2009年10月31日土曜日

亡父を懐かしむ(20091031)

 亡父は男の年齢より2歳若い70歳で他界した。男が40代のときであった。亡父は白血病で死んだのであるが死ぬ数日前、男の弟に「N(男のこと)は(育てるのに)失敗した」と言っていたそうである。亡父は男を末は陸軍大将に、弟は海軍大将にと夢をもっていたが日本が戦争に敗れたためその夢は実現しなかった。もっともその夢は日本が戦争に負けていなかったとしても実現は怪しかったと男は思う。

 男の青春時代、男が学生運動か何か社会的な運動で自分の人生を無駄にしてしまうことを亡父は恐れていたという。「Nは放っておくと何をしでかすかわからない」と口癖のように言っていたことを、当時男の家の養女になって後に男と結婚した女房は聞いていた。亡父が当時養女であった女房を男と一緒にさせたのは亡父が男の制御について女房に期待したからであると女房は思っている。亡父は女房にそういうことを言ったらしい。

 その男と女房は、九州の熊本、大分、福岡の県境に近いある田舎の町で独り暮らしをしている91歳の老母、男の亡父の後妻、女房の生母、男にとっては継母を看るため年に45回その町に帰省している。二人はお盆の時期に一度帰り、10月に帰り、何末にまた帰る。今回10月に帰るのは庭の片隅を猫の額ほどの野菜畑や花壇にしているため、今時蒔いても発芽する法連草や金盞花などの種を蒔いておいたり、あれこれ老母の独り暮らしを助けるためである。来月には関西に住む妹たちが帰ってくれる。その妹は男の亡父と今の母の間に生まれた子である。女房はその母と5歳の時以降一緒に暮らしていない。

 男は亡父が昭和31年から33年にかけて、郡内のある小学校の校長をしていた時の写真を見つけた。その中から45枚抜き出して男のファイルに加えることにした。何れも教職員や卒業する子供たちと一緒に写っている写真である。男はコンピュータでこの集合写真の中から亡父の写真だけ切り取って拡大し、今その頃の亡父の齢に近づきつつある男の長男に見せようと思っている。男の長男は容貌が亡父にそっくりである。色黒で精悍で働き者でタバコ好きであることも同じである。男はその長男が幼少の頃のことを思い出している。

 亡父は嫡子であり長男であったから本来家督を継ぐ立場にあった。嫡子・長男である男も当然家督を継いで先祖が代々住んでいた土地に本拠を置く立場になるはずだった。しかし亡父はその父、男の祖父との確執があって家督は末弟に譲り、自らは師範学校を出て以来縁の深い土地に新しい本拠を置いた。その後亡父のその末弟が事業に失敗したため先祖が営々築いてきた土地を手放し、竹藪やちょっとした畑や花壇もあって広かった屋敷と立派な大きな仏壇だけ残った。その屋敷も竹藪が無くなり、その末弟の妻の両親や、その末弟の子供の家、孫の家などが建てられた。男が子供時代過ごした風景は無くなってしまった。

 御霊は音と光と香りを喜ぶと聞く。男は仏壇の前に置かれている台上にろうそくを灯し、線香を炊き、チーンと鐘を叩き、仏壇を見上げて合掌し、亡父に「懐かしく思う」と語りかけた。男は自分もあの世に逝けばその懐かしい父や、また男が10歳の時他界した母や、母を失った男を実の母のように慈しんでくれた祖母、そして祖父や、23歳の若さで子宮外妊娠で他界した妹ら、そのた懐かしい叔父、叔母らに会えると信じている。

 男は長男に男の家に生まれた嫡子として先祖の祭祀を行うことを書面で委ねている。その長男には男子が居ないので、男の家の血筋は二男の子が受け継ぐことになる。そのことについて男はこだわっていない。男は長男を大事にしない家は滅びると思っている。

2009年10月30日金曜日

死刑制度について考える(20091030)

 男はつい最近まで死刑を容認する立場であった。人を殺めた者は死刑か終身刑か無期懲役刑が当然であると思っていた。ところが、男は今死刑とか厳罰を課す刑が果たして完全に正しいことかどうか疑問に思うようになった。

 犯罪の被害者は加害者が厳罰に処せられることを望む人が多い。確かに最愛の人を犯罪で失った人は悲しみや怒りの気持ちをなんとか収めたいと刑罰に代償を求める傾向がある。最近寺尾聰主演の映画『さまよう刃』が上映されている。男はその映画を観ていないし観たいとも思わないが、その映画の内容は最愛の娘を犯罪で失った父親が犯人を自らの手で殺めて復讐を果たそうとする内容らしい。犯罪者に刑罰を課する目的の一部に「被害者感情や遺族感情を鎮める」というものがある。裁判員裁判では、犯罪被害者や遺族の側の感情も考慮した判決を出す例も見受けられる。

 刑罰には犯罪者に罪を自覚させる、再犯を防止する、犯罪を抑止するなどの目的がある。男は、法律はそのような目的に照らして最善と考えられる刑罰のレベルを設定し、過去の判例も考慮して妥当な判決が行われていると思うが、その中にある意味で昔の「仇討」、今の言葉で言えば「復讐」の部分を国が個人の代わって行うということになれば、ちょっとそれはおかしいのではないかと考えるようになった。

 復讐の行為は法律で禁じられている。そこで国が犯罪被害者・遺族に代わり「被害者感情や遺族感情を鎮める」目的を考慮して ‘仇討’・‘復讐’を行うということにならないかと男は思うようになった。男は今までただ単に一般社会的感情のレベルで、人を殺めるようなことをした人間は最も重い刑で死刑に処せられることがあってもよいと、刑罰の意味をあまり深く考えずに思っていたのである。

 デンマークかどこかヨーロッパのある国では、刑に服している人たちが週末に自宅に帰り家族と一緒に過ごすことがゆるされているらしい。多分それは軽い犯罪者が対象で、性格欠陥者で殺人を再び起こすような人は含まれていないと思う。男はサンディエゴで友人が運転する車の中で、「あの人は服役者で罰として道路の清掃に当たっている人だ」という人を見かけたことがある。見たところ監視人が居ない所で独りの婦人が道端の清掃を行っているようであった。服装は作業服のようであったが恐らくアメリカ人なら誰でも判る受刑者専用の服装であったのだろうと思う。

