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2012年3月24日土曜日


第一次世界大戦(一)サラエボ事件(終り)(20120324)

 “大正三年八月七日、大隈首相邸で開かれた緊急臨時閣議における加藤外相の参戦発言「……かかる次第で、日本は今日同盟条約の義務に依って参戦せねばならぬ立場には居ない。条文の規定が、日本の参戦を命令するような事態は今日の所では未だ発生していない。ただ一つ英国からの依頼に基づく同盟の情誼と、一つは帝国がこの機会に独逸(ドイツ)の根拠地を東洋から一掃して国際上に一段と地位を高める利益と、この二点から参戦を断行するのが機宜(きぎ)の良策かと信ずる」

 加藤はさらに「参戦せず単に好意の中立を守って、内に国力の充実を図るのも一策」としたが、閣議は結局「同盟による義務であると同時に遼東還付(三国干渉)に対する復讐(ふくしゅう)戦である」と断じて参戦に踏み切り、二十三日にドイツに宣戦を布告した。(山川出版社『詳説日本史研究』)

 我が国が参戦した一九一四年秋頃より、英、仏、露は我が軍を欧州に派遣するよう懇請してきたが、我が国はこれを拒絶した。英国から再度の出兵要請が来た時、「帝国軍隊の唯一の目的は、国防にあるが故に、国防の本質を完備しない目的のために帝国軍隊を遠く外征させることは、その組織の根本主義と相容れない」と述べて強い拒絶の意を表明したのであった。

 この他、ベルギー、フランス、セルビアの諸国からも日本陸軍の欧州派兵を勧誘してきたが、我が国はいずれも拒絶した。しかし、英国は再三にわたり我が艦隊の地中海派遣を要請して来て、船体の損失は補償し、燃料、軍需品は無料で一切の便宜を図るという条件付きではあったが我が国は再三に拒絶した。

 しかしながら、ドイツは一九一七年二月世界の非難を冒して無制限潜水艦作戦を宣言かつ決行、連合国側の船舶は多大の損害を被るに至った。我が国の欧州航路客船の多くも、大西洋、地中海、インド洋で撃沈されて行ったのである。斯かる戦況下、かつては艦隊の地中海派遣を拒絶した我が国がその立場を変えたのも、蓋(けだ)し止むを得ぬ次第であった。

 但し、我が国は、(大隈)前内閣の艦隊派遣拒否の決定を(寺内)現内閣が翻すには、有力な根拠が必要であるとして、山東省と南洋諸島に関する日本の要求に関する英国の保証を得たい旨を申し入れたのに対し、英国は講和会議に際し、山東省のドイツ諸権利と赤道以北の独領諸島(南洋諸島)に対する日本の要求を支持することを「欣然応諾」する旨正式回答してきたのであった(二月十六日)。(中村粲『大東亜戦争への道』)”
 当時のドイツと今のイランが重なり合うようである。
 当時のドイツは世界の非難を冒して潜水艦作戦を決行し、大西洋・地中海・インド洋を経由する和学の欧州航路の船舶も多数撃沈された。
 今のイランはホルムズ海峡封鎖をほのめかしている。ただし、これは米欧の艦隊が威圧しているので実行はされないだろう。しかし、もし我が国のタンカーがイラン海軍の攻撃を受ける可能性がゼロというわけではないだろう。

2012年3月23日金曜日


第一次世界大戦(一)サラエボ事件(20120323)

 引き続き、岩間 著『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。
 
 “オーストリアの帝位継承者皇太子夫妻が、セルビアの反オーストリア運動の秘密結社「黒い手」に属する一青年によって暗殺された。「サラエボ事件」という。”

 “大戦が勃発した当時、日本は遠いヨーロッパの戦争として対岸の火事視していたが、やがてこの大戦が終わってみれば日本に重大な影響を与えた大戦となったのである。

 英国が対独宣戦を布告したのは八月四日であった。同日グリーン駐日英国大使は、加藤高明外相を訪ね、日英同盟の約に従って、万一戦争が極東に波及し、香港、威海衛が攻撃される場合には、日本の援助を希望する旨申し入れてきたため、我が日本政府は厳正中立の態度を取る旨を表明し、「万一、日英同盟の目的が危殆に瀕する場合は、日本は同盟の義務として必要な措置を取ることがあるべし、しかも政府は切にその然ることなきを希望する」との声明を公表した。その後、英国から「支那海で英国の貿易船を攻撃する仮想巡洋艦を撃破してほしい」との正式な参戦要請があった。

 日本は参戦の根拠を広く日英同盟協約におくこととして、大正三年(一九一四年)八月一五日、ドイツに対して次の勧告を行い、八月二十三日までに回答する様求めた。
一、日本及び支那の海洋からドイツ艦船が即時退却するか、武装解除すること。
二、ドイツは膠州湾(山東省)租借地を支那に還付する目的を以て、九月十五日限り無条件で日本に交付すること。

 兵火を交えることを望まなかった我が国は最後通牒の期限を一週間(八月二十三日)という外交上例のない長期のものとしたが、八月二十三日、ドイツから無回答の意思を通告してきたため、我が国は同日対独宣戦した。

 我が国は直ちに青島攻略を開始、十一月初旬に山東省の膠州湾、青島及び膠済(膠州 ー 済南)鉄道全線を占領した。

 一方、海軍は十月中旬赤道以北の独領、南洋諸島を占領したのであった。(中村 粲『大東亜戦争への道』)

 日本の参戦は表向きは日英同盟の誼(よしみ)を果たすことであったが、その裏には「三国干渉」に対する蟠(わだかま)りがあったのである。”
ブログ『日々是支度』2011716日土曜日公開の『日露戦争前哨戦(続)(20110716)』の一部を“”で再掲。

“日露戦争は、一言で云えば、日本の朝鮮・満洲への進出政策とロシア側の満洲・朝鮮への勢力拡張政策との衝突である。此の戦いに到る10年前、即ち明治27/8(1894/5)、清国と戦って勝利した日本は、417日講和条約(下関条約)を締結しこれを調印した。

 これによって日本は、朝鮮に対する清国の宗主的支配を解消せしめ、朝鮮を独立国家として擁立することに成功した。同時に清国から賠償として台湾、澎湖列島と共に遼東半島の割譲を受けた。

 しかし調印の6日目批准の3日後、ロシア、フランス、ドイツの三国から、日本が遼東半島を領有することは清国の首都を危うくし、また朝鮮の独立を有名無実として、極東の平和に障害をきたすのでこれを放棄すべきであると云う強い勧告(三国干渉)をしてきた。 そしてロシアの艦隊はフランス及びドイツ艦隊と糾合して、日清平和条約の交渉地である芝罘の沖に集結し露骨な示威運動を行った。”

日本は「三国干渉」によって日本は遼東半島を清国に還付することを余儀なくされ、その代償として清国から庫平銀3千万テール(邦貨4500万円)を受け取ることで面目を保った。「三国干渉」があったが、結果的に支那・朝鮮は白人諸国による植民地化を免れることができた。また、対独戦争により日本は赤道以北のドイツ領南洋諸島も解放することができた。このことを今に生きる日本人はしっかり銘記しておくべきである。 (続く)

