2011年6月30日木曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110630)
秋山代治郎著『歴史記述における 虚構と真実 -知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』のはじめに、明治時代の外交官で、戦後第一次吉田内閣で国務大臣などを務めた幣原喜重郎が、晩年、読売新聞社の求めに応じて口述した回想録『外交五十年』を引用した次の一文がある。秋山氏はその中の「撃沈もされず戦争は終わった」という部分に疑問を感じ、調査研究結果その部分は間違っているということを明らかにした。

 “日露戦争の直前、そのころ私(幣原喜重郎)は仁川の領事館にいた。仁川港には、日本の軍艦もロシアの軍艦もいた。形成は嫌悪だったがまだ国交断絶ではないから、砲火相見ゆるという危険には至っていない。日本の艦長は藤井較一といって、後に大将になり、軍令部長になった人だが、私のところに来て、「ロシアの艦長を一つ昼飯に呼ぼうと思うがおれ一人では具合がわるい。君も来てくれ」というわけで、ロシアの艦長も快くやって来て、今はどうか知らないが、そのころ仁川唯一の大仏ホテルで午餐会をやった。・・(中略)・・お客の艦長も大した機嫌で、「近ごろ新聞で見ると、日露の関係がよほど切迫しているようだが、それは政府と政府の外交の仕事で、おれたちの関係したことじゃない。だからそれはお互い知らん顔だが、もし不幸にしてこれが戦争になると仮定したら、おれたちは敵同士だ。その時はおれは、君がどの艦に乗っていようとも、君を目がけて突進してやる、いいか」という。藤井艦長も「よしッ、こいつは面白い男だ」というわけで、互いに手を握っては、ガブガブ飲み交わす。・・(中略)・・ロシアの艦長が乗っている艦は、ワリヤーグという巡洋艦で、翌朝五時に仁川を出港する予定であった。こっちから望遠鏡で見ていると、四時ごろまで飲んで酔っ払っていた艦長が、ちゃんとブリッジに立って指揮をしている。・・(中略)・・

 その後いよいよ戦争になって、ロシアの軍艦はみな旅順に入り、日本の軍艦はそれを封鎖した。するとときどき露艦が艦形を組んで港外に突進してくる。その先鋒の艦に例の艦長が乗っていて、藤井の艦長をしている艦を知っているらしく、まるで藤井個人を目がけるようにやって来る。それで藤井艦長も「おれがあいつを取っ捉まえてやろうと思って、盛んに射ち合ったものだ」と話していたが、しかし、お互いの艦は撃沈もされず、戦争は終わったという。”

 秋山代治郎氏は、“私の知る限り、ワリヤーグ号は砲艦コレエーツ号と共に、日露戦争(明治三十七\八年)開戦の冒頭で、仁川港の沖合において日本艦隊と砲火を交え、破れて港内に逃げ込み自沈した筈である。即ち.日露の緒戦「仁川沖海戦」がそれである。”と言い、各種証拠を揚げて論述している。

 そして、“日露戦争のほんのはじめの一部分にすぎない「仁川沖海戦」についても幣原喜重郎の思い違いによって間違った情報が史実として後世に伝わってしまうのである。”と言っている。「自存」を前面に出している中国が、もし謀略をもって尖閣諸島など離島を占拠してしまった場合、日中両国は後世に対してどういう情報を遺すことになるのだろうか?

2011年6月29日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110629)

 中国はかつて毛沢東時代、「自らの力を基本とすることを自力更生と呼ぶ。我々は孤立してはいない。帝国主義に反対する世界のあらゆる国や人民はすべて我々の友人である。しかし我々には、自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」として「自力更生」をスローガンに掲げていた。私は中国の「自らの力をもって、国内外の反動勢力を打ち破る力がある」という姿勢は、今でも変わっていないと観ている。

 尖閣諸島中国漁船衝突事件は、中国が「自存」を全面に押し出した結果起きた事件である。これに対して、なぜ日本は「自存」を前面に押し出さなかったのか?それは、日本が「自存」の観念が乏しく、領土・領海に関する紛争は、当事国間の「国益」と「国益」の衝突という程度にしか考えていないからである。「自存」とは「自己の生存」であり、「他の何ものにもたよらず自己の力で生存すること」である。「国益」とは意味が違う。国家における「自存」とは、他国を支配下においてでも自国は生き残り、国際社会の中で優位を確保しようとする、ある意味ではライオンや虎などの野生動物と変わらない生き方である。

 このブログのラベルの「万物は皆自存を目指す」という文言は、私がかつてスピノザの哲学について少しばかり勉強したとき、スピノザが「自存力」という言葉で人間やその他の個物がその存在に固執するように努める」ことを説いたことを知ってひらめいた文言である。人や国家がルールや法を無視して「その存在に固執し、「自存」を前面に押し出すと、自ずと摩擦が生じる。このことを日本人はしっかり認識すべきである。

幕末から明治時代の日本人は、欧米列強の脅威にたいしてしっかりと「自存」を認識していた。その結果、戦争を止める経験も知恵もなく、ずるずる深みにはまってしまった。戦争に負け、東京裁判で裁かれ、自信を失ってしまった日本人は、自分たちの先人たちの労苦を顧みず、自虐史観に陥ってしまった。日教組や共産党や社会党などの左翼政党や朝日新聞などのマスコミもこぞって反日的な風潮をかきたてた。盧溝橋事件は毛沢東がしかけた陰謀であるのに、日本人は関東軍の謀略であると信じ込んである。日本の「自存」のため命を落とした人の数は、戦死者230万人、戦没者80万人であった。「あの世」にいるその方々は、戦後の日本人の自虐ぶりを本当に情けなく思っていることだろうと私は思う。

中国は、たとえば中国の新幹線も日本などの技術を利用して自力開発したものであると国際社会に公言し、特許も取得しようとしている。これも、中国が「自存」をかけてなりふり構わぬ行動に出ている事例である。日本の近隣諸国は、日本人の心清く、正しい行動に対して自分たちも当然そのようにしなければなどと、ちっとも思っていない。憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼」などいう文言は、近隣諸国には通じない。

そのことを理解しながら、まだ武士道の精神が生きており、西欧でも騎士道の精神が生きていた古き良き時代に起きた日露戦争を顧みることが必要である。

以上でこのブログの前書きは終わりとする。明日からは、秋山氏の著作・修士論文・学部卒業論文を引用しながら日露戦争を顧みることにする。それは私の義務である。

2011年6月28日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110628)

 西沙諸島・南沙諸島の領有をめぐる紛争の解決のためアメリカが乗り出し、米中間で初めてアジア・太平洋協議を行ったが、結果は平行線のままに終わった。アメリカは南シナ海における「国益」を守ろうと行動し、中国は「自存」のために行動している。このことを日本人は冷静に理解すべきである。

 中国は華僑として世界中に5000万人の中国人が移住している。かつて日本は先ずハワイに日本人の移住希望者を送り出し、その後ブラジルなど南米に移住希望者を送り出した。これも当時の日本の「自存」のためであった。

中国は13億人の自国民生存のため、今、なりふり構わぬ行動をしている。それは、中国の国家・共産党の方針に基づく行動である。具体的には「領海法」により尖閣諸島を中国領と明記、「海軍発展戦略」により第1列島線・第2列島線への海洋進出・核心的利益宣言、「琉球復国運動基本綱領」により奄美・沖縄・八重山を琉球共和国とすることなどである。 

背後に中国の国家・共産党があると思うが、中国資本家による日本各地の山林等買収、中でも千歳基地近辺の買収、韓国資本家による対馬レーダー基地周辺の買収、沖縄における反日的運動など、日本人として警戒しなければならないことが現実に起きている。尖閣諸島中国漁船衝突事件、海上自衛隊護衛艦に対する中国ヘリコプターの接近などすべて、中国の国家・。共産党が決めた方針・綱領に基づくものであり、すべて中国人民13億人を養うため、中国が国際社会で生き残るための「自存」行動である。

戦後生まれの特に60代の政治家たちは、自虐史観にとらわれ、平和・繁栄・友愛という甘っちょろい観念しか持っていないように見える。日本は、今後生き残ってゆくためには、再び「自存」の観念をもたなければならない。今後日本の人口は減少し、国力は衰えてゆくだろう。日本が生き残るために、日本の「自存」のために、一日も早く憲法を改正し、堂々と国防軍を持ち、核武装もすべきである。「軍事は外交の手段である。」このことを、今日本人は自覚すべきである。

