2010年11月30日火曜日

一日一生 (20101130)


  野崎さんと言うお方が、「一日一絵」を決心されて27年間毎日絵手紙の絵を描き続けたという話がテレビで紹介されたことがあった。「継続は力なり」というが、27年間、一日も欠かさず毎日絵手紙の絵を描き続けたということは大変素晴らしいことである。野崎さんは毎日絵を描き続けて、人生を生きる上で悟ることがあったという。

  お名前は失念したが、ある学者ご夫妻で、奥様が大腸がんに冒され、ご主人は奥様との時間をできるだけ増やすように心がけ、ご夫婦で短歌の贈答を奥様の最期まで続けられたという話がテレビで紹介されていた。短歌も五七五七七の韻律にこだわらず、字余りも気にせず作られたものである。紹介されたものを書きとめていなかったのが残念であるが、奥様がいよいよ今際のとき作られた歌は印象に残っている。「この世」で息をしていることが詠われていた。「この世」という語句が印象に残っている。

  人は限りある「この世」を生きている。「この世」は限りあり、「あの世」へと続くものであるが、「この世」を粗末に生きてしまう人も多い。かく言う老人も若いころそのような粗末な生き方を全くしなかったかと自問すれば、「否」である。自ら省みれば恥多き過去であったことは確かである。自問すれば、背後霊があるとすれば、その背後霊に護られて今日まで生きてきた、実は生かされて来たことは確かである。さりとて、これからは全く恥無き歩みをするかと自問すれば、100%肯定できる程の自信はない。ただ、少しでも多く、残りの「この世」を過ちの無いように生きて行こうと決意し、努力している。

  昨夜、NHKの連続ドラマ『龍馬伝』は終了した。シナリオライターの思い入れがあったと思うが、龍馬は自分の命を国の為使いきったか、と切られて今際のとき自問していた。龍馬は新政府のメンバーの名前に自分の名前を書いていなかった。龍馬が私心あって行動しているならば切ろうと思っていた中岡慎太郎は、龍馬の無私・無欲・国の為のみに己の命を捧げてきたことを知り涙を流した。そうして中岡も龍馬を誤解していた者らに切られ、3日後に死んだ。龍馬33歳、中岡30歳の若さであった。

    西郷南洲は私心に依らず、自分が教えた私学校の生徒らに担がれ、西南戦争で敗れて49歳のとき自刃して没した。その戦争の発端は旧薩摩藩で調達し保管していた武器弾薬等を政府に略奪されたことに端を発している。その南洲が生前自分の妹の長男・市来政道に対して、人生の何たるかを教え、諭し、南洲自身の処世観を披歴した詩がある。老人はこの詩が好きである。勿論漢文であるが、詩吟で詠うときは訓読したものを詠う。今月の吟題はその作詞『天意を識る』である。

    幕末・明治初期に活躍した人たちには私心がなく、国の為命を捧げるという誠の心だけがあった。南洲は遺訓の中で、「命もいらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にし、国家の大事業は成し得られぬなり。」と言っている。これに比べ、今の政治家たちは「命は惜しい、名誉は欲しい、叙勲されたい、金も欲しい」という輩が多い。彼らには『天意を識る』にあるような「一貫した志」がない。武士の心や大和魂がない。あるのは妾のような腐った根性だけである。彼らは政治家として国のあるべき姿・形についてまともに論じ、世論を啓発しようとする「志」も「情熱」も持ち合わせていない。どういう政治家たちがこれに該当するかは、自ら明らかである。

2010年11月29日月曜日

紅葉狩り(20101129)

  今日(29日)日曜日、都内の紅葉狩りに出かけた。初めに池袋の東武デパートの12階にある「ハゲ天」で天麩羅の食事をとり、その後東京メトロに乗って茗荷谷駅でおり小石川の東京大学植物園に行った。ここは去年の同じ日に来ている。しかし今年はここの紅葉はあまり良くなかった。驚いたのはセコイアの木々の葉っぱが今年の夏、猛烈な暑い日差しに晒されたためか皆変色し、弱弱しく見えたことであった。男は大木を背にして女房と写真を撮り合ったり、目についた美しい紅葉の写真を撮ったりした。漆の木の葉っぱが色々なバリエーションで色づいていて綺麗であった。池には大きな鯉が泳いで来て、近づくと寄ってきて大きな口を開けて餌をねだっている。「あの口の中に指を入れたらぱくっと噛むが、痛くないよ。歯が無いんだから」と老人が言うと、「そうかねえ」と女房が言う。

  この植物園に何処かの大学の生涯学習のメンバーか或いは放送大学の同窓会のメンバーらしい団体10数人が来ていた。メンバーは80歳代ぐらいの高齢の男性から40代ぐらいの女性まで様々で、メンバーの長らしい80歳代ぐらいの高齢の男性がその人よりも年が下の男性や女性のメンバーからヨイショされるような言葉を受けて非常に楽しそうにしていた。この様子はある意味では、特定の高齢の方々を喜ばせるというボランティア活動のようなものである。ヨイショした者が次にヨイショされるとは限らないが、或る意味では順送りを了解する文化的現象である。 

    かく言う男も若くは見えるが既に73歳という結構高齢者である。放送大学の同窓会の役員に名を連ねていてそのようなグループの様子はよく分かる。しかし、男は一匹狼のようなところがあり、また、毎日結構忙しくしているし、ちょくちょく九州の田舎にも老母(継母)の介護で帰っているので、役員会にもあまり顔を出していない。どちらかと言えば、そのような集団行動は嫌いな方である。従って、例えば老人会などには関わりたくないと思っているし、いろんな会合の誘いが来るがことごとく参加を断って来ている。

    年賀状も減らそうとか、次第に人間関係の束の太さを小さくするようなことを、敢えて行っている。その分、女房と一緒に過ごす時間を増やし、また、ブログなど自分の世界に関わる時間を増やしたいと考えている。但し、男が主宰している詩吟の会は、メンバーを増やしたいとは思っていない。自然に増えるのは構わないが、「来る者を拒まず、去る者を追わず」一切こだわらず、個々のメンバーが月2回集って楽しく時間を過ごして貰えばよいと思っている。この会のメンバーは殆ど女性である。

    話は横道にそれたが、その東大の植物園を出て、脇の道を上り、そして下って大通りに出て、都営三田線の白山の駅から一つ目の千石駅で降り、六義園に行った。ここは去年も同じ日に訪れた公園である。そこの紅葉は大変綺麗であった。男も女房もそれぞれ好きな景色をカメラに収めた。この公園はとても風情があり、すばらしい公園である。今年はライトアップを観ようと夕方近く、その公園を訪れた。

    独立行政法人の東大植物園の入場料は300円でシニアの割引は無かったが、ここは都営でシニア割引があり、男も女房も放送大学の学生証を見せて150円で中に入ることができた。受付の女性は二人の学生証を見て、女房に「素晴らしいですね」と言ったという。

2010年11月28日日曜日

無題(20101128)

  今日(27日)は多忙な一日であった。先日、男の吟詠のブログに西郷南洲(隆盛)の作詞『天意を識る』を公開したのであるが音の高さは詩吟の世界で「1本」にしてあった。それでも自分で言うのは何であるが、そう悪くはない吟詠である。しかし、加齢とともに声の張りとか艶が無くなっていることを感じていて、すこしでも良い吟を公開したいと思い、「3本」で詠ってみた。

  朝、寝起きがあまり良くなかったせいか声がよくない。そこで自動車のエンジンのように自分の身体が本調子にするための暖気運転を試みた。身体を動かしたり、‘気’を自分の体中に取り込むような動作をしてみたり、黒砂糖のぬるま湯を呑んでみたり、独特の発声練習をしたりした。

  その後、この西郷南洲の作詞を吟じて何度も詠い直してはその都度録音した。録音用の装置はオリンパスのレコーダーである。それを再生しては聴いてみて自己評価し、比較的よさそうなものを残し、他は削除した。そして残った一番良さそうな吟詠をUSBで繋いでコンピューターに取り込み、ソフトウエアで拡張子の形式をWMAからMP3に変換した。それをブログ「吟詠」に取り込み、この吟題について‘1本’と‘3本’の二つの吟詠を公開した。

  今夜は男が講師をしている詩吟の会があった。その会は、東京の目黒区住区センターで毎月2回開催している。今日はその住区センターに1時間半ほど早く行き、そこの印刷機を使って、来年のテキストを印刷し、製本した。今日はその印刷用原稿を完成させるための作業にも時間を費やしている。来年のテキストの印刷・製本後、夕方からいつものように詩吟の会を開いた。今日は一日の大部分を、男は自分の趣味の詩吟のため費やした。

  考えてみれば、このように自分の趣味のため忙しいのは大変結構なことである。男は詩吟を若い時から楽しんで来た。詩吟はただ声を出して詠うだけではつまらない。詩文の意味や作者の人となりや歴史のことなどいろいろ調べ、教養を深めることに意味がある。男の吟詠のブログには結構多くの人が毎日訪れて来てくれている。訪問してきてくれている人の名前は分からない。男は自分の吟詠だけではなく、自分がその吟題について書いたものにも目を通して貰っていると思うと一層励みが出て、詩文や語句の解釈や作者や歴史のことなどいついてできるだけ内容がよいものにしようと思う。

  詩吟の会の帰りの列車の中で会のメンバーの一人が真剣な顔をして、「明日、黄海でアメリカと韓国の合同演習が始まると、北朝鮮は日本にミサイルを撃ってくるのではないか」言う。男は「北朝鮮がミサイルを発射しようとするならば、事前にその動きがわかると思う。その場合、米軍も自衛隊もミサイル迎撃や、先制攻撃でミサイル発射基地をつぶすだろう」と話しておいた。しかし、実のところ男も不安である。我が国は自衛隊はあっても、軍隊はない。政府の要人に軍隊の経験者はゼロである。お隣の韓国とは比較にならない。彼は「問題は政府の対応だ」という。「ロシアや中国になめられてしまった」と憤慨している。男は我が国は一日も早く憲法を改正して国の形を整えなければならないと思う。

2010年11月27日土曜日

パワーゲーム (20101127)


  人も国家も動物も、基本的には同じ動きをする。相手より優位に立ちたいと願望し、優位に立つことを「自己実現」と考える。もっとも動物の「思考」の中身は、は男が勝手に想像するだけであるが・・・。

  一人の‘人’のパワーよりも、その‘人’が複雑、かつ機能的にネットワーク化された集合的組織体である‘国’のパワーほうが、勿論比較することは馬鹿げているほどでかい。でかいに決まっているが、人々はその基本的な部分で人と国家と動物を‘比較’することの意味を考えようとはしない。

  人の頭脳は幾つもの分野に分かれ、各分野は身体の各部の機能にそれぞれ関わっている。同様に国の機能も幾つもの分野に分かれ、各分野は国家という組織体の各部の機能にそれぞれ関わっている。動物は知能が低いというだけで、基本的には人や国家の場合と同じである。しかも、動物は生存のため視覚や聴覚や臭覚などが人以上に優れているものが多いし、運動能力も人以上に優れているものが多い。

  国家という組織体の中で、勿論、政府という頭脳の前頭葉の部分は最も重要である。国家という組織体は科学技術を駆使して、国家の存続の為に必要な能力や機能を高めるように努力している。どこの国でもその点は同じである。

  国家という組織体は、自らの「自己実現」を目指し、しばしば国際的ルールを無視して行動する。中国や北朝鮮やロシアがそうである。我が国はこれらの国々に対して、「公正と信義」に頼り、おろおろしながら「冷静に、冷静に」対応しようとしているだけである。

  しかし、そもそも昔から「武」というものは何故あるのか?それは、先にも言ったように人も国も動物も皆基本的に同じような部分があり、相手の出方次第では自衛自存のため戦わざるを得ないからである。

