2009年11月30日月曜日

ETV特集「日本と朝鮮半島2000年」(20091130)

  師走は当て字らしい。一説に僧侶の先生がお経をあげるためあちこち走りまわることを意味するらしいが、四季が果てる月を意味するという説もあるようである。男は先生(=師範)が走り回る意味だろうと思っていた。ともかく明後日から12月である。年賀状を書いたり、英語のクリスマスカードを書いたり、田舎に帰る準備をしたり、特に男は詩吟の会を主宰しているので来年のテキストを準備したり、昨日書いたように吟詠の実力を試す審査を行うのでその準備もしなければならない。このところ出かけてばかりいて折角撮ってきた写真もろくに整理していなかったの、その整理もしなければならない。

 今日は、女房はさいたま市に住む親友と原三渓が遺したものを観るため三渓園に出かけた。昨日男は女房のその親友に女房が見せるための写真を20枚余りプリントしてやっていた。その親友は六義園や小石川植物園の美しい写真を見て「来年は是非一緒に連れて行って」と頼まれたそうである。女房がそのように友だちと行動するときは男は家にいて集中して作業を行うことが出来る。昼食は昨日の夕食の残りのすきやき鍋に残りご飯をぶち込んで温めるだけで、簡単に済ませて時間を確保した。

 夜、男がどうしても観たいテレビ番組が二つあった。一つはNHKテレビドラマ『坂の上の雲』である。もう一つはETV特集『日本と朝鮮半島2000年』である。それを観終わって作業の後始末を終えてこの記事を書いているのでもう午前零時を回ってしまった。

 映像は人をして精神の高揚を導く作用がある。ヒットラーは国民の洗脳のため映画を積極的に利用したという。勿論戦前の日本でも戦意高揚のため同じようなことをしていたが・・。

 NHKドラマ『坂の上の雲」』は列強に追いつき追い越し日本の国体を守るため特にかつての中下級士族の子弟が頑張って国を導いて行った様子が描かれている。現在の日本にはその時代のような国家と国民が一体となって非常に激しいエネルギーを燃焼させているという状況にはない。平和ボケしたなよなよした男も多い。豊かな時代は世界のどの国でもそのような状況なるのかもしれない。しかし日本には憲法で規定された軍隊がないということがそういう状況を作り出していると男は思う。

 ETV特集『日本と朝鮮半島2000年』では、豊臣秀吉は悪者扱いである。男はかつて韓国に旅行したことがあったが、彼の国では豊臣秀吉と伊藤博文は嫌われ者である。しかし男はそういう観方は一方的ではないかと思う。当時の中国、明国の皇帝に当時の朝鮮の王は朝貢し、国としては冊封の国であったのだ。明と朝鮮の連合があってわが国に脅威を与えてなかっただろうか。時期的には中国の皇帝がモンゴル人であったとき1274年と1281年に当時の中国・元国が朝鮮と組んで日本に来襲している。それから約300年後の1592年から1598年にかけて日本は朝鮮に侵攻している。NHKでは豊臣秀吉の時代だけを切り取って番組を構成している。なにかインヴェイダーのような者の意図があって、日本と大陸との間の関係の長い歴史全体を観ることを敢えて省いているのではないかと勘繰りたくなる。

 日本は、男はこれは527年の岩井の乱以前までの数世紀の間は、日本というよりは九州であると考えるが、朝鮮半島の南部に権益を有していた。しかし663年、当時の中国・唐国と朝鮮・新羅の連合が百済を攻め、百済を守ろうとした日本は41千人の兵と1000隻に及ぶ戦船を送り込んだが白村江で陸と海から挟み撃ちされ大敗した。大陸と日本との緊張関係は今でも変わっていないのだ。(関連:「663年朝鮮半島白村江の戦い(20091003)
http://hibikorejitaku.blogspot.tw/2009/10/663-20091003-21-10-1-17-1335-663-669-33.html )

2009年11月29日日曜日

詩吟サークル(20091129)

 男は10年前東京都内のある区のセンターで「詩吟を楽しむ会」という詩吟サークルを立ち上げ、現在もそのサークル活動を続けている。立ち上げのとき参加してくれた方々は今も辞めずにそのサークルで活動を続けてくれている。活動は毎月2回、第2、第4土曜日の夜行っていて、その地域の活動団体として区に登録されている。公共の施設を利用するのでサークルのメンバーは5人以上であること、さらにその区の住民が半数以上その中にいなければならないという制約がある。地域活動といっても対外的な活動を行っているわけではない。区の住民の相互交流による地域のコミュニティの形成に寄与する活動が求められている。しかし過去に数回、区内のあるデイサービス施設を訪問したことはある。

 この詩吟サークルについて5年前、区の広報で案内したことがある。その時その広報を見て参加してくれた年配の男性が今も一緒に活動を続けている。その後広報はしていなかったが一月前たまたま区のセンターにきた婦人が掲示板に書かれているこの詩吟サークルの存在を知り、メンバーに加わってくれた。このことがあって男は今後一層力を入れようと思うようになった。

 区のセンターでは登録されている諸団体の活動の状況を広報するため毎年10月に発表会を行っているが、男はその発表会に「詩吟を楽しむ会」として来年から参加することにし、メンバーの皆に諮った。菊池寛の『恩讐の彼方に』を題材とした漢詩『青の洞門』をテーマにして朗読と吟詠と、できれば踊りも入れた構成で10名以上のメンバー全員が参加する発表会にしようと考えている。皆この提案に乗り気である。

 男が主宰するこの「詩吟を楽しむ会」では、吟詠の実力を評価して「認定証」を発行することにしている。この認定証は流統・会派として運営されている一般の組織で発行されている「許証」のようなものである。この認定のための審査のため一定の基準を定め、審査会には男の友人に来て頂いて第三者として吟詠力を評価してもらうようにしている。去年は10名ほどのメンバー全員それぞれのレベルに挑戦して認定証が付与された。

 認定証には男とその友人がそれぞれ押印する。「許す」という大仰なものではなくA4判のちょっと厚めの紙切れ一枚に男がパソコンで作った「○○を認定します」と印刷したものに男と第三者として評価してくれる友人が自分の印を押すだけのものである。一般に稽古事で何某かの伝位を貰うとき儀式を行い、伝位に応じて予め決められているお金を払い、立派な証状を貰って一層有難味が増すようになっている。しかし「詩吟を楽しむ会」では自分の実力に応じて認定されるだけである。費用は用紙代など実費程度しかかからない。

 一派に稽古事において流派ごと「許す」と言って与えられる「許証」に「皆伝師範」とか「準師範」とかいう伝位が記載されている立派な証状を貰うと、それ見る人をして「ほう!」と感心されるだろう。しかし柔道や剣道などの武術の証状と違って、詩吟において「師範」と書かれていても人に必ずしも教える実力があるわけではないのが実情である。その点男が主宰している会では実力がなければ「準師範」や「師範」の資格は与えられない。男が主宰している「詩吟を楽しむ会」では、デイサービスや老人会などで詩吟を披露するとき自ら楽器を奏でて詠うことが出来なければそれらの資格は与えられないのである。

 男は「詩吟を楽しむ会」として来年初めて参加する発表会に向けた練習、そしてその発表を行うことにより、メンバーの実力が一層向上することを期待している。

2009年11月28日土曜日

六義園と小石川植物園の散策(20091128)

 今朝女房は「今日は天気が良いので六義円と小石川植物園に行ってみたい」と言う。男は片付けておきたい仕事があったが別に急ぐこともないことなので急きょ外出の準備をし、女房と一緒にそこに行くことにした。そういうことが出来るのは有り難いことである。駅を10時過ぎに出発するその列車には仕事に出かけるらしい人たちもまだ多く乗っていた。

