2011年7月31日日曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110731)

日露開戦に至る経緯について研究すれば、現在、中国が海洋進出を目指して日本を含む周辺諸国との間緊張・摩擦を起こしているとき、日本はどう対処すべきか参考になるのではないかと思う。キーワードは「自存」である。中国がただ単に自国の「威容」とか「覇権」が主目的のため行動しているわけではないと思う。「威容」・「覇権」もあるだろうが・・。

当時のロシアは明らかに他の列強同様、領土拡張を狙っていた。日本は韓国がそれまで清国(当時の中国)の支配下にあったものを独立させたが、今度はその韓国がロシアの支配下にされることを非常に恐れた。(関連:「日露戦争前哨戦(続)(20110720)」・「日露戦争前哨戦 (20110721) 26日から「補記」で継続))。当時の日本は「自存」をかけて、大国ロシアと戦わざるを得なかったのである。

 今、中国が豊かになりつつある13億人の自国民を食べさせるため、国際ルールを無視し、なりふり構わぬ行動に出ている。それはかつての武士道の日本とは全く違う、ある意味では「動物的」な行動である。中国国民は中国共産党にとって日本に対する誤った歴史観を植え込まれている。おまけに日本人までも植え付けられた「自虐史観」により、中国の誤った歴史観を正しいと思い込んでいる。民主党政権下で反日活動家が国家公安委員長になったことがあった。外国人活動家がこの日本国内で教育・行政・政治・企業などにもぐりこんでいる。これらの摘発の為、日本版CIAが是非必要であると思う。

 日露開戦までの日本政府の動きを今少し付け加える。(秋山氏論文引用)

 “1903年(明治36年)1216日、首相官邸に於いて元老会議が開かれた。伊藤、山県、井上、松方、大山の五元老と政府側から桂首相、寺内陸相、山本海相、小村外相の四名が之に参集し、対露交渉問題に就いて討議した。若し、戦争を回避しようとするならば、日本はロシアの要求を容れ屈辱的な譲歩をするしかないが、それは日本帝国がロシアの隷下に膝まずくことであって、到底承服することは出来ない。交渉によって平和的に解決する方途がないのであれば、遺された途は武力の行使、即ち戦争以外にないことは誰しもが分かっていた。しかしこの日の結論としては、兎に角、陸海軍の臨戦態勢を整えるまでの間、ロシア側に再考を求める形で交渉を続けることに決した。”

111日、閣議が開催され、陸軍は再び、単独でも韓国に出兵したいとの申し入れを行った。露軍の満洲への配備、展開が完了しないうちに攻撃したいとする参謀本部は、かなり焦っていた。しかし、会議では矢張り、海軍の準備が整うのを待つことに決した。続いて、翌12日、御前会議が開催され、「重大なる危機に際し和戦何れかに決定せん」がための審議が行われた。・・(中略)・・閣僚、元老とも開戦やむなしとの意見であったが、天皇は各発言を深くお聴きになり種々御下問の後「いま一度催促してみよ」と御指示になった。・・(中略)・・政府は最終案を作成し、113日、露国側に提示してその回答を求めたのである。しかし、再三の催促に拘わらずロシア側からの返答はなく、徒に日時を過ごすのみであった。”                            (続く)

2011年7月30日土曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110730)

 明治361030日付のロシアに対する確定修正案にある「第六条 韓国ト満洲トノ境界ニ於テ其ノ両側各五十キロメートルニ亘リ一ノ中立地帯ヲ設定シ云々」の条項に対し、ロシアは1903年(明治36年)1211日に「韓国領土ニシテ北緯三十九度以北ニアル部分ハ中立地帯ト見做シ云々」と対案を示してきた。日本はこれに対して年明けた1904113日の日本の最終提案で「全文削除」を要求した。

その「韓国領土の三十九度以北」ということついてロシアはこだわっていた。日本側が1030日に出した確定修正案を出す前の103日、ロシア側は全く同じ文言で提案していた。ロシアが満洲のみならず、北朝鮮の大部分をも領有しようとしていた。

さらにこれも全く同じ文言で103日の提案にも、1211日の提案にも「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的ニ使用セサルコト及ビ朝鮮海峡ノ自由航行ヲ迫害シ得ヘキ兵要工事ヲ韓国沿岸ニ設ケサルヘキコトヲ相互ニ約スルコト」と書いてよこした。

これについて、日本側は明治361030日の確定修正案で「朝鮮海峡ノ自由航行ヲ迫害シ得ヘキ兵要工事ヲ韓国沿岸ニ設ケサルヘキコトヲ日本ニ於テ約スルコト」とロシア側に譲歩して提案しているので、「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的ニ使用セサルコト」という文言の削除を要求した。(以上、秋山氏論文引用)

さらに、日本は満洲に関するロシアの要求を容れて最終提案をしている。以下、秋山氏論文第二章注釈(26)を全文引用する。

 “前掲『日本外交文書』第三十七巻第一冊四五、六三文書[一九〇四年一月一三日にローゼンに交付した日本の最終提案]

