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2011年6月9日木曜日

明日からは新たなラベルで(20110609)

 菅首相いよいよ今月内退陣せざるを得ない状況に追い込まれてしまった。多くの国民は彼の言動に不信感を持ってしまった。福島第一原発の事故は菅首相がわざわざ現地に出向いたためベントの対応が2時間半遅れたことが直接の引き金になって発生したと思う。

 菅首相が一番大事な時期に官邸を離れ現地視察を行うことを諫めた枝野幹事長を「馬鹿やろう」と罵倒した。新聞は‘いら菅’が言った実際の言葉まで事細かく報道するようになった。鳩山元首相は菅首相を「ペテン師」と言ったと報道した。それらの言葉は全世界に伝わった。多くの日本国民は呆れて言葉を無くした。

 状況は静かに進行している。枝野幹事長が「首相は公債特例法案が成立した後に退陣する」と首相に忠実な官房長官として首相の意向を伝えたが、最早事態は菅首相の思い通りには進まないであろう。菅首相は復興基本法成立後ただちに辞任する以外に道はない。

 男はこのブログでのラベル「武士道後記」の201143日日曜日の投稿記事「信なければ、民意なければ (20110403)」で、

“この国家危急のときの内閣総理大臣は、「民意あっても、信なければ」勤まらないだろう。逆に「信があっても、民意なければ」内閣総理大臣は務まらないだろう。ここでいう「信」とは、・官房長官・閣僚・官僚・補佐官・政務官等内閣総理大臣の周囲の方々が、内閣総理大臣のもと、己の心を無にして公務に専心する気持ちである。”

“もし菅総理に「私心」が見られるようであれば、菅総理に対する「信」も「民意」も一挙に無くなる。信用を築くのには時間がかかるが、信用を失うのは一瞬のことである。”

と書いた。事態はそのとおりになった。菅首相は私的諮問機関「復興会議」を初めとして、浜岡原発、1千万戸の太陽光発電などなど政権延命のためのパフォーマンスを演じたが、多くの国民はそのパフォーマンスに踊らなかった。菅首相は復興本部を立ち上げて自ら本部長に座ろうと目論んだが、その目論見は頓挫した。

菅首相は自ら立ち上げた原発事故調査・検証委員会で「私も被告」と言い、調査には全面協力すると約束した。しかし、その委員会の畑村委員長は「責任を追及しない」と明言している。首相の現地視察間、現地の吉田所長は首相に付ききりだったという。その結果ベントが2時間半遅れ、水素爆発による放射能拡散と核燃料のメルトダウンを引き起こしてしまった。このことを多くの国民は知っている。

「私も被告」というのが国民向けのパフォーマンスであってはならない。菅首相も東電幹部も吉田所長も今回の事故から今後50年後、100年後、1000年後に生きる教訓を遺すため、国民の前に自らの過ちを率直に認め、正しいことを語る責任がある。

男は最早自分の記事が強制的に削除されるようなことはないと思っている。54日に「もうこれでよかろう(20110504)」で始めたラベル「冬牡丹」の‘冬牡丹’は女房が好きな花の名前である。本日の記事をもって「冬牡丹」を終りにし、本日のような記事を書くことも終わりにし、明日以降新たなラベルで「日々是(死)支度」の後半に進もうと思う。

2011年6月7日火曜日

販売員の言葉と表情(20110607)

 タクシーでKインターバス停までゆく。バス停でバスの到着を待っていると、一人の洒落た帽子をかぶっている齢格好60代の女性がやってきた。「お早うございます」と挨拶される。この地では見知らぬ人同士でも良く挨拶している。学童たちもよく言葉を出して挨拶している。田舎では人が少ないのでバス停など閉じられた空間で言葉も交わさずお互い黙っていることは心苦しい。見知らぬ人でもお互い気楽に会話を交わした方が楽しい。

