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2013年7月8日月曜日

真実の愛――『八重の桜』――会津藩士の妻女たちの最期に思う(20130708)


  男は今日の明け方つぎのような夢を見た。断片的でありよく覚えていないが、ある場所に皆が集まる夢である。男と男の妻ほか数人の人たちは誰だか定かではないがある誰かが運転する車に乗ってその場所に行った。其処で男の妻は他の人の妻たちとともに何か接待の役をするため其処に向かった。本来その接待役は主催者側の責任ある立場の人たちの妻たちが受け持つものであった。それなのに何故男の妻たちが接待の主役を務めることになったのかその理由は分からない。主催者側で本来接待役をする立場にあった女性たちは皆浮かぬ顔をしていた。その後場面が変わり、どういうわけか男の妻ほか幾人かの女性たちは処刑されるため何処かに向かっていた。先頭に男の妻がいた。男の妻は自分がこれから処刑されるというのに従容として其処に向かっていた。最後尾の二人の女性たちの表情は悲しみの表情をしていた。
 

 男の妻は純粋無垢の気持ちで男に尽くしてきた。自分が処刑される場所に向かっているのにまるで普通の表情である。男は呆然としてその列を見ている。男は目が覚めて思った。これは男の妻が男に深い愛情を示すとともに彼女がかねがね言っているように「私はいつ死んでも良い。長生きしたいとは思わない。これまで誰にも真剣に尽くしてきたので何も思い残すことはない」という心情をそのまま表しているものである。
 

 ここに男の妻が小学校5年生のときの学級の集合写真から切り取った写真がある。その集合写真に小学校5年生のときの男の妻が前列中央に学童服を着て写っている。その写真を見ると男の妻は小学校5年生の時、将来男の妻になることが定められているかのような表情を漂わせている。彼女は男の家のため尽くし、男の家を本来あるべき正しい有り様に変えてくれた。男の家は名門旧家であると伝えられているが其処には何か深い業のようなものがあった。それを男の妻は断ち切ってくれた。それは他のどのような女性も絶対できないものであった。男の妻はそれを行う役目を担って男の家の嫁となったように見える。
 

 昨夜NHK大河ドラマ『八重の桜』を見た。会津の女性たちは会津に侵攻してくる薩長軍主力の新政府軍と戦い散っていった。その中には、会津藩江戸詰勘定役中野平内の長女・中野竹子らにより組織された20名ほどの女性のみの部隊(娘子軍)の一員であったが捕縛され自刃したとも言われる神保修理(諱は長輝)の妻・雪子や会津藩家老西郷頼母の母や妻子らの自刃がある。また会津藩娘子軍の中心的存在であったが被弾し母・こう子の介錯により果てた竹子がいる。竹子は薙刀の名手でありその薙刀には「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」と辞世を記した短冊が結ばれていたという。ウィキペディアによれば彼女たちは頼母が登城後自分たちが足手まといになってはならぬと頼母邸で自刃したという。それぞれ下記のとおり辞世の歌を遺している。

 母 律子(58歳)  「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

  妻 千重子(34歳) 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」

  妹 眉寿子(26歳) 「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」

   由布子(23歳) 「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」

  長女 細布子(16歳) 下の句、 次女 瀑布子(13歳) 上の句

                   「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
 

 女性たちは最も価値あると確信するものに自分の命を捧げた。男の妻もそのようにしてきた。だから何も思い残すことはないのである。これ以上の無私・真実の愛は他にあろうか?男も男の妻のためならば従容として死に就くだろう。もしそういう場面に直面したならば・・。

2012年8月17日金曜日


人生(20120817)

 男と女房はこれまで独り暮らしの婆さんを看るため、年に4、5回帰っていた。婆さんが老人施設に入居するまでの間は、婆さんを看るため帰ったときは四六時中婆さんと顔を突き合わせていた。婆さんと我々とでは食べ物が違うし、食事のときは婆さんがいつも居る居間で畳の上に座って一緒に食べていた。男は別の部屋でインターネットに接続できるように線を引いてその部屋に居場所を持っていたが、女房にはそのような居場所はなかった。今、婆さんは老人施設に自分から申し出て入居してくれているので、この家に帰ったときは男も女房も誰にも気づかうことなく、のびのび過ごすことができている。

 婆さんがこの家で独り暮らしをしているときは気楽に旅行もできなかった。今では安心して旅行もできる。男と女房は以前婆さんを二度連れて行ったことがあるある温泉地に一泊した。その温泉地はこの家からタクシーで片道3000円ほどかかる山間部にある。今回泊まった宿は、以前泊まったことがある観光ホテルのすぐ近くにある。其処は「この宿の雰囲気はよさそうだ、一度泊まってみたい」と思っていたひなびた旅館で、全部和室である。夕食は会席料理が部屋に運ばれるが、朝食は畳敷きの広間で家族ごと座って食べる。

 その旅館には露天風呂に続く洞窟の風呂もあり、露天の家族風呂もある。洞窟の風呂は毎朝6時から9時までは女性が使用できるようになっている。夜間だと多分物騒に感じるから女性には早朝から利用できるようにしてあるのだろう。男と女房はその旅館に着いてすぐその家族風呂に入った。そこは予約制であり一回30分と決められているが、この時期に宿泊客が少なかったので女将から「ずーと入っていても良いですよ」と言われていた。湯船は二人が入るのに丁度よい大きさである。隙間がある違い板の囲いの内側にちょっとした木立とかつて田舎で使われていた粉を作る石臼などがあり、囲いの向こう側は山の斜面でその上に空が広がっている。蝉の鳴き声が聞こえてくる以外、外は全く静かである。

 男は何十年ぶりかで女房の背中を流してやった。女房も男の背中を流してくれた。夫婦になって来年は50年になる。二人の息子たちもそれぞれ立派な社会人として、良い家庭を築いている。男の血統を受け継ぐ孫息子もいる。男も女房も良い人生だったなと思う。今何一つとして不自由はない。身の回りに自分たちを飾るような「光る物」は何一つないが、それを欲しいとは全く思わない。男も女房も、日々の暮らしに最低限必要な機能的な道具・器具さえ有ればそれで十分であると思っている。

 野の草花、小鳥、風景など自然の世界には宝物が一杯ある。それに気づけば、日一日が楽しい限りである。かくして男も女房もその肉体は宇宙の時間の経過とともに徐々に朽ちてゆく。そしてやがて土に還る。男も女房も日々死支度をしながら生きている。

2012年6月16日土曜日


金婚式の青森旅行(20120616)

 男は30数年ほど前、一家4人で2年半あまり青森に住んでいたことがあった。その後何度か青森に観光で訪れたことがあった。奥入瀬にも何度か訪れたことがあったが車で移動するとか、観光スポットの石ヶ堂という場所周辺を散策する程度であった。

 この4月に結婚50周年ということもあってまた青森に旅行しようと考えていたが、いろいろ雑事があって時期を失していた。たまたま女房がテレビか何かで奥入瀬渓流ホテルのことを知り、観光雑誌を買ってきてそのホテルの案内を知り、是非其処に泊まりたいと思っていた。そういう矢先幸運なことに、阪急交通社がそのホテルと往復新幹線をパックにしたメニューを新聞に広告していた。「それに申し込もう!」と意見が一致、直ちにインターネットで申し込んだ。23日で中一日は自由行動である。勿論その他の日も新幹線の座席とホテルの部屋が予め指定されているというだけで、その他は全く自由である。「団体」というスケールメリットで旅行費用が安く提供されているだけで、中身は個人で旅行する場合と変わらない。せいぜい割り当てられる部屋が渓流側でないという程度である。男と女房の部屋は新館の最上階(4階)の端の方で山と木立に面した静かな部屋であった。勿論団体客以外の泊り客もあり、提供される食事は同じバイキング方式で、その内容も十分満足できるものである。

初日午後遅く、そのホテルが運行するシャトルバスで観光スポット石ヶ堂に行き、次に迎えに来る時間まで渓流を遡る散策を楽しんだ。歩いている人は殆ど居ず、二人は十分静かで平和な散策を楽しむことができた。
 
次の日、また同じシャトルバスで石ヶ堂まで行く途中、運転手さんのアドバイスで途中下車し、石ヶ堂まで渓流伝いに歩いた。これはまた素晴らしかった。原生林と現生のシダ類の森の中を歩く人はまばらで殆ど男と女房だけしかいないような状態であった。「恐竜がウォーっと出てきそうだね」と口にしたほど現実離れし、太古の昔の世界に飛び込んだような感覚になる。

石ヶ堂の観光施設の前にJRバスの停留所がある。そこからバスに乗って十和田湖畔の子の口まで行った。其処から遊覧船に乗り休屋までの風景を楽しみ、以前何度も訪れたことがあった休屋周辺を散策した後バスで子の口まで戻り、其処から奥入瀬渓流の傍の小道を下る石ヶ堂までの4時間ほどのウオーキングをした。途中公衆トイレは一か所しかない。そこで用足しをしないと途中で大変なことになる。この下りの散策を楽しんだのは男と女房の二人だけであった。梅雨時期の渓流散策はまた特別な趣がある。雨具は必要なかった。