一、露国対案第五條ハ其ノ前半即チ「韓国領土ノ一部タリトモ軍略上ノ目的ニ使用セサルコト」ノ一句ヲ削除スルコト

二、露国対案第六條中立地帯設定ニ関スル条項ハソノ全文ヲ削除スルコト

三、満洲ニ関スル露国政府ノ提議ハ左ノ如ク修正シ之ニ同意スルコト

満洲及其ノ沿岸ハ日本ノ利益範囲外ナルコトヲ日本ニ於テ承認スルコト但シ露国ハ満洲ノ領土保全ヲ尊重スルコトヲ約スルコト

露国ハ満洲ノ区域内ニ於テ日本又ハ他国カ其ノ清国トノ現行条約ノ下ニ獲得シタル権利及特権ヲ享有スルコトヲ阻礙セサルヘキコト

韓国及其ノ沿岸ハ露国ノ利益範囲外ナルコトヲ露国ニ於テ承認スルコト

四、露国対案ニ左ノ一條ヲ加フルコト

日本ハ満洲ニ於ケル露国ノ特殊利益ヲ承認シ并ニ利益ヲ保護スル為メニ必要ナル措置ヲ取ルハ露国ノ権利タルコトヲ承認スルコト”

 日本は、武士道精神のもとロシアにぎりぎりのところまで譲歩し、日本が韓国及び中国を列強からの浸食を防ぎ、かつその近代化のため戦ったそれぞれの国の領土の保全に血のにじむような努力をしたのだ。それはこの日本の「自存」のためでもあったのだ。(続く)

2011年7月29日金曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110729)

“「我が方からではなく、日本軍の方から戦闘を開始することが望ましい。それ故、日本軍が我が方に対して行動を起こさない場合には、貴官は、日本軍が南朝鮮ないし元山を含む朝鮮の東部沿岸に上陸するのを妨害すべきではない。しかし、朝鮮の西部方面に於いて、上陸部隊を乗せた日本軍艦隊が北緯38度線を越えて北上する場合には、日本側からの一発を待つことなく、日本軍に対する攻撃を許されるであろう。」

 この時点になっても、ニコライ二世を始めアレクセーエフ総督たちは、さほど緊迫感を懐いていない。それは、大国ロシア側が戦いを仕掛けない限り、小国日本側から立ち向かってくることはあり得ないと信じていたからである。”

 ロシアのこのような鷹揚な態度は、今の日本にあてはまらないだろうか?中国が尖閣諸島漁船衝突事件を起こしたり、沖縄本島と宮古島の間を11隻の中国艦隊が無断で通過し、外洋で行動したり、宮城沖の日本の排他的経済水域内で日本に無通告で調査活動を行ったり、新幹線を中国独自で開発したと言い張り、こともあろうに特許を申請し、それが最近故障したとき「日本の新幹線でもよく起こることだ」と日本の技術を侮辱したりしても、日本は鷹揚に構えている。中国がアメリカのように航空母艦を核としたシステム艦隊を持つようになるのは何十年も先の事だと高をくくり、危機感を持とうとしない。

多くの日本人は、中国が13億人の自国民を食べさせるため、今必死で外洋への出口をこじ開けようとし、資源確保に走っているのを理解せず、日米安保があるから大丈夫だと、片務性の同盟関係を少しも反省しようとしない。集団的自衛権を法解釈で何とか双務的にしようと試みて、憲法改正にまともに立ち向かおうとしない。

心ある国会議員たちは、与野党の党派を超え「日本党」として新しい政党を立ち上げることはできないのか。半世紀後の日本の安全保障に真剣に取り組むと共に、中国の「自存」への熱望に対して、中国が武力によらずとも「自存」できる道を一緒に考えてやることは出来ないものか。

 日露開戦にいたる状況について、もう少し秋山氏の論文を引用することにする。

1903年(明治36年)108日、ロシアが清国と協約した満洲からの撤兵最終期限が到来した。しかし、露軍は全く撤兵の気配を示さないばかりか、逆に軍事力の増強を促進し、奉天城を占領し清国守備隊を場外に放逐して城門に露国の国旗を掲げた。また北韓に於いては日本居留民に危害を加え、その既得権を侵害した。”

“日本における非戦論・反戦論は、近代日本が国家権力の正当な発言手段として世に認められた筈の日清戦争が、あまりにも多大な犠牲・損害を招来したという苦い経験から、10年後の日露戦争に際して非戦・反戦の論議が本格的に始まったものであった。

戦争はなに人も欲するものではない。それゆえに、伊藤博文は日露協商を熱烈に模索したし、山県、桂は日英同盟によって日露戦争の回避を願った。事実、日英同盟が締結された時、これで日露の衝突は遠のいたとして、国民はあげてこれを歓迎した。” (続く)

2011年7月28日木曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110728)

日露戦争は避け得ただろうか?秋山氏は日本側の政権が第4次伊藤内閣から軍人の桂太郎内閣に変わった。ロシア側でも変わった。秋山氏の論文を引用する。

“政治機構の改革により、極東問題の管掌がアレキセーエフ総督に委譲され、交渉の場がペテルスブルグから東京に移ると同時に、交渉相手がラムスドルフ外相からローゼン駐日公使に替わってしまった。アレキセーエフ総督経由する二重段階交渉の煩わしさが、日露協商を長引かせて無用の疑惑を生み、交渉を困難にした一因でもある。

