2017年1月26日木曜日

20170126『仏説阿弥陀経』について(8)


 好意を受けることが続くと、それは自分の権利だと思うようになる。しかしそれは「Give and take」 の関係ではないので、好意を受け続けることは心地よいものではない。そこで、「相手の好意に対して感謝しなくても良い」、という論理を無意識のうちに自分の中で組み立てる。そのようにして自尊心を守ろうとする。

 国家と国家の関係においても同様のことが言える。トランプ大統領が現れて日本はアメリカの核の傘に守られていることをこれまで「権利」だと考えて来なかっただろうか?彼が大統領候補であったとき、彼は日本の核武装を容認する発言をした。

この発言は見方を変えれば、アメリカが日本に対して同盟国としての好意を寄せ続けた結果、日本はアメリカの核の傘に守られ続けることを当然の権利だと考えてしまっていることに気付いたことを示唆するものであったと言えないだろうか?同盟関係の軍事力の面の「Give and take」において、日本はアメリカと対等の関係にあるだろうか?

 ところで、日本が戦後好意を与え続けた国々が、今日本に対してどういう態度に出ているだろうか? 反日は彼の国々の自尊心の裏返しではないのか? 人と人との関係においても「Give and take」を重視しない関係が続くと何かのきっかけで必ず対立が起きる。

 「Give and take」は契約の世界の言葉である。トランプ大統領は自分が自分の支持者に約束したことを早速実行に移している。日本では「表と裏」「本音と建前」がまかり通っていて、トランプ大統領が大統領になる前に支持者に言っていたことは、必ずしもそのとおりにはならないだろうと楽観している雰囲気があった。しかし彼は自分の支持者に約束したことを着実に実行している。

 日本では、儀式仏教が流行(はや)り、人々は仏前・神前で神妙な顔をして現世利益・来世利益を求める文化があるので、「契約」と言う言葉に対する認識がピンからキリまである。その「ピン」の方では、日本には万世一系の天皇がいて、武士の時代もあって、公と私の別が明確であり、公において約束したことは必ず守られるべきことであるとする文化がある。しかし政府間の約束事を守ることができない文化が幅を利かせている困った隣国もある。

 「Give and take」は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という一神教の世界で重要な言葉であるに違いない。契約は神との約束ごとである。 阿弥陀仏(Amitāyus buddha)・阿弥陀如来(Amitāyus tathāgata)を信仰の本尊とする真宗においても、我々衆生と阿弥陀仏・阿弥陀如来との「Give and take」がある。私は学者ではないので、衆生の一人としてそのように考える。

 阿弥陀仏の本願は、真宗大谷派がネット上で説明しているように、「自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになる」ことである。迷いの世界にある我々衆生は、阿弥陀仏・阿弥陀如来を心底から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることにより、「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」(『真宗宗歌の歌詞』)のである。私は、我々衆生が阿弥陀如来を心から信じ、阿弥陀仏・阿弥陀如来に救いを求める行いをすることは阿弥陀仏・阿弥陀如来への「give」であり、その「give」により我々衆生は「永久(とわ)の闇(やみ)より救(すく)われる」ことを「take」するのである、と考える。

ここで「如来」とはtathāgataの義訳であり、「如実に来れる者・如実より来れる者」という意味であり、「真如法界から来たって真如を語り、真如の教化活動などの生活をし、真如に去り行く者」のことであり、仏陀(Buddha)の同義語である。「真如」とは「あるがままの真理」である。「理体」とは「万物の本体」のことである。「衆生」とは「生きているものすべて」である。「一切の存在は、一心の理体から顕現する」という仏教上の縁起説がある。(用語の意味は春秋社刊水野弘元著『仏教要語の基礎知識』及び『広辞苑』による。)

「西方に、十万億の仏土を過ぎて世界あり、名づけて極楽といふ。その土に仏まします、阿弥陀と号す。いま現にましまして法を説きたまふ」(浄土真宗本願寺派龍泉山 吉祥寺がインターネット上に公表している『仏説阿弥陀経』の現代語訳を引用)。その西方・東方・北方・南方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほどの沢山の仏様がおられる。その仏様たちはそれぞれの国において広長の舌相を出し、あまねく三千大千世界に覆いて誠実の言を説き、不可思議の功徳を称讃している一切の諸仏に護念されている経を信じなさい、と言って聞かせておられる。

阿弥陀如来の本願に応えて仏様の教えを信じることは阿弥陀如来に自分を委ねるという、「give」である。この「give」により、親鸞聖人が『顕浄土真実教行証文類序(教行信証・総序)』で述べておられる「阿弥陀仏の本願は渡ることのできない迷いの海を渡して下さる大きな船」に乗ることができるという「take を得る。