日本の「自存」のため命を投げ出して戦った旧日本軍の兵士たちが祀られている靖国神社を、内閣総理大臣は堂々と参拝すべきである。靖国神社に祀られている東条英機元内閣総理大臣等A級戦争犯罪人として処刑された方々は、日本の「自存」のためこの国を指導された方々である。(関連記事:「靖国神社と菅首相(20110409)))

中国はロシアから購入した三代目ワリヤーグ号を改装し、中国航空母艦とし近く就航させる。初代ワリヤーグ号は砲艦コレエーツ号とともに仁川構内で自爆沈没した。“私の父は1901年(明治34年)、それは日露戦争が始まる3年前、・・(中略)・・日露戦争勃発の当時、仁川には既に多くの日本人が居留していたが、父はその中にあって「仁川沖海戦」を遠望し、露艦ワリヤーグ号とコレエーツ号の自沈・爆沈を目の前で見ていたのである。・・(中略)・・(秋山氏の)母校の小学校の校庭には、沈没した露艦から取り外して来たという大砲の砲身や五連装機関砲などが戦勝記念に並べてあって・・(以下略)” (続く)

2011年6月27日月曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110627)


 最近の中国の行動に対してアメリカは自制を求めている。日本が同じように中国に自制を求めても、中国は聞く耳を持っていない。「自存」という行動の意味を日本人はよく理解しなければならない。「国益と国益のぶつかり合いである」と‘解ったような’ことを口にすべきではない。「自存」のため、人も組織も国もなりふり構わぬ行動をするものである、と理解すべきである。その上で、相手に対して自分はどうあるべきか考え、行動すべきである。それこそが相手との関係において安定と調和を保つ唯一の方法である。

 日本をとりまく2国間関係において日本の近代の歴史をよく学ぶことは、現代をどう生きるべきかという知恵をえる最も良い方法である。日露戦争の戦端はどうであったか史実をよく研究し、現代において日中間の諸問題を解決する方法を見出さなければならない。

ところが、戦後生まれの政治家たちは学校において、日本と隣国の間の近代史について正しく学んでいない。むしろ間違ったことを教え込まれている。このことを我が国の政治家たちはよく認識し、改めて自ら進んで猛勉強しなおすべきである。猛勉強すべき内容は、 明治時代の日本と当時の帝政ロシア、李氏朝鮮、後の大韓国、中国の清王朝末期との関係、および当時の列強の行動と、日本の行動を導いた「武士道」精神についてである。

私は、当時のことを概観し、当時の日本を含む関係各国は皆それぞれ「自存」をかけて行動したと理解している。キーワードは「自存」である。私は、「自存」とは「生き残ること」である、相手との関係において、見せ掛けや見栄や策略などによるものではなく、真に強いことによって優位に立つことである、と理解している。さらにこれは日本においては、「武士道」精神の根底・深層にあるものであると理解している。この点、他国とは違う。

昨日書いたブログ記事の中国の行動について列挙したことは、中国の「自存」行動の端的な現れである。日本がこれに対して「武士道」精神ももたず、「大和民族」の誇りも自覚もなく、アメリカが押し付けた憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」という、女性に対しては失礼かもしれないが、‘めかけ(妾)’のような甘っちょろい姿であることは悲しい。戦後生まれの政治家たち、特に60代の政治家たちにこの国を任せておいて良いものかと私は憂える。

秋山代治郎氏は、放送大学教養学部の卒業論文において日露戦争の戦端が何であったかを明らかにし、修士論文においては日露戦争についてこれまで伝えられてきたことの間違いを明らかにしている。私は、日本を取り巻く近代の国際関係の歴史を学ぶということは、現代の日中間のお互い「自存」を目指す緊張関係から、偶発的に生じるかもしれない武力衝突を未然に防ぐ方法を知るということであると思っている。

秋山氏は、外交官・幣原喜重郎の著書『外交五十年』(中央公論社)の冒頭の「朝鮮の思い出」と云う一節の文中にロシア巡洋艦ワリヤーグ号が「撃沈もされず、戦争は終わった」と述べている箇所について疑問を抱き、ソ連抑留時代に学んだロシア語によりロシアの文献を調べ、翻訳するなどして研究し、その誤りを指摘した。         (続く)

2011年6月26日日曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110626)

 宮城県沖排他的水域に中国の調査船が無通告で入った。中国は;

1992年に「領海法」を制定し、「尖閣諸島・南沙諸島・西沙諸島・その他の島嶼」を中国領として明記したこと、

1997年に「海軍発展戦略」の中で軍事的防衛ラインとして、第一列島線および第二列島線の概念を強調したこと、(第一列島線は九州・沖縄から台湾・フィリピン・インドネシアの諸島群などを結ぶ線であり、第2列島線は伊豆・小笠原諸島からグアム・サイパンを含むマリアナ諸島群などを結ぶ線結ぶ線である。)

③中国共産党は2007年に「琉球復国運動基本綱領」というものをつくり、そこに「琉球人民は日本の琉球群島に対する植民地統治を認めない」などと書き、さらに「琉球臨時憲法」第4条に「琉球共和国は、奄美州、沖縄州、八重山州の三つの主要な州からなる」と書いてあること、

2010年に「南シナ海や尖閣諸島を含む東シナ海の問題」を、「台湾やチベット、新疆ウイグル両自治区」などと並んで一切の妥協をこばむ「核心的利益」に分類し、東シナ海・沖縄・南西諸島・台湾を核心的利益に入れたこと、

⑤去年から今年に尖閣沖中国漁船衝突事件を起こし、中国海軍ヘリコプターがわが護衛艦に対ししばしば無謀な接近をしていること、

⑥中国は沖縄を「琉球」と呼んでいるが、去年の中国のデモでは日の丸を踏みつけているデモ隊の白いシャツに「琉球奪還」とプリントしてあったこと

など、中国国家組織や一部中国人民の思想・行動には見逃してはならないものがある。

しかし私は、これも中国の国家組織の中のそれぞれ役割を担っている組織による「自存」行動であると思っている。問題は、我が国がその「自存」の行動を「自存行動である」と認識していないことである。人でも組織でも「生き残ること」を目的として行動するものである。それをただ単に「利益と利益のぶつかり合い」としか観ないのは大間違いである。

生き残るため、人も組織も道徳やルールを無視しがちである。道徳やルールを無視する相手に対して、こちらが強ければ相手もこちらを尊重し、その行動におのずと自制心が働くものである。将来、日本は核武装することも辞さないという姿勢が必要である。

さて、日露戦争の緒戦は、日本・ロシア双方の自制の中に偶発的に起きた。仕掛けたのは日本であるがロシアも日本に仕掛ける時機を狙っていた。日露間の緊張関係が高まっているときに、“韓国の釜山(プサン)沖で決起に逸った日本艦艇が露国の商船を拿捕した云うことである。日本艦隊は行動を起こしたものの、できるだけ長くそれを秘匿しておく必要があったのである。しかるに露国商船を拿捕したとなると自ら交戦状態に入ったことを告知したことになる。”(“”は既述のとおり秋山氏の著作から引用したことを示す。)

各国の軍艦が停泊中の仁川港で一発触発の緊急事態が高まってきた。近代史をよく学べば、中国の「自存」の動きに対して決して鈍感であってはならないのである。  (続く)

2011年6月25日土曜日

日露戦争前哨戦(20110625)

 私は、放送大学同窓会の役員をしていた時、同窓生の秋山代治郎氏と知り合った。氏は1921年11月、仁川府(現在の韓国仁川広域市中区)に生れ、仁川商業学校、明治学院高等商業部を経て、台北帝国大学を卒業された。氏の伯父・城戸忠彦少将は、山本五十六連合艦隊司令長官と深い交流があり、氏の伯父は山本五十六最後の信書(絶筆)を受け取っていた。私は氏からそのコピーを頂いている。

 山本五十六長官は前線視察中、ブーゲンビル島上空でアメリカ空軍機に襲われて撃墜されて戦死した。氏は、その年(昭和18年、1943年)11月に学徒出陣し、軍務に就き、日本の敗戦によりソ連エラプカに3年間抑留されていた。抑留から解放された翌年商社・日商㈱に入社し日商岩井㈱取締役を経て5年間日商エレクトロニクス㈱代表取締役を務めた。その後放送大学教養学部に入学し、「社会と経済」「人間の探究」「産業と経済」「生活と福祉」「発達と教育」「自然の理解」の各専攻を卒業され、2006年に放送大学大学院文化科学研究科に入学し修士課程を終了された。