その女性は福岡の天神まで行きそこで友達と落ち合うのだという。バスが天神に遅れて着くので待ち合わせに丁度よい、天神に着いたら携帯電話で連絡をとって待ち合わせるのだと言う。予定時刻ぎりぎりにもう一人の女性がやってきた。バスに間に合ったと安堵した風であった。バスの時刻表どおりバスが来ないことが話題になる。福岡から来るバスは大概遅れるが大分から来るバスはそう遅れないと初めに来た帽子姿の女性が言う。後に来た女性は、バスが遅れることが普通なのでそのつもりで23分遅れてバス停に来るとそういう時に限ってバスが時刻表どおりに来たりして1時間以上も次のバスを待たなければならなかったことがあったと笑いながら話す。女房は「そうですよね、だから私なんかはいつもバスが時刻表通り来ることを前提にしてバス停に来るんです」と相槌を打っている。

バスは15分ほど遅れて到着した。バスに乗って1時間ちょっとで博多駅交通センターに到着した。新幹線の発車時刻まで50分ほどある。その間に弁当など買う。新幹線の切符は昨夜インターネットで購入してある。座席は12号車中央窓際DE席である。自動発券機にJR東海のエキスプレスカードを差し込むと購入した座席の表示が出て、発券中「発券しています」と自動アナウンスが出る。

新幹線のぞみ1xx号臨時列車は定刻通り博多を出発した。臨時列車とういうのに客車内はがら空きである。いぶかっていると広島あたりから乗客が増え始めた。新大阪からほぼ満席になった。男も女房も「そうなんだ」と臨時列車のことを納得した。

博多から乗務した車内販売の売り子の若い女性に男はコーヒーを注文した。女房はまだコーヒーは要らないというので、男はその売り子に冗談っぽく「この人はまだコーヒーは要らないって」と言った。するとその若い売り子は表情一つ変えず「また後で戻ってきます、そのとき承ります」と言って去って行った。

女房はその様子を見て「可愛くないわねえ、あの娘からは買わない」と言う。男は「あの娘はまだ若いからだよ、社内訓練が足りないのだ」と言う。すると女房は「あれは性格だわよ、もちょっとにこっとするといいのに」と言う。男は「そうだよな、にこっと笑顔を見せてものを言えば、もっと売れるだろうにね、性格は変わらなくても行いは訓練で変えられるはずだ」と言う。と言いながらも作った笑顔では相手に通じないだろうと思う。

暫くしてその売り子が戻って来て、今度は笑顔で「コーヒー要りますか?」と言う。女房は首を横に振る。男は先ほどのコーヒーを女房に半分あげていた。それで十分だったこともあるが、その子の性格とセールスの下手さが一人の顧客を失った感じである。

2011年5月29日日曜日

雨だれの音 (20110529)

 今朝は雨である。女房はまだ眠っているが男は胃腸の調子が悪くお腹にガス溜まって張ってきて目が覚めたので5時過ぎに起き、男がインターネットに公開している吟詠の6月の吟題・嵯峨天皇の『山の夜』の解説を書いている。

軒下の出窓の屋根を叩く雨だれの音が聞こえている。この家は築40年以上経っているが、まだ天井に雨洩りはないようである。しかし雨が降ると窓際の天井をポトンポトンと叩く音があり、屋根瓦の隙間から多少の雨水が落ちているのではないかと思ったりする。

 嵯峨天皇の『山の夜』は嵯峨天皇が即位後間もないころ、谷川のほとりの山荘に居住したときお作りになった歌である。田舎に住んでこのようにして文を書きながら雨だれの音を聞くと、此処は嵯峨天皇が住んだ奥深い山荘ではなく田舎の町中であるが、嵯峨天皇が若き頃住んだ山荘の様子を想像し、1200年ほど前のイメージを重ねた感慨がある。

 ちなみに、嵯峨天皇(786824年、桓武天皇の第二皇子で第52代天皇)の御製である。嵯峨天皇は幼時から聡明で文武兼備の不出世の天子であったと言われており、漢詩人で書家でもあった。母方の先祖は後漢の霊帝の後裔で坂上田村麻呂と同族の坂上氏である。

