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2012年7月23日月曜日


人の一生は宇宙から見れば一瞬にも満たない(日韓問題を考える手がかり)(20120723)

 わが太陽系は天の川銀河の端っこの方にある。その太陽系の中のわが地球から約3万光年の彼方にちりやガスに覆われた最大級の巨大星団が発見されたという。その質量は太陽の10万倍以上でブラックホールの母体の可能性があるという。天の川銀河の年齢は約129億年であるという。この我々の天の川銀河の近傍にアンドロメダ銀河があり、この銀河は秒速約122kmの速さでわれわれの天の川銀河に接近して、約約40億年後には衝突するという。衝突してもこの地球がアンドロメダ星雲中の星とぶっつかる可能性は低いらしい。しかし我々の地球は太陽の膨張によりあと数10 億年ほどで生物が住めなくなると言われているから天の川銀河とアンドロメダ銀河が衝突する前に人類は宇宙の何処かに移住しているだろう。


人の一生はそのような宇宙から見れば一瞬にも満たない。我々現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生したのは約20万年前のことであり、誕生した場所はアフリカの大地溝帯である。人類の祖先は一人の母親又は一組の夫婦であり、そのホモサピエンスの親又はその親、または数代以前がまたホモサピエンスであったかもしれない。しかし最初の一人又は一組の夫婦の親はホモサピエンスでなかった。

ホモ・サピエンスは14万年前アフリカの大地溝帯を出ては瞬く間に地球上の各地に拡散した。世界中のホモ・サピエンスの共通の母は35人であると言われる。この日本列島にも北から西から南からやってきて、それが混血し日本の縄文人になった。日本人の祖先の母親は9人いたと言われる。

母親が9人もいた縄文人の遺伝子は非常に多様であった。ミトコンドリア遺伝子のタイプでM7aは日本列島のほか、朝鮮那部と沿海州に少し分布している。一方Y染色体遺伝子のD2型は朝鮮半島南部に散見されているほかは日本列島にしか存在していない。このD型はシナ(中国)大陸や朝鮮半島には存在せず、D1型・D3型がチベットやビルマに分布しているだけである。また、C1型は日本列島だけにしか存在していない。

2800年前から3000年前に、長江流域から海を渡り、あるいは黄海南部から朝鮮南半島南部を経由して九州にやってきた渡来系弥生人は、圧倒的多数の縄文人と混血し古墳時代の日本人となった。長江流域からやって来た人々は水稲・漁労の技術をもっていた。当時長江流域に黄河文明よりも1000年古い文明が花開いており、人々の形質の特徴は、面長・長身・のっぺり顔であった。(関連:201255日土曜日『発掘された人骨から復元した原日本人の顔立ち(20120505)』)

彼らはY染色体O亜型の集団であると言われている。この人々は約9000年前、華中・長江流域では水稲農耕を行っていた。2800年から3000年前、気候の寒冷化の影響で、華北から狩猟・畑作の民であった漢族が南下してきて、長江流域で水稲農耕を行っていたY染色体O3亜型の集団が住む地域に侵略してきた。漢族の圧迫を受けたY染色体O亜型の集団はシナ(中国)南部やその南の山岳地帯、今の雲南省や台湾などに追いやられた。

その中でY染色体O2bの集団の一部は、山東半島を経由して朝鮮半島南部から九州に、或いは長江流域から直接九州に家族単位で移動し、先住の縄文人と混血していった 弥生時代、九州や西日本に水稲農耕技術を伝えたのは、このO2b型集団であった。彼らが渡来系弥生人であり、先住の圧倒的多数の縄文人と混血した人々が、いわゆる「倭人」である。倭人は九州・西日本に住んでいたが、朝鮮南部にも住んでいた。

長江流域に北方から漢族がやってきて長江流域のO亜型集団の人びとを圧迫した。長江流域のO亜型集団の人びとは山岳地や雲南省などに逃れ、また渡来系弥生人のように直接海を渡り、或いは北上して山東半島から黄海をわたり朝鮮半島南部を経由して北九州までやってきた。朝鮮半島南部にやって来たY染色体遺伝子O2bの集団の一部は朝鮮半島南部に残った。そういう意味では朝鮮半島に住んでいる人々は、遺伝子の面で日本人と共通の部分がある。しかし朝鮮半島の人びとの遺伝子には殆どないミトコンドリア遺伝子M7aと、朝鮮半島の人びとには殆どないY染色体遺伝子D2及びC1が日本人にはある。

今、日本と韓国の間にはわだかまりが多い。勿論、シナ(中国)やロシアを意識した協調の気持ちもある。一部の「歴史が好きな」大物政治家などのように、或いは東大の歴史学者たちのように日韓同祖論を展開したい人々がいる一方で、従軍慰安婦像や日本海呼称や日本固有文化乗っ取りのことで気分を悪くしている人々も多い。天皇家の祖先は我々と同様、圧倒的多数の、しかし遺伝子が多様な縄文人と渡来系弥生人が混血して元々日本に住んでいた人びとであって、決して韓国人ではない。日韓同祖などあり得ない。日韓両国の将来のためにはならない不毛な話は、遺伝子の調査結果に基づく新たな知見をもとに無くしてしまわなければならぬ。

人類の営みの歴史が何万年とか何千年とか言っても、宇宙からみればほんの一瞬にも満たない時間の長さである。まして人の一生はさらに短い。ちっぽけな話でいがみ合うのは馬鹿らしいことである。

 

2012年7月2日月曜日


日本人が秩序を重んじ、創造性に優れている理由(20120702)