 私は氏から、氏の放送大学学部卒業研究論文のコピー、著作『歴史記述に於ける虚構と真実―知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』、及び氏がご自分の修士論文を本の形にした『近代日本と日露戦争』を頂いている。私は氏からそれらの文献の内容について、ブログに書くことの了解を得ている。

 私は氏より16年年下である。今、戦後生まれ世代がこの日本を動かしているが、非常に危ういものを感じている。私は終戦の年の夏、9歳の時、母、弟妹と一緒に朝鮮・慶尚北道から引き揚げた。慶尚北道公立国民学校長や青年特別錬成所長などをしていた私の父は9月に引き揚げた。私自身空襲に遭うなどといった体験はないが、小学校低学年のとき戦前と戦後の学校生活の違いや終戦直後の社会の状況や貧しい生活を体験している。そういう意味で、日本のあるべき形について、秋山代治郎氏のような方の著作の内容を、私の子供たちを含め、今の時代に生きる人たちに伝えたいと思う。

 氏の著作等の引用にあたっては、引用部分を括弧(“”)でくくることにし、文献の名称などは省くことにする。これまで3回にわたり「万物は自存を目指す」というタイトルとラベルで書いたが、このブログの記事からラベルは同じでタイトルのみ「日露戦争前哨戦」として書いて行こうと思う。

 私は、日露戦争も日清戦争も、戦争の当事国双方ともそれぞれ‘自存’をかけて戦った戦争であると思っている。日本国憲法前文では「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しょうと決意した」とあり、第9条第1項に「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」、第2項に「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある。私は、日本はこの憲法では、自ら存続することは絶対にできないと確信している。中国軍や中国の海上警備部署(海監)やロシア軍は、常にわが自衛隊の戦力をチェックし、時に危険な行動に出ている。(続く)

2011年6月24日金曜日

万物みな自存を目指す(3 )(20110624)

 万物はみな自存を目指す。人間の体の中の仕組みは人間と言う一つの個体を自存させるために非常に上手くできている。けがをしてもすぐ新しい細胞ができてけがの修復を行う。体内に異物が入ってくると免疫細胞が働いて体を健全に保つようにする。ウイルスは生き物の範疇に入れてよいかどうかはっきりしないが、ウイルス個体として自存しようとする。路傍の石さえも、生生流転の中に形を変えて、何万年前も何万年後も何処かの路傍の石として存在する。この宇宙は誕生と消滅を繰り返しながら自存している。

 動物も植物も人間も「生きる」ため争う。そして「生きる」条件を備えているものだけが最終的に生き残っている。動物も植物も人間も「生きる」条件を備えるために自然に動いている。人間は高い知能を生かして、宇宙で「生きる」条件を備えるように動いている。この地球上で人間が住めなくなっても、最終的には一部の人間とその人間に連れて行かれた動物と植物だけが宇宙で生き残るだろう。すべて自存のためである。

 さて、一人の人間の自己実現の行動も自存のためである。人は自己実現のための行動を通じて生きがいを得ようとする。その努力の半ばで挫折して目的を達成することができずに生を終える人がいる一方で、どのような障壁に直面してもくじけず頑張り通し、運にも恵まれて遂には目的を達成することができる人もいる。

 人はその自己実現の行動のため自らは気付かぬうちに他の人を傷つけ、あるいは他の人の恨みを買うことがある。人は自己実現の強い意志を貫こうとすれば、自ずと他の人との間で摩擦が生じる。それでも運に恵まれ、強い人だけが自己実現を果たすことができる。

 ある人は自存のため結婚し、性交して子孫を残し、生涯を終える。ある人は結婚せず世の中に役立つ多くの仕事をして名を残し、生涯を終える。人はその一生の間に社会の一員として人それぞれの役割を担い、その役割を果たしてその生涯を終える。皆自存のためである。暴力団員、国際テロ集団員、狂信的宗教団体員など反社会的な組織の人も、皆それぞれ自存のために行動している。

 人間の自存の行動は、それが合法的か非合法的かということはともかくとして、究極的には自分がよく生きるための行動である。よく生きるためにはエネルギーの元である富が必要である。人間は富を得るということにある種の後ろめたさを感じながらも、表向き何か大義を掲げて行動する。聖人君子でない限り、人間は誰でも所詮同じ穴の貉である。

 スズメバチたちは巣の中と外から同時作業して、巣を徐々に大きくしながら1匹の女王蜂から1000匹ものハチが生まれて大集団となる。これは大スズメバチが来襲したとき自らの集団を守るためである。大スズメバチはスズメバチの巣の中の富を奪って自存しようとする。一方で1000匹ものスズメバチは多くの犠牲を出しながらも来襲した大スズメバチと戦い、自分の巣を守り抜く。それもスズメバチの自存の行動である。

 さて、今、中国が奄美・沖縄・南西諸島・台湾の領有を狙うのは、自国の自存のため富を奪おうとする行動である。中国海軍の行動は日露戦争の戦端のようになりかねない。

2011年6月23日木曜日

万物みな自存を目指す(2 )(20110623)

 急に夏になった。玄関の入り口は例年のように閉じてあった格子戸を開き、南北への風通しを良くした。今年は特に省エネということもあって早々に竹を編んだベッドの敷物を取り出し、その上にバスタオルを広げ、扇風機の風を受けながら、うつ伏せになって少しばかり昼寝した。家の中では私は上半身裸である。ただし誰か来て玄関に出るときのため、1枚のシャツをベッドの枕もとに掛けておきいつでも着ることができるようにしている。

 机上にこのパソコンの裏面を持ち上げるように紙製パイプの枕を敷き、小型扇風機で冷やしている。その音とともに、風鈴やどこかでスズメなど野鳥の鳴く声がする。昨日このブログに書いた秋山氏に刺激され、今日からは私は日々の過ごし方を修正することにした。今後は、私はブログの記事の中で自分を客観視したような人物を描かないことにした。

私はかつて一時期よく勉強したものだと思う。そのとき勉強したことが、私の中にある種の思想体系を作っていた。そしてこの世界の現実を観てその思想体系にあてはめ、その実態を把握しようとしてきた。末尾の数字以外同じタイトルの昨日の記事は、そのような把握に基づくものである。

 私は17世紀の哲学者・スピノザの哲学に共鳴している。現代の自然観がスピノザの自然観と何か関わり合いがあるように思い、この世のあらゆる現象をすべてスピノザの自然観に結び付けて把握しようとしている。一方で私はこの世の様々な出来事の中には、未知の何か、お釈迦様が「無記」として議論することが禁じられている世界によって起きているものがあると思っている。人間はその未知なものが何かまだ究明できずにいるが、いずれ必ず究明するに違いないと思っている。お釈迦様、2500年前のインドのシャークヤ族出身の聖者、ゴータマ姓出身の悟った人即ちゴータマ・ブッダ、つまり釈尊が説かれた『人間の学』ともいうべき仏教は、将来科学的にも必ず納得されるものであると思っている。

 私は50代の頃、春秋社から出版された水野弘元著の『仏教の基礎知識』や『仏教要語の基礎知識』という本を買って時々それを取り出しては読んでいた。それらの本に書かれているところによれば、釈尊が説かれた「業報説」や「善悪説」は、釈尊が仏教独自の学説の「縁起説」に人々を誘引するため、予備的な入門として説かれたものである。釈尊は人々の苦悩を解決してゆくために必要な限りにおいて、社会や人生の動きを縁起として考察し、説かれたという。「人々の苦悩を解決してゆくために必要な限りにおいて」であるから、元より釈尊が説かれたものは、現代科学とは別次元の学問である。

 タイトルの「万物みな自存を目指す」という命題は、現実の社会現象にあてはめて考えると、事実そのとおりであると思う。今、国会では菅総理の辞任時期と会期と審議すべき法案のことでもめている。これも概観すれば、政治家や政党などがお互い「自存」をかけて争っていることである。スピノザは「自存力」というものが、汎神論の立場から人間のだけでなくすべての個物の性格として存在していると説いた。私はスピノザと同じ視点で自分自身の事や社会問題や国際問題などを考えてゆきたいと思う。