 小村外相はローゼン公使と幾度かの協議を重ね、その主張も取り入れ、日本側の大幅な譲歩を示して確定修正案を作成、1030日に提示した。これはロシア側にしても、協商妥結の好機であった筈である。

 ローゼン公使は意を汲んで、アレクセーエフ総督に対し互譲の要を進言したけれども、露国極東軍総司令官でもあるアレクセーエフの一途な剛直さがそれを受け付けなかった。本国政府においても、今少し慎重に日本側の提案を読み取り、その意を汲みあげたならば、この時戦争は回避される可能性があったであろう。

 ロシア側では日本の提案を真摯に受けとめてその真意を理解し、もって(皇帝ニコライ二世に対する)輔弼の役を務めるべきお政治家がいなくなっていた。畢竟、皇帝はロシアの栄光を誇って主張する対日強硬派の流れに影響されて、賢明な勅裁を下すことができなかったのであろう。

 とにかく1211日、日本にとっては到底認めることが出来ない強硬な第二次回答がロシア側から提示されたことは、露国外交の思慮の欠如であった。これを受けて、日本政府の開戦の決意は固められたのである。軍備の充実、戦略・戦術の研究は、陸軍も海軍も可成り早い時期から進めていたのであるが、陸軍参謀本部の具体的な対露作戦計画は、この時、明治3612月に即時開戦を目ざして樹立され、作戦行動の綿密な手順までまとめ上げられ、軍隊の動員・部隊の編制も密かに発令されていた。

海軍も、1228日に常備艦隊を改組して戦時編成に準拠して連合艦隊を組成し、その司令長官に東郷平八郎を任命した。・・(中略)・・

この緊迫した日本の情勢を、ロシア側も知っていた。アレクセーエフ総督は流石にこれを深刻に受けとめ、急遽、ニコライ二世に対し、極東に於いて動員令を下すことを要請し、125日には旅順とウラジオストックに戒厳令を布告した。

更に、130日、ロシア公使館の武官から「日本の艦船数十隻が佐世保に集結していること、これは単なるデモンストレーションではなく、近く露国と戦争を開始せんとする重大な決意とみられる」旨の緊急通報が届いた。アレクセーエフは、再びニコライ二世に対し、極東に於いて動員を開始して、ロシアの艦隊が何時でも出撃できるよう許可を求める請訓電報を打電した。これに対してニコライからは次の訓電が送られてきた。”

                                  (続く)

2011年7月27日水曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110727)

日露戦争はロシアの南下に脅威を感じた日本が、「自存」をかけて戦った戦争である。

秋山氏の修士論文に、日本とロシアの間の交渉の経緯が当時の外交文書の引用とともに詳しく書かれている。これらの文書は専門家以外目にしないものであるため、戦後において自虐史観のもと一般国民には正しく知らされていない。多くの日本人は、当時の日本が置かれた厳しい立場を知らず、日本が韓国や中国に対して「悪いことをした」と思い込まされている。ここに秋山氏の論文にある注釈から引用する。

“『日露交渉ニ関スル往復』(露国対案に対する帝国政府の確定修正案)明治361030

第一条 清韓両帝国ノ独立及領土保全を尊重スルコトヲ相互ニ約スルコト

第二条 露国ハ韓国ニ於ケル日本ノ優越ナル利益ヲ承認シ並ニ韓帝国ノ行政ヲ改良スヘキ助言及援助(但シ軍事上ノ援助ヲ含ム)ヲ同国ニ与フルハ日本ノ権利タルコトヲ承認スルコト

第三条 韓国ニ於ケル日本ノ商業的及工業的活動ノ発達ヲ阻礙セサルヘキコト及此等利益ヲ保護スルカ為ニ採ラルヘキ総テノ措置ニ反対セサルヘキコトヲ露国ニ於テ約スルコト

第四条 前条ニ掲ゲタル目的又ハ国際紛争ヲ起スヘキ叛乱若ハ騒擾ヲ鎮定スルノ目的ヲ以テ韓国ニ軍隊ヲ送遣スルハ日本ノ権利タルコトヲ露国ニ於テ承認スルコト

第五条 朝鮮海峡ノ自由航行ヲ迫害シ得ヘキ兵要工事ヲ韓国沿岸ニ設ケサルヘキコトヲ日本ニ於テ約スルコト

第六条 韓国ト満洲ノ境界ニ於テ其ノ両側約五十キロメートルニ亘リ一ノ中立地帯ヲ設定シ右地帯内ニハ締約国孰レモ相互ノ承認ナクシテ軍隊ヲ引キ入サルコトヲ相互ニ約スルコト

第七条 満洲ハ日本ノ特殊利益ノ範囲外ニ在ルコトヲ日本ニ於テ承認シ韓国ハ露国ノ特殊利益ノ範囲外ニ在ルコトヲ露国ニ於テ承認スルコト

第八条 日本ハ満洲ニ於ケル露国ノ特殊利益ヲ承認シ並ニ此等権利ヲ保護スルカ為ニ必要ナル措置ヲ採ルハ露国ノ権利タルコトヲ承認スルコト

第九条 韓国トノ条約ニ因リ露国ニ属スル商業上及居住上ノ権利及免除ヲ妨碍セサルヘキコトヲ日本ニ於テ約スルコト並ニ清国トノ条約ニ因リ日本ニ属スル商業上及居住上ノ権利及免除ヲ妨碍セサルヘキコトヲ露国ニ於テ約スルコト

