2010年5月31日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(72) (20100531)

 テレビで第77回日本ダービーを観戦した。父馬同士が因縁の対決をしたペルーサとヴィクトワールピサに人気が集まっていたが、結果はヴィクトワールピサが3位入賞をはたしただけで、ペルーサは前評判にも拘わらず全く駄目であった。今回の出場馬は皆優秀な馬ばかりであったようである。血統を見ると今回の優勝馬も含め父馬又は母馬の父馬が同じ系統が多いようである。やはり血は争えないと思う。

 馬でも人間でも親が優れた遺伝子を持っていたとしてもその子どもが必ずしも優れていとは限らない。それでも良い血統は祖先の優れた遺伝子をより多く受け継いでいる。人間は馬と違って社会的‘動物’であるので、何が優れているかということは総合的に観なければならない。仮令障害をもってこの世に生れてきた場合でも、才能を伸ばし、社会で活躍している人は多い。一方で才能や特性を見つけ出し、それを伸ばすような機会や環境に恵まれず、社会で活躍できずにいる人も多い。一般的に言うと親が自分の子供をどのように育てるかという熱意と知識がない場合、どんな子供でもよく育たない。

 日本ダービーを一緒に観ていた女房がおやつに蒸しパンを作ってくれた。茶の間の話題は自分たちの子育ての頃のことであった。あの頃店でおやつになるものを買ったという記憶はない。こどものおやつは全部女房の手作りだった。月給は安く非常に質素な暮らしだったが、非常に暖かな家庭だった。子どもたちをよく山野・河川・海辺に連れてゆき、いろいろ経験させた。そういう中で子どもたちはそれぞれの道を見つけ出した。

 ふと自分の子供のころのことを思い出した。昭和18年ごろのことではなかったかと思う。多分、朝鮮の慶尚北道の柳川小学校に隣接する校長官舎に住んでいたころのことでなかったかと思う。母は砂糖で紅色や緑色の飴菓子を作ってくれた。そのころ南方の戦地では出征して送り込まれた人たちが大変な苦労をし、あるいは銃弾に倒れていたのだが、朝鮮のその校長官舎での日々は平和であった。日本との往来は例えば大阪から博多にゆくようなもので何も不便はなく、昭和19年の春ごろ出征前の叔父(亡父の実弟)の結婚式に一家で帰ってきて、実家の庭先で親族一同集合写真に写っている。亡母は当時31歳ぐらいであった。2年後、昭和21年の12月、その母は乳がんで他界している。33歳の厄年だった。

 競争馬は身体的遺伝子のみ受け継ぐ。人間は身体的遺伝子のみならず、文化的なものも受け継ぐ。霊長類のサルでもわずかではあるが文化的なものが子に伝わる。賢い親は文化的な‘遺伝情報’を子によく伝えることができる。人間の血統についてはそういう文化的な側面も見て考えなければならない。

ブッダ「感興のことば」は第25章「友」に移る。

2 明らかな知慧のある人が友達としてつき合うべき人々は、信仰心があり、気持ちのよい、素行のよい、学識ゆたかな人々である。けだし立派な人々と交わるのは善いことである。


11 どのような友をつくろうとも、どのような人につき合おうとも、やがて人はその友のような人になる。人とともにつき合うというのは、そのようなことなのである。

2010年5月30日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(71) (20100530)

 放送大学のキャンパスネットワークシステムにアクセスしてみた。このシステムには当然のことながら放送大学の学生でないとログインできないようになっている。男はこの放送大学に再入学したので、いつかこのシステムにアクセスしてみようと思っていた。早速このシステムのメンバーとして登録し、パスワードを設定していつでもこのシステムを利用できるようにした。

 このシステムで放送授業科目の一部を視聴できるようになっている。テレビで約35科目、ラジオで約180科目視聴できる。今後このシステムで視聴できる科目は逐次増えるだろう。

 英語の勉強のためテレビで予約視聴の設定をしていた『実践英語』もこのキャンパスネットワークシステムで聴くことができる。『実践英語』は映画の一場面を切り取って英語の学習に組み入れたものである。俳優・女優の生のセリフを映画の画面を見ながら聴くことができるようになっている。早速適当に第6回「For Whom the Bell Tolls」(誰がために鐘がなる)を選択して視聴してみた。これはヘミングウエイの原作を映画化したものである。懐かしい画面が出てくる。毎回、昔懐かしい有名なクラシック映画の名場面を楽しみながら実践的な英語会話の勉強が出来る。他の回(課)に「Gone With the Wind」(風と共に去りぬ)、「The Third Man」(第三の男)などがある。これはとても良い!

 男が専攻している「自然と環境」コースの科目でラジオ放送されているものの中に「量子物理('09)」や「量子化学('09)」などがある。また他のコースの科目で興味がある科目として「北東アジアの歴史と朝鮮半島('09)」などがある。これらもこのシステムで聴くことができる。非常に素晴らしい!

 昔に比べて今はインターネットが非常に発達し、どんな田舎でもブロードバンドに接続できるようになってきているので、勉強したいと思うならば‘誰でも’‘いつでも’‘どこでも’勉強できる時代である。団塊の世代の人たちの中で多くの人々が通信制大学で学ぶようになったと聞いているが、70歳を過ぎた人たちでもその気になりさえすれば新しい知識を身につけることができるようになっているのだ。

 ブッダのことばを学ぶことは今年の1月23日以来毎日続けているが、まだまだ先が長い。ブッダのことばは『ブッダ「真理のことば感興のことば」』(中村元訳、岩波文庫)から引用しているが、この本は毎日少しずつしか読まないことにしているので飽きずにいる。

 第24章「広く説く」を続ける。一般に年寄りは「長生きしたい」と思うらしいが、自分が置かれた現状を受け容れ、物事には自分の努力で実現できるものとできないものがあることを知り、「吾只足るをり」て日々を送る人は、そうは思わないのではないかと思う。

4 愚かに迷い、心の乱れている人が百年生きるよりは、つねに明らかな知慧あり思い静かな人が一日生きるほうがすぐれている。


9 不動の境地を見ないで百年生きるよりも、不動の境地を見て一日生きる方がすぐれている。

2010年5月29日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(70) (20100529)

 全盲のピアニスト・辻井伸行さんが「全盲のピアニストと言わせない」と、ムソルグスキーの「展覧会の絵」をアメリカに行って演奏し聴衆の喝さいを浴びた。彼のお母様が「キエフの大きな門」などの絵を彼に説明し、彼は心の中でその絵の様子を想像し、その風景をピアノ演奏で表現した。その様子をテレビで見た。その挑戦は彼にとって新たな飛躍であった。お母様の手助けを得ながら日夜血のにじむような努力を重ね、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を自分なりの解釈で見事に表現することができた。

 その練習のとき、高音部、低音部それぞれ自分が弾いた音をテープ録音し、自分で聴いてみて手直しし、心で感じた「展覧会の絵」の風景を、自分なりの音楽的感覚で見事に表現するように苦心を重ねていた。

 芸事、匠の技でも同じであるが、初めは先ず先生のやり方を真似ることから初め、真似て真似て招き寄せ、先生のやり方の体得に努める。その過程で自分のやり方を自分なりに客観的に観察する。そして次に唯の真似から自分のやり方に脱皮する。

 男は昨日録音した王維の『雑詩』を女房に聴いてもらった。女房は即座に吟題の「雑詩」の言い方がおかしいと指摘した。これではブログに公開できない。録音しては聴いて修正することを繰り返してみたがどうも気に入らない。加齢による限界かなと思う。

 放送大学世田谷学習センターに行き、借りた本『生命と非生命のあいだ -NASAの地球外生物の研究 -』を返却した後、視聴覚室で2時間ほど勉強した。当初まだその薬の働きが分子生物学的に解明されていなかった抗生物質が、細菌のDNAの翻訳に関係する物質として理解されるようになっている。分子生物学はますます面白い。

 家に帰ったら先月郷里の中学校の昭和28年卒業の同級会があったとき57年ぶりにあった級友(女性)から手紙が届いていた。先般その時の集合写真が幹事から送られて来ていたが、あのとき「○○です」と言っていた方はこの写真の中の誰かなと思っていた。そこへ裏面に写真と名前が一致するように名前を配置したものが印刷されている手紙が来た。「あげん人居たかなー」「わからん」「判ったで」と、手紙には書かれていた。それでようやく、その時言葉を交わした方の写真と名前が一致した。

 今日(28日)鳩山総理は遂に社民党党首・福島氏を罷免した。この9ヶ月間、普天間基地問題は迷走をしてきたが、必ずしも悪い面だけではなかった。日米安保の重要性、在沖縄米海兵隊の存在の重要性への理解が国民の間に広まるとともに、多くの自治体が基地受け入れに反対している中、日本や東アジアの平和のため沖縄県民が極端に多くの負担をしていることについての認識も深まった。もともと非武装中立主義の社民党は、「国民のため」と言うが、自分たちが独善的政党であることを自覚していない。そういう政党と連立を組んだのが元々の誤りであったのだ。社民党は参院選で敗北し、更に弱体化してゆくだろう。

2 ことわりにかなわぬ語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いてこころの静まる、ことわりにかなったことばを一つ聞く方がすぐれている。

2010年5月28日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(69) (20100528)


来月の詩吟の吟題は盛唐の詩人・王維の『雑詩』である。その詩文は次のとおりである。

 客(かく)故郷より来(きた)る 
 応(まさ)に故郷の事を知るべし
 来(きた)るの日 綺窓の前 
 寒梅花を著(つ)けしや未(いま)だしや

詩の意味は「一人の知人が私の故郷からやってきた。彼はきっと私の故郷の様子を知っているに違いない。私は彼に聞いてみた。‘そなたが故郷を発つとき私の家の妻の部屋の窓の傍にある寒梅は花をつけていましたか?それとも花は未だでしたか?’」というものである。

