2012年4月30日月曜日


小沢氏グループは戦国時代の野武士集団のようなものだ (20120430)

 小沢氏グループは①消費税反対、②日米対等 等を掲げて野田氏に反旗を翻している。男から見れば彼らは国家のことよりも小沢氏を頭領にし、天下取りを狙う戦国野武士集団のように見える。もし彼らが実際に天下を取ったならば、彼らの掲げる目標は変わるのであろうか? 今のところ「国民大衆向け」の目標を掲げ、世論を自分たちの方に向けさせようとしているように見える。

 彼らの言う「日米対等」は「シナ(中国)・韓国と結託して米国に立ち向かおう」というものでああろう。小沢氏は「国連決議」ならば自衛隊をPKFとして派遣できると主張している。彼の言っていることはいかにも尤もらしい。

 野田総理は小沢氏・小沢グループが野田政権の足を引っ張るようであれば、自民党と結託してさっさと衆議院を解散すればよい。選挙になれば小沢氏も小沢氏グループの国会議員の多くもきっと落選するだろう。民主党は政権を失うことになるだろう。野田総理が「命をかけ、不退転の決意」で税と社会保障の一体改革を掲げて戦うのであれば、例え衆議院解散を決行してもその方向性は自民党政権が受け継ぐことになるだろう。自らは「死んで」も志は達成される。そうれでこそ野田氏は大政治家として名を残すことができるだろう。武士は名誉のために死を選ぶ。

 今日、男は多忙であった。陶芸に行って一つ中皿を作って乾かしている。先日本焼きに出した皿が出来上がっていた。ところが余りにもできが悪い。廃棄してバザーに出すための収容箱に入れておいた。まあまあの出来と思う皿を家に持って帰ったが女房には不評である。男は陶芸を止めようと思う。男には時間が足りない。陶芸は本趣味ではない。

 男の本趣味の詩吟のブログに投稿する吟詠を何度も練習し、まあまあの出来と自分で思うものを『吟詠』ブログに投稿した。このブログへのアクセスは非常に多い。ブログカテゴリーが「サークル/部活/学校」で順位が286386ブログ中144 である。かなり上位である。アクセス数は毎日50から100前後である。25日は101件、今日30日は23時半時点で60を超えている。今日投稿したのは頼山陽の『静御前』という律詩の中に静御前が鎌倉幕府に連れて来られて頼朝ほか並みいる武将たちの前で詠い、舞ったときのその歌2題を挟んだものである。今日は孫娘の一人が誕生日で、16になった電話の向こうの孫娘に「誕生日おめでとう」の言葉とともに男が今日吹き込んだ『静御前』の吟詠を聞かせてやり、その吟題に関わる歴史の話を若干してやった。孫娘は可愛い。

2012年4月29日日曜日


義経の愛妾・静御前、鎌倉八幡宮の舞台で頼朝の前で歌い舞う(20120429)

 2週間も田舎に帰っていて戻ってくると、片づけなければならないことが沢山溜まっている。物事はできるだけシンプルにルーティン化しておかなければ時間はいくらあっても足りない。このところフェイスブックには疎遠になっている。フェイスブックでは自分は五十肩のようなものを発症し、もう高齢だから特別なことはない限りフェイスブックへの投稿は止めると宣言した。その後もその‘特別なこと’のため一、二度投稿はしたが・・。

 先ほど、夕方7時過ぎ、いきなり地震速報が出て、千葉県東沖震源の地震が起きて少し揺れた。一応大地震発生時の対策を講じてはいるが、こう度々小さな地震が頻発すると、「またか」とその地震が収まるのを待つだけで、緊急避難する心構えは何処かにやってしまっている。これでは「いざ」というとき何もしていないのと同じである。今後は緊急地震速報が出たときには、すぐ飛び出せるような動作を習慣づけておくべきである。息子から電話あり「まず玄関のドアを開けること」とアドバイスがあり、もっともだと思った。

 年のせいであろう、男も女房も婆さんの介護に関連するいろいろな雑用事で疲れがたまっていて、それが今頃出ている。こういうときは無理をせず休養に努めた方がよい。それでも今日は好天気であり湿度も高くないので先日クリーニングした冬物衣服を収納したり、いろいろ雑用事に追われる。男は腰が少し痛い。左上腕は痛みはなくなったが重い。

 それも片付けながら一方で男は自分自身に課しているブログ投稿の準備をしている。吟詠のブログには、本来ならば月内に翌月の吟詠をアップロードするのであるが、今回はその時間的余裕がなかった。吟題は頼山陽の『静御前』である。そのURLは次のとおり。
 http://takaban.seesaa.net/article/267879482.html

 源義経の愛妾・静は義経が兄・頼朝による追討から逃れるため義経と一緒に吉野山へ逃げたが其処で風雪に遭い、義経とは別れた。義経は平家追討にあたって大活躍したのであるが、兄・頼朝の許可なく検非違使(けびいし)・左衛門尉(さえもんのじょう)に任官したことから頼朝の不興を買い、追討を逃れて静御前を伴い弁慶など家来たちと一緒に諸国を流浪した。

 静御前は腹に義経の子を宿していたが吉野山から京都に帰る途中捕えられて母親と共に鎌倉に連れて来られた。その理由は義経の捜索の為である。静御前は義経の兄・頼朝に強く求められて頼朝ら関東武将たちの前で舞を舞った。そのとき詠じた短歌が二つある。静御前は頼朝に弟・義経えの追討を止めるように願っているが、それはかなわなかった。静御前の歌の内容が頼朝を怒らせ、頼朝は静御前を生かしておけないと考えたが、妻の北条政子のとりなしでその場は収まった。

 それどころか、鎌倉で生んだ義経の子が不運にも男の子であったため、生まれて間もなく取り上げられ、殺されてしまう。それら一連の事件は歴史書『吾妻鏡』に出ている。男はブログに頼山陽『静御前』に関する記事を書いてその吟詠とともに明日アップロードしたいと思っている。だから一層忙しいのである。

 なお、頼朝の前で舞いながら詠じた短歌は次の二題である。「白拍子」といって、今で言う「遊女・芸者」のようなものであった静は京都で義経に見初められて深い仲になった。その静の女心がよく表れている詩(短歌)である。

  賤(しず)や賤(しず) 賤(しず)の緒だまきくり返し 
                昔を今に なすよしもがな
  吉野山 峯の白雪ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

不連続面は問題を起こす。超保守で何が悪い?(20120428)