 六義園は第五代将軍徳川綱吉の信任厚かった川越藩主柳沢吉保が作ったもので明治維新後岩崎弥太郎が買い取り後に公園として整備されたものである。JR駒込駅を降りてすぐ近くのところにその公園はある。男と女房は、今年はいろいろな事情で京都の紅葉を観に行くことができなかったが六義園に来てみて京都に行かずともこの六義園で十二分紅葉と風景を堪能することができた。横浜の三渓園を遺した原三渓といい、六義園や清澄公園を遺した岩崎弥太郎といい、明治の大富豪たちは後世に本当に良いものを遺して下さったと思う。

 六義園は夜ライトアップするので小石川植物園を初めに観て、その後六義園に来た方が良かったかもしれないが、そうするとこの間清澄公園に行った時のように家に帰り着くのが遅くなってしまう。女房は男が深夜までパソコンに向かっていなければならなくなることを心配して順序を逆にし、六義園を先に観ることにしてくれたのである。

 男と女房は56年前だったと思うが休みの日に急に思い立って京都の紅葉を観るため新幹線で京都の日帰り旅行をしたことがあった。その時は大原まで足を伸ばした。京都の紅葉は主に寺院の庭の紅葉である。しかしこの六義園の紅葉は大きな庭園の中の紅葉である。池、岩、流れ、小みち、橋、東屋、灯篭、樹木、緑、紅葉などがある趣をもって配置されている風景はとても優雅で美しかった。その庭園を一歩外に出れば超近代の街であるが、庭園の中には美しい日本の姿があった。

 この庭園は徳川幕府の大老の庭園として造られているものなので、庭園の中は非常に心が癒される雰囲気がある。男と女房はこの庭園の中をゆっくり楽しみながら全て隈なく回った。平日のためその公園を訪れた人の数も多くなかった。しかし紅葉としては今日・明日がベストであると思う。紅葉にせよ桜にせよ最も良い時期は限られている。天気が良く、穏やかな日和で、庭園の中を歩く人の数も多くなく、風景が大変素晴らしいという時期に巡り合えるということは余りない幸運なことである。

 男と女房は六義園を堪能したあと小石川植物園まで歩いて行った。この植物園は東京大学の研究施設である。入場料は高齢者でも割引は無い。園内には芝生はない。地面は自然の状態で落ち葉が積もっている。その中への立ち入り制限などはない。全く自然の森の風景がそこにある。一角に日本庭園もある。時間帯のせいもあってか入園者の数も少なく男と女房はその自然の雰囲気を心行くまで堪能した。男は女房に冗談で「あの世に逝ったら二人で東大に入ろう」と言ったら女房は「お父さんももし母親が生きていたら別の道を歩んでいたと思う」とぽつりと言った。男の母親は男が10歳のとき世を去っている。

 この植物園を出て地下鉄茗荷谷駅までまた歩いた。ちょっと道に迷い中学3年生か高校1年生ぐらいの女子生徒が3人立ち話をしているところに寄って駅までの道を聞いた。その中の一人が「気が付かずすみませんでした」と言って丁寧に道を教えてくれて、「お気をつけて」と付け加えた。女房はその気働きと心遣いに大変感心していた。男は「あの子たちはきっと良い家庭の子だよ」と女房に言いながら何だか嬉しい気持ちになった。

2009年11月27日金曜日

男の大腸・胃腸内視鏡検査と女房の首の痛みの治療(20091127)

 ビロウな話だが男は3年前痔の手術を受けた。以来生活の質が格段に向上した。生活の質と言えば、男は同じ年の春白内障の手術を両眼とも受けている。この二つの手術で生活の質、クオリティオヴライフは格段に向上した。

 男はジヌシとして本当に何十年もの長い間お付き合いしていた。実は男はジを切ると穴の絞まりが悪くなって下着を汚すのではないかと長年思っていたのでジヌシと長年お付き合いしていたのである。ある日突出の修正が利かなくなりインターネットでいろいろ調べてJR新橋駅の近くのAクリニックに行けば薬で治療できると思ってその門を叩いた。診てくれた医師は「これは切らなければ治りませんよ」と言う。そして紹介されたのがJR我孫子駅から送迎バスで行くTという専門の病院である。

 男はそこに入院して手術を受けた。執刀のT医師は切るのが楽しそうににこにこしながら「QOLが格段に向上しますよ」と言った。手術は簡単に終わり、看護師の女性が男に「切り取ったものを見ますか?」と言う。男は勿論どんなものか見たかったので二の返事で自分の長年お付き合いしていたジヌシをまじまじと見た。手術後短期間で傷口が癒えるように入院中バブルの風呂に入る。それも治療の一環である。

 男は翌年その病院で大腸と胃腸の内視鏡検査を受けた。大腸に小さなポリープが一つ見つかり、胃腸に狭窄が見つかった。その経過を見るため来年また来るように言われ、病院から案内の便りも届いていた。しかし男は1年先延ばししていた。今日26日はその検査前の手続きでその病院を訪れたのである。お天気も快晴、久しぶり常磐線の列車に乗って我孫子を訪れ、2年前と全く変わらぬ風景に懐かしさを覚えた。来月検査のためまたこの町に来る。前の日から食事など指示されたとおりに取り、朝9時までにその病院に着いて下剤など飲み、お腹の中が空っぽになったところで口から肛門までの腸腔の中を調べることになる。今日診察してくれた医師に男は「10年前前立腺がんの摘出手術を受けたが直腸が狭くなっていないか診てほしい」と言ったら、医師は「今診てみましょうか」と言って人差し指をくるりと回す仕草をした。男はその仕草を見て「検査の時でいいですよ」と答えた。

 この日男の女房は川口に行って長男の嫁と一緒に針灸の医院に行った。男は女房と上野まで一緒に行動した。女房は加齢のせいで首の骨の劣化があり近所の接骨院で治療を受けているが、埼玉の狭山に住んでいる長男の嫁が「川口にとてもよい鍼灸医がいる」と教えてくれて、そこに行ってみることにしたのである。結果は非常に良かったようである。痛みは取れたと喜んでいる。首と背中に針が4本打たれている。23日そのままの状態である。

 女房は背中の真ん中に出来ていた小さな脂肪の塊もその鍼灸医に勧められて取って貰っていた。これは体質によるものらしいが、女房はもう10年以上前になると思うが、一度手術で脂肪を取って貰っていた。その時医師から「こんなになる前にもっと早く処置しておくべきだった」と言われていた。手術後塊は無くなっていたように見えたが完全ではなかったようである。今日その鍼灸医が小さな脂肪の塊を簡単に取り除いてくれたが、取る時出血もなく痛みも感じなかったので女房も驚き、一緒に見ていた嫁も不思議がっていたとのことである。男は女房の背中を見せてもらったが、そこは径が1.5mmほどの小さな黒い穴があるだけだった。その脂肪の塊を鍼灸医が「持って帰りますか」と言うので女房はティッシュペーパーに包んで持って帰っていた。見ると大きさが径5mmほどの塊である。

2009年11月26日木曜日

再び外国人参政権について(20091126)

男は民主党が立法化を目論んでいる外国人参政権、つまり日本国籍を持たない人々に日本の国の政治に参加させようとする動きについて考えてみた。国籍とは国家の構成員としての資格のことである。外国人とはその国の国籍を有していない人のことである。鳩山首相は「外国人に参政権を与えるという度量を日本人も持つべきである。外国人参政権は国政参加も含む。永住外国人への地方参政権付与について前向きに結論を出したい。国民の思いは必ずしも統一されていない。内閣として議論を重ね、結論を見いだしていきたい。」というような趣旨のことを発言している

