

 小沢氏が主張するような政治主導で地方にもっと大きな裁量権を与えるようにすること、企業に蓄積され、それが十分活かされていない富を、法律を作ってもっと多く分配されるようにするということ、最終的には総理大臣の権限とリーダーシップで、一部に不満が残っても全体として調和のとれた形にすることなどは、菅首相でも今度の代表選に勝てばできることである。

 男は菅氏ならばそれが出来るはずだと思っている。何しろ選択肢は菅氏と小沢氏の二つだけであるから、どちらを選択すれば‘ベター’かということであるから、菅氏が上述のような小沢氏の主張を十分取り入れた政策を、強いリーダーシップにより、全体として中庸な、調和のとれた形に持って行くならば、国民は菅氏を支持するだろう。

 来週、菅氏がテレビ朝日に出演するという。男は菅氏の発言に注目したい。なお、今朝の小沢氏の発言の中で、アメリカの海兵隊は日本に駐留してもらう必要はない、日米対等であるからアメリカに強く発言すべきであるという趣旨のことを言ったが、これは見当違いである。小沢氏は軍事システムについて見識がない。日本が核兵器を保有し、強い即応打撃力を保持し、集団的自衛権として在日アメリカ軍に軍事的に支援するならば双務的であるが、現状はそれに程遠い。首相になろうとする政治家がその程度の見識であるから、一般国民はなおのことである。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 京都大学教授滝川幸辰氏、法政大学総長大内兵衛氏などはコミンテルンの陰謀に引っかかった人たちである。昭和2年(1927年)、当時の首相・田中義一の名を語り、田中義一が天皇に上奏したとう怪文書が中国語に翻訳された。その文書の内容は日本の世界侵略計画であった。それもコミンテルンの陰謀であった。

 ソ連の主張によって、昭和13年(1938年)の張鼓峰事件(満州東南端にある張鼓峰で起こったソ連との国境紛争)や、翌年1939年に起こったノモンハン事件(満州とモンゴルの国境紛争、当時モンゴルはソ連領)といった、既に停戦協定が成立し解決済みの問題まで持ち出して、それらを日本の侵略として糾弾している。

 そのソ連は日本の固有の領土であった千島列島を侵略し、ロシアに変わった今もなお北方四島を占有し続けている。しかもその侵略を行った日、9月2日を戦勝記念日にしている。

2010年9月3日金曜日

東京裁判3(20100903)


 昨日、菅、小沢両氏はそれぞれ約120名ほど集めて決起集会をし、その後、都内のホテルで共同記者会見を行った。両氏の元々のスタートラインは共に関わった民主党のマニフェストにある。ところが、菅氏は過去1年にわたる民主党政権での経験を踏まえ、マニフェストの修正も含め現実的路線を目指し、一方、小沢氏はマニフェストの完全実行を目指している。男は、小沢氏の意図は別のところにあると見る。

 小沢氏はマニフェストの完全実行が無理なことは百も承知であろう。では、何故党代表・内閣総理大臣を目指すのか?彼は、二つの目標があるように思う。一つは内閣総理大臣になって、政治と金の問題を払しょくする。鳩山氏ももし内閣総理大臣でなければ、巨額脱税の罪に問われていた筈である。小沢氏も内閣総理大臣になって、目前の暗雲を払しょくしようと考えていると思う。もう一つは、代表選に負けても、小沢氏は自分のため手足となって働いてくれた者を、国政の重要なポストに就かせ、その労に報いるということである。その場合、政治と金の問題は払しょくされないが、これまでと状況は変わらない。

 何れにせよ、小沢氏にとって代表選に打って出ることは得策である。菅氏が小沢氏排除の方向を打ち出したので、ここがチャンスと代表選に打って出たのである。

 さて、小沢氏は剛腕で予算の完全組み換えを行うという。「小沢氏ならやれそうだ」というイメージが先行している。しかし、そのようなことが出来る筈がない。これまで大臣職に就いていろいろ勉強した方々、官僚、民意を含む強大な複合システムに対抗して、小沢氏及び側近グループ及び一部の閣僚経験者たちのシステムは弱い。システム対システムの戦いに勝てるわけがない。