その先祖は阿智使主を祖とする漢系渡来氏族(東漢氏)の一族である。阿智使主は後漢の霊帝の後裔と言われており、『日本書紀』応神天皇209月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」とある。何十万人とも言われる帰化人たちは後の日本の文化発展に大いに寄与し、皆日本人になっている。
『山の夜』という漢詩はつぎのとおりである。

  山夜 嵯峨天皇

移居今夜薜蘿眠 夢裏山鶏報暁天
不覺雲来衣暗濕 即知家近深渓邊

   居を移して今夜薜蘿(へいら)に眠る
夢裏(むり)の山鶏(さんけい)暁天を報ず
覚えず雲来たって衣(ころも)暗(あん)に湿う
即ち知る家は深渓(しんけい)の辺(ほとり)に近きを

薜蘿とは薜茘(まさきのかずら)と女蘿(つたかずら、さがり苔)のことである。薜茘は常緑の低木で蔓生であり、女蘿は苔の一種で地衣類である。

この詩の意味は、

   今夜は宮中から出て山荘に宿す。
辺りはまさきの葛や下がり苔が垂れ下がった深い森の中である。
ぐっすり眠っているとき、山鳥の声で目が覚める。夜が明けて来たのだ。
いつのまにか曇り空となり、着ている衣服もじめじめとしてきた感じである。
これは、この山荘が深い谷川のほとりに近いところに建っているからである。

である。

2011年5月18日水曜日

東日本大震災報道写真展 (20110518)
   
  男は今日、女房と横浜にある日本新聞博物館に行った。この博物館は、横浜中央郵便局のすぐ近く、道路を挟んだ反対側にある。今日はお天気も良く、明後日九州の田舎に帰るので土産物など買うついでにこの博物館に行って、東日本大震災の報道写真展を見ることにした。また、高島屋デパートでは岩手物産展もやっているので、そこで何か買って被災した岩手県を少しでも応援したいと思った。

 男と女房は横浜市の敬老パスを使って、市営バスと市営鉄に乗りつぎ、関内で下車してその博物館まで行った。その博物館は東横線が乗り入れしているみなとみらい線日本大通り駅のすぐ傍にあるが、市営地下鉄関内駅から歩いて行っても近い。むしろこの方が横浜のダウンタウンを散策できて楽しい。男は女房の背に掌を当てて「横浜はいいねえ」と言うと、女房は「そうでしょう?田舎はたまに行くのが楽しいのよ。田舎がいいって、そこに住み続けるのはとてもできない」という。

男と女房は一戸建ちが建ち並ぶ郊外の住宅地に住んではいないが、日々生活する上ではこの上なく便利なところに住んでいる。日常の買い物は直ぐ近くのスーパーでできる。ちょっと高級感のあるものは、敬老パスを使って30分ぐらいで横浜駅まで行けるので、その近くの店で買うことが出来る。羽田空港に行くにも、鎌倉に行くにもここは便利である。

 そのようなところに住んでいて、東日本大震災報道写真展を見た。写真は全部で90枚展示されている。それは、新聞やテレビで見るのと違い、非常に心を動かされるものばかりである。被災地に行った人々は誰でもその被災状況に圧倒されると話しているが、テレビや新聞報道で知ることと、実際の状況とはもの凄く大きな差があると思った。展示されている大きな写真パネルを見るだけでも、テレビや新聞報道で知る内容と大きな開きがある。

 東北の太平洋側の海岸線の美しい町や村々で、心豊かに暮らしていた非常に多くの方々が、あの311日午後246分の巨大地震によりその生活が一変した。男と女房のように、都会地の便利な環境で暮らしていると、そこが一番良いところだと思い込んでいるが、三陸の田舎ので暮らしていた人々も、そこが一番良いとことだと思い込んでいた。その暮らしがあの大津波で一変してしまったのである。