男は右翼でも国粋主義者でもないが、本当の気持ち、彼は一国のリーダーとして誠にふさわしい人であるのか疑問に思うようになった。
普天間基地問題もそうであるが、彼は「選挙の結果をみなければならない」と口にする。かつて選挙の結果、ヒットラーがリーダーに選ばれ、ユダヤ人大量虐殺の論理の芽が出て、それが大きく育ち、あのような人類史上例をみない犯罪が行われた。民主主義における民意とは一体何なのか。一般大衆の情緒的な判断の結果が民意なのか?男はそうは考えない。真の民主主義における民意とは、良識ある階層の人たちの判断の結果によるものであると考える。選挙権は日本国籍を有する成人男女に平等に与えられているが、良識ある人たちの集団的・集合的判断が出来るだけ多くの選挙人に共有されるような仕組みの中で選挙が行われなければ真の民主主義における民意にはならない、と男は考える。
外国人参政権について先ず国民的議論がマスメディアを通じて行われ、しかる後に民意を問う選挙が行われ、その結果民主党が多数政党になり、外国人参政権を推進するのであれば男は反対しない。しかしそのような議論もなく、大多数の人々が読まなかったり完全に理解していなかったりしているマニュフェストに書いてあり、民主党がそのマニュフェストを掲げて政権を取ったので実行するというのは暴挙ではないか!民主主義とは手続きに時間がかかるものである。その手続きを民主党は出来るだけ省略しようとしている。事業仕訳の手法を実行する前に、①事業仕訳は予算を獲得しようとする側と予算要求を抑圧させようとする側との戦いである、②事業仕訳の結果削減された事業でも、認められた事業でも段階を踏んで最終的には政治的に判断する、という2点について一般国民に十分な説明がなされていなかった。

マスコミもそのことを追求せず、民主党の“ショー”に踊った。
民主党は国政遂行上の原理原則を何処に置いているのか男には判らない。男が納得できる国政遂行上の原理原則は、先ず第一に国の形に関すること、第二に国の外交と防衛に関すること、第三に国の繁栄と繁栄の持続に関すること、の三点である。勿論これは男自身が勝手に考えた原則であり、どの書物にも書いていないものである。しかし男は日本という国体を、例えが適切ではないがある有機的で高度な生命体とした場合、その生命体は他の同様な生命体と自己の存続をかけて対立し或いは協調するであろう。そのときその生命体はその三点を基本にして自己の存続を図ろうとするだろうと考えるのである。
第一の国の形に関することとは、わが国の歴史・文化・伝統の根本にある精神であり、その精神の中心、深層心理学上の‘自己そのものであるセルフ(Self)’の自覚である。世界に類を見ない天皇、神社、伝統的な行事などはその自覚のためのキーワードである。
民主党は「国民の目線」を強調する。その一方で外国人の参政権を国政・地方行政両方で実現させようとしている。男は、この国は大丈夫かと不安に感じざるを得ない。

2009年11月25日水曜日

陶芸の楽しみが増した(20091125)

男が陶芸を始めたのは一昨年の12月である。初め一日体験し、その時に申し込み、自由に陶芸作品を作るコースに入った。途中、手びねりの初級と中級のコースを出て、また自由コースに戻り、次に電動ロクロの初級と中級のコースを出てまた自由コースに戻った。自由コースには曜日ごとに担当の先生がついている。
男は先生が付いていなくてもある程度のことはできるようになったし、年に4、5回九州の田舎に帰らなければならないこともあって欠席することが多いので、この9月から貸室のコースに切り替えた。曜日は同じ毎週X曜日であるが、余席が無かったので午前のコースに入っていた。しかし、午前のコースは家を早く出なければならないので、老齢の男にとって苦痛であった。余席待ちしていたところたまたま午後のコースが空いた。そこで今日から男は午後のコースに入った。
自由コースに長年籍を置いているある男性が懇親会を企画していて男も誘われた。懇親会はある居酒屋で行われ男も参加した。参加者はX曜日の午前及び午後の自由コースの皆さんであるが、この種の懇親会は過去に無かったようである。今回その懇親会に参加したのは自由コースに籍を置いている人たち全員では無かったが大方気の合う男女の方々10名余りが参加した。男は自由コースのメンバーで無くなっているのでその懇親会のメンバーとしては特別会員のようなものである。皆男より陶芸歴が少なくとも2年以上古い。
男はこの懇親会でいいことを聞いた。それは陶芸センターで毎年作品の発表会である陶芸祭を行っているが、その時一般の人々も見に来るとのことである。今年は1000名近くの方々が見に来たということである。陶芸祭では皆が作った物を展示し、来た人に買ってもらうことができるとのことである。今年は全部売れたということで、今夜の懇親会に参加したある方は5000円ほどの収入があったということである。陶芸祭は来年も行われるので、男は今後良い作品を作って売りたいと思った。趣味と実益を兼ねるのである。実益といっても何千円という程度のものであるが、自分の作品を評価されるので嬉しいことである。
男は沢山一輪ざしを作って男が詩吟を教えている人たちなどにプレゼントした。男の家には男が作った一輪ざしが幾つかある。男が女房に「これ500円だと言えば買う人がいるだろうか?」と聞いたことがあったが、その時女房は「それはすぐ売れるわよ。これが500円だったら私も買うわ。」と言った。その一輪ざしは青竹の筒のイメージがある形や模様をしている。これは男がそれを意図して作った物ではないが、削り方や釉薬のかけ方で結果的にできたものである。男が見てもなかなか良い出来映えであると思うほどの物である。
今夜の懇親会は幹事役の方がチェアーマネージャーとして参加者の名前を書いた札を置き座席指定していた。男よりも年長の方が男の前の席であった。その方が備前焼の初級、中級コースの話をしてくれた。彼はその教室に入って初めて陶芸の楽しさが判ったと言っていた。男は今度またその備前焼の教室があれば是非参加したいと思っている。
自分が作った物を売る機会があるということとか、備前焼の教室とか、陶芸をする楽しみが増えた。今日、男は電動ロクロでお惣菜入れを三つ作った。それも予め重さを測って、一個づつ直接電動ロクロの上に載せて作った。三個目のときは時間もあまりかけずに良い物ができた。男はお惣菜入ればかり作り続けるつもりである。

2009年11月24日火曜日

100歳のお方からの贈り物(20091124)

 男の家に毎年この時期になると大箱に何段も詰めたリンゴが送られてくる。信州リンゴである。送り主はもうすぐ101歳になられるお方で、東洋医学の権威である。ご自分の孫のようなご婦人などの体の不調を診てやっている。そのお方は奥様も診てあげていて、奥様もご高齢であるがお元気である。

 ある日男と男は女房と二人でそのお方のご自宅を訪れたことがある。都内の清閑な住宅街の一角にそのお方は住んでおられる。訪問の目的は、そのお方に男と女房の戒名を授けて頂こうと手紙を書いたら、一度奥さんと一緒に遊びに来るようにと言われたからである。そのお方は僧侶でもあるので、求める人に戒名を授けることができるのである。

 そのお方からの年賀状には男の名前と「ご令室様」と達者な筆字で宛名が併記されている。勿論男もそのお方に精一杯丁寧な字で書いた年賀状を差し上げているし、盆・暮れの贈り物もしている。そのお方は静岡に本拠があるお方であるので、男の家にも毎年新茶を届けて下さっている。男は72歳になっているとはいえ、そのお方から見ればまだまだ青二才である。しかし、男はそのお方と親しいお付き合いをさせて頂いている。

 そのお方は男の父親と生まれ年が同じである。男はそのお方に、男の父親が男が42歳のとき白血病で死んだことを話したことがあった。男の長男はもう45歳になっていて、彼の祖父、つまり男の父親が死んだときの男の齢を超えている。男はそのお方のように長生きはしないだろうと思っている。しかしすでに男の父親が死んだ齢を超えている。

 男がそのお方と同じ齢になるにはあと29年生きなければならない。そのお方は東洋医学の権威であるので100歳を超えてもまだ矍鑠として病む人の治療にあたっておられる。かつ僧侶としてもご活躍しておられる。男にはそのような才能もないので人々の幸せのため何かしたいとは思っているが、何もできずにいる。また何か人のためボランティア活動でもして社会的諸関係を新たに作ろうという気持ちもない。何故なら社会的諸関係を作れば、そのために自分の自由な時間が制限されることになるからである。