  今回、北朝鮮による韓国の領土・ビョンヒョン島に対する砲撃に対して、アメリカ海軍は原子力空母1隻とイージス艦4隻を黄海に派遣し、韓国海軍と合同の軍事演習を行うことになった。これは前から計画されていたものである。以前はその種の合同演習は中国に配慮して日本海で行われていた。しかし、北朝鮮が中国を味方にして挑発を止めないため、今度は中国大陸と朝鮮半島の間の黄海で演習を行うことになった。

  その狙い、真意は軍事上の機密で絶対明らかにはされないが、男は上に述べた動物の行動に対比して考えるとき、それは中国と北朝鮮に対する圧力であると思う。中国はそれを非常に嫌がっている。何故ならもし中国が韓国に対して軍事行動をとり、北朝鮮の南進と朝鮮半島統一を支援しようとした場合、そこにアメリカ海軍と韓国海軍のパワーが展開されるとその意図は実現しないからである。

  人も国家も動物も「自己実現」を目指して、人は人に対し、国家は国家に対し、動物は同じ種の動物に対し、闘争する。皆、自分が他者に対して優位に立ちたいのである。皆、自分が他者を圧倒し、差別したいのである。それが、生物の性である。

  「武」を軽んじる政治家や官僚、「武」に憧れながらも「武」忌み嫌う庶民、そういう国は他国から敬意を払われず、軽蔑されるだけである。 

2010年11月26日金曜日

40年の歳月(20101126)


  今朝、自分の部屋のベッドの中でテレビを見ていて、起きてきた女房が「今朝、テレビで三島由紀夫のことを放送していましたよ。今日が40年目の命日だって」という。男は作家とか芸術家は、時代を予見する力があるのだ、そのとき一般の人々はその方々の言動を理解できないのだ、と思った。

  40年前、男は33歳であった。そのころ男は制服を着て四ツ谷駅で切符を買おうとした時、窓口の係員から「税金泥棒!」とののしられたことがあった。それでも男は「百年兵を養うは、 これ、一日、用いんがためなり」という孫子の言葉を知っていて、駅員のののしりを悔しく思いはしたが、別に怒りもしなかった。

  今、時代は様変わりし、自衛隊(男はこの言葉が嫌いである。歩兵を「普通科」と言ったり、「工兵」を「施設科」と言ったり、ズバリ物事を言うことをできるだけ避けようとする姿勢に怒りを覚える。)は国民の間にようやく認知されてきている。日本国民はアメリカ主導の「日本人の魂」を抜く戦略にまんまとはまり、東京裁判の結果、日本が侵略国家扱いにされてもそのまま受け入れ、明治以来の父祖たちが血を流して築いてきた日本国家を忌み嫌って今日まで来てしまった。

  三島由紀夫はそのような状況を変えたいと思い「檄文」を発表し、陸上自衛隊東部方面総監室内で、方面総監の見ている前で、武士の作法にのっとり見事割腹し、介錯人がためらって三太刀ほどでようやく彼の首を刎ねたという事件があった。

  三島由紀夫の行動について、リベラリストたちは一様に「三島由紀夫の‘男の美学’である」と喧伝した。例えば筆者が誰か分からぬが、ある人は三島由紀夫の『憂国』を評して「三島由紀夫は、人間はどうあるべきか、あるいは、人間はどうするべきかというような‘べき論’を持ち出したかったのではないと感じた。三島由紀夫が描いたのは、‘もはや死ぬしかないと思って実際に死ぬ人間の美しさ’ではないかと思った。‘もはや死ぬしかないと思って実際に死ぬ人間’を‘美しい’と感じているのは誰だろうと考えてみた。それは、三島由紀夫自身だろうと思った」などと言っている。

  しかし、23日、北朝鮮が韓国の住宅地を砲撃し、兵士も民間人も殺すという暴挙に出た。このとき我が国の政府の対応は非常にのんびりしたものであった。そのことが今国会で、若い世代の議員たちによって追及されている。

    この国の概ね60代以上のリーダーたちはマインドコントロールされてしまっていて、憲法前文の文言「諸国民の公正と信義」にひたすら頼っている状況である。相手が事前に作戦計画を持っていて、命令あり次第直ちに具体的な実施計画を立てることができる状況で核ミサイルの照準を我が国に向けている状況下、もし実際にその作戦計画が実行されようとする兆候があり次第、我が国が直ちにこれに反応する態勢を持っていないと危険である。

    24時間体制で、尖閣諸島など我が国の領土・領海・領空の警戒監視を継続している自衛官(男は‘兵士’或いは‘軍人’と言うべきであると思っている)や海上保安官たちが悲しい思いをしなくてもすむように、この国のリーダーたちには心を入れ替えてもらいたいと、男は切に願っている。


2010年11月25日木曜日

鎌倉散策 (20101125)

  今日(24日)は良い天気である。男は女房と久しぶりに鎌倉で遊んだ。北鎌倉の駅を降りて先ず円覚寺に行き、入り口で色づいた紅葉を愛でた。最も美しい紅葉に出会うにはまだ少し早い。あと1週間経てばさらに美しいだろうと思う。

  次に東慶寺に行った。入口に雪景色の中で撮った梅の木々の写真が飾ってあった。門をくぐると小路の両側に表面がごつごつの険しい肌を見せている幹と枝だけの梅の木々が幾つかの柱に支えられて痛々しく立っている。その下に珍しく‘りんどう’を見た。女房もこの寺に良く訪れるが、‘りんどう’は初めて見たという。色づいた紅葉もあった。

    男は西郷南洲(隆盛)の作詞『天意を識(し)る』の中の句を思い出し、吟詠を口ずさんだ。枝だけの梅の木と色づいた紅葉、それは「雪に耐えて梅花麗しく、霜を経て楓葉丹(あか)し」という部分である。紅葉は気温の差が激しい時期に木々の葉がストレスを受けて色づくのである。霜に会わないまでも夜の低い気温と日中の温かい太陽で楓の葉は赤くなる。そして冬になり雪に耐えて梅の花が麗しく咲く。

    男は女房がこの寺で十二分楽しむように思って決して先を急ぐこともなく、女房のペースに合わせて時間を過ごした。お互いデジタルカメラを手にしてそれぞれ好き好きに被写体にレンズを向けてシャッターを切っている。女房はブルーベリーかラズベリーか知らないが、紫色に色づきつつある何かの丸い実がなっているものを見つけ、身体を地面につけるようにしてその写真を撮っている。通りがかりの女性もその実に興味があって「珍しいですよね」と会話を交わしている。

    東慶寺を出て明月院に行った。其処は北条時宗の父・時頼の墓所があるところである。明月院の境内に野鳥のための餌台が造られていて、そこに人が近づいても野鳥たちが多少警戒しながら餌を食べにやってくる。そこにカメラを構えていて、野鳥がやってきたとき連続写真を撮った。家に帰ってテレビに映してその野鳥の映像を楽しんだ。

    時宗の廟は円覚寺にある。時宗はモンゴル来襲という国難のとき、今でいう内閣総理大臣に相当する役職にあった。役職名は執権である。当時の時宗の官位は正五位下相模守というものであった。時宗はモンゴル人が皇帝となった元(当時の中国)が圧倒的な国力を背景として我が国に2度にわたり侵攻して来たとき、鎌倉の武士団や九州の武士団を指揮してこれを防いだ。その功績を明治政府は評価して天皇に奏上し、時宗は天皇から明治37年(1904年)に従一位の官位を追贈されている。

    男は以前、廟の入り口にいた係の女性が何も注意しなかったし、自分も何も考えずに靴を脱いで時宗の廟所に上がり、親しくお参りしたことがあった。本来なら、一般の人は其処まで上がってはいけなかったのだが、其の時はつい知らず上がってしまった。

    明月院を出て建長寺の脇を通り、トンネル状のアーチを抜けて鶴岡八幡宮に向かった。昼食のためのレストランや喫茶店などはこのアーチを抜けたところにいろいろ良さそうな店がある。その近くに鎌倉近代美術館がある。

    鶴岡八幡宮の大銀杏の木は暴風で倒れた後根の部分から新しい生命が生い茂っている。平家池の方は紅葉が綺麗であった。小町通りを楽しみ、帰途に就いた。

2010年11月24日水曜日

夢 (20101124)

  夢を見て朝、目が覚めるのは良く睡眠した証拠である。室内が暗いからとて夢を見た後すぐ起床せず、そのまま目をつぶって眠ろうとすると眠れないことはない。しかし、その後の起床したときなんとなく気分がさっぱりしない。

  男は昨夜も11時過ぎに就床し、夜中一度トイレに起きたが、今朝は7時前に夢を見て目が覚めた。6時間は良く眠ったことになる。そこで今朝はいつものようにベッドの中で爪揉み、腹式呼吸、ストレッチなどの運動をし、多少工夫を加えて普段よりは骨格・筋肉の各方面をよく捻ったり伸ばしたりした。この健康法は101歳になるあるお方から教えてもらったものを基本に自分で考え出したものである。これが結構有効であることがわかった。男はこの健康法についてこのブログの「健康法」というラベルのところに書いてある。

  ユングの心理学で研究されているが、夢を分析してその人の心の奥底にあるものを探り出すことを自分で試みてみる。ユングも言っているそうであるが、その夢分析の手法は時に誤った結論を導くから注意が必要である。しかし、自分の夢について自分なりに分析し、勝手に結論を導くのは誰にも害を及ぼさないので、ある意味では楽しい。

  今朝は男が東北に向かうある列車に乗っているとき制服を着た航空自衛官の幹部(男は‘日本国防空軍将校’と言いたい)が大きな荷物を3個ばかり持って同じ客車に乗り込んできた。席はあちこち空いているが、彼は荷物2個を入口付近の荷物棚に載せ、一つを男が座っている席の上に載せた。そして男に話しかけてきた。男も何処かで彼を会ったことがあるように思った。彼も男を知っていて「○○さんですね」と言う。

  列車は昔の急行列車である。彼はある男がかつて業務で訪れたことがある或るレーダーサイトに行くのだという。その列車は青森が終点であるが、彼は荷物を置いたまま途中で下車するのだという。男が「荷物は?」と聞くと、「後日終着駅で受け取る」と言う。そこで目が覚めた。変な夢であるが、ある種の懐かしさを覚える夢であった。

  男はここ10年近くもOBの会には顔を出していない。その会の機関誌に男の近況を知らせる記事を投稿しようかと、このところ時々思っていた。その会に顔を出していた頃の昔の仲間の一人は福岡の宗像に家を建てて晴耕雨読の暮らしをしていて、詩吟を習い始め、月一度詩吟を楽しんでいるという。「九州に帰郷の折には是非立ち寄って下さい」と言ってくれている。一度その友人に会いたいと思いながら未だ実現していない。九州の田舎にはちょくちょく帰っているが、余程決心しないとそれは実現しそうもない。決心というのは、絵を描くとか、詩を書くとか、小説を書くとか、何か目的を持って独り旅をするということである。ただ友人に会うだけのため独り旅をするのは馬鹿げている。男はそのための時間を作らなければならないと思う。その旅の事前準備も含めて。

  男は自分が主宰している詩吟の会の来年のテキストを完成させなければならない。来年のテキストは本文を漢詩にし、下に読下しの文と解釈を書いた形にした。これまでは漢文は時々解説で入れるだけであったが、来年は趣向を変えた。

  年賀状の準備もしなければならない。アメリカの友人に英語でクリスマスカードも書かなければならない。ここ数日、すこしネジを巻いて的を絞って集中しようと思う。

2010年11月23日火曜日

晩秋 (20101123)

  今日(22日)も一日が終わろうとしている。男は日を急がぬように物事を処しているが、今日はブログを書く時間が遅くなってしまった。いつもなら朝の中に書いているのであるが、今日はテレビも観ないのにこの時間、夜10時を回ってしまった。

  今日はプリンターのインクを買ったついでに川沿いを歩いてみた。1週間前、田舎の川の周りを写真を撮るため歩いたが、そのときススキなど色づいていて綺麗であった。今日、この都会地の川沿いでもススキなど黄色になり、堤防の桜並木も赤く色づいていて綺麗であった。歩きながら男はこの景色のことを女房に話してやろうと思った。