 日本人遺伝子は多様性に富んでいる。その理由は縄文人と渡来系弥生人との混血、その混血種と3世紀から7世紀にかけての大量の渡来人との混血があり、混血に混血を重ねているためであると考えられる。明治以降、さらに欧米人との混血も少なからずある。そして現在、在日特別永住者の子供たちが日本人と結婚してその子孫も増え続けている。

 日本に古来変わらないものがある。それは日本に万世一系の天皇がいるということである。天皇は支配者ではない。また武士が台頭するまで天皇は国の政治を司ってこられたが、それ以降は、それ以前でも平安時代に摂関政治が行われるようになって以降、天皇は人々に位を授け、勲章を授ける唯一の権威ある存在である。人々は位や勲章を天皇から授けられることを大変誇りにしてきた。いつの時代でも天皇は最も権威がある存在である。それは現在の平和憲法下でも変わらない。その権威は、英語でいうエンペラーの権威ではない。天皇は天皇であり、天皇という概念を英語で正確に訳すことは出来ない。訳語Emperorは、他に適当な言葉がないからそうなっているが、Ten-nouと改めるべきである。

 日本にそのような天皇がいるから、日本人はこれまで単一民族国家として存在し続けることができた。日本人は一人一人がそれぞれ多様な精神を持っているが、意識していようとしていまいと、その精神の中心に天皇が存在している。日本人の規律性、協調性、創造性、柔軟性、忍耐心などは、日本に天皇がいるからである。3.11大震災以降、それが顕著に表れた。人々は天皇がいることの有り難さを実感した。

 天皇陛下や皇族がお出ましになられる諸々の行事、祭り、神社、寺などは日本人の精神のよりどころとなる。日本人はこれらを通じて心が一つになる。同胞であることを自覚する。同胞、それは母を同じくするということである。日清戦争の戦雲が漂うようになったとき、明治天皇は「四方の海 皆同胞(はらから)と 思う世に なぞ波風の立ち騒ぐらむ」と詠まれた。このお歌を昭和天皇も開戦前引用された。大東亜解放戦争に敗れて、昭和天皇は占領軍司令官マッカーサー元帥に会ったとき、「私はどうなってもいいが、天皇の名の下に戦った人々を救ってほしい、国民を飢餓から救ってほしい」と述べられたという。マッカーサーは「神を見た」と感動したという。今上陛下・皇后陛下も3.11被災地を回られ、苦しい避難生活を送っていた人びとに大いなる感動を覚えた。

 今、日本に韓国・北朝鮮籍の特別永住者凡そ38万人が居住している。その数は日本人との結婚などで毎年1万人以上減り続けている。彼らも数世紀も経ないうちに皆真の日本人になるであろう。それがまた、日本人の多様性を増すことになり、結果的に日本人の優秀性を増すことになるだろう。そうあって欲しいと望まぬものは誰一人いないであろう。

2012年7月1日日曜日


古代、記録に残っている渡来人の数(20120701)

 日本列島にはもともと縄文人が住んでいた。縄文人の遺伝子は大陸に殆ど存在してないものがある。例えばミトコンドリア遺伝子タイプM7a型は朝鮮半島南部と沿海州にわずか残っているのみである。また男性にしか伝わらないY染色体遺伝子のタイプD型は日本のほかチベットに存在するが、日本の方はタイプD2型でこれは日本にしか存在しない。

 環境考古学で判ってきたことは、日本の稲作文化は長江中流域に起源があるということである。長江中流域では黄河文明よりも千年古い稲作・漁労文化が栄えていた。5000年前から2500年の間に世界的に起きた気候の寒冷期に北方で畑作牧畜を行っていた漢族のルーツにつながる民が南下し、稲作漁労の民は雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われた。長江流域の一部の民はボートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本へ到達した。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社))

 ボートピープルたちは二手に分かれたであろう。一つは大陸沿岸伝いに北上したであろう。朝鮮半島の南部に辿り着いた人たちはそこで自分たちの稲作・漁労文化を定着させただろう。やがてそういう人々が渡来系弥生人として日本にやって来た。もう一つは長江河口から太陽が昇る方向に進めば九州の鹿児島に辿り着く。渡来系弥生人たちは初め先住の縄文人たちと住み分けていたかもしれない。やがて共生し、混血していっただろう。彫の深い縄文人には美男・美女が多かったと考ええられる。彫が浅い渡来系弥生人の男たちは縄文人の女性に魅力を感じたに違いない。縄文人と渡来系弥生人とが混血して古墳時代の人々になった。縄文人と、渡来系弥生人と古墳人の容貌について、このブログ「発掘された人骨から復元した原日本人の顔立ち(20120505)」で紹介している。

 古墳時代人はヤマト人である。ヤマト人がシナ大陸の漢人や朝鮮半島の人々と交流するうちに、日本には特に朝鮮半島から非常に多く人々が渡来して帰化した。彼らは天皇から氏姓を与えられ、居住地を与えられた。彼らは当時の日本人よりも進んだ技術や職業の能力を身につけていたので、朝廷は彼らの能力を大いに活用した。今の日本人は古墳時代の人々と朝鮮半島から次々日本に渡来して来たそういう人々と混血した人々の子孫であると言えるであろう。今の日本人は、1000年も経てば古墳人そのままの遺伝子の型を形質のすべてにわたり完全に残している人はいない筈である。父方のそして母方の系統をそれぞれ遡って行けば、必ずどこかで渡来帰化人とのつながりがあるはずである。日本民族は天皇がいることによって単一民族であり得ることを、すべての日本人は認識すべきである。