 男はある詩吟サークルで詩吟を教えていて、今日は詩吟を教える定例会を開いた。この定例会は毎月第二、第四土曜日の夜行っている。今日は今月の吟題の各個吟詠の総仕上げを行った。今月の吟題は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍であった源実朝が、おそらく右大臣になって京から鎌倉に帰るときであっただろう、箱根越えをしているとき作ったものと思われる短歌『箱根路を』と、日本でいえば大化の改新が行われた頃生まれ、柿本人麻呂が活躍を始める頃没したシナの駱賓王が、凡そ900年前の故事に思いを馳せて作った『易水送別』の二題である。

その故事とは凡そ900年に荊軻という人がその土地の長官であった丹に頼まれ、丹の怨みを果たすため秦の始皇帝を殺害に行くとき、易水の畔で丹ら列席の士と最早絶対生還を期し得ないという別れをした。その時皆白装束で髪は冠を衝くほどの勢いがあったという。駱賓王は易水という川の畔で友人を見送った時、900年前荊軻が作った詩を中に挟んで五言絶句の詩を作った。その詩の題が『易水送別』である。

人は習慣的な行動に安心を覚える。男が教えている詩吟の会は毎月第二、第四土曜日の夜と決めている。もしこれを変更したりすると多かれ少なかれ混乱を生じる。会社でも軍隊でもトップが変わると多かれ少なかれ必ず何かの問題が起きる。習慣的なことには連続性がある。しかしトップが変わるということはそこに不連続性を生じることである。不連続性を生じるということは、そこで問題を生じるということである。気象でも温暖前線とか寒冷前線というのは異なる気団の接触面である。この前線では低気圧の渦が発生して時に竜巻となって被害をもたらす。

民主党政権が誕生したとき、当時の鳩山首相は「平成維新だ」とか「革命だ」とか過激な言葉を口にした。民主党員たちは意気込んで国の在り方を変えようとした。小沢氏を「民主党を高みに持ち上げてくれた」と称賛した。母親から「子分を養うため金がいるだろう」と毎月1500万円ものお小遣いをもらっていたが、自分自身はそのことは秘書任せであり、自分は全く知らなかったと徹底的に「嘘」を押し通した。小沢氏も4億円の金の出入りについて「自分は天下国家のことばかり頭にあるので4億円のことは秘書任せだった」と「嘘」を押し通した。勿論表向きには「嘘」は証明されることはなかった。

民主党政権の誕生はこの日本国の政治に不連続面を生じさせたということである。その結果いろいろな問題が噴出し、この機を好機ととらえシナや朝鮮の国々は日本国を貶める行動に出ている。万世一系の天皇を頂く日本という国を弱体化させようとあらゆる策略を講じている。そのことに一部の日本国民は気付き始めた。

男は思う。「超保守で何が悪い? 超保守でいいではないか」と。日本という国は元来内に多様性を持っている国である。アメリカとの戦争に負けたがそれは日本国自身が持っている多様性の一面を表した「降参」である。決して「敗北」ではない。「降参」したから、戦争の相手から積極的にいろいろなものを吸収して日本国を更に強くした。超保守であるということは、自分自身の中心をしっかりと守りつつ、多様性の中に進化発展してゆくということである。原理主義とは全く違う。鳩山元首相らはお坊ちゃんで軽薄である。何が「平成維新」だ!何が「革命」だ!彼らの功績は、日本国民が「超保守」であることの価値を、改めて思い知る機会を日本国民に与えてくれたということである。


2012年4月27日金曜日


小沢氏無罪判決(20120427

 昨日、小沢氏に1審無罪判決が出た。判決も完全に白ということではなく、金の動きを小沢氏が承知していたことをもって「共謀」の罪に問うほどのことではないというものである。小沢氏の秘書3人に1審で有罪判決が下っている。男は清濁併せ呑むことは必要であると思っている。しかし小沢氏には道義的責任がある。小沢ガールズたちの軽々しさに感情的な反発を覚える。それでも彼女らを国会に送ったのは国民である。彼女たちは次の選挙では落ちるだろう。

男が小沢氏を許せないのは、彼が天皇を軽視し、シナ(シナ‘China’人が自らを「中華」の「人民共和国」と、中華思想を国家の前面に立て周辺諸国を見下げようとする態度に反発して敢えてこう呼ぶ)や韓国に媚を売るような言動をしたからである。民主党国会議員140名を引き連れチナを訪問、シナの胡錦濤国家主席に引き連れた国会議員ひとりひとりを現代風に‘拝謁’させた。自分自身は日本国の‘元首’のようにシナから処遇され、大型リムジンで送迎されていた。「小沢氏は一体何様と思っているのだ!」と男は反感を覚える。

小沢氏はその処遇のお返しのごとく、次期シナ国家主席候補習近平氏を慣例に反して天皇陛下に会わせるため宮内庁を恫喝した。その習近平氏が天皇陛下に挨拶時頭を下げている写真はシナでは公表されず、天皇陛下と対等のような扱いに見える写真が公表された。また小沢氏は韓国で「天皇の祖先は朝鮮半島人である」と公言した。

マスコミも保守系国会議員たちも小沢氏の天皇軽視言動や国家意識の薄い言動に対して厳しい追及はされていないようである。韓国の世界統一教会は反共をモットーとしながら北朝鮮とは非常に親密な関係にある。この組織は信者の寄付などにより佐賀県から韓国に海底トンネルを陽r進み、海面下140メートルの所まで掘り終えて工事は中断している。小沢氏は統一教会とは関係がないのか?小沢氏は愛国者なのか?直感的であるが不気味な深い霧が小沢氏の周辺に漂っているように感じられてならない。

 石原東京都知事は尖閣諸島を東京都で購入する行動に出ている。無学浅才の男には石原氏のようなことはできないが、男は社会的影響力がある著名人たちの愛国的行動に対してエールを送り、要すればそのような行動を起こしている方々が立ち上げている愛国的組織に貧者の一灯のような寄付をしたり、フェイスブックやツイッターなどで愛国のため注目すべき情報があればときどきそれについてコメントしたりする程度の活動はできる。ただ、男は既に75歳になろうとする年寄りらしく、そのような活動は遁世隠居のようにして、決して表には踊り出ようとは思わない。もしフェイスブックで意気投合した人がいる場合、個人的に会うことはあっても集団的行動に対しては決して参加しない。講演会にも出ない。社会的諸関係はなるべく限定しようと思う。