    田舎の川原は石ころだらけで川底は浅く水の流れは速く、川の両岸に住宅が少し見える程度であるが、この都会地の川は流れが非常に遅く、川も深さも浚渫された個所は満潮時1メートル以上はある。鉄道の橋や車通りの橋などもかかっていて両岸に住宅などの建物がある。風景は田舎と都会地とでは全く違うが草木は秋の色になって自然の時の流れを感じさせる。このような風景を見て万葉の時代の人たちは花鳥風月を感じて歌を作っているが、男にはそのような才能がないのでちょっと残念である。

    会社勤めをしていないのでたっぷり時間がある筈であるが、今日も短歌を勉強したり、絵を描いたりする風流なことをする時間は無かった。あれもしたい、これもしたいと思いつつも思うようにはならないものである。

  それでも男が最も時間を割いていることは進捗している。男は従兄弟たちに写真を送るついでに、皆に共通な先祖のことを書いたものを同封してやろうと作業した。作業をしていると女房が午前中1回、午後1回、お茶の時間を取ってくれる。午後のお茶の時間には田舎から送ってきた金時芋を専用の釜で焼いたものを添えてくれた。これは食べやすいように半分に切ったものを焼いているのであるが、その半切れが美味かった。

    イギリスの貴族は午前11時に、「イレヴン」と言ってビスケット何枚かを紅茶とともに食べるという。今は王子が全く普通の庶民の女性と結婚し、王位を継ぐ時代であるからどうだかわからないが、かつてイギリスでは貧乏な貴族でもその習慣は変えなかったそうである。わが家では男はビスケットが好きであるが、老女房はそれが口中で歯にまとわりつくから余り好きではないと言う。ただ、男はイギリスから輸入されたビスケットはあまり美味しいとは思わない。やはり日本製の方が口に合う。

    近所の方から生シイタケを頂いた。ご主人が修善寺に行ったとき貰ったものだという。女房がそれにチーズを置いてオーブンで焼いたものを夕食のおかずの一つとして出してくれた。シイタケは男と女房の故郷・大分の特産物である。親戚の家でも庭先の木陰で栽培していて、その家で一緒に摘んだものを焼いて食べたことがある。生シイタケは焼いて食べるのが一番である。干したシイタケは水につけて柔らかくしたものを調理すると味が増していて美味しい。

    この齢になってもまだ欠けた歯が1本もない健康な歯を大事にしようと、最近は歯間ブラシも使って入念に歯を磨く。以前は気ぜわしく洗顔・ひげそりもそこそこにしていたが、最近は丁寧に時間をかける。時間が足りないが急ぐこともない。

2010年11月22日月曜日

アメリカ・日本・EU (20101122)


 日本は国土的にはアメリカやEUに比べればとても小さい。しかし世界の中でよく話題になるのは日本とアメリカとEUの科学技術や産業である。

  今日(21日)の読売新聞にX線自由電子レーザー(XFEL)のことが出ていた。XFELは極微の世界をのぞく最強の装置で、理化学研究所播磨研究所(兵庫県佐用町)において間もなく完成するという。

  現在アメリカではXFEL施設が既に動き出しており、欧州では2013年に稼働するという。つまり、アメリカ・日本・EUが極微の世界を観察する装置で今後1個1個の原子をくっきりと調べ、例えば細胞膜のタンパク質の構造や、細胞内外の物資のやりとりの仕組みや、金属の結晶の細か穴に気体の分子が吸いこまれてゆく様子を明らかにしようとしている。

  現在の電子顕微鏡では光の波長より小さいものはよく見ることができない。可視光の波長は数千分の1ミリメートルなので1000万分の1ミリメートルの原子の姿を探ることには適していない。それを波長が約1億分の1ミリメートルのX線を使えば原子の構造を観察することが可能になる。

  XFELはX線を波長が揃ったレーザー光の形にして観察対象物に照射する。レーザー光の発生間隔は10兆分の1以下であるので、超高速で動く分子の反応も把握することができるようになる。

  このXFELが稼働し始めるようになると、タンパク質の異常から生じる病気の原因や、その病気に対する薬の効用の理解が進み、エイズなどの難病の治療に使える発見があるかもしれないという。また空気中に含まれる環境汚染物質を効率よく回収・分解したり、水素を貯蔵したりできる素材の開発に生かせるという。

  昨日新聞か何かで見たが、ある学者が今後の世界は軍事力よりも経済力で覇権を争うようになると言う趣旨のことを言っていた。男はその見解は一見正しいようで間違っていると断じる。一見正しいように見えるから一般国民はその言に惑わされる。

  何故なら、「国家」というものは複雑多様な機能ごと作動する「頭脳集団の組織」が複雑多様に絡み合った超巨大な有機的組織体であるから、軍事を司る組織はそれ独自で発展し、他の「国家」に脅威を与え続けるからである。経済力も科学技術力も同様である。日本から見て友人でもあり「敵」でもある国家群、中国やロシアや北朝鮮は軍事力だけでなく、経済力や科学技術力でも我が国を凌ぐようになりたいと願っていることは間違いない。

  憲法前文にある我が国が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」していても、「敵」の「軍事分野の頭脳集団の集合的組織」は、日本の期待をせせら笑って見ているのである。「敵」に「公正と信義」などはない!

  全ては個々の人の遺伝子同士の「有機的集合的組織」は、その国の潜在的意識の中にある。中国人は今でも我が国を軽蔑するとき「小日本人」という。アジア大会で彼らは日本人を熱烈に応援しただろうか?ロシアの外相は北方領土について旧ソ連が何故あのような約束をしたか理解できない」と言っている。「北方の熊」の深層心理は変わらないのだ。男は活発に発言しているリベラリストの政治家や学者たちに、非常に腹が立っている。

2010年11月21日日曜日

年賀状を減らすこと(20101121)

  今年の年賀状はどうしようかと考えている。去年、かなりの人に年賀状を出さなかった。今年はさらに減らそうかと考えている。

  年賀状を出さない理由を書いたはがきを出そうかと思ったが、それも止そうと思う。年賀状を出さない理由を書くぐらいなら年賀状の中で「来年から年賀状は失礼します」と書けばよい。男から年賀状が来なくなった相手はついに男に年賀状を出さなくなるか、男のことを心配して何か言ってくるか、「失礼なやつ」と怒るかの何れかであろう。

  年賀状が来るのが極端に少なくなると、少し淋しくなるかもしれない。しかしその一方で、年賀状をやり取りする人が限定され、少なくともこちらから出す年賀状の中身は濃くなる。その方が其の年賀状を貰った相手は嬉しいだろう。

  人は誰でも同じ1日が24時間しか与えられていない。その限られた時間をどのように使うか考えることが重要であると思う。例え「ご無沙汰しています」とか「お元気ですか」とか印刷された年賀状に直筆で一言添えられていても、そのような年賀状は根本的に虚礼である。虚礼は廃止し、真心のこもった礼を尽くすべきである。

  年賀状を出さないということは、一時的に相手に対して礼を欠くことになる。何年間も年賀状が来ないということで心配してくれる人もいるだろうから、一応「かくかくしかじかのため、年賀状を出さないことにしました」と連絡するのが良いのかもしれない。

  売れっ子作家などは公に刊行する紙面上でなにか言い訳を書いているのを見たことがある。男がかつて弟子であった詩吟の先生は、毎年1000枚近くの年賀状を出しているが、その年賀状には文章は無く、自らデザインした文字が書かれている。主だった相手には自ら筆をとって書いた文字、その他大勢にはその紙面をカラーコピーしたものを送っている。しかしあて名書きは印刷ではなく自筆である。数が多いので差出人名はゴム印である。男などせいぜい数百枚であり、それも相手からは印刷物が多いが、その詩吟の先生のように1000枚も出すとなると大変である。費用も馬鹿にならない。

  男はあと生きてせいぜい10数年程度だろう。自分が「あの世」に逝ったらそのとたんに縁が切れる相手と、ある意味で虚礼的に年賀状のやり取りをするのはあほらしいことである。そういう意味で、自分が恩を受けた人、自分にとって重要な人、親しい人などごく限られた人に対してだけ、年賀状を出すようにすべきである。

  昨日は先日叔父の葬式で帰省したとき摂った写真や竹馬の友と会ったとき摂った写真を印刷した。相当な量になった。それを今日(20日)それぞれに送ってあげようと思ったが一日中雑事があって、それは明日送ることにした。いろいろ雑事をこなしている中に夜になってしまった。女房が風呂の準備をしてくれている。風呂に入って一息入れて、今夜ははやばやとベッドに入って読書でもしようと思う。

  雑事の一つに自分の部屋の整理や掃除をしていたら以前使っていた水彩画を描く道具を入れてある鞄に目が止まった。男は時間を作って水彩画を描きたいと思った。時間は誰にも同じ24時間、これからは中身の薄い年賀状のやり取りをしないことも含め、余計な世事をなるべく作らないようしにしなければと思う。

2010年11月20日土曜日

岡崎トミ子国家公安委員長の答弁 (20101120)


  参議院予算員会の議論を聞いていて民主党も終わりだなと老人は感じた。みんなの党の小野次郎議員が岡崎トミ子国家公安委員長に対して「国際テロ情報の流出についてどう思うか」聞いたが、彼女は「今調査中であり、意見は差し控えたい」という答弁しかしなかった。小野議員が念押しに何度も聞いたが、その都度同じワンパターンの答弁であった。

    小野議員も指摘していたが、老人は、彼女は自分の考えを述べることができるような見解と知識を備えていないのだと感じた。彼女は反日運動などを活発に行い、その筋の人々からちやほやされたかもしれないが、一般の主婦の程度の見識しかないようである。小野議員は彼女に我が国からの国際テロ情報の流出が、どういう経緯で何処から流出したのかということを聞いているわけではなかった。彼女の見解を聞いていたのである。

    彼女は国際テロ組織が世界中で今どのような動きをしていて、現実に何が起きていて、各国はこの組織を除去し、或いはその活動を抑えるためにどんな活動をし、対策を講じているのか知らず、我が国からのその種の情報の流出がその情報源にどんな影響をもたらすのか、各国がその種の情報の管理について我が国に対しどのような不安感を持つのかなどいうことについて、担当の大臣として一片の見識もないのだ。

  菅総理も寄り合い所帯のような民主党内をまとめるため、閣僚の指名にあたりいろいろなソースから人材を選ばなければならなかったのかもしれない。今日の読売新聞には民主党の外交・安全保障調査会の役員会で、政府が来月初めの策定を目指す新たな「防衛計画の大綱」を巡る意見集約を図ったが、平岡秀夫総務副大臣ら護憲派議員らが集まり反対論を噴出させたという記事が出ていた。同記事には「外交・安全保障をめぐり、保守系から旧社会党系まで幅広い立場の議員を抱える民主党は、今なお安保に関する統一の基本方針がない」とある。民主党政権に最早これ以上、国の運営を任せることはできない。

  民主党に対する国民の支持率は低下し、小沢一郎氏は1年生議員の会合で「国会の解散は起きうる」と発言した。菅総理は囲碁仲間の「立ち上がれ、日本!」共同代表与謝野馨氏と会い「世間話」をした。国の在り方、国の形をめぐって菅総理の政権運営は厳しさを増しつつある。民主党の分裂、政界の再編成は必然の状況になりつつあるように見える。

    民主党は初めて政権を取った政党は気持ちを高揚させ国家運営にあたったが、いざ実際に国の運営に携わってみると大きな現実の問題にぶっつかる。好むと好まざるとにかかわらず現実的にならざるを得なくなる。それが今の民主党の状況である。

    この世界の構造について、ミクロを最も単純なもの・素子のようなものであると見れば、この世界はミクロの世界からマクロの世界まで基本的に同じ構造がある。高等な動物ほど脳の構造は発達し、高度な分業体制が出来ているが、国家の頭脳はそのような頭脳の集合で、国家としての機能ごとの「頭脳の集合」の「大集合」と言う構造になっている。リベラリストの政治家たちは、男の左脳的思考より、女の右脳的思考に偏るようである。

    国家という組織体を把握する一番手っ取り早い方法は、「国家」を「動物」と同じに観ることである。動物たちは自らの生存のために勢力争いをする。国際テロ組織はがん細胞のようなものである。菅総理はこの国の為どのような決断をするだろうか?