これは一神教における神との契約とは別次元の、阿弥陀仏と我々衆生の間の「Give and take」関係である。これは現世ご利益・来世ご利益を得るという「take」だけを求める儀式仏教とは全く違うものである。


初めに戻るが、日本は、「take」だけを求める国との付き合い方を考え直した方が良い。

2017年1月17日火曜日

20170117『仏説阿弥陀経』について(7)


2年ぶりに合気道の会の新年会に出た。いつもの仲間の一人と仏教について語り合った。私は儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教を批判した。彼は「人々がそれを求めているからこそ日本の仏教は廃れなかった」と私の批判に反論した。私は確かにそういう部分はあると思う。初詣・七五三の行事・家内安全祈願・葬式・法事・神社の祭りなどこれまで日本人が古来続けて来た伝統的な行事は今後も続けられることだろう。従い仏教に対する親近感は失われず、日本の仏教は決して廃れないだろう。

しかし田舎であっても昔のようにお寺のお堂に集い、お坊さん(僧侶)のお話(講話)を聞く集いは無くなっている。特に田舎では昔は娯楽が少なかったし、農閑期があったので、僧侶の講話を聞くためお寺に行くことは人々の楽しみの一つであった。その機会に僧侶がお釈迦様(釈尊(Śākyamuni)の教えを広めることができた。しかし今はそう言う事は行われない。仏教が本来の目的から離れ、「儀式仏教・現世ご利益祈願の祈祷仏教になってしまっている」と言うのは極端であるが、昔と違う状況にあることは確かである。

特に都会では、葬儀は葬儀専用の施設内で、葬儀専門の業者のプログラムに従い機械的に進行する。そのプログラムには僧侶が仏教の講話を行う時間は組み込まれていない。葬儀の業者は短時間で利益を上げることに注力している。昔はそのような施設も無かったし葬儀業者も居なかった。特に田舎では葬儀は死んだ人が出た家で行われ、近所の人たちがお互いに助け合って葬儀を行っていた。法事でも同様であり、人々が僧侶の講話を聞く機会は度々あった。私が10歳のとき、私の母の葬儀はそういう状況で行われた。

人々が僧侶の講話を聞く機会は極端に少なくなったが、仏教に関する本は沢山出版されている。時々テレビや新聞等で高僧の法話が紹介されている。昔と状況が異なっていても、仏教は人々の間に根付いている。浄土真宗の僧侶になるため修業中の人は親鸞聖人が著した書物を読んでいろいろ善い知識を得ている筈である。しかし一般の人でもインターネットを通じて親鸞聖人の著作を読むことができる。しかしその人数は極少ないであろう。

インターネット上では真宗東本願寺が積極的に講話を行っているようである。東本願寺では親鸞聖人が教えておられる「往還回向」について『往相の回向と還相の回向』と題する講話を行っている。それによれば(以下“”で引用);

“私たち凡夫が阿弥陀仏の浄土に往生することを「往相」といいます。そして浄土に往生した人が、迷いのこの世間に対してはたらきかけることを「還相」というのです。すなわち、「往相」は、穢土えどから浄土に往くすがたです。これに対して「還相」は、浄土から穢土に還るすがたなのです。人が穢土から離れて浄土に往生するということは、「自利」(自ら利すること)の成就です。しかし「自利」の成就を果たすだけでは仏教とはいえないのです。「利他」(他を利すること)がなければならないからです。他の人びとが浄土に往生できるよう、穢土の人びとへのはたらきかけがなければならないのです。つまり、自分が受け取る利益と、他の人が受け取る利益とが一つになること、それが仏教の根本の精神なのです”とある。これは非常にわかり易い。

親鸞聖人の作『正信偈』には「天親菩薩論註解(TENJIN BOSATSU RON CHU GE)、報土因果顕誓願(HO DO INGA KEN SEI GAN)、往還回向由他力(O GEN EKO YU TARIKI)、正定之因唯信心(SHO JO SHI IN YUI SHINJIN)」という七言絶句がある。この意味は「天親(てんじん)の論(ろん)を釈(しゃく)しては 浄土(じょうど)にうまるる因(いん)も果(か)も 往(ゆ)くも還(かえ)るも他力(たりき)ぞと ただ信心(しんじん)をすすめたり」(『真宗 在家勤行集』より)である。

「他力」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」であり、「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本願」とは「阿弥陀仏・阿弥陀如来の本当の願い」のことである。親鸞聖人はこの「他力」によって「往還の回向」が為されると説いておられる。

親鸞聖人の著作『浄土文類聚鈔』の12に「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相の心行を獲ればすなはち大乗正定の聚に住す。(現代語訳:煩悩にまみれ、 迷いの罪に汚れたものが、 仏より回向された信と行を得ると、 ただちに大乗の正定聚の位に定まるのである。 )」とある。「正定聚」とは「阿弥陀仏の救いを信じて歓喜し、疑わない心によって現身に得られる如来に等しい位」のことである。