2011年6月22日水曜日

万物みな自存を目指す (20110622)

 人も、夫婦も、家庭も、会社も、自治体も、国も、路傍の名もないような野草も、小さな虫けらも、何もかも、万物、あらゆるもの、皆こぞって自らの存続を目指している。人が富を得ることを目指すのも、根本にはその自存の原理が働いている。人が他者より優位に立とうとする行動もこの自存の原理に基づいている。

 この世の現実は、無数とも言えるそのような‘自存の意志’同士の衝突で満ちている。倫理的な‘法’、国際法、国内法、諸法律に基づく行為は善とされ、それらに基づかない行為は悪とされるが、自存のため、あえて‘悪’を実行する人も、組織も、国も、現実には存在している。お互いその‘悪’を認め合う場合は、その両者の間で表立った衝突は生じない。そうでない場合は両者の間で衝突が生じる。

 高級官僚の一部の者が暗黙の結束をし、合法的に自分たちだけの富を守ろうとすることを一般には‘甘い汁を吸い合う’と言うだろうが、そのような行為と、非合法に富を手中にしようとする暴力団幹部と、根本的にどう異なるだろうか?政治資金を集めるために影響力の大きい政治家の秘書たちが、‘甘い汁’を吸いたい企業に恫喝めいたことを言って金を集める行為と、暴力的な脅しで金を集めようとする組員の行為と根本的にどう異なっているだろうか?みな‘自存を目指す’行動という意味では同じである。

 ある国が国際法を無視して他国を蹂躙しようとする場合も、その国の自存の行動である。北方領土は当時のソ連のそのような自存の行動により占領され、近年ロシアはその実効支配を強化しようとしている。竹島も戦争に負け弱っていた我が国の隙を衝いて、日本への誤解により日本に恨みを抱いていた李承晩が勝手に引いたラインの内側に竹島を入れた結果、韓国により実効支配されてしまっている。おまけに日本海も韓国では東海と呼称し、それらを韓国は国際的に認知させようと行動している。革心的利益と称して国家的戦略として奄美・沖縄・台湾を自国の圏内に入れている中国は尖閣諸島漁船衝突事件を起こした。11隻もの中国艦隊は宮古と沖縄本島間を堂々と行動し西太平洋で演習を行っている。これらはすべて、それぞれの国の自存の行動に他ならない。

 書店には日本の古代史を意図的に捻じ曲げようとする本が並べられている。日本は自由な国であるから、良識ある日本人ならそのような本に惑わされないだろう。しかし愛国心の希薄な者どもはそのような本に尤もらしく書かれている内容を信じてしまうだろう。

 日清・日露戦争や支那事変や太平洋戦争は、もともと列強のアジア侵略を食い止めようとした自存自衛の戦争がスタートであり、その後我が国の未熟さ、彼の国々の巧妙さがあってずるずる深みにはまってしまった戦争である。

 男も戦争は大嫌いである。戦争は決してしてはならない。しかし現実の世界は、自存の行動により火種が絶えない。降りかかる火の粉は未然に防がねばならない。昔のことをあれこれ考えるのも必要であるが、現実の世界では長くて近年、短くて昨日今日のことに最も意を働かせるべきである。さもないと、我が国は自存できなくなるだろう。

2011年6月21日火曜日

台湾の方々から贈られた短歌・俳句(20110621)

 読売新聞に『耐える被災者へ贈る120首』と題して台湾・高雄市の義守大学応用日本語学科が年1回出している短歌・俳句の雑誌が、東日本大震災の被災者らを励ます短歌の特集を組んだ。500部を発行し、宮城、岩手県などに200部送るという記事が出ていた。以下、その記事を引用する。

“台湾には、日本統治時代に日本語教育を受けた人や日本語を学ぶ学生を中心に、短歌・俳句の愛好者は多い。特集には「台湾歌壇」のメンバーら62人の120首が掲載され、同歌壇の蔡焜燦代表は「国難の地震と津波に襲はるる祖国護れと若人励ます」を寄せた。”

その他以下の歌が記事として出ている。かっこ(“”)を外して読みやすいようにし、以下にそのまま引用する。

未曾有なる 大震災に  見舞はれど  秩序乱れぬ    大和の民ぞ
天災に   負けず   わが愛友よ  涙も見せず    鬼神をば泣かす
原子炉の  修理に赴く 男の子らの  「後を頼む」に  涙止まらず
福島の   身を顧みず 原発に    去りし技師には  妻もあるらん
 大正生まれ 昭和育ちの 我ならば   日本大災難に   こころのしずむ

 上の「大正生まれ・・」と詠う歌は、日本語世代の方が作られたものである。義守大の担当者は「頑張れという気持ちがこもったものばかり。心の支えになれば」と話しているという。今に生きる日本人の一人として大変嬉しいことである。

 台湾ということで男は友人・秋山代治郎氏のことを思い出した。氏は現在90歳であるが大変お元気である。氏は放送大学の卒業研究論文を『歴史記述における‘虚構と真実’―知られざる仁川沖海戦と日露戦争への道程―』という本にして出版した。氏は同大学大学院における修士論文をもとに、学術書『近代日本と日露戦争』という本も書いている。

その秋山氏は1921年仁川府(現在の韓国仁川広域市中区)に生まれ、後に台北帝国大学を卒業し、学徒出陣し、日本の敗戦により1945年から3年間ソ連邦エラプカに抑留されていたという経歴がある。秋山氏は仁川の生まれ、台北帝大卒業、ソ連抑留の体験をもとに仁川と日露戦争の関連を研究し、2冊の本も書いて出版されたのである。

男も小学校2年生の1学期まで朝鮮慶尚北道で過ごした。戦後生まれの世代は日本の惨めな敗戦とアメリカ軍の駐留と復興と国連加盟を経て今日に至る平和・繁栄のことしか知らない。アメリカの政策により日本人の精神構造を根底から変える試みがなされた。東京裁判はその絶好の手段だった。その結果、戦前の日本人は悪いことをしたと教え込まれた。

そのような世代が日本の指導者になり、好機とばかり尖閣沖の中国漁船衝突事件、北方領土へのロシア首相らの訪問、韓国による竹島固定化の動きなどが起きた。中国は弾道ミサイルによる嘉手納・普天間を対象とした先制攻撃戦略を立てた。中国は13億人の自国民を養うためなりふり構わぬ行動をとろうとして、南シナ海でも活発な行動をしている。

 この国が今在る意味を、上記台湾から贈られた短歌を機に改めて思い直す必要がある。

2011年6月20日月曜日

思い出の写真の保存について(20110620)

 ITへの関わり方について、男は同年代の男性諸君を見ると、「俺はそう遅れてはいないが正規分布曲線の中央の山を越したところよりは少しばかり先を行っているのかな」と思う。男は自分の手の大きさに比してちょっと小さくてキーボードタッチで誤字をたたきやすいという問題はあるが、Windows7のノートパソコンを常用し、九州に帰るときもそれを携行している。九州の家ではADSLを引き、バックアップのため別のXPのノートパソコンを使うようにしている。こちらではこのたび女房専用にした最大サイズのVistaのノートパソコンをバックアップ兼用にしている。それにはこれまで男が使っていたハードディスクも接続し、今後は写真専用にした。男自身は自宅にいる時も旅行するときもデータのバックアップ用にポケットサイズのハードディスクを使用している。

 データのバックアップは重要であり、男は、量的制約はあるがノートン360でもバックアップを自動的にとれるようにしている。そのほか、ブログの記事はハードディスクとMOにも保存している。写真は一部をPicasa3でウエブ上に保存しているほか、ハードディスクとCDに保存している。ノートン360はダウンロードで購入し、パソコン3台まで同じ注文番号で使用できるので丁度3台にインストールして使っている。

 男は女房のパソコンのデスクトップ上に、これまで行楽や旅行や散策など撮ってきた花の写真やちょっと思い出のあるスナップ写真を保存している。それは年代別のフォルダーに入れてあるので画面がアイコンで埋まってしまうことはない。写真の中にはデジカメが出始めたころ、子供たちから還暦の祝いに贈ってくれたソニーの箱型の、写真の保存はフロッピーディスク上に行うカメラで撮った沖縄・南西諸島旅行時の写真も入れてある。