 性格的に殺人や泥棒を繰り返すおそれがある人、思想信条的なものがあって重罰を課しておかないと再び社会を不安に陥れる可能性があるような人にはそれなりに重い刑罰を課し、刑務所から再び出て来ることが出来ないようにしておくべきである。しかし国がもし被害者の感情や社会一般の感情、それも‘復讐’の要素がある感情を鎮める目的で死刑を課すとなると、それはちょっとどうかなと男は考えるのである。

 男は地下鉄サリン事件や弁護士一家の殺害事件で死刑判決を受けた人たちには、その犯罪の重大さ、そしてもし仮に出所させたと場合、彼らの思想信条的に社会的不安を再び引き起こしかねない危険があると思うので、彼らは一生刑務所から出て来ることができないほどの非常に長い期間の懲役が課せられるような制度があってもよいと考える。そして刑務所の中で強制的に仏道の修行を行わせるような制度があると良いと思う。そうすれば本人に犯した罪の重大さを自覚させ、人間として人生を全うさせることに少しは役だつのではないかと思う。(関連記事「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)

2009年10月29日木曜日

BS受信ができるようにしようとして・・(20091029)

  男が住むマンションで外壁の大修理のためBS受信アンテナを室内に置いた花壇用鉄製ラックに取り付けてみた。電波が弱いため時々画面が乱れる。そこで男はアンテナケーブルにブースターを挟んで信号を増幅してやろうと試みた。ブースターは男が以前自分の部屋でCSを受信するためCSアンテナからの長いケーブルのロスを補償するため使っていたものである。これはコネクターの部分が違うので差し込み式のものにしなければならない。そこで男は近くの電気屋で必要な部品を買ってきて工作した。

 それでも上手く行かない。男というものは問題に直面すると何としてでも解決してしまいたいと思うものである。問題と取り組み四苦八苦して何とか問題を解決するとそれまでの緊張・ストレスが解放され、快感を覚えるものである。

 このマンションは1986年に完成したマンションであるが、BSCSの受信の集合アンテナがなかった。その後光ケーブルなどが入ってきた時住民の間でBSCS集合受信アンテナを設置する話が持ち上がったが、賛成者が少なく各個人でそれぞれ受信アンテナを取り付ける家が増えたため、その話は立ち消えになった。

 マンションの外壁等の大修理が行われるときは各個人ごと取り付けた受信アンテナを取り外さなければならない。NHKに受信料を払っているがアンテナを取り外している間は受信ができない。大修理は2カ月余りかかるがその間BSの受信が出来ないのは困る。そこで男は南向きの部屋の中の窓際にアンテナを設置して、何としてでもBSを受信できるようにしたいと思った。電波が強い時は何とか受信できるのであるが受信状態が良くない。そこで男はブースターを使ってみることにしたのである。しかしなかなか思うようにならない。
ギブアップするのはまだ早いと思うから、男は明日も問題解決に挑戦するつもりである。

 女房が「区役所に行って期日前投票をしてきましょう」と言うので男は気持ちを切り替えてシャワーを浴びたりひげを剃ったりして出かける準備をした。区役所まではバスを利用する。幸い男の家のすぐ近くにバスの停留所があり、バスが頻繁にある。いつだったか男が田舎に帰ったとき、現役の頃東京郊外の住宅地に住んでいた男の親友が「都会ではバスや列車が人に合わせてくれている。田舎では人がバスや列車に合わせなければならない」と言ったことがある。男も女房もバスの時刻表を調べることもせず停留所に向かった。数分もしないうちに始発のバスが停留所の近くにあるバスターミナルから出て来た。

 区役所に着いたら玄関ホールを入ったすぐ前で期日前投票の受付をしていた。本人確認の手続きを済ませ指示された場所に並べてある椅子に座って待っていると名前を呼ばれた。投票用紙を貰い候補者の名前を書いて投票箱に入れ、立ち会っている人たちに「御苦労さま」と言ってとその場所から出た。出たところに広報などいろいろな資料が置かれている。その中に「ご存知ですか?平成22518日から[憲法改正国民投票法]が施行されます。」というパンフレットがあったので男はそれを手にした。パンフレットには「投票権は成年被後見人を除く年齢満18歳以上の日本国民が有することとされています。」と書いてある。

 男は後数年もすれば憲法が改正されることになるだろう。矛盾のある現行憲法第9条は当然改正されることになるだろう。軍事は外交の有力な手段の一つである。軍は国の要、国の背骨である。わが国は世界の恒久平和の実現のために、抜けば必ず斬って相手を倒すことが出来るが、最後の最後まで決して抜かぬ氷刀を腰に差さねばならぬ。

2009年10月28日水曜日

子育てで苦悩している母親たち(20091028)

 テレビで不登校の子供を持つ母親の苦悩を報道する番組があった。社会の片隅で独り悩んでいる母親たちが意外に多いことを男は知った。男が若い頃は周りの人たちも皆豊かではなく、女房も周りの人たちとの触れ合いのなかで子育てをしていたが、今の母親たちは周りに自分を理解してくれる人もなく、独りで悩んでいるようである。そんな中ある一人の男性が母子集える場所、親と子供の居場所ともいうべき施設を開設し運営している。件の母親たちはそこに集い、自分の悩みをきいてくれるスタッフがいて救われている。

 今の世の中は、テレビゲームなど独りで楽しむ遊びが非常に発達していて、子供同士の触れ合いも昔に比べて少ないのではないかと思う。男が子供であったころは、村のがきどもが集まって山野や田圃や家の蔵や庭の木など遊ぶところが沢山あった。柿の木に昇って落ち大けがをしたり、いろいろ危険なことも多かったが、親たちは無頓着だった。男は小学校の高学年か中学校の1年生のときだったと思うが、友達同士でお互いに鉄橋の上を走る列車の客車のデッキから隣の客車のデッキに足を伸ばして移動しスリルを味わったことがあった。今なら大目玉を食らうところだった。裏の山で敵味方に分かれて小石を投げ合い、戦争ごっこをしたこともあった。もし投げた石が当たればけがをしたことだろう。木に当たった石が跳ね返って飛んでくることもあった。男の眉間に小さな凹みがあるが、これは山を駆け下りていて竹の根っこにぶつかり転んで竹の切り株で打ったときできた傷である。幸い防寒帽をかぶっていたので大きなけがにはならずに済んだ。