 写真の中の一つに、巨大津波すべてが流された相馬市の原釜付近で、取り残された市民らに対する必死の救出が自衛隊員や消防団員らによって行われていて、津波が襲った翌日、12日の午前710分ごろ、早朝の寒さに震える小学生低学年らしい女の子の肩に、そっと自分の制服の作業用上着を掛けてやっている自衛隊員とその女の子が写っている写真があった。「命だけ助かって一晩夜を明かしたのだろうね。寒かっただろうね。親は生きているのだろうか」と男はつぶやいた。女房は黙ってじっとその写真を見つめていた。

 手書きの「石巻日日新聞」も一部が展示されていた。女房はそれをじっと見つめ、「少ない人数でよく頑張ったわね」と、ぽつりと言った。「未曾有の大震災」と軽く言うが、報道写真を見て、男は、この復興は国として復興庁を新設して取り組むべきであると思った。

2011年5月16日月曜日

近所の家に身を寄せている被災者(続き) (20110516)

 女房はベランダに出ているとき、その女の子が「ママ、ママ」と叫ぶ声を聞いたという。その子はなぜ自分のそばに母親がいないのか判らず、母親を恋しがっていたのである。暫くして女房は、その三女とその女の子の手を引いて去ってゆく後ろ姿を見た。「埼玉の方に帰って行ったんだわ。おばあちゃんも胸が割かれる思いでしょうね」とぽつりと言った。

 おばあちゃんと一緒に来ていた二人の男の子のうち、中学生の子は福島の両親の元に戻った。高校生らしい子はおばあちゃんと一緒にこちらで暮らすようである。

 その高校生らしい子の所に同じ年ぐらいの子が遊びに来ていた。男は通りがかりに声をかけた。いつも男の方から声掛けし、関心を示しているので、その男の子も男にはある種の親近感を抱いているようである。

男はいくらおばあちゃんが傍に居るとはいえ、その子が親元を離れ何時も家の中にいるので気がかりである。男は友達と語りあっているその子に「学校は?」と聞いた。するとその子は「通信教育を受けます」と、元気な笑顔で話してくれた。男は「それはいいね。なにか手伝えるかもしれないので、何でも聞いて」と話しておいた。その子は男が話しかける前に来訪していた友達が、「横浜に行こう」と話していたということを女房に話した。

 男が難しい年頃のそのような男の子に関心を示し、「折を見て、友は類をもって集まると言うことを話してやるんだ」と女房に言ったら、女房は「うるさいおじいさんだと思われていると思うよ」と笑う。男は「それでいいんだ。あの子はにこにこしていて優しそうないい子だ。教えざるの罪というのがある。齢をとった者は若い者に遠慮せず教えてやることが大事だ。俺は何かと声をかけてやり、力になってやろうと思っている」と応じた。

 女房は「その子は通信教育を受けても勉強はしないわよ。友達が横浜に行こうと言ってたんでしょう?田舎ら出てきて楽しいことばかりあって、通信教育で勉強なんて出来っこない」と言う。男は「多分そうだろうと思う。しかし、その子も中学を出ただけでは駄目だと思っている筈だ。勉強する目標がきちんとすれば、真剣になる筈だ」と言った。

 巨大津波による被災や福島第一原子力発電所による放射能被災は、その子のような人生これからという子供たちに大きな影響を及ぼしている。子供の教育は親の責任でもあるが、その親が子供に十分接してやれない現実がある。被災地の行政庁はそれぞれ必死になって、次代を担う子供たちの教育について可能な限りの対策を講じる努力を続けている。それでも男が接しているような現実が起きている。

 男はその子に折に触れ関心を示し、その子が間違った道に行かないように気を付けようと思う。都会地では他人に対して無関心であることを美徳のように思っている人が多い。田舎では逆である。齢が若い者が近所の年寄りに挨拶をしないと言って不満を言う年寄りが多い。もし、年寄りである自分の方から若い者に笑顔で挨拶ができるならならば、相手の若い者は必ず挨拶を返す筈である。もし、挨拶を返さない者がいて、そのようなことがニ度あったときは、三度目にはその相手を叱りつければ良いのである。

