母・ともゑ (20101010)
信輔は母・ともゑのことを物語にした。物語の登場人物は実名もあるが偽名もある。事実が不明なことは想像して肉付けしている。そういう意味でこれは小説的であるとともに物語に近い小説である。信輔は1か月かけて毎日その小説を書き続けるうちに、この齢・73になるまでずっと胸につかえ続けきていたものが消えたことに気付いた。
この小説を書き始めるとき、信輔はその目的を次の三つに絞っていた。一つは信輔が10歳のとき33歳の若さで死んだ生母への追善供養、二つ目は信輔の自分史、三つ目は信輔の子や孫たちに自分たちの祖父母、曾祖父母たちがどんな人たちであったか、その時代の状況はどんなであったについて知ってもらうことである。
信輔は継母・八千代の介護のため毎月のように帰郷している。1週間前、横浜の信輔のところに突然電話が入った。「ヘルパーの山内です。お母様がちょっと熱を出していて、血圧も高いです」と報告してきた。信輔は妻と一緒に急きょ帰郷するためインターネットで飛行機の切符の手配をし、土曜日であったがいつもお世話になっているかかりつけの病院に電話を入れて入院させたいと先生に伝えてくれるように依頼し、いつも使っているタクシー会社に電話を入れて八千代を迎えに行って病院に連れて行ってくれるように頼んだ。
91歳の継母・八千代は入院して点滴を受け、白血球数が初め1600まで下がっていたのが入院1週間後1900まで回復し、赤血球数も正常に近い値に戻った。八千代は6年前大腸にリンパ腫が発生し、治療を受けているので造血能力が落ちている。白血球を増やす薬も使えない。免疫力が低下しているのでちょっとしたことで体調を崩しやすい。もし信輔の生母・ともゑが生きているとすればともゑは97歳である。その場合、ともゑは今の信輔にとってどのような母親であろうかとふと思うことがある。
それはともかくとして、信輔は八千代の介護のため毎月のように帰郷し、その度に在郷の小学校・中学校時代の同級生たちに会っている。この度も信輔の帰りを楽しみしている芳郎が辰夫と一緒に湯平温泉で会って、昼食と入浴をして夕方までそこで遊ぶことにしている。湯平には千葉に住む同級生の洋介が帰郷の度に泊っている宿がある。
3人の話題によく登場するのがその洋介と神奈川の座間に住んでいる貞行のことである。洋介も年に1、2度帰郷しているが貞行は郷里を出て以来殆ど帰郷したことがない。今年の4月の同級会のとき何10年ぶりかに帰郷しただけである。皆60年前同じ鶴崎中学校に入った同級生たちである。60年前13歳だった男たちの話題には信輔が小説に書いた女子の同級生のことも上がる。そのような竹馬の友だちがいるからこそ、信輔は継母の介護のため帰郷することが楽しみになっている。
それもそう長くは続かないだろう。人生はそのようなものである。私小説を書くということは自分が生きてきた証を遺すためでもある。母・ともゑのことについて書いて遺す。それが信輔の「役割」の一つになっている。信輔にはまだ他に幾つかの「役割」があるが、すべての「役割」を終えようとするとき信輔は微笑んで「あの世」に逝くことだろう。
2010年10月9日土曜日
母・ともゑ (20101009)
人は、自分の「役割」を自覚することができれば、その人は幸せである。傍目にその人がどのように不幸せそうに見えても、当の本人は幸せである。信輔の母・ともゑは自分が幸せであったから苦しみ耐えることができたのである。信輔の前では決して苦痛の表情を見せることはなかったのである。
昔、武士が切腹するとき、作法に従って淡々として自らの腹を切り、人によっては介錯さえも拒んだ。切腹する前に辞世の歌を詠み、後世に遺して逝った。その武士が自らの「役割」を自覚しているからこそ、自分の人生の最期を美しく飾ることができるのである。
昔は「形」が重んじられていた。信輔が子供の頃、毎朝顔を洗って仏様にお参りし、居間に集まっている大人たち一人一人に対面して両手をハの字に揃えて床の上について、一人ひとりの名前を言って「お早うございます」と挨拶していた。それは祖父・又四郎の家のしきたりだった。ともゑ亡き後、又四郎が信輔の精神教育を行っていた。
このように「形」を重要視する文化が日本にはまだ残っている。それは「道」という字がつく習い事の世界にある。武道にせよ、茶道にせよ、礼節が重んじられる。そのように「形」を重んじる文化は他国にはない。日本人は今一度昔の精神文化を見直すべきときに来ている。アメリカとの戦争に敗れ、日本人はアメリカの文化に汚染されてしまった。その結果、社会でも家庭でもいろいろな歪が生じてきている。昔の良き日本の文化を見直すことが、日本の将来のために必要である。
信輔の母・ともゑは信輔が何か言われてそれを肯定するとき「うん」と頷くと、「‘うん’ではないでしょう?‘はい’と言いなさい」とよく叱られていたものである。信輔の母も親子の間の親近感と距離感のバランスをとるのが難しかったかもしれない。今の日本の家庭では、特に母親は自分の娘を友だちのよいにしている情景をよく見かける。その一方で親による子供への虐待が増え続けている。
人は、自分の「役割」を自覚することさえできれば、他人がどう言おうと本人は幸せである。生まれた時から五体不満足であっても、「世の光」となって人々に感動と喜びを与えている人がいる。肢体不自由な詩人で画家、盲目のピアニスト、スポーツ選手など世の中で活躍している人たちは大勢いる。その一方で、五体満足で何一つ不自由でもないのに罪を犯し、牢獄につながれ、死刑になる人もいる。
お釈迦様は「業(ごう)」と六道輪廻を説いておられる。この世は「生老病死の苦」やあらゆる苦しみがある。修行して「真理」を悟り、解脱すればそれらの苦しみは無くなると説いておられる。キリスト教でも旧約聖書の『ヨブ記』には似たようなことが書かれている。善良なヨブが言いつくせぬ苦難に遭い、見かねた友人らがヨブに神を呪うことを勧めたが、ヨブは時に自分の出生や現状を恨みながらも決して神の仕業を疑わず、総ては神の思し召しであると考え、神への帰依の心を一層強くしてゆき、最後に幸せを得ている。
人は、自分の「役割」を自覚することができれば、その人は幸せである。傍目にその人がどのように不幸せそうに見えても、当の本人は幸せである。信輔の母・ともゑは自分が幸せであったから苦しみ耐えることができたのである。信輔の前では決して苦痛の表情を見せることはなかったのである。
昔、武士が切腹するとき、作法に従って淡々として自らの腹を切り、人によっては介錯さえも拒んだ。切腹する前に辞世の歌を詠み、後世に遺して逝った。その武士が自らの「役割」を自覚しているからこそ、自分の人生の最期を美しく飾ることができるのである。
昔は「形」が重んじられていた。信輔が子供の頃、毎朝顔を洗って仏様にお参りし、居間に集まっている大人たち一人一人に対面して両手をハの字に揃えて床の上について、一人ひとりの名前を言って「お早うございます」と挨拶していた。それは祖父・又四郎の家のしきたりだった。ともゑ亡き後、又四郎が信輔の精神教育を行っていた。
このように「形」を重要視する文化が日本にはまだ残っている。それは「道」という字がつく習い事の世界にある。武道にせよ、茶道にせよ、礼節が重んじられる。そのように「形」を重んじる文化は他国にはない。日本人は今一度昔の精神文化を見直すべきときに来ている。アメリカとの戦争に敗れ、日本人はアメリカの文化に汚染されてしまった。その結果、社会でも家庭でもいろいろな歪が生じてきている。昔の良き日本の文化を見直すことが、日本の将来のために必要である。
信輔の母・ともゑは信輔が何か言われてそれを肯定するとき「うん」と頷くと、「‘うん’ではないでしょう?‘はい’と言いなさい」とよく叱られていたものである。信輔の母も親子の間の親近感と距離感のバランスをとるのが難しかったかもしれない。今の日本の家庭では、特に母親は自分の娘を友だちのよいにしている情景をよく見かける。その一方で親による子供への虐待が増え続けている。
人は、自分の「役割」を自覚することさえできれば、他人がどう言おうと本人は幸せである。生まれた時から五体不満足であっても、「世の光」となって人々に感動と喜びを与えている人がいる。肢体不自由な詩人で画家、盲目のピアニスト、スポーツ選手など世の中で活躍している人たちは大勢いる。その一方で、五体満足で何一つ不自由でもないのに罪を犯し、牢獄につながれ、死刑になる人もいる。
お釈迦様は「業(ごう)」と六道輪廻を説いておられる。この世は「生老病死の苦」やあらゆる苦しみがある。修行して「真理」を悟り、解脱すればそれらの苦しみは無くなると説いておられる。キリスト教でも旧約聖書の『ヨブ記』には似たようなことが書かれている。善良なヨブが言いつくせぬ苦難に遭い、見かねた友人らがヨブに神を呪うことを勧めたが、ヨブは時に自分の出生や現状を恨みながらも決して神の仕業を疑わず、総ては神の思し召しであると考え、神への帰依の心を一層強くしてゆき、最後に幸せを得ている。
2010年10月8日金曜日
母・ともゑ (20101008)
人は、この世に生れて来るとき、それぞれある「役割」を担って生まれてくるものである。人はその「役割」を自覚することができれば、自分の人生を最も価値あるものにすることができるものである。信輔の母・ともゑは今際の時、わが子・信輔に対し、人としての「役割」について自らの身をもって教えたのである。そのことを信輔は73にもなって初めてはっきりと認識することができた。
一口に「役割」といても、段階に応じていろいろな役割がある。人としての「役割」、国民としての「役割」、社会人としての「役割」、職業人としての「役割」、父親または母親としての「役割」、子供としての「役割」、夫または妻としての「役割」、男性または女性としての「役割」などが考えられる。ミツバチやアリの社会では、例えば「女王蜂」「働き蜂」「兵隊アリ」のような役割があり、彼らはその役割を果たして一生を終る。
人の集合・組織体である国家についても国家としての役割がある。日本国憲法前文には、日本国家のあり方の原則が書かれている。その一文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という箇所がある。
アンダーラインの部分は理想である。しかし現実には中国や韓国やロシアのように、我が国固有の領土である尖閣諸島や竹島や北方四島を「自国の領土」であると公然と主張する国々に「公正と信義」があるだろうか?国家の役割の第一は我が国固有の領土・領海・領空を侵犯させないことである。そのことこそ憲法前文に書かれなければならないのではないだろうか?
それはさておき、ここで考えるのは「人としての役割」である。人は百人百様、いろいろな運命を背負ってこの世に生を享けている。五体満足、知能・性格も優れて生れてくる者もおれば、五体不満足、知的障害、精神障害をもって生まれくる者もいる。生まれて来た後の育てられ方、家庭環境、社会環境なども千差万別である。成長過程でも大人になった後でも誰も予測できないいろいろな状況が起きる。
信輔の母・ともゑも自分の運命を予測できず、傍から見るに堪えないような苦しみの中でこの世を去った。今際の時、信輔に「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、今度はがんが転移したこぶだらけの「背中をさすっておくれ」とは言わず、「お仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言った。線香に火をつけ、東に向かって手を合わせ、「お父さんを呼んできておくれ」と言った。
ともゑは自分の最期のとき、わが子・信輔に自らの身をもって人の生き方と死に方を教えたのである。その時子供であった信輔には母の教えを理解することはできなかったが、強烈な印象だけを信輔に与えることはできた。33歳でこの世を去るともゑは、そのようにして「人としての役割」を果たしたのである。
人は、この世に生れて来るとき、それぞれある「役割」を担って生まれてくるものである。人はその「役割」を自覚することができれば、自分の人生を最も価値あるものにすることができるものである。信輔の母・ともゑは今際の時、わが子・信輔に対し、人としての「役割」について自らの身をもって教えたのである。そのことを信輔は73にもなって初めてはっきりと認識することができた。
一口に「役割」といても、段階に応じていろいろな役割がある。人としての「役割」、国民としての「役割」、社会人としての「役割」、職業人としての「役割」、父親または母親としての「役割」、子供としての「役割」、夫または妻としての「役割」、男性または女性としての「役割」などが考えられる。ミツバチやアリの社会では、例えば「女王蜂」「働き蜂」「兵隊アリ」のような役割があり、彼らはその役割を果たして一生を終る。
人の集合・組織体である国家についても国家としての役割がある。日本国憲法前文には、日本国家のあり方の原則が書かれている。その一文に「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という箇所がある。
アンダーラインの部分は理想である。しかし現実には中国や韓国やロシアのように、我が国固有の領土である尖閣諸島や竹島や北方四島を「自国の領土」であると公然と主張する国々に「公正と信義」があるだろうか?国家の役割の第一は我が国固有の領土・領海・領空を侵犯させないことである。そのことこそ憲法前文に書かれなければならないのではないだろうか?