私は10日ほど前から体調を崩し、ようやく回復してきたところであるが、まだ本調子ではない。それでももうそろそろ吟詠をブログで公開しなければならない。「・・ねばならない」というのは別に公に約束しているわけではないので、調子が悪ければ6月に入っていても調子が良くなった時にやればよいのであるが、やはり頑張らなければならぬと思う。

そこでこのところ毎日レコーダーに録音しながら吟じ、再生してみては吟の改善を続けている。初めのうち、まだ体が十分温まっていない状態の時の吟は良くない。何度かやっているうちに段々調子が上がってくる。エンジンの自動車のエンジンの暖気運転のようなものである。立った状態で詠っていると疲れが出てお腹に力が入らない。そこで椅子に座った状態で詠う。そうするとお腹にぐんと力が入って良い吟になる。

加齢とともに衰えは足腰にくるようである。まだ本調子でないせいもあるが、6000歩ほど歩いただけで脚に疲れを感じる。10数年前前立腺がんで手術したとき腹の周囲のリンパ節を取ってしまっている。リンパ液の流れが良くないのかもしれない。完全な回復まであまり無理をしないことだと自重している。

夕食は女房が得意とするハンバーガーである。女房が作るハンバーガーは格別美味い。私が作った多目的のペアの皿に大それぞれ大きなハンバーガーとポテトとニンジンが盛られている。ノンアルコールのビールを飲みながらこれを食べる。

このような日々があと何年か続くことだろう。今日、私も女房もそれぞれ放送大学の通信指導のレポートを完成させて一緒に投函した。

ブッダ「感興のことば」第23章は26番で終わるが、ブッダの教えは「自分自身が自分の主である。自分だけを拠りどころとし、決して他者を拠りどころにしてはならない。」というものである。‘天上天下唯我独尊’の心境になれということである。

第24章は「広く説く」である。

1 無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる有益なことばを一つ聞く方がすぐれている。

2010年5月27日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(68) (20100527)


妻が新鮮な油で揚げてくれた新鮮な野菜や鯵の揚げたての天麩羅を食べる。こうして家で作ったものが一番旨い。今日(26日)は提出期限が近付いた放送大学の『分子生物学』と『生物界の変遷』の通信指導のレポートを書くことに重点的に時間配分をしようと思う。

この地球上のヒトを含むすべての生物は同根であることは確かで何億年と言うときを隔てて種の絶滅と再生を繰り返しながら今に至っている。高度の知能を獲得したヒトは他の生物を食べ、その生存をコントロールしながら生きている。

ヒトの遺伝情報の中には、ヒトが過去何万年以上の間に経験し、獲得し、子孫に伝達するものが多く含まれている。その中に、恐ろしい目に遭ったときにその恐怖から逃れるためバラ色の美しい花園や美しい音楽や良い香りがする至福の世界の中に自分自身を置きたいという願望を精神活動の中に実現させるという仕組みもあると思う。

チンパンジーでも喜怒哀楽の感情はある。笑う表情は相手に敵意を持たせないためだろう。順位の低いサルが順位の高いサルに近づくために赤ちゃんのサルを連れて挨拶にゆく文化があるサルの集団の中で観察されている。おっかないボス猿でも赤ちゃんには決して手出ししない。赤ちゃんを持つメス猿は自分の赤ちゃんがボス猿に認められると自分の地位が上がることを知っていて、低順位のあるオス猿が自分の赤ちゃんを奪い取ってそのボス猿のところに連れて行くことを望んでいるようである。そのオス猿は赤ちゃん猿を持ってボスに近づき、自分の歯を全開にしてカチカチさせながら笑顔を作ってボス猿に会う。ボス猿がその赤ちゃんを取り上げればそのオス猿はボス猿との関係が親密になる。

ヒトはサルにはない宗教的行為をし、「あの世」を思うとか「あの世」に生まれ変わるなどという精神活動をする。人の遺伝子を解析してゆくうちにそのような精神活動をする部分が見つかるかもしれない。いやきっと見つかると思う。

親から受け継いだ遺伝子のある部分を働かせないための仕組みの一つにDNAのメチル化というものがある。ヒトの遺伝子の中にはある遺伝子を働かせたりはたらかせなかったりする仕組みがあるようである。

経年とともに80%の確率ではげ頭になるという遺伝子が見つかっている。お酒好きか下戸か、うつ病になりやすいかならないかが遺伝子でわかる。頭の良し悪しも遺伝子で分かる可能性は高まっている。すでに天才の遺伝子の一つは見つかっている。第6染色体にある「IGF2R遺伝子」がそれだという。世界中の研究者たちは知能遺伝子として候補に上がっている「COMT遺伝子」「DRD2遺伝子」などを調べている。分子生物学は今脚光を浴び、日進月歩の状況である。私はまだ耳学問の域を出ていないし、その域を出るつもりもないが、新聞や雑誌やインターネットでできるだけ多くの情報を集めようとしている。(参考『Newton 知りたい! 遺伝のしくみ』)。

20 この世では自己こそ自分の主(あるじ)である。他人がどうして(自分の)主であろうか? 賢者は、自分の身をよくととのえて、明らかな知慧を獲得する。

2010年5月26日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(67) (20100526)

先週は体調を崩していたので行かなかったが今日2週間ぶり陶芸に行った。2週間前釉がけして本焼きに出した多目的の皿が焼きあがっていた。赤2の土を使い、蚊帳の網をかけて白化粧し素焼きに出したものにMIX釉をかけて焼いたら結構美しく仕上がっており、妻に褒められた。ただ、これは素人が作ったものでプロが作る物には遠く及ばない。それでもこれをプレゼントしたい人がいるのでお歳暮を頂いたお返しも含めその人に差し上げたいと思う。手作りのお惣菜でも盛って食卓に出してもらえれば良いと思う。

もう一つ同様の皿の素焼きが完成していた。これには白化粧をしていなかった。どの釉薬をかけようかサンプルを見ながらいろいろ思案したが、結局MIX釉をかけ本焼きに出した。これまで使った土の残りを溜めていたのでそれを新しい土に混ぜて、今度は一挙に3枚、同様の皿を作ることにした。同じ赤2号の土を400グラム買い、溜めていた土と一緒にし、粗ねりと菊ねりを繰り返してよく混ぜ合わせて皿のサイズを同じになるようにしてローラーで伸ばし、一挙に3枚スライスして、ドライヤーで乾かし、舟形の皿の形にし、折角形にしたものが崩れないように枕を添えて同じ形の皿を3枚作った。来週は形を整えるように削り、更に乾燥させる。素焼きに出すのは再来週である。これまでの経験で1枚約600グラムになるので3枚素焼きに出せば3枚分1800円の料金がかかる。ちなみに土は黒泥など特殊な物を以外は100グラム100円である。トータルコストは3枚分で3000円以下というところである。良いものが出来上がれば売ることもできる。

貸室料1回500円を含め、陶芸で月々4000円~5000円使う。これには交通費やたまに菓子を買って持っていったり、飲食したりする交際費は含まれていない。もっとも交通費は敬老パスを使うので年間1万円以下である。趣味・道楽としてはあまり金がかからない。

私は皆がやるような芸術品を作ろうとは思はない。日常の暮らしで使うもので、細々とした手間をかけないものを作りたいと思っている。今のところ多目的の皿だけを作り続けようと思っている。釉がけにはこだわり、2種類以上の釉薬を使って模様を出すことを試みようと思っている。まあまあの出来だと思うものをいろいろ世話になっている人たちにプレゼントしようと思っている。

わが家には、同様の多目的皿で、人にはあげられないようなものがちょっと多くある。いつも殆ど妻と二人だけの食事であるが、楕円形の舟形の皿は使い勝手がはなはだ良い。人にあげても喜ばれるものである。ただなかなか人にあげてもよいようなものは出来ない。上げるときはこちらのまごころを受け取ってもらうしかない。

ブッダ「感興のことば」第23章「自己」

3 戦場において百万人の敵に勝つとも、唯だ一つの自己に克つ者こそ、実に不敗の勝者である。


10 たとい他人にとっていかに大事であろうとも、(自分ではない)他人の目的のために自分のつとめをすて去ってはならぬ。自分の最高の目的を知って、自分のつとめに専念せよ。

2010年5月25日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(66) (20100525)


10日前腰を痛め、5日前喉を痛めて2度も医者に通った。これは免疫力が低下したためであることは間違いない。免疫力低下の最大原因は加齢によるものであるという。

加齢による影響が強くあらわれる場所が胸腺(英語でThymus)であるという。胸腺は喉仏とみぞおちの中間ぐらいのところにあって10歳ごろをピークとして加齢とともに縮小してゆき、脂肪に置き換わって行き、40歳になるころにはピーク時の10%までに小さくなり、70歳になると殆ど残っていないという。この胸腺はT細胞といって体中に侵入したウイルスを攻撃する指令を出す細胞を選抜する機能をもっている。 これはT細胞の中でも‘ヘルパーT細胞’と呼ばれる。‘攻撃命令’を受ける細胞は‘キラーT細胞’や‘B細胞’である。B細胞は侵入したウイルスを無効化する抗体を作る細胞である。

胸腺は英語でThymusといい、この頭文字をとってつけたのがT細胞である。胸腺が縮小するということは免疫に大きな影響が及ぼす。T細胞を選抜する機能が衰えるということは、体中に侵入した異物を認識する能力が弱まっているT細胞や、攻撃すべき相手を間違えて自己を攻撃してしまうような細胞を‘攻撃’部隊として体内に放出してしまうことを意味するという。(以上参考図書『Newton 細胞のすべて』より。)

そうなんだ。2月に妻が帯状疱疹を患ったのも、10日前‘元気印’の私が体調を崩したのも、みなこの胸腺の機能が低下、あるいは無くなってしまったためなんだ。

齢をとると新しい免疫細胞が作られる量が減り、体内のNK細胞、T細胞、B細胞などが減少するそうである。NK細胞はナチュラルキラー細胞のことで白血球の仲間である好中球やマクロファージなどである。加齢とともにこれらの‘防衛部隊’の力が弱まるから病気になるやすくなるのだ。このことをよく承知して①バランスのとれた十分な栄養のある食事、②適度な運動、③十分な睡眠、④腹式呼吸法の実行、⑤爪もみの実行、⑥十分な睡眠などに健康法を実践し、天寿を全うするようにしなければならない。