 その大きな理由は‘時間’である。時間は有限である。社会的諸関係を深めれば必然的に自分の行動は制約される。自分の時間は優先度の高い事柄に費やさなければならない。男にとって子孫に伝え残すこと、女房と共有する時間を適度に多く持つこと、田舎の家を守ること、友達との絆を大事にすることなどに時間を振り当てなければならない。
 
今日男は女房と一緒に横浜の家に帰って来た。玄関先までAさんが見送りにきてくれて、隣のTさんが高速道路のインターまで車で送ってくれた。福岡は快晴の好天気であった。その時関東は雨だったが羽田に着くと雨は上がっていた。飛行機の座席はインターネットで取ったが、搭乗前日に切符を購入したので空いている席は窓際はなく、中央寄りが多かった。15E15Fが取れた。その両隣、通路側にどういう人が座るのか気になっていたが、女房の隣は背広の襟に一流企業らしい会社のバッジを付けた若い男性、男の隣は美人ではないが若い女性であった。女房の隣が‘臭い’おっさんでなくてよかったし、男の隣がばばあでなくてよかったと、女房と男は顔を見合わせてくすりと笑ったものである。

2012年4月26日木曜日


また左上腕が痛くなった(20120426)

 今日も午後婆さんのところに行った。婆さんは今日は自分の部屋で寝ていた。昼食後いつもならUさんと同じ話しを繰り返しているのであるが、今日は疲れたのであろう。男と女房が婆さんの部屋で婆さんと話していると施設の若い男性職員がお盆に湯のみを三つ載せて持って来た。梅茶が入っている。その職員は「お茶を入れてきます」と言っていたが女房は「いえ、結構です、お茶を持ってきていますから」と礼を言って丁重に断っていた。田舎の施設に働いている人達は皆心が温かい。

 今日で婆さんとはお別れである。3時のおやつの時間なので婆さんをダイニングルームに連れ出す。「明日、横浜に帰るからね。また来るからね」と女房は婆さんにお別れの言葉を言う。男は婆さんの肩を抱いて「また来るからね」と言う。婆さんは泣き声で「長生きしてごめんね、あんたたちに迷惑をかけてごめんね」と言う。ダイニングルームで婆さんの話し友達のUさんがにこにこしながらこちらを見ている。さっきまで涙声だった婆さんはもう男と女房のことは忘れてしまっている。「年寄りは子供」というが痴呆になると子供と同じである。初め男は「婆さんは淋しがるだろうなあ」と言っていたが女房の言うとおり年寄りは子供である。男は気が楽になった。

 今日のブログはパソコンを膝の上に置いて、右の中指だけで書いている。左の上腕が痛むためである。痛む原因は、今日婆さんの所に行った時を除いて庭の手入れなど野外作業で痛む腕に負担をかけたからである。松の木の枝先に白いカビがいっぱいできていてそれを粗方はがす作業をしたり、魚粉入り油粕を買ってきて根元に巻いたりした。これまで婆さんが一人で庭の手入れをしてきたが、婆さんが施設に入居したあと男は父親が残したこの家屋敷をよく守らなければならぬと思い、その作業に精を出すようになった。男は父親の命日である6月下旬、一人で帰ってくることにしている。
 
ところで昨日「ミトコンドリア遺伝子3代」と題して書いたが、良く良く考えて見ると決して3代という短さではないことに思い至った。女房の祖母には当然母親がいた。その母親にも当然母親がいた。そのようにして20万年前の一人の母親に辿り着く。一方、男の実妹でもある女房の妹の母親は今施設に入っている婆さんである。その妹には娘がいる。その娘も結婚して娘の母親になるかもしれない。
 
原始の時代、ミトコンドリアとY染色体は別個の生物だったものが何かのきっかけで同じ細胞の中に一緒に入り、子孫を残すことになった。ミトコンドリアにとってY染色体は子孫を残すためにひつようであったのだ。いろいろ考えると女性は生き残るため欲張りでずるく振る舞うように元々できているのだ。女性にとって家系などどうでもよいのだ。ところが男性は真剣努力しなければ生き残ってゆくことは出来ない。男が家のことを真剣に考えるのはそのせいである。

2012年4月25日水曜日


ミトコンドリア遺伝子3代(20120425)

 男と女房は今日も特養に入居している婆さんのところに行ってきた。婆さんはいつものとおり共用のダイニングルームの窓際の先頭に陣取り、Uさんと話をしていた。婆さんはこの施設に入居してUさんのほかもう一人旧知の人(女性)と再会している。つまり婆さんにはこの施設に入居して30数年ぶりに昔の友達と一緒になれたのである。

 婆さんがまだ元気なころは近所の人たちも元気で、また婆さんの夫、つまり男の父親の親友の奥さんだったKさん元気で、毎日のように誰かが婆さんのところに遊びに来ていた。ところが皆徐々に年を取り、動けなくなり、またあの世に行ってしまった。その代り婆さんのところに毎日のようにホームヘルパーが訪れていた。冬の寒い日など男や女房が横浜から婆さんに電話すると口癖のように「だあれ(誰)も来ん、電話も来ん」と言っていた。それがこの施設に入居したとたん親しい友達ができた。男は「これはあの世の親父がいろいろ努力したのであろう」と思った。

 男と女房が来たので婆さんは自分の部屋に戻った。その間一人では動けないUさんはダイニングルームでテレビを見ていた。婆さんのところには小さなアルバムを何冊か置いてある。女房は先日婆さんを散歩に連れ出したとき撮った写真をそのアルバムに入れて婆さんに見せてやっている。婆さんは「夜になると淋しいから(写真アルバムを)取り出してみるの。夕べもの見た」という。婆さんが見たのは45年前婆さんを水郷日田に連れて行ったとき撮った写真である。婆さんを車いすに乗せ豆田町の古い味噌屋の店内に非常に沢山のひな人形を飾ってあるところを見せたり、夜鵜飼船に乗って鵜匠の手綱さばきを見物したりしたときの写真アルバムである。婆さんは泣きながら「長生きしてあんたたちに迷惑をかけるねえ、わるいねえ、ごめんね」と言って泣いている。

 女房はいつものように婆さんに電話の掛け方を教えたり、着替えのことや整理ダンスの中の下着や靴下など引出ごとに整理し大きな字で書いて表示してえるこまごましたことを教えたり、「このトイレ(介護用椅子式)は使わないで、すぐ隣のトイレを使うようにした方がいいよ、お母さんはこのトイレを使わなくても動けるのだから施設の人の負担を少しでも軽くしてあげるように」と指導したり、あれこれ話をしている。男はそれを見ながら「やはり娘だな」と思う。育ての親ではないが矢張り血は濃い。