それはさておき、ここで考えるのは「人としての役割」である。人は百人百様、いろいろな運命を背負ってこの世に生を享けている。五体満足、知能・性格も優れて生れてくる者もおれば、五体不満足、知的障害、精神障害をもって生まれくる者もいる。生まれて来た後の育てられ方、家庭環境、社会環境なども千差万別である。成長過程でも大人になった後でも誰も予測できないいろいろな状況が起きる。
信輔の母・ともゑも自分の運命を予測できず、傍から見るに堪えないような苦しみの中でこの世を去った。今際の時、信輔に「お兄ちゃん起こしておくれ」と言い、今度はがんが転移したこぶだらけの「背中をさすっておくれ」とは言わず、「お仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言った。線香に火をつけ、東に向かって手を合わせ、「お父さんを呼んできておくれ」と言った。
ともゑは自分の最期のとき、わが子・信輔に自らの身をもって人の生き方と死に方を教えたのである。その時子供であった信輔には母の教えを理解することはできなかったが、強烈な印象だけを信輔に与えることはできた。33歳でこの世を去るともゑは、そのようにして「人としての役割」を果たしたのである。
2010年10月7日木曜日
母・ともゑ (20101007)
戦後65年も経つ間に日本人は戦前自分たちの父祖が命がけで築こうとしたことに目を背け、父祖たちが悪いことをしたという自虐的史観を植えつけられて今日まできた。その間、共産党一党独裁の国々では一貫した戦略で自国の国民を愛国的になるように強力に指導し、自国を富ませ、自国を誇りに思うようにさせるためあらゆる方策を実行してきている。
一方わが国では国民に愛国心を持たせ、国に誇りを持たせる教育をおろそかにし、経済活動を最優先させてきている。日本人は隣国を観るにあたり、その国の指導層と一般国民を分けて観るということをせず、個々に触れ合う人々の考え方や態度、ある意味では市民生活全般の文化の面だけを観てその国の国家としての考え方や態度を推し量り、親近感を抱こうとする。相手の国の(指導層)は始終一貫した原則と戦略で我が国に対処しているのに対し、我が国の政府にはそのような原則や戦略を持たずに今日まで来ている。
わが国の政府がそのようにあるだけではなく、一部の日本人は隣国の政府のそのような原則や戦略に沿った行動をし、その国の反日・愛国教育に肩入れしている。先の国会での尖閣諸島問題に関する集中審議で明らかにされたが、井上清という歴史学者は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表し、日本の尖閣諸島領有は国際法的に無効であると主張した。
彼は既に没しているが昭和13年(1938年)生まれで信輔と同年輩である。70歳前後の日本人たちが自分たちの父祖たちの事跡を否定し、父祖たちがアジアで悪いことをしたと思い込み、或いは思い込まされ、この日本の指導的立場にあった。次の時代を担う子孫たちにとってこれは不幸なことであった。
戦前派の人で元日本社会党委員長であった田邊誠は、南京大虐殺紀念館(中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)の建設に貢献した。彼は1980年代に南京市を訪れ、その記念館の建設を自ら求め、当時の総評から3000万円の資金を調達して南京市に寄付した。その記念館の設計は日本人が行っている。始終一貫した原則と戦略をもって行動する中国の指導層・共産党政府はその記念館を最大限に活用し、近代史教育と称して若い世代に反日感情を植えつけている。その延長線上に今回の尖閣諸島問題が起きている。
国家が国民に対して愛国心の教育を積極的に行うことは決して非難されるべきことではない。むしろ奨励されるべきことである。古来歴史が示すとおり日本は常に中国・朝鮮半島・ロシアとは緊張関係にあった。それは今後も続くだろう。戦後の日本の指導層が自虐的史観に陥り、日本国民に対する愛国心高揚の施策・教育を怠ってきた結果、竹島や尖閣諸島や北方四島の問題となって起きているのである。
国家が国民に対して愛国心教育を行うことは良い。しかし中国がその記念館に旧日本軍の行為について事実に反することを展示することは日本人として不愉快である。そもそも日本は侵略国家ではない。東京裁判の結果、侵略国家とされてしまったのである。
信輔は父・一臣と母・ともゑが人生の一時期、朝鮮で教育に従事したことを誇りに思っている。信輔はこの父母の追善のため自分の残りの人生を捧げたいと思う。
戦後65年も経つ間に日本人は戦前自分たちの父祖が命がけで築こうとしたことに目を背け、父祖たちが悪いことをしたという自虐的史観を植えつけられて今日まできた。その間、共産党一党独裁の国々では一貫した戦略で自国の国民を愛国的になるように強力に指導し、自国を富ませ、自国を誇りに思うようにさせるためあらゆる方策を実行してきている。
一方わが国では国民に愛国心を持たせ、国に誇りを持たせる教育をおろそかにし、経済活動を最優先させてきている。日本人は隣国を観るにあたり、その国の指導層と一般国民を分けて観るということをせず、個々に触れ合う人々の考え方や態度、ある意味では市民生活全般の文化の面だけを観てその国の国家としての考え方や態度を推し量り、親近感を抱こうとする。相手の国の(指導層)は始終一貫した原則と戦略で我が国に対処しているのに対し、我が国の政府にはそのような原則や戦略を持たずに今日まで来ている。
わが国の政府がそのようにあるだけではなく、一部の日本人は隣国の政府のそのような原則や戦略に沿った行動をし、その国の反日・愛国教育に肩入れしている。先の国会での尖閣諸島問題に関する集中審議で明らかにされたが、井上清という歴史学者は1972年に『「尖閣」列島--釣魚諸島の史的解明』を発表し、日本の尖閣諸島領有は国際法的に無効であると主張した。
彼は既に没しているが昭和13年(1938年)生まれで信輔と同年輩である。70歳前後の日本人たちが自分たちの父祖たちの事跡を否定し、父祖たちがアジアで悪いことをしたと思い込み、或いは思い込まされ、この日本の指導的立場にあった。次の時代を担う子孫たちにとってこれは不幸なことであった。
戦前派の人で元日本社会党委員長であった田邊誠は、南京大虐殺紀念館(中国での正式名称は「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」)の建設に貢献した。彼は1980年代に南京市を訪れ、その記念館の建設を自ら求め、当時の総評から3000万円の資金を調達して南京市に寄付した。その記念館の設計は日本人が行っている。始終一貫した原則と戦略をもって行動する中国の指導層・共産党政府はその記念館を最大限に活用し、近代史教育と称して若い世代に反日感情を植えつけている。その延長線上に今回の尖閣諸島問題が起きている。
国家が国民に対して愛国心の教育を積極的に行うことは決して非難されるべきことではない。むしろ奨励されるべきことである。古来歴史が示すとおり日本は常に中国・朝鮮半島・ロシアとは緊張関係にあった。それは今後も続くだろう。戦後の日本の指導層が自虐的史観に陥り、日本国民に対する愛国心高揚の施策・教育を怠ってきた結果、竹島や尖閣諸島や北方四島の問題となって起きているのである。
国家が国民に対して愛国心教育を行うことは良い。しかし中国がその記念館に旧日本軍の行為について事実に反することを展示することは日本人として不愉快である。そもそも日本は侵略国家ではない。東京裁判の結果、侵略国家とされてしまったのである。
信輔は父・一臣と母・ともゑが人生の一時期、朝鮮で教育に従事したことを誇りに思っている。信輔はこの父母の追善のため自分の残りの人生を捧げたいと思う。
2010年10月6日水曜日
母・ともゑ (20101006)
ともゑが戦前朝鮮半島に居住していた時、ともゑにとって東の方角は皇居がある方角であり、自分の父方の先祖が出た方角でもあった。ともゑが今際の時に東の方角を礼拝したのは突然思い付いてそうしたのではなく、ともゑの過去の習慣がそうさせに違いない。
信輔はともゑの葬式に来ていた丹生の小父さんが翌朝四方に礼拝していたのを覚えている。信輔は子供の頃母・ともゑが東方を礼拝したことを見たことはなかった。しかし、ともゑは誰にも分らぬように毎朝東の方角に向かって手を合わせていたのではないかと思う。
須美子は「ともゑ姉は20歳前の若い時でも、とても礼儀正しく、物事をよくわきまえていた。言葉づかいがとても丁寧だった。どう言ったらよいか、とにかく普通の人ではなかった。とてもしっかりしていたよ。」と信輔に語ってくれた。信輔の父・一臣も信輔に「お前の御母さんは、何をするにも段取りがよく、無駄がなかった。」と言ったことがある。信輔が想像するに、多分母・ともゑは昔の武家の女性のようなところがあったのであろう。
信輔が想い出すことがある。信輔は叔母たちから「お前は言葉使いがとても良かった。」と言われたことがある。そう言われたとき既に信輔の言葉使いは大分弁という方言を使っており、朝鮮から引き揚げて来た当時のようではなくなっていた。家長制度もなくなって家庭の中の秩序も崩れかけていた。信輔自身自覚が全くなかったが、信輔はいつのまにか戦前まで身につけていた品格を失ってしまっていた。
信輔は祖父・又四郎の家にいた時、毎朝顔を洗って仏壇にお参りした後、居間の火鉢の周りに坐していた祖父らに朝の挨拶をしていた。「お爺さんおはようございます。お婆さんお早うございます。お父さんお早うございます。直叔父さんお早うございます。」と欠かさず挨拶していた。その後、座敷を箒で掃いたり、板の間や敷居や柱などを雑巾がけしたり、庭を掃いたりしていた。それは、母・ともゑが亡くなった後のことであった。祖父たちは信輔らにそのような日課を与えることによりともゑな亡き後の子どもたちの躾をしていたに違いない。大人たちは信輔ら子どもたちが仏壇にお参りする頃、皆火鉢の周りに集まり、信輔らの挨拶を受けるようにしていたのである。
盆や正月や村のお祭りのとき、嫁ぎ先から叔母たちが挨拶に来ていた。信輔はそのときの様子を鮮明に覚えている。叔母たちは個々にやってきたのであるが、実家に来た時先ず仏さま、つまり仏壇にお参りし、その後、居間の火鉢の周りの上座に坐している祖父・又四郎と隣に座っている祖母・シズエに作法に従って両手をつき、丁寧な挨拶をしていた。
信輔が子供時代過ごした大分の旧鶴崎地方では未だにそのような風習が残っている家がある。残っているといっても丁寧で格式ばった形ではなく、照れくさ交じりの砕けた形になっている。それでも訪問先で先ず仏壇にお参りし、それから一応両手をついて挨拶を交わす。仏壇にお参りするとき、祭壇の前に時と場合によって百円玉とか千円札を置くのがしきたりである。仏壇は古い家ならどこでも縦横1間幅の中に納められる大きなものである。信輔は、仏壇はその位のものでないとお参りしても気持ちが落ち着かない。
ともゑが戦前朝鮮半島に居住していた時、ともゑにとって東の方角は皇居がある方角であり、自分の父方の先祖が出た方角でもあった。ともゑが今際の時に東の方角を礼拝したのは突然思い付いてそうしたのではなく、ともゑの過去の習慣がそうさせに違いない。
信輔はともゑの葬式に来ていた丹生の小父さんが翌朝四方に礼拝していたのを覚えている。信輔は子供の頃母・ともゑが東方を礼拝したことを見たことはなかった。しかし、ともゑは誰にも分らぬように毎朝東の方角に向かって手を合わせていたのではないかと思う。
須美子は「ともゑ姉は20歳前の若い時でも、とても礼儀正しく、物事をよくわきまえていた。言葉づかいがとても丁寧だった。どう言ったらよいか、とにかく普通の人ではなかった。とてもしっかりしていたよ。」と信輔に語ってくれた。信輔の父・一臣も信輔に「お前の御母さんは、何をするにも段取りがよく、無駄がなかった。」と言ったことがある。信輔が想像するに、多分母・ともゑは昔の武家の女性のようなところがあったのであろう。
信輔が想い出すことがある。信輔は叔母たちから「お前は言葉使いがとても良かった。」と言われたことがある。そう言われたとき既に信輔の言葉使いは大分弁という方言を使っており、朝鮮から引き揚げて来た当時のようではなくなっていた。家長制度もなくなって家庭の中の秩序も崩れかけていた。信輔自身自覚が全くなかったが、信輔はいつのまにか戦前まで身につけていた品格を失ってしまっていた。