日頃健康そうに見え、意気軒昂・気力充実しているように見える‘年寄り’たちは、ある日急に、自民党の青木氏のように政治談議の会合など華々しい社会活動を行っている最中にふらふらと崩れてしまうことが多い。

齢をとったら決して無理はしないことである。自分の体を良くいたわりながら自分の好きなことをすることである。「わしが、わしが」「おれが、おれが」と出しゃばりたがる自分を認め、以後は水戸黄門様のように家族(ドラマでは助さん格さんたち)と仲良く日々を送り(ドラマでは旅)、自分でできることで世のため、人のためになることをし(ドラマでは悪代官や悪商人らをこらしめる)、皆に喜ばれながら静かに余生を送ることである。

ブッダ「感興のことば」第22章「学問」は、次の19番目の言葉で終わる。

19 聖者のときたもうた真理を喜んでいる人々は、そのとき、かれらの説くことをことばでも実行する。かれらは忍耐と柔和と瞑想とのうちに安定し、学問と知能との真髄に達したのである。

2010年5月24日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(65) (20100524)


狭山に住む友人から今年も新茶を頂いた。その友人との交流は私が若い頃からずっと続いている。彼は私よりもずっと年長である。鹿児島県人で非常に律義な方である。

お礼の電話を入れる。70代も後半となるとぼつぼつ鬼籍に入る人が増えてくる。話題は昔よく知っていた同僚・上司のことが多い。「○○さんも昨年亡くなった」という話を聞きながら往時のその人の面影を思い出す。

ヒトを含むすべての生き物の死は、その生き物を構成している細胞の集合体の死である。ヒトの体は60兆個という膨大な数の細胞で出来ていて、細胞と細胞の間はコラーゲンを初めとする各種タンパク質で接着されている。生き物の生死に関わる主な細胞は、内分泌系、神経系、免疫系に分類される組織や器官である。それらの細胞が死んだときヒトは死ぬ。

ヒトの60兆個の細胞は、毎日3000億個~4000億個死んでいる。60兆個の細胞の200分の1ほどが毎日死んでいる。死んだ細胞の不足分は細胞の分裂によって補われる。しかしその分裂は1個の細胞について50回ほど繰り返されるがその後は分裂しなくなる。つまりそのことにより細胞が減少する。そして遂にはヒトは死に至る。

細胞は火傷や外傷やなどで損傷する。このような外因で細胞が死ぬ。つまり事故で細胞が壊死(ネクローシス)する。壊死のときは細胞膜が破れ、細胞の中身が漏れ出す。細胞の中心にある大きさ1000分の数ミリ程度の核の中にあるDNAもランダムに分解される。そこに異物の存在を知った白血球が集まってきて炎症を起こす。

一方、DNAが傷ついて修復されないときに細胞は自ら死ぬ。つまり自然死(アポトーシス)する。自然死のときは細胞全体が縮小し、DNAがある核は変形し、断片化し、細胞内の小器官はそれぞれ小さな袋に詰め込まれて、マクロファージに飲み込まれて分解される。マクロファージは血管の外の組織や肺と心臓の間など腔所にいる白血球の一つである。

細胞は大きさが100分の1ミリメートルでその中に母親由来のミトコンドリアがある。この数は細胞の種類によって大きく異なっている。そのミトコンドリアの遺伝子は核の遺伝子とは別である。これは母親からしか伝わらない遺伝子である。

ミトコンドリアは一つの細胞内に数千個存在している。ミトコンドリアのDNAはミトコンドリアの核の中に収められていてATPという細胞のエネルギー源を生産に関与している。

ミトコンドリアのDNAは核のDNAに比べ変異する確率が高く、加齢とともに変異したミトコンドリアの遺伝子は細胞分裂を経て体内に広まってゆく。変異したミトコンドリアの数が増えて一定値を超えるとATPを沢山必要とする脳や骨格筋や心臓などに異常が生じる。もし母親のイトコンドリアに異常な遺伝子がある場合、そのミトコンドリア遺伝子は子供に確実に伝わり、子供の脳や骨格筋や心臓などに異常を引き起こす原因となる。従い病気で長寿を全うできない場合、その原因が母親のミトコンドリアにある場合が考えられる。

17 耳で多くのことを聞き、眼で多くのことを見る。思慮ある人は、見たこと、聞いたことを全て信じてはならない。

2010年5月23日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(64) (20100523)


 NHKで全盲のピアニスト・辻井伸行さんのLive出演の番組があったのでずっと視聴した。彼は音楽家の血を引いていない。彼のお父様は産婦人科医でありお母様は元アナウンサーである。彼は生まれつき視覚障害者であった。彼が2歳のとき買い与えたおもちゃのピアノを弾く様子をお母様が見て「この子は音楽家の素質がある」と判断されたということである。7歳の時、全日本盲学生音楽コンクール器楽部門ピアノの部で第1位受賞し、以後生まれつきの才能をぐんぐん伸ばし続けて現在に至っている。

 番組で辻井さんは自ら点字で作成した1通の手紙を読み上げた。その手紙は小学校以来会っていない小学校1年生のときの恩師・大倉繫之先生に宛てた感謝の手紙であった。辻井さんには内緒であったがその恩師・大倉先生から辻井さんあての手紙がその番組に届けられていた。それをアナウンサーが代読した。辻井さんは大変感激していた。

 辻井さんは昨年6月、アメリカで開催されたヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。番組ではそのコンクールのリハーサルの様子が放映された。オーケストラの指揮により辻井さんがピアノの演奏を開始しオーケストラの伴奏が続くのであるが、辻井さんは指揮者のタクトを振り下ろす息づかいを感じ取りピアノの演奏を始めたという。

 番組では辻井さんがショパンのノクターンなど幾つかの曲目を演奏した。スタジオの中で見ている観客たちも感動していたが、こうして遠隔地でテレビを見ている私も感動した。目が全く見えなくても持って生まれた才能を全開させて人々に歓びを与えている。これがブッダの‘方便’でなくて何だろう?

 辻井さんの遠いご先祖に音楽に特別優れた方がいらっしゃるのだろうと思う。何世代、何十世代を経るうちに血は混じりあい、重なりあうのであるが、そういう中で遠いご先祖のあるお方の‘来世’が辻井さんの‘現世’として存在しているのだと思う。

 昨夜は夜中1時過ぎせき込んで目が覚めせきが止まらなかったので居間でテレビを見た。たまたまそれはマザーテレサのことをドキュメンタリーにした映像であった。マザーテレサやマザーテレサのもとに集まった修道女たちの活動をみて、神への強い信仰心が何事も恐れない愛の活動の力となっていると思った。男にはなかなかできないことだと思った。マザーテレサや彼女のもとに集まった修道女たちは、やはりブッダの‘方便’として、それぞれの‘現世’は、それぞれ誰かの、それぞれ何代、何世代、何十世代も前の世・‘前世’の続きであるのだと思った。全てをイエスキリストに捧げた行為は、その‘前世’の遺伝子が為させるものであるのだろうと思った。

 そのような‘前世’の遺伝子の情報は、電子顕微鏡を使って肉眼で観測できる物質としての遺伝子によるものだけではなく、物理学的な‘波動’のようなものを通じても伝えられるのかもしれない。ただこの部分はまだ科学的には全く未知である。

12 色かたちによって、わたしを測り、また音声によって、わたしを尋ねもとめる人々は、貪欲や情欲に支配されているのであって、実はわたくしのことを知らない。

2010年5月22日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(63) (20100522)


韓国政府は韓国の哨戒艦を沈没させたのは北朝鮮の1500トンの小型潜水艦から発射された魚雷であることを明らかにした。早速北朝鮮国防委員会はいつもの女性報道官を通じて、韓国の報道発表内容はねつ造であると激しい口調で反論した。韓国はこの問題を安保理に諮り北朝鮮を一層締め付ける動きに出ることになり、わが国の政府もそれを強力に後押しすることになった。中国は冷静な対応を求めている。

わが自衛隊は警戒態勢(DEFCON)のレベルを上げているはずである。中川国家公安委員長は全国の警察に警戒態勢を高めるように指示した。

金正日総書記は先般中国を突然訪問し、経済的援助を求めたが中国の温家宝首相はそれを拒否したという。北朝鮮はデノミの失敗で経済が一層悪化し、デノミ政策の責任者を銃殺処刑した。また国防委員長は高齢であるため更迭された。北朝鮮はますます追いつめられ、体制崩壊寸前の状況にあるのかもしれない。

軍へのシビリアンコントロールが機能しなくなり、軍が暴走するかもしれない。人間の体でいえば、頭脳の前頭葉の働きが鈍くなり、手足が勝手に動き、相手かまわず暴力を振るう状態になる懸念がある。

平和ボケした一部のジャーナリストや社民党などは自衛隊や警察を‘けがらわしい’もののように忌み嫌っているとしか見えない。これらが人間の手足に例えられるような‘暴力装置’のようなものであるから、とにかく‘暴力’というイメージで忌み嫌うのだ。

暴力に対してはより強い暴力を示して対抗するしかないのだ。昔、武士は氷のように冷たく感じる良く斬れる刀を腰に差していた。しかしそれを滅多に抜くことはなかった。腰の氷刀は護身のためであり、武士の精神の象徴であり、相手に一定の畏敬の念を起させる物であった。わが国の‘軍隊’を自衛隊という言葉にすり替え、‘歩兵’を普通科という言葉にすり替え、‘砲兵’を特科という言葉にすり替え、‘工兵’を施設科という言葉にすり替えて表現されている。階級でも‘空軍中佐’を2等空佐という言葉にすり替えている。英語では両者は同じである。ただ‘軍隊’はMilitary Forcesで自衛隊はDefense Force である。言葉の表現で‘忌み嫌う’ものを誤魔化して受け容れている。バカではないか!