 施設からの帰りは散歩がてら歩いて帰った。道端に「タンポポが黄色い花をつけており、近くで鶯が鳴いている。「道の駅」に立ち寄り昼食を取り、出来たてのメロンパンなど買って帰る。「Sばあちゃん、お母さん(婆さん)、そしてM子(男の女房)と三代にわたりミトコンドリア遺伝子が伝わった。それでその遺伝子は終りだね」と男は女房に話す。

 人類の共通祖先は「一人のイヴ」と言うのは間違いで、今の全世界の女性に伝わったのは一人だけであるが、娘がいない男の女房のように、遺伝の途中で絶えたミトコンドリア遺伝子の持ち主は多数いた筈である。

 因みに今の世界中の男性のY遺伝子の元は6万年ぐらい前に遡るそうである。この日本列島にやってきた男たちは大陸からはみ出した人たちで、大陸に残った人たちとは異なる遺伝子を思っているそうである。女もミトコンドリア遺伝子の特徴として大陸にはないものがあるそうである。しかも7人の女性が祖先であるという。日本人は漢族・朝鮮族・満州族らとは異なる遺伝子を持ち、しかも多様性に満ちている。これが日本人の優秀性を特徴づけているのである。

 玄関の上り口に座して体が不自由な隣のAさんと女房が長話をしている。男は二人にコーヒーを出してしばらく話に加わった。Aさんは男が好きなせんべいとレンコン1本持ってきてくれた。「女房は、うちの主人はせんべいが大好きなんですよ」と言う。男はそのせんべいの袋を切って一枚口にし「これは美味しい!Aさんもどうぞ」と勧める。三人でAさんが持って来た柚子味噌せんべいを食べた。やがて男は玄関脇の部屋に去り、パソコンの電源スイッチを入れる。外では雨が降り始めた。雨だれの音、Aさんと女房の会話を聞きながらこれを書いている。

2012年4月24日火曜日


「生かされている」ことを自覚する(20120424)

 スマートフォンを無線ルーターとしてノートパソコンに繋いでインターネットにアクセスしていると電池の消耗が激しいので注意が必要である。スマートフォンを無線ルーターとして使うときはいつも充電しながら使っている。就寝時スマートフォンの電源を切って充電するのであるが、充電用のコネクターがスマートフォンによくつながっていないと翌朝になって完全に電池切れの状態になってしまう。充電中は赤いランプが灯ることを確認しておく必要がある。

 男は昨日スマートフォンで撮った写真をF-Linkでパソコンに取り込み印刷して婆さんのところに持って行ってやろうと思い、そのF-Linkを構成しようとしたが、肝心のスマートフォンが電池切れで使用できない状態になっていた。男のパソコンもスマートフォンも富士通製なのでF-Linkというシステムが組み込まれている。スマートフォンのテザリングをONに設定し、パソコン側のF-Linkを「受信」にし、スマートフォン側のF-Linkを「送信」にするとスマートフォンで撮った写真がパソコンに取り込まれる。パソコンは無線LANモードにしておく必要がある。

 昨日は婆さんが入居している施設のオーナーであるT先生と初めて会った。婆さんを車いす散歩に連れ出しての帰り、施設の玄関を出て来たT先生は婆さんの足の皮膚疾患を見つけてすぐ看護師に処置の指示をしてくれた。その後男とT先生はしばらく立ち話をした。男は「この辺は鶯も直ぐ近くで啼いていてとても素晴らしい環境ですね」と切り出した。「先生のご先祖はこちらですか」「いや私は横浜で生まれ小中学校は横浜ですよ。母の実家がこちらだものですからこちらに引き揚げてきたのです。」二、三やりとりのあとT先生は「労働のミスマッチがあり、介護従事者の確保が非常に困難でうまくやってゆけるかどうか不安です」と言う。この町の人口は昨年より500人ほど減っていて17千人台である。一時期56千人もいた人口が毎年減り続けている。T先生の話によると、町長は県庁OBであった人から金融業界で働いていた人に代わったという。T先生はこの町の行政に影響力があるようなので、男は町運営の在り方について、「町として医療介護従事者の確保の為、積極的な取り組みをすべきですね、それとこの町は観光に力をいれるべきですね」と一言申し上げておいた。T先生には一度お会しておきたいと思っていたが、こういう形で会うことができて良かった。これも「あの世」の親父による引き合わせなのだろう。

 京都で登校中の学童の一群に18歳無免許の男が大学生を含む同年の男2人を乗せ居眠り運転していて突っ込み、付添の妊婦を含む2人死亡・2人重体・6人重軽傷という悲惨な事故が発生した。妊婦は胎児とも死亡した。その少年は以前も無免許運転で検挙されていた。そのような息子に自分の車を使わせる親も親である。その親は「ただ謝るしかない」と言っているが、皆一度限りの人生を棒に振ってしまっている。男はこの事件を見て、その親子には何か「背後霊」によくないものが憑いていると思った。

男もロスアンジェルスでハイウエイを飲酒運転で飛ばしたこともあり、一般道路で夜間走行中、前方に突然女性が横断し、急停車したがその時フロントガラスの向こうでその女性が酔っ払っている様子で「I’m sorry」と言っていたことを経験したこともあり、日中交差点で左折しようとしたとき進行してきたキャデラックと衝突し、相手の前輪をくにゃくにゃにしてしまい、お互いの車が同じレンタカー会社の同じ担当者スーという女性であったため簡単に事故処理できたこともあった。また若い頃、運転免許取り立てでホンダライフで一家4人千葉の国道を走行中、前方の車両を追い越そうとして右車線に出たものの、前方からトラックが進んで来たので慌てて更に右の道路肩に車を乗り入れ急ブレーキし、二男の胸にけがを負わせたこともあった。朝の通勤時狭い近道をすり抜けるとき新聞配達の少年のバイクと接触し、幸いけがなどなかったもののひやっとしたこともあった。男の還暦祝いの時、男はアクセルとブレーキを踏み間違え、まだ2歳の孫娘が載っている車にぶっつかりそうになったこともあった。そのときの孫娘の驚きの叫び声と顔を男は今さら口には出さないが強く覚えている。その孫娘はこの春高校に進学した。アクセルとブレーキを踏み間違えたことは二度もあった。男がこれまで車の運転で大きな事故もなく過ごして来れたのは男に良い「背後霊」が憑いてくれていて男と家族を守ってくれていたからである。男はそういうことを早い時期から自覚していたから70歳になったとき運転免許を返納した。「君子危うきに近寄らず」という心境であった。男は、その「背後霊」は男が10歳の時他界した男の母であり、男よりも若く70歳で他界した父であり、男の女房が3歳の時他界した女房の実父であり、女房の祖父・祖母らであると信じている。そして男が今生きているのは男の遠い先祖から期待されていることを成就させるためである、男は「生かされている」と自覚している。