2010年11月19日金曜日

「行動」は「環境」と「刺激」の関数である(20101119)

  人の行動を方程式にすると、「行動」は「環境」と「刺激」の関数である。人に限らず生き物は「快」を選び、「不快」を避けようとする。複雑に見える人の行動も煎じ詰めればすこぶる単純である。輪廻転生を認める仏教的自覚が無ければ人間は動物と同じである。

  勉強の嫌いな者を無理やり勉強させても無駄である。その者に好きなことをやらせれば喜んでするだろう。しかし幾ら好きなことでも社会的規範の範囲内でなければならない。社会的規範は人に限らず猿やライオンや犬などある程度知能がある動物の社会にもある。

  裁判員裁判で死刑の判決を受けた者は裁判官席に向かって頭をたれ「ありがとうございました」と言った。二人を殺した、それも利権を狙い残虐な方法で命を奪うというやり方に対して裁判員たちも極刑はやむなしという判断をしたのである。

  その人は人を殺すとき正気ではなく、殺したあと正気になった。弁護士は情状酌量を求めたが裁判長は「控訴をお勧めします」と異例の言葉を付け加えた。人を殺すと言う非道な行動の原動力は何だろうか?男は遺伝子にその要素の一つがあると考える。

  2010年4月8日付け記事、ブッダ『感興のことば』を学ぶ(19) (20100408)に書いたが、オランダの遺伝学者ハン・ブルナー博士はある家系について調査した結果、「MAOA(モアアミン酸化酵素A)」というタンパク質を全く作れない男性は全員が攻撃的な性格であったという。今回死刑の判決を受けた男性は遺伝子に異常がありMAOAを作ることが出来ないタイプなのかもしれない。人口の移動で遺伝子は拡散し、複雑性は年々増加してゆく。

  遺伝子的に犯罪を起こす可能性があっても環境に恵まれ、良い刺激を受け、社会的規範を守ることが「快」であるという経験が重なれば、生涯罪を犯すことなく無事に生き抜くことができるのかもしれない。しかし男はその確率は高くないだろうと思っている。

  ところで女房は自分の部屋を放送大学の勉学に身を入れやすい環境にすることを望んだ。そこで男は今日一日がかりでその環境づくりの作業を行った。居間に置いていてそこでパソコンを扱うことができるようにしていた茶色の木製厚板テーブルのコンピュータラックを女房の部屋に移し、女房がそれを机代わりに使うことが出来るようにした。また内臓ハードディスクや外付けのUSBハードディスクに録画でできるLED26インチのフラットテレビを買ってきて女房の部屋で放送大学の授業を受けることができるようにした。老女房は大満足である。コンピュータラックに置いていた携帯用パソコンは男の部屋に移した。

  女房はこれまで居間のテレビで放送大学の授業を受けていた。女房は既に二つの学位を得ていて三つ目も所要の単位数に達しつつある。男も放送大学に再入学して籍を置いているが、女房が居間のテレビで勉強しているので自分の勉強にあまり身が入らなかったという「言い訳」をしていた。これからは女房が放送大学の勉強をしている時、男もテレビで授業を受けることができる。これからは真面目に勉強しようという気になった。

  人は頭を使えば、いくらでも自分のQOL(生活の質)を上げることができる。同じ一生、工夫なしに送るのと、常に工夫を凝らしながら自己を高めるようにして送るのとは大違いである。人生は限りがあり、短い。男も女房も「あの世」がそう遠くない。

2010年11月18日木曜日

商人根性(20101118)


  住友商事のある幹部がテレビで、ロシア大統領が北方領土を視察し、我が国がこれに抗議したが、ロシアは我が国に一層の経済協力を求めていることについて「この機に我々は会社のため、ロシアのため商業活動をする」という趣旨の発言をした。この発言の中に「日本のため」という言葉は無かった。言わずもがな、ということであったのか、貿易でロシアだけでなく日本も得をすると考え敢えて「日本」のことに触れなかったのか。

  NHKテレビ連続ドラマ『龍馬伝』で三菱商事創始者岩崎弥太郎の父親が土佐に帰郷した龍馬歓迎の宴席で自分の息子・弥太郎が武士の魂を忘れて金儲け走っているのではないかと心配して「武士の魂を忘れず商いをしてもらいたい」と言ったら、龍馬は「弥太郎さんは日本のため頑張っちょる」というようなことを言った。父親はそれを聞いて安堵したという場面があった。

  老人が若いころ上司であった元陸軍士官学校54期生だった方は、若かった老人に「マレーでイギリス軍を駆逐し、植民地を解放したあと、商人たちがやってきて悪いことをした」というようなことを言っていた。その方は既に鬼籍に入られているが、この国では士魂をもった世代がいなくなり、上記の商社マンのような連中が金の力でこの国を動かす時代になったのだと老人は嘆いている。

  今日(7日)の読売新聞で中国のミサイルは在日米軍基地を攻撃する能力を有しているとか、ヘリコプターを搭載した中国の漁業監視船が東シナ海に向かったという記事が出ている。その一方で尖閣ビデオを公開した海上保安官に対し、免職・降格・減給などの区分がある行政処分が検討されているという記事が出ている。

    また菅首相が中国の胡錦濤主席と会ったとき、菅首相は胡錦濤主席に目を向けることなくペーパーを読み上げたという。国の代表として相手の国の代表に対談するとき、相手の眼を見据えて話すべきである。昔武士の時代、殿様に会うとき平伏して「表を上げよ」と言われるまで殿様の顔を見なかった。菅首相の態度はそれに似ている。中華思想を前面に推し進め、周辺の国々を柵封下に収めたいと心中思う中国人たちは内心喜んだに違いない。

    この国の指導者たちは情けない。件の海上保安官は弁護士を通じて「今回私が事件を起こしたのは、政治的主張や私利私欲に基づくものではありません。ただ広く一人でも多くの人に、遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、一人ひとりが考え判断し、そして行動して欲しかっただけです」と言っている。彼らとは雲泥の差の感覚である。

    国境の海で空で海上保安官や自衛官(老人は‘軍人’と言いたい)たちは国の為命がけの働きをしている。遠く故国を離れた外国で自衛官たちはPKO活動に従事している。この事実を平和ボケし、特に概ね60代以上のひとたちに是非認識して貰いたいと老人は思う。

    近現代史を勉強するにつけ、「国」という組織体は、熊やライオンなどの動物と同じで、縄張り争いをし、自分の勢力権を拡大しようとしている実態を、日本国民は知らなければならないと思う。この国は、近現代史教育に力を入れるべきである。

2010年11月17日水曜日

新幹線車内にて(20101117)

  男は今、博多発新幹線車内でこれを書いている。無線LANでインターネットに接続できるが、その準備をしていないのでそれは出来ない。今回初めてEX-ICを使った。これは予めインターネットで予約・購入しておけば切符の購入なしで改札口でカードをタッチするだけでレシートが出、切符代わりになるものである。

  EX-ICを利用すれんばお得な価格で乗車できるがそれは新幹線区間だけである。男は田舎の駅で博多までの自由席特急・乗車券を買ったが、もし、その時新横浜までトータルの切符を買えば100円安くなるところであった。つまり、EX-IC利用では特急券乗り継ぎの場合の割戻が利かないのである。

  博多駅ではEX-IC用の改札口は別になっている。男はそのことを知らなかったから、改札口の駅事務室でEX-ICカードによりシートを出してもらわなければならなかった。この点JRは不親切、というかJRは顧客の声を聞いて改善すべきである。男はJR東海に一言物申しておこうと思った。

  新幹線に乗って初めて読書する時間が持てた。これまで2週間そんな時間的余裕はなかた。男が持参してきた本と言うのは『改訂版・大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)上・下巻である。下巻は持参する必要がなかった。上巻を要所要所マーキングし、メモを取りながら読んでいる。この本は日本を取り巻く近現代史が詳しく書かれている。とても良い本である。政治家たちに是非読んでもらいたい本である。

  男の席は先頭車両16号車の中ほど窓際である。博多ではこの車両内はガラ空きだったが、名古屋でかなり人が増えた。博多を出てすぐ先頭車両の先頭の出口にいた車内販売のワゴンがやって来た。男は最初の客として弁当とアイスクリームとコーヒーを買った。お茶は田舎の家で朝食時に作ったお茶をペットボトル2本に詰めて持ってきた。経費節約のためそうした。車内でこれを呑んで見ると自動販売機で買うお茶と味が全く同じようであった。お茶は自宅で詰めて持って来るに限ると思った。

  男は列車のデッキで女房に長電話する。長電話しても家族間は無料である。これはいい。新横浜にはあと1時間半ほどで着く。そこからタクシーにのって2週間ぶりに我が家に帰る。田舎の家を去るとき継母は涙声で「さびしくなる」と言った。これから寒くなり、91歳の年寄りは十分な栄養を取らず、運動量も減ってくると体力が落ちてくることだろう。1か月もしないうちに何か起きなければよいがと思う。

  昨日、継母がデイサービスに行っている間に、男はあの世の亡父に聴かせるべく、仏壇に向かって数曲漢詩を吟じた。田舎の家では窓などを閉め切っていても朗々と吟じる声は外に響いて聞こえたことであろう。コンダクターという専用楽器を弾きながら全く久しぶり吟じた。先週末土曜日、男の代わりに教室で会員に詩吟を教えてくれた女流吟詠家からメールが来て、彼女はインターネットで男の吟詠を聴いて、なるべくそのとおりに教えたという。明日からまた男の普段の暮らしが始まる。

2010年11月16日火曜日

郵便箱の鍵(20101116)

  明日(16日)朝出発して横浜に帰る。こちらに12日間滞在したことになる。そのうち2日間は大分で過ごしたからこちらには賞味10日間である。しかし横浜を発ってから2週間であるので、女房にとっては男が随分長く家を空けたという感じである。女房によれば、近所の人がびっくりしているそうである。

  ときどき海釣りに行っては獲れたての魚を持ってきてくれる近所の方は、男が居ない間に鯛を一匹持ってきてくれたそうである。女房は2日間かけて一人でそれ食べたという。男がいるとき女房は大抵鯛味噌を造ってくれるが、今回男はその味を逃した。

  今日、老母(継母)はデイサービスに行った。老母はデイサービスをいつも楽しみにしている。91歳と言ういい齢をしていてもやはり女、「今日は何を着て行こうか」と思案している。老母はプライドが高く、他人から自分ができるだけ良い恰好をしているところを見て貰いたいのである。

  男は老母がデイサービスに出発したあと、先日老母の妹やその娘、孫、ひ孫たちが訪れて来てくれたとき頂いた野菜の一部を民生委員のIさんにプレゼントするためIさん宅を訪れた。Iさんはこの家のすぐ裏手の通りに住む一人暮らしの80幾つかの男性が、最近詐欺に遭ったという話をしてくれた。

  その男性は多少痴呆なりかけている人だという。町の役場から水道の検査に来たという人が女性と二人連れでその男性のお宅に来て、水道の検査をした結果問題があるから工事が必要であると嘘を言って工事の契約書を取り交わしてしまったという。しかしその男性は思考力が戻ってIさんにそのことを話した。Iさんはすぐ警察に電話を入れた。翌日その二人連れが契約書に基づきお金を受け取りに来ることになっていた。警察は張り込みをし、その詐欺師を逮捕し、契約は破棄させたという。詐欺師はその男性のお宅に上がり、その男性に預金通帳を出させ、預金額を調べたという。契約金はその預金額の範囲内であった。