 「日本書紀」に記されている渡来人は概ね次のとおりである。
 応神十四年(283) 弓月君(ゆつきのきみ)が百済より、民120県引き連れて帰化。弓月君は、後に秦の帝室の後裔とされることにより、秦氏の祖とされた。
 応神十六年(285)、百済から王仁氏帰化。王仁氏は書首連の始祖で本拠は河内国古市郡古市郷。河内在住の史姓諸氏の中心的地位。西文(かぶちのふみ)氏という。王仁氏は、それ以前に百済から帰化していた阿直伎(あちきに)が天皇から求められて百済王に人材派遣を要請。その結果渡来。阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖。子孫は朝廷で文筆専門の官人。
 応神二十年(289)、後漢霊帝の後裔とされる阿知使主(あちのきみ)がその子・都加使主(つかのおみ)と自分の配下の民17県を引き連れて帰化。倭漢氏の始祖。
 応神四十年(306)、阿知使主に遣わせられた都加使主、シナ江南地方の呉の王に要請。応神三十九年(309),呉から衣縫専門の技術を持つ女性職人4(グループ?)を連れて帰国。そのうちの一つは筑紫国の御使君(みつかひのきみ)の祖。
 雄略七年(462)、新たに漢人の陶器製造・鞍造・絵・衣縫・通訳など専門技術者集団渡来帰化。今の奈良の今来郡(高市郡)に本拠を置く東漢氏によって管理された。
雄略十四年(469)、呉より。
 雄略十五年(470)、秦の民、18,670人帰化。

 663年の白村江敗戦、百済滅亡。この時帰化した人々は学術・兵法・築城・薬学・儒学・天文学など各分野で活躍したことが天智天皇十年(670)春正月の条に出ている。
天智二年(662)、百済の王族を難波に居住させた。
天智四年(664)、百済の民男女400人余り、近江国神前郡に居住させた。
天智五年(665)、百済の男女2000人余り、東国に居住させた。
天智八年(668)、百済の貴族・男女700人、近江国蒲生郡に居住させた。

天武四年(676)、渡来時期は不明な唐人30人、筑紫国から天皇に献上。

 高句麗は新羅に攻められて668年に滅亡。
持統元年(686)旧暦315日、高麗人56人、常陸国に居住。
持統元年(686)旧暦322日、新羅人14人、下毛野国に居住。
持統元年(686)旧暦410日、新羅人22人、武蔵国に居住。
持統二年(687)旧暦48日、新羅人(人数不明)、下毛野国に居住。
持統四年(689)旧暦211日、新羅人50人、帰化。
持統四年(689)旧暦53日、百済人男女21人帰化。

 聖武天皇御世、天平五年(733)62日、「武蔵国埼玉郡の新羅人徳師ら男女53人を請願によって金(こん)の姓とした「続日本紀」。

2012年6月30日土曜日


ナンバー2は難しい立場である(20120630)

 壬申の乱の大友皇子は、既に叔父である大海人皇子が父・天智天皇の皇太子であった。その大海人皇子は兄・天智天皇が皇太子のころからずっと天智天皇の朝廷のナンバー2であった。天智天皇に大友皇子という後継ぎができて以降、ナンバー2といいながら大友皇子を立てなければならない立場であった。だから、天智天皇が病に臥し天皇から呼ばれて「後を汝に託す」と言われたとき、「自分は病気がちであるのでうまくやってゆけそうもない。皇后に天皇になって頂き、皇子・大友皇子太政大臣として政務を行っていただき、自分は出家したい」と願い出た。天皇から許されて出家し、所持していた兵器を国に納め、妃とともに吉野に下った。そして天智天皇崩御後の近江朝廷の動静を注視していた。

 天智天皇崩御後、既に東宮職を返上して出家しているとはいえ大皇弟(天智天皇の実弟であるので「大皇弟」と尊称されていた)である大海人皇子は、朝廷内ではナンバー1の立場である。一方、ナンバー2である大友皇子は天智天皇の御子とはいえ影の薄い存在である。悪しき取り巻きにより天皇に担ぎ上げられて、最後は左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣連金に逃げられ、裸の皇子になってしまった。取り巻きの一人、右大臣・中臣連金は藤原鎌足の従兄弟である。彼は身の程も知らず、大友皇子を担いで朝廷内で権力を得ようとしたである。

鎌足は天智天皇が皇太子の時代から天智天皇の全幅の信頼を得ていた天下一の逸材であった。キラッと光る人材はたまにしか現れない。鎌足の従兄弟とはいえ鎌足に及ぶ人材はいない。中臣連金は右大臣にまで出征していたが、その資質は鎌足に遠く及ぶものではなかった。金は身の程を弁えず大友皇子について朝廷での権力を手中にしようとして失敗したと考えられる。友は類を呼ぶ。天智天皇崩御後、赤兄や金、特に金に、大友皇子に取り入って自分たちに都合の良い政治をやってもらおうとした勢力に利用されたに違いない。

天武天皇元年(673)八月二十五日、事件関係者が処分された。太宰府長官も歴任した赤兄は地方に流され、金は八虐の罪により斬刑に処せられた。赤兄の子、金の子らも地方に流された。金(中臣金連(なかとみのかねのむらじ)は天智天皇十年(670)春正月一日、大友皇子が太政大臣に任命されたときに神事の祝詞をあげている。そしてその日、赤兄は左大臣に、金は右大臣にそれぞれ任命されている。

 持統天皇元年(686)十月、謀反の罪で処刑された大津皇子も天智天皇の朝廷でナンバー2の地位にあった。大津皇子も天武天皇が崩御直後、謀反が発覚した。大津皇子は皇太子・草壁皇子よりも目立っていた。其処が問題であった。大友皇子の場合は大皇弟・大海人皇子が出家したので取り巻きが大友皇子を利用しようとした。大津皇子の場合は、皇子自身が目立つ存在であったので、これにすり寄って来る者がいた。その中に新羅人・僧行心がいた。