2012年3月22日木曜日


韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(終わり)(20120322)

 『改訂版 大東亜解放戦争 上巻』(著者・岩間 弘)220ページより“”で引用。

 “戦後マッカーサー憲法で軍隊を持つことが憲法第九条で禁止され戦力なき自衛隊の為国の防衛は日米安保条約によってアメリカに委(ゆだ)ねられ日本は、事実上アメリカの保護国になっている。若し攻めて来られたら憲法を守って、手を挙げて降参する等と社民党系の人は言っている。国防意識が全くないのである。

 また中国や韓国から正しい歴史認識を持つように言われれば頭を下げ、靖国神社参拝について横槍を入れられれば、中止をしたり日(ひ)にちを変更したりして、中国の戦争紀(記)念館(「紀」は支那の書き方)に行っては謝罪したり、日中友好、日中友好などと署名したりして御機嫌を取って来る、また作られた南京事件や作られた強制連行慰安婦問題などに対する正しい歴史の勉強もせずに、謝罪することが友好関係を維持する方法だとしている様であるが、これがどれ程日本国民に、矢張り日本は侵略戦争をしたのだ、虐殺など悪いことをしたのだという観念を植え付け、日本国民の誇りを傷つけているか、首相及び政府首脳は分かっているのか。

 今の日本の情けない殺人凶悪犯罪、大会社、公社、官僚等の連日の謝罪等及び低迷する日本経済等の根本原因は、日本の保護国化と謝罪外交にあると思うのである。

 イギリスも、オランダも、アメリカも、フランスも侵略し植民地だった国々に対して一言も謝罪していないのである。またこれ等の植民地が戦後独立国になったが、過酷だった植民地支配に対する謝罪要求はしていないのである。首相の言動は国民に大きな影響力を持つ。

 この様に頭を下げて謝罪すれば国民は、日本国に対して誇りを失うのである。私は韓国の日本への併合と王朝の末路を記述しながら今の日本の現状を考える時まことに憂慮に堪えないものがある。

 ブログ『日々是支度』201229日木曜日公開、題名『日本を貶めたい、日本を陥れたい「集合的無意識」(20120209)』及び2011224日木曜日公開、題名『武士道(続)(20110224)』に書いているが、三島由紀夫が発した檄文の一節に「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を汚してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった」とある。我が国は、未だ彼が嘆いたような状況にある!

 私は概ね60歳代以上の政治家たちは与野党問わず戦後の呪縛から抜け出ることはなかなか難しいと思う。石破氏は50代の政治家であるがその呪縛に気付き、自己変革を成し遂げた政治家であると見る。

小沢・鳩山・菅・谷垣・加藤・大島・町田氏らには大変申し訳ないが第一線を退いてもらいたいと思う。特に小沢・鳩山・菅各氏には日本国再生のためには全く不要である。一切口出しをしてもらいたくない。

そして石原氏・平沼氏には石破氏を含む50代以下の愛国心あふれる新進気鋭の若手政治家の中から適任者を国の指導者に立てて、日本国再生のためひと踏ん張りして貰いたいと思う。大阪維新の会・橋下氏は今後の彼の成長次第では日本国再生の為非常に有用な人物になり得ると見ている。

2012年3月20日火曜日


韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(つづき)(20120321)


岩間 弘 著『大東亜解放戦争』から“”で引用。

“この様にして朝鮮と清の事大主義は遠く漢の時代(前一九五年)から、即ち約二千年も以前から続いているのであるが、ここに述べられている様に、李朝になってから益々密接な宗属関係が確立された。

この様に宗属関係が紀元前から更に李王朝になって五百年も続いた時、李朝は明や清の属国として庇護されて来たので国防という事を殆ど考える必要がなくなって行ったと思われる。

国防意識が無くなった時独立国としての意識も当然希薄になって行ったのであろう。その証拠に、第三次日朝協約を結び、純宗皇帝が「詔書」により軍隊を解散した時は僅かに王宮及び首都を守る軍隊が、それもあまり訓練されていない軍隊が約一万人居たのである、これでは国を守ることが出来る筈はない。

国防意識がないという事は国の為に働くという意識も無くなり、人生の目的が自分の立身出世、金儲けに明け暮れ、社会秩序が非常に乱れ、皇帝を取り巻く宮廷もまた腐敗政権であった。

事大主義は強いと思う方へ顔色を窺(うかが)い、ぺこぺこ頭を下げることであり、清についたり、日本についたり、ロシアについたりしたのである。これでは自国に対する誇りを持てなくなり、民心が乱れるのは当然である。

自主独立、それは何よりも外国の力を排除し、自分の力で立つ事である。それには敵が脅迫したり攻めて来たりしても撥ね返し、撃退する力のある軍隊がなければならない。

だから明治三十一年露館播遷より還御した後、折角高宗国王が国号を「大韓帝国」と改め、自らも「国王」を「皇帝」と改め、十月十二日には皇帝即位式を盛大に行い、内外に宣言したのであったが、結局は名称と形式が変わっただけで何も変わらず、尻切れ蜻蛉(とんぼ)に終わって了ったのであった。何故だろうか。

それは事大主義、宋属関係が二千年、李朝になってからでも五百年も続いた為に、自主独立とはどういう事か、どうすれば自主独立国家になれるかという事が全然判らなかったからではないかと思われる。

こう書いて来ると、何だか今の日本に重ね合うような気がして、真に寒心に耐えない思いがする。”

中国の李鵬首相は1995年オーストラリアで、「日本は二十年後には無い」と言ったそうである。毛沢東は、確か、「日本は65年間立ち上がれない」というようなことを言ったと記憶している。
230万人の戦死者を出し、2,525名の20代前後の若い命が航空特攻で失われ、絨毯爆撃を受け、2個の原子爆弾を落とされて一挙に何十万人という市民の命が奪われた末、日本はアメリカに屈した。その結果戦後68か月間、日本はアメリカの占領下に置かれた。
その後も日本はアメリカの強大な軍事力に守られながら今日まで来た。日本の状況は、韓国を併合するまでの大韓帝国(日本が日清戦争で韓国を独立させるまでは李氏朝鮮国)と似ている部分がかなりある。日本人よ、目覚めよ!