 しかし希望はある。夢窓疎石ではないが、「一日の学問 千載の宝」である。古の、また今の仏教徒が仏教の学問をしているように、仏教について学ぶことは楽しみである。それも気が向く時に、あるいは何かのきっかけで関係の書物を手にしたり、得た知識を文にまとめたりする楽しみである。自己満足である。しかしそれで満ち足りる。今さら仏門に入ることはできないし、入る気もない。いつも長年連れ添った女房に感謝し、女房を愛し、日々の暮らしで女房に幸せを感じて貰えるように努力し、何かあったとしても菊池寛の『恩讐の彼方に』ではないが「償いの奉仕行」のつもりで行うことに心がけている。そのようなことが実際にできていることを先祖の霊に感謝している。

 そのお方にも天寿を全うされる時期は訪れる。そのとき男はまだ生きているかどうかわからない。女房は「私は何も思い残すことはないからいつ死んでもよい」という。男は「お前は俺より先に逝ってはならない」と言っている。しかし仏は男と女房に方便をもって何か教えることがあるかもしれない。例えば入院しなければならない病気になるとか、何が‘方便’として起きるか判らない。生きている限り四苦八苦はつきまとう。それが人生なのだ。女房はNHKテレビスペシャル番組『立花隆がんの謎に挑む』を観ている。今はともかく何事もない平穏無事な時が流れている。合掌。

2009年11月23日月曜日

縄文人、渡来系弥生人、日本人(20091123)

 ある人のブログに日本人は次の9人の母親が全日本人の約95%の祖先であるとし、それぞれのパーセンテイジを示して解説してあった。男が別の資料で調べたところによると、先ずアフリカ東北部(現在のエチオピア、ソマリヤ辺り)から出発した人々がインド北部を経、東南アジアを経、シベリヤを経て朝鮮半島及び樺太から北海道に入ってきている。彼らはC3系統と呼ばれる人々である。一方この系統は東日本や九州で亜型(C1)となる。彼らは旧石器時代晩期から新石器時代早期の人々である。

 次に同じアフリカ東北部から出発した人々は現在のタイ辺り経て中国東部(黄河流域)で枝別れして一部は中国西部(チベット方面)に移動した。彼らはD1及びD3系統と呼ばれる人々である。もう一部は朝鮮半島を経て日本列島にやってきて列島全域に広がった。彼らはD2系統と呼ばれる人々である。彼らは新石器時代晩期の人々である。彼らは縄文人である。アイヌ人はこの系統の人々である。しかし純粋ではなく他の要素も混じっているということである。

 次に同じアフリカ東北部に故郷を持つ一派が中国南部(長江流域)で枝分かれし、その一部は北上しもう一部は中国東部(黄河流域)に移動した。北上した集団はO3系統と呼ばれる人々である。中国東部(黄河流域)に移動した人々は、その流域で北方から移動してきた同じ祖先の人々、すなわちO3系統と呼ばれる人々と混血した。この混血した人々はO2系統と呼ばれる人々である。このO2系統と呼ばれる人々は朝鮮半島経由で亜型(O2b)として日本列島にやってきた。彼らは弥生時代の人々である。彼らは金属器と稲作をこの日本列島にもたらしたいわゆる渡来系弥生人と呼ばれる人々である。

 O2系統と呼ばれる人々は一部が南下し東南アジアで亜型(O1)となり、その一部が日本列島にやってきている。不思議なことに日本列島にはチベット人と同じD1系統の人々も僅かながらいる。そのほか北方のO3系統及び黄河流域のO2系統の人々もいる。アイヌ人にはO3系統が13%混じっているということである。

 われわれ日本人は北方及び朝鮮半島経由、黄河流域及び長江流域から直接渡航、南方から漂着または島伝いの人々、縄文人、渡来系弥生人、それらが何千年という長い年月の間に混血して出来あがった人種である。北方系の人々の中にはヨーロッパに故郷がある人々の血も混じっていた人々もいたらしい。

 長い歴史の中で天皇の存在は大きものがある。他国に類をみない特殊なものがある。反体制的な主張をする人々の中には、日本人が混血人種なのもともと国境もなかったのだ、国境とか国家とかいう固定的な観念は支配者による押しつけだ、と言う人たちがいる。

 アフリカなどからの移民者が500万人もいるフランスや永住外国人が多いドイツなどの例をあげ、「参政権を外国人に与えないというのは狭量すぎる。日本人はもっと度量を大きくもつべきである」と言う人が居る。ボジョレヌーボー解禁にあたり日本のワイン消費量は世界ランクで下のほうだ、第10位にアジアの国では中国が入っている、とマスコミはフランスかぶれを煽っている。

 テレビ番組を観ていて男は「日本人は日本人である。特殊で良い!」と怒った。女房は「日本には日本酒とか焼酎とか独自の美味しい飲み物がある」と、男の怒りに同調してくれた。明治の偉い人たちは巧みに外国語を操ることができたが、その心は侍の心。和魂洋才であった。今の偉い人たちはどうか。腑抜けの日本人が多い!

2009年11月22日日曜日

久しぶりの良い天気(20091122)

 このところ天候が悪く気温も低い日が続いていたが、今日は予報通り久しぶりのお天気で気温は17℃、快晴である。男と女房は今日久しぶりに東京都内の散策に出かけた。東横線で渋谷に出て、山手線で代々木まで行き、大江戸線で青山1丁目で降り、絵画館前の銀杏並木を観た。まだ完全に黄色づいてはいなかったがまあまあ綺麗であった。近くに料亭風の一見豪華そうな店があり、前で和服姿の若い女性が二人客を呼び込んでいる。男と女房はその店で昼食をとることにして中に入った。すると別の女性が丁重に招き入れ、個室風部屋のドアを開き、「ご相席でお願いします」と言う。中に4人がけでゆったり座れる大きめのテーブルとイスが2組並べてあり、その一組の奥に中年の女性が二人座っている。男と女房はあまり深く考えず、素直に彼女たちの前の席に座った。すると間もなく3人組の家族らしい人たちが案内されてきて、隣の席に座った。

 メニューは少なく前の女性二人は値段が最も高いセットメニューを取った。見るとあまり美味そうには見えない。男と女房は天麩羅のセットを注文した。暫くして女性が笑顔を作って注文したものを持って来た。天麩羅の色は使い古しの油を使っていることがすぐ判る色で、揚げ方も油の温度を低めにしているのかパリッとせず良くない。ご飯も美味くない。

 男と女房はこのような店にはもう金輪際入らないことにした。外見は高級風、客の扱いも高級料亭風、しかし中身は経費をぎりぎりに削って値段相応というものである。同じ値段なら横浜で男と女房が良く利用する店の方が数段上である。テーブルも二人掛けで、和風で落ち着く雰囲気である。和服の女性店員も心遣い気づかいがなかなか良い。それに比べ今日入った店では食事が終わる頃にお茶も持って来ない。客から言わなければ何のサービスもしない。ただ訓練されたとおり笑顔だけは作っている。男は経営者の資質如何により店が繁盛するかしないか決まると思う。もう二度とこの店には来ないし、この店を誰にも勧めないことにした。良い勉強になったと思う。

 男は家で女房と一緒に食べるご飯や天麩羅が世界で一番美味しいと思う。何故なら男の家では田舎から美味しい新鮮な米を送ってきてくれているのでご飯の味はとても美味しい、特にプラチナを使用している高圧高熱電気釜で炊くので一層美味しいからである。天麩羅もいつも新しい油で揚げるので格別美味しい。昨日の夕食はその美味しい新鮮な米を炊いた寿司のご飯をパリッとした海苔の上に載せて広げ、その上に美味しい新鮮な刺身を載せて巻く手巻き寿司だった。

 男はいつも思うが女房の寿司の味の合わせ方は実に上手である。女房が行きつけの店から買ってきた上等のあさりで作った貝汁が添えてあり、自宅で豪華な夕食であった。子たちが来た時は手巻き寿司や、テーブルの上に電気天麩羅器を置き、各自勝手に天麩羅を揚げながら食べる天麩羅の食事が好評である。