ナンバー2は自らの立場や状況をよく弁えていないと失敗する。聖武天皇の御世、太政大臣として剛腕を振るっていた長屋王も無位の中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)らの讒言により謀反とされ、一家無理心中のようにして死んだ。ナンバー2は公人中の公人であり、自分一人ではない。自分の言動が常に利用されることを警戒し、常に謹んで目立たないように振る舞わなければならない。もし、そのナバー2が、天下無双の逸材であり、しかも全く無欲で決して表に出ようとしないならば、時機が到来すれば自然のうちに上に立てられあるものである。

ある人物の自然体が「地位も名誉も金も要らぬ」といつも思っているような性格であれば、徳は自ずと現れる。天地の動きの中で時機が到来したら、自らは望んでいなくても引き出され、担ぎ上げられるだろう。「易経」の世界が其処にあるようである。

2012年6月29日金曜日


大津皇子・妃山辺皇女の悲劇について現在に照らし別の観方をしてみる(20120629)

 岩波文庫『日本書紀』には、天武天皇崩御後、“皇后臨朝称制(みかどまつりごときこしめ)す。”とある。天武天皇の皇后は即位の式を挙げずに政務を執った。皇后は後に「持統天皇」と諡を贈られた。古代、皇后になる人は必ず皇女であった。天皇の血を引いていることが非常に重要であった。ところが、聖武天皇の皇后は藤原氏から出、桓武天皇の皇后は百済の王族の末裔の出であった。時代が下がるにつれ、出自は重要でなくなってきた。昭和に入り全くの民間人が皇后になった。そして今、女性宮家創設の話が出ている。ゆくゆくは女系天皇への道を開くことになるかもしれない。本当にこの日本の国はそれでよいのだろうか?

 『日本書紀』に“持統天皇元年(686)の冬十月(ふゆきあむなづき)の戊辰(つちのえたつ)の朔己巳(つちのとのみのひ)(二日)に、皇子(みこ)大津(おほつ)、謀反)(みかどかたぶ)けむとして発覚(あらは)れぬ。・・(中略)・・庚午(かのえうまのひ)(三日)に、皇子(みこ)大津(おほつ)を訳語田(をさだ)の舎(いへ)に賜死(みまかし)む。時(とき)に年二十四(としはたちあまりよつ)なり。妃皇女(みめひめみこ)山辺(やまべ)、髪(かみ)を被(くだしみだ)して徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見(み)る者(ひと)(みな)歔欷(なげ)く。皇子大津は、・・(中略)・・容止墻(みかほたか)く岸(さが)しくして、音辞(みことば)(すぐ)れ朗(あきらか)なり。・・(中略)・・長(ひととなる)に及(いた)りて弁(わきわき)しくして才学(かど)(ま)す。尤(もと)も文筆(ふみつくること)を愛(この)みたまふ。”とある。妃・山辺皇女の可哀そうな状況に同情して、見るひと皆すすり泣いたという。

 この事件の背後に新羅人の僧・行心(かうじむ)がいた。行心は父子とも金という姓であった。事件の関係者は行心を含め30人あまり居たが後に皆赦されている。行心は飛騨の寺に配置された。大津皇子の罪は国家(君主)を危うくすることを謀る罪であり、養老律で八虐の第一にあげられ、斬刑の処せられる。そのとおり、謀反の発覚は九月二十四日であった。関係者が逮捕され、十月二日に罪が明らかになり、翌日死刑されている。

 大津皇子は皇太子・草壁皇子に次ぐ地位にあり、しかも優れた資質をもっていたので、皇后(持統天皇)は自己の所生である草壁皇子の地位が脅かされるのを恐れ、暗に大津皇子を孤立させ、挑発させ、謀反に追いやったのではないかという説がある。

 しかしそれは現在生きる者が当時の状況を想像して言っていることである。何故、新羅人が事件に絡んでいたのか。日本書紀の原文はすべて漢文でシナの後漢書などに見習った文言である。これを書いた人はその時から400年前ごろ帰化していた文書専門の実務官僚たちであろう。新羅人行心だけでなく、そのころ帰化していた朝鮮半島新羅出身者は沢山いた。持統天皇は大津皇子事件の後、帰化した新羅人たちを各地に分散居住させている。

 それから1300年ほども経ち、その間戦国時代もあり、幕府体制となり、人々の移動は激しかったと考えられる。このため人々の血は混じり合い、今の日本人は誰でもその形質の何処かに帰化人の遺伝子に基づく要素があるはずである。

 しかし大津皇子の事件の当時は、帰化人という特殊な要素が日本の中にあったに違いない。今の時代のような堂々と女性宮家創設とかその先に垣間見える女系天皇への道を開くような構図は当時なかったにせよ、当時としては国家転覆につながるようなことが実際に起きたのではないだろうか?大津皇子自身、脇が甘かったのかもしれない。

 日本は、韓国や北朝鮮やシナ(中国)と違って、万世一系の天皇がいる国である。天皇家は日本中の家々宗家のような存在である。日本という国は、世界に類例がない特殊な縄文人と、渡来系弥生人の混血種を基層にし、朝鮮半島から渡来してきた韓人や、後漢時代朝鮮半島にいた漢人、その後時代が下がってシナ江南の呉からはるばる日本に渡ってきた人々など非常に多くの帰化人たちが混血した。

