2014年12月30日火曜日

20141230善男善女の「あの世」での有り様が分かってくるような気がする。


 自分は煩悩の身から抜け出すことは絶対にできない。自分は死ぬ時まで煩悩の身であり続け、煩悩の身から抜け出して高潔な身になりたいとも願わぬ。しかし自分は盗み・殺人・詐欺・暴力行為など人としての道に反するような行為は決してしないし、自分は好色だが浮気・不倫・性的犯罪などは絶対にしない。いうなれば自分は善男善女の類の男である。

 良寛の『意(こころ)に可(か)なり』という題の作詞に「欲無ければ一切足り、求むるあれあば万事窮す」という一節がある。京都のある寺の縁先の庭に「吾・只・足・知」の四つの文字を一つに組み合わせた彫った石が置かれている。「吾ただ足るを知る」と読む。きらびやかなものを身に着け「この時計は350万円したものだがその修理にン十万かかった」などと自慢したがる者は到底良寛の気持ちや京都の寺の庭石に彫られているような気持ちにはなれない。質素で無欲なことが身についている人は善男善女の中でも上等な人である。

 お釈迦様(ゴータマ・ブッダGotama Siddhattha)が布教を始めた初期に一般の人々に説いたと伝えられている『阿含経』(āgama)には輪廻転生のことが書かれている。それは王妃末利(マーリー)との問答である。ブッダは性格が悪く利欲に走り名声を求める人は後の世において醜く貧しい者として生まれると答えておられる。またブッダは弟子との問答で「この世は心に導かれ心に引きずられ、心の支配を受ける」と答えておられる。善男善女はあの世で人間界に生まれるがこの世での行い次第であの世での有り様が決まるのである。

 心は意識である。意識は感覚・感情・行動・記憶が統合されたものであり、人間だけが持っているものである。人の遺伝子はその人の形質・気質・性格・知能・運動能力などに影響を与えている。従って人の意識はその人の形質・気質・性格・知能・運動能力などに関係がある。故に人の意識はその人の遺伝子に深い関わりをもっているということができる。

人の意識に影響を及ぼす遺伝子の発現のメカニズムが何れ明らかになるに違いない。子は両親から遺伝子を半分ずつ受け継ぐ。その受け継ぐ遺伝情報は223乗という数の膨大な遺伝情報の中から選択される。その選択のメカニズムについてはその道の専門家でさえもまだ分かっていないことだろう。しかし親から子へ、子から孫へと代々遺伝してゆく過程において、意識は遺伝情報の選択に何かの作用を及ぼしているに違いない。


意識は時空を超越し、自由自在・広大無辺・融通無碍な概念である。意識について現代の科学では解明されていないし、永久に解明できないかもしれない。しかし意識の概念について深く思惟してゆくならば、ブッダが2500年ほど前に説かれた輪廻転生のことが次第に分ってくるような気がする。

2014年12月27日土曜日

20141227皇(すめらぎ)の降臨と崩御――日本民族の本質は何か?――


 古来天皇は祭祀を非常に大切にされ、祖先と神々への感謝と国民の幸せを願って祈りを捧げて来られた。皇太子が天皇に即位されると皇(すめらぎ)として降臨(天下り)する。そしてその生涯を終えられて崩御する(かむあがる)。皇族方も祭祀を大切にされている。

 今上天皇は81歳のお誕生日を迎えられた23日、皇居・宮殿で記者会見し、「300万人を超す人々の死を無にすることがないよう、常により良い日本をつくる努力を続けることが、残された私どもに課せられた義務であり、後に来る時代への責任であると思います」とのお気持ちを明らかにされた。

 われわれ日本国民は統合の象徴として天皇を戴いている。これは日本国民として大変幸せなことである。このような国は世界中どこを探しても見当たらない。しかし同じ日本国民であってもこのことに批判的な考え方をしている人も居る。そのような人たちに問いたい。「あなたは古事記を読みましたか?」「あなたは万葉集を読みましたか?」「あなたはご先祖を敬っていますか?」と。おそらく彼らは反権力意識が非常に強い人たちであろう。

 日本国民には非常に多様な価値観が混在している。日本国民は象徴として天皇を戴いているから外から見れば日本は単一民族国家のように見える。しかし日本人の遺伝子は非常に多様であるので、ある意味で日本人は多人種の集合である。遺伝子の多様性が多様な価値観を生んでいる。聖徳太子が作った十七条憲法の第一条に「以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨。亦少達者。(和をもって貴しと為し、さからうことなきを宗とせよ。人皆党あり、またさとれる者は少なし。)」とあり、1410年の昔も今も日本国民の間に非常に多様な価値観が存在している状況は変わっていない。