    Iさん自身その男性のことが気になるものだからいつものように自転車で巡回するふりをしてその男性のお宅の近くを通ったら、軽自動車が一台目立たぬように停まっていて、それが警察の張り込みだと分かったという。

  先月男が横浜にいるとき、老母から「年金の振り込みの通知が来ない、あなた知らんかえ」と電話がかかって来たことがあった。そのとき男はむっとして「そんなことわしが知っているはずがないだろう」と言った。考えてみるにこの家の玄関の脇にある郵便箱には鍵がない。悪意のある誰かよそ者が一人暮らしの老婆の家をマークして年金の状況を調べようとしたかもしれない。2か所からの年金振込通知が2通とも届いていないというのは変である。

    女房はしきりに郵便箱に鍵をかけるようにした方が良いと言っていた。男はIさんからさっきの話を聞いて、郵便箱に小さな南京錠を付けた。鍵は小さいので昔亡父が使っていたキーホルダーに1つ取りつけ老母に渡した。男もスペアを持っている。

    この家の近くにナイトクラブが近くオープンする。入口に「暴力団御断りの店」と書いた紙が張ってある。この町も段々油断できなくなってきたものである。

2010年11月15日月曜日

 檀家の寺(20101115)

  里山の村に小さな寺がある。浄土真宗東本願寺派の寺である。男の家は本来西本願寺派であるが亡父はこの地に住み着いてその寺の檀家となり、生前その寺の住職から自分の戒名まで貰っていた。小さな寺であるから墓地はない。その代り境内に納骨堂があって、亡父はその納骨堂の中に納骨壇を確保していた。亡父の遺骨はその中に納められている。

  亡父の後妻であった老母(継母)はその寺の檀家の総代から年会費の納入を求める書類を貰っていて、会費の納入のことをしきりに気にしていた。そこで男は久しぶり亡父の納骨壇に参ってこようと思い、老母から年会費が入っている袋を預かり散歩がてらその寺まで歩いて行った。

  里山の村では藁かなにか燃やしているらしい煙が漂っている。その村に向かう一本道の両側は遠くまで広々とした田圃である。この道を歩いている人は一人しか見かけなかった。遠くでトラクターを運転して作業をしている人がいる。村に入りお寺に向かう。「モー」と牛の鳴き声がする。その方向に目をやるとお寺がある台地のすぐ下で耳たぶに札を付けている牛が3頭柵につながれている。老人は小声で「モー」と言って牛を見る。牛も男に目を向けた。男は心の中で「お前たちもそのうち(人間に)食べられるのだろうな」と思った。自分も牛肉を美味しいと思いながらたべるのであるが・・。

  お寺では誰もいない。住職が住んでいる家の玄関のベルを鳴らしても応答がない。男は折角年会費を持ってきたのに困ったなと思いながら、とりあえずわが家の納骨壇に参ることにする。納骨堂の扉を開け、靴を脱いで中に入る。正面の仏壇のローソクの明かりを灯し線香に火を付け手を合わせる。納骨壇の明かりを灯し、そこにある線香を1本取って半分にし、その線香に火をつけて我が家の納骨壇の香炉の中に置き、手を合わせる。誰も居ないので声を出して「南無阿弥陀仏」と何回か唱え、亡父に語りかける。

  ローソクの明かりを消し、納骨堂から出て寺の周りを見る。誰も居ない。鐘楼の向こうで農作業をしている一人の年老いた男性を見かけた。その方に挨拶し、ここに来た趣旨を話し、「K(亡父の名前)の息子です、横浜からちょくちょく帰ってきていますが今回はちょっと長めにこちらに来ています」と言うと、「(老母は)もうお幾つになられましたか?」と聞いてきた。その方は老人の亡父や老母のことをよく知っているようである。

    その方は「年会費は私が預かっておきましょう。私はここの住職の叔父です」という。「住職は昼から出かけています。判がないんじゃが・・」と言うので、老人は「サインでよいです。ペンは持っています」と答える。その住職の叔父にあたる人は農作業で汚れた手を洗って領収書に署名してくれた。

  亡父は総領でありながら実家から出てこの地に住み着き、この地で没した。男の亡父の墓(納骨壇)はこちら、男の先祖が代々住んだのは亡父の実家がある昔、豊後高田庄と呼ばれていた土地、そこに33歳でこの世を去った男の生母の墓もある。老人から見れば先祖の祭祀を何処で行うようにすればよいのかという問題がある。

  しかし今日この寺まで歩いて来てみて、男は「亡父が住み着いたこの地を先祖の祭祀を行う場所にすべきである」と思った。理由は、亡父は総領であったからであり、男も総領であるからである。「総領」の意味は昔と全く違うが・・。

2010年11月14日日曜日

先祖の祭祀(2010114)

 先日男の出身地の市役所支所で男の曾祖父母の戸籍抄本を取ろうと手続きをした。役所の吏員はコンピュータをたたいて男の曾祖父のデータを探し出してくれた。データは確かにコンピュータに記録されている。しかしその吏員は「除籍されているため出せません」という。男が「第三者に出すわけではなく、当のひ孫本人がここにきて、個人的に出して欲しいと言っているのになぜ出せないのですか?私は自分の先祖のことを調べ子孫に伝えたいのです、法律の根拠は何ですか?」と食い下がった。吏員は課長に相談した。課長は法律書を調べ、戸籍法関係規則の条文を見せてくれた。男は「法律はそうであっても、個人的にそっと教えてくれてもよいではないですか」と言った。課長は「お気持ちはよくわかるのですが、どうしてもできません」と言う。男は手続きの書類に「○○○(曾祖父名)と○○(曾祖母名)の生年月日」と記し、そのカウンターから去った。

 この国では核家族化が進み、先祖のことを大事にせず、今生きている自分が第一であるという風潮がある。先祖を大事にすると差別と言う弊害を取り除けないと考えられているのであろうか?この国の若い世代は自分の先祖のことはあまり知る必要はない、と考えているのではないかと思う。しかし男はそれは大いに間違っていると思う。

 男は先祖を大事にしていない家は子供の代になって何か良くないことが必ず起きていることをよく見かけている。その逆に先祖を敬い、先祖を大事に祀っている家はそれなりに栄えていることをよく見かけている。この国でも同様である。国のため尽くし、命を落とした方々を敬わなければ、この国の行く末は必ず危うくなる。全国民の宗家的存在である万世一系の天皇を大事にしなければこの国の行く末は必ず危うくなる。

 仮に一代に2人づつの子供がいるとして千年も経てば、子孫は1兆人になる計算である。そういう意味で、「○○家の先祖」といってもその先祖は○○家だけの先祖ではなく、他の家の先祖でもあると言える。しかし、○○家の一族が、意識の上で遠い祖先を共有し、その遠い祖先に思いを致し、今を生きるならば、その一族にはきっと幸せが訪れるであろう。

 男はおよそ1千年前の先祖に、父或いは母を通じてつながる一族の中心的存在である。男が生まれた土地には先祖が共通、家紋も共通な「新宅」と呼ばれてきた家があり、先祖の墓を守る親戚が近所づきあいをしている。しかしその「新宅」の跡取りはその父の代に火事に遭い、系図も何もかも焼失してしまったという。男の母方の叔父も戦後シベリアで抑留生活を送っている間に大切な系図を失ったという。今の時代、先祖のことが分からなくなってしまっている家が余りにも多い。

 男は自分がこの世を去ったら、自分の子たちは先祖のことが全く分からなくなってしまうことを心配し、自分の子たちにはきちんとしたペーパーや記録媒体で先祖のことを書きのこす作業を行っている。男は一族に呼びかけ、先祖の祭祀を執り行う場所を作り、男がこの世を去った後も毎年或いは隔年定期的に集って皆が共通の先祖につながる意識を持つようにしたいと考えている。

2010年11月13日土曜日

黄砂来襲 (20101113)


  昨日(11日)は夜、風が強く吹き、少し雷雨もあった。男は「子供部屋」を自分の部屋とし、そこでインターネットもできるように配線している。机は無いので小さな茶卓を台にし、その上にパソコンとプリンターと蛍光灯スタンドを置いて座イスに座って作業をしている。今回諸工事があってちょっと長めにこの家に滞在しているが、これは将来さらに長く滞在しなければならなくなるための自己訓練でもある。宇宙飛行士が宇宙で暮らすために訓練しているようなものである。一人の年寄りを看るため、一般には嫁一人で看たり娘一人で看たりして負担が大きい。それを複数の者が交代で看るならば負担は分散される。男は女房の負担をできるだけ軽くしてやりたいと思って行動している。

  男は25日に横浜に帰るつもりでいたが、長居するとあらぬ誤解を受けるかもしれないし、老母(継母)の自立独居のためにもよくないと判断した。そこで今日は老母に「16日に横浜に帰る」と言った。今日は老母にヘルパー任せの入浴ではなく、湯船に自分で湯を入れる、入浴後は浴槽の排水栓を抜く、予め更衣室の暖房を付けるなど手順を「やってみせ、やらせて」みた。これはあと2回、明日と明後日実地訓練を行うことにする。

    老母はかつて女房が時々手伝いに帰っていたころ、まだ70代で何でも自分でやっていた。がんを患って初めは手術で入院、1年後抗がん剤治療で入院し、その後第二腰椎を圧迫骨折し、加齢とともに自立度が低下してしまった。たった1時間しかないのにヘルパーはこれまで大変な負担を強いられていたと思う。今後は自分でできることは自分でやり、ヘルパーの時間を浮かし、その分良いおかずを作ってもらうようにした方が良い。そのことを老母に理解してもらった。上記のような訓練は男だからできることである。

  老母は15日月曜日、デイサービスに行く。その夕方、ボランティア団体から弁当が届けられる。それは老母がデイサービスから帰ってくる時刻より前になる。民生委員のIさんが弁当を一旦自宅に持ち帰り、老母がデイサービスから戻ってきたらわざわざ届けてくれる手筈になっていた。しかし、それはIさんに申し訳ない。男はIさんに自分が弁当を受け取るから予定通り届けてくれるように伝えることにした。

  今日は大量の黄砂が飛んできて山など霞がかかっているようにぼんやりとしか見えない状況である。人や動物の肺には黄砂で汚れた空気が入り込んでいるのだろう。女房が男のこと心配してくれている。横浜には明日黄砂が来襲するという。女房は外出しなくてもすむようにいろいろ準備したそうである。横浜の家には空気清浄機があるが、ここにはそんなものない。「俺は大丈夫だよ」と言っておいた。しかし空気の悪さは感じる。

  女房と長々携帯電話で話す。老母はすでに自分の部屋で寝入っている。朝7時前には起きてくるだろう。男は自分も早く就寝しなくてはと思う。老母を看るということは男も女房も自分の自由が利かないということである。男は老母がわが家のため大きな貢献をしてくれたことに、一族の長として感謝している。だから男は老母が後何年生きるかわからないが、最期まで幸せな気持ちで過ごしてもらいたいと思っているのである。

2010年11月12日金曜日

諸工事 (20101112)

  今日(11日)は、居間の畳表を新しくする工事と仏間にエアコンを取り付ける工事を行っている。居間には茶ダンスがあり食器類が沢山詰まっている。かつて男の亡父が地区の自治委員をしていた頃、我が家に20人ぐらい集っていたという。その頃、奥さんたちが集まって接待をしていたという。そのため我が家には20人分の食器類を揃えていたという。今では集会はレストランなどで行うようになり、そのような大量の食器類は不要になっている。以前、継母が大腸のがんで入院したとき、男はそれら食器類を整理して仕分けし、社会福祉協議会に沢山寄付したが、我が家にはまだ整理すべきものが沢山残っている。

  しかし今日は畳表の張替えのため、とりあえず茶ダンスの中の食器類を別室に移し、茶ダンスを移動させやすいようにした。畳表の新調後、また元通り戻すことにする。このような作業は腰が曲がった91歳の継母にはできない。居間の畳を替えたいというのは継母の希望であり、継母は今はやりの畳表シートを敷くだけで済ませようと考えていた。しかし、シートでは特に靴下を履いているとき足を滑らせ事故になるおそれがある。面倒であるが継母がかつて講で懇意にしていた畳屋さんに頼んで張り替えて貰うことにした。