 女房は花が大好きである。何年も前、自分のカメラで撮った花の写真をパソコン画面上に開いて鑑賞し、「とても綺麗だ」と喜んでいる。花を観、花の写真を撮り、パソコン上に保存したものを自分で開いてみて鑑賞し、心を癒している。男はパソコン初心者の女房に、女房が少なくとも自分が見に行きたい花がある場所までのアクセス情報や、自分が撮った花の写真を後で見て余韻を楽しむことが自分の能力で出来るようにしてやった。パソコンが性能優先で動作するように設定も行っておいた。

 楽しい思い出は沢山残し、後でそれを振り返ることが出来るようにしておくのが良い。もし将来病床に臥すようなことがあるときでも、今の時代、手元で自動的に画面が変わる写真を見ることができる。男が女房のパソコン上に年代別に名前を付けて保存した非常に沢山の写真集も、病の床で見ることができる。いちいち簿冊になったアルバムを開く必要はない。データや写真がコンピュータやウエブ上保存されていれば、何時でも何処にいてもそのデータや写真を取り出して見ることができる。

 この度の大震災で思い出の記録を流され、失ってしまった人が非常に多い。想像するだけでもとても悲しいことである。もしコンピュータやウエブ上に思い出の記録が保存されているならば、その深い悲しみは多少慰められることだろう。

2011年6月19日日曜日

女房のパソコン (20110619)

 人は他者を愛するとき、家族など自分に身近な者しかよく愛することはできない。キリスト教や仏教の聖者でも自分を慕ってくる者にしか愛を与えることはできなかった。ただ、聖者は普遍的な最も正しい愛について語り、迷える人々を導いたから、その教えは普遍的な宗教になった。ゴータマ・ブッダと後に称されるようになった王子は、妃や子を捨てて出家し、後にその妃や王子はブッダの弟子になったが、その時ブッダは既にブッダであった。イエス・キリストは聖母マリヤの処女懐胎により人の子となったから、もともと神の子であった。マリヤは初めからイエスに教えを受ける立場であった。

 先日自民党総裁谷垣氏の奥様が他界された。谷垣氏を見舞った民主党の岡田幹事長に対して、谷垣氏は「奥さんを大事にして下さい」と言ったという。一般に公的な男は公的な仕事に熱情を傾ける一方で、愛妻と共に過ごす時間が無いことを悩み、愛妻に十分な愛を与えることができていない状況に悩み、愛妻が自分に尽くしてくれていることに十分報いることができていないことを悩むと思う。

 男はもともと心正しくない人間であったから、つい最近の年齢なるまで女房に悪いことをしてきた。悔やむことありそのことを女房に言い、「お前はよい子供を産み、よく育てた。そればかりではなくこの俺まで変えてくれた。よく尽くしてくれた、ありがとう」と言っている。男が自分の罪を思うほどには女房はちっとも罪とは思っていないようであるが、男は女房に対して罪の償いをせねばならぬと思い、実際にそのとおりにしている。

 かくして男も自分の人生を完成させるように日々生き、女房も自然とそのようになっている。ゴータマ・ブッダやイエス・キリストのような聖者ではない普通の人間は、自分の人生の完成は自分一人ではできないものである。長年連れ添う夫婦がお互いに影響し合いお互いに自分の人生を完成するようにしなければ、到底「よい人生だった」と最期のとき頬笑むことはできないだろうと思う。人生とは自分の霊的な完成の道であると男は思う。

 そういう思いがあって、男は女房のために非常な熱情を傾けて、女房のIT環境を整備してやった。もともと女房は目の前に100万円積まれても、自分がその気にならなければ難しいことには決して取り組まない性分である。たまたま千葉に住む女房の親友が最近息子に教えられてパソコン学級に通いITおたくのようになったことに刺激され、女房はやっとパソコンを本気で学ぶ気持ちになった。

 女房は何年か前、男がインストールした「特打」というソフトでキーボード・タッチの練習などはしていた。男は女房のために手ごろなパソコンを用意してやっていた。しかし女房はこれまで本気でパソコンを学びたいという気にはなれずにいた。ところが自分の親友がパソコンを自由に使えるようになりそうだと知って、自分も本気になった。

 男は一日がかりで女房が最も簡単に素早くグーグルのページを開くことが出来るようにし、「お気に入り」にグーの路線検索のアイコンを一つだけ入れ、女房が花を見る行楽先の情報を簡単に得られるようにしてやった。これも男は自分の罪の償いのつもりでいる。

2011年6月18日土曜日

鎌倉に遊ぶ (20110618)

 10時過ぎ家を出て鎌倉に向かった。男も女房も横浜市の敬老パス愛用者である。このパスは予め市のほうから通知文書があり、その通知内容に従い郵便局に出向いて行って市が決めた一定のお金を払えば貰える仕組みになっている。通知文書には市がこの敬老パスのためかなり負担していると書いてある。勿論このパスは男でも女でも所得が一定額以上の人は貰えない。敬老パスを貰ってもそれを使うような機会がない人や少ない人は、わざわざお金を払ってまでそのパスを貰うのは馬鹿らしい。この敬老パスが最も有り難い人は、男や女房のように元気で、自宅からバスや鉄道などの交通機関にアクセスが容易で、よく外出する人である。

 このパスには他の利点もある。横浜市内の有料の施設を利用するとき、その施設が老人の入場料を割り引きしているところや無料にしているところには、水戸黄門の助さんや格さんが悪徳役人らに「このご紋が見えないか」と印籠の紋見せるように、この敬老パスを見せれば割引や無料のサービスを受けることができる。

 要は、年寄りたちが元気である方が医療福祉の予算を節約できるし、元気で外出すれば外出先でお金を使うので多少なりとも経済的効果があるので、行政としても年寄りたちに様々なサービスを提供して、なるべく元気で過ごして貰いたいのである。従い、この折角の制度を積極的に利用し、外出し、金を落とすことに精出すこと善いことである。

 女房は口癖のように「花はその時にしか見ることができない。毎年同じ花を見ることはできない。体調を壊したり、介護で田舎に帰ったりしたときは見たい花も見ることができない」と言っている。女房はその時々撮った花の写真をアルバムにファイルして保管している。その写真をプリントするのはいつも男の仕事になっている。

 鎌倉へはできるだけ敬老パスを使って往復することにした。市営地下鉄で新横浜から戸塚までゆき、そこでJRに乗り換える。鎌倉まで片道の運賃は210円である。鎌倉で江ノ電に乗り長谷・極楽寺まで行く。片道210円である。それ以外は電車も地下鉄も敬老パスを利用する。敬老パスのため期初めに一定額を支払うが、それを別におけば往復840円の旅費でこの紫陽花の時期に紫陽花の景色を楽しむことができる。所要時間は地下鉄を利用しない場合に比べてそう開きはない。地下鉄で約40分の間、バッグからノートとペンを取り出して短歌を作る。五七五七七の韻の中に頭で浮かんできた語をはめ込む。出来上がった歌を女房の耳元で小さな声で言う。女房はその歌が川柳のようであり、詩情もないので可笑しがって笑う。しかしそんな遊びをしているうちにあっという間に戸塚に着いた。

 鎌倉について先ず昼食にした。小町通りに居酒屋風の店があり、まぐろ・しらすどんぶりのセットで1500円ほどの値段を表示している。これまでちょくちょく鎌倉に来ているが、そのような店に入ったのは初めてである。居酒屋なので昼からビールを取り、5品ほどの昼食を楽しんだ。その後紫陽花鑑賞の定番コース、長谷寺・御霊神社・成就院・極楽寺を回り、極楽寺である陶芸家の作品を展示販売している所に立ち寄って帰路についた。

2011年6月17日金曜日

特上の天ぷら(20110617)

 男は京浜東北線T駅近くのJという店をときどき利用する。そこは1階が寿司のバーがあり、2階には天ぷらのバーがある。バーの後ろには囲われたテーブルと椅子の空間があり、横には襖で閉じられた個室がある。男はそこの天ぷらバーのマスターKさんと旧知の仲で女房はKさんの奥さんと旧知の仲である。