また『浄土文類聚鈔』の14に「還相回向といふは、すなはち利他教化地の益なり。(現代語訳:還相の回向というのは、 思いのままに人々を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、 他力によって恵まれることである。)」とある。

本願寺派・大谷派など真宗の古い教団が発想を大転換して、インターネットを積極的に利用して親鸞聖人の教えを広めるように活動しないとわが国における精神文化の芯が細くなってしまうことだろう。そればかりではなく精神的に不安定な人々の現世利益・来世利益を願う心理に付け込むカルト的な教団がはびこり日本の社会に緊張を走らせるようなことが起きる可能性がある。


私は親鸞聖人の教えを学びつつ、浄土真宗‘自分’派として特に本願寺派・大谷派の活動状況を調べて行こうと思う。

2017年1月14日土曜日

20170114『仏説阿弥陀経』について(6)


今日の朝日新聞3面に「僧の質を高めよ 世間知る研修」と題する記事が出ている。見出しだけを見ると研修の目的は「セクハラ・不祥事防止」だけが主眼かと思わされる。見出しの下のコラムに弓山達也東工大教授(宗教学)の話が出ている。彼は「無縁社会や孤独死が顕著になり、東日本大震災では慰霊や追悼の重要性が再認識された」として「これまでは葬儀や戒名などの宗教的儀式をやっていればよかったが、なぜ必要か問われる時代になった。過疎化や高齢化で信者は減り、宗教者に求められるのは伝統を守ることだけではない」と言っている。

手にぶら下げた振子が振れの中心に徐々に収まってゆくように、ある何かの状況により起きた矛盾は時間の経過とともに徐々に解消されてゆく。しかしその振子をぶら下げる手が不動の姿勢を保っていないと、振子の大振れは何度も起きることだろう。「不動の姿勢」は軍隊の教育における用語であるが、日常生活においても大事な徳目を表す言葉である。

これを国家として考察すると、日本の場合江戸時代が終わり幕藩体制から明治の新政府のもと新体制に変わったときその振子の大振れがあった。次に日本がアメリカとの戦争に敗れ大日本帝国が崩壊し、戦勝国アメリカからアメリカ流の体制を押し付けられたとき、再び大振れがあった。それでも日本には万世一系の男系皇統の天皇がいて、仏教や神道を中心とする文化が根付いていたから、これまでは日本は国家の体制が崩れることなく安定してきた。しかしその仏教がアメリカナイズされた世相に影響され、仏教関係者・団体の怠慢もあって本来の目的を見失ってきている。儀式第一の仏教が横行していることは否めない。

NHKEテレで『こころの時代』という番組がある。今日は原爆孤児を救った故谷本清牧師の長女・近藤紘子さんが出演していた。谷本清牧師は関西学院大学神学部を卒業後、1940年にアメリカのエモリー大学大学院を修了されたお方である。私は日本ではキリスト教徒の方が仏教徒より人々の心の問題を救うため積極的に活動しているように思う。

仏教は輪廻転生を教えている。その番組を見て私は谷本清が新渡戸稲造の生まれ代わりではないだろうかと思った。新渡戸稲造が書いた本『武士道』(奈良本辰也訳・解説、知的生き方文庫)に「仏教は武士道に、運命に対する安らかな信頼の感覚、不可避なものへの静かな服従、危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ、生への侮蔑、死への親近感などをもたらした。・・・(中略)・・・仏教が武士道に与えなかったものは、神道が十分に提供した。・・・(中略)・・・道徳的な教義に関しては、孔子の教えが武士道のもっとも豊かな源泉となった」と書かれている。

善因善果・悪因悪果。地獄極楽も「この世」にある。しかし輪廻転生によって「この世」の行いの結果は「あの世」おける結果として必ず起きる。仏教はそのように教えている。このことは科学の知見として理解できる部分が少しはある。ただし「あの世」のことは誰も分らない。これだけは自分の身近なところで起きていることについて、自分自身で“これは多分(過去に生きていた)誰かの「あの世」を生きている状態に違いない”と思い込むしかない。しかし善因善果・悪因悪果は「この世」でしばしば起きていることであるので、誰でも分ることである。性根が悪く素直でない者はこの事実を素直に受け容れようとはしない。

『教行信証』で親鸞聖人は「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一つには往相、二つには還相なり。(つつしんで、浄土真宗の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたちが浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界に還って衆生を救うという還相が回向されるのである)」と仰っている。 *衆生は一切の生類、生きとし生ける物全てを指している。