    継母がデイサービスに出かけている間に畳表の張替以外の諸工事を行っている。仏間のエアコンの電源はテラス側の配線から取るようにしたが、分電盤内のスイッチの切り替えをしなければならない。その工事は明日知り合いの業者が来てやってくれる。

  継母の部屋のテレビは沖縄の店から来週届く予定であったが、早く届いたので今日それも取付工事を行っている。BSは共聴テレビのケーブルと信号を混合しているが、混合器の電源が居間のテレビだけのためになっているため、居間のテレビでBSを観るときでないと継母の部屋のテレビではBSが見られない。そこで今日は天井裏にある混合器の取り換え工事もやってもらうことにした。

  懇意にしていて、ドアホンが作動しないときなど継母が電話すればすぐ飛んできてくれてみてくれる町の電器量販店の店員は一昨夜暗い中、屋根に登BSのアンテナを取り付けてくれた。その店員はわが家の工事が終わると別の家で地デジ対応の工事があるという。彼はこの町からそう遠くない里山の方に住んでいるという。まだ夕食はとっていないという。男はその店員にも家庭があり、家では夫の帰り、父の帰りを待っていることだろうと思い、工事終了後パンプキンクリームのポタージュスープと、一つ残っていた回転焼を温めて食べさせてやった。残っていたどら焼きも一つ持たせてやった。

  畳屋さんは男より年長のようである。男の亡父のことを良く知っている。男はしばしその畳屋さんと話した。一緒に来ていたその方のお嫁さんというが、若く見える。その人が、以前男が継母の運動のため、継母を抱き抱えるようにして病院から連れて帰っているとき男と継母を見かけたという。丁度2階で布団を干していたときだったという。小さな町の中では、いつどこで誰が見ているかもしれない。悪いことはできない。昨日は継母の代わりに近所の方の葬式にお参りし、ご遺族の方と言葉を交わした。昔亡父と継母が大変お世話になった方だという。

2010年11月11日木曜日

今日は大忙し(20101111)

  今日(10日)は大忙しであった。昨日、親戚の叔母、その叔母の娘と孫娘各1名、その孫娘の子供で2歳の男の子と9カ月の男の子が突然来訪、いつものことながらその叔母の家で収穫した新米、かぼちゃ、ホウレンソウ、小松菜、名前不詳の柔らかい野菜、牛蒡、大根、山芋、柿など沢山持って来てくれた。男が継母のところに来ていると聞いて娘に車を走らせてやって来てくれたのである。叔母は継母の10歳年下の妹である。叔母たちが来て家の中は一気に明るくなった感じである。男の子たちは活発で愛らしい。

  お昼はその娘が作ったすしご飯である。皆で食べてなお沢山余るほど作って持ってきてくれた。細長い形のかぼちゃの煮つけも沢山作って持ってきてくれた。茶の間のこたつを囲んで賑やかな中でそのご飯を頂いた。その娘は料理が得意で沢山野菜が入っているすしご飯は味付けがとてもよく、かぼちゃの煮物も塩分控えめの甘口でとても美味しかった。

  男はデジカメを取りだして皆のスナップ写真を沢山撮った。特に可愛い盛りの男の子たちの可愛い仕草の瞬間を沢山撮った。その中から善いものを印刷して送ってあげようと思う。そのためCanonのiP2700というプリンターを買った。

  今日は沢山頂いた野菜を処理しり、近所の方の葬式に参ったり、畳替えの準備をしたり、あれやこれやでこうしてパソコンに向かうことができたのは夜になってからである。野菜は無駄にしないように、ホウレンソウは沢山おしたしにしにした。そのやり方については初めてのことなので携帯電話で老妻に指南を仰ぎながら、大なべを使って大胆に豪快に料理した。出来上がりは最高である。幾つかのパックに分けて冷蔵庫に保存した。大根の葉っぱも塩もみして洗い、一部を刻んで試みにごま油で炒め、ハムを加え、胡椒やみりんなどを加え炒めてみた。結構美味しい。小松菜は熱湯に浸してあくを取り、あぶらげと一緒に炒め、味付けして炒めた。これも沢山できた。継母は「あんた何でも出来るのねえ」としきりに感心する。男料理も結構楽しいことが分かった。一般に男は左脳を使い理論的に実行するから失敗もあるが、女よりは料理が上手にできると思う。

  夕食にカレーライスを作った。残りなすもピーマンも加え、隠し味に地元産のニンニクを加えた。飲みものに農協の野菜ジュース、デザートに柿を出した。継母は「美味しい、まるでホテルにいるようだ」と大喜びで食べてくれた。

     73歳の男が91歳の継母と、初めてやや長期間になるが二人暮らしをしている。男は12日に横浜に帰る予定であった。しかしこちらでまだしなければならなにことが沢山ある。13日の詩吟はときどき教室にきてくれている女流吟詠家に代講を依頼した。ヘルパーの派遣元には25日まで援助は要らないと申し入れた。家族が同居しているときは、介護保険でヘルパーの派遣を受けることはできない仕組みである。

  昨日はBSを受信できるようにした。明日は、居間の畳の張替えと仏間にエアコンの取付工事がある。来週は継母の部屋のテレビを地デジ対応に変える。そのうち今後こちらでの生活が主になり横浜には時々帰るパターンになるだろう。そう思い、男の部屋にIT環境を充実させ、住み心地が快適になるように整備を進めている。

2010年11月10日水曜日

国の形(20101110)


  人と国を対比させながら考える。「人格」を定義づける要素として思想、性格、知性、身体、知力、気力、運動能力、武術能力、行儀といったものが考えられる。同様に「国の形」を定義づける要素して、国家としての不変の意志、その意志に基づく発言と行動、総合的国力、軍事力、民度といったものが考えられる。

  「国の形」を外国に対して具体的に表現し、演じる立場にある組織人、つまり「役者」は誰であろうか? それは、内閣総理大臣、内閣官房長官、外務大臣、国防(防衛)大臣及び国家公安委員長の5者ではなかろうか?

  この「役者」たちは、「国としての不変の意志」と「その意志に基づく発言と行動」「総合的国力」の三つを具体的に表現し、演じる役目を負っている政治家である。この「役者」になる政治家は、たとえ政権が代わり、人が代わっても「役」を演じ、表現する基本的な内容は変ってはならない。これら役者たちが演じる内容は始終一貫していて不変でなければならない。そうすれば、これら「役者」たちの「演技」を観る諸外国の人たちは、常に一目おいて畏敬の目、或いは警戒の目でこの国を観るようになるだろう。

  中国は共産党一党独裁のもと始終一貫して「大中華思想」を表現し、隣国がどう思うとお構いなしに勝手に領土の線を引き、我が国に対しては沖縄すらも中国の領土であると公言してはばからない。

    シナは古代から周辺国を獣の名前で呼び、我が国を「東夷」と呼び、天皇を決して「天皇」と呼ばず、「王」と呼んできた。今でも中国人は日本にわざわざ「小」を付けて軽蔑しようとしている。かつて「小中華思想」を抱き、今でも深層心理の底に、自らは決して気付かぬままにそのような思想を持っているに違いない朝鮮半島の人々も、「日本海」を「東海」と主張し、竹島を自国の領土と宣言して実効支配している。対馬さえも彼らの領土であると考えている人たちが多いようである。

  中国は大多数を占める漢族の人々がその深層心理から顕れる「大中華思想」を中国の国力の高まりに乗じて積極的に推し進めようとしている。中国は多民族国家であるが、漢族がその文化を他の民族に強制し、国として一体融合した大中国に成長させようとしている。チベット自治区でもチベット語は教養として存続させるが、学校教育や日常生活すべての面で漢族との同化政策を、警察力を行使してまでも強制的に推進しようとしている。その他の民族が多数住む地域でも同様である。

  我が国では昨年首相に鳩山由紀夫氏が就任して以来、この「国の形」はめちゃめちゃになってしまった。菅直人氏が首相になって過ちに気付き修復を図っているが、国際関係、特に中国やロシアや北朝鮮との関係において問題が一層深刻化してきている。

  中国や韓国・北朝鮮やロシアと日本との間で人々の交流や一衣帯水の経済関係が築かれても、何千年もの間培われてきた深層の心理は、遺伝子学的にもそう簡単に変わることはないだろう。だからこそ「国の形」を表現し、演じる上記「役者」たちにはしっかりしてもらわなければならないのである。「戦略的互恵関係」といっても彼と我とは同床異夢である。「役者」は彼の「戦略」の真意を我は知らなければならない。

2010年11月9日火曜日

竹馬の友(20101109)

  男はかつて亡父がしばしば乗っていた久大線を特急列車「ゆふ」号に乗ってで大分に向かっている。亡父がこの線路の列車に乗っていた頃、久大線の列車がジーゼル化されるまでの間、蒸気機関車が客車を牽引していた。当時、豊後森駅には機関区があり、扇状に蒸気機関車を入れる建物が活躍していた。現在その建物はガラス窓も割れて廃屋となり、歴史的遺跡として保存されている。

  車窓から見える風景は美しい。ところどころ紅葉になっている。あと1週間もすれば一層美しくなるだろう。大分に到着し町に出て手土産にバウムクーヘンを買った。今日(7日)は竹馬の友だちに会う。

    そのうちの一人は今年になって体調を崩し、毎日点滴を受けている。大腸内に大きなポリープがあり、入院して手術しなければならないという。それだけならまだいいが、彼はちょっとした動作でも息が上がるという。顔色は生彩を欠いている。細君は同級生である。中学時代同級生だった夫の健康を心配していて、元気がない。

  彼は丘陵の斜面を利用して大規模に自然放牧の養鶏場を経営している。その主が病に倒れようとしている。細君も同じ73歳、先行きの不安はぬぐえない。彼と細君は日中その牧場で仕事をし、夜は山を下って親から継いだ家で過ごす。今では見渡す限り住宅街になっているが、男が子供のころ見渡す限り一面の田圃の向こうに集落があり、彼の家はその集落の中にあった。

  男は彼の牧場にもう一人の竹馬の友が運転する軽自動車で一緒に行った。3人の竹馬の友はそれぞれ長男であり、その父親同士も長男で同級生だった。親子2代同級生同士で、子供時代お互いの家を行き来し、泊ったりしていた。彼の細君と老人とは幼馴染である。彼女は男の家では「新宅」と呼んでいた家の末娘であった。男と彼女とは数世代前の血がつながっている。子供の頃、二人小川で海老獲りをしていた。男は遊びのつもりであったが彼女は「あれは食料にするためだった」と言う。

    60数年前の思い出話で時間の経つのも忘れるほどであった。その話の中で、彼は男の祖父が仲間と協力して進駐軍から貰い受けた網など廃材を利用して、4人が通った小学校の校庭に野球用のバックネットを作ったという話をしてくれた。男には初耳であった。と言うより、未来にしか目を向けていなかった男は祖父がそのような善いことをしたことに無関心であったので記憶していないのだと思う。

     男はそこに連れて行ってくれたもう一人の竹馬の友とともに、彼と彼の細君を励ました。これが最後かもしれないと思い、沢山写真を撮った。笑顔を作らせ写真のでき具合を確かめながら何度もシャッターを切った。男はその中から、できるだけ明るい、楽しい写真をプリントし,皆に送ってあげようと思う。

    彼と彼の細君に見送られ、その牧場を後にし、男は従弟の家に向かった。従弟の家の前で送ってくれたもう一人の竹馬の友と別れ、従弟の家で夕食など呼ばれながら歓談した。

2010年11月8日月曜日

家事援助(20101108)