2011年5月15日日曜日

近所の家に身を寄せている被災者 (20110515)

 男の家の近所に被災した福島からある家族が引っ越してきた。その家族は70歳ぐらいの女性と中学生と高校生ぐらいの孫が二人の3人家族である。二人の孫はその女性の長女の子供である。両親は福島に残り、二人の子供たちだけが祖母であるその女性と一緒にこちらに避難して来た。

 その女性には3人の娘がいた。その女性は二女の家族と一緒に暮らしていた。巨大津波が襲ってきて、二女と二人の子供のうち上の子は津波に流されてしまった。一家の幸福な暮らしは一挙に失われてしまった。

 一家の家は南相馬にあり、福島原発から30キロの圏内に近いところにあった。津波が来たとき一家は逃げた。その女性は1歳半の孫娘をしっかり抱いて逃げた。二女は途中で上の子供と一緒に、家に何か大事なものを取りに引き返した。そのとき津波が襲いかかって来た。1歳半の孫娘を抱いて逃げていたその女性は、襲ってくる津波を見た瞬間、二女と上の孫は助からないだろうと思った。こちらには二女と幼い孫の葬式を終えてやって来た。

男はその女性と中学生らしい男の子に初めて出会ったとき、この人たちは多分福島から避難して来た人たちだろうと思った。そこで男は近所づきあいとなるその人たちに何か手助けしてあげたいと思い、その人話しかけた。上述の話は、その女性が涙ながらに男に話してくれた内容である。

 数日後、今度は女房がその女性と孫二人が引っ越してきたその家を訪れ、その女性に語りかけた。その女性は「まあ、上がって下さい。」と言うので、これまでその家には一度も上がったことがなかったが、その女性に勧められるままその家に上がり、その女性の話に耳を傾けた。女房はその女性の悲しみを分かち合った。その女性は母親を失った1歳半の孫娘を三女に託し、高校生と中学生の二人の孫とこちらに避難してきたという。

父親らしい人がそこに入居の準備をしていたとき、男はその男性と言葉を交わしている。その男性は長女のご主人であった。「すみません。私の方からご挨拶にお伺いしなければならなかったのに。」とその男性は男に詫びた。

 数日後その女性は、埼玉の友人の方に身を寄せている三女と、津波に遭ったとき抱いて逃げた1歳半の孫娘に会うため埼玉の方に行っていた。その孫娘は婆ちゃん子で、いつも「ばあば、ばあば」となついている。その女性はその孫娘が不憫で、三女が身を寄せている埼玉の方に行っていたのである。一週間ほどして、その女性はその孫娘と三女を連れてこちらに戻って来た。

 男はその女性が孫娘をあやすため外に出ているときたまたまそこを通りがかり、その女性と孫娘に出会った。その小っちゃな女の子は目がくりっとしていてとても可愛らしい。母親が居なくなったことをまだ認識できずにいるだろう。成長しても自分の母親のことは覚えていないだろう。本当に可哀そうなことである。男はその女の子の頭をそっと撫でてあげた。男の眼からその女の子の姿が離れない。いつまでも離れることはないだろう。

2011年5月6日金曜日

さて何から始めるか(続き)(20110506)

 男はこの新たな試みの参考にしようと思い、諸井 薫の『男の節目』を書棚から取り出して読みなおしている。こんな文章が目に止まった。男はそれを読みながら頷いた。特にその終わりの部分に、「そのとおりである!」納得した。

 “回想録というものがある。『私の履歴書』という功成り名遂げた人による追想起のコラムが新聞に載っている。

 もちろん他人に読ませるための人生記録である。これに触発されてか、近頃は「自分史」を書くことが流行っているとか。孫・曾孫に自分という人間がどのように生き、なにをどうやって成し遂げたかを書き遺すのが、どうやらその目的らしい。