「往相」「還相」について私は今の私の勉強の結果では次のように理解している。即ち、「往相」とは、私たちが阿弥陀如来(Amitāyus Buddha)を心から信じて「南無阿弥陀仏(Namo Amitāyus Buddha)」と念仏を唱え、釈尊(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者の教えを良く学び、行いを正しくして常に他者を愛し、他者の利益の為に働けば、自分の死後必ず浄土に生まれ替わることを言うのであり、「還相」とは煩悩に生きている「この世」にあって阿弥陀如来を心から信じて「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え、常に他者を愛し、他者の利益の為に働くことによって人々の心を救うことである。「阿弥陀如来は私たちに対して常に救いの手を差し延べて下さっている」と心から思っていることが何よりも重要である。この点、阿弥陀如来への信仰はイエスキリストへの信仰に似たところがある。

今の日本では仏教の寺院も僧侶も収入を得るため仏教の儀式に精を出しているような状況ではないだろうか?これでは日本人の美しい精神性も次第に失われてしまうことだろう。新渡戸稲造が「この世」に生きて居れば、彼は日本の現状を嘆くことだろう。日本の仏教界が「儀式第一」「現世ご利益願望を満たしてお布施を得ようとする仏教」の現状を改めることに真剣にならないと、日本人の精神文化は衰退してしまうことだろう。


仏教界の指導者たちが権威にあぐらをかいて、僧侶たちに「世間を知って貰うための研修を行う」という上から目線の考え方をしているだけでは駄目である。寺院も僧侶も霞を食っていては存続できないが、出版による収益や儀式によるお布施を得ることに注力しているようであれば日本の仏教は衰退する。仏教系の大学等は一般の家庭教育・児童施設における幼児教育・学校教育などを通じて、仏教の振興のため何らかの浄財が集まるようなシステムを考え出すように発想を大転換し、自らの意識を改革するべきではないだろうか?

2017年1月12日木曜日

20170112『仏説阿弥陀経』について(5)


 私の母(継母)は一昨年秋他界した。都会の葬式ではその葬式の同じ日に初七日の法要を行い、四十九日までの七日ごとの法要はせず、四十九日の法要すらもしない家がある。私は周囲の反対を押し切って七日ごとの法要も行い、四十九日の法要は盛大に行った。私の郷里の田舎では少なくとも四十九日・初盆・一周忌・三回忌の法要は盛大に行う。

「盛大」と言う意味は、その法要に親族等を招待し、法要の儀式とは別に「お斎」と言って食事を出し、法要にお参り頂いたお礼の品を差し上げることである。そのため招待された人は施主が負担するそういう出費に見合う程度の金額を香典として包み、仏壇にお参りするときその仏壇の前に供える。仏壇にお参りするときお線香代のつもりで100円玉一個、施主側とお付き合いが深い関係にある場合は1000円札一枚を仏壇の前の辺りに置く。

 私の郷里の田舎の家は売却されたので、私は仏壇等を都会地のこの質素な集合住宅の私の家の一室に移した。もともと私は少なくとも三回忌・七回忌・十三回忌の法要は田舎の家で行うつもりであった。しかし七回忌まではともかくも十三回忌まで私自身が生きていられるかどうかわからないし、諸状況の中、私は継母が他界するまで持っていたような気持の張りも失せてしまった。そこで三回忌以降の法要はこの私の家の一室で行うことにした。

 私自身浄土真宗の「自分派」として親鸞聖人の教えを独学で学んでいて、毎日読経もして自分なりのやり方で供養もしいている。しかし三回忌以降の法要は親族を呼び、然るべき僧侶(ご院家さん)にお越し頂いて経を上げて貰って、何処かで会食をしようと思っている。そのような行事を通じて親鸞聖人の教えが伝わり、さらにその先に伝わることを私は期待している。いくら私が浄土真宗の「自分派」であるからと言って、ご院家さんによる法要の儀式と真宗の布教活動に全く何も関わらないということは決して正しいことではない、と私は思っている。

その継母の実の娘である私の妻は、私の考え方に理解を示してくれている。私の継母は私の父が他界後長年独り暮らしをし、80歳を過ぎて病気になった。私は私の妻と二重写しにして継母を見ていて、私は継母を可哀想に思っていた。私が田舎でその継母の周辺の人たちから実の息子のように思われていたが、継母もそういう風に私を思ってくれていた。

さて、真宗には浄土三部経と言って『仏説無量寿経』と『仏説阿弥陀経』と『仏説観無量寿経』の三つがある。後世に浄土真宗の宗祖とされた親鸞聖人は『顕浄土真実教行証文類』(以下、『教行信証』という)を著した。これらの経典や『教行信証』に関する知識はインターネットで得ることができる。我々は学ぶ気持ちさえあれば、親鸞聖人が苦労に苦労を重ねた末にやっと学び得たことを、いとも簡単に学ぶことが出来る時代に生きている。これは真に有難いことである。