世の中には常識では考えられないことが起きる。合理的に説明できないことが起きる。偶然起きたことは決して偶然でなく「必然」として起きる。そう考えて人は謙虚になるべきである。人だけではなく、国もそうである。会社もそうである。3.11未曾有の大災害は日本国の「背後霊」が日本を守る為に起こした「必然」のことである。そう謙虚に考えた方が良い。日本には天皇がいて、歴代の天皇は伝えられてきた「祈り」の行を守ってきておられる。そのことを日本人は有り難く思い、最も謙虚になるべきである。会社でも何か事業を成功させようとするとき、「祈り」の行事を大真面目で行い、慎み深く謙虚になることが大事である。そういう会社は成功している。

2012年4月23日月曜日

金婚式の旅行計画は延期(20120423)

 男は婆さんを施設に入居させたら長崎・佐世保・平戸旅行をして横浜に帰る計画であった。これは男と女房が大分のある料亭で祝言を挙げてもらってから50年経った金婚式の旅行計画であり、子供たちからそのお祝い金を頂いていた。しかし、その考えは甘かった。男と女房は毎日婆さんが入居している施設に通っている。婆さんが其処を完全に終の住処として満足に暮らせるようにするためと、婆さんがこれまで独り暮らししながら守ってきた家屋敷の手入れなどで男と女房は日々忙しく働いている。

今朝男は町役場に行き婆さんの住所変更手続きを行った。健康保険証・介護保険証などの住所表示を変えてもらった。郵便局本局に行き、婆さんがこれまでショートステイしていた場所に郵便物が届くようにしてあったものを変更する手続きを行った。婆さんの部屋のロッカーの脇で婆さんがベッドから出て立ちあがったと、すぐ衣服の取り換えができるような場所にハンガーを掛けられるように市販のハンガーかけ建具を加工して取り付け、その後婆さんの入居に関する契約手続きを行った。お天気が良いので女房は婆さんを車いすで散歩に連れ出した。婆さんはその施設備え付けの車いすを初おろしするという‘光栄’に浴した。行き先は婆さんがまだ分かった頃訪れたことがある近くの公園である。旧城下町・風光明媚で鶯その他の野鳥がさえずる山郷にある公園である。男は女房の後を追い、車いすの乗っている婆さんとその車いすを押している女房の写真を静かなレトロっぽい街並みを背景に何枚か撮った。これは印刷して明日婆さんのところに持って行く。

男は家の周りの小さな雑草をむしり取りながら思う。この家は親父が建て、婆さんが60歳頃夫である親父と死に別れて以降、独り暮らしを続けながら守ってきた家である、親父と婆さんの思いがこもった家屋敷である。山水を模した小さな庭もそれなりに立派である。親父は長男であったが家督のことは末弟に後を託し、この地で生涯を終えた。男から見れば祖父以前の先祖代々住んだ土地とこの地の両方にまたがる先祖の繋がりを、男の子孫に伝えなければならない責任がある。そういう意味で地区40年ほどのこの家は大切に守って行かなければならない。この家のことで行っておかなければならぬことが沢山ある。竹馬の友らと会おうと思っていたが、その時間的余裕がない。その友は友で体調を崩している。竹馬の友数人で会うことにしても、誰かが体調を悪くしているという年頃である。

金婚式を兼ねた旅行は先延ばしとなったが、男と女房はあと数日この家で暮らす。連休前に一旦横浜に帰る予定であるが、まだ利用する飛行機か新幹線の切符は取っていない。状況によっては連休に帰ることになるかもしれない。連休に入ると切符は取れない可能性がある。男は取りあえず女房だけ先に帰すことも考えている。一人分なら切符はどうにかなるだろう。この考えは甘いかもしれぬ。男はスマートフォンを無線ルーターにしてパソコンを繋ぎインターネットで調べてみた。今のところ27日の航空券・新幹線とも二人分の切符は取れそうである。

2012年4月22日日曜日


見舞い(20120422)

 何処からかカジカガエルの鳴き声が聞こえてくる。今朝はまだ霧雨が降っていたが午後からは空が晴れて明るい陽射しがあり、穏やかな温暖な気象になった。

 男と女房は徒歩で10分ほどの所にあるK記念病院に入院中のKちゃんの見舞いに行った。K病院には消化器外科がある。Kちゃんは極度の便秘から腸炎を誘発し、ついに手術により腸を切断し、其処から直接外に便を排出させるという大手術を受けた。経過良好で、まだ点滴による栄養補給を受けているが顔色もよく、後十日ほどで普通どおり経口で食物を摂ることができるようになるという。Kちゃんは今年輪番で独り暮らしだった婆さんが所属する組の組長をしていて、組の方から23人、婆さんが新設の特養に入居するまでの間ショーステイで入所していた時婆さんの見舞いにきてくれていて、その数日後にK記念病院に入院してしまっていた。そのことを男と女房は懇意にしている近所の人から聞いていたので、婆さんの特養入居が一段落したのでお見舞いに行ったのである。

病気見舞いと言えば、隣のAさんのご主人も婆さんが特養入居のO病院に検査入院してしまったという。Aさんご夫婦は婆さんが特養入居の日の朝、わざわざお別れに来てくれた。男は玄関先で婆さん・Aさんご夫婦・女房4人の姿をスマートフォンカメラで撮ったが、念のため3枚撮った写真のいずれも良く撮れている。Aさんの見舞いにはその写真を印刷して持って行こうと思う。

 この小さな町には人口の割には医療機関が多く、町内を循環バスが運行されており、人々の安心が確保されている。Aコープのスーパーがあるすぐ近くに農家の人々が持ち込み販売する「良心市」があり、広々とした駐車場の脇に清潔な公衆トイレが設置されている。その店内を回っていると一人の老いた農夫が「天然のたらの芽じゃ」と台の上に10束ばかり並べていた。この店の中には販売担当の女性が一人いるだけだった。女房はその「良心市」でゆで餅とおかきを買った。いずれも農家の人たちの手作りである。

この町には朝7時から利用できるコインランドリーも何か所かあり、男の家から徒歩5分ぐらいのところにもそれがある。この町の中央に川が流れており、川岸に菜の花など花々が咲き乱れている。まだ水が入っていない水田には蓮華草が咲き乱れている。