信輔は祖父・又四郎の家にいた時、毎朝顔を洗って仏壇にお参りした後、居間の火鉢の周りに坐していた祖父らに朝の挨拶をしていた。「お爺さんおはようございます。お婆さんお早うございます。お父さんお早うございます。直叔父さんお早うございます。」と欠かさず挨拶していた。その後、座敷を箒で掃いたり、板の間や敷居や柱などを雑巾がけしたり、庭を掃いたりしていた。それは、母・ともゑが亡くなった後のことであった。祖父たちは信輔らにそのような日課を与えることによりともゑな亡き後の子どもたちの躾をしていたに違いない。大人たちは信輔ら子どもたちが仏壇にお参りする頃、皆火鉢の周りに集まり、信輔らの挨拶を受けるようにしていたのである。
盆や正月や村のお祭りのとき、嫁ぎ先から叔母たちが挨拶に来ていた。信輔はそのときの様子を鮮明に覚えている。叔母たちは個々にやってきたのであるが、実家に来た時先ず仏さま、つまり仏壇にお参りし、その後、居間の火鉢の周りの上座に坐している祖父・又四郎と隣に座っている祖母・シズエに作法に従って両手をつき、丁寧な挨拶をしていた。
信輔が子供時代過ごした大分の旧鶴崎地方では未だにそのような風習が残っている家がある。残っているといっても丁寧で格式ばった形ではなく、照れくさ交じりの砕けた形になっている。それでも訪問先で先ず仏壇にお参りし、それから一応両手をついて挨拶を交わす。仏壇にお参りするとき、祭壇の前に時と場合によって百円玉とか千円札を置くのがしきたりである。仏壇は古い家ならどこでも縦横1間幅の中に納められる大きなものである。信輔は、仏壇はその位のものでないとお参りしても気持ちが落ち着かない。
2010年10月5日火曜日
母・ともゑ (20101005)
そのほか、同じタイトルの記事から以下のとおり同様に引用する。この記事が書かれた時点では防衛庁(現在の防衛省)及び陸上自衛隊駐屯地は市ヶ谷にあった。
金貞烈将軍、日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。
李亨根将軍、日本陸軍士官学校(五十六期)、韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛庁)に桂の木が植えられている。その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。
表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」、裏面「韓国陸軍大将」、側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」。そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」
李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出している。同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれている。その中のおひとりに崔貞根少佐がおられる。
崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華した。二階級特進にて少佐、崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中、同期生のひとりに「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」と、その心情を吐露したという。(同期生追悼録「礎」より)
同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」と答えたそうである。
日韓併合など近代の歴史について、信輔はこれまで殆ど学んで来なかった。今70歳前後以降の日本人は東京裁判の結果植えつけられた自虐的歴史観により、自分たちの父祖が悪いことをしてきたと思い込んでいる人たちが多い。信輔自身は自分の子供時代の体験から、そのような立場に対して常に批判的であった。
母・ともゑが今際の時、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」「東を向けておくれ」と言った意味を、信輔はこの齢・73歳になって初めて理解している。ともゑはなぜ「東を向けておくれ」といったのか。その方向は極楽の世界があるとされる西方浄土の方向ではない。その真反対である。地理的には皇居がある東の京の方向である。ともゑは今際の時、遺してゆく信輔に対して意図的に自分をその方角に向けよと指示したのである。
そのほか、同じタイトルの記事から以下のとおり同様に引用する。この記事が書かれた時点では防衛庁(現在の防衛省)及び陸上自衛隊駐屯地は市ヶ谷にあった。
金貞烈将軍、日本陸軍士官学校(五十四期)、航空士官学校戦闘機科卒業、大東亜戦争はフィリピン作戦で武勲を上げ、三式戦「飛燕」の戦闘隊長として南方戦線で活躍した日本陸軍大尉。韓国空軍生みの親といわれる。
李亨根将軍、日本陸軍士官学校(五十六期)、韓国軍第三軍団長として朝鮮戦争で武勇を馳せる。新宿区市ヶ谷台の自衛隊駐屯地(現防衛庁)に桂の木が植えられている。その傍らに立つ標柱には下記の言葉が書かれている。
表面「桂恩師のために 第五十六期生 李亨根」、裏面「韓国陸軍大将」、側面「一九六八年 四月二十五日 韓国京城」。そして、一九九三年(平成五年)十二月、同期生の蔵田十紀二氏に宛てた書簡として「故桂区隊長殿の御逝去で悲痛窮りない気持ちです。特に御遺族様の御心境を思う時、胸の裂ける思いです。貴兄のこともしばしばお話しておられました。お互い健康に留意し志気旺盛に務めましょう・・・・・・」
李亨根将軍とともに陸士五十六期として昭和十四年十二月一日に入学した総人数約二千四百名のうち千名近い戦死者を出している。同期入校者には四名の朝鮮出身者が含まれている。その中のおひとりに崔貞根少佐がおられる。
崔貞根少佐(日本名 高山昇)は日本陸軍士官学校、航空士官学校と進み、卒業後、飛行第六十六戦隊(九十九式襲撃機部隊)に配属、フィリピンのレイテ沖作戦に参戦後、沖縄作戦に参加、昭和二十年四月二日、敵駆逐艦に体当たり散華した。二階級特進にて少佐、崔貞根少佐は陸軍士官学校在校中、同期生のひとりに「俺は天皇陛下のために死ぬということはできぬ」と、その心情を吐露したという。(同期生追悼録「礎」より)
同期の齋藤五郎氏は陸士の同期会で、李亨根氏にただしたところ、「その気持ちは貴様たちには判らんだろうなあ、それが判るときが、両国の本当の友好がうまれるときだ」と答えたそうである。
日韓併合など近代の歴史について、信輔はこれまで殆ど学んで来なかった。今70歳前後以降の日本人は東京裁判の結果植えつけられた自虐的歴史観により、自分たちの父祖が悪いことをしてきたと思い込んでいる人たちが多い。信輔自身は自分の子供時代の体験から、そのような立場に対して常に批判的であった。
母・ともゑが今際の時、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」「東を向けておくれ」と言った意味を、信輔はこの齢・73歳になって初めて理解している。ともゑはなぜ「東を向けておくれ」といったのか。その方向は極楽の世界があるとされる西方浄土の方向ではない。その真反対である。地理的には皇居がある東の京の方向である。ともゑは今際の時、遺してゆく信輔に対して意図的に自分をその方角に向けよと指示したのである。
2010年10月4日月曜日
母・ともゑ (20101004)
その1期後輩には金錫源(キムソクウオン)大佐がいる。日本兵1千名を率いて当時の支那軍を蹴散らした。二人とも創氏改名などしてはいなかった。以下、Googleで検索した『朝鮮における護国の英雄の末路』より、金錫源将軍に関する全文を引用する。但し「です、ます」調を「である」調に変える。
明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創氏改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめた。この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与された。
戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻された。
予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐である。
勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結した。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうであるが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれた。
米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのである。
無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことであろう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのである。
金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうである。(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)
金錫源将軍の三人の息子のなかのお一人金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶されたそうである。(古野直也氏の証言)
以上引用、参考「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社。「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社。
その1期後輩には金錫源(キムソクウオン)大佐がいる。日本兵1千名を率いて当時の支那軍を蹴散らした。二人とも創氏改名などしてはいなかった。以下、Googleで検索した『朝鮮における護国の英雄の末路』より、金錫源将軍に関する全文を引用する。但し「です、ます」調を「である」調に変える。
明治四十二年、大韓帝国武官学校生徒として日本に留学。陸軍幼年学校に編入、陸軍士官学校(二十七期)卒業。創氏改名せずに、日本陸軍大佐まで栄進。支那事変において大隊長(陸軍少佐)として山西省で、連隊の右翼を担当し全滅覚悟の激戦を指揮し白兵戦で支那軍を殲滅せしめた。この勇戦に対して金鵄勲章の功三級を授与された。
戦後は朝鮮に帰国し、韓国軍創設時に乞われて第一師団長に就任。親日狩りが横行し、准将にての就任。ときの李承晩大統領に対しても面前で直言してやまないために、予備役に廻された。
予備役になった時に、北朝鮮の侵攻を予知して「目標三十八度線」を唱えて、大田で青年有志を集めて義勇軍を組織。昭和二十五年六月二十五日北朝鮮軍の侵略により、首都ソウルを守る第一師団長として再び現役復帰させられる。その時の参謀長は元日本陸軍少尉(後の駐日大使)崔慶禄大佐である。
勇将金錫源准将の元には元日本兵である韓国人が我先に全国から集結した。そして、米軍軍事顧問団の制止も聞かず、日本刀を振りかざし最前線で陣頭指揮を取り続けたそうであるが、一九五〇年八月十七日に、この時には第三師団の指揮を取っていた金将軍もついに浦項よりの撤退の事態に追い込まれた。
米軍の艦砲射撃による援護の中、将兵が用意された四隻のLSTに乗り込んで次々と脱出していくが、一隻のLSTだけが離岸しようとしない。最後の一兵を収容するまで動こうとしない金将軍の乗船を待っていたのである。
無事撤収を終え、その最後のLSTに乗り込んだ金将軍を驚かせたであろうのは、アメリカ海軍のLSTの乗組員は、かっての戦友である旧日本帝国海軍将兵であったことであろう。朝鮮戦争に参戦したのは、掃海艇だけではなかったのである。
金錫源将軍は上陸を前にこれまで作戦指導中に片時も放さなかった日本刀を副官の南少尉に手渡したそうである。(「最後の日本刀」『丸』五九六号潮書房)
金錫源将軍の三人の息子のなかのお一人金泳秀日本陸軍大尉(陸士五七期)は昭和二十年フィリピン戦線で壮烈な戦死を遂げて靖國神社に祀られている。昭和五十五年に旧日本陸軍将校の会である偕行社の総会に招かれた時に、金将軍は「自分の長男は戦争に参加して戦死した。それは軍人として本望である。本人も満足しているであろう」と挨拶されたそうである。(古野直也氏の証言)
以上引用、参考「親日アジア街道を行く」井上和彦著 扶桑社。「日韓共鳴二千年史」名越二荒之助編著 明成社。
2010年10月3日日曜日
母・ともゑ (20101003)