 勉強になった昼食後六本木に行き、FUJIFILM SQUARE に行ってイングリッシュガーデンの写真展、「いい夫婦の写真展」「夫婦万歳、半世紀を共に生きて」写真展、「ひかりの大地」写真展などを観て、薔薇の写真のカレンダーを買い、清澄公園まで足を伸ばし、そこで美味しいケーキとコーヒーセットを取って一休みし、その後ライトアップするまでその園内で過ごして帰宅した。帰りは汐留で降り、歩いて新橋まで行き、東海道線で帰った。総歩数15000歩。まあまあ良く歩いた。明日は日中の気温が10℃という。インフルエンザもタミフル耐性のウイルスや突然変異のウイルスが発生したらしい。用心しなくては。

2009年11月21日土曜日

デフレ(20091121)

 男の家では朝NHKの連続テレビ小説が始まるとチャンネルを民放に切り替える。今朝は激安ランチや激安ラーメンのことをタレントたちが話題にしていた。リポーターが激安ランチや激安ラーメンなどの店に行き取材しながら味を試していた。

 激安ランチのメニューは海鮮どんぶりである。マグロの刺身がご飯の上に乗っている。味噌汁も付いていて見たところ一食800円で売ってもよいような値段である。たまごご飯の店も紹介していた。値段は聞きもらしたが極端に安値であった。それはご飯に味噌汁に生卵と海苔が付いている。熱いご飯の上に落とした生卵は新鮮な如何にも栄養がありそうなものである。早朝の出勤のため家で朝食を時間がないサラリーマンなどに大人気である。一方激安ラーメンは100円でもう何十年もその値段で営業しえいるらしいが、チャーシューも海苔もメンマもちゃんと入っている。店の主人は「儲けは無い」と言う。

 一食290円のランチは利益が一食あたり30円しか利益が出ないらしい。それはそうだろう。従業員たちは一生懸命働いているが給料を十分貰っている筈がない。顧客を獲得するため過当競争を強いられているのだ。女房は「私なんか気の毒でそんな店では食べられないわ。安いからお客さんが沢山くるのだ。」と言う。

 タレントたちはただ感心してあれこれ評論しているが、誰一人として「これでいいのだろうか」ということさえ発言しない。安くておいしければ良いと、単純に考えているだけのようである。「安く食べられていいじゃないね」と呑気なことを言っている。男は視聴率が悪くは無いと思うそのテレビ番組のディレクターの頭の中を疑う。国の経済が大変な状況になりつつあるという認識はないからジャーナリズムの一翼を担っているという責任感もないのだと憤りを覚える。

 流石に菅国家戦略局担当大臣はデフレになりつつあることに危機感を抱いている。民主党は国民の消費活動を活発にする方策で経済を活発にするとし、旧政権の「企業活動を活発にすることにより経済を活性化する」という方策は弱肉強食だと批判してきた。男は、旧政権は民主党が言うように企業重視だけではなく一般国民の消費活動も活発にする政策を実行していたと思う。新政権もエコ家電やエコカーの推進を継続することにしたと発表した。高速道路の通行料を週末休日1000円にすることも続けるつもりである。

 何事も行き過ぎは良くない。男は鳩山氏が内閣総理大臣に指名されることになったとき、いよいよ自分たちの永年の夢がかなうと身震いするような思いであったというようなことを言ったことを鮮明に記憶している。民主党の諸君は平成維新という言葉で明治維新以来の体制をぶち壊す意気込みであった。男と女房は外交・安全保障の考え方が一致する自民党に票を入れたが、多くの国民は「自民党にお灸をすえる」ぐらいの軽い気持ちで民主党に票を入れた。その結果、民主党は投票総数の40%台の獲得であったにもかかわらず予想外に多くの新人候補者が当選させ、衆議院で圧倒的多数を占めた。その結果、議員の中には驕った気持ちで政治活動を行う連中もちらほら出るようになった。

 昨夜の衆議院での強行採決を男は残念に思う。政権交代は増大し極限に達した矛盾を解消しようとする運動のうねりがもたらしたものである。今また新たな矛盾が膨らみつつある。民主党に対する国民の支持も次第に下がって行くであろう。「驕れるものは久しからず」である。(関連記事:「国を憂える・・(20091102)」)

2009年11月20日金曜日

女房の血圧(20091120)

 女房の血圧は中血圧である。上は145位、下は90位である。勿論それより低い時もある。今日の夕方は殆ど平常であった。10年前はそのようなことはなかった。降圧剤を使うと薬の種類によって血圧は幾分下がったり平常になったりする。近所の内科クリニックでトーワラートCR錠20mgという薬を1週間分処方されて試したら確かに血圧は下がったが薬の副作用で脈拍が10%位上がり80ぐらいになった。その薬が切れて以前のイベルタン100mgにしたらもとに戻った。内科クリニックの先生によればトーワラートCR錠20mgで多少脈拍が上がっても心配ないとのことである。

 血圧は塩の摂取量と関係がある人と全く関係がない人とがいるということである。女房の場合先日区の保健所で健康相談のサービスがあったとき保健師さんから「食生活は全く問題ないですね。家族に血圧の高い人がいませんか?」と聞かれた由。女房の母親も血圧が高く降圧剤を常用している。しかし塩分の摂取にはあまり気を使っていない。塩分を気にするよりももういつか死ぬかわらない齢なので美味しく食べた方が良いという主義である。女房はもともと少しでも塩分が多いと感じる食べ物は好まない。男は、女房は塩分の取り過ぎに気を使いすぎる傾向があると思うが、あまり気にしない方がよいと思っている。

 自分の血圧が塩分の摂取量と関係があるかかいかを確かめる方法は実験的に行うことしかないらしい。そこで2、3日塩分を大目に取り続けて血圧を測り、塩分を控えたときと比べるのである。女房は何年か前の健康診断で血管の老化程度を測ってもらったとき所見に「90歳の血管です」とあってかなりショックを受けたことがあったが、それ以来女房は自分の血管の老化のことを気にして食物の内容に気を使うようになったようである。血管の老化度は一回きりの測定では確かなものではなく、また食習慣と有酸素運動で改善されるようであるので、男は女房の血管の老化の程度が「90歳と同じ」といっても、あまり深刻には考えていない。しかしそのことがいつも気になっている。

 昨日ウオーキングの折に書店で主婦の友から出ている『高血圧をぐんぐん下げる大百科』という本を買った。それには「高血圧を下げる5大特効食材」という項があり、りんご、かぼちゃ、わかめ、酢、ごまの5種類の食材がその特効食材であると書いてある。男の家では今後この五つの食材をメインにした料理が増えることになるだろう。

 健康維持増進に関する知識がありすぎても良くない。しかし無知はいけない。何事もほどほどの中庸が最も良い。健康の維持増進の方法について良く勉強し、知識を身につけるとともに、その実践においては中庸を旨とし、極端に走らないようにすることが肝要である。このような考え方や態度は何事においても共通することであると思う。

 しかし人生において時にこの中庸を敢えて外れ、気を奮い立たせて物事に当たらなければならないことも少なくない。むしろどちらかと言えば多い。しかしそのようにして頑張った後はゆっくり休養をとることが重要である。さもないと無為に寿命を縮めることになる。

 ところで政府は健康増進のためたばこ税を値上げすることを検討している。税収が少ないための対策の一つである。たばこ税を値上げするとたばこ離れが一層進み、かえって税収が減ることが懸念されている。たばこは嗜好品である。たばこの値段の6割は税金である。たばこが好きで止められないのは中毒のようなものである。たばこの産業で収入を得ている人も多い。たばこの増税にあたってはその辺のところの決め方が難しいところである。

2009年11月19日木曜日

家事整理(20091119)