 日本国民の間に非常に多様な価値観が存在していても、日本の国家の存亡にかかわるような事態が起きたとき、日本国民は団結して国家を守ろうとする。これは日本国民の遺伝子が非常に多様であっても、その形質・気質・性格等において多くの共通点があるからである。 何故そうなのかと言うと殆どの日本国民は遺伝情報の拡散・発現により、天皇・皇族とある意味で皆親族であるからである。内廷は日本の各家の宗家のようなものである。


ヒトと呼ばれる生物種である人間の染色体は23個の同じものが2つある。親から子へは両親の遺伝子の半分ずつ子に伝えられる。その遺伝情報は2の23乗個の染色体の中から選択的に子に伝えられる。さらに一世代25年とし一組の親に2人の子供がいるとすると1000年後に一組の親の子孫は2の40乗人、つまり1兆人できることになる。こう考えると日本国民が万世一系の天皇を戴いているということは大変幸せなことなのである。

2014年12月26日金曜日

20141226「あの世」は「この世」の続きである


 テレビのスイッチを入れたら「ゴンチチ(GonTITI)」のトークショーが放映されていた。このギターバンドの二人の出会いは全く偶然のことであった。しかしそれは決して偶然の出会いではない。「この世」に生きている立場で観るからそれは偶然のように見えるが、意識を遠い過去から遠い未来まで拡げて考えるとその二人は「この世」で出会うべくして出会ったのである。つまりこの出会いは決して偶然ではなく必然であったのである。

 通りを行き交う人々は皆遠い過去から連綿として続いている中のある人生を「この世」で生きているのである。人々は「この世」に生まれ、成長し、子孫を残し、老い、やがて死ぬ。その一生の間、ある人々の意識は良い方向に高まってゆき、ある人々の意識は悪い方向に向かってゆく。そしてそれぞれ一生を終えた後それぞれの意識はまた別の新たな生命に宿る。そのとき意識はそれにふさわしい生命に宿る。良い意識は良い生命に宿り、悪い意識は悪い生命に宿る。

 たとえある良い意識が「この世」で良い生命に宿ったとしても、その人がそのことを自覚せず悪い方向に活動すれば良い結果を得ることはできない。一方悪い意識が宿った生命であってもその人の努力次第でその意識は良い方向に高められる。人々は「この世」で煩悩に振り舞わされながらも皆一生懸命生きているのである。

 人々にそのような意識を持たせるある永遠の存在がある。キリスト教やイスラム教などではそれを神といい、仏教ではそれをブッダという。神とブッダの違いは何か?神は生命の創造主であると観る永遠の存在であり、ブッダは生命と共にあると観る永遠の存在である。何れにせよ人々は神またはブッダに生かされている。人々は煩悩の身で生きており、一方である永遠の存在によって生かされている。


 人は自分の意識でこの永遠の存在を捉えることができる。しかしその捉えたものを他人に分かってもらうように説明することは非常に難しい。それはほとんど不可能である。「この世」で煩悩に振り回されながらも自分の意識を少しでも良い方向に高めるように努力しつつ、自分がある永遠の存在に生かされていることを自覚して「この世」でその永遠の存在に期待されていると考えていることを実行する人は、「あの世」できっと良い生命に宿って「この世」にいるよりは幸せな一生を送ることだろう。

2014年12月18日木曜日

子供たちの桜 (20110513)

 表題の「子供たちの桜」は、歌手の森 昌子が被災地で、またNHKのスタジオで歌った歌の題名である。森 昌子はこの度の大震災で被災された方々を、自分にできることで何とか慰問したい、しかしかえってその方々の迷惑にならないかと毎日悶々としていたという。そのような時、息子さんに「きっと喜んでもらえる」と肩を押され、勇気を出して3か所の避難場所をまわり、懐かしい歌の数々を歌った。その代表的な一つがその歌である。

 森 昌子によれば、その歌を聴いてくれている同年輩かそれ以上のお母さんたちが、そっとハンカチで目を押さえていたのを見て、逆に自分が励まされたという。映像には、彼女が抱きかかえている赤ちゃんと一緒に写っている写真や、彼女と遊んで笑顔を見せている子供たちの写真が紹介されていた。その映像を、男は女房と一緒に観ていた。

 その歌の歌詞の最後に「忘れないで 忘れないで 咲いていることを」「死にたいときも 忘れないで 忘れないで 生まれたことだけは」という下りがある。聴いていてとても良い歌である。森 昌子の、清らかで優しく語りかえるような歌声がとても良い。

