2013年2月28日木曜日


「ケセラセラなるようになる」国と「我慢・辛抱・忍耐・努力」の国(20130228

 何処の国の言葉か知らないが「ケセラセラなるようになる」という言葉が歌詞の一部にある歌がある。日本でも高度成長期に『スーダラ節』というのがあって「わかっちゃいるけどやめられねえ」という流行歌が大変ヒットした。そこには「我慢・辛抱」などを吹き飛ばすような雰囲気があった。

 しかし2年前の東日本大震災以降日本人の「我慢・辛抱・忍耐・努力」の精神が蘇ったようである。日本人は苦境に立つと団結し一丸となってその苦境から脱出するために戦う。大東亜解放戦争は後に日本占領軍司令官マッカーサー元帥がアメリカの議会で証言したように日本の自衛のための戦争であった。同時にそれは欧米列強諸国による侵食からアジアを守りアジア人に対する欧米人の差別・蔑視を無くしアジア諸国を解放するための戦争でもあった。

 戦艦大和はそういう戦いにおいて艦長以下乗組員一同これが戦艦大和の最期となることを承知のうえ死に場所を求めて出撃し戦艦大和と運命を共にしたのである。阪神淡路大震災・東日本大震災はその大災害により自分が愛する人を失った方々や住み慣れた故郷を失った方々にとっては大変悲しい出来事であった。しかしそれは一方で『スーダラ節』の時代に生まれ豊かな環境で育った今の現役世代の人たちに日本人が本来持っているべき大和魂を呼び起こしてくれた「天佑」でもあった。

過去の歴史を振り返ると633年日本はシナ(唐)・新羅連合軍により滅亡の寸前にあった朝鮮半島西南部の百済国を救おうと白村江に42千人の大軍を派遣したが大敗を喫した。それを契機に当時の日本政府はシナ・朝鮮大陸からの侵攻に備えて北九州沿岸及び対馬・壱岐の離島の警備のため防人(さきもり)を配置した。

その640年後シナ(元)の皇帝になったモンゴル人フビライ=ハーンが日本に使者を送り元への服属を要求してきた。当時の日本の首相に相当する執権・北条時宗はこれを拒否した。1274年元は大軍をもって日本に侵攻してきた。日本の国土防衛に当たった九州の武士団は侵攻して来たシナ(元)軍と戦ったが大いに苦戦した。そのとき幸運にも暴風雨になりシナ(元)軍は大きな被害を受け撤退した。日本はシナ(元)が再び侵攻してくることを警戒し九州北部の海岸に防塁を築くなどして防衛体制を固めた。

1281年シナ(元)は今度は二つのルートで日本に再び侵攻してきた。九州各地の武士団から成る日本軍はその二つのルートの侵攻軍と戦ったが損害も多かった。罪のない一般農民の婦女子らは手に穴を開けられ縄を通され繋がれるなどシナ(元)の侵攻軍による残虐行為に遭った。この時も暴風雨となりシナ(元)の侵略軍は壊滅した。

それから730年後の現在、シナ(‘中国共産党王朝’国家)は沖縄への侵攻の計画を着々と進めている。しかもその意図を公然と発表している。それは平和をむさぼって来た日本人に対する情報戦の一環かもしれない。さらにそれはアメリカに対する沖縄県民の反感を煽りシナ(‘中国共産党王朝’国家)への親近感を増進させようと企む一部のマスメディアや活動家たちに働きかけ日本人の団結を阻止しようとする工作の一環かもしれない。しかし日本人は平和の眠りから目覚めたのだ。シナ(‘中国共産党’)の思いどおりにはならぬ。

2013年2月27日水曜日


視力が低下している。予防医学が重要である。(20130227

 日常生活の中でパーソナルコンピューター(パソコン)や携帯電話に向き合わなければならない現代人の視力は随分衰えている。視力が衰える病気の一つに白内障がある。加齢により眼球の遠近調節がスムーズに行かなくなって目に疲労が生じる。これらは若いうちからその予防に心掛ければ齢をとってからの苦労が少ないであろう。