先般中国海軍はわが国の沖ノ島を中国は「ただの岩礁だ」言っている中国は、その近海で演習を行った。警戒していたわが‘海軍’の‘駆逐艦’に中国海軍のヘリコプターが異常接近した問題で岡田外相は中国の外相に抗議したが、中国外相は逆にわが‘海軍’の行動を非難した。岡田外相はそれ以上の抗議の発言はしなかった。相手に対する気迫がない!

竹島はわが‘海軍’が先手を打つ前に韓国に‘占領’されてしまった。尖閣諸島も油断すると中国に‘占領’されてしまうだろう。沖ノ島も油断しているすきに中国の海軍によって砲撃破壊されてしまい、それこそ彼らが言うように、ただの岩礁になってしまうだろう。

7 或る人が、たとい博学であっても、徳行に専念していないならば、世の人々はかれを徳行の点で非難する。その人の学問は完全に身に具わっているのではない。

2010年5月21日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(62) (20100521)

  田舎から電話あり、孫の結婚式に出席の依頼があった。ただ主席するだけではなく、一言祝福の辞を述べ、一曲吟じて欲しいと言う。7月末、男も女房も放送大学の単位認定試験を受ける時期に重なり、私の月2回の詩吟の会にも重なる。しかし、おめでたい行事への出席の依頼は最優先で受けなければならぬ。

 早速インターネットで航空券の手配をした。二人ともANAのマイレージ会員として登録している。行きのスーパー割引は何とか取れ、座席指定もできたが、帰りの飛行機はスーパー旅割より3600円も高い旅割運賃適用のもので、しかも希望する時間よりずっと早い出発時間の航空券しか取れなかった。それでも普通運賃よりはずっと安い。

 スーパー旅割の座席は旅行会社がリスクを負って大量に押さえているかもしれない。JTBなどの旅行会社で買っても値段は同じであるのでそこで買えば二人分7200円浮く。そこで近くの旅行会社の店に行ってみた。しかしその店では搭乗の2か月前となる日、今月25日からでないと発売できないという。インターネットで空席待ちなら予約できるので、一応希望する出発時間の航空機を予約しておいた。これも支払い期限が決められている。

 来月母の介護のために帰るがその次の7月にまた帰ることになった。7月に帰るときにまた母の介護を兼ねる。介護といってもいまのところ母(男の継母・女房の実母)の様子を見るほか母ができないことをするだけである。年寄りのことであるからいつ急に変化が起きるかわからない。そのときは田舎で長く暮らすことになるだろう。そのときの準備をしておかなければならぬ。

 結婚式で祝い詩を吟じるのでその練習をしておかなければならぬ。折角吟じるので列席の方々にも吟の内容が分かるように歌詞を印刷した小さな冊子を作って皆に配ろうと思う。

 ブログを整理し、カテゴリー別に区分けしてそれぞれにラベルをつけた。去年6月10日から始まったもの全部にラベルをつけ終えたわけではない。今後時間を見てはラベルがついていない記事に逐次ラベルを付けたりチェックして修正したりすることにする。

 ブログの記事にラベルをつけて同じカテゴリーにした部分を読み返したりしてみると自分自身のことを客観的に観ずることができる。漢字創作コンクールで智慧の‘智’の下の字を‘自’にして‘チ’と読ませ、その創作文字の意味を「自分自身のことを知る」としていたものがあって、それは最優秀賞を獲得していたが、まさしくその創作文字のとおり、ラベルをつけることで自分自身のことを一層よく知ることができる。孫子の兵法に「敵を知り己を知らば百戦危うからず」という言葉がある。「己を知る」ことはなかなか難しい。誰でも自分の深層心理は自分自身では絶対知ることは出来ない。専門家に催眠術をかけてもらったりして調査してもらわなければ分からないものである。しかしこのことを知らない人が多いと思う。ブッダ「感興のことば」第22章「学問」(続き)

5 眼のある人は燈火によって種々の色(いろ)のかたちを見るように、ひとは教えを聞いて、善悪のことがらを識別する。

2010年5月20日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(61) (20100520)

 ‘老老介護’という言葉がある。年寄りが要介護の年寄りを看ることである。男の家もその言葉通りになってきている。男の知り合いのご家庭でも似たようなケースが幾つもある。皆母親が90過ぎまで独り暮らしを望み何年間も子どもに世話をかけているが、そのうちに自分から老人施設に入ることを申し出て、その施設で生涯を終えている。

 男も男の女房も高齢であり、日々時間に追われることなく気ままに余生を送っている。不必要な支出を抑え、車など金がかかる物は所有せず、つつましく暮らせば年金暮らしであってもそれなりに心豊かに暮らすことができている。年に3、4回独り暮らしの母(継母)を看るため田舎に帰るがその費用はその母に負担してもらっている。

 そのように年に何度も帰っているので郷里の友人から「別荘があっていな」とうらやましがられる。これまで何年かは田舎に帰ることが気分転換になってよいと思っていた。ところが自分も73歳になり妻も69歳になるとただ田舎に帰ることだけでは気が重くなってきた。田舎に帰ればこちらで自由気ままに、もし疲れた時はいつでも昼寝ができる状況ではなくなる。年寄りの母を脇に置いて疲れたからと言って別室で横になるわけにはゆかぬ。ひょっこりと近所の方が見えることがある。せっかく帰っているのであるから知らぬふりはできぬ。要するに田舎に帰れば朝から晩まで気が抜けないのである。

 数年前までは自分でも馬力があったと思う。しかしこのところ何か頑張ってすると後で疲れが出るようになった。女房もこの2月に帯状疱疹を患った。暮正月に帰っていたときの疲れが回復しないまま他のことも重なってそのような病気になってしまった。つい最近まで若い者には負けていないと思うほど馬力があると自負していた私も腰を痛めたり喉を傷めたりした。「年寄りの冷や水」というが、要するに齢をとれば無理がきかなくなるのである。先日喉の痛みことで近くの内科クリニックを訪れたとき先生は「元気印だったのに」と私に言った。‘元気印’と言われて喜ぶのは馬鹿げたことだと思うようになった。

 田舎で独り暮らしする母はかかりつけの医師から「103歳まで生きる」と宣言されている。85歳のとき大腸にくっ付いたがんの部分の切除の手術を受け、その後再発して化学療法で治癒したのでその医師の言うとおり103歳まで生きる可能性は大である。そのとき男は85歳にもなる。長男であるから田舎のことはきちんと始末をつけなければならないが、85になるまで自分が元気でいると言う保証はない。

 その時男の長男は58歳になる。二男も55歳になる。老老介護でお互い身内に負担を書けないように早くから先のことを見通した計画を立てておくことが重要である。現役時代に知り合ったあるアメリカ海軍の元中佐から来た手紙に、アリゾナで奥さんと奥さんの実母と三人で暮らしているがその奥さんの実母の介護でどこにも旅行に行けないと書いてあった。老老介護はアメリカでも同じ状況である。ブッダ「感興のことば」第22章「学問」;

2 この世でことわりをはっきりと知らない愚かな者どもは、自分たちが不死であるかのごとく振る舞う。

2010年5月19日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(60) (20100519)

 少し喉を痛めてしまった。疲労からくるものである。喉以外どこも悪くないし、熱もないので少し安静にしておれば治ると思ったが用心のためかかりつけの近くの内科クリニックに行った。「先生とこの科とは違うのですが昨夜喉が痛くて良く眠れませんでした」と症状を訴えたら、息子と同じ年の若い先生は男ののどにライトを当てて「喉が腫れていますね」という。「痛み止めと抗生物質5日分を出しておきましょう」と言って体が温まる漢方薬とともに4種類の薬を処方してくれた。

 近くの調剤薬局で「それは葛根湯と同じですか」と聞くと薬剤師の女性は「これは葛根湯よりもぐーんと体が温まりますよ。休む直前に飲むと体が火照って良く寝付かれないかもしれませんから休む少し前に飲んで下さい」と言う。近くにこのようなクリニックや調剤薬局があるのはとても便利である。同じ建物の1階には眼科のクリニックがある。私はそこで3年前両方の眼の白内障手術をしてもらった。お陰でQOLが非常に上がった。

 今日は午後陶芸に行く日であったが陶芸センターに電話を入れ今日は休む旨伝えた。陶芸は最近ロクロは使わず手びねりのたたらで汎用の横長深めの皿ばかり作っている。齢のせいか毎週1回そこに通うのは億劫になった。黒と赤各1個の楽茶碗を創ったし、一応芸術的な花器も2個つくった。そろそろこの辺で陶芸は止めようと思う。一応、男があの世に逝くときの遺品は残っている。それで十分である。

 定期的に外出するのは月2回の詩吟の会で教えることだけで十分である。この齢になると時間的に自由気ままな方が良い。このブログを書きながら小壮吟士の吟詠が収録されているCDを聴いている。これはCDコンポを買ったので女房が使わなくなったCDのウォークマンに携帯用小型のステレオスピーカーをつないで聴いている。吟詠のプロの吟詠を聴くということは、詠いかたについて自分の脳に刻み込まれた癖を修正し、一方でプロの詠いかたを学ぶことにもなる。男が出している吟詠のブログには毎日かなりのアクセスがあるので、下手ながら少しでも良い吟詠を公開しなければならぬと思う。

 ブッダ「感興のことば」を読み続けているが、このブログにはその中からピックアップして書いている。番号が前後しているのは章を飛ばしているためである。前日のことばは第19章「馬」の中にある。第19章は次の一つで終わりである。

 インターネットでの買い物にのめり込み、支払いを親にさせ、親たちが悩み苦しんでいる状況についてテレビで報道があった。ネットでの買い物にのめり込む人たちの心理は、買い物をして「ありがとうございました」というメッセージが出るのが嬉しくて次々買い物をしてしまうことにあるようである。その人たちは「自分」というものがなく「第三者」である「他者」との関わりで癒されているらしい。昨今「自己喪失」している若い人たちが多いようである。インターネットの弊害である。