 小沢氏は普天間問題は白紙に戻さないが沖縄と米国両方が納得する妙案があると公言した。沖縄住民を納得させるには所得税や住民税を軽減して、個々の住民に目に見える形がないと沖縄住民は納得しないだろう。それは出来る筈。菅政権は真剣に考えるべきである。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 本来侵略戦争にあたらない満州事変が何故「侵略戦争」とされたか?それは当時、ソ連の共産党国際組織(コミンテルン)に愛新覚羅溥儀が脅されていたからである。溥儀は、彼の出自の清朝を彼の故郷、清王朝発祥の地で再興させたいと自ら進んで満州国皇帝に就いた。当時の日本政府はそれを歓迎し、軍閥割拠するその地で日本軍は彼の政府を助けた。日本の支援により満州国は著しい発展を遂げ、人口も急増した。バチカンを初め世界の20各国が満州国を承認した。日本が満州を侵略して傀儡政権を建てたのではない。

 そもそも満州事変の背後にはコミンテルンの陰謀があった。そのことを除外しても、世界に承認された正式な国家・満州国はポツダム宣言受託の時点では明らかに終わっている問題であり、今次の戦争の範囲には入らない。それを東京裁判では敢えて満州事変を侵略戦争としたのである。どうしても日本の指導者たちを処刑したかったのである。それも裁判官全員一致ではなく、4対7の評決で決定されたのである。

2010年9月2日木曜日

東京裁判2(20100902)


 民主党代表選に菅、小沢両氏が立候補することになった。仲介した鳩山氏は「宇宙語しか話せない伝書鳩」と揶揄された。

 「トロイカ+ワン」とは「小沢・鳩山・菅+輿石」4氏のことであるが、菅氏は、これを人事権を持たない「顧問会議」の形と理解し、党内がこれでまとまるならば、と考えた。一方、小沢氏側は人事権まで持つ形を考えた。同床異夢である。菅氏は4氏で話し合うことを拒否し、小沢氏と二人だけで話し合った。

 小沢氏グループと菅氏グループと、‘システム’としてどちらが強いか考えてみた。小沢氏グループはお金を力の源泉にしているが、頭脳システムとしては菅氏グループよりも弱いと思う。菅氏グループには前原氏、岡田氏など秀才が揃っている。一方の側は子飼いの‘ガールズ’はいるが秀才が少ないように見える。テレビで出てくる顔は、言ってみれば頭が悪そうな、それでいて‘ポスト’が欲しそうな、どちらかと言えば田舎の年寄りが多そうな方たちである。そのような人たちが政治家を後押しした時代はもう過去のものである。

 一方、菅氏グループに必要なのは、エネルギーの源泉としての‘お金’であろう。菅氏の幕僚(スタッフ)は、積極的に財界に働きかけ、献金を求めたら良い。財界といっても、中小の、30歳代、40歳代が経営者たちである。

 修羅場をくぐりぬけた回数は小沢氏の方が多いが、菅氏も今回、鳩山氏が仲介した権力闘争の修羅場を行っている。それもお金が絡まない権力闘争である。これは大きな経験である。それこそ若い世代が望んでいる形である。‘小沢ガールズ’たちも、政治家として今後一層研鑚を積んで行こうと思うならば、‘旦那’小沢氏から距離を置く方が得である。今夕、両氏の政策が発表される。その内容はどのようなものか、大いに注目される。

 さて、昨日に引き続き「東京裁判」について、要点をピックアップして書く。

 東京裁判では、日本が侵略戦争を始めた年はいつなのか、ということが大きな問題になったということである。これは満州事変を侵略戦争とみなすかどうかということである。結局、法廷は日本の侵略戦争の開始日を1928年(昭和3年)1月1日と決めた。