 今から178年前だったと思うが男が前立腺がんの手術を受ける前に、がんが骨に転移しているかどうか全身のレントゲン写真を撮られたことがある。そのとき肋骨に黒い影があって、主治医は「以前肋骨の骨折をしたことがありましたか?」と聞かれたことがあった。そのとき思い当たったのは、男が小学校3年生のとき教室の中で暴れまわっていて壁から突き出ている木材の突起にぶつかりしこたま胸を強打したことがある。痛さを我慢して授業を受け、下校時間になって家に帰ってから一層痛みがひどくなり、祖母に治療してもらったことがある。母は数か月前(12月)に乳がんで他界していた。祖母は母親を失った10歳の男の子を憐れんでいたに違いない。治療と言っても祖母は小麦粉を酢で練ってそれを油紙に伸ばし、それを男の胸の痛む所に貼ってくれただけであった。その日は夜寝付かれないほど痛みを感じていたがじっとしていた。そしたら翌日にはもう痛みが引いて、普通どおり学校に通った。その時の痛みは肋骨の骨折が原因であったのだ。今なら親はあわてて医者に連れて行くことであろう。その当時町に医者は少なく、医者といっても整形外科医ではなかったと思う。祖母は痛がる男の子の胸をさすり、最良の治療をしてくれたのである。祖母は子供時代の男が目にゴミが入り痛がっていたとき、自分の舌でそのゴミを取り除いてくれたこともあった。男は子供時代相当腕白であったと思う。

 今の時代、子供は過保護なほど大事にされている。その一方で親同志のコミュニケーションは薄く、付き合っても心から打ち解けることはなく表面的で、母親たちは皆孤独なのだと思う。それだけに、親も子供も居場所が十分でないのだと思う。居場所がないと欲求不満がつのり、自分が一番安らかに感じる場所に閉じこもったり、居場所がない者たちが群れを作って、その中で安らぐようになる。これは社会的問題である。男は、鳩山新政権は次代を担う若者や子供たちの居場所に深い関心を持ってもらいたいと思う。

2009年10月27日火曜日

坂の上の雲(20091027)

この秋からNHKスペシャルドラマが放映されると言う。男は若い頃通勤途上の電車の中で司馬遼太郎『坂の上の雲』を読んでいた。この齢になってもう一度その本を読んでみたいと思っていたが、ドラマ放映を機会にその本を読みなおすつもりである。
たまたま立ち寄った書店で『文芸春秋 12月増刊号 坂の上の雲と司馬遼太郎』という本が目にとまったので、それを購入した。販売価格1000円である。『坂の上の雲』は図書館で借りてきて読むことにしている。
この本のページをめくると秋山真之役を演じる俳優本木雅弘インタビューが目にとまった。彼は「『坂の上の雲』は・・日本という国の資質と魅力を再認識できるところにある」と語っている。男はこのドラマが日本人の眠っている心を呼び起こすことになるだろうと思う。
男は頼山陽の作詩『百済を復す』についてその詩を長詩の形式で作って講釈し、その詩に自分で吟譜を付けて自分が主宰する詩吟の会でも教え、ブログでも公開している。友人はそのブログを見てくれて「頑張っているね」と言ってくれた。男がこの吟詠と講釈に情熱を燃やすのは、平和ボケして眠っている日本人の目を覚まさせてやりたい、せめて自分の子や孫には分かってもらいたい、と願うからである。(関連、ブログ「詩吟」URL http://shimpoo.blogspot.com/ 特別吟題『百済を復す』に寄せて)
男が買った『文芸春秋 12月増刊号 坂の上の雲と司馬遼太郎』の中で東京大学名誉教授鳥海靖氏は「私は、明治日本は列強の「東アジアへの進出の激化に直面して、一歩誤ればこれに飲み込まれ兼ねないという強烈な対外危機意識と、国家の独立を維持・強化し、国際社会の中で欧米列強と対抗し得る富強な国家を建設するという大きな国家目標を人々が共有しつつ、懸命に国づくりを進めた時代だったと思っている。・・・日露戦争の主戦場が日本でもロシアでもなく、韓国と清国の国土だった冷静な歴史的事実も念頭において欲しい。」と語っている。
確かに戦前日本は朝鮮半島を領有し、人々に苦しみを与えた事実は否めない。しかし日本は正当な手続きで清国(当時の中国)に朝鮮半島の宗主権を放棄させ、朝鮮半島の支配を狙っていたロシアを駆逐し、彼の地に鉄道や通信のインフラを整備し、教育制度を確立したのである。男の父も彼の地で小学校や青少年の訓導に携わっていた。
中国は今でも北朝鮮と緊密な連携を保ち、毛沢東の時代には北朝鮮軍と協同で現在の韓国の南部まで侵攻し、朝鮮半島を支配下に置こうとした。ロシアは今でも大陸鉄道をプサンまで延伸したいという希望を抱いている。663年白村江での戦い以降新羅が唐軍を駆逐して朝鮮半島を統一したように南北の融和が進み朝鮮半島が統一されれば、その時日本はどういう状況に置かれることになるだろうか?(関連記事「663年朝鮮半島白村江の戦い(20091003)」)
男は、鳩山新政権が緊密な、しかし対等な日米関係を標榜しつつ、東アジア共同体構想も推進しようとしていることに深い関心を抱いている。国の背骨となるべき‘軍’は存在しないが、自衛隊ではあの田母神空幕長解任事件以降どのような精神教育を行っているのだろうか気になっている。(関連記事「ミサイル一発喰らわないと目が覚めないのか?(20090827)」)

2009年10月26日月曜日

ジャズ喫茶、人生いろいろ(20091026)

 横浜の中区にはジャズ喫茶が40数軒もあるらしい。男はジャズにあまり関心がなかったので、男の家からそう遠くない所にそんなに沢山のジャズ喫茶があることにはちょっと驚きであった。ライブでジャズを楽しめるので一杯のコーヒー代もかなり高いのであろう。

 テレビで見ているとそこに集う人たちは50歳から60歳ぐらいの人たちが多いようである。ジャズのムードに浸り、多分心が癒されるのであろう。喫茶店内の雰囲気が心地よいのであろう。皆うっとりとして聴いている。そこに集い、他人と触れ合い、友達同士になる人たちもいるのであろう。皆淋しいのかもしれない。今生きているそのひと時が愛おしいのかもしれない。時の流れに感傷的になるのかもしれない。そこに集っている人たちの中には学生時代恋愛して一緒になり、50代、60代になるまでいろいろなことがあって、そこで夫婦の絆を確かめることができるのかもしれない。人生いろいろである。