14 実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趣(よるべ)である。故に自分を制御せよ。御者が良い馬を訓練するように。

2010年5月18日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(59) (20100518)


小沢幹事長は政治資金問題で政倫審に出て説明することになった。小沢氏は昨日特捜部から4時間以上事情聴取された。自民党は予算委で小沢氏の参考人招致または証人喚問を求めている。石川議員が今日事情聴取された。石川氏はマスコミの取材に答えて小沢氏との関係を子弟の関係だと言った。子弟の関係とは体の好い言葉である。しかし実態は親分子分の関係である。石川議員は小沢氏の前で平身低頭、ぺこぺこ頭を下げている。

民主党の女性議員、名前失念、が委員会の議決の際、強行採決に抗議する自民党議員から突き飛ばされたとして、今日松葉づえ姿で国会の議場に現れ、そこでまた転んだ。パフォーマンスはいい加減にせよ、と言いたい。一般大衆で雰囲気で民主党に投票した人たちは、自分たちと同じレベルの人を議会に送る喜びを感じたが、一方でその心の奥には自分たちにない‘品の良さ’を求めている。秀吉が信長の妹・お市に憧れ、その子ども茶々を妻に迎えたように、人は自分にないものを求める。それと同じ心理で自分とレベルがあまり変わらない者を国会に送り、‘代償的’に自分ができなかったことを実現させた気になる。しかし、そのようにして国会に送り込まれた人が‘自分がやるかもしれないことと同じようなこと’をしてしまうと、それまでの満足感がいっぺんに吹き飛んでしまう。人の心理はそんなものである。件の女性議員のパフォーマンスに反感を感じている人たちが多いことだろう。件の女性議員はそのような一般大衆の心理を理解していない。

宮崎県の牛に発生した口蹄疫による被害は甚大である。政府は鳩山総理を長とする対策本部で1000億円を支出し、畜産農家への支援などにあたることになった。初め赤松農林水産大臣が現地に行ったが対策も持たずに行ったため現地で激しく非難され、急きょ首相自ら前面に立つことになり、首相名代で農水副大臣、名前失念が実務を担当することになった。

民主党は初めの頃にくらべ非常に現実的になってきた。企業減税も行おうとしている。普天間の問題は対中国・北朝鮮への抑止力として取り組まれている。今後外国人参政権問題、夫婦別称問題、公務員労働基本権付与問題など結局現実路線で考えざるをえなくなるだろう。今日、横浜中華街で食事した。従業員のほとんどは中国人である。彼らが日本に永住し、日本国籍を持たずに日本の防衛・安全保障に関わる義務は負わず、権利だけを主張出来るようにするのは間違っている。公務員労働基本権付与も日本をギリシャやポルトガルと同じような国にする道筋である。ちなみにギリシャでは国民の5人に1人が、ポルトガルで10人に1人が公務員であり、その公務員が財政健全化に反対している。

日本を良い国にするため、若い世代の人たちで志のある人たちを国会に送り込みたい。防大卒、松下政経塾卒、35歳元航空自衛隊員が全国比例代表で出馬しようとしている。この男、鹿児島人である。気骨ある人間は九州出身者が多い。祖父が鹿児島県人であった小泉進次郎議員は古株のように堂々と発言し、活動している。都会育ちのお坊ちゃんは甘い!

5 恥を知り、明らかな知慧あり、よく心を統一安定しているこの人は、一切の悪を捨て去る。良い馬が鞭を受けたときのように。

2010年5月17日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(58) (20100517)


今日、日曜日午後からっとしたお天気であったこともあり、川辺を散策する人や土手で本を読んでいる人や、ビニールシートを敷いて昼寝を楽しんでいる若い二人連れなどがいる。若い二人連れは3組見かけた。みな幸せそうである。

河川敷は小さなグラウンドとして整備されていて、一つのコーナーでは女子ソフトボールの試合をしている。隣では少年野球の試合をしている。暫く女子ソフトボールの試合を見、続いて少年野球の試合を見る。見ていて結構楽しい。

わが息子たちはあるスポーツ少年団の少年野球チームに入っていた。子どもをそのような野球チームに入れ、親たちは後援会を組織して子どもたちの面倒を見ていた。練習や試合の場所は小学校の校庭で行うことが多かった。河川敷のグラウンドで試合をしている少年野球チームも同じようで、親たちが集まって子どもたちの試合を見ている。ただ、今の親たちは親同士本当に打ち解けてやっているであろうか。最近の親たち、といっても殆ど母親たちであるが、なかなか本音の付き合いができないと聞く。

暫く河川敷グラウンドで行われている試合を見た後家電の量販店に立ち寄る。目的はCDコンポを買うためである。先日買ったCDだけが聴けるウォークマンをCDが壊れた機器のAUXにつないでCDをスピーカーで聴けるようにしたのだが、操作が面倒で妻には不評である。そこで量販店で安く買えるならば買おうと立ち寄ったのである。店員が値札よりさらに800円まけてくれたのでそれを買った。他店の同じものより安い。先日かったCDのウォークマンは詩吟の会で名吟家の吟詠を聴いてもらうためにときどき使うことにした。

夕食後妻と遺伝子のことについて語り合う。私自身地縁血縁関係が濃い土地で育ち、妻も同郷である。私も妻もそれぞれの先祖は何百年以上も前に同じ土地に住み、子々孫々ずっと同じ土地で生まれ、其処で一生を終えた。昔の結婚は親が決め、家柄などを考えて嫁のやり取りをしてきた。従ってその土地では昔を辿れば血がつながっている人が多い。たまに帰郷するとどことなく顔つきの似た者を多く見かける。しかし戦後、特に昭和35年ごろ以降、田舎も急速に都市化され、他県からどんどん新しい人たちが移り住むようになった。今の時代は男女がそれぞれ別の土地で育った者同士の結婚が多いと思う。今日川辺で見かけた若いカップルたちも多分そうであろうと思う。

人々の間の血の混ざり合いは戦国時代や明治以降急速に進んだと思う。それが戦後更に急速に進んだ。「どこの馬の骨」か分からぬ者同士が大部分を占めるようになり、自分の家の由緒を知っている者は急速に少なくなった。遺伝子は急速に拡散し、ごく普通の家で同じ家族の中に極端に良い遺伝子を受け継いでいる者がいる一方で、極端に悪い遺伝子を受け継いでいる者がいるという状況になったと思う。

ブッダ「感興のことば」を続ける。

7 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも良い香りのあるものがあるように、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実(み)のりが有る。

2010年5月16日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(57) (20100516)

 Newton『知りたい!遺伝のしくみ』にインターネット版のヒト遺伝子カタログOMIMの検索のことが書かれている。検索の仕方によるが初め出てきたのはどうもプロフィールがはっきりしない人で、ひょっとすると分子生物学者かもしれないしそうでないかもしれない人のブログがでてきた。あるいは、検索に「・・・しなさい」と命令調で書かれているブログもあった。どうもおかしいので検索し直したら純粋に学術的なデータベースのページが出てきた。私が探していたのはこの学術的なデータベースである。しかし、私はそのようなものがあることだけを確認したかったので探してみたのである。

 しかし分子生物学を学び、あるいはその分野に興味をもっている若い人たちがインターネットでヒトの遺伝子のカタログのデータを探した時、その人が何か精神的なものを求めていた場合、初めに書いたようなブログがすぐ目にとまるだろう。それらのブログはそれほど注目を引きそうによくデザインされている。

 最新の科学は人々の精神を不安にさせる可能性がある。生まれながらにして何か病気をもっていたり、身体的な障害があったり、性格が悪かったりした場合、それは遺伝子によるものである。生まれながらにして美男子、美女、高い知能、善い性格であるのも遺伝子によるものである。勿論、ヒトの遺伝子は極めて複雑にできているようであるから、「氏より育ち」というように生後の環境が影響するところが極めて大きいことは間違いない。分子生物学者たちはそのことを大いに強調するようである。

 DNAのメチル化といってDNAの塩基であるシトシンにメチル基という化学構造が付け加えられた遺伝子は働かなくなるそうである。それがなぜ起きるかは解明されていない。生後の環境でそのスイッチが入ったり入らなかったりするのであろうか?

 今の時代、最新の科学的情報は広く一般庶民にも知れ渡る。特に欧米や日本など高度情報社会ではそうである。そのような社会では人々の精神的な安定を図る何かの社会的構造が必要である。アメリカでは頑固にヒトは神様が創造したと信じ、あるいはかたくなに信じようとする人々がいる。ヨーロッパでもキリスト教という宗教が人々の精神を支えている。しかし八百万の神々がましますわが国、葬式仏教が盛んなわが国、結婚式の格好よさを好みキリスト教式の挙式に憧れる若者たちが多いわが国にはそのような構造はない。勿論欧米でも徐々に古い伝統的な構造はなくなってゆくであろう。

 分子生物学が遠い将来人々の精神を安定させる技術を生み出せば宗教も必要でなくなるのかもしれない。しかし「あの世」「神の国」の存在は人類にとってまだまだ十分必要である。お釈迦さまもイエスキリストもそれらの存在を人々に説かれたのでそれは確かに存在するのであろう。そして分子生物学も量子力学もそのことをどうしても証明することができないのであろう。しかしまだまだ未知のことばかりである。

6 うるわしく、あでやかに咲く花で、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでもそれを実行しない人には実りがない。

2010年5月15日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(56) (20100515)

 腰痛はほとんど治ったが、わが体内に老廃物がたまっていて疲労感がある。しかしお天気が良い時は家の中に居るよりは外の自然の中で過ごす方が精神的にも良い。そこで遠出をするときのようにリュックサックを背負って運動靴を履き、登山帽をかぶって外出した。リュックサックの中にはいつもシートや細々とした必需品を入れてある。今日はその中にNewtonの『知りたい!遺伝のしくみ』という本を入れ、ペットボトルに水を入れて出かけた。行き先は獅子ヶ谷市民の森である。