いうなれば日本人は縄文人と長江中下流域からボートピープルとして渡ってきたと考えられる渡来系弥生人の混血種を基層とした多人種・混血の民族であり、しかも天皇がいるゆえに単一民族の国である。夫婦は別称ではなく、欧米と同様。同姓である。そういう国が戦後の状況の中で、女性天皇とか女系天皇ということが人々の話題に上がり、夫婦別称とか在日移住外国人の参政権とかが叫ばれるようになった状況である。大津皇子の事件のように、誰かがこの日本の「国家を謀反(かたぶけ)」ようとしていないだろうか? 日本はこれでよいのだろうか? 我々の子子孫孫の時代には、悠久の歴史を持っているヤマト・日本という国がなくなってしまうのではないかと心配される。

2012年6月28日木曜日


天皇がいる国の性格について考える(20120628)

 「万葉集に学ぶ」と題して万葉集を読みながら古代の歴史も学んできたが、この辺でちょっと一息入れることにした。天武天皇が即位する前に起きた大友皇子の悲劇、天武天皇が崩御された後に起きた大津皇子と妃・山辺皇女の悲劇の真の原因は何だろうかと疑問を持った。歴史家・学者らは簡単に皇位継承の争いのように片付けてしまうが、本当にそうだろうか?

 日本と云う国は古代からずっと世界に類例がない構図があるように考えられる。それは万世一系の天皇の存在である。ローマ皇帝もシナ(中国)の皇帝も、天皇とは全く異なる存在的性格がある。ローマ皇帝やシナの皇帝は人民との間に心理的な垣根がある。両者の間に祖霊を同じくするという‘血のつながり’が全くない。ところがわが国では古事記にあるように‘天皇と臣民’との間には‘血のつながり’がある。国の民は人民ではなく‘臣民’であった。天皇はその祖霊に最も近い存在で現人神であった。大東亜解放戦争終結後、天皇は‘人間宣言’をされたが、それは、言うなれば‘天皇と臣民’という言い方でなくGHQの圧力を受けて教育勅語を廃止したことにより‘天皇と国民’という言い方にしたというだけである。

 教育勅語には“朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシ世々厥ノ美ヲセルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ・・”とある。その‘臣民’は、普遍的な意味での国民ではなく、古事記にあるとおり、先ず天皇の祖先は神代のとき高天原から降臨された。その祖先の神は日本の国土をお造りになり、天皇に従う人々をお造りになられた。故に日本の国土に生まれ人々は天皇の臣民なのである。つまり、天皇と臣民とは一心同体なのである。天皇と臣民とは支配者と被支配者という関係ではない。英語で天皇のことをエンペラーというが、これは間違っている。英語でそういう言葉しかないから、英語でそう訳されているに過ぎない。

 このような日本に古代、非常に多くの人々が朝鮮半島から渡ってきて日本に帰化した。シナの呉(江南地方)からも若干の職業集団が日本に渡ってきている。そのことが『日本書紀』に書かれている。大東亜解放戦争終結後、日本国籍でなくなった何十万人という人々が日本に残り、あるいはGHQ支配下新たに日本に渡ってきて永住権を得ている。それら在日外国人たちの一部やその子供たちは徐々に日本に帰化している。日本に永住している在日外国人の殆ど多くは朝鮮半島人である。

 日本と言う国を構造的に観た場合、特殊的な部分は天皇・皇統(男系)・皇室・皇族である。普天的な部分は日本人・日本語・日本の文字(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字)・伝統・文化・風習・神社・寺などである。この特殊性と普遍性は一体である。この特殊性が日本を日本としている非常に重要な部分である。

 古代、この特殊な部分に‘帰化人’があった。漢字そのものは魏志倭人伝にもあるとおり倭国(日本)の国々の間で文書が行き来していたので、すでにそのころ漢字が使われていたが、この漢字をよく使い、朝廷での文書業務を良く行わせるため応神天皇十五年(284)秋八月(あきはつき)朔(ついたち)丁卯(ひのとのうのひ)に朝鮮半島から渡来して帰化していた阿直伎(あちき)という人に「如(もし)(いまし)に勝(まさ)れる博士(ふみよみひと)(また)(あ)りや」との御下問に対し、阿直伎の推薦により、翌年春二月(はるきさらぎ)、朝鮮半島から王仁(わに)という人が渡来してきている。
 
 阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖(はじめおや)となり、王仁は書首(ふみのおびと)の始祖になって、それぞれ天皇から‘直’という氏姓を与えられている。彼らの子孫は朝廷における文書業務などに従事していた。‘直’姓は、阿直伎や王仁だけではなく東漢と呼ばれたすべて人々に与えられていた。天武天皇は天武天皇六年(677)六月、彼らに対して「お前たちの漢直(あやのあたひ)の氏(うじ)を絶さないようにと、これまでお前たちの不届きな行為を大目に見てきたが、今後はそのような先例によらず、赦さない」と言い渡している。

 古代の帰化人たちは、千数百年を経て古代の倭人と完全に同化し、血が混じり合った。今の日本人の誰も必ずその形質の一部に帰化人たちのDNAによるものが含まれている。在日外国人もいずれ年月を経て同様になるだろう。そして‘臣民’になってゆくだろう。それがそれぞれの子子孫孫に至る幸福につながるものであることは確かである。

日本民族はこのように‘多様な’出自、しかし混血した人々の集合である。それゆえに日本人は創造性に富み、協調性があり、規律がある。それも構造的に天皇・皇統(男系)・皇室・皇族という特殊部分と、日本人という普遍部分も総合的なものである。この総合性を大切に思い、永住権を持っている在日外国人であろうと、帰化した外国人であろうと、意識の上で積極的にこの特殊部分に自ら一体となるようにあることが、日本人及び日本に住むすべての人々の幸せにつながることは間違いない。