 男の住むマンションにマンドリンを弾くことができる人が居て、週末になると楽器を持って何処かに出かける人が居る。その方の奥様の趣味はテニスである。御主人はマンドリンで屋内での趣味、奥様はテニスで屋外での趣味をそれぞれ楽しんでいる。多分たまに奥様は御主人が参加している演奏会に顔を出すであろうし、御主人もたまに奥様のテニスの試合に顔を出すのであろう。お二人が学生結婚だったのか職場結婚だったのか男は知らないし、知ろうとも思わない。ただ、夫婦それぞれ、人生いろいろと思うだけである。

 男は正直に白状すれば、これまでの人生で女房以外の女性と親しく付き合ったことが全くなかった、とは言えない。女房に時々言われることがあるが、男はつい口がすべって女房に「お前は不特定多数の一人だ」と言ってしまったことがある。本心は女房を一番愛していたのであるが、何かの不満でそのようなことを言ってしまった。それは女房を痛く傷つけたことであった。だから何かの拍子にそのことを思い出して男にちくりちくりと言う。

 男がこれまで曲りなりにでも何とかまともな人生を歩んでくることができたのは、全く女房のお陰である。女房はこれまでの結婚生活の間、男の愛をひたすら求めてきた、と男は思う。これは自惚れではない。それに対して男も女房に対して出来る限りの愛情を注いできた、と思う。男にとって女房は人生最大の宝である。これほど大きな宝はない。

 昔、武家の亭主は女房を目下のように見、女房は亭主に仕えるのが当たり前であった。男と女房の関係はそれほどまではなかったが、かなり上下関係のようであったと思う。一般に人に対して妻は夫のことを「主人」と言う。男の女房もそのように言っている。しかし家の中では男のことを「お父さん」と言っている。それたいして男は女房のことを「○○子」と名前で呼び、人前では「家内」と呼んでいる。

 ところが良く聞く呼び方は「うちのかみさん」である。男はこういう呼び方は好まない。そういう呼び方をしている人は家の中ではどう呼んでいるのであろうか? 多分「おかあさん」とか「ママ」とか「○○ちゃん」とか呼んでいるのであろうか?

 九州男児である男の家ではこれまで夫唱婦随で一本芯が通ってきたし、これからもそれは変わらない。老境に入った今、男は女房に対するこれまでの‘罪’を償うべく出来る限りのことをしているつもりである。それも義務としてではなく、心から愛していることの実践として、である。忙しくしている時、たまに不機嫌になって、女房に「やさしく言って」と言われてしまうことはあり、その都度反省するのであるが・・・。

2009年10月25日日曜日

安全管理、国家戦略においても(20091025)

 男はキッチンボーイをしていて(関連記事「サンディエゴからの電話(20090615)」)ちょっとしたことで指を皮むき器のとげの歯のところにひっかけてしまった。手を伸ばした時その皮むき器に指が当たってしまうようなところにそれをフックでひっかけて吊っていていつでもそれを取りやすいようにしていたのがいけなかった。傷は引っかき傷でたいしたことはなく、一時的に絆創膏を貼っておけばよいのであるが、問題はそのような「不安全」をこれまで見過ごしてきたことである。男の手は女房の手より大きいのでそれに当たってしまったのであるが、ともかく安全管理ができていないことを男は痛感した。
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/06/19xx-20-3-1-2-7-2-10-10-10-10.html

 一般に「管理」とは一定の管理基準を決めて、実行した結果がその基準範囲に収まるようにすることである。安全管理は危機管理の重要な柱である。ところが一般の家庭ではこの安全管理に対する意識は乏しいのが現実の状況であると男は思う。

 男は何にかにつけ将来起こり得る可能性のある危険あるいは不具合或いは矛盾を予測して、事前に対応措置を講じておくことが大変重要であると常々思っている。しかし、こと我が家の中のことについてその重要性を忘れがちであったと思い当たった。

 これからは我が家の中の安全管理手順(プロシージャー)を定めて、それを修正しながらそのプロシージャーに沿った安全管理を実行して行こうと思う。先ずは安全点検項目を列挙し、安全点検スケジュールを決め、我が家内の安全点検を実施して行こうと思う。そのために簡便な安全点検スケジュール表を作らなければならない。男のパソコンを使う仕事がまた増えた。しかしこれは全く苦にはならないことである。

 諺に「転ばぬ先の杖」というのがある。国でも地方自治体でも企業やその他の組織体でも、未来に起こり得る危険について常に予測し、その危険を回避し、または局限するように常日頃から心がけておくことが必要である。そのような心がけの良いところは、もし何か起きたときの損失を無くすことができ、または被害を少なくすることができる。報道を賑わすのは、そのような心がけが無いところである。こと安全には労力を惜しまず、金をかけることもおしまないようにしなければならない。

 国については軍や警察やコースとガードや消防などはある意味で安全装置である。大戦のトラウマを引きずる人たちは、ことが‘軍’についてはアレルギーが消えない。しかも悪いことに軍隊の経験がないから、ものの考え方に偏りがある。例えば米軍がなぜ沖縄に基地を置くことを重要視するかについて理解できない。ジョン・ルース駐日大使は、「沖縄の基地は戦略上重要である」とNHKとのインタビューで答えている。20日になって鳩山総理も普天間基地について日米で合意したことは重い」と基地の県外移転に否定的な見解を示した。

 男は彼らが日米対等を言うなら軍事に関する認識についても対等な見解を持つようにすべきであると考える。これはアメリカの言いなりになるということではなくて、軍事に関する認識を日米共有するということである。一方で、アメリカに対して強いものをもっていなければならない。戦闘機に関してステルス技術や全方位レーダー(フェイズドアレー)などの技術は、これ以上アメリカに開示しないですむようにしなければならない。

 男は新政権は国家戦略室に軍事専門の特別チームを置くようにすべきであると考える。政権奪還を目指す自民党はこのことを念頭において構想を練るべきである。

http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/06/19xx-20-3-1-2-7-2-10-10-10-10.html

2009年10月24日土曜日

新型インフルエンザの流行(20091024)

 日本国内で新型インフルエンザに罹っている人は今年7月上旬以降累計約240万人である。しかも死者数は疑いも含め27人に上っている。この数は異常である。それなのに電車の車内などでマスクを付けている人は一人か二人という程度である。