韓国併合(七)金完燮氏『親日派のための弁明』・朝鮮の歴史(20120320)

 金完燮氏『親日派のための弁明』について『大東亜解放戦争』著者・岩間 氏はこう書いている。以下、“”で引用。

 “さて、ここで私は何故に韓国が、併合せざるを得なくなるような情けない国なったかという、本当の原因を考えてみたいと思う。

 それは、今迄も中国を宗主国とする宗属関係と事大主義にあったと言われていることは、私もその通りであると思っているが、私はそれをもう少し突っ込んで宗属事大主義がどうして何故韓国をここまで情けない国にしたのかを考えて見たいと思うのである。

 韓国の歴史を辿れば遠く、紀元前一九五年頃、漢の時代、燕に仕えていた満という人物が徒党千人余りを率いて朝鮮に行き、そこに国を開いた。それが衛氏朝鮮の始まりである。

 後漢代の『潜夫論』からは衛満として登場する。衛満は朝鮮に定着した後、遼東太守との間で漢の外臣となることを約したとある。外臣とは帝国の外において皇帝の臣下となるもので、漢と諸国とが君臣関係で結ばれることになる。実に紀元前から漢との間に宗主宗属関係があったのである。

 歴史は降って李王朝に移ることにする。李王朝の始祖李成桂(廟号太祖(テジョ))は武人で功績を揚げたが、一三九二年七月高麗の高官による都評議使司の決定を得て恭譲王からの禅譲という形式を整えて、王位に即いた(在位一三九二――九八)。そして直ちに永年の慣例に倣って明に使節を送り国王交替の承認を求めた。この時の国号は高麗を踏襲し、肩書も「権知高麗国事」といういわば仮の国王であった。

 この年の冬、明が国号の改定を問題にしたので、太祖政権は「朝鮮」と「和寧」の二つを候補として明に打診、明は「朝鮮」を由緒あるものとして勧め一三九三年朝鮮という国号が決まった。

 一三九五年に都を開城(ケソン)から漢城(ハンソン)(現ソウル)に定めた。しかし、大租は相変わらず「権知国事」のままであり、明から正式に誥命(こうめい)(辞令書)との印章の伝達を受け、正式に朝鮮国王に任命されたのは 一四〇一年第三代の太宗のとき恵帝建文帝によってであった。靖難(せいなん)の変で即位した成祖永楽帝も国際環境の安定を望み、一四〇三年には誥命と印章を伝達した。

 この正式の任命で、王氏高麗から李氏朝鮮へという易姓革命(えきせいかくめい)が、名分のうえでも成就するとともに、朝鮮は以後、中国(明、清)を中心とする当時の東アジアの国際秩序である宗属関係の中に組み込まれた。

 朝鮮は君臣関係を結んだ宗主国に朝貢して正朔(せいさく)を奉じ(歴、年号の使用)、朕、詔、陛下、太子、後宮、京師、上奏など皇帝にかかわる用語を使用しないといった事大(じだい)の礼をとることで、善隣友好関係の維持をはかった。(武田幸男編『朝鮮史』山川出版社)

 ここで明治八年の江華島事件の発生の原因は遠く一四〇三年の第三代太宗の時代に遡ることが判るのである。” (続く)

2012年3月19日月曜日


韓国併合(七)韓国人金完燮氏の『親日派のための弁明』(つづき)(20120319)

 “この本の丁度日露戦争から韓国併合を書いている時、韓国人の金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』が草思社から発売になった。早速買ったが、私はこれを読んでしまうと金氏の考えが入るかもしれないと思い、しばらく読まずにそのままにしていた。そして韓国併合の原稿を書き終えたところでこの本を読ませて頂いた。

そこには金完燮氏が韓国内から激しく非難されるであろう事を大胆かつ率直に書いて居られる事に驚いた。もっともこの本は韓国内では発売禁止になったそうである。そしてその勇気に心から敬意を表するものである。そして私が、韓国に対して考えている事及び私が書いた事が殆ど同じ内容であった事を嬉しく思った。

しかしその中で特に注目したのは日本語版への序文の中で、「ところで韓国人にはなぜ反日感情が強いのでしょう。……つまり、こんにちの日韓関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです」というところです。面白い見方であると思った。そしてこの本の主張する核心が序文に書いてあった。即ち、

「私たちは歪曲された教育によって、韓日保護条約(一九〇五年)と韓国併合(一九一〇年が強圧によって締結されたものであると信じているが、事実は全くちがう。日本と合併することだけが、朝鮮の文明開化と近代化を達成できる唯一最善の道であった点については、当時朝鮮の志ある改革勢力のあいだに暗黙の合意があったと思われる。

この大韓帝国内部の強力な世論にしたがい、日本が合法的な手続きを経て統治権を摂取したとみるのが妥当ではないだろうか。

そのもっとも有力な証拠が一九〇四年に結成された【一進会(イルチンフェ)】である。この団体が我が国の歴史上初の近代的な大衆政治組織であり、【東学(トンハク)】(一八六〇年ごろおこった民間宗教)と【独立教会(トンニプヒヨツペ)】(一八九六年に組織された政治結社)が連携して、朝鮮王朝と旧守勢力を倒し、日本と連携して文明開化という時代の要請、つまり朝鮮革命を成し遂げるために結成された。

しかしこのような事実は韓国社会では徹底して隠蔽(いんぺい)され、韓国政府は一進会について、日本が少数の親日派と糾合して結成した【御用エセ団体】と歪曲して教えている。

「……こんにち韓国で一進会を【親日団体】だと非難し、かれらに危害を加えた反動暴徒を義兵と褒めたたえることは、歴史を逆さまに解釈する過ちといえる」

何と素晴らしい発言であろうか。韓国や中国に謝罪発言を繰り返して来た日本の歴代総理に是非読んでよく考えて頂きたいものである。”

2012年3月18日日曜日


韓国併合(七)韓国人金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』(20120318)

 韓国にも併合の歴史について正しく認識しようとする動きがあった。ところが、度々言うが、【韓国政府の「国家」】、言うなれば韓国為政者側組織体の「国家」は、自ら存続しようとする意思があって、その「国家」の一組織である反日工作組織VANKを使って盛んに反日プロパガンダを展開し、韓国併合は日本の侵略であるとキャンペーンを行っている。これは韓国の一般「国民」の動きとは別のものである。

 万物が「自存力」を備えているように、いかなる「国家」といえども自ら生き残ろうとする「自存力」を備えている。日本という「国家」でも同様である。ただ、日本の場合、「国家」と「国民」の間には一体感がある。日本国は天皇を家長あるいは宗家としているような「日本一家」の「国家」である。そこが田の「国家」とは違う。

 そのような日本の力を弱めたくて「反日工作」を含むあらゆる手段を講じて行動しているのが【中国共産党「王朝」の「国家」】や【韓国政府の「国家」】である。それは中国や韓国の「国民」一般の本当の気持ちとは別のものである。日本はそのような「反日工作」組織に対抗する組織を立ち上げ、対処すべきである。

明治維新後、日本も韓国も今の中国の「国家」や韓国の「国家」のように「生き残る」ため必死であった。白人諸国をアジア侵略から駆逐しなければ生き残れないと思った。日本は「生き残る」戦いに敗れたが、結果的に白人諸国をアジア侵略から駆逐することができた。今、再び必死にならないと今度は今の中国の「国家」や韓国の「国家」に侵略されるだろう。現にその兆候が表れている。日本は呑気に構えているべきではないのである。
引き続き岩間 弘著『大東亜解放戦争』(創栄出版)から“”で引用する。

“この本の丁度日露戦争から韓国併合を書いている時、韓国人の金完燮(キムワンソブ)氏の『親日派のための弁明』が草思社から発売になった。早速買ったが、私はこれを読んでしまうと金氏の考えが入るかもしれないと思い、しばらく読まずにそのままにしていた。そして韓国併合の原稿を書き終えたところでこの本を読ませて頂いた。

そこには金完燮氏が韓国内から激しく非難されるであろう事を大胆かつ率直に書いて居られる事に驚いた。もっともこの本は韓国内では発売禁止になったそうである。そしてその勇気に心から敬意を表するものである。そして私が、韓国に対して考えている事及び私が書いた事が殆ど同じ内容であった事を嬉しく思った。

