2017年12月31日日曜日

20171231「浄土(Jodo(pure land))で会える」という意味


 ある大変親しくしていた元上司の葬儀に出席した。その葬儀は浄土真宗本願寺派(Jodo-shinshu Honganji sect)による儀式で執り行われた。そのとき思ったことがある。

 ご院家さん(Goinge-san)(浄土真宗(Jodo-shinshu)の僧侶の呼称)は読経の後、参列者に対し「この方は浄土に旅立った。皆さんも浄土(The pure land)に行けばその方に会うことができる」という趣旨の話をされた。

 浄土真宗の経典の教文の中に「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」という句がある。この句の意味は次の通りであると理解される。

① この世に生きている人は自分の善行・功徳を他の人に及ぼしながら、自分がこの世を去ったら浄土(The pure land)に行ってそこで生きたいと願う。
② この世に生きている人は浄土(The pure land)に行った人を再びこの世に還らせ、その人に衆生を救わせたいと願う。
この二つの願いは阿弥陀如如来(Amitābha又はAmitāyus)のお力に由るものである。
これは“自分のことよりも他人の幸福を願う”という利他の願いである。

因みに阿弥陀如来(Amitābha又はAmitāyus)とは大乗仏教(Mahayanist Buddhism)の如来(tathāgata)の一つである。如来(tathāgata)とは「この上なき尊い者」と言う意味である。阿弥陀仏(Amitābha Buddha)とも無量光仏・無量寿仏ともいう。(以上Wikipediaより引用。)

 阿弥陀仏(Amitābha Buddha)を信仰し、自分の死後自分は新たな命に生まれかわると確信している人は、「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」を実践している人である。その人はこの世に在って既に浄土に生きている。その人は自分の意識を浄土(The pure land)に往生した人と交流させることができる。「浄土(The pure land)で会える」ということは、そういうことである。男はそう確信している。

 ところで、血縁関係にはないがお互いの心と心が良くつながっている人と、実の親子関係にあるがお互いの心と心が良くつながっていない人がいる。前者の関係には「一方が他方に依存する心」がない。しかし後者の関係にはその「子が親に依存する心」がある。この「子が親に依存する心」は義理の親子関係でも観られる。

 自分自身を拠り所とせず、他人に依存する心は不平・不満・怒りの感情を生む。他人を頼みにしてこれに寄りかかろうとする心は無欲とは正反対である。他人に依存する心を持っている人は「往還回向由他力(Ogen Ekou Yu Tariki)」を実践することができない。従ってそういう人はこの世で浄土(The pure land)に住むことができない。

しかしそのような人でも自分の死の間際に阿弥陀仏(Amitābha Buddha)に手を合わせ、阿弥陀仏(Amitābha Buddha)に救いを求めるならば、その人でも浄土(The pure land)に往生することが出来る。浄土真宗ではそのように人々に説いている、と男は理解している。


2017年12月7日木曜日

20171207男の趣味


男は途中で10年間ほどブランクがあったが、既に40年近く詩吟(Chanting of a Chinese poetry or Japan-made Chinese poetry)に親しんでいる。20093月以降男は毎月URL(http://takaban.seesaa.net/)上に自分の吟詠(recitation)を公開していて、このブログにリンクさせている。信風(Shimpū)という名前は男がある詩吟の会で与えられた雅号である。

 先月、そのブログの中で中国の古典について解説した。日本には孔子の直系の子孫も孟子の傍系の子孫もいる。そもそも我々日本人の遠い祖先には黄河流域よりも1000年古い文明を築いていた長江中流域の民がいる。彼らは3000年以上前から徐々に日本に渡って来て、縄文人と混血した。そして彼らは男が言う「変化縄文人」になっていった。

 古代中国の内戦の時代である春秋・戦国時代(紀元前770年〜222年)、平和を求めてこの日本列島に渡ってきた中国人たちが居たに違いない。古代遺跡の発掘調査結果、彼らと縄文人又は男が言う変化縄文人との間で武力衝突があったと考えられる痕跡が一つだけある。しかし彼らも縄文人又は変化縄文人と混血し、次第に古墳時代人になっていった。その古墳時代人の中から初代天皇である神武天皇が現れた。