第十条 今後韓国鉄道及清国鉄道ニシテ鴨緑江マデ延長セラルルニ至ラハ該両鉄道ノ連結ヲ阻礙セサルヘキコトヲ相互ニ約スルコト

第十一条 本協約ハ従前韓国ニ関シテ日露両国ノ間ニ結ハレタル総テノ協定ニ替ハルヘキコト”

            投稿を公開                       (続く)

2011年7月26日火曜日

日露戦争前哨戦(補記) (20110726)

 ワリヤーグという名前の航空母艦について、再び秋山代治郎氏の論文を引用する。

“新たにワリヤーグ号の名称を受け継いだのは、排水量67500トンの大型航空母艦である。この最代目ワリヤーグ号は、予定通り1993年(平成5年)に就役、ロシア海軍の太平洋艦隊に配属され、ウラジオストックを拠点に日本海をはじめ太平洋一帯を周遊しその威容を示した。

この三代目ワリヤーグ号の大型航空母艦は、19991年(平成3年)12月ソビエト社会主義共和国連邦の崩壊によって、多くの独立国に分離した新しい態勢の下で、何れの独立国に所属するかが問題となった。ロシアには同型の航空母艦アドミラル・クズネツオーフ号があるので、ワリヤーグ号はウクライナ共和国に所属することになり、ウラジオストックを去って黒海に入り、ウクライナの軍港を根拠地として黒海一帯に睨みを利かした。

しかしこんな大型空母は、黒海では云わば無用の長物であり、艦齢も重なって老朽化したので1998年(平成10年)に廃艦となり、マカオの興行主に海に浮かぶホテル・娯楽設備の母台に利用する為、2千万ドルで買い取られた。

ところが、トルコ政府は危険を理由にボスボラス海峡通過の許可を下さなかった。2年余にわたる交渉の結果、大砲など戦力設備の一切を取り外し無防備にした上で、ようやくマカオに向けて回送されることになった。・・(中略)・・

2007年(平成19年)43日の日本経済新聞(夕刊)によれば、中国政府がこれを大連港に運び、中国海軍の手によって航空母艦に再生させる計画・・(中略)・・既に2006年の秋、これに搭載する艦載機としてスホイ33をロシアから購入・・(後略)。”

BSフジの「プライムニュース」に出演した古庄元海上幕僚長は、「航空母艦の常時運用のためには、一軍港あたり3隻の航空母艦が必要になる。中国は太平洋への出口となる軍港と南シナ海への出口となる軍港の2か所で航空母艦を運用するとなれば、最低6隻の航空母艦が必要になる。」と言った。また同じ番組に出た佐藤正久参議院議員は、「航空母艦にとって怖いのは潜水艦である。中国は13億人を養うため行動している。国際法などルール口先で守る、守っているといっても、実際は守らない。自衛官の数の削減は無茶である。少なくとも充足率を上げてほしい」と言った。また古庄氏は「海上自衛隊のヘリコプター搭載大型護衛艦は、ヘリコプター以外にハリヤーなど垂直離陸可能な戦闘攻撃機を搭載することができる。この艦は陸海空統合運用の指揮所システムも持つことができる。陸上戦闘を行う部隊を乗せることも可能である」と言った。

南シナ海を自国の領海にしようと意図し、東シナ海第一列島線内も同様に意図し、例え何十年かかろうとも必ずその意図を実現させるつもりである中国、海軍のみならず、日本で云えば海上保安庁や水産庁などの船も実質‘海軍’の船としている中国は、今後半世紀ごろに必ずその国家戦略計画目標を達成しようと謀略的戦闘行為をするだろう。その時、私はこの世にいない。児孫のため、口酸っぱく警鐘を鳴らし続けたい。 (続く)

2011年7月25日月曜日

「再生可能エネルギー」について大義と公儀 (20110725)

 「大義」とは、広辞苑によれば「①重要な意義。大切な意味。②人のふみ行うべき重大な道義。特に主君や国に対して臣民のなすべき道。」とある。

「公儀」についてウイキペディアを引用する。

 “豊臣政権末期の政情不安定期に公権力を漠然と公儀と呼ぶ慣習が生まれ、江戸時代に入ると統一政権で諸領主権力間の唯一の利害調整機関となった江戸幕府を指して公儀と呼ぶようになった。ただし地方では藩を指して公儀と呼ぶ習慣も残り、幕府のことを「公儀の公儀」と認めて特に大公儀(おおこうぎ)とも呼ぶようになったのは寛永期以後と言われている。”

 再生可能エネルギーについて「大義」はどこにあるか?「主君」を「国民」に、「臣民」を「国会議員・政府官僚」に置き換えれば、答えは自ずと明らかである。経産官僚古賀氏が指摘するように、現在の発電・送電・配電を電力会社が独占している現状では競争の原理が働かず、企業がいくら安価な電力を生み出しても消費者にその恩恵がない。

 その一方で、電力会社には官僚が天下りし、政官業の癒着構造を作って、一般消費者には縁遠い一種の「村社会」を構成し、お互いに「甘い汁」を吸い合っている。

 それが「大義」」に反することは明らかである。一方、「甘い汁」を吸い合う「村社会」は、「公儀」の側として公権力を利かせている。計画停電は一体何だったのか?「節電」キャンペーンは一体何のためであるのか?

