2017年3月30日木曜日

20170330『仏説阿弥陀経』について(14)


 朝日新聞に『新聞と9条』という題で連載記事がある。㋂29日付の当該記事の副題は「平和主義の国で」であった。その記事の初頭に終戦1か月後に首相であった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)がアメリカの通信社の質問に文書で回答した内容が出ている。その内容は「どうか真珠湾を忘れて下さらないか。我々日本人も原子爆弾による惨害を忘れよう。そして全く新しい平和国家として出発しよう(1945916日付、朝日新聞)」である。

 その「平和主義の国で」という副題の記事に“「忘却の平和主義」は他国に通じなかった。71年秋、欧州を旅した昭和天皇は、英国やオランダで、日本軍に虐待された元捕虜らの反発にあう。朝日・毎日・読売の各社社説は欧州が戦争を水に流していないことに驚いた”とある。

 その記事に続いて書かれている朝日新聞らしい記事の文言は、①「日本と戦った国の人々は戦争を忘れていなかった」・②「戦争の被害だけでなく、加害の面にも目を向け記憶しなければならない」・③「日本の侵略事実を否定したり、隣国への嫌悪をあらわにする言説も一部の雑誌などで目立つようになる」などである。

 ①について、戦争を忘れていないのは日本人も同じである。②については、「日本だけが加害者であったわけではないだろう」という視点が抜けている。③については「一部のマスメディア・リベラリストらよる自虐史観的キャンペーンに対する反動である」と言う視点が抜けている。このブログの“20170301『仏説阿弥陀経』について(11)”に「五濁悪世」のことを書いている。「五濁悪世」は一方的に作られるものではない。一部のマスメディア・リベラリストらは元日本軍人たちの足跡を批判してきた。そのような行為が「五濁悪世」を作ることに加担している、と私は思っている。

 上記②について、オランダによる植民地支配の実態がどうであったか?被支配地の住民に対する虐待は全く無かったのであろうか? “オランダにおける植民地責任 〜Rawagede(ラワグデ)の虐殺をめぐって〜 福岡女子大学 吉田信”という資料がある。私はこの資料に書かれていることが全く正しい内容であるかどうかはわからない。しかし、殆ど多くの日本人は一部のマスメディアやリベラリストの論者による自虐史観的言動により洗脳され、かつての欧州列強による植民地支配の実態について全く知っていない。

 この資料には、“Rawagede の虐殺は太平洋戦争終結後にオランダがインドネシアの独立を抑えるためにとった一連の「警察行動」と呼ばれる軍事作戦において生じたものである。この虐殺については,犠牲者の数をめぐりインドネシアとオランダの双方で主張が食い違っている。インドネシア側は,村で唯一生き残った男性,および女性たちからの証言に基づき虐殺された数を 431 名としている。この虐殺を指揮した軍の将校(Alphons Wijnen)は戦争犯罪の追求を受けなかった”と書かれている。

 戦後インドネシアに残留した約1000人の元日本兵たちはインドネシアの人たちと共にインドネシア独立の為オランダ軍と戦った。戦死者はインドネシア国軍墓地に祀られ、功績をたたえられ殊勲賞を贈られている。下記に引用する記事に添付の動画で、Eduard van Thijn(本やネット上で‘サンティン’と間違って記載されている由)・アムステルダム市長は「本当に悪いのは侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は敗戦したがその東亜の開放は実現した。その結果、アジア諸国民は独立を達成した。日本の功績は偉大であり、血を流して闘ったあなた方こそ最高の功労者です」と語っている。
(関連:「意識」と「仏教」(5)――十七人の方々の言葉――

 マスメディアが国家権力に対して常に批判的であることは大変重要である。その一方で、「自分だけが善い側にあり、過去も含め権力は悪い側にある、という立場で物事を観じ、論じれば過ちを犯すことになるだろう。一部のマスメディアやリベラリストの論者は、自ら気が付いていない間に、わが国をとりまく反日の構図が出来上がることに加担したのである。戦後多くの日本人が「一方の側」の論理のみを受け容れ、「他方の側」の論理に背を向けて来たから、その「一方の側」は“自分たちの論理のみが善である”と思い込むようになってしまったのである。その観方は間違っているか?