『仏説無量寿経』は魏の康僧鎧が翻訳したものであり、『仏説阿弥陀経』は姚秦の鳩摩羅什が翻訳したものである。因みに「魏」は西暦220年から265年まで存続していた国であり、「姚秦」は384年から417年まで存続していた国で、牧民羌族が興した国である。この二つの経典に書かれていることは『教行信証』をよく学ぶことによって理解できそうである。

私はAmazonを通じて『教行信証』の現代語訳版を入手した。この本は本願寺出版社が出したものである。文語体の『教行信証』はインターネットに出ていたものを拝借している。このブログのラベル「阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)」の投稿おいてはこの二つの資料を引用して記述する。

『教行信証』の書き出しは「ひそかにおもんみれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり」である。この現代語訳は「わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)は、渡(わた)ることのできない迷(まよ)いの海(うみ)を渡(わた)して下さる大(おお)きな船(ふね)であり、何(なに)ものにもさまたげられないその光明(こうみょう)は、煩悩(ぼんのう)の闇(やみ)を破(やぶ)ってくださる智慧(ちえ)の輝(かがや)きである」である。

『教行信証』の現代語訳版には用語の解説が示されている。ラベル「阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)」の投稿おいて、今後同様に引用するが、上記文中の用語の解説の要旨は以下の*印のとおりである。・印の部分はインターネットなど他のソースから入手したものである。
*本願・・・仏(ほとけ)が因位の菩薩の時に起こした誓願をいう。また衆生救済のためのまさしく根本となる願のことである。阿弥陀仏の四十八願中とくに第十八願を本願とする。
*煩悩・・・心身を煩わせ、悩ませる精神作用の総称。衆生はこの煩悩によって業を起こし、苦悩を受けて迷界に流転する。
・因位・・・仏道の修行中で、まだ悟りを開くに至らない位。菩薩 (ぼさつ) の地位。
・四十八願・・・法蔵菩薩 が仏に成るための修行に先立って立てた48の願の こと。
・第十八願・・・私たちの往生の直接の原因となっている至心(ししん 信楽(しんぎょう)の願」といわれる願。
・往生・・・仏の浄土に生まれること。
・菩薩・・・ボーディ・サットヴァ(bodhisattva) の音写。仏教において一般的に成仏を求める(如来に成ろうとする)修行者のこと。
・法蔵菩薩・・・阿弥陀如来の 因位の時の名(修行時の名)。

・如来・・・大乗仏教における諸仏の尊称。

2017年1月10日火曜日

20170110『仏説阿弥陀経』について(4)


 私は「80の声を聞く年寄りは引っ込んで阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)について学び、思索し、その内容を文章にして公に発表するなどして自分自身で満足しておればよいのだ」と思っている。しかしその一方で、私は世捨て人のようになって世の中の動きにまったく無関心になってしまうことはどうしてもできない。これも私の煩悩がそうさせるのである。

 日本総領事館前に設置された慰安婦像に多くの日本人は憤りを感じている。この問題について朝日新聞は60代の二人の投稿者の声を掲載している。その一人は日本政府がこれ以上の対抗措置をとることは自制すべきである、と主張している。他の一人は、(日本政府が)韓国国民の理解を得る努力をなおざりにしたまま韓国政府に対し対抗措置をとったことはあまりにも大人げない、と主張している。しかしネット上では朝日新聞の報道姿勢に対して批判が多い。

 朝日新聞は別のページで移民の受け入れに積極的な姿勢を示す二人の学識経験者の意見を大々的に掲載している。産経ニュースによると「日本国政府は在日外国人の中で特に能力が高い研究者・技術者・経営者などが永住権を取得するために必要な在留期間を現行の5年から最速で1年に短縮する方向で検討を始めた」という。1年に短縮する対象者は中国籍が2497人で全体の65%を締めている。多くの日本人は長野オリンピックの聖火リレーのとき中国政府の指令により起きた事件のことを覚えていて、今回の政府の検討に対して批判的である。永住権を与えるにあたっては政治的活動の禁止を絶対条件とするべきである。

 新聞・テレビは意図的に世論を誘導しようとしているように見える。悪知恵が働く官僚や学者は新聞・テレビを利用して世論を導こうとしているように見える。

例えば国債の残高に関して、それは「国の借金1053兆円・国民1人当たり830万円」と言われている。「国の借金」は「政府の借金」である。従って「国民一人当たり」は全く意味の無い言葉である。国債は政府が発行し、日本銀行が市中銀行から国債を買い取ると現金化され、市中銀行からその現金が企業の投資に回る。インフレにならない程度に国債を発行し、経済が活性化されれば国民はその恩恵を被ることになる。しかし税金を取り、その収支バランスを取りたい財務省は「赤字国債・赤字国債」と声を大にし、国民に「増税もやむなし」という気持ちにさせようとしているかのようである。新聞・テレビは財務省の尻馬に乗って報道プログラムを作っているように見える。