 それも結構だとは思うが、私にはやる気になれない。いくら自分の子々孫々に遺すからといって、他人に読まれることを考えたら、人に知られたくない自分の劣等な部分を憚ることなく書くという勇気はまず持てない。現に偉い人の回想録や追想起のほとんどが、具合の悪いところは隠蔽糊塗しているではないか。

 そんな自慢話を、子孫を含めて世間に向けて書き遺すなんて気恥ずかしいことは、とても私にはできそうにない。それを振り返ってみて、これといって自慢するほどのことは何一つ浮かんでこないし、むしろ思い起こすのは、悔恨と慙愧のあれこればかりだ。

 人生たかが六十冊の日記帳というのが、かりにそれを続けていたとして、振り向けば、確かな実感は「ただ生きてきただけ」のことではないのか。

 だが、そもそも文学というものは、自分を抜きには成り立たないものであり、その自分も、人に誇る自分ではなく、ひた隠しに隠したい部分の表出でなければならない。”

 最近、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者の夫人のことをドラマ化したテレビ番組「ゲゲゲの女房」が放映されていた。「ゲゲゲの女房」は「ゲゲゲの鬼太郎」の原作者・水木しげる氏の妻・武良布枝さんが、妻の目線から夫婦の半生を振り返った著作を原案としたホームドラマである。テレビドラマ化された本人がそのテレビに出て、そのドラマについて語っている。

 男は武良布枝さんのような文筆の才能はないし、なによりもこれまでの人生の生きざまが彼女のようにドラマチックではない。だからブログの記事をいくら文学的なものにしたいと思っても自ずと限界がある。

しかし上述諸井 ,薫の文章にあるように、「人に誇る自分ではなく、ひた隠しに隠したい部分の表出」に出来るだけ心がけようと思う。それも「男は」という主語によって・・。しかも諸井 薫が言うように「私の日付がない日記」として。

 先ずは、自分の女房を愛している気持ちを書こうと思う。そこで、このひとくくりの愛妻シリーズのタイトルは「冬牡丹」としてみょうと思う。後で変更するかもしれないがこれがラベルとなる。

 諸井 薫は本のタイトルを『男の節目』としたが、男はこのブログの一つのシリーズのタイトルは、一区切り付いてから考えることにしようと思う。

2011年5月5日木曜日

さて何から始めるか(20110505)

 男はこれまでの自分の人生を振り返った。自分では気づかないが男は時々刻々時の流れとともに、全ての生物がそうであるように、老化し、枯れて、やがて土に還ってゆく運命にある。

 そのように自然に枯れて死んでゆくのなら良いが、全ての生物は天変地異・大災害・事故・殺戮などにより、その生物学的寿命を全うする前にその生命を失ってしまう。

 それも大自然の現象である。人間は知能が発達しているので動物にはない想像をすることができる。事故や災害や殺戮などで早死した人の心情や、その家族・友人などの心情を想像することができる。

 男が『日々是支度』と題して、2年前から毎日欠かさず記事を書き、一般公開してきたのは、自分自身のことを顧みるだけではなく、自分が死んだあと男が生きてきた証を特に自分の子孫に遺しておきたいと思うからである。

 女房はそのことにあまり意義を感じていない。それは男と女の脳の構造の違いに原因がある。あらゆる生物のオスは、自分の子孫を本能的に遺そうと行動する。一方、メスはオスによって遺された子を育て上げることに関心があるようである。オスによって自分の体の中に子が宿ればもやはオスのことには関心がなく、本能的にその宿った子のことに関心を向ける。そしてオスが居ても居なくても子育てに熱中する。オスが居る場合はその方が子育てに好都合な場合に限られるようである。

 男は一般に自分の家系のことに深い関心があるようである。しかし女は自分のルーツや子孫のことにあまり関心がないようである。これもオスとメスの違いである。

 女房は男の家に良く尽くしてきてくれた。そのことは女房の親友が女房に言ったという「あなたは、○○家によく尽くしてきたわ」という言葉で言いつくされる。男は女房にそう言われるまでもなく、女房はわが家に非常に貢献してくれたと感謝している。