しかしその中で特に注目したのは日本語版への序文の中で、「ところで韓国人にはなぜ反日感情が強いのでしょう。……つまり、こんにちの日韓関係は戦後日本と韓国を支配してきたアメリカの意図によってつくられた構図ではないかということです」というところです。面白い見方であると思った。そしてこの本の主張する核心が序文に書いてあった。即ち、

「私たちは歪曲された教育によって、韓日保護条約(一九〇五年)と韓国併合(一九一〇年が強圧によって締結されたものであると信じているが、事実は全くちがう。”(続く)

2012年3月17日土曜日


韓国併合 韓国皇帝の勅諭(つづき)(20120317)

 日本は決して朝鮮半島を侵略したのではない。このことを全ての日本人は明確に認識する必要がある。

その上で、国民を政府に結びつける手段として反日・抗日のプロパガンダを推進している中国や韓国・北朝鮮の為政者側の組織、(私はこれを‘中国共産党「王朝」の「国家」’、‘韓国政府の「国家」’、‘北朝鮮金王朝の「国家」’と定義する)に対して、日本国は強い手段で対抗し、一方で中国や韓国・北朝鮮の国民とは十分な意思疎通を図るような方策を講じなければならない。

要は、彼の国々の「国家」と「国民」とを分別して対処することである。これらの国々でも人民は自分の国のことを「わが国」というがそれは為政者側の組織、彼らの言う「国家」によって指導された結果そういうのであって、日本のように「国家」と「国民」との間に一体感がないのでる。引き続き『大東亜解放戦争』から“”で引用する。

 “前にも述べたがアメリカ人で韓国の外交顧問であったスチーブンスが明治四十一年三月サンフランシスコで記者会見し、第三者の公正な目で見て、「韓国の王室と人民に独立の資格はなく、日本に統治させなければロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」と言ったのである。
 この為彼は暗殺されたが、純宗の苦悩と悲しみも全く同じ考えから出たもので、考えに考え抜いて日本との併合を条約によって決めたのであり、侵略でも植民地でも無かったのである。

 若し日本が日清、日露戦争を行わず、韓国併合も行わなかったならばスチーブンスの言った如く一〇〇パーセントロシアの侵略を受け、植民地或いは衛星国となって朝鮮半島全部が今の北朝鮮のような国になっていたであろう。

 私は少なくとも韓国の人達がこの事に目覚めて(北朝鮮は金正日の独裁主義国家であるから言っても届く筈ないから別にして)日本の韓国併合は最善の道であった知ったならば、反日・抗日どころか逆に良かったのだと感謝してくれてもよいのではないかとさえ思っている。” (続く)

2012年3月16日金曜日


韓国併合 韓国皇帝の勅諭(20120316)

 “「皇帝若(ここ)に曰く朕否徳にして艱大なる業を承け、臨御以降今日に至るまで維新政令に丞図し備試し、未だ曾て至らずと雖も、由来積弱痼を成し、疲弊極処に至り、時日間に挽回の施措望無し。中夜憂慮善後の策茫然たり。此に任し支離益甚だしければ終局に収拾し能はざるに底(いた)らん。

 寧ろ大任を人に託し完全なる方法と革新なる功効を奏せしむるに如かず。故に朕是に於いて瞿然として内に省み廓然として自ら断じ、茲に韓国の統治権を従前より親信依仰したる隣国日本皇帝陛下に譲与し、外東洋の平和を鞏固(きょうこ)ならしめ、内八域の民生を保全ならしめんとす。

 惟(ただ)爾(なんじ)大小臣民は国勢と時宜を深察し煩擾(はんじょう)するなく各其業に安んじ、日本帝国の文明の新政に服従し幸福を共受せよ。

    降熙四年八月二十九日     御璽」

 この勅諭は純宗の名前の如き純なる真心が伝わって、「疲弊極処に至り、憂慮善後の策茫然たり」と書かれ純宗の深い悲しみが詠む人の心を打つのである。しかし今や最善の方法は韓国を日本国皇帝(天皇)陛下にお譲りし民生を保全ならしめることである。私は国民のことを忘れたのではない。国民が救われ楽しく生活することを願っている私の心を理解してほしい。と述べておられて涙なくしては読めない勅諭であります。

 戦後、韓国及び北朝鮮の人々は、日本は侵略して植民地にしたと言って今も。反日、抗日を唱えている人が殆ど大多数であるが、併合は最も良い最善の方法であり、これしか方法がなかったのである。”(以上、『大東亜解放戦争』より“”で引用) (続く)

 併合後、日本がどれほど多くの資金を韓国の民生安定のため投入したか、このことについては39日にこのブログでリンクした動画、松木国俊先生の講義で詳しく説明されている。

戦後日本人が刷り込まれた自虐史観も悪かったが、韓国・北朝鮮の人々(在日を含む)も歴史を正しく認識することが重要である。日本を「敵」に仕立て、物語を歴史のように捏造し、反日工作に余念がない韓国政府は、また自ら自国を誇りのない国に導いているとしか思えない。

勿論、併合には負の遺産は非常に大きいものがあったことは確かである。日本が戦争に負けたこと、多くの韓国・北朝鮮人も日本人として戦地に赴き犠牲になったこと、日本人の間に朝鮮人を見下げるような風潮があったことなどは、明治以降の日本の指導者たちが併合時の初心を忘れたため起きたことである。この点は日本人も深く反省しなければならない。

それでも非常に多くの日本人たちは朝鮮人を愛し、朝鮮の文化・文明の向上のため尽力してきたことだけは確かである。

最後の朝鮮国王・李根に嫁いだ日本の皇族・皇族・梨本宮守正王の長女・方子女王は朝鮮王妃となり、戦後は韓国に帰化し、李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児(主に知的障害児・肢体不自由児)教育に取り組んだり、趣味でもあった七宝焼の特技を生かしてソウル七宝研究所を設立し自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回って王朝衣装ショーを開催する等して障害児教育のための資金を集めるなどして、日本と韓国の間の懸け橋としての役割を果たされている。

2012年3月15日木曜日


韓国併合(六)安重根の伊藤博文暗殺(つづき)(20120315)

 韓国政府「国家」。‘韓国’とだけ言わず、わざわざ‘韓国政府「国家」’と言うのは、同じ「国家」でも、日本の「国家」と韓国の「国家」が全く違う性格のものであることを、日本国民はあまり意識しないところに今日の日韓の埋めがたい溝の原因になっていると思うからである。

多くの日本人は‘韓流’を、その‘韓国政府「国家」’が日本に対して仕掛けているワナであることを意識せず、ただ面白いから・楽しいからと喜んでいる。そして多くの日本人は、韓国に親しみを感じているが一方の韓国では日本に好感を持っていない人々が圧倒的に多い。それは、‘韓国政府「国家」’が韓国国民をその「国家」に統合させるための策謀により起きている現象である。

 日本には天皇がいて日本の「国家」と「国民」は一体的なものである。ところが韓国ではそうではない。‘韓国政府「国家」’が真剣に努力しない限り、韓国国民は「国家」と一体感を持てない。しかし、明治時代、韓国は日本と同様な性格の「国家」になる絶好のチャンスがあった。にもかかわらず、安重根の間違った行動によりその芽は押し潰された。