そのホテルの渓流沿いの庭も森の中を歩くような雰囲気である。男と女房は朝食の前、この庭を散策した。庭では申し込んだ人だけプラス2千円の費用で屋外の朝食を楽しめるコーナーがある。梅雨時期であるので今回この朝食は申し込まなかったが、3、4組の申込者があったようで、従業員たちがその準備をしていた。次回は是非申し込もうと思う。

 特記すべきこととしてそのホテルの温泉の一つに車で送迎される露天風呂がある。そこでは専用の着衣で男女混浴である。夜8時の送迎車でその温泉に行ったのであるが、他に利用客は居ず、男と女房二人だけの専用であった。その温泉には係りの者は居ず、送迎車の運転手が客を送った後、次に迎えに来るまでの間、犯罪防止のため入口に鍵をかける。

二人の専用といえば十和田湖遊覧船もそうであった。子の口から休屋まで遊覧船の客は男と女房以外、一人旅の老人だけだった。申し訳ないので船内の店でコーヒーを注文した。その老人は船内の店の女性店員と会話を楽しんでいた。
 
青森を観光するにもマイカーでなければ十分楽しめないだろう、という先入観があった。今回の旅行で奥入瀬を歩くだけでは何か物足りない。出来ればハイヤーでも雇ってスポットに立ち寄りながら八甲田までゆきロープウエイに乗って山頂にも行きたいと考えていた。ところがそれは全くの杞憂であった。今回経験して初めて分かったことであるが、青森旅行は車が無くても十分楽しめる。公共の交通機関が発達しているのである。料金はそれなりに高いと感じたがJRバス路線網が発達していて方々に行くことができるようになっている。八甲田は梅雨時期視界が悪いので今回は登らなかった。

 奥入瀬渓流ホテルが経営しているらしいが、そのホテルから離れていない焼山停留所の前に「道の駅」がある。其処で沢山の地産の土産品を買ってわが家まで宅急便で送ったが、其処の店員のおばさんに「ここは交通の便がよいねえ。これならこれからちょくちょく来ますよ」と言ったら、その女性は「都会から来た人はそうおっしゃるんですが、地元の人たちは“不便だ、不便だ”と言っているんですよ」と言う。都会では交通機関は人に合わせて運行されるが、田舎では人が交通機関に合わせなければならないという感覚である。

JRバスの運行時間を確認してそれをうまく利用すれば、奥入瀬・十和田・八甲田・青森・八戸などの観光を十分楽しむことができる。男も女房もその便利さを今まで全く知らなかった。これからは新幹線を利用し、奥入瀬渓流ホテルなどリゾートホテルに泊まり、今回できなかった観光を楽しみたいと思う。秋の紅葉は非常に素晴らしいと思う。是非、この秋にはまた奥入瀬を訪れたいと思う。紅葉の時期は10月下旬から11月上旬であるという。このホテルは12月から翌年の3月までは閉鎖されるという。

2012年5月13日日曜日


母の日(20120513)

 今日は「母の日」、そして日曜日、おまけに上空に寒気が入り込んでいるらしく湿度も低く温暖な晴れの日である。川べりを散歩している人、ジョギングしている人、ベンチに腰かけて川を眺めている人などそれぞれにこの平和な休日を楽しんでいる。

 すれ違う40代ぐらいの二人ずれを見、広場で子供たちの野球の練習を指導している人たちを見て自分がかつてその人たちと同じような年代のころのことを思い出す。「みんな通って来た道だ」とつぶやく。水辺の風景を眺めながら歩いているとき自分の過去を振り返り、「表沙汰にならず済んだようなことが幾たびかあった恥多き人生だったな、幸運にも大事故にならずに済んだようなひやり運転も幾たびかあったな、無明のうちに人の子の親となり、女房が必死の思いで育て上げてくれたお蔭で素晴らしい子供たちに恵まれ人生だったな、俺は生かされてきたのだ」と思った。先日75歳になった男にとって、母の日は老いた女房への感謝といたわりを示す日でもある。しかし何か特別なことをするわけでもない。女房は「父の日と母の日を一緒にしましょう」という。「そうだな、予定どおり月末青森に行こう」と男、「お父さんの腰が治ってからよ」と女房、「もう大丈夫だよ」と男。

 男が1時間半ほどして散歩から帰ってきた後間もなく女房も買い物から戻ってきた。「新鮮なマグロのトロのお刺身があったの、母の日だからお昼はお寿司にするわ」と早速支度にとりかった。お米は買い物に出かける前電気がまのスイッチを入れていて、田舎から送られてきたコシヒカリの美味しそうな匂いがしていた。女房は炊き立てのご飯をすし桶に入れ、自分で合わせた寿司の酢を入れてかき混ぜ、団扇で扇いでいる。男はそれを手伝っている間に女房はシジミ貝の味噌汁を作ったり手巻き寿司用のノリを火であぶって半分の大きさに切ったりしている。男はいつも感心しているが、女房が合わせる寿司の塩梅は最高である。こうして夫婦二人だけで手巻き寿司を食べるのは最高の贅沢である。寿司職人が握る寿司はそれなりに美味しいが、こうして自宅で新鮮な魚と高級なノリの手巻き寿司には及ばないと男は思っている。

 ついでながら男の家では良く天ぷらを揚げる。それも食卓の上に電気式のてんぷらなべを置いて、玉ねぎとニンジンのかき揚げやたらの芽など山野で取れる食材を自分で揚げてその場で食べる。これまた格別である。使う油は新品だし、かき揚げは大して衣をつけずにやや高温で揚げる。格別美味しく、大変贅沢である。大して金もかからない。

 今年の母の日には、男は女房のために花を買って来なかった。その代り、女房が撮った花の写真を飾るのを手伝った。保存フォルダーから女房が気に入っている写真を取り出してA4や2Lなどのサイズで印刷してやったり、花の写真を入れる額を壁に取り付けられるようにしてやった。女房が撮った花の写真には展覧会に出してもよいほど出来の良い写真がある。男から女房への最高のプレゼントは、女房が撮った花の写真をカレンダーにしてやったことである。これは女房70歳の記念に子供たちや親族に配るため作ったものであった。勿論コピー印刷専門の店でカレンダーに仕上げて貰ったが・・・。

2012年4月10日火曜日


衣替え(20120410)

 今日も天気が良い。二人暮らしなのに毎日洗濯ものが多い。というのは男の家では衣類も寝具も頻繁に洗濯するからである。このところ気温が上がり就寝中汗をかくようになった。男はいわゆる「加齢臭」を気にしていて毎朝シャワーを浴び胸や背中の皮脂を洗い流し、下着も取り替えるのであるが、今朝からはこれまで二晩着たら洗っていたパジャマも毎日取り換えることにした。今日は天気も良く、強い風に乗ってくる花粉の量もひと頃より減り、二人とも遠くには出かける予定はない。午後遅い時間にちょっと遠出のウオーキングに出かけるだけなので洗濯ものの取り込みのことについて心配する必要はない。そこでシーツ・枕カバー・布団カバー、クリーニングに出さずに自宅で洗濯できる冬ものの化繊衣料などを一挙に洗濯する。こういう次第で家での洗濯物が特別多いのである。

 純毛製品や高価、といっても庶民が着る物は高が知れているが男や女房にとっては高価なブランド品を沢山クリーニングに出した。女房のものも含めてコート3着、ベスト3着、セーター2着、カジュアル背広上下1着、シャツ2枚、マフラー2本など出して、クリーニング店会員特典20%割引があって1万円ほど支払った。クリーニングに出したものの中にはこの年に2度しか着なかったコートや背広などが含まれている。現役でない男はそれらを普段着ることはないが、現役の頃の勤め先のOB・OG会のときなどに取り出して着る。二度しか着ないのでクリーニングに出すのは勿体ないという気はしないでもないが、それらを綺麗に洗濯しておけば夏の蒸し暑いときに雑菌が繁殖する心配もないし、害虫の被害に遭うことはないだろう。第一不潔な臭いを元から断ち切ることもできる。それは費用の問題ではないのである。毎年こういうことを繰り返しながら時は過ぎてゆく。

 今日は男と女房が大分のある料亭で祝言を挙げて50年目になる。いわゆる金婚式という行事を行うべき日である。男と女房はそのことを二人の息子たちには伝えてなかった。第一これまで毎年結婚記念日など意識してこなかったから、息子たちも全く関心をもっていなかった。ところがふとした話の端々からその話が嫁たちに伝わってしまった。息子たちから何か言ってくるだろうと思うが、男と女房は50周年を祝うため、今週末九州の田舎に母の介護のことで帰ったついでに長崎・平戸辺りの旅行をしてくることにしている。