一臣は妻・ともゑが死んでその悲しみを忘れるため一生懸命に働いていた。その悲しみが薄らいできたころ、一臣は師範学校時代の先輩や同級生たちの奔走のお陰で教職に復帰することができた。しかし、初めから正教員としてではなく、助教諭という資格であった。一臣はその後、正教諭になることができ1級の免許も得ることができた。初めは玖珠郡の分校の校長を皮切りに幾つかの校長を務め、定年まで働くことができた。その陰には、信輔の継母となった八千代の内助の功があった。
一臣は富久子が子宮外妊娠で死んだとき仏壇を買った。富久子は終戦時2歳で、朝鮮から引き揚げるときともゑの背に負われていて、小倉の駅のホームに降りるとき仰向けに転倒し、ホームに体ごと衝突したが幸い事故にはならなかった。20歳になって叔父・業政の世話で、叔父の家から通勤しながら東京都内の会社に勤めることができ、短い期間であったが幸せなOL生活を送ることができた。その後、叔父・幸雄の世話で福岡で瓦製造業を営む会社の社長の長男に嫁ぎ、妊娠し人生で最も幸せな時期を送っていた。その富久子が死んだので仏壇を買ったのである。
一臣は生前自分の戒名を貰っていた。その戒名札は仏壇に納められていて、その脇にともゑの戒名札があった。一臣は寺の納骨堂に自分の納骨壇を持っていた。一臣が死んだ後、信輔は一臣の遺骨をその中に納めたが、そのときその納骨壇の中に「ともゑ」と書かれている紙包みを見つけた。開いてみるとそれは一個の石ころであった。その石ころはともゑの墓がまだ石積みと竹筒だけであった頃、一臣がそのともゑの墓から石を一個持って帰っていたものであった。ともゑの墓は一臣が白血病で入院中、信輔の要求で哲郎の墓とともにきちんとした墓石のある墓になった。一臣の納骨壇の中には哲郎と書かれている紙包みもあった。一臣は富久子が死んだとき仏壇を買ったが、ともゑと哲郎の墓は埋葬時と変わらぬ状態にしたままであったのである。一臣は信輔の継母となった八千代に遠慮していたのかもしれない。或いは、ともゑや哲郎のことは、自分の長男・信輔が何か言うまで放って置こうと考えていたのかもしれない。
一臣もともゑも人生の一時期、戦前の教育体制下で国家に有用な人材の育成に携わった。当時は朝鮮籍も日本人であり、教育の面において日本籍であろうと朝鮮籍であろうと一切差別はなかった。朝鮮籍の女学生や小学生に対して日本人に接することと全く同じように接し、部下の朝鮮籍の教員に対しても、近所の朝鮮籍の住民に足しても決して偉ぶることなく接していた。信輔自身、当時同級生が朝鮮籍であったことを全く意識していなかった。
それは陸軍士官学校でも同様であった。ただし、海軍兵学校では終始朝鮮籍の者の入校を認めていなかった。陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人で洪思翊(ホンサイウ)というお方がいる。彼は戦後マニラの軍事裁判で、戦争ならば起きうる部下による敵性国人の殺害という責任を負って死刑になった。
一臣は妻・ともゑが死んでその悲しみを忘れるため一生懸命に働いていた。その悲しみが薄らいできたころ、一臣は師範学校時代の先輩や同級生たちの奔走のお陰で教職に復帰することができた。しかし、初めから正教員としてではなく、助教諭という資格であった。一臣はその後、正教諭になることができ1級の免許も得ることができた。初めは玖珠郡の分校の校長を皮切りに幾つかの校長を務め、定年まで働くことができた。その陰には、信輔の継母となった八千代の内助の功があった。
一臣は富久子が子宮外妊娠で死んだとき仏壇を買った。富久子は終戦時2歳で、朝鮮から引き揚げるときともゑの背に負われていて、小倉の駅のホームに降りるとき仰向けに転倒し、ホームに体ごと衝突したが幸い事故にはならなかった。20歳になって叔父・業政の世話で、叔父の家から通勤しながら東京都内の会社に勤めることができ、短い期間であったが幸せなOL生活を送ることができた。その後、叔父・幸雄の世話で福岡で瓦製造業を営む会社の社長の長男に嫁ぎ、妊娠し人生で最も幸せな時期を送っていた。その富久子が死んだので仏壇を買ったのである。
一臣は生前自分の戒名を貰っていた。その戒名札は仏壇に納められていて、その脇にともゑの戒名札があった。一臣は寺の納骨堂に自分の納骨壇を持っていた。一臣が死んだ後、信輔は一臣の遺骨をその中に納めたが、そのときその納骨壇の中に「ともゑ」と書かれている紙包みを見つけた。開いてみるとそれは一個の石ころであった。その石ころはともゑの墓がまだ石積みと竹筒だけであった頃、一臣がそのともゑの墓から石を一個持って帰っていたものであった。ともゑの墓は一臣が白血病で入院中、信輔の要求で哲郎の墓とともにきちんとした墓石のある墓になった。一臣の納骨壇の中には哲郎と書かれている紙包みもあった。一臣は富久子が死んだとき仏壇を買ったが、ともゑと哲郎の墓は埋葬時と変わらぬ状態にしたままであったのである。一臣は信輔の継母となった八千代に遠慮していたのかもしれない。或いは、ともゑや哲郎のことは、自分の長男・信輔が何か言うまで放って置こうと考えていたのかもしれない。
一臣もともゑも人生の一時期、戦前の教育体制下で国家に有用な人材の育成に携わった。当時は朝鮮籍も日本人であり、教育の面において日本籍であろうと朝鮮籍であろうと一切差別はなかった。朝鮮籍の女学生や小学生に対して日本人に接することと全く同じように接し、部下の朝鮮籍の教員に対しても、近所の朝鮮籍の住民に足しても決して偉ぶることなく接していた。信輔自身、当時同級生が朝鮮籍であったことを全く意識していなかった。
それは陸軍士官学校でも同様であった。ただし、海軍兵学校では終始朝鮮籍の者の入校を認めていなかった。陸軍士官学校26期生で朝鮮名のままで帝国陸軍の中将に栄進した人で洪思翊(ホンサイウ)というお方がいる。彼は戦後マニラの軍事裁判で、戦争ならば起きうる部下による敵性国人の殺害という責任を負って死刑になった。
2010年10月2日土曜日
母・ともゑ (20101002)
刺身のお茶づけは醤油、ごま、みりん、お酒、ネギなどで作る。味がしみとおった刺身を白米の暖かいご飯の上に載せ、刺身を浸けた汁も少しかけてその上に熱いお茶をたっぷりかける。そしてやや時間をおいてから食べる。
信輔は妻・幸代がそのような茶づけを作ってくるたびに、自分が子供のころ入院中の母・ともゑが作ってくれたお茶づけのことを想い出す。当時、白米のご飯をそのようにして食べることは贅沢中の贅沢であり、入院中の母がそれを作って食べさせてくれたことは特別なことであったが、子供であった信輔には、母・ともゑが自分は食べずに信輔たちに食べさせてくれたということや、それが一度きりであったということしか覚えていない。
白米はシズエが普段自分は食べないのに夫、つまり信輔の祖父・又四郎の目を盗んでわざわざ息子・一臣に持たせてやったものであった。当時、まだ家長制度が残っていて、食事のとき家長である又四郎だけが別の御ひつで白米のご飯を食べ、シズエ以下家族は全員麦ごはんであった。食事中一切私語は禁止で、皆黙々と食べていた。長男であり、教師として朝鮮にも渡り外の空気を吸っていた一臣は、内心そのような風習を嫌っていたに違いないが、師範学校を出て以来実家を飛び出し、日本が戦争に負けてやむなく父・又四郎の家に厄介になっている身であるので、それは仕方ないことであると思っていたに違いない。食卓では正面の又四郎の右隣に座し、左隣にシズエが座し、一臣とシズエは向かい合うかたちであった。信輔らは家族の末席に序列に従い座していた。
一臣は教師の職に復帰することは諦めかけていた。当時の教員採用の年齢基準は35歳以下であったから、すでに37歳になっていた一臣には日本の敗戦による特殊な状況であったとはいえ、教師への復帰は不可能に近かった。一臣は、父・又四郎の家にいても、それまで長男として実家にいて父・又四郎に手伝っていたわけでもなかったので、家督は末弟・直紀に継がせる腹であった。一臣は妻・ともゑを失った後、遺された3人の子どもたち、つまり信輔と信直と富久子を養うため、全く不慣れな保険の営業の仕事に就いた。
中古の自転車を手に入れ、さつま芋を煮てつぶしたものを詰め込んだ弁当を手にして、知人・友人・親戚の家や見ず知らずの家に飛び込んで必死に営業活動をした。しかし、所詮は武士の商法、多少の顧客は取れても頭打ちとなり、ついには自ら顧客の肩代わりをして借金を重ねてしまった。
それを補てんするため、一臣は実家の倉庫の裏に豚小屋を造り豚を飼っていた。豚を飼うにも餌が必要である。豚を太らせるだけの餌を確保することは大変なことであったに違いない。一臣はある日その豚の餌にするため、たまたま鶏小屋の上の軒下にいて卵を狙っていた‘家主’と呼ばれる大きな青大将を見つけてそれを捕え、なたで輪切りにして与えたこともあった。
当時ヘビはどこにもいた。田圃に水を引く水路にはカラス蛇という赤い斑点があるヘビをよく見かけたものである。山にはマムシもいたが、人々はそれを捕えて皮を剥ぎ、日干しにして貴重な栄養源にしていた。信輔もマムシの骨を焼いて食べたことがある。
刺身のお茶づけは醤油、ごま、みりん、お酒、ネギなどで作る。味がしみとおった刺身を白米の暖かいご飯の上に載せ、刺身を浸けた汁も少しかけてその上に熱いお茶をたっぷりかける。そしてやや時間をおいてから食べる。
信輔は妻・幸代がそのような茶づけを作ってくるたびに、自分が子供のころ入院中の母・ともゑが作ってくれたお茶づけのことを想い出す。当時、白米のご飯をそのようにして食べることは贅沢中の贅沢であり、入院中の母がそれを作って食べさせてくれたことは特別なことであったが、子供であった信輔には、母・ともゑが自分は食べずに信輔たちに食べさせてくれたということや、それが一度きりであったということしか覚えていない。
白米はシズエが普段自分は食べないのに夫、つまり信輔の祖父・又四郎の目を盗んでわざわざ息子・一臣に持たせてやったものであった。当時、まだ家長制度が残っていて、食事のとき家長である又四郎だけが別の御ひつで白米のご飯を食べ、シズエ以下家族は全員麦ごはんであった。食事中一切私語は禁止で、皆黙々と食べていた。長男であり、教師として朝鮮にも渡り外の空気を吸っていた一臣は、内心そのような風習を嫌っていたに違いないが、師範学校を出て以来実家を飛び出し、日本が戦争に負けてやむなく父・又四郎の家に厄介になっている身であるので、それは仕方ないことであると思っていたに違いない。食卓では正面の又四郎の右隣に座し、左隣にシズエが座し、一臣とシズエは向かい合うかたちであった。信輔らは家族の末席に序列に従い座していた。
一臣は教師の職に復帰することは諦めかけていた。当時の教員採用の年齢基準は35歳以下であったから、すでに37歳になっていた一臣には日本の敗戦による特殊な状況であったとはいえ、教師への復帰は不可能に近かった。一臣は、父・又四郎の家にいても、それまで長男として実家にいて父・又四郎に手伝っていたわけでもなかったので、家督は末弟・直紀に継がせる腹であった。一臣は妻・ともゑを失った後、遺された3人の子どもたち、つまり信輔と信直と富久子を養うため、全く不慣れな保険の営業の仕事に就いた。
中古の自転車を手に入れ、さつま芋を煮てつぶしたものを詰め込んだ弁当を手にして、知人・友人・親戚の家や見ず知らずの家に飛び込んで必死に営業活動をした。しかし、所詮は武士の商法、多少の顧客は取れても頭打ちとなり、ついには自ら顧客の肩代わりをして借金を重ねてしまった。
それを補てんするため、一臣は実家の倉庫の裏に豚小屋を造り豚を飼っていた。豚を飼うにも餌が必要である。豚を太らせるだけの餌を確保することは大変なことであったに違いない。一臣はある日その豚の餌にするため、たまたま鶏小屋の上の軒下にいて卵を狙っていた‘家主’と呼ばれる大きな青大将を見つけてそれを捕え、なたで輪切りにして与えたこともあった。
当時ヘビはどこにもいた。田圃に水を引く水路にはカラス蛇という赤い斑点があるヘビをよく見かけたものである。山にはマムシもいたが、人々はそれを捕えて皮を剥ぎ、日干しにして貴重な栄養源にしていた。信輔もマムシの骨を焼いて食べたことがある。
2010年10月1日金曜日
母・ともゑ (20101001)
それは母・ともゑが別府の病院に入院する前の頃のことであった。信輔と信直は一臣に連れられて空襲で焼け野原になっていた大分の町を歩いたことがあった。街角で傷痍軍人が白い服を着て杖をついて、道行く人々に憐みを乞うていた。
その時・36歳の一臣はともゑの入院費を工面するため、師範学校時代の級友や知人などを訪ね歩いていた。幾ばくかの金は工面できたのであろう。やがてともゑは別府の病院に入院することができた。すでにがんは進行していて手遅れの状況であった。それでもともゑはがんの摘出手術に僅かの希望をつないでいた。
