2013年7月22日月曜日

参議院選挙が終わって思う(20130722)

参議院選挙結果今後日本の政治は安定するに違いない。シナ(中国)や韓国は自分たちが日本に脅かされると感じている。それでよい。これまで彼らはあまりにも日本に対して非礼かつ非常識な言動をしてきた。しかしこれからもその言動がますます高じることだろう。

今後数十年の間は徹底的に反日教育を受けた世代の人たちがそれらの諸国の指導的地位に在る。今後日本は明治時代の人たちが経験したような外交・防衛上の危機に直面することだろう。しかし日本はきっとそれを乗り越えることができるに違いない。しかしもし仮に日本がそのように危機を乗り越えることができないような状況になったとしてもそれに対して何を為すことができようか、男は思う。男は自分の子や孫たちのことを心配するだけで何一つ彼らの役に立つようなことはできないのでいると思っている。

男はすでにブログ上では憂国的・愛国的・啓蒙的・啓発的な発言をすることを止めている。男は今後はフェイスブック上でもそのような発言をすることを一切止めることにした。しかし一部の「フェイスブックの友達」に対して個人的にメッセージを送ることはあると思っている。

今後男は余生を「意識」と「仏教」と「科学」の関係について研究と思索のためより多くの時間を割きたいと思っている。そしてその研究と思索のことを記述し記録し保存し、ブログで一般に公開してゆきたいと思っている。


男は自分がたまに心が通い合う友だちと会って酒を酌み交わしながら語り合うことは楽しいと感じるだろうが、社会的諸関係により生じる緊張や諸々の感情の中で自分の貴重な時間を費やすことは馬鹿らしいと思っている。今、男は盛唐の詩人・「詩仙」李白の『山中問答』のような心境にある。男は自分がそういう心境で居られることを大変幸せに思っている。

2013年7月8日月曜日

真実の愛――『八重の桜』――会津藩士の妻女たちの最期に思う(20130708)


  男は今日の明け方つぎのような夢を見た。断片的でありよく覚えていないが、ある場所に皆が集まる夢である。男と男の妻ほか数人の人たちは誰だか定かではないがある誰かが運転する車に乗ってその場所に行った。其処で男の妻は他の人の妻たちとともに何か接待の役をするため其処に向かった。本来その接待役は主催者側の責任ある立場の人たちの妻たちが受け持つものであった。それなのに何故男の妻たちが接待の主役を務めることになったのかその理由は分からない。主催者側で本来接待役をする立場にあった女性たちは皆浮かぬ顔をしていた。その後場面が変わり、どういうわけか男の妻ほか幾人かの女性たちは処刑されるため何処かに向かっていた。先頭に男の妻がいた。男の妻は自分がこれから処刑されるというのに従容として其処に向かっていた。最後尾の二人の女性たちの表情は悲しみの表情をしていた。
 

 男の妻は純粋無垢の気持ちで男に尽くしてきた。自分が処刑される場所に向かっているのにまるで普通の表情である。男は呆然としてその列を見ている。男は目が覚めて思った。これは男の妻が男に深い愛情を示すとともに彼女がかねがね言っているように「私はいつ死んでも良い。長生きしたいとは思わない。これまで誰にも真剣に尽くしてきたので何も思い残すことはない」という心情をそのまま表しているものである。
 

 ここに男の妻が小学校5年生のときの学級の集合写真から切り取った写真がある。その集合写真に小学校5年生のときの男の妻が前列中央に学童服を着て写っている。その写真を見ると男の妻は小学校5年生の時、将来男の妻になることが定められているかのような表情を漂わせている。彼女は男の家のため尽くし、男の家を本来あるべき正しい有り様に変えてくれた。男の家は名門旧家であると伝えられているが其処には何か深い業のようなものがあった。それを男の妻は断ち切ってくれた。それは他のどのような女性も絶対できないものであった。男の妻はそれを行う役目を担って男の家の嫁となったように見える。
 

 昨夜NHK大河ドラマ『八重の桜』を見た。会津の女性たちは会津に侵攻してくる薩長軍主力の新政府軍と戦い散っていった。その中には、会津藩江戸詰勘定役中野平内の長女・中野竹子らにより組織された20名ほどの女性のみの部隊(娘子軍)の一員であったが捕縛され自刃したとも言われる神保修理(諱は長輝)の妻・雪子や会津藩家老西郷頼母の母や妻子らの自刃がある。また会津藩娘子軍の中心的存在であったが被弾し母・こう子の介錯により果てた竹子がいる。竹子は薙刀の名手でありその薙刀には「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」と辞世を記した短冊が結ばれていたという。ウィキペディアによれば彼女たちは頼母が登城後自分たちが足手まといになってはならぬと頼母邸で自刃したという。それぞれ下記のとおり辞世の歌を遺している。

 母 律子(58歳)  「秋霜飛兮金風冷 白雲去兮月輪高」

  妻 千重子(34歳) 「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそきけ」

  妹 眉寿子(26歳) 「死にかへり幾度世には生きるとも ますら武雄となりなんものを」

   由布子(23歳) 「武士の道と聞きしをたよりにて 思いたちぬる黄泉の旅かな」

  長女 細布子(16歳) 下の句、 次女 瀑布子(13歳) 上の句

                   「手をとりてともに行なばまよはじよ いざたどらまし死出の山みち」
 

 女性たちは最も価値あると確信するものに自分の命を捧げた。男の妻もそのようにしてきた。だから何も思い残すことはないのである。これ以上の無私・真実の愛は他にあろうか?男も男の妻のためならば従容として死に就くだろう。もしそういう場面に直面したならば・・。