 午後一段落ついて男は女房と一緒にウオーキングに出かけた。目的地は県立三ッ池公園である。其処は毎年桜の時期なると多くの人々がやって来る。今日は観光バスが3台来ていた。男と女房はその公園に四季折々の花を観、運動も兼ねて度々その公園を訪れている。「三ッ池」とは文字通り光3つの池があるからそう呼ばれる。江戸時代其処は農業用水の溜池が3つあったところである。其処からやや離れた場所に「2つ池」がある。其処も同様に農業用の溜池が2つ連なっているところである。

 3つ池公園ではソメイヨシノやオオノザクラや緋桜などが咲き誇っていた。桜の花びらも散り始めて時に雪が舞い降りるようである。柳の枝に緑の小葉が付いていて風に揺られている。その柳の下の池には「花筏」が出来始めている。丁度180度いっぱいの視界で満開の枝垂桜やその他の桜を眺めることができるベンチが一つ空いていたので男と女房は其処に座り、花を愛でながら持参した菓子やみかんを食べた。女房が枝垂桜の写真を撮りに行っている間、男は10メートルばかり先の小道を行き交う人びとや56人の高齢の男たちが脇でたむろして談笑している様子を眺めながら、「こういう風景や人々の身なり・容貌などこそ違うが江戸時代の花見客もこのようなものであっただろう」などと想像した。

 公園内をゆっくりした足取りで一周しているとき、すぐ近くの桜の木の花の陰から鶯の鳴き声がした。その鳴き声は数回聞こえた。満開の花びらの陰にその鶯が居ないかどうか目を凝らして探してみたが、遂にその鳥を見つけ出すことはできなかった。もともと鶯は見つけにくい小鳥である。花が散り、葉が茂ると見つけ出すことは一層困難になるだろう。

 新聞に徳川将軍家の代々の正室の頭蓋骨の特徴について報じられていた。男は人の限りある一生のことを思い、歴代徳川将軍の正室たちが生きている間の様子をあれこれ想像した。想像力を働かせると意識は遠い過去に遡ることができるし、ずっと先の未来にまで伸ばすこともできる。「想像力」はヒトという生物にだけ備わっている能力である。チンパンジーの「アイ」ちゃんは学習成果として相当な知的能力を備えているが、「想像力」はないようである。遺伝子が僅か1%しか違わなくても、チンパンジーとヒトとはそこが違う。

 男と女房は結婚50周年という特別な日を確かめ合うため、夕食は「トレッサ横浜」のレストラン街にある中華料理屋で取った。静かな店内で男と女房はテーブルを挟んで向き合って、連れ添って50年経過したお互いの顔を眺め合った。男は心の中で「俺は無明のうちに良い伴侶を得、ここまで生かされてきたのだ」とつくづく思った。男も女房もいずれそう遠くない未来には白骨となる。その前に為すべきことを成し遂げておかなければならない。男は結婚50周年という節目にその思いを一層強くした。プライオリティを第一に考え、残されている限られた時間内に、自分が為すべきことを集中的に為さねばならぬ。その思いを新たにした。

2012年4月5日木曜日


男と女房の幸せな日々のひとこま(20120405)

 昨日の朝食時、女房に「今日お天気が良いから千鳥ヶ淵に桜を観に行かないか」と誘ったが、女房は午前中昼前いつものとおり近くの女性専用フィットネスクラブ「カーヴス」に運動をしに行くし、まだ東京の桜は満開ではないと思っているので断られた。

 放送大学から講座の資料が送られてきている。男は去年、『グローバリゼーションの人類学』という専攻とは関係がない科目を執っていたが、通信添削のレポートも出さず放置してあった。今年は気持ちを入れ替え放送大学の勉強をしようと思う。

いい歳をしてこの日本国の再生のためフェイスブックやこのブログで日中・日韓の間の問題解決の為少しでも役立ちたいと考え、入手した情報や自分の考え方などを積極的に発信してきたが、そのため多くの時間とエネルギーを費やしてきた。自分がやっておかなければならぬと思うことはほぼ終えたと思うのでこれからは再入学している放送大学の専攻で卒業するつもりで勉強し、また精神の充電もしようと思う。

 そこで早速、放送大学のインターネット番組配信のページにアクセスし、上記科目の講義を視聴した。その結果をもとにまたもやフェイスブックの自分のノートに記事を書いて投稿した。「人は群れると争う」ということは日中・日韓関係でも言えることである。マクルーハンの「どんな家族でもひとつの屋根の下に置かれたら、同じ都市の何千もの家族以上に多くの相違と少ない講和に悩まされる」という言葉は、鳩山元首相や自民党谷垣総裁・加藤氏ら理想主義者によく知ってほしい言葉である。東アジア共同体なんてとんでもない。

 昨日の午後はお天気がよかったので運動を兼ねて女房と一緒に近くの「市民の森」などを散策し、1万歩ほど歩いた。左大腿部の異常は鼠蹊部の運動不足で血流・リンパ液流が悪かったり、神経を圧迫したりしているせいであることは分かっている。徐々に問題解消・体調の回復を進め、かつての若々しさを取り戻さねばならぬと思う。

 今朝も起床前十分なストレッチ運動を行った。左大腿部の異常は殆ど感じられなくなりつつある。今日もお天気が良い。そこで女房が一人で行くつもりであった横浜線橋本の「かたくりの里」に一緒に出掛けた。女房は以前、10数年も前、友達と一緒に其処に行ったことがあり、そのとき撮ったかたくりの写真は去年の女房の「花ごよみ」に編集して入れてある。男は其処に一度も行ったことが無かったので是非一度其処に行ってみたいと思っていた。男は女房と一緒に行ってやって良かったと思っている。

 橋本駅を出たら町の様子がすっかり変わってしまっている。女房は以前橋本駅から往復あるいて「かたくりの里」まで行っていた。ところが町の様子がすっかりモダンになっているので勝手が違っていた。警備員に道を尋ねたら「歩くと1時間以上かかります。其処まで往復のバスが出ていますのでそれを利用されることをお勧めします」という。女房は「あのとき歩いて行ってもそんなに遠いとは思わなかったのに」と言いながら、警備員のアドバイスに従うことにした。

 バスは定刻00分と30分の1位時間に2回だけ運行されている。15分ほど列に並んでバスに乗って座席に座ることができた。しかし、列の後ろの人たちが余りにも多い。バスはぎゅうぎゅう詰めで出発した。はみだして乗れないひとも2、3人居た。

 「かたくりの里」は入場料が500円であった。其処にはかたくりが沢山花をつけていた。男も女房も出来るだけよい写真を撮ろうと真剣にデジカメを構え、シャッターを切った。其処は鶯の鳴き声もしばしば聞こえ、非常に癒される場所であった。備え付けのベンチに座りしばしのんびりした風景を楽しみ、至福の時間を過ごした。バスに乗る前、その停留所の前のスーパー「イオン」で子供用のビスケットをひと箱買って行ったが、最初に座ったベンチに腰を掛けたとき、その「かたくりの里」のオーナーの奥さんを中心としたたち一行のメンバーと会話をしたことがきっかけで、その菓子を皆に分けてあげて喜ばれた。

 帰りは女房の遠い記憶をたよりに、橋本駅までの道を聞きながら橋本駅まで1時間あまり歩いた。「とても遠いです。1時間以上かかります。バスを利用されることをお勧めします」と言ってくれるが、その方々は歩くことに慣れていないのだ。男も女房も歩きなれている。歩きながら目に入るものを楽しんだ。心地よく歩いて駅ビルに着に辿り着き、駅ビル内の和食レストランで遅い昼食を取った。其処は茅ヶ崎に本店がある和食の店で、値段が1200円ほどの刺身とエビ2匹他の天ぷら定食は非常に上等であった。店内は大変落ち着いた雰囲気であり、リラックスできて大満足であった。

 総歩数12千歩余り、家について一息ついてお茶を入れ、橋本駅近くの「名物酒まんじゅう」と看板が出ている店で買った酒まんじゅうを蒸かして食べた。男の左大腿部の異常は殆ど解消している。やはり運動不足であったのだ。

 かくして男と女房の今日のメインイベントは終わった。女房は放送大学の授業を聴いている。男もこの後わが家の火災・地震保険払込みをインターネットで行う作業の準備などした後、昨日に引き続き『グローバリゼーションの人類学』の勉強をしよう。

2011年12月22日木曜日

スマートフォン(20111222)

 男はヤマダ電機という大型家電量販店には、実は宛名ラベルの印刷用紙を買いに行ったのであるが、この店に来る度に立ち寄っていたスマートフォンのコーナーにまた立ち寄ってしまった。男のこころの片隅に今流行りのスマートフォンとやらを手にいれたいという願望があった。