経済学者は新聞・テレビに出演する。新聞・テレビに顔を出すことによって名声が上がる。新聞・テレビは自分たちの収益が上がるような報道プログラムを組むため、彼らや彼らに同調する政治家やコメンテーターを利用する。彼らは「グローバル経済だ」「規制緩和だ」と理屈を並べて主張する。一般大衆は「そうだ、そのとおりだ」と頷く。その陰でグローバル投資家やグローバル企業経営者は「儲け口ができた」とほくそ笑む。

リベラリストは国家と距離を置きたがる。リベラリストたちが新聞・テレビに出て自分の考え方を主張する。日本を貶めたい国の政府や報道機関は彼等を日本攻略のため利用する。その結果日本国民は苦しめられる。従軍慰安婦問題のように事実が歪められて拡散される。

日本の一般大衆が新聞・テレビに惑わされることなく、不動の姿勢を保つことができる道がある。それは日本の一般大衆が自分たちのルーツ・歴史・文化を知ることである。

 日本人は縄文人・長江中流域からポートピープルのように逃れて日本列島に辿りついた渡来系弥生人・後漢滅亡後に朝鮮半島から渡来帰化した人々・白村江で敗戦後百済から渡って来た人々など多人種の混血である。従い日本人は形質・性質・能力など非常に多様な面を有している。このように多様であるから、日本国内にはいろいろな考え方が現れる。

その一方で、巷で「今年は皇紀2677年である」と言う人が少なから居るほど世界で最長の男系皇統が続いているなかで培われた日本独自の文化が仏教文化とともに代々継承され、日本の社会に深く根付いている。「以和為尊(和を以て尊しと為す)」の精神は日本人のルーツと日本人が2000年以上続いている男系皇統の皇室に関係がある。日本人は群れの中では従順なところがあるのは「以和為尊」の精神によるものである。これは日本民族の特性である。

戦後GHQの指令により多くの皇族が民間人になった。このため男系の皇統維持が困難に直面している。そういう中、女系天皇も検討されている。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』では、井伊家はその直虎以降、その直虎の実母・その母のミトコンドリア遺伝子が代々継承されたことになる。私は皇室がそのようなことにならないことを切に願っている。

 戦前までの日本人は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)に対する信仰心が厚かった。戦後アメリカの文化に触れてその信仰心は薄くなった。国家のことよりも個人の自由な活動に最大の価値を認める人たちが多くなった。現行憲法下では思想・信条の自由も最大限に保障されているので、憲法第9条の改正に反対する人々が多い。


 古代に聖武天皇が仏教を通じて国づくりを推進されたように、仏教は日本国民を安寧にする力がある。日本人の間で阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)に対する信仰心が深まれば日本はもっと良い国になるだろう。皇統の問題の解決方法も含め、良い知恵がその信仰心により生まれて来るに違いない。私は明日から真剣に『顕浄土真実教行証文類』を学ぼうと思う。

2017年1月7日土曜日

20170107『仏説阿弥陀経』について(3)


 私は他界した継母の葬儀のとき自動的にあるお寺の門徒になった。私の実父と継母の墓はそのお寺の納骨堂の中にあり、私がその維持・管理の責任を負っていている。このような事情で私は今こうして遠隔地に住んでいながらもそのお寺の門徒になっていている。私は自分が門徒になっているお寺の行事にはその都度参加することは出来ないが会費等を指定の銀行口座に振り込んでいる。私は郷里で仏事があるときは帰郷し、そのついでにそのお寺にも立ち寄り、たまには報恩講にも参加し、墓参もしようと思っている。

 私は目下のところ「浄土真宗自分派」を自認し、独学で親鸞の教えを学んでいるところである。インターネットでダウンロードした本願寺派の『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』『真宗宗歌』『恩徳讃』に唱和して、今これを書いているすぐ後ろの書棚の中に作ってある仏壇に向かって読経し、歌っている。経の文の意味も調べながら少しずつ理解している。

私は自分自身が仏教徒であると思っている。しかし浄土真宗本願寺派(西本願寺)や真宗大谷派(東本願寺)などの教団の活動に能動的に参加することを好まない。その理由は私が基本的に何でも特定の組織に加わることを好まないからである。何かの組織に入ると自分の自由度が阻害される。私はそれが嫌なのである。

 西本願寺派の高森顕徹というお方が創設した浄土真宗親鸞会という団体は、布教活動の仕方やマインドコントロールを含む諸活動について批判が出ているようである。この団体は本願寺から親鸞の教えを逸脱していると批判されている。一方この団体は本願寺派・大谷派に対して親鸞の教え等について10項目の相違点を挙げ、対立している。