一方、「他方の側」はその反動として「日本は侵略国家ではない」と主張し、反日の隣国への嫌悪をあらわにする言説を行うようになった。こうして左派と右派の対立という「五濁悪世」が顕れた。最近の隣国の状況はこの対立を一層深めることになるだろう。

森本学園問題で話題になった『五か条の御誓文』には「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とある。また『教育勅語』には「億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ(現代語意訳:国民が心を一つにしてその美を成すのは、わが国の優れた点であり)」とある。

わが国が五濁悪世からなるべく遠ざかるためには、日本国民は戦前の良い点を受け容れ、賢くあらねばならない。私は、“「教育勅語」は悪である。われわれの祖父・父たちはアジア諸国の人たちに悪いことをした”という観念に凝り固まっている人たちに対して、幕末以降の先人たちの足跡を、是非とも勇気を出して良く振り返ってもらいたいと思っている。


2017年3月27日月曜日

20170328『仏説阿弥陀経』について(13)


 阿弥陀仏になるため五劫、即ち一つの宇宙が誕生し消滅するまでの時間の五倍と言う極めて長い時間をかけて修業中の法蔵菩薩が立てた四十八の願(がん)の第五に「設我得佛 國中人天 不悉識宿命 下至不知百千億那由他 諸劫事者 不取正覺」という言葉がある。

 私は三省堂『漢辞海』と光生館『現代中国語辞典』を引用しながら、これを翻訳し、解釈してみようと思う。勿論、インターネット上には現代日本語に翻訳されたものが出ている。私はそれも参考にする。こうして今からおよそ1760年前に中国語に翻訳された仏教の経典に書かれていることを、今を生きている日本人の私が自ら理解しようとしている。下記の私の現代語訳には誤りがあるかもしれないが、私自身は正しい翻訳をしたと思っている。

第五願にある「宿命」とは「前世から決められている運命」のことである。その運命を識(し)ることが出来ることを「宿命通」という。「宿命通」は五つある神通力の一つで最も上位にある神通力である。因みに五神通は「宿命通・天眼通・天耳通・他心智通・神足通」である。第六願・第七願・第八願・第九願は、それぞれ天眼通・天耳通・他心智通・神足通に関する願である。法蔵菩薩は、自分が天眼通・天耳通・他心智通・神足通を得なければ自分は「正覚(=正しい悟り・成仏)」しない、と願を立てられたのである。

第五の願は「たとい我仏を得たとしても、国中の人天悉く宿命を識らず、百千億那由他の諸劫の事を知らずに至れば、正覚を取らじ」という願である。これは現代語に訳すれば「たとい私が仏(の法)を理解したとしても、もし国中の人間界・天上界がみな宿命をわからず、102×1011×1060個の宇宙が誕生して消滅するまでの期間の事を知らずにいたなら、私は仏にはなりません」という願である。

因みに那由他は、元は仏教用語で梵語の"nayuta"を音訳した「極めて大きな数量」(新村出編『広辞苑』第三版)の意味である。那由他は阿僧祇(1056)の万倍の1060のことである。江戸時代に執筆され、当時ベストセラーとなった数学書である『塵劫記』の塵劫記寛永11年(西暦1634年)版にそのことが出ている。(以上、Wikipediaより引用。)

今、私がそのような作業を行うことが出来るのは、先人たちの努力の蓄積があったからに他ならない。私がこの世を去った後、私の子孫がもしこのブログの記事を読んだならば、彼または彼女はどう思うだろうか?それは誰も分らない。自分が誰かの「来世」を今、自分の「現世」として生きているのだということも、自分の死後、自分は誰かの「現世」として生きるということも科学的には全く証明できないことである。

 仏教では「前世」「現世」「来世」の因果・因縁のことが盛んに説かれている。巷の会話で「地獄も極楽もこの世にあり、あの世にもあるのだ」・「因果応報だ」などの言葉を聞くことがある。生物学上の「遺伝」や人間学上の「意識」は因果・因縁と深い関係がある。近年、エピジェネティックな遺伝のことも話題になっている。
 (関連:
 20160218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(9)―― エピジェネティクスの面から考える子供の養育 ――