 予防医学という言葉をよく聞くがその予防法についての知識が普及していない。何事も無知が後に問題を起こす。問題が起きてしまう前に問題の種を見つけ出しそれを取り除いておくことが重要である。人の一生を通じた予防医学について全国民が共有することができるように予防医学の知識を分かりやすく簡潔に説明する本ができないものか。知識は次々新しいものが出てくるであろう。だからその本は一ページごと差し替え方式になっているものが良い。厚生労働省が音頭をとってそのようなノウハウの本を作り国民に有料で配布したらどうであろうか。その本を買うか買わないかは「自己責任」の問題である。

 男は7、8年前白内障の手術を受けた。医師が左右の人工レンズの度数に差をつけ一方の目では近くを片方の目で遠くを見ることができるようにしてくれた。そのお蔭で男は眼鏡なしでも小さ文字を読み取ることができるし遠くのものを見ることもできき。手術直後はそれまで多少黄色に見えていた真っ白い壁が本当に白く見えていた。しかし人工レンズの後ろ側に膜ができるためかもしれないが今は手術直後のような感動はない。しかし実際にはそのような膜などできていないのかもしれない。眼鏡なしでも良く見える。

 人工レンズを使っているので焦点は固定している。天然のレンズであれば遠くを見た後すぐ近くを見ることによって眼球の動きを調節する筋肉の訓練をすることが重要であるが人工レンズなのでそのような訓練は必要ない。しかし眼鏡なしで遠くを見つめた後近くを見つめることを一、二度程度繰り返すことは筋肉の老化を遅らせるために良いのではないかと思われる。またパソコンを扱うときは左右の視力に応じて調節されているサングラスを使うことが良いようである。これらのことは自己流の予防医学である。

 インターネット上で健康維持や病気予防や突然出血したきの対処方法など様々な知識について紹介されている。しかしパソコンを自由自在に操作することができない人たちにはそのような知識は伝わらない。辞書のように索引の出し付きで観単に必要なページを開くことができるようになっている予防医学ノウハウ集が出版されれば生活の質(QOL)を高めることができる人が増えるのではないだろうか?そうなれば人々は幸せを増進することができるのではないだろうか?これは予防医学で「自己責任」を実現させることにもなる。人々の幸せを増進するアイデアを実現させることによって雇用も増えることだろう。

2013年2月26日火曜日

「力」の論理を忌み嫌ってはならぬ(29130226

 「力」の論理を忌み嫌ってはならぬ。但し「力」は万やむを得ないときのみに必要最小限のものを使うようにするべきである。それが武士道である。白鳳・日馬富士などの力士がちびっこたちと相撲をとるとき手加減をする。弱い相手に対してはそれなりの「力」で対応する。それが日本人らしい優しさである。もっとも白鳳も日馬富士もモンゴル出身であるがその言語・態度・行動・習慣等において日本人と少しも違わない。むしろ日本人以上である。彼らには日本に帰化してもらって名実ともに本当の日本人になって欲しいと思うほどである。そういう外国人は最近多くなった。

 一口に「力」の論理と言うとその言葉には武力によって他民族を制圧し「勝てば官軍」という俗語があるように正義は勝者にあるとするイメージがある。日本は先の大戦でアジア諸国に多大の迷惑と苦痛を与えたことは確かであるが「勝てば官軍」の側にあっただろうか?決してそうではなかった。大東亜諸国を欧米列強による支配から解放するという大義があった。事実日本は多大の犠牲を払いながら最後までそういう努力をした。

 再生日本は再び強大な力を持つ国に蘇らなければならない。何も武力だけがその「強大さ」を作り上げる要素ではない。外交・経済・科学・技術・軍事・同盟・資源等の重要な各面において世界のトップレベルに達するようにすることである。その実現のためにどうすればよいか?日本人が持っている創造性・多様性・辛抱・忍耐・努力など特質に加えて日本人が不得手な横の連携・ネットワーク・協同・新しいことへの挑戦などを活発にする知恵を出すことである。公務員は決められた枠組みから外れる仕事をすることが苦手である。その部分について政治家は公務員が自由闊達な発想をし提案することができるような仕組みを作ってやるということが最も重要である。日本人にはトップが旗を振れば皆一丸となって一斉にその方向に向かって行動するという特質がある。