 平安時代皇族や貴族の家には家政機関があり、そこには今の官僚、当時の官人たちが勤務していた。勿論一般庶民の家ではそのようなものは現在も同じように無い。一般的には妻が自分の家の家政的部分を多く受け持っている。しかし、現代社会のように夫婦共働きをしなければやって行けない人たちが多くなってくると、夫も妻と同様に自分の家の家政的部分を受け持たざるを得ない状況になる。

 男の家では二人暮らしであり男も今は外で仕事をしていないので、家政的部分を多く分担している。その一つに家事整理がある。男は今日押入れの中を整理し、不要なものを全部処分する作業をした。保存してあった書類も保存の必要がないものを全部破棄した。

 男の女房は家事が大好き、綺麗好きである。家事はやればやるほど切りがないぐらい仕事がある。例えば壁紙が汚れてきたら、スポンジに洗剤をつけてふき取る。フローリングの床の光沢がなくなってきたらワックスをかけて光らせる。観賞用の鉢植えの花の手入れをする。熱帯魚や金魚の水槽の水を換える。天気が良ければ毎日でも寝具を外に干す。などなど結構仕事は多い。不精な人なら放置しておくようなことをこまめにする。だから男の家の中はいつも整頓されていて綺麗である。悪臭の元は全部断つようにしている。その上アロマオイルを3、4滴垂らした水を撹拌して霧状に噴射するものを作動させるので室内に良い香りが漂う。その装置はLEDでライトの色が変化し幻想的である。

 昔、貴族の家では貴族たちは家事に時間を費やす必要はなかった。食事は家政機関の女官たちが作ってくれるし、家の手入れもその職務を担う官人たちがやってくれる。紫式部や和泉式部など諸大夫クラスの家では公的な家政機関がなかったが個人的に雇った男や女がそれなりの規模で請け負っていた。従って彼女たちは文学の世界で思う存分才能を発揮することができた。現在はお手伝いさんという名称で呼ばれるが、戦前まではちょっとした家には女中がいた。一般的にいうと外に向かって大きな仕事をすることができる人は家族を持たず仕事一筋に打ち込んでいる人か、家族が居る場合は家の中に心を許す住み込みの家人がいる人である。サポートする人がいなければ大きな仕事はできない。

 夫の稼ぎが十分あり妻は専業主婦で家事・育児に専念できる人は、才能があればその才能を十分発揮することができる筈である。ところが近年女性の地位向上に伴い、外で神経をすり減らしながら働く夫を支えようという妻は少なくなったのではないかと男は思う。
男の女房は夫である男に本当に良く心身を捧げ尽くしてくれた。女房が心を許して親しく付き合っている友だちが女房に言ったことがあったそうである。「あなたは○家にこれまでよく尽くしてきた」と。そして男に「専業主婦の働きは給料に換算すると30万円ぐらいになるそうよ」と付け加えた。男の収入から女房に月30万円も払って行ったら家計は成り立たなくなる。しかし、男は自分の女房が千金いや万金の価値があると思っている。女房にそう言ったら女房は「普通の女なら誰でもそうする」と言うが、それは女房の謙遜で、男は自分の女房のように価値がある女は世界中どこを探してもいないと思っている。

 価値と言うものは磨きあげて行かなければ出てこないものである。それも夫と妻がお互い響き合いながら磨き合って行かなければ出てこないものである。しかし元々そのような価値が出る素材でなければならない。男は24歳のときそのような素晴らしい価値を手に入れることができたことについて、毎日いつも先祖の霊に深く感謝しているところである。



2009年11月18日水曜日

陶芸道楽(20091118)

今日は気温が10℃ほどで午後は気温が低くなるという予報であった。男は、今日は陶芸をする日である。貸室1回500円は安い。しかも電動ロクロを専用で使うことができて陶芸用の道具も一式貸し出してくれる。今日は4週間前に作った大きめの長方形の平皿に蚊帳を置いて白化粧するつもりであったが乾きすぎていたのでそのまま素焼きに出した。先週削ったお惣菜入れは電動ロクロで作ったものであったが初め切り取るとき底が厚すぎたため、まだ底の部分を削る必要があった。しかし既に高台を作ってあったので今日は内側の底の部分を削ることにし、厚みを見ながら適当に削って軽くなるようにした。
男は元々きちんとした形のものは嫌いである。だから電動ロクロで作ってもわざわざ自分が好きな形に曲げる。男は貸室でお惣菜入ればかり作るつもりである。電動ロクロで作ることもまだよく出来ないが「習うより慣れろ」である。そのうち上手くなるだろう。
貸室の良いところは先生が付いていないので何もかも自分で考えながら作らなければならないが、良く作ろうとして良く考え、良く工夫することである。先生に頼らないので失敗もするが、独創的につくることが出来る。今日は先週削ったものでそのときすでに乾きすぎていたものを何とかしようと思ったが、思いきって破壊した。
貸室の電動ロクロの数などの関係で曜日毎午前午後の人数は制限がある。男はその関係でこれまでやむなくX曜日の午前のグループに入っていた。しかし午前の貸室は男にとってきつい。その陶芸貸室の場所まで男の家から1時間半以上かかるので家を早く出なければならない。70歳以上の老人は年間一定額のお金を払い込むと地下鉄もバスも自由に利用できるパスを貰える。男はその恩恵を最大限利用している。その代わり目的地に行くまでJRや私鉄を利用する場合よりも時間がかかる。1時間半かかるところもJRや私鉄を利用すれば1時間ですむ。男はたまにJRや私鉄を利用することがあるが別に急ぐ必要もないし、道中本を読むこともできるのでできるだけそのパスを利用することにしている。
幸い午後の貸室に空きが出たので、男は午後のグループに入ることにした。これだと朝早く家をでる必要はない。ゆっくり支度して11時半ごろ家を出れば良い。男は以前先生が付く自由に制作できるコースに入っていた。同じX曜日の午後のクラスである。しかし、キャンセルしてもしなくても毎月一定額の利用料を払わなければならない。しかも先生が付くので利用料は高くなる。男は九州の田舎に時々帰ることがあるので一定額を払い込んでいても休むことが度々あった。そこで貸室の利用に変更したのである。
先週その自由コースのメンバーから懇親会の誘いがあった。男は二の返事OKした。そのことは既に事務所の人にも自由コースの人たちにも伝わっていて、その人たちから男が懇親会に参加することを「楽しみにしています」と言われた。懇親会は、まだ早いが忘年会も兼ねるものである。男は貸室を利用していても、2年近くメンバーであった自由コースの人たちとは仲良くしていたいと思っている。彼らは陶芸のことでは男より何年以上も先輩である。しかし皆男が初め一輪ざしばかり作り、今はお惣菜入ればかり作っているということを面白がっていると思う。今日素焼きに出したお惣菜入れは素焼きが上がって釉薬をかけて本焼に出し、よく仕上がれば男が主宰している詩吟の会に時々きてくれるKさんにプレゼントしたいと思っている。 

2009年11月17日火曜日




卑弥呼と神功皇后(その2)(20091117)