 国民は「公儀」の為すがままに従わざるを得ないような状況が起きている。しかし「公儀」により何らかの利益を得ているかもしれない一部のマスコミや労働組合は、表向き「国民」の側に立っているように見せかけながら、実は「公儀」の側についている。

 「長いものに巻かれる」という諺がある。人は社会の中で生き抜くため長いものに巻かれた方が「自存」できる。一般国民はどうすればその「長いもの」を手にすることができるだろうか?

 答えは「イワシの大群」である。イワシはどれかいち早く方向を変えれば、ほかのイワシは間一髪を入れず一斉にその方向に転換する。そして群れが恰も巨大な生き物のように見せかけ、イワシを狙う大きな魚の餌食となる数を局限している。

 同じことを一般国民もやればよい。「国民投票法」を作り、その法律によって国の大事を決めることについて国民の意思を問えばよい。

 ただし、この法律によってこの国が誤った方向に行かぬように、国民投票にかける前に「賢者」たちによる事前討論・討論の公開・予備調査など幾段かの手順を踏んで、「某国」や「某ジャーアナリズム」や「某学者・論者」などによるマインドコントロールを未然に防止する仕組みを作っておく必要がある。「民主主義とは少しの良識者による合意で進める仕組み」であることもまた、真実であると思う。

2011年7月24日日曜日

江戸時代も身分制の原則のもと機会均等の自由な社会であった (20110724)

 明治維新前は士農工商の身分制度があって、百姓・町人は名字を持たず、武士が威張っていた社会であったと思っている人が多いことだろうと思う。ところが実際はその社会は自由な社会であった。公式に名字を名乗れなかった「百姓」も非公式には名字を名乗っていた。士農工商の区分は身分の区分ではあるがそれだけではなく、士・農・工・商のそれぞれの役割を明確にし、それぞれがその役割をきちんと果たすことによって安定した社会になっていたし、士農工商の身分間の移動もかなり多く行われていたのが実態である。

 放送大学は、誰でも自分の好きな科目について、何時でも何処でも自由に勉強することができるすぐれた教育機関である。この大学の学生になれば通信指導を受けることができ、単位認定試験を受けることができる。テレビやFMラジオがあればそこが大学のキャンパスになる。教養を身に付けようとして定年前や定年後学士入学する人も多い。

 ここに『階層社会と不平等』という放送大学の一冊の印刷教材がある。その講義はテレビで行われている。録画しておけば自分の好きな時間に再生して講義を受けることができる。この本の著者は放送大学客員教授で東北大学大学院教授でもある原 純輔・佐藤嘉倫・大渕憲一の三氏である。その印刷教材の一部を括弧(“”)で以下に引用する。

 ここで出てくる「奴婢制度」は日本では平安中期・900年代に既に廃止されたが、香り高く美しい武士道精神のようなものがなかった朝鮮では日清戦争により朝鮮に対する中国(当時、清国)の支配がなくなって初めて廃止されたし、漁船衝突事件を起こしたりしている中国では中華人民共和国になってようやく廃止されたものである。

 “「百姓」は姓制度に由来する言葉であり、漢音で「ひゃくせい」、呉音では「ひゃくしょう」と読む。・・(中略)・・天皇から姓を賜与された者が良民=王民、無姓者は奴婢と身分区分され・・(中略)・・一般庶民の姓は雑多であったので「百姓」と呼ばれた・・(中略)・・百姓はしだいに耕作する土地との結びつきを強め、農業を家職とするという家を成立させ、家の存続を共同保障するため地縁共同体である村を成立して、新たな社会的身分として「百姓」身分を主張するようになった・・(中略)・・

 「賤民」身分も創出された。・・(中略)・・江戸時代にはまた、物乞いによって渡世をする者たちが「非人」身分に編成され、「穢多」と同様、行刑・警察的役務を担わされた。・・(中略)・・幕府や藩の役人に登用されるのは武士身分に限定され、どの役職に就けるかは家格階層に制約された。しかしながら、現実の人事は必ずしも硬直化していたわけではない。庶民を幕府・藩の登用した例は多くみられ、その際には武士身分に引き上げられた。軽格の武士を上位の役職に抜擢する際は格式を上げた。こうして身分制の原則と能力主義を両立させていたのである。・・(中略)・・

 欧米列強に対峙して日本国を存続させるため、武士みずから身分制を廃止し、軍事は国民皆兵によって担い、政治は建前上は能力によって登用されるものが担うことによって、近代国家を建設していくことになった。”

2011年7月23日土曜日

「あの世」の霊魂も「自存」を願望している (20110723)

 世の中に「怖いお墓の話」というものがある。先祖代々の墓所を他に移すと家族に死者が出るなどと言った話である。実際我が家では曾祖父の代に墓所を高い台地に移したが、曾祖母は40代の若さで急死している。似たような話を私は妻ががんで急逝した友人から聞いている。また家に仏壇を置くとその家から死者が出るという話も体験している。