 日本が外交・経済・科学・技術・軍事・同盟・資源等の重要な各面において相手を圧倒するような総合的かつ強大な「力」を持てば尖閣や竹島の問題も北方領土問題も解決するだろう。もし日本国民が国益を守るために一丸火の玉の如くなってそういう「力」を持つべく努力を集中すれば、いずれ日本はそういう強大な「力」を有する国家になり得るだろう。国家は元来利己的なものである。現実の国際社会では国益と国益が激しく衝突する。国益と国益が衝突したとき妥協によってそれは収まる。その妥協の際「力」がものを言う。日本は相手を圧倒するような総合的かつ強大な「力」をもつためにどうしても必要であれば核武装することも覚悟すべきである。これは相手の態度・行動次第である。今、尖閣などでどのようにされても極めて冷静に対応しているが、もしこれに限界があるときやむを得ない。「力」の論理を忌み嫌っていたのでは日本の国益を守ることはできないのである。

2013年2月25日月曜日


神社がある国・言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国(20130225

萬葉集巻五の八九四に山上憶良が「神代より 言い伝(つ)て来(く)らく そらみつ大和の国は 皇神(すめかみ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり(後略)」と詠っている。我が日本国は古来「言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国」である。日本人は神社に詣で神主から祝詞をあげてもらいとお祓いを受けて安心を得る。神主から神様に申し上げてもらうときその発する言葉には黧・魂が宿っていると信じられている。そういう文化がある国は世界中何処にもない。

この文化は日本と言う国が続く限り子子孫孫の末代まで、国歌『君が代』にあるように「千代にやちよに さざれ石の巌(いはほ)となりて 苔(こけ)のむす」まで続くことだろう。ちなみに日本の国歌の歌詞は『古今和歌集』巻第七「賀(がの)(うた)」の343番の歌に「題しらず」「読人しらず」として収められている歌と殆ど同じである。古今和歌集にある「わが君は」が「君が代」に入れ替わっているだけである。

ちなみに「君」は天皇ではない。天皇は「大君(おおきみ)」である。萬葉集の「防人の歌」には巻十四の「防人の歌」の中に問答として三五六七「置きて行かば 妹はまかなし 持ちて行く あづさの弓の 弓束(ゆづか)にもがな」と防人として出征する夫が歌ったとき、三五六八「おくれ居て 恋ひは苦しも 朝狩の 君が弓にも ならましものを」と妻が応えた歌がある。一方で巻二十の「防人等の歌」には「大君の命恐(かしこ)み」という言葉に始る歌が各所に出ている。左翼思想の人たちが国歌『君が代』の「君」を天皇のことだとして国歌にも国旗「日章旗」にも敬意を表さないのは正しい教育を受けていないことから生じる誤解から来ているのか、それとも日本をシナに売り渡したいと考えているのか、そのいずれかである。もし後者であるならばそういう人たちは日本から出て行ってもらわねばならぬ。

神主が祝詞を奏上するとき最後に「かしこみかしこみもうす」と言う。この部分は祝詞集に「恐美恐美毛申壽」と書かれている。「おそれみおそれみもうす」とも言うらしい。「恐」の文字の古訓では「かしこむ」というものがある。古代の日本では朝廷が祭儀を行うときそれまでの習慣に則りそのような祝詞を上げていたのである。

ある会合である人が「日本人は大陸方面から来た」と言った。彼は原日本人の基層集団が縄文人であり今の日本人は縄文人と渡来系弥生人との混血であることを知らなかった。甚だしいのは某大物政治家がソウルの大学で「天皇の先祖は朝鮮半島からやってきた」と語ったことである。これは文化勲章を受けた東京大学の歴史学者江上波夫の「騎馬民族説」による影響が大きい。

大まかに観てシナ人は漢族中心の顔つきをしている。韓国人は朝鮮族中心の顔つきをしている。それに対して日本人の顔つきは捕えがたいのではないだろうか。日本人は単一民族といいながら非常に多様である。この多様性は大和政権が誕生して以来渡来帰化人が増えたためだろう。日本への帰化人は大東亜解放戦争後急に増えた。そうなると日本の文化を守るため日本が「言霊の幸はふ国」であることが一層重要である。万世一系の皇統を守り、国旗・国歌に対する敬意を厚くし、子供たちに「教育勅語」と「武士道」を教え込むことが重要である。これは決して反動ではない。日本が本来あるべき姿・形に戻るだけである。「振り子の玉」が中心に戻るだけである。(関連:2013223日土曜日『社会の動きは時間とともに移動する振り子のようなものである(20130223)』)