  タイトルの「家事援助」は男が継母のために行っている作業のことである。今日(6日)もお天気が良かったので、男は大忙しだった。寝具類を外に干し太陽の光を当てた。その間、継母を入浴させた。湯船には予め太陽熱温水とガス湯沸かし器の温水をたっぷり満たしておいた。継母がその湯を使って自分の頭を洗うことができるようにするためである。

  いつもなら継母はヘルパーさんに頭を洗って貰っており、髪をドライヤーで乾かすのもヘルパーさんにやってもらっていた。女房がいくら口酸っぱく「頭は自分で洗い、洗った後、自分で髪を乾かすように」と言ってもなかなか実行していなかった。しかし今日は男しか手伝いは居ず、いやおうなしに自分のことは自分でやらなければならない。継母は湯船にたっぷり満たされた湯を使い、自分で自分の頭髪を洗った。洗った髪も自分で乾かした。ただ、「シャンプーはどれか」とか「ドライヤーをどう使えばよいか」と言うので、男は継母の教育だと思い、その都度気楽に教えてやった。継母は「あー、やっぱり風呂はいい。今日は自分で頭を洗った。気持ちよかった」と満足げであった。

  継母が自分の頭髪を洗うのを人任せにするようになったのは、圧迫骨折で腰を痛め入院したりしたからである。しかし、筋力も付き、腰が曲がった元気な婆さん並みになった。押し車を押したり、杖を突いたりして気楽に散歩に出かける。継母はもともと頑健な身体であった。それががんを患い、腰を痛め、自立度が極端に低下していた。しかしかかりつけの先生による健康管理と老健でのデイサービスで継母はすっかり回復した。腰が曲がっている以外は普通の年寄りとは変わらない。

  継母が散歩をしている間、男は継母の部屋の清掃を念入りに行った。継母が散歩に出かけるとき老人は「玄関のカギはいつもやっているとおりにするように」と言って、いつも自分で散歩に行くときと全く同じようにさせた。やがて継母は散歩から帰ってきたので男は昼食の準備のため買い物に出かけた。行き先は農協がやっているスーパーである。昼は久しぶりすき焼きを食べさせてやろうと豊後牛を250グラムほど買ってきた。白菜やネギや豆腐や白滝やシメジなど、中に入れる材料も買った。

  継母は普段独りだけのさびしい食事をしている。「おいしい、おいしい」と言いながら沢山食べた。継母は肉類が大好きである。以前、焼き肉をしてやったら「こんなおいしいものは滅多にありつけない」と言いながら沢山食べた。十分な栄養と適度な運動が年寄りの健康の秘訣である。不健康そうな年寄りは大概栄養不足である。

  明日、日曜日男は竹馬の友数人に会うため家を空ける。一泊して翌日役場に行き、老人の曾祖父母の戸籍抄本を取る。以前男がまだ30歳代の頃、叔父に依頼して曾祖父母の戸籍を取り寄せたことがあったが、それをどこかに逸失してしまっていた。それを入手し、わが家の家系のことを書にして遺し、先祖を祭祀するところを造る、これが「あの世」に近くなった男の役目の一つである。亡父は先祖の祭祀について心残りのままあの世に行ったが、男はわが家の直系の長男として亡父の思いを実現させたいと思う。

2010年11月7日日曜日

弁当サービス(20101107)

  昨日(6日)夕方、民生委員のIさんが継母に弁当を持ってきてくれた。弁当は5の付く日の夕食用としてこの町のボランティア団体が作って届けてくれるものである。

  9月に継母が熱を出してヘルパーさんから連絡を受け、女房と二人で急きょ帰って来ていたときIさんが玄関のベルを鳴らした。出てみると「民生委員のIと申します。何度も来てみましたがお留守のようなので心配だったものですから」という。継母はかかりつけの先生の病院に入院させていた。ヘルパーさんから連絡があった日丁度土曜日だったがその病院に電話を入れ、入院させて欲しいとお願いした。そして懇意にしているタクシー会社に電話を入れ、継母を病院に送って欲しいとお願いした。タクシーの運転手さんは玄関まで入り継母をタクシーに乗せ、ヘルパーさんが病院まで付き添ってくれた。

  男が民生委員Iさんに会ったのは初めてである。Iさんは「お母様に隣のお惣菜屋さんで何か食べ物を買って来ようと思いましたが、好みがわからないのでためらっていました」と言う。Iさんはボランティア団体が行っている弁当サービスのことを話してくれた。女房はIさんからその話を聞いて即座にそのサービスの提供をお願いした。

    女房は行政が関わっているホームヘルプサービスの団体に初めから参加して、10数年以上長年お年寄りの家の家事援助サービスに関わり、放送大学で社会福祉関係のことを学び、介護福祉士の資格も取得したその道のベテランである。今は退職したが、もともと女房がホームヘルパーをしようと思い立ったのは継母の老後のことを思っていたからである。

  男の継母は女房の実母である。女房はその母とは9歳の時以来同じ屋根の下に住んでいない。女房にとって育ての親はその母の実家の人たちである。女房はその家で祖母や叔父・叔母たちの顔色を窺いながら暮らしていた。

    Iさんのお宅は継母の家からそう離れていないところにある。男と女房はIさんのお宅に伺い、いろいろ話をした。Iさんは男とほぼ同年のようである。二人は良いお方に巡り合ったと喜んだ。

    男は弁当の中身に興味があった。ご飯を入れる器、お惣菜を入れる器、そしてスープを入れる器の3点セットである。器の姿・形も品が良く、なかなか機能的にできている。ご飯は五穀米を炊いたものであった。お総菜は5品以上、栄養バランスもよく考慮されている。スープは豆腐や野菜など刻み食のように小さくしたものがぎっしり詰まっている。月3回、月末に支払うのであるが、1回400円である。これは非常に良いサービスである。都会地では到底このような弁当をこの値段で配ることは考えられない。男はこの弁当を取るようにした女房にその中身を見せてやろうと、継母に断り最初に写真を撮っておいた。

    この町は高齢化が進んでおり、65歳以上が人口の約30%を占めて、その割合が年々増え続けている。この町に郡内の医師会が設立し、運営している老人健康保険施設があり、継母は月6回、この施設でデイサービスを受けている。その内容はさすが医師会がやっているだけあって非常に良い。運動も食事も娯楽もすべての面で徹底している。以前、継母はこの施設に数ヶ月間入所していたことがあった。個室はまるでホテルの一室のようである。風呂は温泉で継母は「一番風呂に入れて貰った」とよく喜んでいた。継母はゆくゆくこの施設に入りたいと願っているが、そうは行かない。継母は現在要支援2のレベルである。

2010年11月6日土曜日

親族の写真(20101106)


  男は叔父の葬儀に出るため急いで準備していたとき、肝心の数珠を入れるのを忘れたがデジカメは忘れなかった。そのカメラで撮った多数の写真はデジカメのSDカードに保存されている。しかし保存媒体としてそのSDカード1枚だけでは不安である。そこで男は写真をパソコンのデスクトップと持参したUSBメモリにも保存した。

  男はこの携帯用のノートパソコンに保存した写真を継母に見せてあげた。叔父の葬儀に出ることができなかった継母は、パソコン画面上に拡大した写真を見てとても喜んだ。継母は仏事に出なくてもこの土地のしきたりに見合った金額の香典を出している。叔父の葬儀に男は 継母と弟の分の香典を持って出席した。「とても立派な葬式だったよ」と話して聞かせるだけでは継母もつまらないだろう。パソコンの画面上とは言え、こうして実際に写真を見せてあげると継母は頭の中で自分自身がその葬式に出席していたような気分になると思う。男はそこまで考えてデジカメを持参したわけではないが、写真に写った人に写真を送ってやって喜んでもらおうと単純に考えて写真を撮ったのであった。

  男は沢山撮った写真の中から良いものを厳選してPicasaウエッブアルバムに入れ、写真に写っている方々にそのアルバムにアクセスして貰って見て貰おうと思った。男が横浜に帰るのは1週間先である。横浜に帰ってから写真を現像してそれぞれ送ってあげるが、その前にパソコンを持っている人には今夜にでもそれを見ることができる。勿論葬儀に参加しなかった弟には見せたいと思う。URLを教えられた人にしかその写真は公開されない。

  男は今日午前中温泉に入った。人口1万7000人の山間の盆地にあるこの町には、あちこち天然の温泉が湧き出ている。入浴料300円でかけ流しの温泉を楽しむことができる。このような温泉は老人の家から近いところにもあるが、天気が良いので男は自転車を踏んでちょっと遠いところにある温泉に行った。

    その温泉は12時から入れるが、男はそのことを知らなかったので11時過ぎその温泉に着いた。事務所には誰も居ず、女性が一人で浴場の清掃作業をしていた。「まだ開いていなかったんだね」と老人が言うと、その女性は「ちょっと待って下さい、湯の温度を確かめます」と言って男湯の方に入って行った。やがて出てきて男から百円玉3個受け取った。老人は4畳半ほどもある広い湯船を独占して、ゆったりと温泉を楽しんだ。

    温泉を楽しんで家に帰るとYouTubeで尖閣諸島で中国の漁船が我が国の巡視船にぶつかってきた映像が流れたことが報道されていた。この間国際テロに関する情報収集のデータがネット上に流れた。我が国の情報管理や国益を守る意思はどうなっているのか不安になる。先日ロシア大統領が我が国の北方領土を公式訪問し、その上、そのことに一切触れずに親書を送ってよこした。我が国はなめられているのだ。

    尖閣諸島の領土・領海を守るため、海上保安庁の保安官や海上自衛隊の隊員らは命をかけて我が国の国益を守ろうとして頑張っているのに、あの仙谷官房長官や仙石氏に繰られているかのように見える菅首相は余りにも市民目線でリベラリスト過ぎる。

2010年11月5日金曜日

だんご汁(20101105)

  亡くなった叔父の縁で今まで会ったことがなかった従弟の家に泊った。その家で全く気兼ねもなく楽しく過ごした。初対面だった従弟の嫁さんにも、また娘さんにも、飼われている犬にも全く不思議なくらいに心理的な垣根が無かった。叔父の生前、叔父の思いが一方通行だった甥っ子である老人が、叔父が他界して其処に姿が見えないのに、あたかも其処に叔父がいるように、今度は男があの世にいる叔父に対して一方通行の思いを致している。これが「不思議」である。その叔父よりも年下であったが既に他界しているもう一人の叔父の妻が、男に「それがご縁なのよ」と真剣に言う。男もそう思う。

  男は叔父の遺骨が安置されているそばで休んだ。従弟の嫁さんが男の寝どこの準備をしてくれているそばで、叔父の遺骨が安置されている祭壇に向かって、線香を灯し、鐘を鳴らし、「南無阿弥陀仏」と声を出しながら手を合わせ、そのご縁のことを感謝した。

    今日4日も秋晴れの良い天気である。男は従弟の車で送られて駅に向かった。途中、叔父の遺骨が納められる新しい墓所に立ち寄った。従弟が2年前に造ったという立派なお墓に巻いた。その新しいお墓の主として、この地に礎を築いた叔父の遺骨が納められる。

    従弟は叔父の長男として立派にその役目を果している。昨日、火葬場で撮った従兄弟たちの集合写真が完成したら、従弟に依頼してその写真をその墓前に報告して貰おうと思う。従兄弟会を作れ、というのが叔父の生前の思いであったから、あの世で叔父は喜ぶだろう。

    男は2時過ぎに継母が独り住まいしている家に着いた。継母はデイサービスに行っている。お天気が良いので男は継母のベッドの寝具を日に干し、近くのデパートで茶菓子一箱を買いそれを持ってホームヘルプサービスを提供してくれている社会福祉法人の事務所に行った。目的は日ごろ継母が世話になっているお礼かたがた男が滞在中は継母へのホームヘルプサービスを断るためである。もともと家族がいるときは介護保険によるサービスは受けられないことになっている。