 ポツダム宣言は「今次の戦争」を対象にしたものである。ところが法廷は「今次の戦争」ではなく、満州事変も対象にした。 その理由は日本が調印した通称「不戦条約(パリ条約)」に日本が違反したという理由を作るためであった。

 この条約では侵略戦争は否定している自衛のための戦争を否定していない。その満州事変はパリ条約に違反するものではない。そのことを、当時日本も加盟していた国際連盟から送り込まれたリットン調査団の報告で明らかにしている。

 リットン調査団は、イギリス人のリットンを調査団長とし、アメリカ、フランス、ドイツ、イタリアの5カ国の代表からなるものある。リットン調査は満州事変について、「これは、ある国が隣りの国へ攻め込んだというような簡単な侵略とは言えない」と結論づけている。

2010年9月1日水曜日

東京裁判1(20100901)


 今日(8月31日)は、これまでになく蒸し暑さを感じた。菅首相と小沢氏は共に民主党代表選を戦うことになった。両氏の党運営の手法と政策は違っているし、それぞれ支持者がいるので、両氏が話し合って代表選を避けることができるというものではない。

 党運営に関して小沢氏は政調会議を廃止し、党に一本化するということである。これに対して菅首相は旧政権同様政調会議を置き、そこにいろいろな分科会を設け、党員全員参加する形をとっている。その方が挙党態勢として分かりやすい。小沢氏の手法は陳情も党に集中させ、権力を手にし、自在に政治を操ろうとしているとしか見えない。

 政策に関しては、小沢氏は自分が作ったマニフェストどおり実行し、財源として消費税は上げないという。これに対して菅首相は現実的な対応と取ろうとしている。それを小沢氏は現政権が官僚の言いなりになっていると批判する。これに対して菅首相は縦割り行政の弊害をなくす行革を断行しようと考えている。

 明日両氏はそれぞれの政策を発表して選挙戦に突入する。お互い選挙を戦った後は協力し合うと言うが、さてどうなるか。どこの国でもトロイカ体制はうまく行かない。まして今回鳩山氏が仲介して「トロイカ+ワン」体制となるなら一層ややこしい。

 鳩山氏は普天間基地問題で国益を損ない、また「トロイカ+ワン」体制で閣僚の活力を削がせ、結局国益にならぬことばかりやっているように見える。永田町の論理はもはや国民には通用しなくなっていることを彼は全く理解していない。菅首相も鳩山氏に説得されて鳩山氏が言った回数よりも多く「トロイカ+ワン」と公に言った。首相は指揮官(コマンダー)型でなく、調和・調整を重んじる幕僚(スタッフ)型のように見える。

 さて、外出の車中で『東京裁判を裁判する』(渡部昇一著、致知出版社)を読んだ。男は東京裁判の記録を読むほどの時間はないのでこの本に書かれていることが東京裁判の記録に正確に基づいているかどうか、自ら検証しようとは思わない。しかし、この本に書かれていることは100%正しいと確信している。

 初めて分かったことは、A級戦犯となって処刑された方たちは、結局、「通常の戦争犯罪及び人道上の罪」に問われたのであって、決して戦争を率先して始めたため罪に問われたのではなかったことである。

 東京にいて直接関わってもいず、遠い戦地で人道の罪を犯した日本兵たちの指揮監督の責任を問われて処刑されている。それも南京大虐殺という作られた嘘などによってである。ナチスドイツのようにヒトラー首相以下指揮官・幕僚が自らユダヤ人大量虐殺の罪を犯した人たちと同列の扱いであった。本来、死刑に値しない罪で処刑されたのである。

 「通常の戦争犯罪及び人道上の罪」の中身は①戦争法規違反の共同謀議、②戦争法規違反の命令・授権・許可、及び③戦争法規遵守の義務違反の三つである。

 このことを男は今まで知らなかった。男同様殆ど多くの日本人はA級戦犯に扱われた人たちの罪名を知っていないだろう。日本人は東京裁判についてよく知る必要がある。