2013年2月24日日曜日


「唐」の時代のシナ・「元」や「清」の時代のシナ・今のシナ(20130224

 ここに白居易の詩がある。白居易の字は「楽天」であったから白居易は「白楽天」とも呼ばれている。また白居易は自らを酔吟先生(すいぎんせんせい)とも香山居士(こうざんこじ)とも号していた。白居易が自ら編纂した自作の詩文集「白氏文集」は白居易存命中の承和11年(844年)に留学僧恵萼により67巻本の『白氏文集』が日本に伝来し評判になっていた。白居易は『白氏文集』が日本で評判になっていたことを知っていたという。

 白居易は74歳のとき自らの詩文集『白氏文集』75巻を完成させ、その翌年の846年に75歳で生涯を閉じている。ちなみに遣唐使が廃止されたのは白居易が没して48年後の寛平6年(894年)のことである。遣唐使は第18次遣唐大使に任じられていた菅原道真の建議によりもうこれ以上唐から学ぶものはないとして廃止されとなったものである。

 この『白氏文集』は平安時代の文学書物語小説『源氏物語』や随筆『枕草子』に大きな影響を与えている。『源氏物語』が出版されたのは長保3年(1001年)のことであり『枕草子』が初めて出たのは長徳2年(996年)のことであるから白居易没後150年ほど経って唐の文学が日本の文学に影響を与えたということになる。

 日本は従来日本独自の官名である太政大臣や大納言などを唐のそれと同じにした時期があった。帰国した遣唐使が天皇に報告するとき唐の官服を着た時期があった。それは国家転覆の罪で斬殺された藤原恵美押勝(藤原仲麻呂)が政権を牛耳っていたときであった。当時の日本にとってシナ(唐)は日本が学ぶことが多かった偉大な国であった。しかしそのシナ(唐)も朝鮮半島東部の「新羅」と組んで日本が権益をもっていた朝鮮半島西部の「百済」を663年に滅亡させた。このことがあって当時の日本政府は日本各地から兵を集め「防人」として北九州に配置し日本の防衛体制を固めた。またモンゴル人が皇帝になった「元」の時代のシナは二度にわたり日本を侵略しようとした。幸い二度とも「神風」が吹いて日本は侵略を免れた。「清」の時代のシナは当時のロシアが朝鮮半島の領有することを許すような行動をとった。それは日本にとって国土防衛上非常に危険なことであった。

今のシナ(‘「中国共産党」王朝’のような国)は1970年ごろに尖閣諸島近辺に石油資源があることを知り尖閣諸島は「明」の時代から中国の領土であったと主張し毎日のように尖閣諸島の領海侵犯を繰り返して日本との間に紛争を惹き起こそうとしている。

各国家はそれぞれ生き残るため必死である。こういう状態のとき日本が生き残れる唯一の手段は国家として外交・経済・科学技術・軍事・同盟関係等を総合した強大さである。それはシナ(共産党王朝国家)を圧倒するような強大さでなければならない。

2013年2月23日土曜日


社会の動きは時間とともに移動する振り子のようなものである(20130223

 物事には必ず‘問題’が起きる。それは一つの‘矛盾’である。それを解決するためにはどうしたら良いのか?そもそも問題が起きる前に表に出ていない問題を見つけ出すことの方が重要であるが、それでも問題は必ず起きる。その起きている問題を解決する方法がある。それは簡単である。道に迷ったとき慌てず焦らず動かず時間をかけて最良の方法を考える。その上で元来た道の出発点に戻ることしかなければ其処に戻るようにすればよい。

 ところがその場合時間経過という要素を考慮しなければならない。そこで物理学的なイメージを考える。宇宙空間にある一点を支点とする振り子を考える。その支点は宇宙空間を一定の軌道で移動している。そのように移動しているから振り子は重力の変化によって振幅を変える。右に大きく引っ張られた‘振り子の玉’はその反動で左に大きく移動する。右に少しだけ引っ張られた‘振り子の玉’はその反動で左に少しだけ移動する。昭和35年(1960年)10月に起きた社会党浅沼委員長暗殺事件、昭和34年(1959年)・35年(1960年)・45年(1970年)に起きた日米安全保障条約に反対する国会議員・労働者・学生・市民らが参加した日本史上で空前の規模の反政府・反米闘争など記憶に新しい。左翼勢力は今沖縄で地元新聞(琉球新報)を中心に同様な活動を行っている。シナ(中国)はその状況を巧みに利用し彼らの綱領に明記してあるとおり沖縄占領政策を推進しようとしている。これに対してその ‘振り子の玉’を元の中心に戻そうとする力強い動きがある。