 ‘韓国政府「国家」’が日本に対してどういうことを密かに行っているかについて知ることができる動画を次ページに紹介することにして、引き続き『大東亜解放戦争』より“”で引用する。

 “明治四十三年(一九一〇年)八月二十二日皇帝は八か条の合併条約に調印し、八月二十九日、両国で同時に交付された。次に第三条までと第八条を記載する。
第一条   韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を、完全且(かつ)永久に日本国皇帝陛下に譲与する。
第二条   日本国皇帝陛下は前条に掲げたる譲与を受諾し、且全韓国を日本帝国に併合する事を承諾す。
第三条   日本国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下、皇太子殿下竝(ならび)に其の妃及後裔をして、各其地位に応じ相当たる尊称、威厳及名誉を享有せしめ、且之を保持するに十分なる歳費を供給することを約す。
 第八条 本条約は日本国皇帝陛下、及韓国皇帝陛下の裁可を経たるものにして、公布の日より之を施行す。
  右証拠として両全権委員は本条約に記名調印するものなり。
             明治四十三年八月二十二日
                   統監 子爵 寺内正毅
             降四年八月二十二日
                   内閣総理大臣 李完用

こうして韓国は日本に併合されたのであるが、韓国の純宗の胸中は如何ばかりであっただろうかと思うのである。
ここに併合を告げる純宗皇帝最後の「勅諭」を原文(日本語訳)で記述する。原文の方が純宗の気持ちが伝わるからである”(以下、明日投稿) 

2012年3月14日水曜日


韓国併合(六)安重根の伊藤博文暗殺(つづき)(20120314)

 引き続き岩間弘著『決定版 大東亜解放戦争 上巻』(創栄出版)より“”で引用する。

“「伊藤公遭難について韓国宮中の模様」と題する若林警視総監の報告によれば、大皇帝(高宋)は次のように語っております。

「公はわが国に忠義正義をもって臨み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。実に伊藤はわが国の慈父である。……」(十月二十七日)

「伊藤を失ったことは、わが国と言わず、日本のみならず、東洋の不幸である。日本の天皇は唯一の重臣にして大師の伊藤をなくされた。それなのに伊藤を害した凶徒を出した国の皇太子を、あくまでも輔育する誠意を見せた。山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」(明治天皇が、韓国皇太子の輔育の後任に、岩倉侯爵を命ずる勅語を出された報を聞いて、十月二十八日)(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

伊藤博文としばしば対立した高宗に「……実に伊藤はわが国の慈父である……」と言わしめ、「……山よりも高く海よりも深い恩義ある日本皇室にどう感謝の意を表すべきだろうか」の言葉は高宗の真実の言葉であろう。この言葉を今の韓国の金大中大統領も国民もよく考え味わって貰いたいと思う。

また、李容九は伊藤博文暗殺さるの報を聞いて耳を疑い「韓国を滅ぼすのは天か」と長嘆息をした。十一月四日、伊藤公の国葬の日、一進会は「独立館」で追悼会を催した。

伊藤博文が暗殺されると日本国内に韓国併合論が高まり、合併に反対していた曽彌統監は更迭させられ、後任に寺内正毅(てらうちまさたけ)が就任すると一挙に合併に進んだ。”
(続く)

 韓国の純宗皇帝のとき皇太子であった李王根(李根の敬称)は、大韓帝国初代皇帝・高宗の高宗の第七子である。皇宗がハーグ密使事件で皇位を純宗に譲り、純宗の異母弟である李根が大韓帝国皇太子になった。

大韓帝国は日本が韓国を「自主の邦」にするため当時の李王朝と合意の上建てた国家であった。李王朝(李氏朝鮮)は、1392年から1910年まで続いた朝鮮半島の最後の王朝であり、高麗の次の王朝である。その高麗王朝は、918年に王建(太祖)が建て、1392年まで続いた王朝で王氏高麗とも呼ぶ。王氏高麗以前も含め、朝鮮半島の各王朝はシナの皇帝の冊封下にあった。そのシナの清朝を滅亡に追い込み、朝鮮をシナの支配から解放して「自主の邦」にしたのは日本であった。

 その「自主の邦」に育て上げるべく命を懸けて努力していたのが伊藤博文であった。その伊藤博文遭難の後、明治天皇の命により岩倉侯爵がその輔育にあたった。

 李王根は日本で、学習院・陸軍中央幼年学校・陸軍士官学校の教育を受け、帝国陸軍歩兵第59連隊長などを歴任し、陸軍中将になった。日本の皇族・梨本宮守正王の長女・方子女王と結婚し、純宗薨去後李王家を継承したが、李王家は途絶えた。

 日本人はもとより、韓国・北朝鮮人も在日韓国・北朝鮮人も、大韓帝国成立までの経緯や大韓帝国が韓国併合により消滅後も、李王家が日本で以下に大事にされていたか知るべきである。王家は国民統合の象徴であったのだ。

 今、韓国は、譬は良くないが中学校の生徒会長を選ぶような方法で大統領を選び、その大統領の親族が汚職で摘発されたりしている。韓国の「国家」は、そのよう大統領の行政のための「国家」のようである。もし、韓国に日本の天皇のような国民統合の象徴があれば、韓国の「国家」は日本の「国家」ともっと近い関係になっていたであろう。

2012年3月13日火曜日


韓国併合(六)安重根(あんじゅうこん、アンジュングン)の伊藤博文暗殺(20120313)

 “伊藤博文は日露間に協調路線を築く必要を感じロシアのココーツォフ蔵相とハルピンで会談する為、明治四十二年(一九〇九年)十月二十六日、ハルピン駅に到着した。九時二十五分ココーツォフが整列した人達を紹介した後儀仗兵を閲兵しているとき、伊藤の二メートルの距離まで接近した安重根はピストルを発射、七発中三発が腹部と胸部に命中した。伊藤は「ヤラれた。三つばかり弾が入ったようだ」「何者か、森もやられたか」と問い、やがて言葉が通じず、午前十時に落命(六十八歳)した。衝撃は日本国内を走っただけでなく全世界を驚かせた。十一月四日、日比谷公園で国葬の礼をもって弔われた。

 伊藤博文が暗殺されたことに対する世界の反応は、すべてその死を悼み偉大だった伊藤博文の功績を讃えるものであった。

 安重根が伊藤博文の暗殺を行ったのには次の様な事件があったのだった。

 明治四十一年(一九〇八年)三月彼にとって刺激的な事件が知らされた。韓国の外交顧問であったドーハム・スチーブンスが帰米した時、サンフランシスコで記者会見してつぎのような発言をしたのです。

 「韓国の王室と政府は腐敗堕落しきっており、頑固党は人民の財産を略奪している。そして人民は愚昧(ぐまい)に過ぎる。これでは独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされたであろう。伊藤統監の施策は、朝鮮人民にとって有益で、人民は反対していない」