    帰りにACOOPのスーパーに立ち寄りだんご汁の材料や果物などを買い込んだ。男はだんご汁が大好きである。だんご汁は大分名物である。男料理のだんご汁は中身が豪快である。玉ねぎ、人参、ジャガイモ、かぼちゃ、茄子、ピーマン、豆、肉、いわしのつみれ、いりこ、竹輪、かまぼこなどなどなんでもごっちゃに水煮して素材の旨味を十分引き出す。そして団子を伸ばして入れ、味見しながらフンドーキン味噌を加え、良く煮る。団子は強力粉をしゃもじ山もり一杯ボウルに入れ、微量のグリセロリン酸カルシウムが加えられるアルカリイオン水を加えて練り、親指サイズにちぎってだんご状にして、熟成のためしばらく寝かせておき、それを引き延ばしながら程度の長さにちぎったものである。

    デイサービスから帰って来た継母は、「デイサービスで美味しいものを食べておなかがいいから夕食は要らない」と言っていた。しかし、どんぶり茶碗に盛っただんご汁をみて「おいしそうだね」と言う。男が「食べる?」と聞くと「ちいっとでいい」と言うので、どんぶりお茶碗に少しいれて差し出した。継母「これは美味しい」とかなり食べた。


2010年11月4日木曜日

従兄弟たちの集合写真(20101104)

 3日、とてもよいお天気に恵まれた。男は福岡の叔父の葬儀に参加して以前叔父が望いたことを実現させることができた。叔父は従兄弟たちの集いを望んでいた。奇しくも叔父の葬儀の日、その叔父の願いがかなった形である。火葬が終わったあと明るく穏やかな日差しの中で、男が持参していたデジカメのシャッターを他の人に押してもらって、男がこれまで一度も会ったことがなかった従弟たちも一緒に従兄弟7人の集合写真を撮った。

 世の中には不思議なことが起きる。不思議なことが起きたときそれが偶然に起きたと考える人が多いだろう。しかし男は、それは決して偶然ではなく、起きるべくして起きた必然のことであるといつも思っている。この日、男が願っていたとおりの写真ができた。

 男は家に帰ったら写真を現像して皆に送ってやろうと思う。男は勧められるままに無くなった叔父の長男になる従弟の家に泊った。遠慮がないと言えばその通りである。家に帰ったら女房からきっと叱られるであろう。

 しかし、世の中には余計な気遣いをしない方が良いことが多い。人はお互い迷惑をかけあいながら暮らしている。迷惑をかけないようにしていても時間軸の中でどの時点かで必ず迷惑をかけるものである。無心に、気の流れに逆らわず、融通無碍に生きた方が良い。

  初めて会った従弟の家に遠慮なく泊めさせてもらって、いろいろ話ができて良かった。これから先の時間軸の上で皆幸せになるだろう。明日、男は独り暮らしの継母の家に行く。継母はデイサービスに行っているが男は合鍵を持っているので先に帰って、継母の帰りを待つことになる。仏壇に手を合わせ、亡父に今日のことを報告しよう。亡父も10歳年下の叔父の葬式に老人が参加して喜んでいると思う。

2010年11月3日水曜日

帰郷(20101103)

    福岡に住む叔父が90歳で他界した。肺炎だったという。その叔父は男の亡父より10歳年下である。男はその葬式に出るため急きょ帰郷した。羽田から大分に飛び、別府で一泊して翌朝特急に乗り、11時からの葬儀に間に合うようにした。

    73歳の男は叔父が死んだという話を今朝聞いた。初めは遠いので香典だけ送って帰らぬつもりだった。しかしその叔父は男の父が30数年前死んだとき亡父の葬儀に来てくれた。男の亡父も長男であったし自分自身も長男である。長男は長男らしく振る舞わなければならない。これまで遠方に住んでいるという理由で親戚には相当義理を欠いてきた。自分自身もあの世が近い。これまでの不義理はこれから良く義理を果たすことで帳消しにしてもらおうと考えている。従兄弟たちも福岡で老人に会うのを楽しみにしてくれている。

   男はインターネットで航空券とホテルとJR九州の特急列車の指定席を予約した。今まで全く念頭になかったが、今回初めてスカイネットアジア航空(SNA)を使った。理由は65歳以上片道14100円で安いからである。羽田発17時25分発大分行きに乗った。以前はANAでも機内サービスでコーヒーなど出してくれたが経費節減でそれが無くなっている。しかしSNAではそれがある。飛行機はコンパクトで座席は左右3席づつである。機内のアテンダントは女性が二人だけである。無駄が一切ない快適な空の旅であった。

   大分空港に着いて手荷物を受け取り表に出るとバスが待っている。別府・大分行きのバスに乗る。料金1450円で別府北浜に着く。予約したホテルは別府駅近くのビジネスホテルである。北浜からそこにゆくのに徒歩で10分ほどかかるが、北浜のバスターミナルではタクシーが待ってくれている。ホテルまで620円。ホテルはじゃらんのポイントを使うので朝食付きで4000円ほどである。ホテルの部屋に荷物を置いて遅い夕食をとりに出る。駅の建物内にある「豊後茶屋」という店で大分名物のだんご汁とやせうまを取る。味は、ま、こんなものかな、という程度であった。老人の方がもっと美味しく作れるだろう。

   男は九州に帰ったときいつも感じることがある。それは、其処が自分の生まれ故郷であり、竹馬の友が居り、従兄弟・従姉妹たちが居る土地であり、横浜や東京などの大都会と違う雰囲気が漂うところである。暖かなやさしさを感じるところである。都会地は都会地でいいところも多い。便利で機能的で人間関係のわずらわしさもない。しかしそのような都会地からときどき九州に帰ると、何故か心の安らぎを感じる。

    男は此処に主たる住居を移し、都会地との間を逆方向にときどき移動する生活を夢見る。つまり7割大分に住み、3割横浜に住む。ときどき大分空港から羽田空港に向かう。今と逆である。大分で晴耕雨読の暮らしをし、たまに都会地に出て刺激を受ける。やろうと思えばやれないことはない。住む家もある。庭で多少の野菜は作れる。借りる土地はある。

    男はホテルの部屋でそのようなことを夢見ながらブログの記事を書いていると、携帯電話のベルが鳴った。女房からである。男は今夢見ていたことを女房に語った。女房は笑いながら「お母さんと一緒に住んだら」と言う。男は明日夕方その継母・91歳に会う。

2010年11月2日火曜日

沖縄の問題(2)(20101102)


  以下は先月25日の記事の続きである。翌26日の「90年世代」、28日の「沖縄の問題」、29日の「特攻」に関連する記事でもある。

  『歴史通11月号』(ワック出版WiLL発行)に沖縄県コザ市生まれ、78年防衛大学校卒業、82年2等海尉で退職後、琉球銀行等を経て現在拓殖大学客員教授である恵隆之介氏と前航空幕僚長田母神俊雄氏との対談記事が出ている。恵氏はその中で「沖縄県知事選」のところで書いたこと以外に次のことを言っている。もし、沖縄の現状がそのとおりならば、全国民はその実情を知らなければならない。おそらく官房長官のもとには沖縄に関し各種情報が上がっていることであろうが、多くの国会議員は知らないだろう。このことは是非知って貰いたいことである。

  折しもロシアのメドベージェフ大統領が我が国の北方領土を視察したという。ロシアは当時のソ連の中心の国であった。ソ連は1945年(昭和20年)8月1日日本に宣戦布告し、14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、同年8月28日から9月5日にかけて北方領土に上陸し占領した。このとき日本軍は物資や戦力が不足するなかでも激烈に抵抗し、多数の死傷者を出しながらもソ連軍の北海道侵攻を食い止めた。樺太(現在のサハリン)・千島の防衛で命を落とした日本軍将兵は約3700人であった。

  択捉・国後の二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っていない。この二島については、ソ連軍は当初アメリカ軍がやってくると様子見であったがアメリカ軍が来ないと知るとその二島どころか9月1日と4日に歯舞・色丹の二島に占領し、住んでいた日本人を追い出してまった。

    左翼・マスコミはこのような北方領土における歴史的事実には全く目を向けず、沖縄のことばかり書きたてている。このことを恵氏は同誌で指摘している。以下その要約である。

平成9年、橋本首相が左翼勢力に譲歩し、総務省管轄の基地交付金70億円を設定した。これは使途自由である。反対派の活動資金の温床ともなっている。沖縄でデモに参加すると最低でも日当3千円、幹部なら2万円もらうことができる。

今、沖縄ではテレビ局が毎日沖縄戦の被害を10分間放送している。中国に関しては親中国のムードを作っている。

沖縄の学校教育は反日反米である。

日本国民と沖縄県民との分断工作こそ中国が仕掛ける罠である。

⑤ 左翼勢力は、沖縄戦において日本軍が島民民を虐殺したとか、戦う相手は米軍ではなく日本軍だったとか、ものすごい反日プロパガンダを小学生に行っている。

今沖縄県で97%のシェアをもつ地元二紙は、明らかに県民を親中国に誘導している。

⑦ 戦後復原された首里城の玉座は北京の方向を向いている。

  この事実を多くの日本国民はどう思うか。左翼勢力は沖縄に集合し、反国家権力闘争を行っている。国会でもとりあげられたが、過去に反日運動に加担していたことがあった岡崎トミ子国家公安委員長は、この問題をどう扱おうとしているのだろうか。

2010年11月1日月曜日

老朽化と死に支度(20101101)


  人間の体も一種の精巧な機械である。機械は長時間作動させ続けると徐々に老朽化してゆく。人間の身体の細胞は定期的に入れ替わり、怪我などで死んだ細胞が新しい細胞と入れ替わる。機械の場合は部品を取り換える。しかし人間も機械も寿命がある。

  機械は大事に使えば長持ちする。人間という機械も同様である。無理をすれば寿命が短くなる。かつて鉄道で使われていた蒸気機関車は退役後あちこちで展示されているが、鉄でできているため錆が進行し、いずれぼろぼろに壊れてしまう運命にある。人間も物質でできている以上、朽ちて姿・形が無くなって行く。人間は土から生まれ、土に還るというが、そのとおりである。

  一般に人間は73歳までは元気だという。73歳を過ぎると病気になりやすいのだという。老人は今73歳である。来年の誕生日以降老人の身体に何が起きるかわからない。気をつけなければならない。免疫力が低下すると途端に体調を崩しやすくなるだろう。「年寄りの冷や水」という諺があるが、年寄りは見かけが元気そうでも無理は禁物である。

  森重久弥は天寿を全うして他界したと言う。天寿を全うするということは、何も長生きしたというだけのことではない。人生において為すべき役割を果たしたということである。他界する年齢には全く関係がない。老人も今自分の役割を果たそうと日々心がけている。

  時間は誰にも共通である。人によって一日が例えば22時間であったり26時間であったりすることはない。誰にも共通の24時間である。この時間をどのように割り振って一日を過ごすかということが重要である。現役世代では、働くことに多くの時間を割かなければならない。例え自分が為したいことが別にあったとしても、働くためにその為したい願望を胸に秘めながら一生懸命働かばければならない。働くことがその時期の役割である。

  田舎のわが家の玄関の上り口の直ぐ見える所に、亡父が徳川家康公の遺訓を書いた札を掲げてある。老人は今、改めてその遺訓をかみしめている。遺訓は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」というものである。

  73年間動いてきた自分の体という機械は徐々に性能が低下し、機能が衰えてゆく。性能や機能の低下に対処して、道具や器具をうまく使ってゆこうと考えているが、そのうちにその気持ちも思考力も衰えて行く。つまり、体力も気力も知力も衰えてくるのである。遂には他人の助力を受けることなしには生きて行けなくなってくる。その日はいつか?

  老人は日々あの世に行くための支度をしてゆこうと思い日々を過ごしているのであるが、出来栄えは7割で十分だと思っている。7割できれば合格である。ある意味では‘いい加減’である。‘いい加減’でも死に支度をしないよりはずっと増しである。今のうちに為しておかねばと思う死に支度は沢山ある。しかしそのうち7割ができれば十分である。そのようにして今日も一日、宇宙の時間軸に沿って24時間が過ぎて行く。