 大東亜解放戦争終結後日本の社会は右翼だ左翼だと大きく揺れた。世の中が安定して平和になると右も左も少ししか揺れない。今シナ(中国)や北朝鮮の脅威が高まると右左の揺れ幅は一層小さくなり‘真ん中’に収れんしようとする。日本と言う国のその‘真ん中’は神武天皇以来万世一系の天皇を中心にした歴史と伝統と文化である。その‘真ん中’の先に‘振り子の玉’がある。その玉は日本及び日本人である。その‘真ん中’の支点は日本の歴史と歴史観である。‘歴史と歴史観という支点’‘日本及び日本人という振り子の玉’を吊っている。その全体は宇宙空間を一定の軌道上を移動している。‘日本及び日本人という振り子の玉’は移動しながら成長し続けている。

 ところでその玉に宿る自由民主主義思想はアメリカから押しつけられたたものではない。それは江戸時代すでに芽生えていたものであった。それが明治維新後一気に日本の社会に広まり大東亜解放戦争終結後日本の社会に完全に定着した。これは未だに‘(共産党)王朝’国家であるシナ(中国)には無く日本がやむなく併合した大韓帝国が成立する前の朝鮮にも無かった思想である。これは日本がアメリカに降参した結果日本国家の中で完成させることが出来た日本・日本人の大切な宝である。それゆえにこれは子子孫孫の末の代まで、国歌にあるとおり「さざれ石の苔のむすまで」大事にしなければならないものである。

2013年2月22日金曜日


緊急投稿「Facebookから入手した情報」(20130222

 讀賣新聞などには出ていない現地沖縄の新聞の報道。
 真実が九州以北の人たちには伝わっていない。八重山の漁師たちはもし日本国沿岸警備隊(海上保安庁)の警備船(巡視船)が傍に居なかったらシナ(中国)の漁業監視船に拿捕されていただろう。

『琉球新報』:下記URL

『琉球新報』社説の論調は以下のとおり。
①中国が尖閣諸島を「奪う」メリットがあるとは思えない。従って「奪還」のためにオスプレイが役立つこともないだろう。
②全てが中国の動きをにらんだ南西諸島の防衛強化に向けて印象操作されているようだ。
③既成事実を積み重ねる形で「離島防衛」が喧伝(けんでん)され、オスプレイ配備定着が図られている。


『八重山日報』下記URL

『八重山日報』要旨は」以下のとおり。
「海上保安庁の巡視船が中国公船から漁船をガードしたため、被害はなかったものの、中国公船は一時、漁船から5060㍍まで接近した。名嘉全正船長(54)は「巡視船がいなかったら、拿捕(だほ)されていたかも知れない」と証言した。」

原点に立ち戻って日本人の精神を取り戻さなければならない(20130222

 昭和記念公園にはまだ整備中であったが「こもれびの里」という一画がある。ある一つの建物の中には昭和10年(1935年)当時のある農家の様子を紹介する写真パネルが掲示されていた。その一家は子沢山である。決して豊かそうな一家ではないが家族はみな明るい顔をしている。その写真をみてふと思った。人の一生は限りがある。しかしその一生の間一生懸命に生き家族の幸せを願い子孫が栄えることを願って生きている。その積み重ねが現在にある。今の人たちは生まれた時から豊かな恵まれた環境にある。しかし昔は子沢山であっても伝染病で死亡する子供が多かった。昭和記念公園ではその「こもれびの里」で昭和の時代のある農家の情景を再現するように計画を進めているようである。ある建物の中には昭和15年頃の立川駅の前の風景を移した写真が展示されていた。立川の駅前を行き来する人々の中に軍人たちの姿が写っている。その人たちの殆どはもう他界していることだろう。戦死した人たちも多かったことだろう。皆自分がこの世を去った後に残る家族や自分が愛した人たちのことを思いながら死んでいったことだろう。