2013年7月4日木曜日

臨死体験の実話に思う(20130704)


 男は自分が一世紀前か何世紀前か分からぬが過去の世の誰かの生まれ変わりだろうと思っている。自分が死ぬと自分の意識は未来に新たに生まれる誰かに宿るのだろうと思っている。男は意識は魂であると考えている。男はホーキング博士がニュートンの生まれ変わりだという話を聞いたことがあった。

 男は意識は時空を超越していて無限であると考えている。意識は融通無碍であり多様の様態のまま同時に進行するものであると考えている。このような意識は生物の中でヒトにしか存在していない。2500年前インドのシャーキャ族のゴータマ・ブッダは、人間には「過去の世」と「今の世(現世)」と「未来の世」の三世があってそれが連続しているというようなことを説いておられる。ブッダは現世の人の有り様はその人の過去世の行いの善悪次第であり、現世の人の行いの善悪次第によって来世の有り様が定まるというようなことを説いておられる。一方でブッダは現世の人の行いはその人の前世(=過去世)の業に左右されるものではないとも説いておられる。またさらにブッダは人の「過去世」や「来世」が存在するとか存在しないとかいうようなことを議論してはならないとも説いておられる。

 男は自分の身近な人が死の3日前に、その人がいわゆる幻覚・幻視をしたのだろうと思えるようなえも言われぬような非常に美しい光景のことを語ったことを記録した。それは彼の妻が彼から直接聞いて驚き彼に何度も「馬鹿なことは言わないで」と言ったという光景である。彼はその光景のことを彼の妻に話したあと「わしは25日に死ぬ、25日に死ななければ26日か27日には死ぬ」と言った。彼は26日の朝4時「のどが渇いた」と言った。彼の家族は彼に冷えたお茶を与えた。彼は冷えたお茶を沢山飲んだ。そして数時間後息を引き取った。彼は死ぬ4日前に男に「わしは為すべきことは全部為した、もう思い残すことは何もない」と言っていた。その時は彼の起居動作も左程困難そうには見えず元気そうに見えた。

 彼が見た光景というのは赤色系の大きな光のかたまりと白色の光のかたまりであった。彼は「お宮の方に赤い大きな日と白い日が見える。そりゃァとても美しい日だぞ、綺麗だぞ」と彼の妻に言った。彼はそのような光景を見た翌日の24日の午後、「お宮の方に菊の花が一杯広がっていてそれが等間隔に並んでいてわしの所で一本だけになった」と言った。「お宮」というのは彼が深く関わった地区の小さな神社のことである。その神社は彼の家から50メートルほど離れたところにある。彼の妻が「そんな馬鹿なことは言わないで」と言ったら、彼はいつものとおり元気な声で「実際に見たのだから仕方がないではないか」と言ったという。このような臨死体験の話はよく聞く。ある医者は「それは死の恐怖から逃れるため人間の脳に組み込まれ自己防御機能である」と説明する。しかしそれが科学的に証明されているわけでない。

 男は人の意識はその人が死んだ後も存在し、新たにこの世に生を受ける人の中に入ると信じている。その新たにこの世に生を受ける人はその人の身内とは限らない。男はその意識が宿る先はその人の生前の意識次第であると思っている。生前自分の意識を高みに近づけるように努力した人は、その意識をより高みに近づけることが可能な資質を持っている人の肉体に宿る。その逆に生前自分の意識を高みに近づけるような努力をしなかった人は、その意識をより高みに近づけるように一層の努力をしけかればならないような資質・形質を持っている人の肉体に宿る。その「来世」の人が「前世」のとき交通した人と意識の世界で交通するときはその意識のレベルは「前世」の人と交通しているときと同じようなレベルである。一方でその「来世」の人を供養し、回向している「現世」の身近な人や僧侶のお蔭や、その「来世」の人の精進努力次第で、その人はその「来世」において意識を高みに近づけるようになる。つまり「来世」にいるその人の意識は時空を超越し、融通無碍であり、多様の様態のまま「現世」と「来世」の間で同時進行しているのである。男はそのように考え意識というものは輪廻転生するものであると信じている。

 彼は6月26日朝死んだ。その日は正に男の父親の命日であった。男は自分の家・A家と彼の家・Y家のそれぞれの先祖は深い関係にあり、多分Y家はA家が先祖の時代の時のように再び興隆するように支援してくれているのだと思っている。男をこれまで支えてくれて、よい子孫を遺してくれている男の女房はY家から来ている。男は何か深い因縁を感じている。

 仏教は人間の正しい生き方を教えている。仏教に帰依し、死んだ人のため供養し、回向する人は「現世」において幸せであると同時に「来世」においても更に幸せになることが出来るのである。このようにして人間は生まれて一生を終えて死んでゆくことをくり返しながら今日まで営々として良い社会を作って来たのである。先祖を敬い、死者の供養をし、回向することは非常に大事なことである。日本人は靖国神社に祀られている英霊たちを供養し、回向しなければならない。そうすることが日本国の繁栄・平和・安全のため極めて重要である。