人々は皆穏やかで善意に満ちている。K記念病院に行く途中、道路わきの小さなビニールハウスの前を通るとき声をかけられ立ち寄ったら、ハウスの中に招き入れられその場で新鮮な幾種類かの野菜を切り取ってプレゼントされた。女房がせめて200円でもと差し出すと「要らん、お金を貰うぐらいなら野菜は上げん、わしが呼び止めたんじゃから」と断られてしまった。

 Kちゃんの見舞いをしたので今日は婆さんの所へは行かないことにし婆さんに何度も電話を入れるが婆さんは出て来ない。多分隣のUさんとダイニングルームかUさんの部屋で痴呆同士が同じ話を繰り返して話しているのであろう。これでは婆さんの弟妹たちが婆さんに電話してもなかなかつかまらないだろう。

 以上の描写は男と女房が生きているときの風景の幾コマである。女房はいっぺんに疲れが出て、居間で昼寝している。

2012年4月21日土曜日


戦線離脱(20120421)

 男はK病院の整形外科で左上腕の痛みに診断を受けた。レントゲン写真と先生による触診結果「70歳ですが四十肩・五十肩のようなもの」であると診断され、内服薬と湿布薬を2週間分出された。

 男は生まれて初めての‘四十肩・五十肩のようなもの’の経験を先祖からの指示と受け止め、自分の年齢を考え余命を考え、国を憂えるフェイスブックのグループから‘戦線離脱’することにし、男が何れこの世を去る前に男の家・子子孫孫のため為しておくべきことに時間とエネルギーをそそぐことにした。但し国を憂える活動については、竹島奪還、尖閣・沖縄防衛、北方領土返還、韓国による従軍慰安婦・日本海呼称・日本文化乗っ取りなど反日プロパガンダ対処について活動する渡部昇一氏な著名人中心のグループへの関心とそのグループ活動に対する‘貧者の一灯の如き’寄付などにとどめることにした。

 大分放送テレビで韓国統一教会の活動のことが報道されていた。統一教会が北朝鮮と非常に密接な関係があること、佐賀と韓国を結ぶ海底トンネルを掘っていて、既に海面下140mの深さまで作業トンネルが掘られていることなどが実映像とともにレポートされていた。男は宗教活動はもろ刃の剣、世界平和に貢献する一方、国家観を危うくするものであると思った。

 このブログの記事もメモ程度、投稿まで時間をかけないことにする。

2012年4月20日金曜日


この痛みはストレスからきいているのだと思う(20120420)

男の左上腕上部の痛みは依然として続いている。男と女房は昨夜往復タクシーを利用して洗い場が5人分ある天然かけ流しの共同浴場に行った。初めのうちは男湯も女湯も入浴者は男と女房以外に誰も居ず、それぞれ広々とした専用湯であった。そのうち夫婦が2、3組とやってきて入浴者同士の会話が始った。誰でも脱衣して浴室に入るとき、先客がいれば「今晩は」などの挨拶をし、また先に浴室から出るとき「お先に」と挨拶をして出る。こういう挨拶は初対面同士であっても会話のきっかけとなる。女房は、会話の相手の女性は婆さんがショートステイで世話になっていた施設で働いているという話を聞いた。この町では学童たちがすれ違う大人に挨拶をしている。小さい時からのこういう習慣が大人になっても続くのである。女湯の方から「お父さん上がった?」と女房の声がある。「うん、今上がったところだ」と答える。

男は昨夜左上腕の痛みでよく眠ることはできなかった。整体院でマッサージを受けた後はしばらくは痛みをあまり感じないのだが、1時間もしないうちに痛みが再発する。入浴した後は血液の循環がよくなるのか、痛みは和らいでいるが時間が経つと痛みが再発する。就床後3時間近く眠って目が覚め、小用を達して再び就床した後痛みでなかなか寝付かれない。痛む側の左腕を上にして横になってじっと動かずに痛みを堪えていると痛みが徐々に和らいだ感じになり、いつの間にか眠っている。しかし早朝痛みで目がさめた。

婆さんの終の住処をよりよくする仕事は未完成である。婆さんが居なくなった家のこともしなければならない。昨日は隣の独り暮らしのTさんが紹介してくれた庭の木々の手入れをしてくれる人が来訪、男と女房は初対面だが「この人はぼくとつだが非常に誠実な人だと判断、不在間の庭の手入れを依頼した。支払いは8月、盆に返った時で良いという。今日は婆さんの終の住処の壁に時計を取り付けたり、タンスを動かして後ろの壁コンセントにテレビの電気コードを横から差しこむことが出来るように専用のコンセントを取り付けたり、洗面所にタオル掛けを取りつけたりしなければならない。昨日床に一坪広さのカーペットを敷いたり、小さな人形を飾ったりしたら暖かい雰囲気になった。壁に女房が撮った花の写真のパネルも飾りたい。男と女房は近くのホームセンターで必要なものを買って、一日の4便しかない町内循環バスに乗って婆さんの終の住処に行く。

男はその前に近くの小さな共同浴場に行って、左上腕の痛みを緩和しておこうと考えた。その浴場は10時から利用できる。自転車に乗ってその浴場に行った。男より年長に見える老人が湯船につかっていた。男は挨拶をして中に入る。狭い湯船の中でその老人に「五十肩なんです」と会話のきっかけの話を出す。老人はそのような問題を抱えていないように見える。一言二言会話があっただけだった。五十肩なら腕は上に伸ばせない筈であるが男の腕は何とか上に伸ばせる。五十肩ではないのかもしれない。

「お父さん(パソコンに向かって)もう一時間にもなるわよ」と女房は男の左上腕上部の痛みを気遣っている。男は整体院での治療には限界があるように思い始めた。婆さんが世話になったK病院には整形外科医が常勤していず、明日その先生が来るという。男は明日その整形外科で受診するつもりである。今夜も痛みで安眠できないかもしれない。それを少しでも良い状態にしようと男は薬局でパスタイムFX7という湿布薬を買ってきた。「痛み止めの薬はありますか」と問うたら薬剤師は「あります」と言って服用薬を出してきた。その薬は痛み止め成分と葉酸が入っているという。男は「そうなんだ、こういう薬があるんですね」と言って買うことは控えた。明日、整形外科の先生が何な処方してくれるだろう。家には婆さんがいず、女房と二人だけなのでリラックスはできる。男は家の風呂につかって体を温め、女房にその湿布薬を貼ってもらおうと思っている。男の左上腕・肩の痛みはパソコンのやり過ぎだけではない。男は時間に追われるようにして婆さんのことや家のことをあれこれしなければならない。このことが一つの原因となって男の左上腕・肩の痛みを誘発している。