 総数四五一六首の歌が収められている『万葉集』に大伴家持が敢えて収録した「防人の歌」がある。「防人の歌」は巻十四に五首、巻二十に「天平勝宝七歳乙未(いつび)の二月に相変わりて筑紫(つくし)に遣わさるる諸国の防人(さきもり)等の歌」と題して九十三首が出ている。天平勝宝七歳は西暦で755年、今から1258年前のことである。幾つか目に止まった歌を挙げると巻十四の三五七一番の歌「己妻(おのづま)を 人の里に置き おほほしく 見つつぞ来ぬる 此の道の間(あいた)」、四三二二番の歌「我が妻は いたく恋ひらし 飲む水に 影(かご)さへ見えて よに忘られず」、四三二七番「我が妻も 画に描(か)き取らむ 暇(いつま)もが 旅行くあれは 見つつ偲はむ」、四三四三番「我ろ旅は 旅と思(おめ)ほど 家(いひ)にして 子持(め)ち痩すらむ 我が妻(み)かなしも」、四三五六「我が母の 袖もち撫でて 我が故(から)に 泣きし心を 忘らえぬかも」などがある。

 日本には世界に誇ることができる歌集『万葉集』や小説『源氏物語』などがある。日本が大東亜解放戦争においてアメリカとの戦に敗れたあと、アメリカによって憲法を押し付けられ、教育勅語を廃止させられ、それまでの日本の「歴史観」を失わせられた。若い人たちは日本の歴史や文化を知らずに社会に出た。そういう人たちが結婚し子供を授かった。日本人として確固たる精神を身に付けぬまま自分の子供を育てる立場になった。

 教育の危機が叫ばれている。「教育」は「教」と「育」の二字からなる。「教」には強制の響きがある。「育」には指導の響きがある。「教育」と「指導」は根本的に違うのであるが両者を混同して「指導」は「教」だと勘違いしている向きがある。「上から目線」である。そうではなくて先ずは「環境」を整え「刺激」を与えて自ら「学ぶ」ように仕向けるべきである。その「環境」の原点は大東亜解放戦争終結前までの日本人の精神にある。

2013年2月21日木曜日


加齢に伴う老化の警告を無視してはならぬ(20130221

 出血と言う現象は体の内外を問わず何処にも起きるものである。鼻血もその一つである。普段下着の下に隠れていて出血などないと考えられているようなところでも何かの原因で出血が起きる。処方されて毎夕食後に服用することになっているコレステロールを下げる薬を飲むと気のせいかお腹の調子が悪い。食事には十分気を付け消化の良い物を良く噛んで量は控えめに食べていてもそういうことが起きる気がする。昨夜就寝時お腹の調子が気になりながら眠り明け方近くに手洗いに行った。そこで陰嚢表面から血が出ているのに気付いた。表面にある細い血管が破れたようである。原因は分からない。このようなことが起きるとは夢にも思っていなかったから驚いた。その部分を指で押さえるなどして止血に努める。出血が止まるまで安静が必要であるが気になってその部分を触ると血が止まらない。しばらく安静にしていたら出血が少なくなった。表面の皮膚が破れている部分から細菌が侵入しないように消毒し抗生物質の軟膏を塗ったテープで止めて休んだ。夜が明けたので起床しその部分の状況を見たら出血は止まっている。

 若干の不安感を持ちながら運動を兼ねて立川の昭和記念公園に行った。其処は昔陸軍の飛行場だったところで大東亜解放戦争後はアメリカ軍が使用しその後我が国防陸軍(陸上自衛隊)が使用している。基地返還後国防陸軍(陸上自衛隊)立川駐屯地のほか海上保安庁・警視庁・東京消防庁など各官公庁の施設が設けられ立川広域防災基地となった。中央部は昭和天皇在位50年を記念して国営昭和記念公園が造営され現在に至っている。

 JR立川駅を出ると其処は超近代的な都市空間が広がっている。国営昭和記念公園までは徒歩で10分程度で行くことができる。2月に其処を訪れたのは初めてである。今年は寒気が強いせいか公園内にある梅は紅梅が少し咲いているだけで梅が満開になるのは2週間後になるだろう。公園内で鑑賞できる花は寒咲き菜の花とアイスチューリップとロウバイの一種のソシンロウバイとセツブンソウとフクジュソウぐらいのものである。公園に来ている人はまばらであった。中央の広場では高校生の集団が体育の訓練を受けている。