 資材置き場とか畑とか住宅が雑然とあって美観的には好ましくないところに「横溝屋敷」がある。これは古い民家で江戸時代は多分村民のまとめ役のような家であったであろう。横浜市民の憩いの場所として常時開館されている。屋敷内には農機具を置いてある倉や食料の貯蔵のための倉がある。昔は雪隠といったトイレがあった辺りに男女の便所があり、その脇に昔は肥溜めがあったという立て札がある。勿論今は土が盛られていて穴にはなっていない。裏に竹藪があり屋敷の裏にまた倉がある。

 屋敷は2階建てで前に表面が固められている土の庭がある。その2階建ての家に向かって左側に、おそらくそこは昔畑であったであろうところに管理事務所とその前にクローバーが茂る小さな広場があり、その脇に小さな池がある。屋敷の裏は山である。管理事務所の脇からその山に登る道があり、その山の一帯が「市民の森」として整備されている。

 管理事務所の前のベンチに腰掛けて持参した本を読んだ。訪問客は男一人だけでで誰にも邪魔されず集中してその本を読んだ。しばらく其処で過ごして裏の山に登った。道はよく整備されている。スローテンポでゆっくり登り、頂上の広場に出た。広場といっても休憩用の小さな小屋と梅の木の畑の中に木製のテーブルとベンチが2か所にあるところである。その野ざらしのテーブルのベンチに腰掛けてまた本を読んだ。訪れる人は殆どいない。鶯の声が近くで聞こえ静かなものである。

 しばらく其処で過ごし「トレッサ横浜」というスーパーモールのある方向に山を下る。建売住宅が立ち並ぶ小路を抜けてそのモールに着いた。ここは元トヨタの車両の整備工場があったところで新横浜方面に向かう車道を挟んで南北両側にあらゆる店が入っている複合商業施設になっている。
そこで果物など少しばかりの買い物をし、その袋をぶら下げリュックサックを背負ってホームセンターに立ち寄り三菱の卓上用クリンスイのフィルターを買って家に帰った。今日の歩行数は6000歩余りであった。以外に少ない。

 今日は曇天で気温も湿度も快適であったが、これから不快指数が上がる季節に入る。それでもなるべく外出して自然の中を歩こうと思う。近くに川あり、森あり、ウォーキングの環境には非常に恵まれている。ただ皮膚にダメージを与える紫外線には注意が必要である。

5 自己の愛執を断ち切れ、池の水から出てきた秋の蓮を手で断ち切るように。静けさに至る道を養え。めでたく行きし人(=仏)は安らぎを説きたもうた。

2010年5月14日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(55) (20100514)

 Biglobeでやっていた哲学のブリグ「現代の自然観と仏教」のサインインが出来なくなった。パスワードを忘れた場合の再設定のためのメールは自動的に帰ってくるが、いざ再設定を行おうと新しいパスワードを設定し、そのパスワードでアクセスしたが駄目である。同じ手順を再び行ってみてもうまく行かない。この原因はBiglobeのメールアドレスを持たずに、ただ無料のブログを開設するだけのためなのかもしれない。

 そこで、哲学のブログを使い慣れたGoogleblogspotドットコムに移した。こちらの方は非常に使いやすく、スマートである。どうも日本のプロバイダーのものはごちゃごちゃしていて若者、ミーハーには喜ばれるのであろうが、男のように703つも超えたじいさんには不向きである。

 狭い自分の部屋にレーザープリンター1台、カラーコピーもできるプリンター1台、スキャナー1台あり、これらを使用しやすくケーブル接続が出来るようにいろいろ作業をした。女房には自分の部屋に閉じこもってコンピュータばかりいじっているかのように見えるらしい。そこで居間に置いてあるもう1台のコンピュータを女房によく使ってもらえるように苦心している。女房がもっと積極的にコンピュータに向き合うようになれば、女房にもコンピュータの良さと悪さが分かってもらえる。コンピュータは便利だが、いろいろ手がかかるものである。たまにトラブルの対処もしなければならない。

 今の時代、あらゆる職場などでコンピュータが使われている。オフィッスのデスクの上にはどこでもコンピュータが置かれていて、コンピュータに向き合う時間が多い。書類づくりもコンピュータで行っている。作業は自宅に持ち帰って行うことが多い。そういう時代であるが、大体60代以上の主婦はその経験が全くない。いや60代以上の主婦でなくても私ぐらいの年代の者はコンピュータが苦手な人が非常に多い。女房がコンピュータを使いこなせるようにすることは私にとって絶対必要である。

 そんなことを考えながら「哲学」のブログへの投稿が出来ないというトラブルの解決と取り組んでいた。そのうち問題が自働的に解消したので早速書き込みした。「哲学」であり、しかもテーマは分子生物学に関わることであるから、放送大学の勉強も兼ねる。投稿の記事を書きながらあれこれ本を引っ張り出し、勉強しながら書いた。これで今学期の勉強も著しくはかどった。女房はそのことを知らず男がコンピュータばかりやっていると思っているかもしれない。勉強しがら記事を書いてもう12時を回る。

2 目的が達成されるまで、人は努めなければならぬ。自分の立てた目的がそのとおりに実現されるのを見よ。希望したとおりになるであろうと。

18章「花」
1 だれがこの大地を征服するであろうか? まただれが神々とともなる閻魔の世界を征服するであろうか? わざに巧みな人が花を摘(つ)むように、善く説かれた真理のことばを摘(つ)み集めるのは誰であろうか? 

2010年5月13日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(54) (20100513)

 狭い自分の部屋でパソコンに向かい、椅子を左右に回転させて右側の資料、左側のベッドの上の資料を見ながらキーボードを叩いていたらそのうち腰のあたりが痛くなった。そこで休憩のため立ち上がろうとしたら急に腰が痛くなり‘ぎっくり腰’になりかかった。立って歩くとき腰が痛く姿勢が悪い。‘若々しい’と自分自身のことを思っている当の男がこの辺の通りでよく見かける腰を曲げて姿勢が傾いて歩く年老いた老人のようになっている。そこで男は入浴して腰のあたりを温めた後、女房に鎮痛ようのシップ剤を腰の痛いところに貼ってもらい、ベッドの上で腰痛を治す運動をして就寝した。

 翌朝腰のあたりは一層こわばっている。そこで同様の運動を繰り返し行い、体をほぐした。足腰に肉体的な疲労感がある。女房が男の立ち姿勢をみて体が曲がっていると笑う。そこで、柱のところに立って体の立ち姿勢が頭の先から足先まで垂直に真っ直ぐになるように矯正運動をし、さらに浴室で自分の立ち姿全体を見ながら姿勢矯正の運動をした。ビタミンB6B12などが入っているビタミン剤1錠とタウリンがたっぷり入っているドリンク剤を飲み、筋肉疲労の回復を図った。そのうち痛みが和らいだ。

 普通ならば医者にいくところであろうが、背筋がまがっているのが自分で分かっているし、整形外科や接骨院で行う治療も大体似たようなことをするだろうから余程のことではない限りそれらの所には行かない。時間と金を浪費することは馬鹿らしい。そのうち腰の痛みは和らぎ、歩行の姿勢も普段と変わらない状態になった。

 今日は筋肉の疲労を取り除くことに心がけ、外出は控え主としてベッドの中で先日放送大学世田谷学習センターから借りてきた『生命と非生命のあいだ -NASAの地球外生命研究-』(ピーター・D・ウォード著、長野敬+野村尚子訳、青土社)を読んだ。読みながら後でメモなりコピーなりしておこうと思う箇所に付箋を貼っておいた。

 この本を読み終わって、科学者たち(スティヴ・ベンナーら)が‘DNA類似’のものを創ることに成功したことに驚いた。ヒトを含む地球上のあらゆる生物のDNA4種類だけの特定の塩基しか使っていないが、この新たに創りだされた‘DNA類似’のものは6種類の異なる素材からなるステップをもつDNAに似た分子を創りだすことに成功したということである。そのDNA類似’のものは5世代にわたって複製に成功したという。

 またフロイド・ロームズバーグらはDNAがコードに使っている4種類の塩基・ATCG以外の化学塩基を使って通常の20種類のアミノ酸だけではなく全く新しいアミノ酸を指定することができたことにも驚いた。これらのことは当然分子生物学者たちの‘常識’になっていることであろうが、一般市井の老人のような男には驚きである。

ブッダ「感興のことば」第16章「さまざまなこと」に移る。
1 未来になすべきことをあらかじめ心がけておるべきである。なすべき時に、わがなすべき仕事をそこなうことのないように。準備してなすべきことを常に準備している人を、なすべき時になすべき仕事が害うことはない。

2010年5月12日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(53) (20100512)

 陶芸をしに行く電車やバスの中で放送大学の『分子生物学』の印刷教材を読んだ。途中眠くなってつい目を閉じてしまうことがあったが、赤鉛筆をもって要所要所にアンダーラインを引いたり、書き込んだりしながら勉強した。この年になって、ソフトモヒカン刈りの若づくりのスタイルで公共の場所で勉強している姿は、客観的にみてどうかと思うことはあるが、気にしない。人は人、我は我である。しかし男は我ながら若者並みあるいはそれ以上にエネルギーがあるなと感心する。

 この若さの源泉は何だろうかと自問する。一つは食事である。魚よりは肉のほうが好きで、先ほど終えた夕食のメニューは、豚肉100グラムの生姜焼きに炒めた玉ねぎ、納豆にオクラの刻みを混ぜ合わせたもの、じゃこと昆布とゴマなどを混ぜ合わせたふりかけ、茹でたブロッコリーにコレステロールを下げる働きのあるマヨネーズをかけたものなどに1杯のご飯などであった。男の女房は常に男の健康を気遣ってくれていて、料理をするときも最新の栄養学の知識を駆使し、自分の部屋でパソコンに向かっている男に「ご飯ですよ」と声をかけてくれる。男は女房のことをいつもを有り難く思っている。毎食後、付属の計量カップで養命酒を飲み、エビオスを10粒摂る。エビオスには人間の体では作ることができない必須のアミノ酸が全部含まれている。