 上述10項目の相違点について、私は「自分派」として自分なりに研究して本当に相違があるのかどうか明らかにして行こうと思う。おそらく本願寺派・大谷派も親鸞会も私のような者が現れることは予想もしていないであろう。私は日本人が親鸞について正しく知り、親鸞に学ぶ日本人が圧倒的に増えれば、この日本国はさらに良い国になると確信している。

 先ず相違の第一点は「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」である。本願寺は「説かれていない」と言い親鸞会は「説かれている」と主張している。親鸞会は「人生の目的はある。だから早く達成せよ」と親鸞聖人は仰っている、と言う。私はこの点について先ずよく調べてみようと思う。

 そう思い、上述「親鸞聖人の教えに人生の目的が説かれているか?」のリンクをクリックしたら、「危険な Web サイトを遮断しました」とメッセージが出た。私はGoogle Chromeを使っていてセキュリティはノートンを使っている。このためこの警告が出る。使っているブラウザやセキュリティの対策によってはこのような警告は出ないだろう。危険である。

 私はまだ研究の途中であるが、親鸞聖人は決して「人生の目的はある」とは仰っていないのではないかと思っている。その理由は、私たちが認識する世界は大自然そのものであり、生きとし生ける物すべてに生老病死があり、私たち人間だけが物事の善悪を判断し、意識をもって行動しているがそれは私たちが発達した脳をもっている生物であるにすぎないからである。私たち人間はそういう生物であるから勝手に「人生の目的」を考えるが、その目的は万人共通ではない。万人共通でない特殊的なことについて親鸞聖人が「人生の目的はある」と仰るはずがない、と私は思っている。

私は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)が大宇宙そのものであると考える。人間は宇宙の営みに逆らうことは決して出来ない。17世紀の哲学者スピノザは「神は自然である」と言った。それは汎神論哲学と言われる。私はその哲学をさらに発展させて、「宇宙は生命体のようなものである」と思いたい。

そういう立場で人間は「善男子・善女人」として悪いことをせず、人間以外の生物のように全てを宇宙に委ね、現状のありのままを受け容れて自分の生死に逆らわず生きるならば、誰でも今の人生も後の人生も苦悩の無い人生になるだろう。勿論、人間であるから生老病死の苦を背負っている。その「苦」をありのまま受け容れて運命に対しては従容とした態度をとる。そういうことは人間だけができることである。勿論そのように従容とはしておれないのが多くの人間の有り様である。そういう態度は修養によってのみ身に付くものである。

他の生物に捕食される生物は捕食される前は逃げ回る。生物は他の生物に捕食されても自分の種を残すように、またなるべく他の生物に捕食されないように進化している。これが生物を多様にしている。生物は他の生物に捕食されたとき痛みを感じるだろうが、そのまま食べられている。人間だけはそのことを悲惨に感じ、残酷に感じる。人間は自分が殺されることを恐れるが、殺された後自分の魂は残ると考える。他の生物にはそのような考えはない。

自分の死はそれで全て終わりではなく、いわゆる「あの世」に生きることになる。それが宇宙の定めである。そのように信じることができれば「この世」での迷いは無くなる。宇宙を阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)であると考えるならば、宇宙はそのようにして人間と言う生物に救いの手を差し延べてくれていることになる。まだ哲学として確立していないが、私はそのような方向で思索中である。生物学・量子科学・宇宙科学などの知見やAI技術などは将来人間を宇宙に帰一させる哲学を生むかもしれない。


2017年1月3日火曜日

29170102『仏説阿弥陀経』について(2)


 私は今年80歳、私の妻は76歳になる。何十年か以前、私は80歳の人を随分年寄りだと思っていた。その自分がそういう年齢になっている。昨日10歳年長の友人Kさんから年賀の贈り物が送られてきた。Kさんは奥様を亡くされていて身寄りもない方であるが、福岡に建てた自分の家で独り暮らしをされている。彼は横浜にも奥様と長年暮らしたマンションの一室を所有していて、毎年福岡と横浜の間を行き来している。そのとき彼は東京と小倉の間でフェリーを利用している。私は余生に一度ぐらいは一人旅をしてみたいと思っているので、その片道は彼と一緒にフェリーを利用してみたいと思っている。

 彼からの贈り物は福砂屋のカステラが2本入りである。夫婦二人暮らしの我が家はあちこちからの頂き物の菓子が沢山ある。息子たちの嫁たち・近所の方・妻の友人からいろいろな贈り物を頂いた。勿論私たちもそれぞれ何か贈り物をしている。お互い相手に喜んで貰えるような物をよく選んで送り合い、言葉を交わし合ってお互いの絆を深め合っている。