 公園内を良く歩き砂川口まで往復した。砂川口近くの高架橋になっているところ歩いていると下の道路にキジが警戒しながら横断している。横断し終わって道路わきの斜面に登り茂みの中に隠れてしまった。美しいキジであった。雄のキジである。そのキジが茂みから出てくるのを待つ。しばらくするとそのキジが茂みから現れた。少し遠方であるが橋の上からそのキジをカメラに収めた。今日一日で17千歩ほど歩いた。例のところからの出血は無かった。齢を取ると健康上いろいろな不具合が起きやすい。用心・養生に越したことはない。家に帰って女房とそれぞれデジカメで撮った写真の鑑賞会を行った。出血のことは女房は知らない。男にはそういう苦労もあるのである。

2013年2月20日水曜日


日本古来の柿の渋と直感・辛抱・忍耐・創意・工夫(20130220

 iPs細胞の発見は科学者・研究者の直感と忍耐強さと創意と工夫の賜物である。この研究に対する支援が少なくても辛抱し何度失敗しても忍耐強く実験を繰り返し遂に発見されたものがiPs細胞である。直感・辛抱・忍耐・創意・工夫は日本人が持っている特質である。これは日本という国土・気候の特性のみならず日本人が持っている遺伝子の特質と多様性も何か関係があるに違いない。それは日本固有の文化とも関係があるに違いない。

日本では古来「柿」から抽出された「柿渋」を防腐剤として使ってきた。「柿渋」は漆塗の下塗りや衣類に使われたことが平安時代の文献に出ている。その柿渋はノロウイルスやインフルエンザウイルスなどあらゆるウイルスの活動を抑え込む作用があることが判明したという。その抗菌作用は病院などに置かれているアルコール消毒液でも死滅しないウイルスを死滅させるものであるという。柿渋を含有する抗ノロウイルス剤に関する特許がつい先日産学協同で取得されている。

 柿渋の製法は簡単でまだ熟していない渋柿を圧搾して得られた汁液を発行させて醸成するだけである。こうして得られた赤褐色・半透明の液体は人畜無害の医薬品でノロウイルスやインフルエンザウイルスなどを死滅させる作用がある。防腐剤にも抗菌剤にもなる。 この日本古来の医薬品を改良し大量生産し人間や家畜に害を与えるウイルスの死滅させるようにすることが期待される。政府はこういう研究を積極的に支援すべきである。

 日本人が大好きな本マグロやうなぎを卵から栽培し養殖する技術が進んでいる。宇宙空間の環境を応用して栄養価の高い野菜や免疫力を高める野菜の開発が進んでいる。日本人の主食である米も品種改良がどんどん進んでいる。砂漠の環境下でも水栽培の農業が出来る工場、海水から淡水を取り出す工場、メガフロートなど日本の技術の未来は明るい。

 2004年に震度7を記録した新潟地震が発生したとき時速200キロメートル以上で走行中だった新潟新幹線の列車が脱線しただけで横転しなかった。それほど日本の新幹線は強靭だった。乗客に被害はなかった。その時の教訓が生かされて日本中を走る新幹線の列車には走行中に地震が起きても脱線しないような技術が施された。

日本は実は資源豊かな国である。日本は何でも世界一になることができる潜在的な能力を持っている。政府がその潜在的能力をよく把握しそれを引き出して総合することが重要である。孫子の兵法にあるとおり「敵を知り己を知らば百戦危うからず」である。

2013年2月19日火曜日


隕石の落下・日本の国歌(
20130219

 ロシアで隕石が落下しその衝撃波により建物のガラスが割れ、一部壊れ、1000人を超える人がけがをした。これは人口密度が小さいロシアで起きたことなのでこの程度の被害で済んだがもし日本の都市部に落下したなら甚大な被害が起きたことだろう。

 『続日本紀』には隕石の落下に関する記録がある。藤原一族であった藤原恵美朝臣押勝(藤原仲麻呂)が国家転覆の罪により処刑された日(天平宝字八年九月十八日)(784年)に「この夜押勝が寝ている家の上に星が落ちた」「突然逆風にあい船が漂流して沈没しそうになった」という記述がある。旧約聖書『ヨシュア記』の第10章に「主は天から彼らの上に大石を降らし」「多くの人々が死んだ」「イスラエルの人々が剣をもって殺したものよりも雹(ひょう)に打たれて死んだもののほうが多かった」という記述がある。隕石の落下が伝承されその隕石自体が残っている世界最古のものは日本にある。861年に福岡県直方市に落ちたものがそれである。