纏向遺跡と耶馬台国(その3)((20091115)で書いたように、卑弥呼の時代と神功皇后の時代とは時期が重なっている。このことについて『日本書紀』の編纂者は中国の史書を読んで引用したり参考にしたりしているから卑弥呼は神功皇后と同一人物としているという人もいる。先に引用した『日本列島の大王たち』を書いた古田武彦は、『日本書紀』の編纂者は九州王朝の史書を盗用し、近畿天皇家(大和盆地の天皇家)にもともと存在していなかった神功皇后を『日本書紀』の中にはめ込んだと言っている。彼は肝心の邪馬台国は九州の博多湾岸であると言っている。
『古事記』は天皇家のための私的な歴史物語である。これらは天武天皇(673227- 68699日)が編纂を命じ、712年に完成している。編纂にあたって天武天皇の意図が働いたと考えられている。男はその一つは「天皇」号であると考える。「天皇」号は神武天皇の時代にあったわけではないのに『古事記』には見出しとして書かれている。これは天皇家の皇統を分かりやすくするためであったと思う。また大和盆地の王家が日本の支配者であることを明確にするため、神武天皇の本家である九州の王朝の倭国が391年又は311年以降百済と組んで新羅に侵寇したことは敢えてカットしたのではないかと思う。
『古事記』で神功皇后と書いている息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)は仲哀天皇の‘現地妻’である。仲哀天皇薨去後お腹に子供(後の応神天皇)が出来ていたが新羅の征討に出かけたが戦うことなく戻って来て宇美(うみ)(福岡県粕屋郡)で御子を産み、末羅縣(まつらのあがた)の玉野里(佐賀県東松浦郡玉島川)に至っている。神功皇后の母方の祖先は新羅の国主である関係で戦う必要はなかったのだ。
その後大和盆地に行ったのであろう。『古事記』には、夫・仲哀天皇は「壬戌の年の六月十一日に崩りましき。御陵は河内(大阪府南河内郡)の惠賀の長江にあり。皇后は御年一百歳にして崩りましき。狭城の楯列の陵(奈良県生駒郡)に葬りまつりき。」とある。
男は、神功皇后がオキナガタラシヒメノミコトという名前であったことから、ヒメノミコトから‘メノ’と‘ト’を取るとヒミコとなるので、神功皇后こそ卑弥呼ではないか、そしてヤマト王権が確立するまでの間、各地の王との争いがあったであろうから、邪馬台国は大和盆地にあり、纏向遺跡群はそれを示すのではないかと思う。
歴史学者たちは一度主張して広く認められた学説をなかなか曲げることはしないだろう。男は九州王朝など古代の各地の王朝は大和盆地の天皇家との間で長い間抗争があり、最終的には継体天皇の御代、九州の岩井の乱平定(527年)でその抗争は終わったのだと思う。古代中国や高句麗で‘倭’と呼ばれた国の中心は北九州にあり、その倭は朝鮮半島の南部地域を領有していたのだ。日本には朝鮮半島から非常に多くの各種技能者たちが渡来してきてわが日本国の発展に貢献してくれたのだ。そのお陰で推古天皇の御代にはわが日本国は当時の隋の皇帝に肩を並べるようなもの言いをし、その後唐の官制に負けないくらいの国家制度を確立して唐と対等な立場を示す一方で、唐や朝鮮半島の文化をどん欲なまでに吸収していたのだ。渡来人たちは皆日本人になったのだ。山上憶良もその一人なのだ。
その日本国の中心にあったのは神武天皇に始まる天皇家である。先日今上陛下ご在位20年のお祝いが皇居前で行われたとき、3万人を超える人々が集まり、皆提灯をかざしてお祝いし、何度も万歳三唱した。男はその時日本人の心は一つになったと感じたものである。(終)

2009年11月16日月曜日



卑弥呼と神功皇后(その1)(20091116)

 これまで「日本人の起源とヤマト王権」と題して、その1(20091107)、その2(20091109)、その3(20091110)、その4(20091111)及びその5(20091112)まで5回、また「纏向遺跡と耶馬台国」と題して、その1(20091113)、その2(20091114)及びその3(20091115)まで3回、男は「自分はどこから来て何処に行くのか」知りたくて、探究してきた。

 ここで一つの疑問がわいてきた。それは中国と北朝鮮の国境の鴨緑江北岸にある遺跡「好太王(広開土王)碑」の記述である。これまでもたびたび引用した『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)によれば、この碑は高句麗の好太王(広開土王)が没した2年後の甲寅年(414年)に建造されたとのことである。古田武彦はその本の中で碑文全文の口語訳を示している。それによれば、高句麗の始祖(在位は紀元前37 - 20年)のことから五代の王までのこと、その五代目から17代経た子孫の好太王(広開土王)の事跡のことが長々と書かれている。以下、関係部分の要点をまとめる。

 好太王(広開土王)は18歳で王位に登り永楽太王と呼ばれ、39歳で没している。その王の屍は甲寅年(414年)九月二十九日の乙酉に山稜に葬った。ここにおいて銘文を刻んだ石碑を立て太王の勲跡を銘記し後世に示すことにした。以下永楽五年(395年)から永楽二十年(410年)までのこと、それ以降のことが刻まれている。倭が辛卯年(391年あるいは311)に(百済・新羅の地)にやってきた。以降倭に関わることが碑文に刻まれている。

 一方、古田武彦は中国の『三国史記高句麗本紀』を引用し、新羅の奈勿王(在位356 - 401年)の治世に新羅は倭人の度重なる侵寇に悩まされていたことを示している。古田武彦は好太王の即位直前においてすでに「高句麗―新羅」対「百済―倭」の対立関係があったということを史料をもとに論じ、その倭は北九州遠賀川周辺に本拠を置く大王の倭であって近畿天皇家の倭ではない、46世紀の倭国は卑弥呼以来の倭国であったことは疑えない、『日本書紀』のその当時の部分は造作である、としている。

 その造作とする根拠は、『日本書紀』の神功紀には百済系三史料『百済紀』『百済本紀』『百済新撰』の中の『百済紀』の古い部分が挿入されているからである。確かに『日本書紀』の神功紀』を良く読んでみると古田武彦が言うとおりである。邪馬台国の卑弥呼女王の時代と神功皇后の時代を同じ時期にしている。しかも好太王(広開土王)に書かれている倭軍が新羅に侵寇した時期は、『日本書紀』の神功紀に書かれた神功皇后が新羅に攻め込んだと『日本書紀』に書かれている時期より150年ばかり後である。

 男は、北九州には大和盆地にいた天皇家とは別に強大な王国が存在していたと思う。その王国は継体天皇の御代、岩井の乱をもって完全に消滅したが391年または399年以降百数十年にわたり倭として朝鮮半島に領地を有していたが、岩井の乱(527年)以降は大和盆地の天皇が支配することになったのだと思う。その朝鮮半島の権益も663年の白村江の戦いで完全に失われてしまったが・・・。

 『古事記』には仲哀天皇と神功皇后を除いて他の天皇は大和盆地にあった宮(天皇によって奈良盆地内の宮の場所は異なる)で天下を治めたと書いてある。邪馬台国は大和盆地に展開した神武天皇の子孫の王家が築いた国であったのだ。だから現在奈良県の纏向遺跡が邪馬台国の遺跡ではないかと騒がれているのだ。男と女房は2年前大和盆地(飛鳥、奈良)に旅したが、また行ってみたいと思う。(続く)

2009年11月15日日曜日



纏向遺跡と耶馬台国(その3)((20091115)