 今、わが国において天皇・皇統(男系)・皇室・皇族を重んじないような動きがあるが、これは我が国にとって非常に危険なことである。日本人は今一度、教育勅語の本旨に注意を向け、わが国の性格を普遍性と特殊性に分解して理解し、我々の子子孫孫に伝えてゆくようにしないと、日本は日本で無くなってしまうだろう。

2012年5月14日月曜日


今の世の大伴・佐伯の宿禰の役割を担う人々よ出よ!(20120514)

一部の、といってもかなり多数の韓国人によるものと推察される日本国及び日本人に対するあまりにもひどい無礼・プロパガンダに対して、多くの日本人が憤りを感じ、或いは呆れ、様々な対応をしている状況である。日韓両国の間でこの問題がエスカレートし、両国民同士の感情的対立に至るようになることはないだろうと思われるが、もともと「気」の盛んな韓国人は、日本が毅然とした態度でその「気」に立ち向かわないかぎり、彼らはそれを良いことにしてますます激しい行動に出るだろう。現にその傾向にある。

諺に「毒をもって毒を制す」「蛇の道はへび」と言う。韓国人のなかには自国民が報道されているように余りにも程度が低い状況を見て、嘆いている人たちもいるかなり筈である。いやそう期待したいところである。そこで日本としてはそういう“良識ある”韓国人に立ちあがって貰って、自国民の「気」を「理」をもって制御してもらうことは出来ないものであろうか? 外務省あたりでそういうことも密かに考えて実行して貰うことはできないものだろうか? そのためにはまず我々の足元を固めなければならない。

我々日本人は、民族として「単一」である。歴史・言語・文化・伝統などは世界の中で独特なものがあり、日本人の心の深奥に日本人のアイデンティティの根源として天皇及び国旗と国家がある。一部の馬鹿な政治家や学識者やマスコミ関係者らが“得意ぶって”このアイデンティティを壊してしまいかねないような言動をしているが、大多数の日本国民は健全である。大多数の日本国民は積極的には発言しないが、彼ら馬鹿な連中の言動に対して潜在的に批判的である。

一部の馬鹿な政治家や学識者やマスコミ関係者らが居るのは、日本人のDNAの多様性がそうさせるのであろうと考えられる。日本人のDNAの多様性は、人類が出発したアフリカに住む人々のDNAの多様性に匹敵するほど多岐にわたっている。アフリカと日本以外では人々のDNAのハプログループの数は多くない。縄文人のハプロタイプは世界に類を見ない特殊なものがあり、弥生期には縄文人と日本に渡って来た長江流域の人々との混血が進み、その後騎馬民族系の人々の血も混じり、近現代にはヨーロッパ系の人々、戦後はアフリカ系の人々の血も混じりつつある。日本人は人種的には世界に類をみないような混血種である。ある意味で日本人は「多人種混血種」である。

日本人が混血種であるということは、日本人の強みでもある。日本人は創造性に富み、進取の気性に富み、柔軟で規律心があり、外敵・外圧に対して一致団結してこれに対処する団結心がある。「以心伝心」は日本人の特性である。漢字文化がその特性を涵養している。アルファベットやハングルではそれは難しいだろう。

しかし、戦後「教育勅語」は廃止され、一家に「家長」がいるという家族制度が壊され、戦前の人なら暗記していた歴代天皇の名前に今の人々は関心が薄く、『古事記』や『日本書紀』の神代のことにも無関心である。「騎馬民族説」を唱えた人が文化勲章をもらい、日本人の「歴史観」は薄れてしまっている。巷に『逆説の日本史』など様々な歴史本が出て人々の「歴史観」を一層薄れさせている。

宮内庁や清家中枢に反国家的分子がいて、彼らが画策しているのではないかと疑いたくなることがある。それは、女性天皇・女系天皇を容認しようとしている動き、夫婦別称や外国人参政権を認めようとする動き、天皇墓や天皇・皇后同墓の話題などである。これらは日本に天皇がいることが“目の上のたんこぶ”のように思っているに違いない国々の謀略的戦略にひっかかっているか、自ら進んで反国家的行動に出ているかのどちらかである。

在日外国人の帰化が増えているが、彼らは元々何千年の間に混血してきた日本人とは異質である。彼らが今後数世紀以内に日本人と完全同化してゆくために何が重要であるか考える必要がある。天皇はそういう帰化人を含む日本国民の統合の象徴である。未来にわたって日本が平和で繁栄して世界の国々の理想的存在であり続けるためには、皇室を守りぬかなければならない。

聖武天皇の御世、地震や災害が多かった。唐(シナ)から帰化した人も居り、遠くペルシャやインドからも来訪者があった。百済帰化人の子孫・百済王敬福(くだらのこきしけいふく)が陸奥国司であったとき管内の小田というところで金鉱を発見し、東大寺の盧舎那仏を黄金で光らせることができた。このとき聖武天皇は、神武天皇以来皇室を守ってきた大伴・佐伯の宿禰のことを讃え、大伴・佐伯は己の身を顧みない人たちであって、「海行かば水漬(みず)く屍(かばね)、山ゆかば草むす屍、大君の辺(へ)にこそ死なめ、のどには死なじ(ほかにのどかには死をすることはあるまい)」と言い伝えている人たちであると聞いておられる、と『続日本紀(しょくにおんき)』に書かれている。今、日本に必要な人たちは、大伴・佐伯の宿禰の役割を担うような人たちである。

2012年5月12日土曜日


日本は“「日出る処」の国”に立ち返ろう(20120512)

フィリピンが南シナ海のフィリッピンに近い岩礁の領有権をめぐってでシナと対峙している。シナはフィリッピンからアメリカ軍が撤退した隙に南シナ海に浮かぶ小島群南沙諸島の領有を主張し始めた。フィリッピンではシナの大使館の前で激しい抗議デモが行われた。そのデモでフィリッピン人が掲げる横断幕には「中国」とは書かず「シナ(China)」と書かれている。日本や韓国などがシナを「中国」と呼んでいる。シナ人が自国のことを「中華人民共和」の国「中国」と言うので、日本などではそれをそのまま受け入れている。ちょっとおかしいのではないだろうか?