 もう一つの源泉はよく歩くことである。女房も男もシチズン製の高性能万歩計をいつもバッグに入れて持ち歩いている。駅ではエスカレータを使わず歩いて上り下りする。足をよく上げ大腰筋を鍛える。起床前爪揉みや腹式呼吸や腹筋・背筋ストレッチ等で体調を整える。

 さらに気持ちの持ちようである。動作、歩行姿勢、服装など年寄り臭くしない。加齢臭も毎朝シャワーで特に胸と背中を流し、臭いのもとを流す。女性に対する関心は維持する。

 分子生物学を勉強すればするほど、自分の体の中でDNARNA、タンパク質など分子のレベル起きていることに新たな驚きを感じる。正に自分の体は精密な機械の集合体である。ごく簡単に言えば、タンパク質はDNAの情報がRNAに転写され、翻訳されるときにアミノ酸の結合で作られる。

 RNAへの転写がDNA上のどの情報を読み取るか、読み取る際の誤動作をどう修正するのか、作られたタンパク質はどのような手段で細胞の外に持ち出されるのかなどと言ったことは分子生物学の初歩の事柄であるが、それでも100分の1ミリメートルの細胞の中で起きている事柄には本当に驚かされる。そのDNAは1個の総延長が数センチメートルの長さであり、それが1個大きさが直径100分の1ミリメートルほどの細胞の中の核の中に巧妙にたたみ込まれて納まっている。ヒトの体にはそのような細胞が200種類以上あり、総数60兆個の細胞がコラーゲンを初めとする各種タンパク質によって機械的に接着されている。しかもそれらの細胞は火傷や打撲や突発的な強い刺激で死に、また紫外線や活性酸素などによってDNAが傷ついて死ぬ。細胞はその都度新たに作られている。

8 ひとがつねに目ざめていて、昼も夜もつとめ学び、不死を得ようとしているならば、その人のもろもろの汚れは消え失せる。

2010年5月11日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(52) (20100511)

鳩山内閣の支持率が急落した。普天間問題で自らの発言を党の公約ではなかった、と言い、アメリカ海兵隊の沖縄駐留が抑止力になっていることを初めは認識していなかったがいろいろ学んでゆくうちにそれがわが国の安全保障上沖縄に駐留することが必要であることが分かったと言う趣旨の発言をしたことが、これまでの献金問題等と合わせて総理への不信感につながったのである。検察審査会で起訴相当とされた小沢氏をかばったことも響いている。首相としての資質を多くの国民が疑問に感じ始めたのである。
世論調査では夏の参議院選挙で民主党に投票する人が極端に減少した。そして自民との大連立を望む声が多くなった。自民党支持率は低水準のまま横ばいで、自民党単独過半数を国民の大多数は望んでいない。かといって第3極の「みんなの党」に対しては驚くほどの支持が集まっていない。国民の多くは行政改革が出来なかった自民党、政官業癒着構造にメスを入れられなかった自民党に限界を感じ、未熟で危うい民主党には自民党ができなかったことを事業仕訳という手法でやろうとした努力は認めるが、民主党が「マニフェスト、マニフェスト」と金科玉条のように叫び理想ばかりを追求して現実に対処できないことやわが国の安全を損なうようなことをしていることに対して失望している。
物事は一方的に観るだけでは大事なことに気づかずに終わってしまう。昨年民主党が政権をとって以来、自民党も民主党も「非武装中立」を党の絶対方針としている社民党もその他の政党も、一般国民もいろいろ学んだ。そのことは非常に大きな収穫である。
中国の海軍のヘリがわが国の護衛艦に近づいたことや、中間線の内側で調査していたわが国の調査船が中国の船に付きまとわれたことなどは、わが国の国民感情を害した。かつてフィリッピンのクラーク基地からアメリカ空軍が撤退したあと、中国が南沙諸島に手を出し一部を事実上領有してしまったことを我々は思い出す。中国と言い、北朝鮮といい、本当に付き合いにくい国々である。たとえ日本とそれらの国々の政府間でよい関係ができたとしても人間でいえば‘腕っ節’や‘足’が‘ちょっかい出し’をする。彼の国の政府も自国の民衆に反感をもたれないように、「わが国の大陸棚は中日中間線の外側まで広がっていてわが国(中国)の権利が及ぶ。」と言うようなことを言う。
平和ボケしていた日本国民もここに至りようやく目が覚めつつある。国民が選んだ指導者たちもプアであったが、政権交代を契機に指導者たちも国民も現実を良く学ぶことが出来ている。だから鳩山首相は後世に名が残るような良いことをしてくれているのである。
先日、読売新聞社が国を再生させる提言を大開きのページ一杯に載せた。政党もしっかり勉強し、国をどういうように導いてゆくかというしっかりした理念と方針と当面の具体的実施要領を示してくれることを期待したい。人気取りの迎合政党に、わが国を任せることは出来ない。国の為尽くす‘英雄’の出現を願望している国民は多いと思う。
7 目ざめている者どもは、わがことばを聞け。眠っている者どもはめざめよ。眠っている者どもよりは目ざめている者がすぐれている。目ざめている者には恐れが無いからである。

2010年5月10日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(51) (20100510)

 男は久しぶり放送大学世田谷学習センターに行った。同窓会の役員会に顔を出し、その会議が終わった後、視聴学習室・図書室に行きそこで3時間近く分子生物学の勉強をした。分子生物学ではDNAに関して日々新たなことが分かってきているようである。『生命と非生命のあいだ -NASAの地球外生物の研究 -』という本が受付の前に置かれていたのが目にとまりこれを借りて帰った。

 生命は近い将来人間が実験室の中で創造することができるかもしれない。もしそれが実現すれば大変恐ろしいことになるだろう。そういう予感がする。創造された生命はエイリアンである。この地球上にはまだ自然の状態の中に人間がまだ発見できていない未知の生命・エイリアンが存在しているかもしれない。

 南極大陸に落下した隕石が火星から飛来したものであることが判明したが、その隕石には生命は発見されていなかった。しかし生命の起源は宇宙にあるのではないかと考えられるようになっているようである。あいにく日付は記入していなかったが今年春ごろの読売新聞の記事を切り抜いたものを取ってある。その記事の概要は次のとおりである。
アミノ酸には右型と左型があるが、人類を含む地球の生物は左型のアミノ酸でできている。しかし通常の化学反応では左右ほぼ等量ずつであるため、なぜ地球の生物にアミノ酸の偏りがあるのかは大きな謎になっていた。

 国立天文台などの国際研究チームは南アフリカにある近赤外線望遠鏡を使って地球から1500光年離れたオリオン大星雲の中心部を観測した結果、アミノ酸をどちらか一方に片寄らせてしまう「円偏光」という特殊な光が太陽系の400倍という広大な範囲を照らしていることを突き止め、この円偏光の領域に右型のアミノ酸を壊して地球のように左型ばかりにするものと右型ばかりにするものとがあることが分かった。太陽系誕生のごく初期に円偏光に照らされた結果左型のアミノ酸ばかりが残り、隕石に付着して地球に飛来したものがこの地球上の生命の起源になったのではないか。

 ここで円偏光とか左型アミノ酸とか右型アミノ酸という用語については、今後詳しく学習してゆきたいと思う。分子生物学は私のような素人でも面白いので、おそらくこの分野の研究者たちは毎日わくわくしながら未知の事柄の解明に取り組んでいることであろう。
仏教はキリスト教やイスラム教などのように万物を創造したとする神を信じる一神教ではない。仏教は「一切衆生悉有仏性」と一切の衆生には悉く仏性が宿っているとし、絶対の神が存在するか存在しないかなどと不毛の議論をするのを禁じる立場である。

 そういう立場で人間の精神の大本になっている物質であるアミノ酸が宇宙から飛来したとする研究結果は面白い。「あの世」はもしかすると人類の歴史の中で意識が発達してきたときに遺伝子の中に組み込まれた一つの情報かもしれない。

3 身体についてつねに真相を念(おも)い、つねに諸の感官を慎み、心を安定させている者は、それによって自己の安らぎを知るであろう。

2010年5月9日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(50) (20100509)

 男のところに群馬のSさんから『郷研通信』という印刷物を送られてきた。序文に「郷学とは郷土の学問、即ち人を生み、育ててくれた山川や田畑、その野性的な逞しさと自然の生業の中で育った純粋な精神を持った人たちの中から、国の為に確固たる教養を持った人間を育てようと安岡正篤先生が始められた学問である」と書かれている。

 この150ページほどあるA4サイズの本を読み、意見や感想を送って欲しいと手紙が添えられている。今夜は詩吟の会から帰ってきたばかりであるのでとりあえず大雑把に目を通した。そしてこの本に接する喜びを感じた。

 というのは、この本には、安岡先生が孔子・孫子・準南子など古代中国の思想家や白隠・道元・稲葉黙斎など高僧・儒学者などの言葉を随所に引用し、人としての正しい生き方を教えておられるからである。もし浅学非才の私が自分自身の力で同じことをしようとするならば、先生の何百倍いや何千倍の時間とエネルギーを費やさなければやれないであろう。正に13世紀~14世紀に生きた夢想疎石が「一日の学問は千載の宝」と後世の我々に教えたとおりである。我々は安岡先生が先に学ばれたエッセンスをちょっと学ぶだけで、千年後まで意味のあることを、我々の心がけ次第で為すことができるのだ。

 今の時代、働き盛りの人たちは毎日が戦場の中にいるようで、‘戦闘’に必要な知識や技術を学ぶことが精一杯で、教養を身につける時間はなかなか取れない。知識・技術のレベルは高くても教養のレベルはそこそこである。極端にお粗末ではないが、しかし決して立派というものでもない。「それでよい」と言えばそれまでであるが、品格は一般大衆のレベルである。この国に一握りの教養が高い人士の層が広く分布しているとは言えない。そのことが今日のわが国の政治や行政の品格を落としていると言わざるを得ない。