 私は「あの世」の霊魂も「自存」を願望していると思っている。先祖は生きている間、子子孫孫の繁栄を願って頑張っている。その代々の積み重ねが今日の姿である。先祖の時代にくらべ、今日は大いに繁栄していることは間違いない。そのような先祖の思いを無視するような行為は、決して良くないと思う。

 靖国神社に祀られている方々も、例えば「このような思いは自分一人で十分だ」と思いながら死んでいっただろう。特攻隊員たちは自分が死ぬことによって愛する父母・兄弟・姉妹・妻子・恋人らを守ろうと思った。その思いが彼らの遺書に表れている。皆「あの世」でその思いが叶えられることを願望している。靖国神社に参拝しようとしないだけではなく、靖国神社や護国神社を否定する政治家たちは間違っている。「あの世」は今の世とは決して無関係ではないのだ。

 昔、名のある家では血統の持続のため必ずしも長子ではなく能力のある者に家督を継がせ、父系の男の子がいない時には、父系の兄弟の子供を養子にして男系の家を代々守ってきた。そのような過程で、父系の血縁関係の家との交流が途絶え、つまり親戚付き合いをやめ、父系の血縁者が実際にはいるにもかかわらず家系が途絶えてしまう家がある。

 私の場合もそうなりかけた家である。長子であった私の父親が跡を継がず、私の父親の末弟が跡を継いだ。しかしその二人の息子たちには息子が生まれず皆女の子ばかりである。女の子は嫁いで家を出てしまうか、男系の血縁のない家から婿養子をとって、血統はともかく家名だけは継ぐ。しかし、其処で先祖との間の血のつながりは途絶える。

 私の父の墓と先祖の墓は、列車で2時間以上離れた場所に別々にある。父によって遺された系図はおよそ千年前のものである。私はそれを手掛かりにいろいろ調べ、わが家の名字の由来も「これに違いない」というところまで突き止めた。その遠い先祖の血を引く私はその両方を祀る責任がある。私は私の息子たちに、折に触れ先祖を敬い、先祖の祭祀を行うことの大切さを話しているが、2か所に分かれている祭祀の対象をどういう形で末代まで祀ってもらうか、いずれある時期に息子たちと話し合って決めなければならないと思っている。そうすることが、私の子子孫孫末代までそれぞれ幸せに人生を送ることになると思っている。

「あの世」の霊魂は「自存」を願っている。日本人の先祖たちも同じである。日本人は個人として自らの先祖を敬い、先祖を祀るとともに、国民として祖霊を敬い、これを祀ることをおろそかにしてはならないと思う。天皇は日本人のそのような考え方の中心におられる。この国に天皇がいることは日本人にとって大変有り難いことである。

2011年7月22日金曜日

自ら助けるものが助けられる (20110722)

 福沢諭吉は「天は自ら助くる者を助く」と言った。「自ら助く」とはまさしく「自存」行動である。

 現今、「市民活動」と称して、「社会の弱者」だけを救おうとする運動がある。そのイデオロギーはいろいろである。一般には「反国家的」活動の側面が大きいようである。「自ら助ける」努力が足りない者が「声を大」にする手段として、「市民活動」という「市民」を冠した活動に加わっているように見える。

 確かに「自ら助く」力の弱い者は、「社会の弱者」になりやすい。障害者、母子家庭・父子家庭の親、学童・幼児・乳幼児、高齢者などは、法律によって社会的保護の対象になっている。そのこと自体はここで取り上げる問題の対象外である。

 問題は、人として「自ら生き残る」必死な努力をしているか、ということである。自分を卑しみ、他人を羨み・妬み、自分がこういう状態にあるのは自分のせいではなく、社会のせいであると、少なくとも心の片隅で思っている人たちが多すぎはしないか、ということである。

 一部の政党は、そのような人たちに視線を向け、そのような人たちの声を代弁し、そのような人たちのため、国の富を分配するように活動している。その目的自体は問題ない。 問題は、そのような政党が、国の防衛のための兵力増強や軍事同盟について、イデオロギー的に反対していることである。それらの政党が、「外国人参政権」や「夫婦別称」を主張し、意識的にせよ無意識的にせよ、国の精神的強固さを壊そうとしていることである。

 国も人もその構造は変わらない。国にも人の頭脳と同じ政府があり、人の五感と同じ情報収集の機能があり、人の血管や神経と同じ運輸・交通・通信網がある。人の手足と、それを動かす頭脳と、その動かし方の能力と、その能力を高め、拡大する道具や器具である武器などに相当するものが国にもある。軍や警察などがそれに相当する。

ただし「腕」を意味するarmと、「武装した力」を意味するarmed forcesarmとは語源が違うので、「腕力=武力」と短絡的に考えてならない。日本人は昔から「武」を忌み嫌うところがあった。「武」はたとえば人に襲いかかる野獣の爪を出した腕とは違う。「武」は人間にしかない文化の所産である。忌み嫌うのは女性的、情緒的である。