 これを三月二十二日の新聞で知ったサンフランシスコ在住の韓国人・張仁煥(チョウジンカン)らは激高して、スチーブンスの所に押しかけたが、彼は発言を撤回しません。翌日スチーブンスはワシントンに出発するため駅に出かけました。そこを狙って張はピストルを連発して射殺しました。それを知った安重根は、スチーブンスは日本の傀儡でしかない。彼を操っているのは、伊藤博文である。伊藤こそ撃つべきだと決意するようになったのです。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』)

 安重根は、韓国に対する日本国内の強硬派を伊藤統監が抑えて、あくまでも併合に反対し、韓国の保護育成に力を注いでいる事などに対する認識がなく、本人はウラジオストックに住んでいて伝聞に基づいて、日本憎しとのみ考えて、その中心人物を殺害することによって、その怨みを晴らそうとしたのであった。

 彼は検察官の尋問に対して、伊藤博文の十五の犯罪と称するものを列挙しているが、それは全く安重根の誤った認識であり、情報不足、勉強不足によるものであることが、名越二荒之助著「日韓二〇〇〇年の真実」の中に詳しく書かれているが、紙面の都合上省略させて頂くことにする。

 安重根は伊藤博文を韓国侵略の元凶と考え、義兵闘争でゲリラをやるよりも直接射撃による暗殺を敢行したのである。その結果は彼が願っていた事と正反対の韓国併合へと進んでいったのである。伊藤統監暗殺は韓国にとっても非常に深刻であった。” (続く)

2012年3月12日月曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(つづき)(20120312)

 “皇帝は伊藤総監と会い、「ハーグへの密使事件は自分の知らないことである。内閣は退位を要求しているが、それは不当だと忠告してほしい」と懇願しました。それに対して伊藤は、「陛下がいかに弁明されても、証拠はすべて臣(伊藤自身)の手中にある。この事件は欧米も知っていることだからどうすることもできぬ。退位問題は韓国自身のことであって、自分は関与できない」と答えるだけでした。

 十八日、第三回の御前会議が開かれました。その時、宋らは、譲位を勧告しても聞き入れられない時は、一死あるのみ、として何人かの閣僚は拳銃を用意して臨みました。会議が開かれ、各大臣が譲位を勧めても、高宗は、「譲位するくらいなら死んだ方がましだ」と答えるのみです。そこで宋は進み出て声を張りあげました。

 「それではお願いだが、死んでいただきたい。陛下が死なれれば国と王室は生きるであろう。もし陛下が死なれなければ、我々が死ぬのみである。しかし我々が死んでも、国に何の益にもならない。しかし陛下が死なれれば国家社会は救わる。どうぞ死んで頂きたい」 かくして皇帝はやっと第二子坧(せき)(純宗)に譲位しました。

 皇帝をそこまで追い込んだ宗秉畯のすさまじいばかりの迫力には驚くべきものがあります。彼の執念に似た気迫はどこから出るのでしょうか。(中略)

 彼は金玉均に繋(つな)がり、ほぼ十年間にわたって日本各地を巡歴(じゅんれき)しています。妻は日本人であり、日本を知悉(ちしつ)しています。

 それに東亜の大局を見、どうにもならなくなった韓国の国民生活と宮廷の腐敗を立て直すには、日本に接触して刺激を受け、協力するしかないという燃えるような信念を持っていました。日露戦争にも協力し、李容九を会長とする一進会を組織し(一時、百万人の勢力を自称)死地に身を投ずること十数回、波乱万丈の生涯を貫きました。

 現在の韓国では、宋秉畯は、李完用、李容九等と共に、売国奴の筆頭に挙げられていますが、その動機は憂国の至情に発していることを否定できないのです。これら親日派を売国奴と呼ぶなら、親清、親露路線を歩んだ人々も同じ売国奴でありましょう。それよりも韓国にとって大切なことは、当時国際情勢の厳しさを弁(わきま)えず、事大主義に陥って国論が分裂し、国家としての対応ができなかったのは何故か、その点こそ追及すべきでありましょう。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』

(五)軍隊の解散と義兵闘争

  高宗から純宗へ遂に譲位式が行われた明治四十年(一九〇七年)七月二十日暴動が各地に起った。救国を目的とした民衆の自発的な武力闘争を韓国では義兵と呼ぶ。当日は李完用首相の自宅も焼き打ちされた。しかし伊藤統監は七月二十四日韓国政府との間に第三次日韓協約を結び、行政と司法の分離を定め、続いて純宗皇帝の「詔書」により韓国軍隊が解散させられた。

  当時の韓国軍は軍隊内に両班(ヤンバン)(貴族)制がそのまま生きていて、命令が伝わらず、とても規律ある軍隊ではない状態であったので傭兵制度を廃止して徴兵制度を実施する為に一旦解散を決めたのであった。その当時の韓国軍は一万人であった。その解散させられた軍隊が義兵と合流し、義兵運動は武器と組織を得て各地で激しい抗日運動を展開した。

  資料によれば義兵闘争には韓国軍の実態を知っている旧将校は殆ど加わらず、戦闘行動を知らない民間の儒者や下士官が中心であった。

  彼らは自ら「義兵」と称して日本人警察官や一進会会員を狙い特に一進会会員は断髪していたため狙われ易く、一年間に九百六十六人が虐殺されたと言われている。

  やがて義兵の中には盗賊まがいの行動を起こす集団も出てきて民間で「自警団」が作られる始末で、義兵闘争は約四年間で終息した。武装義兵約十四万、日本軍との衝突回数は二千八百回、死亡した義兵は一万四千名以上に上がったと言われている。” (続く)


2012年3月11日日曜日


韓国併合(四)ハーグ密使事件と皇帝の退位(20120311)

 “明治四十年六月、オランダのハーグで開かれた「万国平和会議」に皇帝は三人の密使を送り保護条約の無効を訴えようとした。しかし保護条約はすでに各国に通知されていたので、ロシア代表の平和会議議長は、韓国に外交権が無いからと密使の出席を拒否した。

この事件は当然日本に知れて、その真意を皇帝に質すと、皇帝は例によって「その様な命令はした覚えはない」と否定した。この事件が報道されると、伊藤の軟弱政策の失敗を衝き一挙に合併すべしとの世論が上がった。さすがの伊藤も自分の真意を裏切る行為に激怒し「日本は韓国に対し宣戦布告する理由がある」とする抗議文を韓国政府に提出した。(以下名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』より)

 それを受けて七月六日より皇帝を迎えて午前会議が開かれました。農商工部大臣宋秉畯(ソウヘイシュン)は勇気を振るって皇帝に詰め寄りました。(この会議の模様は田端元氏の『東亜先覚士伝・中』・韓相一『日韓近代史の空間』等に詳しい。)

 「伊藤総監は決して韓国を奪おうとしているのではない。……彼の欲心といえば、貧弱な我が国を扶けて日本のようにしたいだけである。それに対して陛下は日本の善隣を破るために一億からの金を費やされた(ハーグへの密使派遣を指す)。この巨額の資金は陛下が稼がれたのではなく、人民の血肉であった。……これまで陛下が日本の信義に背かれた事十三回、事実が暴露されれば必ず、知らずと言い、罪を重臣に転嫁し、重臣を殺された事、数知れず、人を殺すこと、草を刈るが如きであった。今や新聞事件(英人トマス・ベッセルが発刊する『大韓毎日申報』に日本を誹謗する新翰が掲載)を合わせて十五回目の背義に及ぶ。ただ伊藤総監が寛容の心を持って陛下の悔悟を待つ態度をとっているにすぎない。