 『古事記』には次のことが書かれている。天津日子番邇邇藝能命(あめつひこばににぎのみこと)が、「天降坐于竺柴日向之高千穂之久士布流多氣」(「竺柴(ちくし)の日向(ひむか)の高千穂(たかちほ)のくじふる嶺(みね)に天降りまさしめき」)、・・・「於是詔之、此地者、向韓國、眞來通笠沙之御前而、朝日之直刺國、夕日之日照國也。故、此地甚吉地詔而」(ここに詔りたまひしく「此地(こち)韓国(からくに)に向かひ、笠沙(かささ)の御前(みさき)を眞來(まき)(とほ)りて、朝日の直刺(たださ)す國、夕日の日照る國なり。故、此地(こち)は甚(いと)(よ)き地(ところ)。」と詔たまひて)と。(関連を後述)

萬葉集もそうであるが、古代の日本では漢字を言葉の音に当てはめたものや、漢字本来の意味をそのまま用いたものが使われていた。「久士布流多氣」は「くじふるたけ」に漢字を当てはめたものである。「くじふるたけ」の「たけ」は山岳の岳・嶺(たけ)である。其処は邇邇藝能命(ににぎのみことの祖母で高天原の統治者であり、豊芦原の瑞穂の国の支配者でもある天照大神御神(あまてらすおおみかみ)がお生まれになった場所・高千穂の峰である。この峰は鹿児島県と宮崎県の間にある火山である。

「瑞穂の国」は「みずみずしく美しい稲穂が実る国」のことである。その国は「倭国」と呼ばれていた。倭人たちは当時朝鮮半島に進出していた。韓国南部にはその遺跡がある。

邇邇藝能命(ににぎのみこと)が降り立った笠沙は現在の鹿児島県南さつま市の中の旧来の地名であり、薩摩半島の西端に位置している。邇邇藝能命(ににぎのみこと)がその地について「此処は韓国に向かい、笠沙の岬に近く、朝日が差して、日照があるので、甚だ良い土地である」と仰り、そこに立派な宮殿を建てたのには政治的意味があった。彼は薩摩国阿多郡(現在の鹿児島県日置郡)の豪族の美人の娘と結婚して海幸彦・山幸彦という二人の息子を作り、九州の陸と海の全体を支配する足掛かりを得た。また韓国に進出していた倭人たちから鉄を入手することができた。

 天照大神御神(あまてらすおおみかみ)の弟・須佐之男(すさのを)命の子供・大国主神(おおくにぬしのかみ)は出雲地方を支配した。初代・神武天皇は天皇になる前、薩摩隼人の娘と結婚し子供を儲けていたが、天皇になるとき大国主神の別名である大物主神の子孫の娘・富登多多良伊須須岐比賣(ほとたたらいすすきひめ)命(注、「ほと」という事が良くないので後に「比賣多多良伊須氣余理比賣(ひめたたらいすけよりひめ)」と改められた)を皇后にした。

 笠沙は長江河口から東方に位置し、現在でも長江河口沖合で操業している漁船が操舵の機能を失って漂流した場合、漂着することが可能な場所である。一方、鳥取県淀江町にある角田遺跡で発掘された弥生時代中期の土器に描かれている「船と人物」の絵は雲南省石寨山(せきさいざん)遺跡で発掘された滇(Diān)王国の青銅器に描かれている図柄と似ている。いずれも頭に羽飾りを付けた男たちが船を漕いでいる図柄である。

因みに滇(Diān)王国は紀元前278年から紀元前85年まで続いた王国で、雲南省東部の滇池周辺にあった。その王国は三苗(幾つかの苗族(miáozú))が長江中流域で漢族による圧迫から逃れて建設した国である。明治になっても三苗(幾つかの苗族(miáozú))の子孫は漢民族と争いを続けていた。彼らと日本人との間で文化的に共通するものが多いと言われている。なお其処で発掘された「滇王之印」は福岡県で発掘された「漢委奴國王印」と形式的に同じであるという指摘がなされている。

 日本民族は万世一系の天皇により統合されている。日本人の半数ほどには天皇の遺伝子と同じものがあると言われている。天皇は正に日本人の家の宗家のような存在である。日本を天皇が居ない国にしようという街頭デモが行われている。彼らに同調する思想を持っている人たちがリベラルな政治集団に入り込んで活動していると懸念される。男はブログを通じて「正論」を公に向かって訴え続けて行こうと思っている。