ともゑの弟・業政はソ連に抑留されていた。ともゑの妹・須美子は亡くなった母、つまり信輔の母方の祖母・まさの姉、それも既に他界してしまっている縁戚や知人の家を転々としながら教師に復職する道を探っていた。ともゑも須美子も業政がいない状況では親身になって頼れるような親族は何処にもなかった。
ともゑが別府の内田病院に入院している間、須美子は度々その病院を訪ねてきてはともゑの身の回りの世話をしていた。須美子はその病院までは山越えをして、2時間半もの長い時間をかけて歩いて来ていた。それは須美子がまだ若かったからできたことである。須美子は姉・ともゑの、身の回りの世話をしながら、自ら教師の職探しに奔走していた。
ともゑの乳がんは両乳房に発生していた。既に手遅れであったがともゑは片方づつがんの摘出手術を受けた。ともゑは手術後の手当てを受けるため、病室から治療室に通っていた。その時ともゑは眉にしわを寄せて胸を手で押さえながら病室に戻っていた。
信輔の記憶ではそれはともゑががんの手術を受けて、麻酔が切れたあと自力で病死に戻っていたように思っていたが、今考えてみるとそれは無理なことで、ともゑが胸を押さえながら戻って来たのは術後の手当てのためであったに違いない。信輔はともゑがある時は左の胸を、次には右の胸を押さえながら病室に戻っていたことだけは鮮明に記憶している。
信輔はともゑのがんの白い塊を見たことを覚えている。それは大きな塊であった。ある日、父親・一臣は信輔を連れて院長室に行ったことがあった。その時一臣は母、つまり信輔の祖母・シズエが又四郎の目を盗んで一臣に渡した野菜を抱えていた。一臣はともゑの入院費の支払いにも困っていたに違いない。院長にその野菜を渡しながら何やら言い訳のようなことを話していた。
しばらくして院長室を出て中庭に面した廊下を行くとき、中庭の池に亀が白い塊のようなものに食いついているのを見た。信輔はそれが母・ともゑの乳房から摘出したものであったに違いないと思っていた。
ある日ともゑは誰かに依頼して買って来て貰ったに違いない魚の刺身をお茶漬けにして信輔と信直に食べさせてくれたことがあった。それは一度きりだった。ともゑは自分の命がもう長くないことを悟り、せめて二人の息子たちに母の手作りの美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いない。白い暖かいご飯の上にその茶漬けを載せ、熱いお茶をかけてくれたものは、信輔が73歳になった今ても鮮明に思い出すことである。
それは母・ともゑが別府の病院に入院する前の頃のことであった。信輔と信直は一臣に連れられて空襲で焼け野原になっていた大分の町を歩いたことがあった。街角で傷痍軍人が白い服を着て杖をついて、道行く人々に憐みを乞うていた。
その時・36歳の一臣はともゑの入院費を工面するため、師範学校時代の級友や知人などを訪ね歩いていた。幾ばくかの金は工面できたのであろう。やがてともゑは別府の病院に入院することができた。すでにがんは進行していて手遅れの状況であった。それでもともゑはがんの摘出手術に僅かの希望をつないでいた。
ともゑの弟・業政はソ連に抑留されていた。ともゑの妹・須美子は亡くなった母、つまり信輔の母方の祖母・まさの姉、それも既に他界してしまっている縁戚や知人の家を転々としながら教師に復職する道を探っていた。ともゑも須美子も業政がいない状況では親身になって頼れるような親族は何処にもなかった。
ともゑが別府の内田病院に入院している間、須美子は度々その病院を訪ねてきてはともゑの身の回りの世話をしていた。須美子はその病院までは山越えをして、2時間半もの長い時間をかけて歩いて来ていた。それは須美子がまだ若かったからできたことである。須美子は姉・ともゑの、身の回りの世話をしながら、自ら教師の職探しに奔走していた。
ともゑの乳がんは両乳房に発生していた。既に手遅れであったがともゑは片方づつがんの摘出手術を受けた。ともゑは手術後の手当てを受けるため、病室から治療室に通っていた。その時ともゑは眉にしわを寄せて胸を手で押さえながら病室に戻っていた。
信輔の記憶ではそれはともゑががんの手術を受けて、麻酔が切れたあと自力で病死に戻っていたように思っていたが、今考えてみるとそれは無理なことで、ともゑが胸を押さえながら戻って来たのは術後の手当てのためであったに違いない。信輔はともゑがある時は左の胸を、次には右の胸を押さえながら病室に戻っていたことだけは鮮明に記憶している。
信輔はともゑのがんの白い塊を見たことを覚えている。それは大きな塊であった。ある日、父親・一臣は信輔を連れて院長室に行ったことがあった。その時一臣は母、つまり信輔の祖母・シズエが又四郎の目を盗んで一臣に渡した野菜を抱えていた。一臣はともゑの入院費の支払いにも困っていたに違いない。院長にその野菜を渡しながら何やら言い訳のようなことを話していた。
しばらくして院長室を出て中庭に面した廊下を行くとき、中庭の池に亀が白い塊のようなものに食いついているのを見た。信輔はそれが母・ともゑの乳房から摘出したものであったに違いないと思っていた。
ある日ともゑは誰かに依頼して買って来て貰ったに違いない魚の刺身をお茶漬けにして信輔と信直に食べさせてくれたことがあった。それは一度きりだった。ともゑは自分の命がもう長くないことを悟り、せめて二人の息子たちに母の手作りの美味しいものを食べさせてあげようと思ったに違いない。白い暖かいご飯の上にその茶漬けを載せ、熱いお茶をかけてくれたものは、信輔が73歳になった今ても鮮明に思い出すことである。
2010年9月30日木曜日
母・ともゑ (20100930)
日本が戦争に敗れた時から、朝鮮にいた日本人と韓国人の立場が変わった。朝鮮にいた日本人の教師たちはそれぞれ朝鮮での勤務履歴を証明する書類を貰い、日本に引き揚げた。信輔の父・一臣は9月末、帆船で引き揚げてきた。引き揚げの船を待つ間、引き揚げ者達は須美子が語ってくれたように、釜山に造られたテントによる臨時の収容施設で暮らしていたのであろう。信輔は父・一臣から帆船で引き揚げてきたということ以外、何も聞いていない。しかし当時36歳であった一臣は、他に引き揚げ者が多かったので汽船には乗ることはできなかったらしい。元気な者は帆船などで引き揚げてきたのだと想像する。
信輔は息子が韓国に事務所がある会社に勤めていたとき、妻・幸代とともに韓国旅行をしたことがある。そのとき、信輔は終戦前まで住んでいた醴泉に行き、当時の醴泉国民学校を訪れてみたいと思った。信輔と幸代は息子が韓国人の同僚と一緒に案内してくれて醴泉まで行くことができた。しかしその時当時の国民学校が何処にあったのかよく調べていなかったし、柳川という名前が付いている小学校であるということも事前に調べてもいなかったので、当時の柳川国民学校を見つけることはできなかった。しかしそれらしい小学校を見つけることはできた。それは当時の柳川国民学校に良く似ていた。その小学校は門を入って左側に住宅があり、校庭の左手に台地があった。台地には果樹は植えられてなかったが、小さな樹が並んで植えられていた。右側は山地であった。住宅は日本風の建物ではなかった。何か倉庫のような形をしていた。
その小学校ではたまたまその日は休日であったに関わらず何か催し物の準備が行われていて、校長先生も教頭先生もおられた。信輔たちはその小学校の戦前の古い写真集を見ることができた。集合写真の中央にいる人は日本人の校長であるに違いない。写っている子供たちも戦前の日本の子どもたちと全く変わらない。坊主頭で皆しっかりした引き締まった顔つきをしている。韓国人先生方も含まれていたに違いないが、皆同様の顔つきである。
校長室に案内されて、校長が歴代の校長の名前が書かれている掲示板を示してくれた。それは校長室の壁に掲げられていた。歴代校長は昭和20年9月まで、伊地知某などの日本人の名前が書かれていた。10月からはハングル文字の名前が書かれていた。日本人の名前の中に信輔の父の名前はなかった。旧柳川国民学校はもうなくなっているのかもしれない。
終戦後9月まで、信輔の父親もその学校に残っていたのかどうかは今となっては確かめようもない。いずれにせよ、信輔の父・一臣は終戦後すぐには引き揚げることができなくて、9月末になって引き揚げてきているのである。
戦後、小学校の教員の給与は米1升分程度だったらしい。一臣は父親、つまり信輔の祖父・又四郎の家に居候していた。妻、つまり信輔の母・ともゑが乳がんを患ったこともあったし、すぐには教職に復帰することもできなかったのであろう、一臣は又四郎に対して肩身の狭い思いをしながら実家の農業を手伝ったり飼っていた牛の世話をしたりしていた。
日本が戦争に敗れた時から、朝鮮にいた日本人と韓国人の立場が変わった。朝鮮にいた日本人の教師たちはそれぞれ朝鮮での勤務履歴を証明する書類を貰い、日本に引き揚げた。信輔の父・一臣は9月末、帆船で引き揚げてきた。引き揚げの船を待つ間、引き揚げ者達は須美子が語ってくれたように、釜山に造られたテントによる臨時の収容施設で暮らしていたのであろう。信輔は父・一臣から帆船で引き揚げてきたということ以外、何も聞いていない。しかし当時36歳であった一臣は、他に引き揚げ者が多かったので汽船には乗ることはできなかったらしい。元気な者は帆船などで引き揚げてきたのだと想像する。
信輔は息子が韓国に事務所がある会社に勤めていたとき、妻・幸代とともに韓国旅行をしたことがある。そのとき、信輔は終戦前まで住んでいた醴泉に行き、当時の醴泉国民学校を訪れてみたいと思った。信輔と幸代は息子が韓国人の同僚と一緒に案内してくれて醴泉まで行くことができた。しかしその時当時の国民学校が何処にあったのかよく調べていなかったし、柳川という名前が付いている小学校であるということも事前に調べてもいなかったので、当時の柳川国民学校を見つけることはできなかった。しかしそれらしい小学校を見つけることはできた。それは当時の柳川国民学校に良く似ていた。その小学校は門を入って左側に住宅があり、校庭の左手に台地があった。台地には果樹は植えられてなかったが、小さな樹が並んで植えられていた。右側は山地であった。住宅は日本風の建物ではなかった。何か倉庫のような形をしていた。
その小学校ではたまたまその日は休日であったに関わらず何か催し物の準備が行われていて、校長先生も教頭先生もおられた。信輔たちはその小学校の戦前の古い写真集を見ることができた。集合写真の中央にいる人は日本人の校長であるに違いない。写っている子供たちも戦前の日本の子どもたちと全く変わらない。坊主頭で皆しっかりした引き締まった顔つきをしている。韓国人先生方も含まれていたに違いないが、皆同様の顔つきである。
校長室に案内されて、校長が歴代の校長の名前が書かれている掲示板を示してくれた。それは校長室の壁に掲げられていた。歴代校長は昭和20年9月まで、伊地知某などの日本人の名前が書かれていた。10月からはハングル文字の名前が書かれていた。日本人の名前の中に信輔の父の名前はなかった。旧柳川国民学校はもうなくなっているのかもしれない。
終戦後9月まで、信輔の父親もその学校に残っていたのかどうかは今となっては確かめようもない。いずれにせよ、信輔の父・一臣は終戦後すぐには引き揚げることができなくて、9月末になって引き揚げてきているのである。
戦後、小学校の教員の給与は米1升分程度だったらしい。一臣は父親、つまり信輔の祖父・又四郎の家に居候していた。妻、つまり信輔の母・ともゑが乳がんを患ったこともあったし、すぐには教職に復帰することもできなかったのであろう、一臣は又四郎に対して肩身の狭い思いをしながら実家の農業を手伝ったり飼っていた牛の世話をしたりしていた。
2010年9月29日水曜日
母・ともゑ (20100929)
そのような確固たる考え方もなく、日本人はA級戦犯として処刑された人たちを、その処刑された人たちによって戦地に送られ命を失った人たちと同じ処遇で靖国神社に祀ってしまった。その結果、未だに日本人はアジア、特に中国や朝鮮半島の人たちから誤解され続けている。「すまなかった」と頭を下げ続けている。
戦前の日本に反感を持つようなことがあったため、反日的になった韓国の初代大統領・李承晩は第4代国王となった世宗の兄・譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君は李氏朝鮮の第3代国王・太宗((1397年-1450年)の長男である。この太宗は初代国王李成桂の五男で本名を李芳遠(イ・バンウォン)という。初代国王李成桂は女真族であったという。
女真族は満州族と言われる種族で中国の清王朝を建てた。その女真族は寛仁3年(1019年)3月27日、船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島民を殺害し放火をして暴れまわっている。国司・対馬守遠晴は島から脱出し大宰府に逃れた。