 今回は既に問題が重大化し、日本政府も強硬なる決心をもって臨んでいる。もし統監が陛下に対して罪を問うた時、責任を免れることができるどうか」

 彼はこの様に切々として直言しました。すると皇帝は、
 「それではどうせよと言うのか」
 「およそい二つの方法がある。一つは日本の行幸をして、親しく天皇陛下にお詫びするか、朝鮮軍司令官長谷川好道大将に罪を謝するか。さもなくば日本との開戦しかない」

 それを聞いて皇帝は激怒し、「お前のような男を重用するのではなかった」と捨台詞(すてぜりふ)を残して奥へ入ってしまいました。

 その後何回か閣議を開き、宋は閣僚に対して、「今回の事件も内閣の責任ではない。すべて陛下の招かれた禍いではないか。退位して謝罪して貰うよりほかはない。陛下と国家とどちらが重要か」と迫りました。

 李完用首相も「この際、韓国のために高宗に譲位して貰うよりほかはない。それが王室を守る道である」と考え、その旨を皇帝に上奏しましたが、皇帝は聞き入れません。

この御前会議の模様が外部に伝わり、「李内閣は乱臣賊子の団体で、宋秉畯はその巨魁である。彼を斬るべし」という声が起き、首都は騒然となりました。”       (続く)

2012年3月10日土曜日


韓国併合(三)伊藤博文 初代統監の真意(20120310)

 “保護条約が締結されると、伊藤博文が初代の韓国統監となり、翌年の明治三十九年(一九〇六年)三月二日に着任しました。

 彼は明治四十二年六月まで統監の地位にありましたが、指導方針は一貫して韓国を近代的独立国家として育成することにありました。約三年に及ぶ統監時代、施政改善に関する協議会を閣僚との間に持つこと九十七回、皇帝に上言すること二十二回に及びました。

 現在、韓国の教科書は、伊藤博文を「韓国侵略の元凶であり、大陸侵略の推進者」と書き、千円札に博文の肖像画が登場した時には、韓国から抗議の声があがったことがあります。しかし彼は韓国を併合することには反対であり、彼の政策は、日本国内では「韓国本位にものを考え過ぎる」として不評を買った程です。彼は統監としてどんな態度で臨んだのか。明治四十年五月二十八日、統監府の課長以上の幹部(日本人)に対して次のように訓辞しています。

 「苟(いやしく)も数千年の歴史と文明とを有する国民は、決して獣畜の如く支配すべきものではなく、また支配できるものでもない。日本の識者は決してこのような暴論(当時の日本国内の韓国併合論のこと)に賛成せず、またわが陛下の御思召(おぼしめし)も決してそうではない」

 また同年の五月三十日には、李完用内閣に対して、次のように叱咤しています。

 「凡(およ)そ国家は自ら独立するの要素なくして単に他国のみによりて立ち得るものに非ず。今日の如くして進まむか、夫れ韓国を滅するものは他国に非ずして韓国自身ならむ乎。故に諸君は反復裏表なく専心一意韓国の為に謀らざるべからず。自分は諸君を助け、韓国をして自立せしめ得る様尽力しつつあり、然るに韓人は日露戦争の如き大激戦を目撃するも尚覚醒せざるは何事ぞや」

 「日本は朝鮮の独立を望み、彼の条約(保護条約のこと)を締結せり。故に韓国を強いて独立国なりと言わしめたるは日本なり。……日清の役(えき)にて韓国は清国の羈絆(きはん)(束縛)を脱したり。ロシアの、手を韓国に伸ばすや、之を拒まず、韓国の独立を謀る者は却って之を嫌悪し、遂に日本をして韓国のために露国と干戈相見るのやむなきに至らしめたり。故に今日外交権を日本の掌中に収めるは当然なり。何となれば之を依然として韓国の手に存せんか、韓国はいつまでも列国の競走場となり……それ韓国を滅するは他国にあらず、内外の形勢を察知せず、無謀軽挙を事とする韓人なり」

 ここに明治以来我が国が韓国に対して採ってきた政策の基本があります。…(中略)…
 にも拘わらず、それより三年後の明治四十三年(一九一〇年)、日本は韓国を併合してしまいした。何がそうさせたのか。ここに日韓領国にとって大きな教訓が秘められています。(名越二荒之助(なごしふたらのすけ)『日韓二〇〇〇年の真実』より。…(中略)…

 韓国は…(中略)…伊藤博文は韓国が自主独立国になることを願って真剣に指導していることをよく理解して、日韓が友好国になることを願うなら反日を煽る言動は止めて貰いたいものである。”                          (続く)

2012年3月9日金曜日

朝鮮に投じた日本の血税63兆円:資源を奪ったなど・①松木国俊AJER2012.3.1(3)

収奪されたのは日本人だった:大局から見た日韓併合②松木国俊AJER2012.3.8(2)


韓国併合(二)日韓保護条約の締結(20120309)

 「韓国併合(一)一進会(つづき)(20120307)」続編。当時の韓国には①「国家」は憲法に定めるところにより運営される、②「国家」は国民の代表者による議決に基づき運営される、③「国家」の運営には権力を掌握している個人または集団の意思が反映される、の三つのうち①と②はなく、③のみであった。

 今60歳代前後の人たちの中には「ロシアの南下を防ぐにあたり日韓両軍で対処すればよかった」という趣旨のことを口にする人がいるが、その人たちは明らかに自虐史観で洗脳されている人たちである。アメリカの戦後政策によりマインドコントロールされている人たちである。

以下再び『大東亜解放戦争』から“”で引用する。
“この条約を締結するために特命全権大使として明治の元勲伊藤博文が任命されました。彼は明治天皇の親書を持って、明治三十八年十一月四日韓国に出かけました。

 親書の一部には、

 (貴国は不幸にして国防を未だ備(そな)わらず、自衛の基礎未だ固からず、為に従来往々にして東亜全局の平和を確保するに足らざりしは、朕の遺憾とする所なり。故に去歳両国間に協約を訂し、以て貴国防衛の責務を帝国に担任するに至れり。今や幸いに平和は克復せられたりと雖も、之を恒久に維持し、将来事件を起こさない為、両帝国間の結合を一層鞏固ならしむること極めて緊要なりとす。)とあります。

 伊藤博文は明治天皇の意を体して、韓国皇帝に最初四時間に亘って誠意をもって陳奏しました。

当時の韓国には皇帝の任命する内閣はありましたが、議会がなく、いわば皇帝の専制国家でした。しかし韓国国内には保護条約に反対する不穏な空気があり、日本軍は王宮前の街路で武力による示威運動を行い、条約を締結するよう圧力を加えました。

伊藤全権は閣僚を個々に説得し、十一月二十七日には皇帝の加わった御前会議が開かれました。御前会議では、日本側の提案を拒絶する線が打ち出されました。頑強に反対するのは首相の韓圭せつ(かんけいせつ、‘せつ’咼の上に‘ト’ が付いた文字。)です。伊藤全権は首相を説得し、全閣僚の出席を求め、一人一人の意見を求めました。