 男と女房は昨日(16日)大船植物園でバラを観賞に行った帰り、大船から東海道線の列車を利用した。男はマスクを45枚いつも携行しているが、その日はお天気も良く暖かい日だったのでマスクをせずその列車に乗った。たまたまある老婦人の隣が二人分空いていたので、男はその老婦人の隣に座った。

 その老婦人は社内で本を読んでいた。列車が横浜に近づく頃、その老婦人が突然咳き込んだ。男は思わずその老婦人の顔をみた。そしてリュックからマスクを取りだそうとした。女房は自分自身も飛沫を吸わないように呼吸を止めて口をつぐんでいたが、その後「もうすぐ横浜に着くわよ」と一言言った。

 その様子から件の老婦人は自分の咳を気にしているのだなと察したらしく、バッグからハンカチを取りだしてしきりに鼻水を抑えるような仕草をした。そしてそのハンケチをバッグにしまったかと思うとまた取り出して、鼻をスースーさせながら同じようなことを繰り返した。その内に列車は横浜に着いた。

 バス停近くの交差点である婦人が先のとんがった新式のマスクをしているのを見かけた。女房はそれを見てくすくす笑っている。男はその婦人に聞こえないように小声で「出っ歯の人はあのようなマスクが好都合だよ」と言ったら、女房はもう少しで噴き出してしまいそうになった。

 よくよく観察してみるとあの新式のマスクは見かけはよくないが、顔にピッタリと合っていて、飛沫が隙間から侵入しにくい構造である。これから徐々に寒くなってきて、街頭やバスや列車の車内でマスクをする人を多く見かけるようになるだろう。多くの人たちがあのような先のとんがったマスクをするようになれば、何か‘鳥人間’のようなものがうじゃうじゃいて、さぞかし壮観であろうと思う。

 見かけはともかくとして、自分たちは決して新型インフルエンザに罹らないように用心に用心をするに越したことはない。男は外出から帰ったあと、アルコール液が入っているスプレーで玄関のドアのノブやサムターンキーの所などにたっぷりアルコール溶解液を吹きかけて消毒することにしている。勿論念入りな手洗いとうがいは、男も女房も必ず行うように心掛けている。

 男も女房も毎年普通型のインフルエンザの予防注射を受けている。日常生活の中で免疫力を高めるように心掛けている。外出先でも折に触れ手洗いとうがいを行っている。最近は何処でもアルコール消毒液を置いてあるのを見かけるが、洗面所には消毒液が備え付けられているので、それで先ず手指を丹念に洗い、その後綺麗にした手で蛇口から流れ出る水を救い、喉の奥の方で56回うがいをしている。

 一旦新型インフルエンザに罹ってしまうと数日間は自分の活動が止まってしまうし、連れ合いにも感染させてしまう。ウイルスは利己的な‘生物’である。ずる賢いこの‘生き物’に対抗するには、十分な防御態勢が必要である。括弧(‘’)付けにしたのは、ウイルスは生物ではなく、遺伝機能を備えた化学物質であるからである。今年の新型インフルエンザウイルスは来年進化して手に負えなくなるかもしれない。用心するに越したことはない。

2009年10月23日金曜日

若者たちのうっぷん晴らし(20091023)

日曜日の朝、20代の男女56名の群れが川の堤防の上の道で悪ふざけをして遊んでいる。マンションの部屋から見ていると彼らは何処からか手に入れて来たらしい氷の塊を堤防の下のコンクリートの道に投げつけて砕けるのを楽しんでいる。そして23人の男の子は堤防の上のコンクリートの道に寝そべって秋の日和を浴びて気持ちよさそうにしている。傍らに氷の塊を入れて来たらしい段ボール箱の切れ端など紙くずを散らしている。ジョギングをしながら傍を過ぎゆく大人たちは若者たちにちらっと目を遣るか無視している。
男はその様子を観察していて思った。彼らは何か日々の不満のはけ口がないのだと。女房は「小さいとき家に帰ってもお母さんが働きに出ていて家にいなかったり、パチンコをしに行って家にいなかったりで淋しい日々を過ごしてきた子たちだと思う。」と言う。高尾山に猿の群れの様子を観察できるところがあるが、その施設の人が「猿の社会でも優れた母猿から育てられた子供は成長して高い地位に就くと言っていた。この親にしてこの子あり、よく教育されていない母親に育てられた子供は、またよく教育されない。
チンパンジーやゴリラなどのオスたちは、「ディスプレイ」と言う示威行動をして、自分の優越性を他の猿たちに見せる。それは、その群れの一団のリーダーを脅かそうとする行動である。人間社会ではそれを集団で行う場合が多い。出来の悪い若者たちは群れを作って自分たちの存在を世に知らせようとする。
男は思う。どんな人たちでも何か優れたものを持っている。それを社会にアッピールできる仕組みが社会に沢山あると育ちの悪かった若者たちにもディスプレイをすることによって不満のはけ口を持つことができるのではないかと。そのキーワードは「多様性」である。アメリカのように沢山の人種から成る国では、いろんな遊びがあり、次々と新しい遊びが生み出されている。それらは日本にも入って来ている。しかし日本では自ら積極的に多様な遊びを開発しようとする動きが少ないように思う。確かにゲーム機やアニメなどは沢山ある。しかしそれは屋内で、独りで楽しむものが多い。日本は土地が狭いせいか屋外で皆が見ている前で遊ぶ施設は非常に少ない。
スポーツは、それをする人にとってある意味でディスプレイである。スポーツ選手になり大勢の観客が見ている前でディスプレイ出来る人は限られている。問題はそのようなスポーツ選手に成らなくても、皆が見ている前で誰でもディスプレイできる場所がないということである。都会の中でも良く考えて智慧を出し合えばそのようなディスプレイができる場所を作ることはできるのではなかろうか。人前でわいわいがやがや騒音を立てて誰でもディスプレイができることを、文化として広める動きを、政府として率先奨励するならば、良い智慧も生まれるはずだ。
男の長男は高校生の時アメリカ留学をしてその高等学校を卒業している。彼が留学の体験として男に語ってくれたところによると、アメリカでは出来の悪い生徒でも、何かで単位を取得して高校を卒業できるという。例えば陶芸をして単位を貰ったクラスメートもいたという。日本にはまだまだ一律性を強調する文化が根強い。多様性をキーワードにして落ちこぼれのない若者を育てるようにしなければならない。
男は堤防の上で悪さをしていた若者たちを非難する気持ちにはなれなかった。彼らが散らかしたものを後で拾って始末して置こうと思った。