 「宿命」とは「前世から決められている運命」のことであり、それを深い禅定により認識することができれば人は自分の宿命を知り、現世においてその宿命に賢く対処することができるに違いない。私はそう思うのであるが、つらつら考えてみると現在わが国に横行している、いわゆる「葬式仏教」「儀式仏教」では宿命のことがあまり大事に考えられていないようである。しかし人々は宿命を恐れるから現世利益を願い、寺院で仏教の僧侶に、神社で神道の神職に祈祷やお祓いをして貰っている。

 日本人は世界に存在しない日本人独自の縄文人のDNAをベースに、非常に多様なDNAを有しているせいか、日本には「何でもあり」の文化がある。年の初めに神社や寺院に詣で、結婚式は神社やキリスト教会で行い、葬式は仏教で行い、夏祭りで神輿を担ぎ、阿波踊りに興じる一方で、ハロウイーンで仮装した人々が町中で楽しむなど、日本には古い文化も新しい文化も非常に多様に混在している。

 日本はヨーロッパの多くの国々と同じ様に自然に発生し、進化してきた国である。一方、アメリカはヨーロッパから人々が移り住んで独立宣言をして出来た国であり、国旗を統合のシンボルにしている国である。これに対して日本の周辺の国々の成立状況はかなり事情が異なっている。DNAの研究結果、日本はそれらの国々の人たちと血縁関係は遠い、ということが分ってきている。

 人間同様、国家についても因縁・因果について考えてみることが重要である。人間も国家も安定・不安定の状況をもたらしている因縁・因果がある。宿命は人間だけでなく、国家にもある。我々日本人は日本国の宿命を理解し、男系の皇統を維持してきた皇室と日本国の歴史についてよく知ることが大変重要である。最近、子供たちに「教育勅語」を教え、それを暗唱させたある幼稚園のことが話題になったが、「教育勅語」にはおかしな部分は全く無い。私は、これを子供たちに教えることを問題視する方が間違っている、と思っている。


2017年3月20日月曜日

20170320『仏説阿弥陀経』について(12)


私は『曹魏天竺三藏康僧鎧譯 佛無量壽經 卷上』を読んで理解しようとしている。インターネットで入手した『無量寿経上講義』がその読解を助けてくれる。法然上人のお弟子であった親鸞聖人が私を導いて下さっている。今の時代、このようにして、先人たちの労苦のお蔭を被って比較的容易に釈尊(釈迦牟尼(Śākyamuni))を身近に感じることができるようになっている。真に有難いことである。

この経典の翻訳者・康僧鎧(こう そうがいskt:Saghavarman सँघवर्मन्、生没年不詳)は、古代中国の曹魏時代の訳経僧である。天竺(インド)出身の僧と伝えられているが、康の字から西域の康国・ 康居国の出身とする説もある。「訳経僧(やっきょうそう)」とは経典の翻訳に従事する僧のことである。特に、中国においてはサンスクリットの経典を漢訳する僧をさすことが多い。鳩摩羅什や玄奘三蔵などが代表的。霊仙三蔵のような、日本人の訳経僧もいる。「三蔵法師(さんぞうほうし、繁体字:三藏法師、簡体字:三藏法、拼音: Sānzāng fǎshī)」とは仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に「三蔵」と呼ぶこともある。(以上、Wikipediaより引用。)

曹魏時代は西暦220年から265年の間である。古代中国の書物の内容を西暦2017年に生きている私が読んで理解しようとしている。古代の日本人は古代の中国から漢字を導入し、さらに平仮名と片仮名を発明したことにより、古代中国人が書いた物を読みこなした。この知的な蓄積があったおかげで、今を生きる日本人は1800年前の古代中国人が書いた物を読解することができる。この有難さを感じている日本人は多いだろうか?