 お昼前というのにここに来る前、おやつに女房が作ってくれた田舎から昨日送られてきた杵つき餅入りのお汁粉を頂いていたので、はらは空かない。女房は女房で自分が何年もかけて撮った花の写真のカレンダーをあちこち送ったり、田舎から送られて来た餅などを息子たちのおすそ分けして送ってやる準備をしたりで忙しくしている。かねがね女房は男に「お父さんもスマートフォンを買ったら」と勧めてくれていたこともあったので、「よし、買おうか」という気になって、展示してある沢山ある機種の中からauの機種を手にし、自分のブログやフェイスブックをパスワードを入力してページを開いてみた。詩吟の吟詠もちゃんと自分の吟詠の音声が聞こえてくる。男と女房はauを好んでいる。

 別の客に応対していた売り子の女性に「後でこちらに来て下さい」と言って、プライバシーを守るため手にしていた機種の開いたページの履歴を消すためあれこれタッチしたりしているうちに、件の売り子の女性が来た。シャープやソニーの機種を調べ、ソニー製のものに決めていた。しかしシャープの方が月間経費も安いのでそれに変えようと思い、展示棚に戻った。そこで目についたのが今日買ってしまった富士通のARROWS Z 1SW11Fという最新の機種である。女房はかねがねどうせ買うならばそのときの一番良いものを買うようにと老人に口酸っぱく言ってきて、これまでそうしてきて、コンピュータや携帯電話にはかなりの金をつぎ込んできた。

 この機種は女房が持っているiPadを外に持ち歩くとき非常に便利である。というのは、この機種だとBluetoothという無線機能がついていて、このスマートフォンさえあればiPad用の無線装置を持ち歩かなくても良いということである。「ことである」というのは、男はまだこの機種のことを良く知らず、売り子の言っていることをそのまま受けているだけであるからである。しかしこの機種は実に良さそうだ。

 男と女房は暮には田舎の家に帰り、10日間近く其処に滞在する。田舎の家は幹線道路からちょっと引っ込んだところにあり、幹線道路沿いに引かれているADSLの恩恵を受けていて、中継局も近いため100Mbpsという高速ブロードバンドのインターネットができるようにしている。パソコンも一台置いている。パソコンがないとiPadやこのBluetooth付きスマートフォンだけでは、吟詠の吹き込みができないなどあって不便である。贅沢だが吟詠も投稿しているし、ブログ記事も沢山書いているし、ときどきはサンディエゴの友と話すためSkypeも使っているので、どうしてもパソコンが必要である。女房はiPadをかなり自由自在に使いこなせるようになったし、今年の年末年始の期間は田舎に居ても都会にいるのとは変わらないほど情報にアクセスできる。それがまた楽しみである。

2011年12月18日日曜日

女房が作ったカレンダー(2011218)

 このレンダーは女房が10年ぐらい前から撮り続けた花や風景の写真を使った月めくりカレンダーである。花の写真の選択とか構成などは女房が行い、コピー用原稿の製作は私が行ったものである。A4サイズ横置きのワード入力画面に挿入した月々の花の写真の下は同じA4サイズのその月の暦が続く。月をめくると次の月の花、その下にその月の暦、という具合である。暦はインターネットから無料でダウンロードしたものである。

 花は桜やツツジなど木の花でなく草の花である。ただ2月だけは蝋梅である。1月は牡丹で写真の下に「1月 牡丹(2009年 鎌倉・八幡宮)」という風に名前を入れてある。表紙は女房が「○○(女房の名前)の花ごよみ」と名付けた。それはウインドウズに付属のアプリケーションであるワードアートを使った。下地の写真はだいだい色のあでやかな形をしたチューリップが一面に咲き乱れている畑の写真である。どの写真も非常によく撮れていてプロ級の写真のようである。

 表紙の裏にちょっとあでやかな模様の菖蒲の花を接写したもので花弁に露があり新鮮な感じの写真を配置してある。その下に同じA4サイズで女房が書いた挨拶文がある。これは女房の手書き原稿を元に私がワードで作成した。挨拶文は「私は今春おかげさまで、古希を迎えることができました」という書き出しで、二人の息子たち、嫁たち、また夫である私への感謝の言葉などが述べられている。そして「さて、二人の息子たちがそれぞれ大学を卒業し、それぞれ就職し、我が家から巣立って行ったとき、私の責任も大分終ったと思いました。そして、これからの自分の人生をどのように過ごすべきか、と考えました」という書き出しで、子育てがようやく終わった後の女房の生きざまが述べられている。

 裏表紙には、初め女房は反対していたが、「風景・自然」というタイトルで皇居東御苑の秋の風景を中心に私と女房ツーショットの小さな写真を配置した。一番古いのは13年前、沖縄九島巡りの旅で照国島のサンゴの砂浜に裸足で立っているものである。

 厚手A3サイズの用紙に裏表両面コピーして中とじのカレンダーをつくるため、原稿をこちらが用意してコピー専門の業者を訪ねてカレンダー製作を依頼した。女房と二人でその作業現場にいて、裏表の配置が間違わないようにコピーを確認しながら作業を行った。時間が遅かったので今日はとりあえずコピーのみ終え、製本作業は週明け行う。これは業者に任せた。10部作成を依頼したので数万円はかかるだろう。

 実は花のカレンダーを作りたいというのは女房の数年来の願望であった。良い写真が集まらなかったため、今年までその実現は延び延びになっていた。今年女房も古希を迎えたのがきっかけで立派な手作りカレンダーを作成することができた。カレンダーは息子たちや親戚・弟妹に配るほか、女房の友達に配られる。わが家には原稿をそのまま貼り合わせたものを残す。写真は原稿の方がコピーのものよりずっと綺麗である。

 私もこれまで長年連れ添ってきた女房への感謝の気持ちをこめて、一生懸命、できるだけ丁寧に原稿を仕上げた。私とそう年齢は離れていないように見えるそのコピー業者も、親切に真心をこめて仕事を進めてくれた。奇しくも18日は私の生母の命日である。

2011年6月6日月曜日

真っ赤な大きな沈む太陽(20110606)

 昨日も夕方になって里山の農道を散歩した。一日たつと稲作を終えた水田が多くなった。農道の両側の田圃でしきりに蛙が鳴いている。近づくとその鳴き声はぱっと止む。確かにここで鳴いていたと思うが蛙の姿は見つけられない。女房は「お昼だと姿は分かるが夜は暗いので見つけられない」とつぶやく。

 それでも赤べこと読んでいたいもりが何匹も水の中で這いつくばっているのがわかる。ちっと離れた田圃に青鷺が4、5羽居る。彼らはいもりや蛙などを見つけて食べるのだろう。ホタルはまだ出ていない。きっとこのあたりにはホタルが生息しているはずである。

今の時代の稲作は機械で行い、薬剤を入れて稲以外の草を枯らし、農薬を散布し稲の葉を食べる害虫を殺す。男が子供の頃の稲作とは全く違う。しかし稲の田圃が一面に広がり、水量が豊富な農水路が縦横に沢山あるこの地帯は、男が子供であった頃の風景と似ている。男が子供の頃、遠くの寺や神社が見通せた田園地帯はすっかり市街化されて昔の面影は全く無くなっているが、ここにはその頃の風景がある。

 男は女房に「お前は来世ではきっと素晴らしい人生になると思うよ」と言ったら、女房は「今の人生でも素晴らしいわよ」と言う。男は「これからは此処で花を育てるとか、花を観て回るとか、花の絵を描くとか、写真を撮って後でテレビに映し出して観賞するとか、これからこの地で楽しい思い出を沢山作ろう」と女房に提案した。女房はその提案を否定しなかったが「私が撮るのは風景でなくて花の写真だよ」と男にくぎを刺した。

そう話しているうちに家々がある一角まで歩いてきた。もう8時近くになっているのに灯りが点っている家は殆どない。ある家の庭で一台の小型トラックがあり、荷台の上で女性が水で荷台を洗浄している。女房が「これからご飯をつくるのだろうか」と言う。男は「多分誰かがご飯を作っていると思うよ」と言う。農家はこの時期朝から晩まで大変忙しい。男と女房はあたかも働く人たちの目を避けるように、こうして夜道を歩いている。そのつもりではないのだが、たまたま夕方になって運動のため散歩に出かけたのである。

農水路を挟んで小さな橋がかかっているところに、「カメラスポット」と書かれた看板が立っている。女房は「何だろうか」と言う。男は「さっき大きな夕日が沈むのを見たよね、ここは多分その入り日を観る絶好の場所ではないのかな」と言う。女房は「そうだよね、きっとそれに違いない」と納得した。雨上がりのもやがかかった盆地の山に沈む太陽はこれまで見たこともないような大きいな丸い真っ赤な太陽だった。雲一つない夕空の、黒い山並みの彼方に沈む真っ赤な大きな太陽はこの地でしか見ることができないだろうと思う。