2009年10月22日木曜日

 姉(大伯皇女)と弟(大津皇子)(20091022)

今からおよそ1300年の昔、天武天皇の子供として歴史に残る二人の姉弟がいた。二人とも天智天皇の孫である。663年、朝鮮の白村江で日本軍が大敗した当時、二人は父・大海人皇子(おおあまのみこ)と母・天智天皇皇女とともに九州にいたという。
姉・大来皇女(おおくのひめみこ、大伯皇女とも書く)は12歳の時、伊勢神宮の斎王(さいおう、いつきのみこ)として、五百人もの官人・女官等を率いて伊勢に下った。斎王は伊勢神宮または賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王または女王(親王の娘)のことである。
伊勢神宮に奉仕した斎王の御所である斎宮(さいぐう、いつきのみや)は南北朝時代の1334年にその制度が無くなるまで続いた。『日本書紀』によれば斎宮は崇神天皇(すじんてんのう、在位紀元前97-紀元前29年)の時代に始まっている。
大伯皇女は、天武天皇崩御後686年わざわざ伊勢まで姉に会いに来た実弟・大津皇子(おおつのみこ)と別れたあと次の歌を作っている。その歌は万葉集の105番と106番に収録されている。大津皇子は姉に会った後謀反の罪で処刑され、24歳の若さで薨去している。謀反は、天皇と皇位継承資格者しか許されない伊勢神宮への奉幣を大津皇子が斎宮・大伯皇女の手引きで行ったことを咎められたという説がある。
大津皇子が処刑された時、妃の山辺皇女は「髪を振り乱して裸足で走り、殉死した。それを見た者は皆嘆き悲しんだ。」と日本書紀に書かれている。

  吾勢祜乎 倭邊遣登 佐夜深而 鷄鳴露尓 吾立所霑之
  (わが背子を 大和に遣ると さ夜深けて 暁(あかとき)露に わが立ち濡れし)
弟を大和に送り返そうとして夜が更け 暁の露にわたくしは立ち濡れてしまった。

  二人行杼 去過難寸 秋山乎 如何君之 獨越武
  (二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ)
二人で出かけても行き過ぎにくい秋の山道を どんな風に君は独りで越えているのであろうか。 (注:口語訳は2首ともNHK『日めくり万葉集』による。)

弟の死を知った姉は弟の処刑一月後に退下し都に帰った。彼女は702年に41歳で薨去している。生涯独身で、愛する弟を失った悲しい人生であった。1300年も遠い昔、天武天皇の御子である姉と弟にはそのような悲しい出来事があったのである。
男は今日(16日)、女房とNHK『日めくり万葉集』をプレイバックしてこの大伯皇女の歌を観賞した。男はこの姉弟のことについて感じるところがあり、いろいろ調べてこの記事を書いた。

2009年10月21日水曜日

加齢臭(20091021)

 男は毎朝シャワーを浴び胸と背中に石鹸を付けて皮脂を洗い流すことにしている。そうすれば夕方まで加齢臭を抑えることができるということを女房がテレビか何かで聞いて男に教えてくれたからである。テレビでは加齢臭を抑える石鹸のことが宣伝されている。

 女房は町を歩く年取った男性は一般に臭い感じがするという。その原因の一つは見かけの服装にあるという。年取っていてもこざっぱりとして若々しい感じがある人がいる。そういう人は臭う感じがしない。一般に言うと若々しい服をよく着こなし、歩くときは背筋をまっすぐ伸ばし足をよくあげて生き生きと歩けば周囲に爽やかな感じを与える。ところが若い時からの習慣で歩く時ポケットに手を入れたままで背中を丸め靴の踵を地面にこするようにして歩いている人は年取った時周囲に臭う感じを与える人になるに違いない。

 ところで加齢臭は男性特有のものかと思っていたら、それは性別を問わず中高年の男女に共通した現象であるということである。男性の方が脂汗が出やすいので臭いと思われるのだろうと思う。女房は男のために資生堂の「男の洗顔剤」を買ってきた。確かにこれを使うと顔を洗ったあとが大変さっぱりする。

 加齢臭は資生堂により名づけられたという。この加齢臭の原因は体臭に不飽和アルデヒドの2-ノネナール(C9H16O)にという物質が含まれているからであるという。この物質は加齢とともに増え、表現しがたい不愉快な臭いを発生させる。

 昔男がある詩吟の流統の会に入っていて熱心にやっていたころ、都内の大きな会場で詩吟の大会があった。この大会では全国各地の詩吟の各団体から男性、女性それぞれ50人ずつのチームを出して同じ吟題を合同で詠い、優劣を競う。男もある会でそのメンバーの一人として出場したことがある。各チーム必勝を期して熱心に練習を重ねるのであるが、男があるとき一つのホールで女性たちが練習している部屋に入ったことがあった。そのときプーンと嫌なにおいが鼻をついた。加齢臭である。参加している女性たちは殆どが中高年で70歳前後の人たちも結構多い。狭い空間の中で50人という大人数の人たちの一団から発する化粧のにおいと混じった加齢臭は強烈であった。当の本人たちは自分たちが発するその臭いに全く気付いていない。もし「臭い!」と言えば、大いに反感を買ったことだろう。

 喫煙者の場合、非喫煙者に比べて悪臭が強くなる傾向があるという。男は煙草を吸う人が多いし、脂汗がでるから一層臭うのだろう。この加齢臭は原因物質であるノネナールの基となっている脂肪酸で9-ヘキサデセン酸という物質が分解するため発生するという。そこでこの脂肪酸を抑える抗酸化剤と抗菌剤を使えば臭いを抑えることができるという。近頃テレビのコマーシャルで加齢臭を消す石鹸のことが宣伝されている。

 しかし男はお金を出してまでそのような石鹸を使う必要はないと思っている。女房が勧めてくれた毎朝シャワーで胸と背中の皮脂を流し、出かける時は微量の男性専用香水を喉の下や手首や足首にほんの少し付けるだけで十分である。勿論シャワーをした後は着ていた下着を取り換えることが必要である。臭い年寄りはそのようなことをしないから臭いのである。

 女房は綺麗好きで毎日のように寝具を干し、シーツなどを頻繁に交換してくれる。不精な女はそのようなことはたまにしかしない。働き者で綺麗好きで洗濯・掃除・炊事が大好きで倹約家の女性を女房にしていて、男は大変果報者だと毎日感謝している。