女真族の賊徒は對馬に続いて壱岐を襲撃し、老人や子供を殺害したうえ壮年の男女を船にさらい、人家を焼きはらい牛馬など家畜を食い荒らした。知らせを聞いた国司の壱岐守・藤原理忠はただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向ったが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまった。
賊徒はその後筑前国(現在の福岡県)怡土郡に襲来し、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を散々荒らし回った。これに対して大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。
この事件は、蒙古人の元(当時の中国)が、自ら支配していた朝鮮半島で船を造らせ、鋼線半島の人々を兵士として雇い、北九州に来襲した事件の250年ほど前の事件である。当時女真族の国は「刀伊」と呼ばれ、その事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。
日本と中国大陸・朝鮮半島の間には古来ずっと緊張関係が続いて来ているのである。そのことを東京裁判の結果魂を抜かれた日本人は忘れてしまっている。鳩山元総理や小沢元幹事長などは、そのような歴史観もなかったため、この日本国を今危うい状況に陥れてしまっている。彼らは今この危機のとき、国の為何か一つだに役に立とうとはしていない。
戦前戦後を通じた諸状況の推移のなか、「朝鮮」という語は韓国の人たちにとっては日韓併合を許した李氏朝鮮を想起させるものとして好まれない語となっている。1948年(昭和23年)、李承晩大統領による大韓民国樹立後は、「朝鮮人」は「韓国人」と呼ばれるようになった。従いこの書では今後「韓国」という語を用いる。
須美子が語ってくれたことによると、須美子は日本の敗戦直後は韓国人の同僚たちから暖かい心で接して貰っていたということである。しかし帰国に際し釜山で船を待っている間の2週間、須美子ら引き揚げ者は集団でテント暮らしをしていたということである。
そのような確固たる考え方もなく、日本人はA級戦犯として処刑された人たちを、その処刑された人たちによって戦地に送られ命を失った人たちと同じ処遇で靖国神社に祀ってしまった。その結果、未だに日本人はアジア、特に中国や朝鮮半島の人たちから誤解され続けている。「すまなかった」と頭を下げ続けている。
戦前の日本に反感を持つようなことがあったため、反日的になった韓国の初代大統領・李承晩は第4代国王となった世宗の兄・譲寧大君の16代末裔である。譲寧大君は李氏朝鮮の第3代国王・太宗((1397年-1450年)の長男である。この太宗は初代国王李成桂の五男で本名を李芳遠(イ・バンウォン)という。初代国王李成桂は女真族であったという。
女真族は満州族と言われる種族で中国の清王朝を建てた。その女真族は寛仁3年(1019年)3月27日、船約50隻(約3000人)の船団を組んで突如として対馬に来襲し、島民を殺害し放火をして暴れまわっている。国司・対馬守遠晴は島から脱出し大宰府に逃れた。
女真族の賊徒は對馬に続いて壱岐を襲撃し、老人や子供を殺害したうえ壮年の男女を船にさらい、人家を焼きはらい牛馬など家畜を食い荒らした。知らせを聞いた国司の壱岐守・藤原理忠はただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向ったが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまった。
賊徒はその後筑前国(現在の福岡県)怡土郡に襲来し、4月8日から12日にかけて現在の博多周辺まで侵入し、周辺地域を散々荒らし回った。これに対して大宰権帥・藤原隆家は九州の豪族や武士を率いて撃退した。
この事件は、蒙古人の元(当時の中国)が、自ら支配していた朝鮮半島で船を造らせ、鋼線半島の人々を兵士として雇い、北九州に来襲した事件の250年ほど前の事件である。当時女真族の国は「刀伊」と呼ばれ、その事件は「刀伊の入寇」と呼ばれる。
日本と中国大陸・朝鮮半島の間には古来ずっと緊張関係が続いて来ているのである。そのことを東京裁判の結果魂を抜かれた日本人は忘れてしまっている。鳩山元総理や小沢元幹事長などは、そのような歴史観もなかったため、この日本国を今危うい状況に陥れてしまっている。彼らは今この危機のとき、国の為何か一つだに役に立とうとはしていない。
戦前戦後を通じた諸状況の推移のなか、「朝鮮」という語は韓国の人たちにとっては日韓併合を許した李氏朝鮮を想起させるものとして好まれない語となっている。1948年(昭和23年)、李承晩大統領による大韓民国樹立後は、「朝鮮人」は「韓国人」と呼ばれるようになった。従いこの書では今後「韓国」という語を用いる。
須美子が語ってくれたことによると、須美子は日本の敗戦直後は韓国人の同僚たちから暖かい心で接して貰っていたということである。しかし帰国に際し釜山で船を待っている間の2週間、須美子ら引き揚げ者は集団でテント暮らしをしていたということである。
2010年9月28日火曜日
母・ともゑ (20100928)
日本が韓国を併合していた時期の歴史は、後の世には日韓両国民によって、左右両極端に偏ることなく、正しく認識されるようになるであろう。信輔が記憶しているように、終戦間際一臣たち一家もそれが暴徒に対処するための訓練だったのか、実際に暴徒がやってきたのか定かではないことが起きていたし、一臣もピストルを渡されていたような緊迫的な状況があったことは確かである。実際信輔の同級生は男装して引き揚げてきている。
インターネット上には総督府の命令に背いてまで朝鮮人の子供たちの親代わりをし、その深い子供たちに愛情を注いできた日本人の一家が、戦後の混乱期に無残な方法で殺されたという記事が出ている。両親を殺され飢えで死んだ娘・ひみこは哀れだった。
明治維新後近代国家として歩み始めた日本は、幕末から明治維新後の国際情勢の中で、欧米・ロシア列強に伍し自立自存のため必死に頑張ってきた。武士道精神を楯にして、国際信義を守り、国家間の正式な取り決めを交わしながら、自衛の為、アジア諸国の自立と共栄という大義のため、日本は孤軍奮闘してきた。
その状況の中で国際コミンテルンによる謀略工作があり、日本はずるずると戦争の深みにはまり、結果として東京裁判で日本は侵略国家の烙印を押されてしまった。その結果、日本人は自分たちの父祖が流した血に目をそむけ、自虐的史観に陥ってしまった。現在70歳代前後になっている人たちは、自分の父祖たちが命をかけて行ってきたことを否定し、東京裁判の結果にまともに批判の目を向けようとはしない。
その一方で、戦後生まれの世代の人たちの中には反動的に右翼の思想に共鳴する人たちがいる。物事の両極端に正義はない。あるのは私心・私利・私欲だけである。今に至る歴史の中で日本は蟻地獄にはまったように苦しみもがき、結果的に310万もの犠牲者を出してしまった。その中には原子爆弾やB-29による無差別爆撃で死んだ何10万人という一般市民も含まれている。自らそのような犠牲者を出す一方で、日本はアジア諸国の人々にも多大の苦しみを与えてしまった。
もし、中庸でことを納める知恵があったならば、そのような悲惨な結果になる前に日本は蟻地獄から抜け出すことが出来ていたかもしれない。当時の日本の指導者たちにはそのような力量が足りなかったのである。
東京裁判でA級戦争犯罪人とされた人たちは、1100 万人ものユダヤ人を毒ガスで殺したナチスドイツの戦争犯罪人と同じような扱いで処刑されてしまった。本来ならば彼らは日本だけではなく、日本が統治していたアジア諸国にも多大な苦しみを与えたという結果の責任を問われて然るべきところである。しかし戦後日本の知識人たちはそのことに無関心であった。それだけではなく同胞の日本人に自虐的史観を植え付けることに熱心であった。
東京裁判で日本がアジア諸国を植民地にするため侵略したという構図が造られてしまった。しかし日本人が行ったことは「統治国と被統治国の間の契約により‘統治’した土地」を統治したのであって、欧米人の概念にある「植民地」を造るため侵略したのではない。
日本が韓国を併合していた時期の歴史は、後の世には日韓両国民によって、左右両極端に偏ることなく、正しく認識されるようになるであろう。信輔が記憶しているように、終戦間際一臣たち一家もそれが暴徒に対処するための訓練だったのか、実際に暴徒がやってきたのか定かではないことが起きていたし、一臣もピストルを渡されていたような緊迫的な状況があったことは確かである。実際信輔の同級生は男装して引き揚げてきている。
インターネット上には総督府の命令に背いてまで朝鮮人の子供たちの親代わりをし、その深い子供たちに愛情を注いできた日本人の一家が、戦後の混乱期に無残な方法で殺されたという記事が出ている。両親を殺され飢えで死んだ娘・ひみこは哀れだった。
明治維新後近代国家として歩み始めた日本は、幕末から明治維新後の国際情勢の中で、欧米・ロシア列強に伍し自立自存のため必死に頑張ってきた。武士道精神を楯にして、国際信義を守り、国家間の正式な取り決めを交わしながら、自衛の為、アジア諸国の自立と共栄という大義のため、日本は孤軍奮闘してきた。
その状況の中で国際コミンテルンによる謀略工作があり、日本はずるずると戦争の深みにはまり、結果として東京裁判で日本は侵略国家の烙印を押されてしまった。その結果、日本人は自分たちの父祖が流した血に目をそむけ、自虐的史観に陥ってしまった。現在70歳代前後になっている人たちは、自分の父祖たちが命をかけて行ってきたことを否定し、東京裁判の結果にまともに批判の目を向けようとはしない。
その一方で、戦後生まれの世代の人たちの中には反動的に右翼の思想に共鳴する人たちがいる。物事の両極端に正義はない。あるのは私心・私利・私欲だけである。今に至る歴史の中で日本は蟻地獄にはまったように苦しみもがき、結果的に310万もの犠牲者を出してしまった。その中には原子爆弾やB-29による無差別爆撃で死んだ何10万人という一般市民も含まれている。自らそのような犠牲者を出す一方で、日本はアジア諸国の人々にも多大の苦しみを与えてしまった。
もし、中庸でことを納める知恵があったならば、そのような悲惨な結果になる前に日本は蟻地獄から抜け出すことが出来ていたかもしれない。当時の日本の指導者たちにはそのような力量が足りなかったのである。
東京裁判でA級戦争犯罪人とされた人たちは、1100 万人ものユダヤ人を毒ガスで殺したナチスドイツの戦争犯罪人と同じような扱いで処刑されてしまった。本来ならば彼らは日本だけではなく、日本が統治していたアジア諸国にも多大な苦しみを与えたという結果の責任を問われて然るべきところである。しかし戦後日本の知識人たちはそのことに無関心であった。それだけではなく同胞の日本人に自虐的史観を植え付けることに熱心であった。
東京裁判で日本がアジア諸国を植民地にするため侵略したという構図が造られてしまった。しかし日本人が行ったことは「統治国と被統治国の間の契約により‘統治’した土地」を統治したのであって、欧米人の概念にある「植民地」を造るため侵略したのではない。
2010年9月27日月曜日
母・ともゑ (20100927)
1952(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩は海洋主権宣言を行い韓国政府は一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を設定した。韓国政府はこのラインの韓国側に日本の固有の領土である竹島を勝手に含めた。
韓国政府は海洋資源の保護のためと称してこのラインの内側の韓国付近の公海で、韓国籍の漁船以外が漁業を行うことを禁止した。その本当の狙いは韓国で獨島と称する竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説もある。
韓国政府は一方的に宣言した海洋主権宣言に基づき、これに違反した日本の漁船を臨検し、拿捕・接収した。逃げようとした日本の漁船を銃撃し、船員が殺害されるという事件も起きた。1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いた。1965年(昭和40年)、日韓漁業協定の成立によってラインが廃止されるまでの13年間に韓国が抑留した日本人は3929人、拿捕した船の数は328隻であった。死傷者は44人を数えた。