 頼山陽は『日出る処』という作詞で「日出る処、日没する処」と詠った。日出る国では今一国の太政大臣に対し「辞めろ、辞めろ」の声が日に日に高まって来ている。日没する処の国ではその様子をじっと注視していることだろう。その国の恰幅の良い大男の将軍は、日出る国の、内心腸煮えくり返る気持ちでいる兵士たちの歯ぎしりを横目で見ながら、日出る国に対して次の一手を考えているかのように見える。

2011年6月3日金曜日

黄昏時の散歩 (20110603)

 たまにこの家に帰ってくるといろいろしなければならないことが多い。風呂の水栓の鎖が駄目になったので新しい丈夫な鎖を買ってきて取りつけたり、居間の蛍光灯が駄目になったのでグローランプと一緒に新しい物と取り換えたり、台所の換気扇が駄目になったので新しい物と取り換えたり、短い滞在期間内に男は精力的に働き回っている。そんな一日を送った日の夕方、ケアマネージャーのAさん帰宅途中立ち寄ってくれた。母の介護のことで女房といろいろと話し合っている。

 夕食を終えた後女房が「散歩しよう」という。今の時期夕日が沈むのは遅い。男と女房は黄昏時に水路に沿った小道を歩いた。初めは舗装された道であったがそのうち昔ながらの自然の道になった。「蛇が出てきそう」と女房はその先に進むのを嫌がったが男は「大丈夫だよ、人が歩けば蛇の方から逃げるさ」と言って草も生えているその道を進んだ。

 道の下の幅2メートルほどの水路は勢いよく流れている。「危ないね、落ちたら流されてしまいそう」と言う。男は「大丈夫だよ、この辺の子供は慣れているさ」と言いながら自分が子供の頃そのような水路で遊んでいたことを想い出していた。男は子供の頃夕食が終って汗を流すため流れが結構早い用水路に入り流れに沿って平泳ぎで下ったものである。時々上流から蛇が首を上げてくねくねこちらに向かって泳いでくることもあった。

 水を張った田圃で蛙がしきりに鳴いている。鳴いている蛙を見つけようと傍によって見るのだが見つからない。昔男が子供の頃やったことがあったように土をこねあげて作ったあぜが出来ていて水を引く準備が出来ている田圃がある。見るとその田圃の一部に鍬を入れたあとがある。其処はこれから耕運機を入れる準備が出来ている田圃だろう。田圃の間の道をかなり歩くと家が5、6軒ある集落に着いた。まるでお城の石垣のように大きな石を積んだ高台に瓦ぶきの大きな立派な家が建っている。石垣の角は緩やかな曲線になっていてまるで史跡の石垣のようである。石には苔が生えていて如何にも古い石垣のようである。しかしその石垣には地下水を逃がす樹脂製のパイプが規則的に配置されている。このことからその石垣は古くないことが分かる。多分この家は古い旧家の資産家なのだろう。

 その石垣の下の道を通り山の方に向かう。遠くにお寺が見える。其処は男の亡父の墓がある寺である。其処まで行くと日が暮れて暗くなってしまいそうなので途中で右折し帰路につく。途中でどうも農家の人でない人が家庭農園としているらしい一角がある。トマトを2、3本、茄子を2,3本と幾つかの種類の野菜の苗を植えてある。その一角のすぐ下は幅1メートルくらいの水路で水が勢いよく流れている。男は「これは多分町営住宅などに住んでいる人が作っていると思うよ。水はつるべで汲み上げて撒くのだろう」と言うと、女房は「水の勢いで落としたつるべに引っ張られて落ちてしまいそう」と言う。男はそうかもしれないな、俺は大丈夫だが、と思った。

 赤い夕陽が山陰にまさに沈もうとしている。夕暮れの農道を歩きながら、男は「この風景は俺の原風景だ」と言ったら、女房も「私の原風景も同じよ」と言った。

2011年6月1日水曜日

蓮華草の田圃(20110601)

 男というものは自分の子供の頃があることを別に置いて、年老いた愛する妻の子供の頃のことを想像して一層その妻のことを愛おしく思うものなのかもしれない。男は子供の頃家に農耕用の牛を飼っていたので、竹で編んだ篭を背負ってその牛の餌にする草を刈りに出かけていたものである。女房も子供の頃同じようなことをしていたという。

 昨日は快晴で温暖な日であった。男と女房は道の両脇にのどかな里山の田園が広がっている舗装された農道をゆっくり散歩した。丁度田植えの時期であり、あちこちで小型トラクターがゆっくり移動しながら水が張った田圃を耕している。男はそのような農業用の自動機械を操作した経験がないので、農家の人がトラクターに乗って田圃を耕す様子を見て農家の人たちは凄いなと思った。人生に‘もし’はないが、もし自分が若い時から農業に従事していたなら、自分もその人と同じようなことをしていることだろうと思った。

 村に入るとその道路わきに牛が10頭ぐらい飼われている牛小屋があった。牛たちがこちらを向いている。男の呼びかけに牛が応えることを若干期待しながら、男は牛に向かって「ンもー」と言ってみた。ふと原発被害に遭っている福島の農家の人たちのことを思った。避難を余儀なくされている人たちはこのような牛を見殺しにしなければならなかったのである。「本当に可哀そうだよね」と、ぽつんと女房がつぶやいた。農業の経験も無く都会暮らしをしてきた政治家たちに避難した農家の人たちの心の痛みがわかるだろうか。

 4歳の時以来男の家の後妻に入った母親と別れ、大家族の末娘っ子のように可愛がられて育った女房は「わたし学校から帰ってくると裏のCちゃんと一緒に篭にかまとみかん一つ入れて田圃に生えていた蓮華草を刈りに行っていたわ。Cちゃんは学年が二つ上だった。蓮華の花がいっぱい咲いている田圃を見つけてその中に入り、しゃがみこんで草を刈ったものよ。疲れてくると‘みかんを食べよう’と言って一緒にみかんを食べていた。あの頃、田圃の蓮華草は自然に茂っていると思っていたわ。あれは田圃の肥料にするため農家の人が種を蒔くんだって。この間叔母さんがそう言ってた」と昔の思い出を語る。その頃男の父親は教職に復帰して汽車で3時間ぐらいかかる遠方に赴任して行っていたため、家には父親も継母もいなかった。子供の頃の男と弟は祖父母に育てられていたのである。

そういうわけで男も子供の頃女房と同じようなことをしていた。蓮華草がいっぱい咲いているところでかまを水平に移動させ、刈った後が白っぽく変わるほど綺麗に刈ることを得意がっていた。田圃の持ち主から叱られたことはなかった。時には同じ村の友達とその田圃で野球ごっこをして遊んでいた。自分にもそのような頃があったことを脇において、女房が自分の子供の頃のことを語るのを聞いて「お前も苦労してきたな」と思う。男は「田圃の持ち主が何も言わなかったのは小さい女の子が二人牛の餌にする蓮華草をちょっとだけ刈り集めたとしても大した量にはならないと思っていたからさ」と女房に言った。多分一人前扱いされる中学生ともなれば「勝手に刈るな!」と怒鳴られたことだろう。

 男は女房と二人で里山の田園風景の中を散歩しながら、自分の人生を振り返っていた。

2011年5月31日火曜日

20110531アザミの花


 午後母は退院した。昨日「明日午後2時に退院だよ。」と母に言って、しばらくしてから「退院はいつ?」と聞いてみた。母はすぐ忘れていて「朝10時。」ととんちんかんな答えをしていた。今日迎えに行って「朝ごはんは何だった?」と聞いたら「ご飯とみそ汁と、・・と。」と答える。「お昼ご飯のおかずは何だった?」と聞けば幾つかの品をあげて答える。男はそれが正確な答えかどうかは実際のメニューを予め調べていなかったのでわからない。しかし母の記憶の状況は薬のせいかしっかりしているようである。

 K先生は「(母の認知症の症状は)良かったり悪かったりしますよ」と言う。まだらボケで良かったり悪かったりしながら、母のアルツハイマー性認知症は確実に進行して行くのだろうと思う。母の症状はまだ発症初期の段階である。

 昨夜テレビで森重久弥と高峰秀子が演じる『恍惚の人』が放映されているのをたまたま見た。偶然と言えば偶然である。しかしこれは男と女房がこの映画をテレビで見るべくして見た‘必然’だったのだろうと男は思う。女房は腹を抱えて笑いこけている。森重久弥演じる痴呆老人は「もし、もし」とつぶやいて相手とコミュニケーションをとっている。この老人はいろいろ問題行動を起こすが、高峰秀子演じる嫁を「お母さん」と読んで甘えている。可愛さがある。一般に男が痴呆になったら可愛さが出てくるのではないかと思う。