『古事記』によれば大帶日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコワケノミコト)(後の景行天皇、71711- 130117日)は今の奈良県磯城郡の旧纏向村にあった日代宮(ひしろのみや)に坐して天下を治めていた。纏向村という村名は『古事記』に書かれている‘纏向’という名称に由来する。最近話題になっている奈良県桜井市の纏向遺跡は、その村名を冠してその地域に数多く存在する遺跡群を総称している。その一つの纏向箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないかと騒がれている。
57年に倭の奴国が中国の後漢の光武帝に朝貢使を送り「漢委奴国王印」を贈られている。23912月(陰暦であろう)に「親魏倭王卑弥呼に制詔す。(後略)」という詔書を下されている。倭国からの朝貢においては‘生口’(これは戦争で捕虜となった人々で労働に使役された)を多数献上している。これらのことは『後漢書東夷伝』や『魏書東夷伝倭人条』に書かれている。男は、古代は‘生口’‘殉葬’などあり人権無視も甚だしかったと思う。
この奴国や耶馬台国があった時期は、後に垂仁天皇と漢風諡号された伊玖米入日子伊沙知命(ミマキイリヒコイサチノミコト)(紀元前2912- 70714日)から後に応神天皇と漢風諡号された品陀和気命(ホムダワケノミコト)(27011- 310215日)までで、卑弥呼の時期は神功皇后(息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト))(170 -26963日)に相当する。
『古事記』には、タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)とオキナガタラシヒメノミコト(後の神功皇后)との間に出来た御子の一人・品陀和氣命(ホムダワケノミコト)は長じて応神天皇(13115- 190611日)となり、輕島(かるしま)(奈良県の高市郡)の明宮(あきらのみや)に坐して天下を治めた、と書かれている。
‘卑弥呼’(‘弥’と言う字はフォントがないのでこの字にした)が男は神功皇后が女王卑弥呼であるのかどうか、神功皇后の時代、大和盆地には‘卑弥呼’の‘ミコ’と名が付された独身の女王がいたのであろうか、北九州に耶馬台国があったのだろうか、佐賀県の吉野ケ里遺跡は北九州の王国とどんな関係があったのだろうか等いろいろ疑問が湧いてきた。考古学や遺伝学は日本の古代の歴史を明らかにしてくれることだろう。
男は、北九州の王国は、後に大和盆地の天皇家により滅ぼされたのではないかと考える。『古事記』には、品太王(ホムダノミコト)の五世(いつつぎ)の孫(みこ)のを本杼命(ヲホドノミコト)(後の継体天皇)(50724- 53127日)の御代、527年に「竺紫(ちくしの)君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして・・(中略)・・・石井(いはい)をころしたまひき。」とある。実行は物部、大伴の二人と書かれている。
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』『旧唐書倭国日本伝・宋史日本伝・元史日本伝』(いずれも和田清/石原道博編訳、岩波文庫)を読むと、古代の日本と中国の関係、日本の風俗習慣、中国の皇帝への貢物に労働に使役させる同じ日本人の何百人という戦争捕虜も入っていること、奴婢という奴隷のように扱われていた同じ日本人が卑弥呼の死のとき生きたまま葬られたことなど、当時の状況が手に取るように分かる。
人間は残虐・無慈悲なことを徐々に無くすように努力してきている。しかし平和・友愛の希求だけでは生き残れない。牙を隠し、牙を出す者(団体、群、国)が存在している現実への対処が重要である。侍のように滅多に抜かないがどうしても斬らなければならないときのため、いつも腰に氷刀を差していなければならないのだ。
NHKの世論調査では、女性天皇支持者が7割を超え、その中で女系天皇支持者が8割を超えたという。男は、世の男たちが女性化してきている現状を嘆く。女性天皇は何人かいたが、女系ということは日本の歴史の中で一度もなかった。
人類の歴史の中で女性にしか伝わらないというミトコンドリアの遺伝子を調べて、人類は20万年前一人の母親から始まったという。Y染色体は男にしか伝わらないので女性天皇になるということは、もし愛子様が将来天皇になれば、愛子様には美智子皇后の遺伝子が伝えられ、その時点で神武天皇以来の皇統は途絶えることになる。日本人が日本中の家々の宗家として敬愛する天皇家の内容が変わって来る。日本人が世界に誇ることができるものが失われることになる。本当にそれでよいのであろうか?
昨夜(13日夜)皇居前広場で天皇在位20年が盛大に祝われた。3万人を超える人々が提灯を振って天皇を祝った。女房は「天気予報は雨だったのに ‘天皇晴れ’になった。不思議ね。」と言っていた。男は崩御された昭和天皇の葬式時、雨が降っていたことを思い出した。
皇居前広場に設けられたステージの上で、EXILEが男らしい姿で踊り、歌った。天皇が「ありがとう」と二重橋の上からお言葉をかけられた。この祝賀行事に鳩山総理も出席し、国民を代表してお祝いの言葉を述べた。読売巨人軍の原辰徳監督や女優の森光子さんもそれぞれお祝いの思いを述べた。「天皇陛下万歳!」という掛け声が鳩山現総理大臣、森元総理大臣などから上がった。会場に入れず近くの公園で大写しのテレビ画面をみていた人たちも皆国家「君が代」を合唱していた。男はテレビを観ていて感動した。しかしこのような光景は今上天皇の代で終わりになってしまうのかもしれないと不安が頭をよぎった。
長い日本の歴史の中で推古朝(592128- 62837日)以降各地の王は天皇に服従し日本の国体が定まった。しかし天皇が自ら政治を行っていた時代は短い。平安末期以降天皇は将軍たちに位を授け、権威を与えるだけの立場になった。明治憲法下天皇は軍を統帥したが、それは形の上だけであった。しかし昭和天皇は、憲法上のお立場から自ら戦争責任を取ろうとされた。戦勝国アメリカはそれだけは避けるように工作した。
男は神武天皇の故郷・宮崎(宮の前)を旅し、これまで8回にわたり「自分はどこからきたのか」というテーマで心の旅をしてきた。いろいろ調べていろいろなことが分かった。時間と余裕があるからできた旅である。そのことを女房には感謝しなければならない。
女性天皇のことといい、外国人参政権のことといい、左翼的思想の国会議員が多い民主党政権に対して男はこの長い歴史ある日本国を間違った方向に導くことが決してないようにして頂きたいと切に願っている。(この項終わり)

2009年11月14日土曜日

纏向遺跡と耶馬台国(その2)(20091114)

 男は『日本列島の大王たち』(古田武彦著、朝日文庫)に書かれていることに大変興味を持っている。神功皇后の朝鮮半島への進出については古田武彦が言うように畿内の天皇家が行ったのではなく、畿内の天皇家と血が繋がっている九州の大王が行ったのであると思う。
 
 『古事記』によれば、大帶日子淤斯呂和気命(オホタラシヒコワケノミコト)(後の景行天皇、71711- 130117日)の御子の一人に小碓命(オウスノミコト)(後の倭建命ヤマトタケルノミコト)(日本武尊)がいる。このヤマトタケルノミコトの御子の一人に後の仲哀天皇と漢風諡号され帶中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)がいる。
このタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)(192111- 20026日)は穴門(今の下関市長府)及び筑紫(今の福岡市香椎)で天下を治めたとある。このタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)は5代遡るとタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の父と同じ倭建命(ヤマトタケルノミコト)になる。
 
 タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)の間に香坂王(カコサカノミコト)と忍熊王(オシクマノミコト)という二人の御子がいた。この二人はタラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)の現地妻・息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)の策略で彼女の子(後の応神天皇)が皇位を継ぐことをその二人の御子に疑わせるようにし、結局香坂王(カコサカノミコト)は猪に襲われて死に、忍熊王(オシクマノミコト)は息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)の策略にひっかかり追い詰められて琵琶湖で入水自殺しまった。
 
 タラシナカツヒコノミコト(後の仲哀天皇)最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)の父はオホタラシヒコワケノミコト(後の景行天皇)(71711- 130117日)で、今の奈良県磯城郡の旧纏向村(注:この村名は『古事記』の記事に由来している。)にあった日代宮(ひしろのみや)に坐して天下を治めていた。従い最初の妻・大中津比賣命(オホナカツヒメノミコト)は二人の御子とともに奈良にいたのであろう。二人の御子の死の時生きていたのかどうかは『古事記』には書かれていない。
 
 『古事記』には息長帶比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)(後の神功皇后)が妊娠したまま新羅征討したことなどについて書かれている。オキナガタラシヒメノミコト(後の神功皇后)の母の先祖は朝鮮半島新羅の国主(こにきし)の子・天之日矛(アメノヒボコ)であるが、父系は欠史八代の一の若倭根子日子大毘毘命(ワカヤマトネコビコオオビビノミコト)(後の開化天皇)(紀元前1581112- 紀元前9849日)である。

 男は古代の北九州には強大な王国が存在していて、古田武彦が言うようにヤールー川(鴨緑江)北岸にある広開土王碑に書かれている「倭軍が新羅城のすべての人々を殺し尽くし、高句麗の領域に侵入したが、好太王(広開土王)は兵を率い船を連ねて倭軍の背後から倭軍を攻めて撃退させた」という趣旨のことについて、碑に書かれている「倭」は大和盆地にいた天皇家の管理下にあった軍ではなく、筑紫の大王の領地である朝鮮半島南辺にいた筑紫の大王の軍であると考える。
 
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