李承晩の政府が日本と韓国の間の公海上に、国際的慣例に照らしても違法な軍事境界線を設置し、またその境界線内に日本の固有の領土・竹島を編入したことについて、日本とアメリカ両国の政府は韓国に対し「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。アメリカ政府は竹島をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、及び李承晩ラインの一方的な宣言は違法であることを韓国政府に伝えている。このことは1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書にある。
竹島は江戸時代から日本の支配が及んでいた島である。韓国の史料の史料に照らしてみれば、竹島は位置的にも島の大きさからも、韓国が竹島を自国の領土と言うのは全く不当である。竹島問題は日本と韓国の間に突き刺さった厄介なとげである。
竹島問題は、1963年(昭和48年)、李承晩退陣後日韓両国の思惑・相互利益のため棚上げされた。1970年以降突然、尖閣諸島を自国領土と主張するようになった中国も日中両国の思惑・相互利益の上で、中国としては「尖閣諸島は歴史的にも中国固有の領土であるが、棚上げしている問題である」と国際的に印象付けようと考えているのかもしれない。
韓国第2代大統領・朴正煕は、自国(韓国)の工業化を進めて国を富ませ、南北朝鮮の統一のため資本と技術を他国に求める必要があった。そこで目を付けたのは日本であった。日韓両国の思惑と相互利益のため、竹島問題は棚上げされた。しかし、竹島は韓国により不法に占拠されたままの状態が現在までも続いている。
国際関係の歴史の狭間で一臣とともゑはそれぞれ人生の一時期、それぞれ一個人として韓国社会に深く関わった。二人は教育という分野で、韓国の子供や青年たちに一定の影響を与えた。それが良い影響であったか、悪い影響であったかの評価は今後の歴史の中で評価されるであろう。すべての物事には正反両面あり、ある時期に‘正’とされ続けてきたことも後世にそれは‘反’であったと認められるようになるものである。
1952(昭和27年)1月18日、大韓民国(韓国)大統領・李承晩は海洋主権宣言を行い韓国政府は一方的に軍事境界線(李承晩ライン)を設定した。韓国政府はこのラインの韓国側に日本の固有の領土である竹島を勝手に含めた。
韓国政府は海洋資源の保護のためと称してこのラインの内側の韓国付近の公海で、韓国籍の漁船以外が漁業を行うことを禁止した。その本当の狙いは韓国で獨島と称する竹島と対馬の領有を主張するためであるとする説もある。
韓国政府は一方的に宣言した海洋主権宣言に基づき、これに違反した日本の漁船を臨検し、拿捕・接収した。逃げようとした日本の漁船を銃撃し、船員が殺害されるという事件も起きた。1960年(昭和35年)の李承晩失脚後もこの状態が続いた。1965年(昭和40年)、日韓漁業協定の成立によってラインが廃止されるまでの13年間に韓国が抑留した日本人は3929人、拿捕した船の数は328隻であった。死傷者は44人を数えた。
李承晩の政府が日本と韓国の間の公海上に、国際的慣例に照らしても違法な軍事境界線を設置し、またその境界線内に日本の固有の領土・竹島を編入したことについて、日本とアメリカ両国の政府は韓国に対し「国際法上の慣例を無視した措置」として強く抗議した。アメリカ政府は竹島をサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、及び李承晩ラインの一方的な宣言は違法であることを韓国政府に伝えている。このことは1954年に作成された米国機密文書・ヴァン・フリート特命報告書にある。
竹島は江戸時代から日本の支配が及んでいた島である。韓国の史料の史料に照らしてみれば、竹島は位置的にも島の大きさからも、韓国が竹島を自国の領土と言うのは全く不当である。竹島問題は日本と韓国の間に突き刺さった厄介なとげである。
竹島問題は、1963年(昭和48年)、李承晩退陣後日韓両国の思惑・相互利益のため棚上げされた。1970年以降突然、尖閣諸島を自国領土と主張するようになった中国も日中両国の思惑・相互利益の上で、中国としては「尖閣諸島は歴史的にも中国固有の領土であるが、棚上げしている問題である」と国際的に印象付けようと考えているのかもしれない。
韓国第2代大統領・朴正煕は、自国(韓国)の工業化を進めて国を富ませ、南北朝鮮の統一のため資本と技術を他国に求める必要があった。そこで目を付けたのは日本であった。日韓両国の思惑と相互利益のため、竹島問題は棚上げされた。しかし、竹島は韓国により不法に占拠されたままの状態が現在までも続いている。
国際関係の歴史の狭間で一臣とともゑはそれぞれ人生の一時期、それぞれ一個人として韓国社会に深く関わった。二人は教育という分野で、韓国の子供や青年たちに一定の影響を与えた。それが良い影響であったか、悪い影響であったかの評価は今後の歴史の中で評価されるであろう。すべての物事には正反両面あり、ある時期に‘正’とされ続けてきたことも後世にそれは‘反’であったと認められるようになるものである。
2010年9月26日日曜日
母・ともゑ (20100926)
ともゑは昭和13年(1936年)3月末から昭和20年(1945年)8月末までの7年間余り、後に大韓民国となる南朝鮮の慶尚北道で暮らしていた。南朝鮮に大韓民国が正式の発足したのは3年後の1948年8月15日のことである。当時南朝鮮では多くの反対を押し切って3ヶ月前の5月10日総選挙が実施され、李承晩氏を初代大統領とする大韓民国が樹立された。その萌芽は既に1919年(大正8年)、彼が上海で亡命政府・大韓民国臨時政府を設立したときに始まっている。李承晩氏は1940年その活動の拠点を重慶に移している。
大韓民国の‘大韓’は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称、「韓」に由来している。明治28年(1895年)4月17日に山口県の赤間関市(現在の下関市)で日清戦争後の講和会議が行われた。この講話会議の結果、日清講和条約、通称下関条約(中国では馬関条約)が締結され、締結後李氏朝鮮の第26代国王・高宗(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)は清国(当時の中国)の柵封支配から離脱することができ、大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)となった。しかし大日本帝国による大韓帝国併合後、高宗は大日本帝国の王族となり、徳寿宮李太王と称されるようになった。
李承晩が日本に反感を抱くようになった根本の原因は、日韓併合前後の諸状況の中で起きた日本と韓国との間の確執にある。李氏朝鮮時代末期の1898年(明治29年)、李承晩は李氏朝鮮の親ロシア派政権によって捕えられ、李氏朝鮮が大韓帝国になってからの1904年(明治37年)まで獄中にいた。しかし同年2月8日、日露戦争勃発により釈放された。
日露戦争は三国干渉および北清事変後満洲を勢力圏としていたロシア帝国の朝鮮半島への南下を防ぐことを目的とした戦争であった。三国干渉とは、明治28年(1895年)の下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が明治28年(1895年)4月23日に日本に対して行った勧告のことである。
この戦争後、当時の力関係は別として大日本帝国と大韓国帝国との間に取り交わした議定書や第1次から第3次までの協約をベースに、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が日韓の間で成立し、日本は合法的に韓国を併合している。
日本による韓国併合の前、当時の大韓帝国の政権は日本が軍事・外交・経済総ての面で大韓帝国に浸透してゆくことに危機感を抱いた。そのため1904年(明治37年)李承晩を釈放し、アメリカに派遣し、アメリカの援助を求めようとしたのである。
李承晩は時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出した。しかし、ルーズベルトは請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。このため李承晩は駐米韓国公使館に赴いた。
しかしそこはすでに日本が押さえており、李承晩によるルーズベルトへの要請は失敗に終わってしまった。彼は日本が大韓帝国を併合後ハワイ滞在中、朝鮮の独立運動に携わり、上海で亡命政府を設立し、昭和20年(1945年)の日本の敗戦を契機に大韓民国を設立した。
ともゑは昭和13年(1936年)3月末から昭和20年(1945年)8月末までの7年間余り、後に大韓民国となる南朝鮮の慶尚北道で暮らしていた。南朝鮮に大韓民国が正式の発足したのは3年後の1948年8月15日のことである。当時南朝鮮では多くの反対を押し切って3ヶ月前の5月10日総選挙が実施され、李承晩氏を初代大統領とする大韓民国が樹立された。その萌芽は既に1919年(大正8年)、彼が上海で亡命政府・大韓民国臨時政府を設立したときに始まっている。李承晩氏は1940年その活動の拠点を重慶に移している。
大韓民国の‘大韓’は、古代朝鮮半島の南部にあった「三韓」と呼ばれる馬韓、辰韓、弁韓の国々の名称、「韓」に由来している。明治28年(1895年)4月17日に山口県の赤間関市(現在の下関市)で日清戦争後の講和会議が行われた。この講話会議の結果、日清講和条約、通称下関条約(中国では馬関条約)が締結され、締結後李氏朝鮮の第26代国王・高宗(在位:1863年12月13日 - 1897年10月12日)は清国(当時の中国)の柵封支配から離脱することができ、大韓帝国初代皇帝(在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)となった。しかし大日本帝国による大韓帝国併合後、高宗は大日本帝国の王族となり、徳寿宮李太王と称されるようになった。
李承晩が日本に反感を抱くようになった根本の原因は、日韓併合前後の諸状況の中で起きた日本と韓国との間の確執にある。李氏朝鮮時代末期の1898年(明治29年)、李承晩は李氏朝鮮の親ロシア派政権によって捕えられ、李氏朝鮮が大韓帝国になってからの1904年(明治37年)まで獄中にいた。しかし同年2月8日、日露戦争勃発により釈放された。
日露戦争は三国干渉および北清事変後満洲を勢力圏としていたロシア帝国の朝鮮半島への南下を防ぐことを目的とした戦争であった。三国干渉とは、明治28年(1895年)の下関条約で日本への割譲が決定された遼東半島を清へ返還するよう、フランス・ドイツ帝国・ロシア帝国の3国が明治28年(1895年)4月23日に日本に対して行った勧告のことである。
この戦争後、当時の力関係は別として大日本帝国と大韓国帝国との間に取り交わした議定書や第1次から第3次までの協約をベースに、明治43年(1910年)8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が日韓の間で成立し、日本は合法的に韓国を併合している。
日本による韓国併合の前、当時の大韓帝国の政権は日本が軍事・外交・経済総ての面で大韓帝国に浸透してゆくことに危機感を抱いた。そのため1904年(明治37年)李承晩を釈放し、アメリカに派遣し、アメリカの援助を求めようとしたのである。
李承晩は時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトに面会し、アメリカの援助を求めるルーズベルト宛てのハワイ在住韓国人の請願書を提出した。しかし、ルーズベルトは請願書を公式のチャネルを通すよう求めた。このため李承晩は駐米韓国公使館に赴いた。
しかしそこはすでに日本が押さえており、李承晩によるルーズベルトへの要請は失敗に終わってしまった。彼は日本が大韓帝国を併合後ハワイ滞在中、朝鮮の独立運動に携わり、上海で亡命政府を設立し、昭和20年(1945年)の日本の敗戦を契機に大韓民国を設立した。
2010年9月25日土曜日
母・ともゑ (20100925)
女学生たちが持っているお握りはそれぞれ2個づつであった。女学生たちはお握りを食べ始めた。そのときちらっと信輔の様子を見た女学生の一人が、お握りを1個信輔に分け与えてくれた。するともう一人の女学生が1個信直に与えてくれた。信輔たちは頭を下げ、女学生たちに顔を向けて丁寧な言葉で「有難うございます」と礼を言った。女学生たちはにこっと微笑んだ。その様子を傍で見ていたともゑは、「御親切に、有難うございます」と礼を言い、信輔たちに「よかったね。このご親切を決して忘れないようにね」と言った。信輔たちは頂いたお握りを両手で持ち、母親の顔を見ながら「うん」と頷いた。