阿弥陀仏はどういう仏様であろうか? 阿弥陀仏は宝蔵菩薩が四十八の願(がん)を立て、五劫、即ち一つの宇宙が誕生し消滅するまでの時間の五倍と言う極めて長い時間をかけて修業し、西方の極楽世界に成仏したお姿である。その阿弥陀仏は(Amitābha「量(はか)りしれない光を持つ者(無量光仏)」又はAmitāyus「量りしれない寿命を持つ者(無量寿仏)」) である。

阿弥陀仏は阿弥陀如来とも言われる。如来(tathāgata)とは「如実に来れる者」・「真如より来れる者」という意味であり、真如法界から来たって真如を悟り、如実の強化活動などの生活を為し、如実に去り行く者で、仏陀の同義語である。(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』より引用。)

 わが日本国には聖徳太子・聖武天皇らのお蔭で仏教が根付いている。またわが日本国には2000年以上にわたる万世一系の男系の皇統の天皇がいるお蔭で、このように秩序ある国体が持続されている。国家を「一つの人間」として観た場合、日本は心身ともに健全で、進化し続けている国である。このことを日本国民は自覚するべきである。

 皇位継承に関して「女性宮家」の設置を是とする議論が出ている。その議論の陰には日本国の弱体化を意図する勢力の深慮遠謀がないかどうか?私はそれがあると直感的に思っている。男系の皇統は何が何でも持続されるようにしなければならない。

天皇は日本国民の統合の象徴である。古墳時代人ともよばれる原日本人は縄文人と長江中流域からジャポニカ種の稲作文化を持ってやってきた渡来系弥生人の混血である。その原日本人の中から天皇の先祖が現れた。それが神武天皇である。原日本人は紀元後大陸側の政変等により大陸(主に朝鮮半島)から新たに流入した人々と混血し、現在の日本人の形質が出来上がった。日本人は多人種の混血種であるが、そのベースになるY染色体DNAのハプロタイプは大陸に存在しないD1b系統である。D1b系統をベースにした多人種混血種の日本人が一つの民族としてまとまりを見せている理由は、民族統合の象徴である男系の皇統の天皇がいるからである。もしこの皇統が途切れ女系天皇となってしまったら、日本人は民族としてのまとまりを欠くことになるだろう。

用明天皇元年(585年)に仏教の受容を巡ってわが国内に激しい対立があった。その対立を収め、国内に仏教を広めた立役者は聖徳太子であった。初の女性天皇であった推古天皇の御世に皇太子を務めたのは厩戸皇子、即ち後に聖徳太子と呼ばれたお方である。女性天皇は男系皇統の中継ぎである。女系天皇ではY染色体遺伝子は途絶えるが、中継ぎの女性天皇であればY染色体遺伝子の皇統は維持される。

聖武天皇(大宝元年701年)―天平勝宝8756年))は奈良に東大寺を建立し、全国各地に国分寺・国分尼寺を建立させた。東大寺は国分寺・国分尼寺の総本山であるとともに、今でいう総合大学の役割も担っていた。国分寺・国分尼寺は全国各地で仏教による国家の鎮護の役割を担っていた。

日本ではこのような背景があったから、シナ大陸や朝鮮半島で弾圧されて廃れた仏教が日本では盛んになり、法然上人とその弟子であった親鸞聖人により阿弥陀仏への信仰が広められたのである。日本国民は何と幸せな国民であろうか。もし多くの日本人がそのことを自覚しないならば、日本国民はきっと不幸になることだろう。

2017年3月1日水曜日

20170301『仏説阿弥陀経』について(11)


「五濁悪世」は現に生きている人間が創っている。一人の人間でも、夫婦でも、複数の人間の群れでも、団体でも、武装組織でもマフィア・暴力団でも、独裁者の国家でも、一党支配の国家でも、自由と民主主義の国家でも、皆「五濁悪世」を創る。人間は「人間」の仮面をかぶった動物以外の何者でもない。人間は自分が「動物」ではなく「人間」であると思いたがっているから、自分自身が「五濁悪世」を創っていることをなかなか自覚したがらない。