2009年10月20日火曜日

マンション外壁等大修理(20091020)

このブログには‘男’と‘女房’が登場する日記調であるが、時に多少のフィクションも加えて書いている。そうすることによってこれを書いている投稿者がプライベートなことを客観的に見ることができるし、将来小説、といっても男の1000年も前の先祖のことをフィクションで語る小説であるが、それを書く練習にもなる。また男自身の人生の棚卸しをし、西暦2000年前後生きていた一人の男とその女房のことを後世の者が興味深く読んでくれるだろうと、自分の死んだ先のことを期待する。
さて、男が住むマンションの2回目の外壁等大修理は5日に始まり、先ず足場の建設工事が始まった。このマンションは建てて22年目を回っている。このマンションは、躯体はしっかりしているが建具や内装は安造りである。7階建て28戸、うち2戸は近くの会社の寮となっている小さなマンションである。入居者は自称‘中流’の上か中か下というところで、生活レベルは大差ない庶民である。住民の間の意思疎通も大変良好で、寮の若い人たちとも、また2、3戸オーナーから賃貸で入居している人たちともお互い笑顔で挨拶を交わす。男は冗談に「お互い貧乏長屋の住人のようである」と言って周囲を笑わせている。
このようなマンションであるから修理はスムーズに行われている。屋上や共用廊下などの防水塗装工事も行われていて、いわゆる‘水の道’の問題が起きないようにしている。‘水の道’というのは、どこからか侵入した雨水がコンクリートの隙間を通って思いもよらないところから滲み出る現象である。
外壁などの大修理はそのような‘水の道’の進入口をえぐって防水のシールをし、表面を塗装する予防保全工事であり、これを怠るとその修理のため大きな出費を余儀なくされることになる。そのため住民は部屋の広さに応じて毎月一定額の修繕費積立を行い、駐車場利用料なども収入源として備えている。今回はその積立金を切り崩して大修理を行うことができるが、10年後の3回目に備える資金は足りないと予測されたので、今年の定時総会でその積立金の値上げを決めた。その額は一戸あたり平均月2500円位になる。年金暮らしの人が多いので、この出費増はつらいところである。
今回の大修理のための足場建設工事は、今日(15日)その足場が男が住む7階にまで立ちあがってきた。今回は窓枠のシールも取り替えるため、全戸網戸は外さなければならない。窓に取り付けるタイプのエアコンや換気扇を外した後はひどく汚れている。そこで男は今日朝からその汚れを除去する作業を行った。ベランダ(バルコニーというのが正しい)に取り付けてあるBSのパラボラも取り外さなければならないので、その作業も行った。
今朝はその作業のことで女房の機嫌が悪かった。網戸を外した後の汚れの除去は後日自分がやるのでお父さん(男のこと)は先ずアンテナを外して欲しい、と言う。男は両方とも朝食前にやってしまいたかったので女房の意向を無視して作業を始めた。結局朝食前までにすべての作業を終え、取り外したBSアンテナは、少し受信感度は落ちたがベランダの床面に置き、レンガを積んで向きを調整し、BSもクリアに受信できるようにした。
女房はサッシの窓枠について他のところも全部お父さんが綺麗にして、と不機嫌であった。そのことについて男は、自分が女房ができる仕事を取り上げてしまったためだろうと思った。確かに、アンテナを取り外したり、BSを引き続き受信できるように仮設したりすることは女房にはできない。これはある朝のひと騒動の一コマである。

2009年10月19日月曜日

写真の整理(20091019)

男は暇だからできることではあるが、自分と女房の若い時からの写真をコンピュータで整理している。コンピュータにPhotoStudioというソフトを搭載していて、デジカメなどで撮った写真のほか、スキャナーを使って田舎の家にあった古い写真を取り込みPhotoStudioで切り取った写真を拡大して保存したりする。

写真は男の良い写真、女房の良い写真、二人の良い写真、家族の良い写真、男の子供の頃や青年期の写真、女房の子供の頃や乙女の頃の写真、あの世に逝っている親父や母や祖父母の写真、と言った具合に区分してコンピュータに取り込み、DVDMOなどに記録するほか、一部のものはインターネット上のアルバム、ウエッブアルバムにも保存している。

ウエッブアルバムに保存したものは限定公開で、保存しているURLを知っている所だけがそれを見ることができるようになっている。とはいってもこれについてはプライバシーは完全には守られないだろう。もし男でも女房でもあの世に逝った時は、家族はウエッブアルバムから葬式用写真を取り出すことができるようになっている。

女房の実の祖母、女房が子供時代に親代わりになってくれた人が97歳であの世に逝ったときは、その人が婦人会の会長などいろいろ地域の世話役をしていたせいもあって葬式には国会議員や県会議員なども参列し、盛大であった。そのとき静止画ではあったが映像と音楽とナレーションと共に、その人の在りし日の様子が大型スクリーンに映し出されていた。男はそのとき詩吟はまだ上手ではなかったが自分で伴奏をしながら弔吟を行った。

男は自分や女房の葬式の時に使うそのような写真集を事前に準備し、ナレーションで語ってもらいたいことについて素案を予め文章を作って置こうと思う。男も女房も自分の葬式はごく内輪だけの質素なもので、実のあるものを望んでいる。また男自自身いわゆる名士ではなく、老人会や町内会などにも入りたいとも思わず、社会的諸関係を断っているので知らされなければ葬式にくる人もいないであろう。

そういう内輪だけの葬式のとき42インチ程度のフラットテレビ画面で男や女房の在りし日のことを遺された家族たちが映像と音楽で偲ぶようなことを予め用意しておくのである。その時がこれから10年先なのか10年以内なのか、或いは30年前後先なのか予測はつかない。しかしその時は必ずやってくる。

世の中には自分の‘その時’を考えていない人は多いだろうと思う。昔の侍は家を出る時再びその家に生きて戻ることが無いかもしれない、といつも自分の死と隣合わせに生きていた。『葉隠』に「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の言葉がある。この言葉の真の意味は、必死の思いで忠勤に励むべきことを述べたもので、生きるべき時は必死に生き、死ぬるべき時は必死に死ぬることだと男は思う。この『葉隠』には現代のビジネスマンにも通じることが書かれている。