若い頃近海マグロ漁船の無線通信士仲間であったI君は10数年前他界したが、長崎に住んでいるその妻のKzさんから自分の畑で実ったみかんが送られてきた。私はI君と下宿も共にし、同じ部屋で寝起きしていた。Kzさんは鹿児島のある漁村の病院の看護師をしていた。私は虫垂炎になりその病院で手術を受けた。そのとき私はKzさんと知り合いになった。私はI君とkzさんの祝言に出席し、私たちの祝言にはI君とKzさんが出席してくれたが、その後50年もお互い会っていなかった。その理由は私とI君がそれぞれ思想上対立する職場に勤めるようになって、I君の方で身を引いたからであった。私はNTTの電話番号案内でI君に連絡をした。そのときKzさんが電話口に出てI君が既に他界したことを話してくれた。

私はSちゃんと愛称で呼ぶ2歳年長の女性と3年前から交際している。Sちゃんも看護師であった。彼女は近海マグロ漁船の船主の娘であり、私が乗っていた船の船長の妹である。50年ほど前私はSちゃんと喧嘩別れしていたが、3年前NTTの電話番号でSちゃんの兄である船長だったHさんが存命だと思い、連絡をとった。Hさんは既に他界されていた。そのときSちゃんが我が家からそう遠くない所に34年前から独り暮らしをしていて、未婚のままであったことが分った。以来、私は私の妻の同意の下、ときどきSちゃんに会っている。先日千葉に住んでいるSちゃんの姪っ子のご主人から美味しい新米が送られてきた。

Kさん・Kzさん・Sちゃん、それに私と私の妻。皆いい爺さんと婆さんになってしまっている。そのうち誰かが先にあの世に逝く。身寄りのないKさんの義理の甥っ子から福岡産の新米が送られて来た。私はSちゃんの姪っ子のご主人とKさんの義理の甥っ子のお名前と住所と電話番号をしっかり控えてあり、何かあればその方に連絡をする準備をしている。一方で私が先にあの世に逝った場合には私の息子たちからKさん・Kzさん・Sちゃんに必ず連絡してもらうように準備している。

 私は阿弥陀仏に帰依し、毎日読経し、すでに浄土に生きているつもりであり、苦悩も迷いもなく安心しきっている。しかし煩悩を拭い去ることは絶対出来ない。和讃に「五十六億七千万 弥勒菩薩は年を経ん。 まことの信心得る人は この度悟りを開くべし。 念仏往生の願により 等正覚に至る人 すなわち弥勒に同じくて 大般涅槃を悟るべし」とある。

 言葉の意味を調べた。「弥勒(Maitreyaの音写)」とは「釈迦牟尼仏(Sākyamuni Buddha釈迦族の聖者でそのまま仏陀であられる人の意)」の次に現れる未来の仏陀(Buddha)のことである。「菩薩」は「菩提薩埵(ぼだいさったBodhi-satvaの音写)」を簡略したものであり、一口で言えば仏教の修業者のような存在である。「等正覚」とは「生死の迷いを去って、いっさい の真理を正しく平等に悟ること」である。「大般涅槃」は天台宗の大般涅槃経(だいはつねはんきょう)」による言葉で「煩悩を滅却して自由となった状態」のことである。
 
 「弥勒」については『仏説無量寿経』に書かれている。『仏説無量寿経』は『仏説阿弥陀経』よりも100年以上前に魏の康僧鎧によって翻訳されたお経である。一方『仏説阿弥陀経』は現在の新疆ウイグル自治区出身の僧侶で、「三蔵法師」という称号を与えられている鳩摩羅什(くまらじゅう/くもらじゅうKumārajīvaの音写)によって翻訳されたお経である。

 これら古代中国の先人たちによって古代インドから古代中国に仏教が伝えられ、聖徳太子・聖武天皇・最澄・空海・法然・親鸞ら日本の古代の先人たちがその仏教を学び、日本国内に広めた。今を生きる我々は書物やインターネットにより公開されている仏教の資料によりかなり楽に仏教を学ぶことができる。真に有難いことである。真宗の宗歌『恩徳讃』に「師主知識の恩徳も 骨をくだきても謝すべし」とある。真にそのとおりである。

 私の妻もそうであるが、Kさん・Kzさん・Sちゃんも私のように熱心な仏教徒でなくても、皆それぞれ菩薩のような人たちである。私は宿業が深かったからこれまで随分私の妻を悩ませてきており、今も悩ませている。この記事を書いているすぐ後ろの書棚の中に仏壇があり、私は阿弥陀如来絵図に向かってしばしば合掌し、「南無阿弥陀仏(私は阿弥陀仏Amitāyus Buddhanamoします)」と念仏している。


因みにnamoはサンスクリット語句「貴方に敬礼します」に由来するものであり、ヒンディー語では「こんにちは・ありがとう」といった日常の挨拶言葉らしいが、仏教では「「帰命」という漢訳から連想されるような強く宗教的な意味になっている(Wikipediaによる)。