彼らが自国を「中国」と言うのに「シナ」と呼ぶのは決して軽蔑の意味で言っているのではない。彼らの思想が「中華=世界の中心」という尊大なものであるので反発しているだけである。彼らは何千年も前から自分たちの国を「中国」と呼んできた。日本が「隋」「唐」「宗」「元」「明」「清」など言ってきたのは、彼らの言う「中国」の王朝の国家名である。幕末まではそういう王朝名でその国を呼んでいた。現代のシナを同じパターンで呼ぶとすれば「中国共産党指導国家」略して「中共」と呼ぶべきである。

ともあれ「中国=世界の中心の国」思想は気に入らないが、現実の対応において彼らが「中国」の名のもとに我が国に対して尊大な態度をしない限り、「中国」と呼ぶことはやむを得ないと思う。問題は、日本の政府が彼らの言う「中国」に対して、古代「日出る処」の国のような意識でものを言うかどうかである。ここのところは、一度シナと日本の政府レベルでざっくばらんに話し合うべきである。

その尊大なシナは、高村元外務大臣がシナを訪れた時、習近平次期国家主席予定者は、「尖閣は中国領」と言った。そのような主張に対して日本の識者は「国家は利己的である」と考えるだけである。東條元首相も遺言の中で同じようなことを書いている。しかし、ことシナに関して「国家は利己的である」という範囲を超越している。シナの漢族の人たちの深層心理には古代から変わらない「選民思想」がある。世界中がシナの「天子」のもとに服するべきであるという思想があるようである。日本の政治家や識者やマスコミはシナに対して及び腰である。「サムライ」の腑抜けのような態度である。今一度聖徳太子のような腰の据わった人が現れてくれないかなと願う。「日出る処」の国・日本!しっかりせよ!

それはともかく、シナのそのように非常に強烈な自尊心は、別の観方をすれば決して悪いことではない。そのような自尊心があるから、シナ人はノーベル賞こそないものの、世界で初めて一文字で多くの情報を即座に読み取ることができるような漢字を発明し、紙を発明し、火薬を発明し、ロケットを発明し、アメリカ大陸を発見したコロンブスの船よりも4、5倍も大きい船の船団による大航海で東南アジアからインド、アフリカまで大航海している。この大航海はヨーロッパの大航海時代よりも70年早かった。近年では先進国の技術を真似て「純国産」と言ったりしながらアメリカやロシアの向こうを張って有人宇宙ロケットを打ち上げたり、新幹線を走らせたりしている。同じアジアの国の、日本人の血の中にも彼ら漢人の血も混じっているそのシナが、アメリカやロシアに対抗して「大国」らしく振る舞っていることは日本にとって良いことである。

日本は、シナに対して「中国」の国名の意義を質し、シナが日本にたいして決して尊大な態度は取らないようになるならば、現代の「西ローマ帝国」のようなアメリカは、TPP問題も含め日本に対して一目置いた態度に出るようになるだろう。そのためには日本は核武装もし、長距離ミサイルも持ち、大海軍を持つ必要がある。要は、日本の政治家や官僚が「日出る処」の国と言う意識を強烈に抱くかどうかである。一般大衆の意識も、もし日本にそのような指導者が現れれば変わってくるはずである。

ところで、鄭和は現在の雲南省昆明市南部の昆陽で生を受けているので、もしかして彼のルーツは日本にもやって来た長江流域の民と同じであるかもしれない。日本人は日本の個々の歴史的事実のことは別に置いて自らの出自・アイデンティティを確認し、神代から神武天皇にいたる歴史観、神武天皇以降今上陛下に至る万世一系の天皇がいる国という歴史観を持ち、「千代に八千代に」続くよう皇統と皇室を守り抜く強い愛国心を持たなければならない。重要なことは「歴史」ではなく「歴史観」である。日本の再生は先ず其処から始めなければならない。

2012年5月11日金曜日


日本が生き残って行くためには「皇室を守り抜くこと」しかない(20120511)

 一つの空想的地政学と歴史を語りたいと思う。参考とする本は安田喜徳著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(青春出版社)、古田武彦著『日本列島の大王たち』(朝日文庫)、倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫)などである。

オバマ大統領が同性婚を認める発言をした。現代の「西ローマ帝国」アメリカ合衆国はモラルの低下により滅亡への道を歩み始めた。一方、現代の「東ローマ帝国」ロシアはプーチン大統領が朝鮮半島とオホーツ海・千島列島を通じてその勢力圏を拡大しよう考えているように見える。北方領土問題の解決はその一里塚になるだろう。現代の「西ローマ帝国」圏と「東ローマ帝国」圏の狭間にあって漢族主導のシナは第一列島線・第二列島線を引き、現代の「西ローマ」帝国及び「東ローマ帝国」と睨み合っている。そういう状況下、シナを警戒する東南アジア諸国やインドなどが日本を味方に付け、シナや「西ローマ帝国」と適度な距離を保ちながら、その「自存」を図ろうとしている。

古代、日本はシナの冊封体制に入ることを拒否し、「日出る国」の天子から「日没する国」シナに対等の姿勢を取っていた。しかしそれは日本に統一国家が成立した以降のことで、それ以前は北九州の大王は「日没する国」の皇帝に使いを送り、王権の承認を求める一方で、朝鮮半島南部や遠くは出雲や日向にいたる広い範囲に支配力を及ぼしていた。朝鮮半島には多くの倭人たちが進出していた。鳥取県は奈良時代以降江戸時代まで「越後」国であり、その「越」と長江流域の国「越」とは関係がある。 