その婆さん、奇遇にも30数年前別れた隣の家のUさんと化粧室を挟んで隣り合わせの部屋になり、しかもその施設で働く従業員も隣の家のKさんの親せきだという。Uさんの家もKさんの家も今は駐車場やお総菜などを販売する店になっている。婆さんは終の住処に移ってから親しい友達に会え、生き生きとしている。その施設の従業員も婆さんとUさんにはあまり手がかからないだろう。二人ともアルツハイマーに罹っていて適当にぼけていて、いつも同じ話を繰り返して話しているが・・・。

2012年4月19日木曜日


年寄りは子供というが・・(20120419)

 石原東京都知事が「尖閣諸島を東京都が買う」と宣言した。尖閣諸島の所有者と東京都の間では既に水面下で売買契約手続きが進行しているようである。この東京都の行動を受けて野田総理は「国が尖閣諸島を買い取ることも選択肢の一つとして検討する」と言った。最近、政治家や官僚の間に国家観が浸透してきているようである。男はこれまでずっとネットを通じて国を憂える言動をしてきたのでこの状況を嬉しく思う。

男は疼くような鈍痛を左上腕に感じ、このところフェイスブックにも遠ざかっている。毎日続けることにしているブログを右中指一本だけで書いている。左上腕の痛みは婆さんの施設入居関連の作業をしたため負荷がかかり、状況を悪化させている。この作業も今日でほぼ終わったので、男は明日からは左上腕への負荷をなるべく減らし、治療に専念しようと考えている。

婆さんの終の住処にはカーペットが敷かれ、婆さんが使っていたソファタイプの座椅子も置かれ、花も飾られ暖かい感じになった。全く奇遇であったことは、婆さんの部屋の隣に30数年前隣に住んでいたUさんが入居してきたことである。男は、世の中には偶然はあり得ない、偶然だと思っていることは実は起きるべくして起きた必然の事象である、偶然か必然かはその人の受け取り方、感じ方次第である、この度の‘奇遇’は、あの世’で暮らしている婆さんの夫、男の実父による差し金であると男は信じている。

Uさんも婆さん同様痴呆になっており、お互い同じ年同士で話が弾み、二人とも同じことを何度も話している。その話の中で婆さんが「(私は)子供たちに見放された」と言ったことに対し女房は非常に憤慨している。男と女房がどれほど婆さんの世話をしてきたことか、その苦労は当事者でないと理解できないだろう。

2012年4月18日水曜日


長年の束縛感からの解放(20120418)

 婆さんが終の住処に入居した。婆さんの部屋は日当たりがよく、前の景色も良く、すぐ隣に化粧室がある。その化粧室を挟んで一室ありその隣がダイニングルームとなっている。今朝は婆さんの部屋にこれまで婆さんが居間で使っていた37型液晶テレビや家具などが運びこまれた。真新しい部屋にそのテレビや家具などが配置され婆さんの終の住処が整えられつつある。明日は床上に小さなカーペットを敷かれ、電話が引かれる。婆さんは椅子に腰かける生活より床面に座って炬燵に足を入れてテレビを見るようなスタイルが落ち着く。カーペットはそのために敷かれる。これまで使っていたテレビは綺麗に清掃され、整理ダンスに長年収められていた衣類は取り出され、不要なものは廃棄され、空になったタンスは綺麗に清掃された。これらの準備や運搬・設置の手配や清掃は全て婆さんの義理の長男である75歳の男によって行われている。

 婆さんがその施設に入居したら男も女房もいっぺんに疲れが出てしまった。男の左上腕の痛みは一層酷くなった。男はかかりつけの整骨院で痛む部分を丁寧にマッサージしてもらった。その後症状が改善されたように感じられた。しかし、男の左肩・左上腕の痛みは共同浴場の温泉に浸かって温めても良くならない。これは休養しないと完全には良くなるものではないと思われる。整骨院の先生は「もうパソコンをやっても大丈夫です」と言うが、男は今痛くない右腕だけを動かし、中指だけでぽつんぽつんとキーボードをたたいている。

 それにしても婆さんが施設に入居して、男も女房も長年の束縛感から一挙に解放されたという感じである。男も女房もこのような気持ちは実際に年寄りの面倒を見ている者にしか理解できないものであると思っている。

 

2012年4月17日火曜日


左上腕筋肉痛(20120417)
 
 スポーツ選手は30歳ぐらい以上になると体力の限界があるようである。ましてスポーツ選手のように普段身体を鍛えていない人でしかも男のように75歳にもなろうとする者は、ちょっと体を動かすだけで筋肉疲労が起きる。そもそも75歳にもなろうとする者を‘男’と第三人称扱いで呼ぶのはちょっとおかしいのではないかと男は思う。

 世に「老々介護」という言葉がある。75歳にもなろうとする男は、93歳の婆さん(継母)を看ているのであるから、正しく‘老々介護’である。その婆さん実も娘である男の女房も今日71歳になった年寄りである。いまどき70歳代はまだ鼻たれ小僧だというが、人間の生理的年齢は、いくら若く見えても年は年である。年は争えない。

 男は昨日に引き続き今日も整体院で治療を受けた。昨夜就寝中左右とも上腕に筋肉疲労があり、熟睡できなかった。それでも婆さんが明日特養に入るのでその準備のため、いろいろしなければならないことがあった。右上腕に特に疲労が溜まっている感じなので、その部分を特に念入りに揉んでもらった。

 ところが夜になって今度は左上腕に疲労がありい痛みを感じる。パソコンも右片手だけでぽつんぽつんとキーボードを叩かないと状況が一層悪く感じる。
 睡眠が大事だ。昨夜は深夜2時過ぎまで起きていたが、無理は状況を一層悪化させる。休養が必要である。

2012年4月16日月曜日


寝ずの番(20120416)

 婆さんをショートステイから連れて帰った。婆さんにとって4か月ぶりの‘わが家’である。男と女房は昨日庭や小畑の草むしりを粗方しておいた。今日もお天気がよい。花壇にはチューリップの花などが美しく咲いている。婆さんは庭に出て辺りを眺め、芝生の中の雑草を抜き始めた。男も一緒に手伝った。長年独り暮らしの婆さんのため、女房は花壇を作り時期時期にいろいろな花が咲くように心配りをしていた。しかし明後日から婆さんは新築の特別養護老人ホームに入居する。男も女房もこれまでのように頻繁に帰ってくる必要はなくなった。盆正月に帰る程度で良くなった。