 男がかつて現役のころ、直属上司だったアメリカ人一家とよく家族付き合いをしていてお互いの家を行き来していた。その上司Rは男より一つ二つ年長でその奥さんEとは同じ年である。男はRと喧嘩もしたがよく気が合った。Eはスエーデンから自分の姉を呼び寄せ、Rは前妻との間にできた自分そっくりの息子Dを呼び寄せ、一緒にコンパクトな我が家を訪れたことがあった。そのとき我が家では女房が手巻き寿司を用意した。大人数なので女房は沢山用意していたが、Rは手巻き寿司のことを「ジャパニーズ・タコス」と言って大変喜び、驚くほど沢山たべてくれた。男はアメリカでタコスをよく食べたものである。

R夫妻がアメリカに帰ることになった時、夫妻は男と女房をアメリカ大使館内のレストランに招待してくれたことがあった。最後の別れの日、Rは着物姿の女房をじっと抱きしめて別れを惜しんでくれた。そのRは男が前立腺がんで手術を受ける1年前に同じ病気で手術を受け、男はこの齢まで元気でぴんぴんしているが、R10数年前死んでしまった。

そんなR夫妻を男はある日その店に連れて行ったことがあった。一般にアメリカ人は天ぷらが大好きであるが、Rはその店がとても気に入った。Rはその後Eやスエーデンから来日したEの姉や前妻との間にできたRそっくりの息子Dを連れて行ったり、自分の上司や同僚や来日した彼の会社の人たちを連れて行ったりして、マスターのKさんは喜んだ。アメリカ人たちが何故その店をことのほか気に入ったかというと、マスターのKさんが天ぷらを揚げながら片言の英語でジョークを飛ばしたりして、場の雰囲気を盛り上げるのが大変上手だからである。

 男はその店には遠方から息子たちが家族を伴って帰ってきたときなどに、彼らを連れて行きいい顔を見せている。3月には孫娘の一人が大学に進学することになったので、それを祝って女房とともに一家をその店に連れて行った。そのときそのマスターKさんから今月末まで有効のその店のクーポン券を3000円分貰った。しかし母の介護で田舎に帰ったり、あれこれあって3か月の有効期限が切れそうである。しかし男は女房と二人だけで、そのクーポン券を使うためそのわざわざその店に行くことには気が引けている。

 先日男は女房と二人で、自宅で天ぷらを揚げながら少しばかりビールを飲んで大変幸せな気分を味わった。食卓の上に年季物の卓上電気式天ぷら揚げ器を置き、コレステロールを下げるという真新しい油を入れて、女房が準備した七つばかりの新鮮な食材を揚げながら食べた。Kさんのような腕選り天ぷら職人が揚げる天ぷらには遠く及ばないが、自宅で老夫婦二人だけで、新鮮な油と新鮮な食材をたっぷり使い、揚げながら食べる天ぷらはまた違った意味で特上の美味しさがある。男は天ぷらが大好物である。

2011年6月16日木曜日

今後10年前後の間に起きるかもしれない関東大震災への備え(20110616)

 今朝の読売新聞に『平安大震災5』と題して次の記事があった。ここにその一部を引用する。なお、これに関連して男は次のタイトルの記事を2011527日金曜日付け投稿で公開している。タイトル:『未来の大地震災害 (20110527)』。
     http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2011/05/20110527-iaea-2011-5-18-869-1000-850.html

“東北を襲った貞観(じょうかん)地震から9年後の元慶(がんぎょう)2年(878年)929日、今度は関東に大地震が起きた。

 特に相模国(神奈川)と武蔵国(埼玉、東京)の被害が大きかった。正史「日本三代実録」によれば、5~6日余震が続き、官舎も民間の建物も一つとして無事なものはなかった。地面は陥没し、街道は不通になり、多数が圧死した。相模国分寺(神奈川県海老名市)は本尊や脇寺(きょうじ)が倒壊。地震後に火災があった。

 震源などは不明だが、活断層による直下型の可能性が指摘されている。

 相模国分寺は奈良時代の8世紀半ばに創建された寺院で、これまで塔、講堂、金堂、僧坊の跡などが発掘調査されている。”

 “関東では60年前の弘仁(こうじん)9年(818年)7月にも大地震が発生している。相模、武蔵、下総、常陸、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)など関東全域で、山は崩れ、谷は埋まり、数え切れない民衆が死んだ、と「類聚(るいじゅ)国史」は伝えている。

 埼玉県北部の利根川中流域では、砂の詰まった亀裂(噴砂)など、当時の液状化現象の痕跡が広い範囲で確認されている。”

 昔の大震災の歴史を見ると、869年に起きた貞観大震災の51年前の818年と、9年後の878年の二度、関東で大震災が起きている。878年の大地震では平安京でも揺れを感知している。818年の大地震では熊谷以北の利根川流域でも液状化現象が起きている。男はこの史実に照らして、関東地方で今後起きる可能性のある大災害について考えた。

東日本大震災が起きた今年、2011年の89年前の192391日に関東大震災が起きている。平安時代に起きた地震のことを考えると、今後10年前後の間に再び関東大震災級の直下型地震が起きる可能性は十分あるであろう。その時、利根川、荒川、多摩川、鶴見川、相模川などの関東の河川の流域で液状化現象も起きる可能性もある。

国や地方自治体は最悪の事態に備えた防災努力をする必要がある。同時に火事場泥棒のようにわが国周辺の離島、特に尖閣、沖縄の南西諸島が侵略されないように、防衛努力も怠ってはならない。今の時代の‘武士’である国会議員や官僚、公務員、裁判官、自衛官・警察官・海上保安官・税関検査官・消防官など「官」が付く公務員、大学教授、小中高教師、消防団員、公共の運輸・交通・通信・放送(NHK)、電気・水道・ガス・介護福祉など事業体の職員・社員の方々には、その‘武士’身分に相応しい自覚と怠りない勤めが求められている。その一方で一般国民も自己責任と自助の努力が求められる。

男は母の介護のこともあり自分の先祖の祭祀のこともあり、郷里への移住を考えたいと思っている。それは上記のような関東大震災が起きないうちに実現させたいと思っている。

2011年6月15日水曜日

今度はトイレの水騒ぎ(20110615)

介護帰省の蓄積疲労あり、梅雨のすっきりしない気候あり、74歳の男も70歳の女房も今一つ元気が出ない。ある店に所用あり二人でその店まで川沿いの堤防の上を歩いて行ったのであるが、いつもなら女房の方がさっさと先に進み男の方は大股でついて行くような形であるのに、今回女房は遅れ気味である。「お父さん、早いわね」と言う。男は女房が追いついて来るのを待って、女房の早さに合わせてゆっくり歩いた。女房はこの早さでも息を上げている。男はこれは尋常ではないと思った。女房にはストレスがたまっている。

女房は今朝絶食して近くのかかりつけの内科クリニックで血液検査をしてもらった。女房はコレステロール値が少し高いことを気にして、そのクリニックでコレステロールを下げる薬を処方して貰っており、時々血液検査を受けている。今日の検査結果は1週間後でないと出て来ないが、その結果が出れば女房の体調不良について何か判るかもしれない。

女房は介護帰省する前までは近くのカーブスという女性専用の運動施設に通っていた。そこでは一カ月ごとに体重や筋肉量など計測され、運動の成果がわかるようになっている。女房は田舎に帰る前までは非常に体調が良かった。一週間前九州から帰って来て2、3日通わなかったが最近また通い初めた。途中トンボ帰りがあったが僅か半月余りの介護帰省でこれほど疲れがたまると言うのはやはり齢のせいであると思う。

母がアルツハイマー型認知症を発症していることが分かって以来、男は毎日母に電話を入れて状況を確認している。毎朝アリセプトD錠5mg一錠は必ず飲んで貰わねばならぬ。電話の第一目的は、遠く離れていてもしょっちゅう電話で繋がっているという安心感を母に与えることである。そのため女房も電話したり、母から電話がかかってきたりでこのところ日に何度も電話で話している。

今夜は夜8時過ぎに母から電話があり、女房が電話に出た。「トイレの水が流れない」と言う。女房は母が何か勘違いしていると直感した。男は隣家のTさんに電話を入れた。Tさんは15年ぐらい前奥さんをがんで亡くし、独り暮らしのお年寄りである。しかしまだ大変達者で独り暮らしを楽しんでおられる。「Tさん、Aです。夜分真に申し訳ありません。実は母が、トイレの水が流れないと言うんです」と言ったらTさんは二の返事で直ぐ母のところに駆け付けてくれた。母には女房から夜間人が来ても驚かないようにTさんが来てくれることを伝えた。隣り近所の方はいつも母が居る居間の縁側の方から来てくれる。