私が言いたいのは、人も国も「自存」のため、つまりは「自ら生き抜くこと」のため、真剣になるべきであるということである。自らを助けようとしないものは、結局助けられないのである。この世のあらゆる生き物、野辺に咲く名も知らぬ小さな草さえも、万物皆それぞれ分子の活動があって、環境に適合したものだけが生き残っているのである。その活動のエネルギーの小さいものでもそれが環境に適合している場合は、今日まで命を繋いできている。従い自分の不幸を人のせい、社会のせいにする者は結局救われない。

国も同じである。憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」いるだけでは、われらの「安全」と「生存」は絶対に保障されないのである。

2011年7月21日木曜日

日露戦争前哨戦(20110721)26日から「補記」で継続)

 大山元帥の意見書を読むと、明治時代の日本の厳しい立場が良くわかる。当時の日本は列強の餌食にならぬように、それこそ「自存」をかけて頑張っていたのである。そこには、今の日本の状況と違って、香り高い「武士道」精神を持った「志」高い士族がいた。

 今の中国も13億人の人民を養うため血眼になってエネルギー資源の確保に突進している。そこには「自分さえよければよい」という、まるで野生動物の本能のように見える行動をしている。その推進者は徹底的な「愛国心」教育を受けたエリート共産党員たちである。東シナ海や南シナ海における中国の行動に対して日本が真剣な対応をせず、彼らが為すままに放任すれば、結果は自ずと明らかである。前日の記事を続ける。

“・・(中略)・・帝国若し之を傍観して其為す儘に放任せば朝鮮半島は彼の領有に帰せんこと必ず三四年を出でざるべし彼果たして之を取らんか我は唯一の保障を失うなり西海の門戸破壊するなり僅かに一衣帯水を隔てゝ直に虎狼の強大国に接するなり利刃を脇肋に擬せらるゝなり我帝国臣民の寒心憂慮すべき豈之に過ぐるものあらんや”

“対露交渉開始の急務 因て思ふ我帝国は宜しく今に迨ひて露国に交渉し速に朝鮮問題を解決すべし若し今日に於て之を交渉せば或は必ずしも兵力に訴えず容易に解決を見るを得べし若し不幸にして開戦に至るも彼の軍備は今日尚ほ欠点あり我軍備未だ充実せずと雖も彼此の兵力未だ平均を失わず方さに抗衡するに足る故に国家百年の長計の為朝鮮問題を解決するは唯唯此時を然りとす。”

“大山参謀総長の内閣への意見書提出と相前後して、所謂「七博士意見書」が首相に提出された。東京帝国大学教授の富井政章、寺尾亨、高橋作衛、中村進午、金井延、小野塚喜平次、戸水寛人の七博士のこの対露強硬意見は、三万四千余文字に及ぶ長文の論説であるが、これは『東京朝日新聞』(明治36624日)に掲載されると、世論は開戦に向けて激しく盛り上げられた。”

秋山氏の著作・論文は引用するにはあまりにも膨大である。秋山氏は、日本側の先制攻撃について諸史料・文献を引用して、ロシア側も先制攻撃の意図があったことを明らかにしている。謀略・奇襲・先制攻撃・占領・実効支配などは、国家が予め定めた方針に基づく軍の行動として自然なことである。今、中国は国家・共産党の方針として、関連記事「日露戦争前哨戦(続)(20110626)」に書いたとおり、第一列島線、第二列島線を決めて、第一列島線に「核心的利益」を宣言している。尖閣諸島の中国漁船衝突事件はそういう中国の国家戦略のなかで起きるべくして起きている。

指導者たちの呑気な、プアな思想・政治信条のため、この国は、特に沖縄・南西諸島は危険な状況に置かれている。関連記事「沖縄の問題(2)(20101102)」に書いたとおり、沖縄では反日的日教組が中国の手先となって暗躍している。一部の政治家は既に中国の影響下にあるように見える。日本人は、今こそ日本国家の「自存」という観念を呼び覚まし、野獣のような心をもつ国々に対して強い警戒心と力を持つべきである。   (一旦終り)

2011年7月20日水曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110720)

 ・・『デイリー・テレグラフ』や『ブラック・アンド・ホワイト』誌も日英同盟を強く主張する記事を掲載している。・・(中略)・・元老 山県有朋はもともと日英同盟推進論者であり、・・(中略)・・、井上馨元老は反対、日英強調論者の伊藤博文も条件次第では反対しないが、英国の真意を疑って同盟団結は困難であろうとの意見を示した。・・(中略)・・英国としては朝鮮に何等の利益を有しないが、しかし、露国が朝鮮を占有することは英国も好まないし、アジア政策の焦点である清国領土の保全と門戸開放を露国の進出によって妨害されるのを防ぎたいと欲するもので、西英両国の利害は一致・・(中略)・・

 結局、山県有朋ら多数の元老たちの支持の下、桂首相が推進した日英同盟が締結され、1902年(明治35年)130日・・(中略)・・署名調印が実現した。日英同盟の協約全文は次の通りである。

 日本国政府及び大不列顛国政府は、ひとえに極東に於いて現状及び全局の平和を維持することを希望し、かつ清帝国及び韓帝国の独立と領土保全とを維持すること、及び該二国に於いて、各国の商工業をして機会の均等を得せしむることに関し、特に利害関係を有するを以て、ここに左の如く約定せり。・・(中略)・・