 このブログの新たな記事の形をどうするか、それは考え続けることにして、とりあえずは、過去の記事の整理から始めようと思う。それに対して新しいタグ付けをしようと思う。

 過去の記事は、主語が「男は」になっている。これは『男の自負』『男の節目』などを書いた諸井 薫を真似たものである。これらの本は日本経済新聞社から出ている。

 勿論、男の力量ではいくら真似たからといても諸井 薫には足元にも及ばない。何事も習い事は「真似る」から始まる。「学ぶ」は「真似る」ことによって学ぶのである。

 明日からは、先ず、男の過去の記事を引き出してそれを推敲しながら、多少なりとも文学的作品になるように試みてみようと思う。

 ブログの記事にするのであるから、一回の記事は適度な長さが良い。そこで、一回分は石行40字、36行、つまり、1440字以内にしようと思う。これは、wordの一ページの標準である。この字数以内に書ききれなかったものは、次回のタイトルを同じものにして末尾に(続き)と書き入れることにする。

2011年5月4日水曜日

もうこれでよかろう(20110504)

 振り返れば、平成21年(2009年)6月ごろから、私は憂国の念に駆られ、このブログにいろいろ政治的な批判の記事を書いてきた。

その理由は、田母神元航空幕僚長を、自民党政権が容赦なく‘切腹’させたことに対し、志のない自民党政治家に対する怒りもあり、また民主党政権誕生に対する警戒心もあったからである。

去る311日午後246分、東北地方の太平洋海底に巨大地震が発生し、東北から関東北部にわたる海岸線500キロメートルにわたり大津波による大災害が発生した。

大津波による被災者に加え、その原子力発電所の事故による緊急避難のため、発災から50数日経った今なお13万人の人々が避難所暮らしを強いられている。

我が国がこのような未曾有の大災害に遭い、日本人は国家というもの、そして共同体の絆というものを改めて認識した。政権を取った当初、昭和維新だと意気込んでいた民主党も党内に異論がくすぶっているものの現実的な路線を歩み始めた。

政治的批判の記事を書き始めたのは随筆『日々是支度』のラベル「憂国」で、2009616日の「武士の魂」からである。ラベル「武士道」及び「武士道後記」以外で政治的批判の記事はラベル「憂国」「日本人はどうあるべきか」「外国人参政権について思う」「やましき沈黙」の四つにまとめている。

投稿はある時から同じ記事を複数のプロバイダーのブログサービスを利用して行ってきた。FacebookTwitterも利用してきた。それはできるだけ多くの人たちに私の主張に関心を持って頂きたいと思ったからである。

勿論これまで政治批判ばかり書いていたわけではなく、日記を書いたり年末年始の期間などには記事の事前予約投稿に好都合なように物語小説『母・ともゑ』など小説風に書いたものなどがある。

ラベル「日本人はどうあるべきか」では、2009624日の『旧皇族が書いた本』他80件。「外国人参政権について思う」では2009820日の『日本列島は日本人だけのものではない?』他8件、「やましき沈黙」では、2009817日の『核三原則』他4件の記事を書いた。書いた本人の主語は「男」であったり「老人」であったりした。

このように私は政治的批判の記事を沢山書いたがもうこの辺で終わりにしようと思う。その理由は「いい齢をしていつまでそのようなガチガチしたことに取りつかれているのか」という自嘲もあり、たかが無学無名の一市井の年寄りががちゃがちゃやっても世の中はそう簡単に変わるものではない、自己満足でやっているだけではないか、という自己批判もあるからである。

明日からは主語を以前のように「老人」か「男」に戻し、私自身を客観的に視、いよいよ本来の日々是「死」支度をしてゆこうと思う。それが後何年続くのか、何十年ぐらい続くのか全く予測はつかないが・・・。