自衛官(男は‘軍人’と呼びたい!)や警察官や海上保安官や消防官などは「身の危険も顧みず任務を遂行することが求められ、実際に任務遂行中に命を落とした人は多い。「上を向いて歩こう」の坂本九が死んだ日航機事故ではパイロットやスチュワデスたちは死を覚悟しながら最後まで任務を遂行した。フライトレコーダーにパイロットとコーパイロットの会話のやり取りが記録されていたが彼らは最期まで冷静に対処していた。
死はいつやってくるか判らないのだ。一期一会こそ本当に大事な心がけである。

2009年10月18日日曜日

老いれば時の移ろいの中に身を委ねた方がよい(20091018)

  電車の中で男より年長と思われる男性がきちんとスーツを着込んで、床上に大きな黒い鞄を置いて、手に日本経済新聞を持ってドア付近に立っている。痩せ顔で鼻がとんがっていて唇は薄くへの字に閉じている。その男性が座席に座っている男をちらりと見て、にやりと笑った。何を思って笑ったのか男には理解できない。多分、「俺はこのようにまだ現役で働くことが出来ているのに、まだお若いお前さんは手に職もなく何処かに遊びに行くようだ。俺は偉いぞ」とでも思ったのだろうか。

 隣に座っていた女房は「あの方は働くことが生き甲斐なのよ。働いて沢山お金を貯めて、死ぬ時は子供に‘有難う’と全部持って行かれるのだ」と言った。男はその男性のように働いて稼ぐ能力がないため、毎日日曜日のように過ごしているだけである。その代わり、その男性にはできないような生き甲斐を持っている。そして毎日あの世に逝くための支度をしながら時の移ろいを楽しんでいる。

 人間年を取ると霊的になるようであるが、男も前世とか来世のあることを信じて、自分が生かされてきたこと、そして今なお生かされていることを感じつつ、もっと仏の道を学ばなければならないと考えているところである。

 こういうとき夢窓国師の『夢中問答集』に出会えたことは大変幸せなことである。男はこの本をいつも携行して折に触れ読んでいる。今日読んだところに「祖意」について問答があった。「祖意」とは「誰でも具えている本体の根本」で、「初心の修学者は先ず第一に祖意(根本の意味)を会得するがよい。句のもとにじっとしていてはならぬ。昔の人も根本の中身が判ってから三十年、五十年と綿密に練磨して前世からの悪業の障害をかたづけることを長養(長く修行すること)の工夫と名づけている。長養がすっかり熟れてしまえば、これをば打成一片(一つに成りきる)という。こうなると自然にたくみな話しぶりの優れた働きも出て来るので、他人のためにつくす手立てもまた自由自在である。これを意句倶到(中身も表現もともにととのった)の人と言う」とその本に書かれている。

 男はそのような立派な人には到底なれない。しかしこのような本を読み、仏教のことをいろいろ勉強し、少しでもそのような人になれるように努力したいと思う。男は決して豊かではないが、さりとて貧乏でもない。日々の暮らしは質素であるが、十分満ち足りている。足りないものは何一つない。女房も同じ心境である。これは明らかに前世からの縁である。その幸せに甘んじていると次の生れたときその生で苦しむことになる。従って仏法の勉強をしながら修養しなければならぬ。しかし男は修験者のような厳しい修行はしたいと思わない。そんな苦しみをわざわざ進んで行うことはしたくない。普通どおりの暮らしの中で楽しみながら仏道に励めばよいと思っている。古事に「厚く仏法僧を敬え」とある。そのことだけは大事に思って可能な範囲で実行したいと思っている。(関連記事「前世、今生、来世(20091001)」、「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」)
http://hibikorejitaku.blogspot.jp/2009/10/20091002-200909831-20090915.html


2009年10月17日土曜日

陶芸(20091017)

男が陶芸を習い始めたのは一昨年の暮れのことである。初め体験教室に入ってマグカップを作り面白いと思ったのですぐ申し込んだ。男は以前から陶芸に興味があった。初めに自由作陶教室に入りそこに籍を置いたまま、昨年手びねりの初級教室に入り、続いて中級コースに入り、茶道で使う花器や楽茶碗や香合などを作った。今年は電動ろくろ初級教室、続いて中級教室に入り、電動ろくろで陶器を作る方法を学んだ。そしてまた自由作陶教室に戻り、専らお惣菜を盛る皿を作っていた。
しかし男は九州の田舎で独り暮らしの老母の面倒を見るため帰省することが多くなり、毎週火曜日の定例日に休むことが多くなったので、費用対効果の観点から1500円の貸室でお惣菜入れを作り続けることにした。今日(13日)はその初日である。これまで火曜日は午後のコースを取っていたが、貸室では余席の関係で午前のコースになった。
午前のコースは9時から12時半であるが、そこまで行くのに男の家から1時間半位かかるため家を早く出なければならない。男は今朝8時前に家を出て9時過ぎにそこに着いた。女房は朝食を早く準備せねばならないので今朝は早く起きた。女房にしてみれば男が現役の頃に戻ったような感覚である。男は週一回ぐらいこのような朝があってもよいと思った。
今日は貸室の初日、部屋には男女合わせて56人ほどが既に作業をしていた。男は早速赤2号という粘土を1kgづつ2個、合計2kg買って、それに自由教室で使っていた残りの赤2号を挟んで先ず荒練りをし、その後菊練りをして電動ろくろの上に置き、土殺しという作業をした後、お惣菜入れを2個作った。男は元来幾何学的円形は嫌いである。先ずその形を作り上げ、その後4か所故意に変形させ、いわゆる‘色気’‘味’を出す。
この作業を今回はろくろをゆっくり回しながら行ったので、手もあまり汚れず、ろくろの下の受け皿が泥で汚れることもなくスマートに仕上がった。周りの人たちは新参者の男の作業ぶりをそれとなく見ていたと思う。上手な人は背広を着たまま汚れずに作業が出来るという。男は苦手な電動ろくろが好きになった。
自由作陶教室の皆さんとは同じ火曜日で顔を合わす機会が多い。男は貸室に移動したとはいえ、自由教室の皆さんとは忘年会など一緒にしたいと思っている。自由教室では専門の先生がついていてあれこれ指導してくれるが、貸室ではそのような指導はなく自分で工夫しながら作らなければならない。男の性分としてはその方が合っている。当面お惣菜入ればかり作って、腕を上げたいと思っている。この暮れには男が主宰している詩吟の会の関係者に男が作ったお惣菜入れをプレゼントしたいと考えている。