閣僚の五人は「一応協約を締結することによって韓国の国体を護持し、力を蓄えるよりほかない」として賛成しましたが、首相他二名は反対に回りました。全権は最終的に皇帝の意思を尊重し、「韓国ノ富強ノ実ヲ認ムルニ到ル迄」約定する旨を書き入れ、遂にまとめました。

その経過は「朝鮮の保護と併合」(大正五年、朝鮮総督府)という当時の極秘資料の中にまとめられていますが、これを読めば伊藤博文の外交的凄腕に、さすが明治の元勲だけある、と感嘆させられます。(名越二荒之助『日韓二〇〇〇年の真実』(名越先生の筆跡、語調をそのまま引用させていただきました)”                (続く)

2012年3月7日水曜日


韓国併合(一)一進会(つづき)(20120307)

 そもそも「国家」というのはどのように運営されるのであろうか。思いつくままに挙げてみると以下のとおりである。
    「国家」は憲法に定めるところにより運営される
    「国家」は国民の代表者による議決に基づき運営される
    「国家」の運営には、権力を掌握している個人または集団の意思が反映される

 20世紀初頭の韓国は上記①も②もなく、③によって運営されていた。伊藤博文は当時の韓国という「国家」が①及び②によって運営されるように渾身の努力をしていた。
因みに中国の場合は形式的には①及び②により運営されているように見えるが、実態は中国共産党が自ら定めた「中国共産党綱領」「日本解放工作綱領」などによって運営されていると見なければならない。

第二次日韓協約(日韓保護条約)の締結により初代韓国統監となった伊藤博文は日本人に対し「数千年の歴史と文明を持つ韓国民に対し、併合などという暴論に支配されてはならない」と訓辞し、韓国の閣僚に対しては「韓国を滅ぼす者は他国ではなく韓国自身である。日露戦争のような大激戦を目にしてまだ、内外の形勢を察知せず、覚醒しないとは何事であるか」と叱っている。

 以下『大東亜解放戦争』(岩間 著、創栄出版)より“”で引用する。
“(二)日韓保護条約の締結
約一年半に亘る日露戦争は日本の勝利に終わったが、ロシア軍は南満州の西部から撤退したものの、豆満江方面の韓露国境地帯や鴨緑江流域は変化なく、それに韓国の宮廷や官僚はもちろん、国民の間にも親露傾向が根強かった。いつまたロシアの勢力が浸透し韓国が便乗するか判らない。そうなると何の為に国運を懸けて日露戦争をやったか意味がなくなってしまう。

この為日本の世論は韓国併合を強く期待し、政府内では「この際併合すべし」という積極派と「当面保護国として独立国家となるよう育成しよう」という消極派に分かれていた。

日露講和のポーツマス会議を終えた小村にルーズベルトは「将来の禍根を絶滅させるには保護化あるのみ、それが韓国の安寧と東洋平和のため最良の策となるべしと言った。また、ランズダウンの如きは「英国は日本の対韓措置に異議なきのみならず、却って欣然その成就を希望する」とまで言い切った。またロシアもポーツマス条約で「露西亜帝国政府は日本政府が韓国に於いて政治上軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有することを承認」していた。

此の様な状況の下、明治三十八年(一九〇五年)十一月「第二次日韓協約」が調印され、韓国の外交権は日本の掌握するところとなった。この「日韓保護条約」は別名「乙巳(いつし)条約」とも言われる。

保護条約の交渉で高宗は伊藤博文に対して国家としての形式と体面を残して欲しいとの希望を繰り返し哀訴したと言われるがその胸中たるやまことに憐れむべきものがある。(中村粲『大東亜戦争への道』)”                      (続く)

2012年3月6日火曜日


「憎しみ・闘争」と「信頼・分かち合い」(20120306)

 「韓国併合(一)一進会(つづき)」まで筆がなかなか進まない。韓国を愛した伊藤博文が何故暗殺されたのか、この後再び『大東亜解放戦争』を引用しながら考えることにしたい。先ずは、人類が獲得した「分かち合い」の行為を妨げているものについて考えてみたい。

 日本には靖国神社内の記念館、広島の戦艦大和記念館、知覧の記念館などがあるが、中国にあるように史実を曲げてまで「日本軍が残虐であった」とか、韓国になるように伊藤博文を暗殺した安重根が英雄であったとか、従軍慰安婦像もそうであるが、他国に対する憎しみを煽るような展示物はない。

アメリカには「パールハーバーを忘れるな」という合言葉を強調するような記念館があり、日本には「ノーモアヒロシマ」という記念館がある。アメリカの記念館は言ってみれば日本への憎しみを忘れさせないようにするようなものであり、日本のものは「人類は決してこのような原爆を使用してはならない」という願いを込めたものである。

 さて、人類は約1万年まえ自然の穀物の中から栽培に適したものを試行錯誤の繰り返しで作り出すことができた。それを契機に縄張りを挟んで他の部族との対立が始まった。しかし一方で対立を避け、「分かち合う」ことの大切さも身に付けてきた。研究結果、人類は「分かち合う」ことに大きな喜びを感じる気持ちが非常に強いということが分かっている。

 国境を隔てて対立しあう日本と中国・韓国・北朝鮮であるが、皆同じ人類である。文化や歴史や言語や人々の種類が異なっていても同じ人類である。個々の国民同士になれば「分かち合う」気持ちが表面に出てくる筈である。それを妨げているのが「国家」である。

 日本の場合天皇が人々中心にあり、古来天皇は日本民族の族長のような、家長のような、宗家のような存在であった。『日本書紀』などの歴史書を読めば、天皇が奈良時代以前の昔から如何に人々の幸せや国の安定を願ってきたかということが分かる。例えば譲り合いの末に即位され、その善政が後年の模範にされた仁徳天皇(在位313214- 39927日)は、家々から炊事の煙が上がっていないことを愁い、煙が上がってきたことを喜ばれた。江戸時代の詩人・歴史家であった頼山陽はそのことをこう詩に書いている。

     炊煙起
煙未浮。 天皇愁 煙已起。 天皇喜
漏屋敝衣富赤子 子富父貧無此理
八洲縷々百萬煙 簇擁皇統長接天

 さてこのような日本は、中国や韓国・北朝鮮の「国家」とどう向き合えばよいだろうか?その答えは、先ずそれらの国々「国家」と「国民」を分けて向き合うことである。お互い国民同士は貿易・観光・文化等の各分野でよく交流しあえば、両国民の間で「信頼感」が増え、自ずと平和が生み出されることであろう。

一方、「国家」自体も一つの組織体として生き残ってゆくために、とかく他の「国家」と衝突しがちである。その衝突を未然に防ぎ、もし衝突が起きた場合に対処するため「国家」は軍隊を持つ。

日本を取り巻く東アジアの現状では、鳩山元首相・小沢一郎氏や自民党の谷垣総裁・加藤紘一氏ら理想主義者が考えるような国家戦略では日本の平和と独立を守りとおすことは絶対できない。こういう世代の政治家たちには、次期選挙で是非第一線から退いてもらわねばならぬ。