 母は今日午後2時に退院する。そこで男は1時間ほど前母が入っていた病室に行き、母に「2時近くになったら来るからね。それまでテレビを見ていなさい。と言って母が寝たままテレビを見ることができるようにしてやった。母はリモートコントロールの操作器のらせんコードが伸びることを理解していず、男がコードを伸ばしてやったら、母はベッドに横たわったままテレビを見ることができることを初めて知ったようだった。
 
 久しぶりに今日は天気がよい。男はK病院を出てK町の中央を流れる川の辺を散歩した。太古の昔火山が噴火したあとに出来たこの盆地の中を流れる川の風景は美しい。男はこの風景が好きである。何度見ても飽きない風景が此処にはある。25分前に母の病室に着き退院の支度をした。病室のすぐ前が看護ステーションである。看護師の女性たちに「お世話になりました。またお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と言うと、今回のようなことは度々起きているので看護師たちはにこにこ笑いながら、「はい」と言う。
 
 母を家に連れて帰ってしばらくして、女房が「散歩に行こう」と言う。二人で農道を散歩した。田圃に引く水路の水が勢いよく音を立てて流れている。小型トラクターで田を耕しているそばに何羽もの鳶が動き回っている。彼らの狙いは田を耕すと現れる小動物である。一羽が何か捕えてすぐ舞い上がった。女房は「ほら、見て!」声をあげている。

 道端の水路の脇にアザミが沢山紫色の美しい花を付けている。女房が一つ二つ手折って「綺麗!」と歓声を上げている。男は「俺が取ってやろう」と言うと、「とげがあって痛いわよ」と遠慮している。男は勢いよく4つ、5つ手折って女房に渡してやった。その花はコップに活けられて、女房が立つ台所の水道口のところに飾られていた。

2011年5月28日土曜日

別府に遊ぶ(20110528)

 別府は昔から湯の町であり、色町であった。流川通りは現在舗装された公道になっているが、昔は文字通り川で川の両側に温泉宿が立ち並び艶っぽい風情があったそうである。昔の川は公道の下に埋められた管路の中を流れているという。

 男の生母は別府で生まれ育った。生母の祖先は江戸時代K藩の藩士として奉行職を務めていたが、明治維新後別府に移り住み宝石店を営んでいた。男自身戦前の幼少時から戦後の少年時代にかけて別府とのかかわりがあり、男は別府にある種の懐かしさを感じている。

 母が入院した知らせを受けて男と女房は急きょ母が独り暮らしをするK町の家に帰ってきた。帰って来たときは家の内外のことでいろいろすることが多く、女房は生来の優しさで老いた母が可哀そうに思い、これまで母のため精一杯尽くしてきた。

女房は母にとって実の娘ながら4歳の時以降母と一緒に暮らしてはいず、どういうわけか母自身も女房のことを自分の娘と言うよりは、自分の面倒をよく見てくれる、ある意味では自分の家の家政婦のようである。女房は高校2年のとき男の家の養女となり、戸籍上では男と兄妹の関係にあった。そのころ男は既に社会人として自立した生活をしていたので、女房と一緒に暮らすことはなかった。ある日男の父親が「お前はあれと一緒になれ」と言った。男は素直に「はい」と言って女房と夫婦になった。以来50年近くなる。

 母の前世は御姫様と思われるほどに母は炊事が苦手である。母によれば「私は小さい時から大事にされて育った。家事手伝いなど一切したことがなかった。」という。男の父親にとって母の作った料理は誰にでもできるようなものばかりで、後妻である母の料理を喜んでいた節はなかった。男の父親と母の間に60を過ぎた娘が一人いて遠くに住んでいる。

 一方男の家に来た女房は高校2年の時以来、寒い冬の日でも期末試験があったときでも炊事をさせられていた。お陰で女房は家事一般のベテランになった。女房はこの家に帰ってきたときは母のためこまごまと精一杯働き、気疲れし、体重を減らし、横浜の家に戻ったときはいっぺんにどっと疲れがでてしまうことがたびたびある。

 そこで男は雨天のため渋っていた女房を別府の温泉に連れて行った。泊った宿は別府の老舗Sホテルである。男と女房はツインベッドが二つあり和室も付いている大部屋で12階の見晴らしの良い部屋に泊った。此処は大浴場のほか眺めのよい場所に大きなたらい型の一人専用の露天風呂が45つあり、サウナもある。食事はバイキング方式がおすすめである。料理の種類や質や内容が非常に良かった。スイーツも高級なものがバイキング方式で食べることができた。女房は「お父さんと一緒の誕生祝いだね。」ととても喜んだ。

 高速バスで別府に着いた日、雨の中「うみたまご」という水族館でたっぷり遊んだ。其処は平日で雨天ということもあって入館者が少なかった。男と女房は若い女性が訓練中のゾウアザラシの動きを見て、おかしくて仕方がなく、女房は腹の底から笑っていた。

翌日は観光バスで地獄めぐりをした。この12日の小旅行は男と女房にとって最良の思い出となった。男は女房の一代記を小説にして書いておこうと考えている。

2011年5月10日火曜日

母の日(続き)(20110510)

 男は継母との電話を女房に渡した。電話の向こうで継母がまだなにかしゃべっている。女房がその母に話しかけた。「わたし、風邪をひいてしまったの。熱が出て、咳こんで二晩もよく眠れず、病院通いしていたのよ。」。電話の感度がよく、継母の声が聞こえる。

 女房はここ一週間ばかりの状況を、92歳の年寄りによく理解させるように細々と説明した後、「ごめんね。母の日の贈り物ができなかった。」と謝った。二言三言言葉を交わした後、「わたし、お母さんより先に死ぬかもしれないよ。」と言った。すると母は即座に「それは困る。あんたには私より先に死なんようにしてもらわんと。」と言っていた。

 母が毎週通っているデイサービスの老人施設では、90歳、100歳の年寄りが沢山いるという。母もこの分だと100歳以上長生きするかもしれない。母が100歳のとき、男は82歳、男の妻は78歳にもなる。しかし二人揃って生きているという保証はなない。これは二人揃って生きているという前提であるが、その頃には男と女房は何処か、O県内の老人ホームを終の棲家としてくらしていることだろう。その時には母もK町内の何処かの老人施設に入っていて貰わなければどうにもならぬ年齢になっている。

 女房は育ての親の家の大家族の中で末娘のような立場で育った。10歳年長の叔母は少し齢が離れた姉のような存在であった。ちょっと広めの家に曾祖母、祖父母、その長女である母、その下にその家の長男以下4人の弟たち、2人の妹たち、長男の嫁、そして女房が一緒に暮らしていた。女房と母は、昭和19年アメリカ軍による空襲の最中、一家の大黒柱が病死したため大阪から実家に引き揚げて帰っていた。

 女房の叔父であるその家の長男はN村の旧家から嫁を迎えたばかりであった。その母が男の家に後妻として入った後、その叔父夫婦が、4歳になった女房の親代わりとなった。女房が母の日などに贈り物をする叔母の一人は母親代わりの義理の叔母であり、もう一人は女房の10歳上の姉のような存在であった叔母である。

母親代わりの義理の叔母は大姑、姑、小姑たちのいる中でその長男の嫁は家事百般から農作業まで何もかも良くこなし、その上幼かった女房を自分の子ども同様に可愛がって育ててくれた。あれから65年以上時が過ぎ去り、皆老人になってしまった。

 女房の祖母は、自分の長女を男の家に嫁入りさせた後、幼かった女房を良く可愛がった。大家族の中で一番幼い女の子は、上の食べ盛りの男の子や女の子たちの中で、スイカなどおいしい食べ物を確保するのが遅い。そのことをその祖母はよく見ていて「これはM子のものだよ」と別にしてくれていたという。

 その祖母は婦人会の会長など幾つかの社会的活動の団体の役職についていて人望が厚かった。先に他界した祖父も町内会長や市会議員などを務め、人望が厚かった。その祖母が97歳で他界する前に女房は知らせをきいて帰郷し、死ぬ前の1週間ほどの間、その祖母を良く看とった。それまでの間、女房の義理の叔母が良く看ていた。

 女房が母の日に贈り物をする相手が3か所あるのは以上の事情によるものである。

2011年5月9日月曜日

母の日(20110509)

 母の日はアメリカで行われていた風習を明治末期、日本でも真似るようなり、特に男が生まれた昭和12年(1937年)に、多分、森永製菓が宣伝効果を考えてのことだろうが、毎年第二日曜日を「母の日」としたことがあって、一般にその風習が広まったと言われている。その日は日本国の祝日でもなんでもない。但し、昭和初期から戦後しばらくまでの間は、皇后の誕生日であった36日が「母の日」とされていたという経緯がある。

アメリカの場合は、1905年、フィラデルフィアの一少女が、自分の母親が死んだとき、その日を特別な日として、生前の母親を敬う日とした話を、時の大統領ウイルソンが伝え聞いて、国として毎年5月の第二日曜日を「マザーズ・デイ(母の日)」として祝日にした。