 念願の日英同盟協約が締結され、日本国民は等しく日露戦争は遠のいたものと思ったが、しかしこの喜びは束の間であった。ロシアは日英同盟締結を見て、一旦は満洲から撤兵する気配を見せたが、実は部隊の配置転換を行っただけで、その後、益々極東への兵力増強を図り続けた。”

 この状況下、遂に日本はロシアに戦争を挑むことになった。その間、日本国内はもとよりロシア国内においても開戦と戦争回避の動きはあった。秋山氏の著書・論文を引用する。

 “日本では、陸軍参謀本部の部長たちが最も急進的に対露強硬論を唱えていた。「韓国の占有は我が国防を全くする所以にして決して他国をして指頭だも此に触れしむるを許さず」とするのが基本方針であった。”

 “朝鮮問題解決意見書 参謀総長 大山 巌 (明治36622日 「我日本帝国の朝鮮半島を以て我独立の保障地と為すや開国以来一定の国是として現今及将来に亘り復た動かすべからざる所なり。・・(中略)・・独り幸いとする所は西に朝鮮海峡あり東西の航路を扼し隠然国防の鎖鑰を成す故に朝鮮をして能く常に我に親附しあらしむるときは日本海の門戸茲に固く大に国防に有利なり若し之に反して大国をして朝鮮を領せしめんか其位置は恰も帝国の脇肋に対し其距離は僅に二、三時間の渡航を要するのみ・・(中略)・・

 日清戦争の由来 是を以て大政維新の初め夙に朝鮮を誘掖して先ず独立国たらしめ百万辛苦して其清国との関係を薄くし清国の尚ほ之を属邦視するや遂に数万人の生命を賭し数千万の国帑を擲ちて二十七、八年戦役を興し纔に我保障地を維持し得たり。・・(中略)・・露国の勢力俄に東漸し来り金州半島を占領し、東清鉄道を以て満洲の実験を握り、其膨張の迅速なる実に予想の外に在り。”                    (続く)

2011年7月19日火曜日

日露戦争前哨戦(続)(20110719)

 すべての動植物・人間・団体・企業・政党・国家・etc、みな「自存」を目指している。

それを別の見方で例えば「生存競争」と言い、「自己主張」と言い、「自己認識を求める願望」と言い、「見栄」と言い、「差別」と言い、「恫喝」と言い、「党利党略」と言い、「覇権争い」と言い、「戦争」と言い・・・。結局「自存」力の強いものだけが生き残る。

国家も同様。国家の「自存」力は、国家の指導者の思想・志操・信条次第である。国家という一つの「集合体」の中の各「部分集合」個々の力が如何に大きくても、それを国家の「自存」に指向させる指導者に「自存」の哲学観なく、国民が「洗脳」されていて平和ぼけし、飽食し、甘ったれていれば、その集合体は外の別の小さな「集合体」の戦略・戦術に負けて、その「自存」が危うくなるだろう。

明治の日本には、「武士道」精神をもったすぐれた指導者がいた。国民は「天皇」を中心に「自存」のため団結していた。それが、今はどうか?日本国民は「自存」という観念をどこか遠くにしまいこんでいる。指導者は「国」や「公共」のことよりも「自分」「自己」のことだけを大事に考えている。それで次世代によいものを遺せるのだろうか?秋山氏の論文を引用する。

 “三国干渉により遼東半島を清国に変換することを余儀なくされた日本は、国際的孤立感に打ちひしがれた。当時の軍事力からいって、まともに近代戦を戦い抜ける国は、ヨーロッパでは、英・仏・独・露の四か国、海を隔て米国、それに日本ぐらいのものである。 

しかし、日本は日清戦争を終結したばかりで、国力はかなり消耗していた。従って、独・仏・露の三国に立ち向かうだけの力は到底持ち合わせなかった。それ故、やむをえず三国の要求に応ぜざるを得なかったのである。

フランスの新聞『パリ』紙などは、「日本降伏す」と大見出しの記事を掲載し、独・仏・露同盟三国の大勝利を喧伝した。その記事が日本紙で報道されるや、日本人の国民感情は痛く傷つけられ、人々は非常に憤慨した。”

こういう状況のとき、福沢諭吉が言ったように「国際関係の変化」があった。日英同盟がそれである(関連記事「日露戦争前哨戦(続)(20110716)」)。秋山氏の著書を引用する。

“国力からすれば、日本は英国に比肩して同盟を結ぶほどの対等な立場にはないが、その頃の英国は南アフリカをめぐるボーア戦争で手が抜けず、ヨーロッパ諸国から孤立してアジアにおける英国権益の防衛に窮していたので、日本のアジアにおける勢力に依存することを望んでいた。・・(中略)・・

当時の英紙の論調を見ると『モーニングポスト』(1897127日)は「独逸がアジアに拠点を求めようとするのは今始まったことではない。日清戦争のとき台湾をかすめ取ろうとしたし、戦争後は清国北部海岸を求めようとした。・・(中略)・・『ガゼット』紙は「英国が東洋における現今の困難を救うのは、日本と提携する他に道はない」 と主張しており、・・”                               (続く)