 男はその新築の老人ホームに行ってみた。婆さんが入る予定の部屋を見せて貰った。この施設は非常に良くできている。ケアの体制も万全である。この施設を経営するT病院は10名ばかりの第三者委員を嘱託している。この施設に隣接するA医院が入所者の医療面を担当することになっている。ケアマネージャーは婆さんがこの施設に入ることが出来るのは非常に運であると言う。男は婆さんが8年前がんを患ったあと主治医のK先生のアドバイスで町内の幾つかの特養や老健施設入所の申し込みをしてあった。そのことが今回婆さんの認知症発症で功を奏した。

 婆さんの大好物はうなぎである。婆さんの夕食はうなぎと決めた。男と女房は刺身にした。体が生魚を要求している。その夕食の材料を買うため、女房は婆さんを運動を兼ねて押し車を押させて連れだした。ショートステイの食事は特別良い物でもなく、また悪いものでもない。婆さんは「これは美味しい」と目を白黒させて何度も口にした。余程好物のなぎが美味しかったらしい。女房は「うなぎは高かったのよ」という。

 男はその施設見学の帰りにマッサージの整体院に立ち寄った。左の上腕が痛むからである。その整体院の若い先生、「これは凝っていますね。皆さんは自分の肩や背中などが凝っていることを自覚しないのです」と言う。治療して貰ってすこし楽になった。明日また其処に行くことにした。

 今夜はばあさんがまた深夜徘徊をしないように男は寝ずの番をすることにしている。一晩中起きているというわけではないが、ばあさんがトイレに起きる時間頃まで婆さんの部屋に近い廊下の突き当たりの部屋でフェイスブックやツイッターなどを見て、パソコンのキーボードを叩いていようと思っている。婆さんには‘前科’があるので玄関には車いすや姿見などを置いて婆さんがそう安々とは外に出られないようにした。その他の出口も婆さんがそう簡単には動かせないような障害物を置いた。睡眠不足は明日昼寝をして解消するつもりである。

普段は誰もその家にはいない九州の田舎の家に帰る(20120415)

 毎度のことながら空港での保安検査を出た後は気忙しい。今回の帰郷では男のノートパソコンと女房のiPadを携行したため、保安検査場ではそれをバッグから取り出し、その他たとえば男のベルトとか携帯傘とか金属類は取り出して別個に検査して貰う。X線検査装置から出て来たものは、後の人が待っているので手早く元に戻さなければならない。

 1130分羽田発ANA251便は搭乗口66番、検査場からり離れた場所にある。時間がないので大急ぎでパソコンなどをバッグに押し込んだ。その時うっかりマイレージカードと一緒にバッグに押し込んだらしい。いざ搭乗口に入ろうとするときそのカードがないことに気付いた。男は係りのスタッフに事情を説明した。女房と一緒だったので係員は男の名前を確認し「何か身分を証明するものを見せて下さい」という。男は住民基本カードを見せた。搭乗時間締切間近であったが係員はその場で臨時の搭乗券を発行してくれた。航空券は早々とインターネットで購入済みであった。その時座席指定もしてあった。所定の座席に座り、検査場で外したベルト等押し込んだ手提げバッグの中を調べたが男のマイレージカードは見つからなかった。女房は「パソコンを入れたバッグの中にあると思うよ」という。そのバッグは荷物棚に入れてある。福岡に着いてそのバッグを調べたら、パソコンを入れたケースの傍にそのカードはあった。

 男が搭乗口でマイレージカードを探す騒ぎは以前にもあった。女房はあきれ顔である。男が一人で九州に帰るときは飛行機利用の方が良いが、女房と一緒に帰るときは新幹線利用の方が気分が落ち着く。一人で帰るときはビジネスマンの感覚だが、女房と一緒のときは旅行している感覚である。

 福岡空港に着いて湯布院行き高速バスに乗るまでの間小一時間あったので空港で昼食をとることにした。144分発の高速バスはいつも10分以上遅れてくるのだが今日は定刻に近く到着した。担当の係員は「最近はこのバスには韓国の方の利用が多いです」という。湯布院や別府に観光する韓国人が多いようである。男は多くの韓国人が観光で日本にやってきて日本文化・風習に親しむことは良いことだと思う。近年、竹島や従軍慰安婦や日本海の呼称のことで一部の韓国人らによる反日プロパガンダがあまりにも酷すぎる。日本人がそのことについて強く反発しないと、彼らはますますつけあがる。そういう連中と日本に観光のためやってくる連中とは別扱いにしなければならない。お互い感情的になることは決してよいことではない。

 男の家があるこの町には天然かけ流しの温泉の共同浴場があちこちにある。その浴場の近くに天ぷらやうどんのレストランがある。男と女房は家の近くの温泉共同浴場にいった。風呂に入る前にその近くで夕食をとった。男は天ぷら定食、女房は金毘羅定食を取った。この店の天ぷらはいつも新鮮な油で天ぷらを揚げていて、とても美味しい。うどんも四国の讃岐うどんのようにこしがあって、汁も薄味でとても美味しい。満足して風呂に入る。男湯・女湯板壁一枚で仕切られていて、隣の話し声が良く聞こえる。湯船は家族風呂程度の広さで洗い場は一人分しかない。入浴料は一人300円。自動券売機で入浴券を買い、その下にある入浴券投入箱に入れる。入浴券を買わずに入るようなさもしい心を持っている人は一人もいないようである。

 男がその風呂に入った時、若い男性が一人洗い場で体を洗っていた。「今晩は」と挨拶する。ここでは見知らぬ人同士でも挨拶を交わす。狭い風呂の中で世間話もする。そういうところは都会では見かけない光景である。女房は女房で会話している。聞いていると相手の女性は母がショートステイしていて世話になっている施設で働いていて母の世話をしてくれている人のようである。

 明日、母を連れて帰るが田舎の家でいま男と女房だけの静かな夜が更けてゆく。女房は送られてきた二人の息子や嫁たちからのメールに返事を書いている。メールはスマートフォンを無線ルーターとして送受している。子供たちは老いた親である男と女房のことを思い、それぞれのやり方で幸せを届けてくれている。昔親子4人で住んでいた向こう三軒両隣の路地の風景の写真や、高校進学した孫娘のセーラー服姿の写真や嫁に抱かれ甘えている孫息子の写真などが女房のiPadに送られてきた。