 この本の終わりの方のページに安岡先生の言葉がある。「人格ができてくると、どこかしっかりと落ち着いて、和らかく、なごやかに、声もどことなく含み、響きがあって、その人全体がリズミカルになるものだ。」とある。この基準で自分自身を評価してみると私は全く出来ていない。もし男が若い時に今のような気持ちで学んでいれば、男は立派になっていただろう。73にもなってからでは余りにも遅すぎるのだ。男は自分自身を飾らず地で行くしかないし、熊つぁん八つぁんの地で行くことが男に最も似合っている。

 子どもの時から教養を身につけることができる環境にいることが重要だと思う。調べてみないと分からないが、わが国にそのような環境で子どもたちを育てる所があるだろうか?学習院幼稚園も何か問題がありそうである。大学生になり、社会人になってからでは遅いのだ。子どもの時の環境が最も重要であるのだ。

2 身をまっ直ぐに立て、心もそのようにして、立っても、坐しても、臥しても、つねに念(おも)いおちつけてととのえている修行僧は、過去についても未来についても、勝(すぐ)れた境地を得るであろう。過去についても未来についても勝(すぐ)れた境地を得たならば、死王も見(まみ)えないことになるであろう。

2010年5月8日土曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(49) (20100508)

公開中のブログ「吟詠」の5月の吟題『短歌 斎藤茂吉 作「あかあかと」』の吟詠を入れ替えた。私の誕生日を祝ってくれているメッセージカードに3歳の男児の孫の写真が添えられていたが、その孫の写真を見ながら感情をこめて吟じてみたら、ようやく自分で満足できる吟になった。
短歌「あかあかと」は、次のとおりである。

 あかあかと 一本の道 とおりたり
      たまきはる わが命なりけり

ブログに書いてあるが、私はこの歌を次のように解釈した。

(これまで生きてきた)自分の人生は、きわめて明るい一本の道のようなものである。
(この道は自分の魂の修行の道であり、自分の肉体の最期に向かう道でもある。
その道は自分の肉体が最期を迎えた後、自分の魂は新たな肉体にやどり、その世、「この世」から見れば「あの世」につづく明るく輝いている真っすぐな道である。)

私は人の一生はその生きている間だけにすべてがあるのではないと思っている。人は「縁」によってこの世に生を受けるが、その「縁」というものはその人の「前世」とは無関係ではないと思う。そして、今生きている「現世」の生き方次第で、次の世である「来世」の有り様が決定されるのだと思う。
孫には私のY遺伝子が確実に伝わっている。その遺伝子には私の先祖の遺伝子が含まれている。知能も性格も顔つきも体つきもその孫には私の先祖の特質が伝わっている。勿論、孫の遺伝子の半分は母方のものである。両方の家系の特質が孫には確実に伝えられている。
無意識に願っていたことが実現したという経験はよくある。たまたま偶然だった事象は、実はわれわれが認識できないことによって‘必然’的に起きた事象である、ということを現代の科学は100%確実に反証できるであろうか?私自身「これは不思議なことである」と思うことを度々経験して来ている。
親から子へ、子から孫へと伝えられる遺伝情報だけではなく、伝えられた遺伝情報以外に何か目には見えず、人が認識できない何かの力で刻み込まれる遺伝情報が必ずあるように思う。その‘何か’は素直な人間ではないと感じ取れないものではないかと思う。
ブッダ「感興のことば」第13章は18番まである。第14章「憎しみ」と飛ばし、第15章「念(おもい)をおちつけて」に移る。
1 ブッダの説かれたとおりに、呼吸を整える思念をよく修行して、完成し、順次に(諸の煩悩を)克服してきた人は、雲を脱れた月のようにこの世を照らす。

2010年5月7日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(48) (20100507)

 久しぶり渋谷の街を歩いた。渋谷は若者が多く活気に溢れている。渋谷には自分が買いたいと思う物が何でも揃っているように思う。通りを歩く外国人も多い。

 今日は長男夫婦が男と女房をある有名な懐石料理の店に招待してくれた。江戸時代には各藩にそれぞれ特徴のある料理があり、殿様などの御膳に出されていたのであろう。今日の料理はその一つである。「殿様気分になった」と言ったら和服姿の女性の店員が笑顔で料理の説明をしてくれた。その説明で「おしながき」の内容が分かり、料理が一層美味しくなる。46歳の息子が私の齢を聴く。「73だよ」と答える。今日の会食のため昨日行きつけの床屋に行った。ひげを短くし、形を整え、髪は若者風にソフトモヒカンスタイルに短く刈っている男を見て、息子の嫁は「お父さんは若い」と思ったに違いない。

 東急ハンズでいろいろ細々したものを買い求めて家に帰ったら、先日郷里の中学校の同級会のとき57年ぶりにあったある旧友からその時の写真を同封した手紙が届いていた。この旧友は中学校を出てすぐ鉄工所で働き、腕一本でたたき上げ、自ら会社を興して成功し、息子に経営を継がせて自分は会長に納まり、なお現役で活躍している。旧友たちと写った自分の写真を見て我ながら「若く見える」と思った。若く見えても齢は齢、生理的年齢は皆と変わらない。今日も往年の名優・佐藤慶が82歳で肺炎で他界したという記事が新聞に出ていた。その年齢に応じて自重しながら日々を過ごすことが肝要であると思う。

 大阪に住む二男の家族皆からも「お誕生日おめでとう」のコールがあった。ここ半年以上会っていない3歳になる孫からもたどたどしい言葉使いで祝福された。嫁からは「○○(孫の名前)が大人に成長してゆくまで元気でいて下さい」と励まされた。肉体的にも精神的にもまだまだ元気で一見壮年のように見えると思うが、この状態を3歳の孫が20歳になる時まで続けられることは絶対あり得ない。

 毎年のことであるが、二つ違いの実弟からも電話があった。実弟は東京の有楽町に本社を置き環境改善の技術に関わる事業をしている。お互い忙しく久しく会っていない。しかし時間を作って会い、早世した妹が世話になった叔父の墓参りを兼ねて松戸まで行き、永年の無沙汰も詫びようと話が決まった。

 その弟は気功や真向法などいろいろやって健康維持に最大の努力をしているためか、年齢よりも相当若く見られると言う。「125歳まで生きる」というので「俺の骨を拾ってくれ」と冗談を言っておいた。彼はもともと字が上手であったが永遠書道をやり師範免許を持ている彼の妻と同じ書道の会に入り、短期間のうちにみるみる上達し師範級の評価を受けるようになったという。「素晴らしいね。俺もM子(妻)もそれぞれ役割を明確に意識していて、遠い先祖のことをわが家に後世まで伝えて行く仕事を完成させたいと思う。」と話した。

13 たといその修行僧が三種の明知を体現していて、死を打ちのめした者であり、汚れが無いとしても、無智なるものどもは「かれは人に知られていることが少ない」といって、かれを見下す。

2010年5月6日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(47) (20100506)

 男はもうすぐ73歳になる。昨日夜、NHKで歌謡チャリティショーがあり、‘若大将’加山雄三が最後に出場した。「73歳になった」と言っていた。同じ年とは言え、何もかも男とは雲泥の差である。先日郷里の中学校の同級会があり50数名同じ年の同級生たちが集まったが、皆加山雄三や他界した美空ひばりと同年である。その意味では加山雄三や美空ひばりにある種の親近感があるが、片や大スター、大歌手、片やどんぐりの背比べのような一般庶民である。比べようもない。しかしそれでよい。

 男の齢よりも3年早く70歳で他界した父は病床で弟に「N(男のこと)は失敗した」とつぶやいたという。先日の同級会で小学校時代からのある同級生が、男が回り道をしたような人生を送ったことを大変残念がっていた。当の男は少しも残念に思っていない。人の一生の成功・不成功は、その人が棺桶に片足突っ込んで自分の人生を振り返り、ニコッと笑えるかどうかで判定されると思う。男はニコッと笑うことができると確信している。

 加山雄三も自分がピンチのどん底に落ち込んだ時、自分を支え励まし続けてくれたのはカミさんであると舞台の上から感謝していたが、男も女房にはあらゆる面で感謝している。人それぞれには天命あり、男も女房もその天命を明確に意識している。

 家族力というものを考えると、わが家ではその家族力が極めて強いと思う。それには女房が子どもたちを良く育てあげたことが最も大きな影響があったと思う。お互い離れて暮らしていても、家族の誕生日や母の日などにカードを送ったり何かプレゼントを贈ったり、どこかで落ち合って食事をしたりする。

 世の中には家族力が弱い家庭がかなりあるようである。家族は社会の中の最小の組織単位である。その組織単位が集まって社会が構成されている。どんなに貧しくても家族の間で暖かい愛の交流があればその組織単位は光を放っている。プレゼントするものを買うお金がなくても50円のはがき1枚だけで相手に思いを伝えることはできる。会えば笑顔で会話を交わすことはできる。家族力はコミュニケーション力である。

 今時の若い人たちは、お互いメールでコミュニケーションをしていることが多い。職場で同じ部屋の上司に何か報告する場合でも、会って目線を合わせて、直接言葉で報告せずにメールで報告する者がいるという。話す言葉でも直接ずばりと言わず、遠まわしに、仮定的に、自分自身が傷つかないように話そうとする。一見親しげに会話している間柄であっても心を許しあう間柄でない場合が多いようである。年寄りがいくら嘆いてもどうにもならないものであるが・・・。


 ブッダ「感興のことば」第12章は20番で終わる。第13章「尊敬」に移る。

2 愚かな者は知識が生じても、ついにかれは不利なことになってしまう。それは愚かな者の好運(しあわせ)を滅ぼし、かれの頭を打ち砕くであろう。