今度の巨大津波により親を失った子供が沢山いる。子供を失った親も沢山いる。夫と子供を失った母親もかなりいる。妻子を失った父親もかなりいる。商店を経営していたある男性は、巨大地震の発生直後、妻と二男に「逃げろ」と言い残して消防団員として詰め所に駆け付けた。小学校にいた長男は無事避難していた。ところが「逃げろ」と言い残してきた妻と二男は逃げ切れず、津波に飲み込まれて死んでしまった。森 昌子の「子供たちの桜」という歌の歌詞は、生き残った人たちへのメッセージである。

 この世の諸々の現象は無常である。桜の木も人間も時々刻々変化していて同じ状態が続くということは絶対ない。それでも桜の木は生きている限り毎年春に花を咲かせる。人間も生きている限りその花を見、或いはその桜の木に何かを感じ取ることができる。

 この世の諸々の現象のことを「諸行」という。仏陀の弟子は、この諸行が千変万化してゆく様を、たった四語の「諸行無常」という言葉で言い表した。諸行無常の中に人は何かの意味を読み取り、何かを学ぶことができる。その「何か」や「意味」は、人びとを迷いから導く仏陀の方便としての「何か」であり、「意味」である。

 人びとに避難を呼びかけ続け、大津波に飲み込まれて死んだある一人の若い女性は、子供のとき「人の役に立つことがしたい」という記事を文集に遺している。彼女は日ごろの心掛け通りに行動し、殉職した。彼女は、彼女の呼びかけで避難した人びとの記憶の中だけでなく、彼女のことを知った世界中の人々の心の中に生きている。彼女の母親は、そのことを知り、慰められ、打ちひしがれた気持から抜けだすことができ、生きる勇気を得ることができた。殉職した彼女のことは記録に書かれ、後世に伝えられてゆくことだろう。

 これまで平穏無事に生きてきた男は、女房に「俺はまだ完成させなければならないことが残っている。お前は俺より先に死んではならない」と言った。女房は「お父さんが死んだらすぐ私も死ぬのが一番良い」と応じた。しかしそのとおりになるという保証はない。

2014年12月16日火曜日

20141216国家は一つの生物種である(16)―― 動物の性格・人間の性格・国家の性格 ――


  性格は遺伝子の発現によるものである。凶暴な性格もおとなしい性格も遺伝子の発現によるものである。遺伝子を変えなければ性格を変えることはできない。しかし人間は教育・訓練・自己修養によりその行動を変えることはできる。凶暴で人を殺した者でもあっても、ある時から他者を思いやり、自らを犠牲にして他者を救うため行動するようになることがある。

 あらゆる動物は他の生物を食べて生きている。信仰上の理由から特定の生物を食べない人たちでも自分以外の他の生物を食べてなければ生きて行けない。あらゆる生物は遺伝子の発現により、その誕生時から生殖・存続・自己保存の動きをする。生物の頂点に立つ人間も同様である。

 人間はその遺伝子の99%を他の生物と共有しているが、残り1%の中に「意識」に関わる要素が込められている。「意識」は「霊魂」である。「意識」は時空を超越し、広大無辺、自由自在、融通無碍である。人間の行動の本質はその「意識」により、自分自身にとって何か価値があると考える物事、但しその善悪は問わない物事の存続・保存を願うところにある。

 人間の集合体である国家・社会・又はある目的を持っている集団はその構成員の「意識」の集合である「性格」を持っている。国家・社会・集団はそれぞれ「性格」を持っている。それゆえ国家・社会・集団は「生き物」と同じようなものである。それらは生物の頂点に立っている人間が作っているものであるから、場合によってはライオン・虎・狼などの猛獣よりも恐ろしいものもある。彼らはその国家・集団の戦士として武器を脅迫・殺害のため使う。

 国家の「性格」はその構成員に大きな変更がない限り変わらない。しかしその「行動」は国際社会からの圧力・その国家自身の自己啓発などによって変わることはあり得る。しかしそれは非常に困難なことである。

 国家は「生き物」である。国家は存続・自己保存のため生物の共生関係のような異なる国家同士で連合・連帯・同盟することもある。しかし国家の「性格」が合わないもの同士での連合・連帯・同盟は必ず破たんするだろう。EUは「性格」が合うもの同士の共同体である。


国家の存続・自己保存のため重要な要素は富である。たとえ「性格」が合わない国家同士であっても富を分かち合うため契約することは有意義である。日本は「性格」が合わない国と有意義な経済関係を結んでもその国との間でEUのような共同体を志向すべきではない。