 かつて恐竜が滅んだ原因になったような巨大隕石が落下する確率はゼロではない。つい最近地球の近くを通り過ぎた巨大隕石があった。この地球上で人類同士がいがみ合っているがある日突然起きた大きな隕石の落下によりある国が亡びると言うような事態がいつ起きないとも限らない。人々はそういうことが永遠に絶対に起きないと信じ込んでいるかのようにして日々を送っている。スペースガードという国際的な組織によって地球に近づく小さな天体の観測を24時間体制で行い情報を交換し合っている。もし地球に甚大な被害を与える可能性がある天体が近づいてきた場合、その天体上にその軌道を強制的に変えさせるような噴射装置を取り付けるというアイデアも検討されている。そういう努力を行っているにも拘わらずかつて経験しなかったような大きな隕石の落下によって地球上の何処かの国で未曾有の甚大な被害がいつ発生するかわからない。

 日本の国歌「君が代」は『古今和歌集』巻第七「賀(がの)(うた)」の343番の歌に「題しらず」「読人しらず」として「わが君は千代にやちよに さざれ石の巌(いはほ)となりて 苔(こけ)のむすまで」を少し変えただけのものである。そういう国歌がある国、聖徳太子の『十七条憲法』にあるとおり「和を以て尊としと為す」国、古来万世一系の天皇を宗家のようにしてきた国である日本はその精神を維持し伝統と文化を守り続けるかぎり天佑によって「千代に八千代に」栄え続けることだろう。

 このような日本を自分たちと同じような国にしたいと願望している人々が居る。日本人でありながらそういう外国人に手を貸している人々が居る。彼らの精神を変えさせることは容易ではない。しかし天佑を願い地道な草の根的な啓発活動を続けなければならない。

2013年2月18日月曜日


城ケ島に遊ぶ(20130218

 三浦半島の突端に城ケ島と言う離れ島がある。今は三浦半島と城ケ島の間に高架橋がかかっているが昔は船で渡っていた。今でも片道200円の渡し船が通っている。城ケ島には北原白秋の詩碑と記念館がある。

 雨はふるふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる
雨は眞珠か 夜明の霧か それともわたしの忍び泣き
舟はゆくゆく 通り矢のはなを 濡れて帆あげたぬしの舟
ええ 舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気
雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく 帆がかすむ

『城ヶ島の雨』と題するこの詩は白秋が三崎に滞在中の大正2年(1913年)に演出家の島村抱月から依頼されて作ったと伝えられている。

昨日は北風が強く何処にも行かなかったが今日はよい天気であった。横浜から京浜急行特別快速列車に乗ると三崎口は横浜から地図上ではかなり遠方にあるが52分で着く。この列車は横須賀から先は各駅停車になっている。三崎口から三崎港まではかなり頻繁にバスが出ている。その先の城ケ島に行くバスは少ないが三崎港から高架橋を渡って徒歩で行くこともできる。三崎港行きのバスに続いてすぐ城ケ島行きのバスが来たのでそれに乗る。運賃はSuicaカードをタッチして払う。バスが出発して初めの間は交差点まで渋滞が続きバスは遅々として進まない。しかし別に急ぐ必要も無い。やがて城ケ島に着いた。

正午に近かったため一、二の食堂で客の呼び込みをしている。それを無視して商店街に入る。その商店街で若い青年が店の前に立って客の呼び込みをしている。彼は誠実そうなのでその店に入った。今朝獲れたばかりのヒラメなどの他新鮮なイカやタコやそしてマグロの中トロの組合せの刺身の定食が2100円である。それを注文した。大変美味かった。

昼食を終え灯台がある丘の階段を上がって行く。ここに最初の灯台が出来たのは17世紀のことであるという。其処を通り過ぎると京急ホテルがある。海の向こうに雪を被った富士山がくっきり見えて美しい。左に向かい磯伝いに歩き途中で城ケ島公園向かう遊歩道に入る。長さ1100メートルの遊歩道の初めから終わりまでその両脇に水仙の花が咲いていて香ってくる。公園内も水仙が一面に咲き誇っている。海も穏やかで春の日のようである。

写真を沢山撮った。これは家に帰ってテレビに映し出して鑑賞した。水仙の花も風景も男と女房のスナップ写真もなかなか良い。これらは男と女房の人生のある日の記録である。