 男は、この日本で、「父の日」とか「バレンタインデー」とか、どこかで勝手に決めた日が、あたかも国として決めた日のごとく、その日にちなんだことが風習化されていることに多少憤慨している。しかし、その日に親子間、恋人間など親しい間柄で何某かの交流が行われることは決して悪いことではないと思っている。

 女房に、二人の息子それぞれの夫婦から「母の日」にそれぞれ贈り物が届いた。男も女房にカーネーションひと束を買ってきてプレゼントした。このように折り目節目に贈り物をされて、女房は喜んでいる。

 女房は毎年母の日に、男の名前で3か所に贈り物をしている。その3か所とは、先ず産みの親、次に育ての親である義理の叔母、そして実の叔母である。ところが今年は体調を崩したためそれが出来なかった。これまで欠かさず毎年行ってきたことが、今年は出来なかった。女房はその3か所に電話を入れ、今年贈り物を出来なかった理由を話した。

 女房の産みの親は男の継母である。その母は今年の夏93歳になる。男はその母に電話を入れた。「お元気ですか?」とゆっくりとした口調で問うと「元気です。いつもありがとうございます。」と丁寧に答えてくれる。続けて「NHKののど自慢をみた?」「誰からからか電話が来た?」「誰か遊びに来た?」などと問うて独り暮らしの状況を確認した。


 母は「だーれも来ん。」「電話も来ん。」といつもの通りの言い草である。「T子から電話なかった?」と男は聞いてみた。「T子からも電話は来んよ。」と言う。そんなことはない。これもワンパターンのいつもの言い草である。T子は男の腹違いの妹である。

 その母は、32年前に死んだ男の父親の後妻として、わが家に来た男の継母である。男の父親はその継母を妻に迎えてほどなく教師に復帰することができて実家を離れたので、男はその継母と暮らした期間は数年間である。

一方、女房は継母がわが家に後妻として入ったとき4歳だったが、継母の実家に残された。以来、10数年間、母娘離れ離れに暮らしてきた。

男はわが家の長男である。男も女房も、男がわが家の長男であるという立場でその母と深い縁がある。特にその母がもう完治したが8年前がんを患って以来、夫婦二人一緒に年に4、5回帰省したりして、これまでずっとその母の面倒をみてきている。

2011年5月8日日曜日

元軍医先生の突然の死(続き)(20110508)

 女房は掛かりつけの耳鼻科の先生のことを「おじいちゃん先生」呼んでいた。男も過去に二度ほどその先生に診てもらったことがある。その診療所は非常に狭いワンフロア―で、受付と診察場所と治療場所と待合場所が何の仕切りもなく分けられていて、患者には自分の順番がくるまでの間、先生の話声や受付の応対の様子や、治療器具を操作する看護師の声など、何もかも全部が聞こえ、全部まる見えに見える。

男は、自分の順番が来て診察と治療を終えた後、先生に「家内が先生に大変お世話になっています。」と礼を述べた。先生は、カルテに書かれている男の名前をじっと見つめて、男と同じ名字の女性の名前を思い出し、「ああ、Aさんだね。」言った。その様子も他の患者やスタッフ全員に否応なしに知れ渡る。

 そのような狭苦しいごちゃごちゃした診療所で、元軍医のその先生は他界されるまでの44年間働いていた。先生に助手は居ず、自分の孫娘のような看護師や薬剤師や受付の女性たち3、4人が先生の手足となって働いていた。先生は皆家族のような女性スタッフに囲まれて楽しそうに、気楽に診療をしていた。先生は1時間以上も順番待ちをしている患者のことなど一切お構いなしであり、患者もそのことを気にしていないふうであった。

患者の中には先生と長いお付き合いのある老婦人がいた。その老婦人は先生に何か贈り物を届けたらしい。その話も開けっぴろげに皆に聞こえる。患者は皆まるでお互い知り合いのようで屈託ない。男もその場の雰囲気に慣れ、小声で隣の患者と言葉を交わす。患者は皆その先生を尊敬し、その先生に全幅の信頼を置いている様子であった。

 その先生が信頼されている理由の一つに、その先生には全く欲が無いことがある。そして、先生は患者に心から寄り添い、患者にとって最も適切な治療を施してやっていることである。女房は毎年花粉症に悩んでいたが、その先生のお陰で今年も全く平気だった。

その先生が処方する薬は、先生の指示に従って薬剤師の女性が取り揃えている。薬剤師は自分が取りそろえた薬の名前と内容が間違いのないかどうか先生に確認して貰っている。その様子が皆に聞こえる。患者はそのこと一つをとっても、先生に信頼を寄せる。

そのような先生であったから、先生は、皆、と言っても特に高齢の女性が多いが、患者たちからその他界を惜しまれ、「これからどうしょう」と思われ、一方で、先生のように齢をとってから皆に迷惑をかけぬうち、元気なうちにある日突然ぽっくりと逝きたいと思われたりした。

女房は自分自身がそのような死に方をしたいと常々思っているから、その先生の耳鼻科が閉鎖されるという張り紙を見て驚くと同時に、先生は善い死に方をしたのだと思った。

しかし男は、完璧なほど立派なその先生でも若い軍医のころには、何か失敗があったに違いないと思った。その理由は、男自身もこれまで自分が歩んできた人生を振り返り、自分はこの齢になるまで、数多くの失敗や恥ずかしいことがあり、それが積み重なって今日の自分があるのだと思っているからである。しかし、その先生は男とは違うかもしれない。

2011年5月7日土曜日

元軍医先生の突然の死(20110507)

 女房はついこの間70歳になった。男が住む横浜市では、70歳になると希望者には市営バスや地下鉄に乗れる「敬老パス」が与えられる。女房は、その「敬老パス」を貰えることをとても楽しみにしていた。このパスは無料ではなく、年収により支払額に差がある。

 女房は、このところインフルエンザにやられたのか体調不良が続いている。夜中に咳が出てよく眠れず体力を落としている。かかりつけの耳鼻科も連休中で休みになり、女房は近所の懇意にしている内科に行き、抗生物質と腫れや痛みを和らげる薬・出血を抑える薬とツムラの麻黄附子細辛湯を処方されていたが、症状はあまり改善されていない。

 そこで女房は、連休が明けた今日、「敬老パス」を使ってバスに乗り、そのかかりつけの耳鼻科に行った。行ってみたら「先生が亡くなった」という内容の張り紙がしてあったという。電話の向こうで女房は、「びっくりしたわ。あんなにお元気だったのに。これからまたバスに乗って、S病院に行きます。」と言う。

男は女房の体調を心配して「大丈夫か。俺もS病院に行くよ。」と言うと、「大丈夫よ。それよりも、干してある布団を取りこんでおいて。」という。女房は37度ほどの微熱があるが、ここ1週間ほど日に干していない自分のベッドの寝具をベランダに干していた。

女房は、お天気が良ければ必ずと言って良いほど、毎日のように寝具を干す。男の寝具も一緒に干したり、他の洗濯物が多い時は日変わりで干したりしている。女房は根っからの綺麗好きで、こう言えば「そんなのじゃない」と怒るが、「炊事・洗濯・お掃除大好き」な、典型的な主婦である。子育ても「暖かな家庭にしたい」と必死の思いで二人の男の子を育て上げた。男はそのような女房を、もう50年間も伴侶にしている幸せ者である。

男がまだ現役のころ、そのような家庭第一の女房に不満を漏らしたことがあった。その時、芸大生であった息子は、「お母さんは家事という面での性能が特に優れている。」と言ったことがあった。しかし「他方の面では劣っている部分がある。」とまでは言わなかった。
 
ある日、男が女房にその息子が言ったことと言わなかったことの全部を言ったことがあった。そのとき女房は非常に怒った。男に直接怒りをぶっつける代わりに、その息子に対して怒りの感情をあらわにしていた。しかしそのことはすぐ忘れてしまっていた。女房の最大特徴は、おおらかさと無類なまでのこころの暖かさと優しさである。

S病院に着いた女房から電話が来た。「S病院の耳鼻科にいます。隣の方が言ってましたが、金曜日の先生はとても良い先生だって。良かったわ。」と元気そうな声である。男は「大丈夫か」と一応気遣いしてみせたが、この分なら心配ないだろうと安心した。

 高齢のため、突然他界してしまった元軍医の耳鼻科の先生は、とても懇切丁寧に診察し、完璧に治療してくれる名医であった。ご高齢であったが若く見え、矍鑠としていた。その耳鼻科は患者に大人気で、何時行っても自分の順番がくるまで2時間近く待たされていた。

女房はその元軍医の先生に全幅の信頼を置いていた。人生は無常である。いつもの通りの幸せが、いつまでも続くという保証は全くないのである。

2010年7月21日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(123) (20100721)