北九州の大王が統一していた国々の人々は『魏志倭人伝』に書かれているように皆「倭種」であった。「倭種」の国々とはどういう国々であったかというと、それは苗族など長江中流域の民との間で「住み分け」或いは「混血」を含むつながりを持った縄文人、渡来系弥生人と混血した弥生人、つまり我々日本人の遠い祖先が築いていた国々である。我々日本人の遠い祖先は、漢族の圧迫を逃れて4200前年頃から日本に渡って来た長江中・下流域の苗族の人々や、その後それらの人々と漢族の人々が混血した人々、つまり渡来系弥生人と縄文人とが混血しながら築いた国々であった。

長江中流域の文明は6300年前(紀元前43世紀)に誕生した。その長江中流域の河姆渡遺跡から出土した物と日本の三内丸山遺跡から出土した物とが驚くほどよく似ているという。河姆渡遺跡は7000年から5000年前に稲作を行っていた遺跡である。その出土品には鹿角斧(ろっかくふ)や漆やひょうたんや豆類などがある。河姆渡遺跡の出土品から推定される「太陽信仰」・「鳥信仰」・「蛇信仰」と古代日本の「天照大神」・「八咫烏」・「ヤマタノオロチ」とは相通じるものがある。また、紀元前300年から200年ごろまで長江中流域に住んでいた苗族の高床式建物や屋根の千木は正倉院や出雲神社の屋根と似ている。また祝い事の餅つきなどは日本とよく似ている。漢族の圧迫を逃れ日本にやってきた苗族の人々は弥生時代を開く役割をしたのである。彼らはジャポニカ種の稲も持ち込んだが、縄文人は栗などを採取をして食物にすることで足りていたので、その当時稲作は余り広がらなかった。

鳥取県淀江町の角田遺跡は弥生時代中期の遺跡であるが、其処から羽飾りを付けた人4人と舟が描かれている土器が出土している。羽飾りを付けた人は「羽人」と呼ばれ、「羽人」たちは出雲大社のような大きな建物に向かって舟を漕いでいる。この出土品とシナの雲南省石寨山遺跡から出土した滇王国の青銅器に彫像されているものとよく似ている。この彫像の「羽人」は9人で、船首の1人を除いて他はオールをもって船を漕いでいる。

雲南省の滇(てん)池のほとり紀元前400年から紀元後100年くらいの間に栄えた滇王国は、世界的な低温化の影響を受けて後漢や日本の弥生時代とほぼ同時期に滅亡している。このとき造船・航海など高度の技術を持っていた人びとが日本に渡ってきている。弥生時代の終りとともに日本の社会は母系社会から父系社会に変わった。しかし日本にはまだ稲作・漁撈の平和な文化が続いていた。但し、長江流域の民の文化であった。そのことは『魏志倭人伝』に書かれているとおりである。魏の「新聞記者」たちは倭人(当時の日本人)の穏やかな、秩序ある暮らしぶりを書いている。

日本に騎馬民族の流れを汲む北方の畑作・牧畜の民が渡って来たのは、第十代崇神天皇の御世である。『古事記』に「この天皇の御世に、疫病多(えやみさは)に起こりて、人民(たみ)死にて盡(つ)きむとしき」とある。紀元前97年から30年の間、北九州王朝の大王だった可能性のある御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の御世、日本にやって来た渡来系弥生人たちが持ち込んだ家畜が、人々に感染するウイルスも持ち込んだため、免疫力のない非常に多くの人々が斃れたのである。この渡来系弥生人たちは、長江中下流域から日本にやってきた人々とは別系統の人々である。しかし彼らもこの日本列島で混血し、我々日本人の祖先となった。

騎馬民族の流れを汲む人々の子孫の中には妃となった女性もいたであろう。事実、神功皇后の遠い先祖は新羅からきたことが『古事記』に書かれている。桓武天皇のご生母は百済の王族の末裔である。しかし皇室の起源が朝鮮にあるなどと言うのはとんでもないことである。日本人の祖先と韓国・北朝鮮人の祖先とは決して同じではない。「騎馬民族説」は学問的な掘り下げが足りない。「騎馬民族説」を信じ「天皇の祖先は朝鮮人である」などとわざわざ韓国の大学生の前で講演し、何百人もの国会議員らを引率して、まるで「冊封」を得るが如くシナの「共産党王朝」詣でをした小沢一郎氏は大政治家かもしれないが、この日本の国体を危うくしかねない政治家である。

貿易や経済には国境はない。「商道」には国境は不要である。しかし「政道」は国体を護持することにある。「理想的平和主義」のもと日中韓の国境をなくしてしまうような方向にこの国を導こうとしている与野党の一部政治家たちは、自分たちが何処から来たのかよく知り、古来皇室がどういう機能をもってきたかよく考えるべきである。天武天皇が『古事記』『日本書紀』の編纂を命じたのは、日本が漢族中心の国・自ら「中華」という国・シナの属国にならないようにするためだったことを知るべきである。

現代の「西ローマ帝国」が衰退した隙をシナは狙うだろう。そういう状況にあっても「日出る処」の国・日本が生き残って道は、国体の護持、即ち皇室を守り抜くことしかないのである。夫婦別称・外国人参政権・同性婚などとんでもないことである。古来、皇室は聖なる存在で、日本国の道徳の鏡となってきた。このような国は世界中どこを探しても存在しない。似非歴史学者のいう事などに絶対惑わされてはならないのである。