すぐTさんから電話があった。「トイレの水は流れます。お母さんは水が溜まっていることを勘違いし、レバーを引いても水が残っているので流れないと思ったようです」と笑いながら言う。傍で母が何か言いわけしている声が聞こえる。男はTさんに大変申し訳なく、何度もお礼の言葉を述べた。過去に母の電話がずっと話中だったとき、Tさんに頼んで電話機の様子を調べてもらったことがある。今回はこのトイレの水騒ぎである。

独り暮らしの母のため、女房も男も隣り近所の方々とは常日頃から緊密な関係を保ち続けている。そのお陰で今回もまた助けられた。これからも何か起きることだろう。

2011年6月14日火曜日

父の日のプレゼントを貰って (20110614)

 思いがけず父の日のプレゼントが送られてきた。毎年誕生日や母の日や父の日に子たちから何か贈られてくるが、男はこの時期そのことを忘れていた。このブログで‘男’というのはそろそろ止めて、一時期呼称していたように‘老人’にしなければならないと思うが、この齢になってもまだ色気を失っていないのでまだ‘男’と称することにしよう。

男が今年の父の日に贈られたものは、日本製のAIGLEのポロシャツである。これはエーグルの生地で作られたもので、汗を透湿させ容易に蒸発させるものである能書きがある。男はデザインとともにその能書きが大いに気に入っている。添えられた手紙には男が母の介護で九州に行ったり来たりして疲れたことを気遣ってくれる言葉とともに、その品物は嫁が中3の孫娘と一緒に品物を選んだことが書かれている。贈り主の名前は息子である。一家皆で真心をこめて男に父の日の贈り物をしてくれたのである。

小包の中にその孫娘が修学旅行で買った土産の長野の蕎麦も添えられていた。女房は今夕の食事をその蕎麦にしてくれた。その蕎麦は蕎麦粉100%の味がして美味しかった。孫娘はその蕎麦を食べたわけではなかったが、店の人に「きっと美味しいと言うだろう」と勧められて土産に買ったという。

 男はお礼かたがた久しぶりその嫁と、孫娘と長電話で語り合った。初めに女房が電話を入れ話した後代わって話した。男の部屋の壁には所狭しと写真パネルが何枚も掲げられているが、その一つのパネルにその孫娘が1歳のとき長野の佐久で嫁に抱かれて写っている写真がある。その写真は男が60歳の還暦を子たちが祝ってくれるため男の家族全員、当時8名が軽井沢に集合したとき、男が建設委員長として関わったある建物の前で男の友人がシャッターを押して撮ってくれた家族の集合写真の中にあるものである。

 あれから14年の月日が経ち、その孫娘は15歳になった。来年高校の受験を控えている節目の齢である。孫娘に聞いてみて初めて知ったが、修学旅行の同級生はおよそ320名で8クラスあるという。同級生の多くは小学校時代から一緒であるという。男は自分が中学生のとき同級生が377名いて7学級であったこと、小学校時代からの同級生も多数いたこと、小中学校一緒だった竹馬の友がいてそれがこの齢になってとても幸せに感じていることなどをその孫娘に話した。その時は、男は先ほどテレビで見た大津波で母親を喪ったある娘さんのことについて、全く念頭にはなかった。

 3ヶ月前起きた巨大地震よる大津波で非常に多くの人たちが親や子や兄弟姉妹を喪っている。そればかりではなく人生の記録である家族の写真さえも失った人も非常に多い。その悲しみはいかばかりであろうか。テレビや新聞などで報じられるたびに男も胸を痛める。

 仏はいろいろな方便で人々を教え導くとお経には書かれているが、それはなんと惨い方便であろうかと男は思う。心に深い傷を負った人々があまりにも多すぎると思う。しかし写真やその方の娘さんの話から、その人は女房のような人柄だと思う母親を喪ったその娘さんは、甥っ子を抱いて笑顔を見せていた。それも仏の方便の一つなのだろうと男は思う。

2011年6月13日月曜日

正しい認識の妨げとなる三つの壁 (20110613)

 『正法眼藏』(岩波文庫、道元著、水野弥穂子校注)に次のことが書かれている。

“おほよそ諸仏の境界は不可思議なり。心識のおよぶべきにあらず。いはむや不信劣智のしることをえむや。たゞ正信の大機のみ、よくいることをうるなり。不信の人は、たとひをしふともうくべきことかたし。霊山になほ退亦佳矣のたぐひあり。おほよそ心に正信おこらば修行して産学すべし。しかあらずは、しばらくやむべし。むかしより法のうるほいなきことをうらみよ。”

ここで、この本に訳注あり、「諸仏」とは「自己の正体の内容」、「心識」とは「心と、そのはたらき。意識作用。」、「正信の大機」とは「諸仏の境界は不可思議であると、まっすぐに信じる人が大機である。機は教えを聞いて悟る人。」、「霊山」とは「釈尊が霊山で法華経を説こうとした時、五千人の増上慢が、教えを聞くには及ばないと言って席を退いた。釈尊は、退くもまた佳と言って退くに任せた(法華経、方便品)。」とある。

なお、「正信」は「しょうしん」、「大機」は「だいき」、「霊山」は「りょうぜん」、「退亦佳矣」は「たいやくけい」とふりがながついている。

今からおよそ800年前、鎌倉時代初期の禅僧で、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師は「自分自身の本質は言葉では表現できないものであり、考えても奥底を知り得ぬものである。それは意識作用が及ぶようなものではい」と説いておられる。『正法眼藏』は道元禅師が30歳ごろから53歳で没するまで生涯をかけて著した87巻(=75巻+12巻)に及ぶ大著である。74歳にもなる男は、この書物をまだちょっとかじり読みしているだけである。

道元禅師は座禅の重要性を説いておられる。しかし男は座禅などなどしたことがない。ただヨーロッパ人が「動く禅」と言っているという合気道には親しんでいた。今はそれも遠のいている。しかし合気の精神は持ち続けている。

男は座禅のことは全くわかっていない。座禅すれば自分の本質に少し近づけるのではないか思う。その自分では分からない自分の本質に何か係わりがあるのかどうかさえもわからないのであるが、男は偶然の不思議を感じることが度々ある。男はそれを自分が認識できない世界から示された、ある意味では‘必然’だと信じている。人はそれを馬鹿げたことだと一笑するかもしれない。それを「たまたま偶然の一致だ」と決めてかかるかもしれない。しかし男は素直に、疑いもせずそれを有難いと思う。男は自分の本質につながる世界に意識を及ぼさないならば、本来見えるものも見えないのではないかと思っている。

大震災からの復興は遅々として進んでいない状況下、菅総理は自主的辞任を迫られている。男は、菅総理は自分の政治の現状を正しく認識することが求められていると思う。

男は、現状の認識は己の心を無にしなければ不可能であると思っている。何故なら誰にも正しい認識を妨げる壁があるからである。それは①感情の壁、②文化の壁、③知識の壁という三つの壁である。静かに瞑目し、自分の心の深奥を覗き込むようにしても、第三者の声を聞く素直な気持ちが無ければ、それらの壁の上部の影すら見えてこないだろう。

2011年6月12日日曜日

自分は何をして貰い、何をしたか、すべきか?(20110612)

 男は運動を兼ねてちょっと遠方の大型店Tまで行った。その帰り道、みちゆく主婦ら人々に目をやりながら考えた。男はこれまでの人生で女房や女房の実母である母に何をして貰い、何をし、何をすべきか、ということに思いを致した。

 昨日竹馬の友I君から贈られて来た『O市今昔写真帖』に女房の小学生の頃の姿が写っている。その頃女房の母親は男の父親の後妻に入り、その父親の赴任先である僻地で貧乏暮しに耐えていた。男の父親はその時自分の母校・O師範学校の後輩よりも低い地位で、助教諭であった。母は陰でその父親を支えていた。

男の父親はかつて、今の韓国慶尚北道で小学校の校長や兼務で青年特別錬成所長をしていたが日本の敗戦と共に状況は一変した。日本への引き揚げ後は教職に就けず農業を営む祖父を手伝いながら先のことを模索していた。そういう状況にあるときO師範学校の同級生らの奔走により教員普通免許を得、教職に復帰することができた。しかし最初は助教諭という資格であった。ようやく正教諭に復帰できたのは数年後のことであった。