 理想主義者・博愛主義者が夢見ることは、国境が無く、世界の人々が自由に行き来して自分が住みたい土地に自由に移り住むことができるような世界の実現であろう。一方、動物たちは食べること・交配して種を残すこと・生存することだけを欲求して「自存の行動」をしている。人間は自分が「動物」ではなく「人間」であると思いたがっているが、人間も「動物」の一種であることに間違いはない。そういう「人間」が作っている国家は「動物」と同じように「自存の行動」をする。わが国の近隣にそういう国家が存在している。一部の理想主義者・博愛主義者たちはそのことからできるだけ目を背けようとする。なぜなら彼らは「自分は人間であって動物ではない」と思いたがっているからである。

 「五濁悪世」は「人間」の面をした「動物」が創っている。この世から「五濁悪世」は絶対無くならない。しかし、真理に触れる機会が多い人・②善良な人・③美しい物事に感動する機会が多い人や、そのような「人間」の集団は「五濁悪世」をなるべく減らすようにすることできる。仏教やキリスト教など普遍宗教を信仰している人や「人間」の集団は「五濁悪世」をなるべく減らすようにすることでき、現に「五濁悪世」からなるべく離れた世界に住んでいる。しかし一方で、人々に自分の霊感を信じ込ませ、現世や来世での幸せを信じ込ませる宗教が蔓延っている。わが日本ではそういう宗教も公益的な宗教法人として扱われている。それは憲法で「信教の自由」が保障されているからである。

 一部のリベラリスト・グローバリスト・これらに同感するジャーナリストやメディア・政治家・官僚が着目したがらないことは、次の七つのキーワードの中にある。
 ①国家は一つの生物である。
 ②最大多数の人々の最大幸福を目指すことが最善である。
 ③自由は規律と裏腹であり、両者は同等の重さがある。
 ④権利は義務と裏腹であり、両者は同等の重さがある。
 ⑤軍隊は国家の背骨である。
 ⑥人々の最大の関心事は自分及び自分の家族の安全・安心・繁栄である。
 ⑦最大多数の人々の最大幸福は上記⑥の関心事が確保されることである。

 移民の増加・永住権を得た特定の外国人の増加は社会に活力を生むと同時に、社会の不安定を招くだろう。カジノ・ホテル・商業施設などの統合型リゾート(IR)を造ることは社会に富をもたらすとともに、犯罪も増えるだろう。海外からの投資を自由にさせれば、経済が発展するが、一方で国家の防衛上重要な施設や機能が危険に晒されることになるだろう。そういうことが起きないようにするため、必然的に厳しい取り締まりが必要になる。しかし日本人は往々にして重大な事件が起きるまで呑気に構えている傾向がある。潜んでいる問題を発掘し、事前に対策を講じることは危機管理の要諦であるが、そのことについて声を大にして言う人は少ない。家庭・学校・社会・企業・行政機関等で問題解決のための教育・訓練は熱心に行われるが、潜んでいる問題を発掘し、事前に対策を講じるための訓練については無関心に近いのではないだろうか?

感情・知識・文化の三つは「問題の存在」に気付かない原因となり、問題の発見が遅れる原因ともなる。自虐史観に囚われている人・軍隊に対するアレルギーがある人・国家観が欠如している人・自由だけを希う人・権利だけを主張する人・自分だけが良ければよいと思っている人などは、「問題の存在」に気付かないか、「問題の存在」に気付こうとしない人たちである。テレビや新聞に出る一部のリベラリスト・グローバリスト・これらに同感するジャーナリストやメディア・政治家・官僚の中に、そういう人たちが居ないかどうか?

南京事件・竹島問題・日本海の呼称などについて、公立学校で子供たちに嘘を教え込んでいる国々がある。日本政府はそのことについて事を荒立てないようにしている。しかしそれらの国々が公立学校で反日教育のため嘘を教えていることについて、ある私立幼稚園の経営者が園児たちに「嘘を教えないで下さい。お願いします。」と言わせていることや、五か条の御誓文・教育勅語を教えていることについて、それは「行き過ぎだ」と非難する人たちがいる。これも、御誓文の内容や教育勅語の内容について知らない人、或いは感情的にこれらに反発している人たちが「問題の存在」に気付いていない現象である。これも「五濁悪世」の現象の一つである。

関連:20160619何事も基本が大事である

  20170202『仏説阿弥陀経』について(9)