横浜陶芸センターは本牧公園の近くにある。三渓園の裏で戦前は海だったところである。

辺りは公園として整備されていて陶芸センターに行く道は産業道路や高架高速道路と並行していて3メートルほどの広さの歩道が間門小学校角から本牧公園に向けて一直線に長く続いている。間門から本牧公園に向かって左側には松林、右側には銀杏並木があり、道の両側には両側に四季折々とまではゆかないがシランなどの花をつける草木が良く配置されて植えられている。この道はいつ通っても心が癒される道である。

以前海岸線の白い断崖であった場所の下には池があり、黄色や白の小さな可愛い花をつける睡蓮が一面に広がっている。

男は毎週一回この陶芸センターに通っていて手びねりで楕円形の皿を作り続けている。この種の皿は多目的で使える便利な皿で、ある時はライスカラー、ある時はスパゲッティー、ある時はお惣菜いれに使う皿である。同じものをいろいろやっているが、なかなか気に入るものが出来ない。皿の形状、釉薬などで随分変わった感じになる。

しかし少し明るい見通しである。一番初めに手びねりの教室で作ったものが一番気に入っている。土は赤2号、微妙な曲線の形状、内側に蚊帳を置いて白化粧し、呉須で若干の景色を作り、釉薬はミックスとする。今後作るものはきっと気に入ったものが完成するはずである。詩吟で世話になっている女性にお礼のため贈呈しようと思っている。

陶芸の帰り住宅街を通る。10歳ぐらいの男の子が玄関に入るなり「お母~さん!」と呼んでいる。思えば男は10歳のとき母を亡くした。男の女房は3歳のとき父を亡くした。二人ともそれぞれ祖父母に育てられた。その二人が夫婦になってもう50年近くになる。

先日つかこうへい氏ががんで他界した。遺書に「恥のある人生だった」という旨の文があったという。考えてみれば男にも幾つかの恥があり、幾つかの危険もあった。
未熟ゆえに恥があることをし、危険なことをしたにもかかわらずこの齢になるまで無事過ごしてくることができたのは、矢張り先祖のお陰、亡き母のお陰であると固く信じている。男は人生の役目を確実に果たすべく、これまで生かされてきたのだ。「あの世」に行くまでには役目をきちんと果たし終えねばならぬと思う。

女房には一切の恥など無いし、用心深くて危険なことをしこともない。女房はまるで聖観世音菩薩のようである。女房のそのような面は理解されないことがある。女房は常に相手の立場に立って真心を尽くしている。今はそんなことは無くなったが、以前は若い人に女房の思いが伝わらず、ある意味では無視されたこともあった。そときでも女房は一言も言わなかった。言えば相手が傷つくと思っていたからである。

49 一切の束縛の絆(きずな)を超え、驚き怖れることが無く、執着なく、よく行きし人、覚った人、かれをわれは(バラモン)という。

2010年6月16日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(88) (20100616)


昨日(14日)女房も一緒に市内のK歯科に行った。男は2週間前「歯ぐきと歯の間がなんとなく気持ちが悪い」という理由でその歯科医に7年ぶり診察を受け、レントゲン写真を撮ってもらった。女房の方は入れ歯を止めている個所や虫歯治療後埋めたあとなどの不具合で治療を受けている。

その歯科医は男の歯の7年前のレントゲン写真と今回の写真を見比べながら「7年前の写真がまるで昨日撮った写真のようです、ただあまりにも素晴らしいので感心するばかりです」と言う。虫歯の治療を受け金属をかぶせたりしているが抜けた歯は一本もない。男は「母親に感謝しなければなりませんね」と言うと、医師は「そうですよ」と言う。その母親は男が10歳のとき他界したが、子供の頃その母親は男に卵の殻を粉にしたものをよく飲ませてくれていた。そのお陰もあり、また男の歯は遺伝的にもともと丈夫であったのだ。

それに引き換え女房の歯はぼろぼろである。91歳になる女房の母親も総入れ歯であるから女房は「私の歯が悪いのは生まれつきだわ」と言う。しかし男は女房が子供を産んで乳を飲ませるとき女房に十分な栄養、良質のカルシウムを含んでいる牛乳などを飲むように勧めていなかったことを悔やんでいる。子供たちには女房が牛乳をよく飲ませていた。女房はあの頃「疲れた、歯が痛い」とよく言っていた。そのことを思い出すたびに心が痛む。

女房は男に良く仕え、夫である男と子供たちに良く尽くしてきた。女房の口癖は「暖かい家庭を築きたい、子どもたちを立派に育て上げたいと常に思っていた」である。そのとおり実現し、女房は「人生に満足している」と言う。それに引き換え、男は女房にしてもらったことは余りにも多いが男が女房にしてあげたことは少なく、女房を悲しませたことは余りにも多いと思う。もし男がそれでも何か社会的に大きな仕事をしてきて褒章を受けたのであれば幾分か救われるが、それは全くない。

ただ、男は女房とともに子どもたちは立派に育て上げ社会に送り出した。社会で立派に活躍し、それぞれよい家庭を築き、幸せに暮らしていることは、女房にとって大きな勲章であるが、男にとっても喜びであり、満足である。人はその人生において自分の努力次第でできることと出来ないこととがある。男は自分に出来ることをしてきて、今も出来ることをし続けている。来世においてはまた別の人生があるであろう。そう思うと慰められる。

南アフリカで行われているサッカーのワールドカップで、日本は初戦の相手の強豪カメルーンに1対0で勝った。チームワークで本田がゴールに球を押し込んだ。中津江村の元村長はカメルーン応援のためやってきているが、彼にとっては残念であり、また嬉しいことでもあったであろう。ワールドカップは世界のお祭りである。

国会では菅総理の所信表明演説に対する各党の代表の質問が衆参両院で行われた。そして民主党は野党時代とは打って変わって現実的な理念・政策を掲げ参院選に突入する。

16 身体は泡沫(うたたか)のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように感ずる人は、死王も彼を見ることはない。

2010年4月20日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(31) (20100420)

女房の誕生日を祝うカードが送られてきた。カードは手作りで、裏に孫娘と孫娘に抱かれた3歳になる孫(男子)が大きく写っていて、二人とも右指でVサインしている姿が印刷されている。「大きくなったな。」とつくづく思いながら何度もその写真を見る。可愛さがこみあげてくる。会って抱きしめてやりたいな、と思う。
お互い遠く離れて暮らしているので、年に一、二度しか会うことはないが、「この子には俺のY染色体の遺伝子が確実に伝わっている。この子の耳の形は俺に似ている。俺がいずれあの世に逝っても脈々としてわが家の血筋は続いて行くことだろう。」と思う。
昨日、昭和記念公園で娘の母親らしい女性が幼児を抱き、その児の両親らしいカップルと並んで歩いていた。女性は小柄であるがカップルの方は普通の背丈である。女性に抱かれているのは多分孫であろう。女性が小柄であるので見ていて重そうである。週末に訪れてきて昨日はお天気が良かったのでこの公園に来たのであろうか。「孫とおばあちゃんだろうな。」とつぶやくと、女房は「そのようだね。ああして可愛がっている間は寄って来るのよ。そのうち大きくなって寄りつかなくなるのよ。」という。それも真実だろうと思う。女房は孫たちが来たときはできるだけ精一杯のことをして喜ばせる。その女性も多分そのようにしているのだろうと思う。祖母と思われるその女性は夫に先立たれたのだろうか?
都会地では子供たちの遊び場が限られる。田舎の広い家では、小さな子や大きな子が大人数いて騒がしくても家の中や庭先など、子供たちが遊ぶ場所が沢山ある。しかし都会地では一般に住む家も狭い。孫たちが来たとき彼らを何処か外に連れ出さないと喜ばれない。そのような息が詰まりそうな環境では家族の絆を保つのが大変である。かつて日本にあった良さが段々失われてゆく原因は、都会地に人口が集中し過ぎたことにあると思う。
女房とよく老い先の暮らし方について語り合う。一致した意見は後10年ぐらいの間に何処か有料の老人ホームに夫婦で入居することである。子が親を看るということは大変なことである。九州の田舎に92歳になる母が一人暮らししていて年に何度か帰っていろいろ面倒を看ているが、そのうち一定期間、その母が寿命を終えるまでの間、九州の田舎で暮らさなければならないかもしれない。そのとき我々もすでに高齢である。
彼女は要支援2の状態であり、週2回ホームヘルパーに来てもらい、週2回デイサービスを受け、それなりに元気な自立生活を送っている。歩いて行ける距離にあるかかりつけの病院には自分でタクシーを使って行き、定期的な診察を受け、点滴を受け、高血圧の薬や便通の薬などを貰って帰る。お天気の良い日にはできるだけ押し車を押してその病院などに行っている。人は誰でも年老い、人生を終える。それが定めである。

ブッダ「感興のことば」第6章は20まであるが、次の15で次章に進むことする。
15 心ある人はこの道理を見て、つねに戒めをまもり、すみやかにニルヴァーナに至る道を清くせよ。