母は再婚後それまで経験したことがないような貧乏暮しを経験した。母が女房の実父である夫と死別したのは終戦1年前の昭和19年のことであった。母は会社員の夫とともに大阪で暮らしていた。夫の実家は裕福な家で戦時下大阪に米などの食料を送ってきていて大阪での暮らしは楽だった。その夫が糖尿病で亡くなり、母は幼い女房を連れて空襲の合間を縫って母の実家に戻った。そして戦後間もなくある人の世話で男の父親と再婚した。

男の母親は引き揚げの翌年昭和2112月に乳がんで他界していた。33年の短い人生だった。それは男が10歳の時であった。母親は遺してゆく子供たちに、とくに長男である男に身をもって武士道の精神を教えた。男の母親は背中全体が転移したがんのこぶだらけになっていて相当苦痛があったに違いないが、死ぬその瞬間まで自分の苦痛を見せず、死ぬ時は当時10歳の少年であった男に仏壇から線香を持ってこさせ、裏山に落ち松葉を集める作業に行っていた父を呼びやった。その言葉はしっかりしていた。

今の母は戦後生活が苦しかった時代、男の父親を陰で支え続けた。そのお陰で男の父親は幾つかの小学校の校長として歴任することができ、名声を上げることができた。その父親も70歳のとき白血病で他界し、母は再び寡婦となった。

その母と幼少時以降成長するまで一緒に暮らすことが無かった母の娘が男の女房となり、立派な子供をもうけて世に送り出し、この齢になるまで男を支え続けてくれている。母娘二代にわたって、母と女房は男の家系に貢献してくれている。

これはすべて前世からの約束事のように感じられる。母と女房は傾きかけた男の家系の建て直しのため前世から送られてきたと男は思う。母娘だけではなく、その親族までも何かと直接的・間接的に男を支えてくれている。静かにそのことに思いを致すと、これは全てそれぞれ先祖の御霊の導きであることを自覚するに至る。

人は、合理的思考をする一方で、非合理的なことにも謙虚な気持ちであるべきである。

2011年6月11日土曜日

竹馬の友から贈られた今昔写真帖(20110611)

 小学校時代からの竹馬の友I君から『O市今昔写真帖』という分厚い本が筆者に贈られてきた。I君は郷土の歴史研究会のメンバーであることもあって、その写真帖の編集のため自分が撮った写真を提供したという。しかし実際にはI君の写真は採用されなかった。提供した写真も返却されなかった。その本はそのお詫びとしてI君に2冊贈られたものの一つである。I君は自分のものは1万何某かのお金を払って買い、お詫びとして贈られた2冊を男とTちゃんというもう一人の竹馬の友に贈ったのである。

男が介護で帰省したときは機会を作ってI君とTちゃんに会っている。Tちゃんは同級生の女の子、といっても皆74の婆さんであるが、その子に声を掛け、男のために一緒に食事をする楽しみを作ってくれている。幾つになっても竹馬の友は良いものである。

 その写真帖をめくってみると子供時代のいろいろなことが思い出された。I君の採用されなかった写真の一つに、子供時代の見渡す限りの広い田園風景とそれが市街地に変貌してしまった現在の風景を対比させたものがある。I君はそれを手紙とともに写真に挟んで送ってきた。その写真を見ると、男の子供の頃の原風景が蘇ってくる。男は子供の頃、家で飼っていた牛に犂を引かせて手綱と鞭を上手く使って田圃を耕し、水を引き、掻きならして水田にし、稲の苗を植えて育て、田の草取りや水やり、ばったなどの虫払いをし、収穫をし、精米したその全ての工程に関わっていた。そのような風景は今では里山でしか見ることはできない。男の継母が独り暮らししているK町には、その風景が残っている。

ちなみにばったは手で捕って一升瓶に詰め、家に持ち帰って金属製の網に入れて火に炙り、赤く焼けたものをおやつにして食べていた。これはカルシウムとタンパク質が詰まっている栄養食であった。田圃に農薬を散布するようになって、ばったは居なくなった。それまでは無農薬でばったなどの害虫にとってツバメなど野鳥が外敵であった。夏には虫送りと称して大人が作った火をつけた松明を子供たちが手に持って田圃の周りを巡り、火に虫を飛びこませて虫を駆除していた。それは子供たちにとって楽しい行事であった。

 写真には男の女房が小学校時代の頃の制服姿も写っている。あの頃女房の同級生の多くは制服を着ていなかった。皆貧しくて親が買い与えなかったのだと思う。女房は比較的裕福な大家族の家で末娘のように可愛がられていたし、通っていた小学校でも常に優等生であったし、祖母が婦人会の会長をしてこともあって先生からも特別に可愛がられていた。

その親の世代の人たちが子供の頃や大人になった戦後の頃の姿もその写真帖に収められている。時の流れとともに人は老い、やがて死んでゆく。その写真に収められている写真の人の多くは既に故人となっていると思う。男も齢既に74、あの頃から60年経った。I君ら竹馬の友だち皆いい爺さんになった。Tちゃんは自分が物忘れになったのではないかと心配し、わざわざ精神病院に行って相談したという。後で分かったのであるが最初の挨拶の時から会話を通じてチェックされ、診断結果は「異状なし」であったという。

人は皆老いる。寿命前に病気で死ぬ人も多い。人生とはそういうものである。

2011年6月10日金曜日

巨大津波の被災者のことに思う(20110610)

 巨大津波で両親を失った60歳代のある男性は、毎日のように遺骨安置所や遺留品保管場所を巡り、また流されて跡形もなくなっている自分たちが住んでいた場所を訪ねながら、何としてでもその両親の形見を探し出そうとしている。

保管されている遺骨の壺にはただ番号がふってあるだけである。多分その壺の中には番号とともに発見された場所などより詳しい情報が書き込まれたものが、簡単には取り出せないようにして保管されているのだろうと思う。もしそうでないと、何かの事情により保管されている遺骨と、書きこまれた情報とがばらばらになってしまったときその遺骨と遺族の関係を特定することが一層困難になってしまうだろう。

その男性は自分のDNA情報を警察に提供済みである。遺骨のDNA情報と遺族の関係を特定するまで3カ月ぐらいかかるそうである。DNAの鑑定作業は全国の警察に分散して行っているが、それでもそれくらい日数がかかるそうである。その男性は「父母はとても仲がよかった、早く父母の骨を探し出して一緒の墓に入れてやりたい、最後の望みはDNAだけです」と涙ぐみながら語っていた。かつて同じ屋根の下で家族そろって楽しく暮らしていた日々が巨大津波により一瞬のうちに失われてしまった。その男性は心が折れてしまいそうな毎日を送りながら、DNAの鑑定結果に一縷の望みを託している。

被災地にはその男性のような人々、男性に限らず女性や子供や親が沢山いる。悲しみが一杯ある。テレビカメラの前では笑顔を見せていても何かの拍子に一瞬顔を雲らせる。皆心に深い傷を負いながらじっと耐えて日々を送っているのである。

何故そのような苦しみや悲しみを持つ人々がいるのだろうか?仏典には「仏はいろいろな方便で人々を教え導く」というような趣旨のことが書かれている。その仏典とは妙法蓮華経というお経や、勝鬘師子吼一乗大方便方広経というお経である。(参考、『新訳仏教聖典』大法輪閣版)

仏典によれば、そのような苦しみや悲しみの渦中にある人々にも仏の救いがある。その教えに気付き、その教えを学ぼうと志す人々は救われる。事実、被災された非常に多くの方々は、意識的にせよ無意識的にせよ既にその教えに気付いておられると思う。だからテレビカメラの前で笑顔を見せるのだと思う。

仏典にはそのような苦しみや悲しみがその人の前世の行いによるが、そのように一方的に決めてはならないし、かといってそれを否定してはならない、というような趣旨のことが書かれている。一方、後の世における現象は、前世において出家者に供養することを好み他者を妬まずという行いをしたかどうかによるというような趣旨のことも書かれている。

仏典によれば、あらゆる苦も楽も不苦も不楽も全て因縁によって生ずるのである。その因縁とは何かというと、無明と愛によって老死があり、憂い、悲しみ、苦しみ、悩み、悶えが生ずるというものである。それは増一阿含経というお経に書かれている。(参考、同上)

 仏教は人々が幸せになる道を教えている。男はこの道について今後考え続けたいと思う。