信輔たちは美味しそうにお握りを食べていた。ともゑはその様子をじっと見ていた。先ほどまで憂鬱であった気持ちも晴れて、手提げ鞄の中からビスケットを取り出し、富久子に与えながら自分も口にした。
汽車は別府に到着した。ともゑ母子は別府にある借家に向かった。その借家は前々から確保されていたもので、昨年、昭和19年の初冬、幸雄の祝言の時帰ってきたときにも使っていた家である。一臣は大分師範学校を出て以降、長男の身でありながら実家に帰った時でもそこに泊ることは数回しかなかった。ともゑと結婚した後も実家から離れて暮らしていた。そのため何処に居ても別府に自分たちの家が必要であったのである。
一臣は日本の敗戦前、慶尚北道公立国民学校長を兼ね、柳川国民学校長の補せられ柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託されていた身であったので、直ぐ引き揚げて帰国するわけには行かなかった。一臣の帰国は9月末のことであった。
ちなみに、昭和20年(1945年)、日本の敗戦直前の8月8日 、ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻している。8月15日、大日本帝国による朝鮮半島の統治は終了し、北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することになった。
同年、1945年9月8日、アメリカ軍第24軍団第一陣が仁川に上陸し、翌9日、日本の朝鮮総督府が降伏文書に調印している。それまで一臣はアメリカ軍政下、学校の業務などを朝鮮側に引き継ぐ仕事が残っていたのである。
同年9月11日、アメリカは在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布している。アメリカ陸軍司令部軍政庁は10月に朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も承認を拒否している。その後、北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立された。同年12月には、モスクワで朝鮮半島の信託統治について話し合うためアメリカ、ソ連、イギリスによる三者会談が行われた。南朝鮮はアメリカと統治下に置かれた。
その翌年、昭和21年(1946年)10月1日に慶尚北道の大邱(テグ)でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺した事件が起きた。これに端を発して、南朝鮮全土で230万人が蜂起し、136名が犠牲となっている。日本の敗戦直後はまだ左程混乱はなかったが、その後時を経るにつれて朝鮮半島は戦乱の渦に巻き込まれることになったのである。
女学生たちが持っているお握りはそれぞれ2個づつであった。女学生たちはお握りを食べ始めた。そのときちらっと信輔の様子を見た女学生の一人が、お握りを1個信輔に分け与えてくれた。するともう一人の女学生が1個信直に与えてくれた。信輔たちは頭を下げ、女学生たちに顔を向けて丁寧な言葉で「有難うございます」と礼を言った。女学生たちはにこっと微笑んだ。その様子を傍で見ていたともゑは、「御親切に、有難うございます」と礼を言い、信輔たちに「よかったね。このご親切を決して忘れないようにね」と言った。信輔たちは頂いたお握りを両手で持ち、母親の顔を見ながら「うん」と頷いた。
信輔たちは美味しそうにお握りを食べていた。ともゑはその様子をじっと見ていた。先ほどまで憂鬱であった気持ちも晴れて、手提げ鞄の中からビスケットを取り出し、富久子に与えながら自分も口にした。
汽車は別府に到着した。ともゑ母子は別府にある借家に向かった。その借家は前々から確保されていたもので、昨年、昭和19年の初冬、幸雄の祝言の時帰ってきたときにも使っていた家である。一臣は大分師範学校を出て以降、長男の身でありながら実家に帰った時でもそこに泊ることは数回しかなかった。ともゑと結婚した後も実家から離れて暮らしていた。そのため何処に居ても別府に自分たちの家が必要であったのである。
一臣は日本の敗戦前、慶尚北道公立国民学校長を兼ね、柳川国民学校長の補せられ柳川公立国民学校訓導を命じられ、柳川公立青年訓導所主事も嘱託されていた身であったので、直ぐ引き揚げて帰国するわけには行かなかった。一臣の帰国は9月末のことであった。
ちなみに、昭和20年(1945年)、日本の敗戦直前の8月8日 、ソビエト連邦が日本に宣戦布告し、ソビエト連邦軍が朝鮮半島東北部に侵攻している。8月15日、大日本帝国による朝鮮半島の統治は終了し、北緯38度線以北をソビエト連邦軍が、同以南をアメリカ軍が管轄することになった。
同年、1945年9月8日、アメリカ軍第24軍団第一陣が仁川に上陸し、翌9日、日本の朝鮮総督府が降伏文書に調印している。それまで一臣はアメリカ軍政下、学校の業務などを朝鮮側に引き継ぐ仕事が残っていたのである。
同年9月11日、アメリカは在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁を宣布している。アメリカ陸軍司令部軍政庁は10月に朝鮮人民共和国も朝鮮建国準備委員会も承認を拒否している。その後、北朝鮮共産党臨時人民委員会が樹立された。同年12月には、モスクワで朝鮮半島の信託統治について話し合うためアメリカ、ソ連、イギリスによる三者会談が行われた。南朝鮮はアメリカと統治下に置かれた。
その翌年、昭和21年(1946年)10月1日に慶尚北道の大邱(テグ)でアメリカ軍の軍政に抗議した市民を南朝鮮警察が銃殺した事件が起きた。これに端を発して、南朝鮮全土で230万人が蜂起し、136名が犠牲となっている。日本の敗戦直後はまだ左程混乱はなかったが、その後時を経るにつれて朝鮮半島は戦乱の渦に巻き込まれることになったのである。
2010年9月24日金曜日
母・ともゑ (20100924)
便所の戸が開かれ誰かが外の様子を窺っていた。やがて静かになった。暫く経ってから一家も客人も家の中に戻った。信輔はその時本当に暴徒がわが家に来たと思っていた。後年その時のことを思い出して、あれは多分、暴徒に備えた訓練ではなかったかと思った。信輔は、あの時の客人は緊急避難訓練の状況を観察し、評価するための役目をもった警察官ではなかったか、それも朝鮮人ではなかったかと思っている。
日本が戦争に負けたときの状況を信輔は全く覚えていない。覚えていないということは、日本が戦争に負けても醴泉の片田舎ではきっと普段と変わらなかったに違いなく、信輔の印象に残るようなことは起きていなかったということである。もし、信輔の父親や母親が信輔に戦争に負けたときのことを何か語っていれば、信輔はその時のことを例え一時的に忘れていても信輔の頭脳の中で再構成され、記憶としてしっかり残っている筈である。
信輔が覚えているのは引き揚げの船の中の出来事以降のことである。あれは釜山と博多の間の連絡船であっただろう。船の中は真ん中の通路を挟んで畳敷きのような広い船室があり、乗客で混に合っていた。船はゆっくり大きくローリングしていた。信輔はその通路が誰かの嘔吐で汚れたままになっていたことを記憶している。
その船の中であったのか、博多に着いた後のことであったのか、信輔は定かに覚えてはいないが、皆に弁当が配られたことを覚えている。弁当は赤い色がしているご飯であった。沢庵か昆布かなにかが添えられていた。赤い色はコーリャンというものであった。それが美味しかったかどうか信輔は覚えていない。多分、それは美味しくもなく、美味しくなくもなかったのであろう。つまり信輔にとってそれはコーリャン弁当という以外、特に印象はなかったのである。コーリャン弁当という言葉はその時誰からか聞いていたのであろう。
一臣は朝鮮に残ったまま、先ずともゑ母子4人が引き揚げた。母子は博多から汽車に乗り、小倉で汽車を乗り換え別府に向かった。小倉の駅に降りるとき、一人の小父さんがいて、ともゑに「私も小倉で降ります。荷物を持って上げましょう」と言った。2歳の富久子を背負い、大きな旅行鞄を二つ抱え、9歳と7歳の男の子二人を連れて引き揚げて来たともゑにとって、その男の親切な言葉は嬉しかったに違いない。
駅のホームには先ず信輔が降り、信直がそれに続き、ともゑが旅行鞄を一つ持って降りた。その時ともゑは後ろのめりに転倒してしまった。信輔は背中に富久子をおんぶしたまま仰向けに転倒してしまった母をなじった。その様子を後ろで見ていた男はホームに降りることなく、ともゑから預かっていた旅行鞄を持ったまま何処かに消えてしまった。ともゑはその親切そうな男に騙されてしまったのである。その上ホームで転倒し、信輔になじられ、悲しかったに違いない。ともゑは傷心のまま子供たちを連れて別府に向かった。
別府に向かう汽車の中は混み合ってはいなかった。客車の進行方向右側の座席に、信輔は窓側、信直は通路側に座っていた。ともゑは信直の隣り、通路を挟んだ席で座っていた。向かいの席に進行方向を背にして女学生が二人座っていた。女学生たちは弁当を広げた。弁当は白いご飯のお握りだった。信輔たちはそれをじっと見つめていた。
便所の戸が開かれ誰かが外の様子を窺っていた。やがて静かになった。暫く経ってから一家も客人も家の中に戻った。信輔はその時本当に暴徒がわが家に来たと思っていた。後年その時のことを思い出して、あれは多分、暴徒に備えた訓練ではなかったかと思った。信輔は、あの時の客人は緊急避難訓練の状況を観察し、評価するための役目をもった警察官ではなかったか、それも朝鮮人ではなかったかと思っている。
日本が戦争に負けたときの状況を信輔は全く覚えていない。覚えていないということは、日本が戦争に負けても醴泉の片田舎ではきっと普段と変わらなかったに違いなく、信輔の印象に残るようなことは起きていなかったということである。もし、信輔の父親や母親が信輔に戦争に負けたときのことを何か語っていれば、信輔はその時のことを例え一時的に忘れていても信輔の頭脳の中で再構成され、記憶としてしっかり残っている筈である。
信輔が覚えているのは引き揚げの船の中の出来事以降のことである。あれは釜山と博多の間の連絡船であっただろう。船の中は真ん中の通路を挟んで畳敷きのような広い船室があり、乗客で混に合っていた。船はゆっくり大きくローリングしていた。信輔はその通路が誰かの嘔吐で汚れたままになっていたことを記憶している。
その船の中であったのか、博多に着いた後のことであったのか、信輔は定かに覚えてはいないが、皆に弁当が配られたことを覚えている。弁当は赤い色がしているご飯であった。沢庵か昆布かなにかが添えられていた。赤い色はコーリャンというものであった。それが美味しかったかどうか信輔は覚えていない。多分、それは美味しくもなく、美味しくなくもなかったのであろう。つまり信輔にとってそれはコーリャン弁当という以外、特に印象はなかったのである。コーリャン弁当という言葉はその時誰からか聞いていたのであろう。
一臣は朝鮮に残ったまま、先ずともゑ母子4人が引き揚げた。母子は博多から汽車に乗り、小倉で汽車を乗り換え別府に向かった。小倉の駅に降りるとき、一人の小父さんがいて、ともゑに「私も小倉で降ります。荷物を持って上げましょう」と言った。2歳の富久子を背負い、大きな旅行鞄を二つ抱え、9歳と7歳の男の子二人を連れて引き揚げて来たともゑにとって、その男の親切な言葉は嬉しかったに違いない。
駅のホームには先ず信輔が降り、信直がそれに続き、ともゑが旅行鞄を一つ持って降りた。その時ともゑは後ろのめりに転倒してしまった。信輔は背中に富久子をおんぶしたまま仰向けに転倒してしまった母をなじった。その様子を後ろで見ていた男はホームに降りることなく、ともゑから預かっていた旅行鞄を持ったまま何処かに消えてしまった。ともゑはその親切そうな男に騙されてしまったのである。その上ホームで転倒し、信輔になじられ、悲しかったに違いない。ともゑは傷心のまま子供たちを連れて別府に向かった。
別府に向かう汽車の中は混み合ってはいなかった。客車の進行方向右側の座席に、信輔は窓側、信直は通路側に座っていた。ともゑは信直の隣り、通路を挟んだ席で座っていた。向かいの席に進行方向を背にして女学生が二人座っていた。女学生たちは弁当を広げた。弁当は白いご飯のお握りだった。信輔たちはそれをじっと見つめていた。
2010年9月23日木曜日
母・ともゑ (20100923)
それは昭和20年(1945年)春、須美子が京城(ソウル)女子師範学校を出て大邱(テグ)の国民学校に教師として赴任する前、慶尚北道醴泉郡のど田舎にあった柳川国民学校の校長官舎に住む義兄・一臣の一家を訪れた時のことであった。校長官舎は校門に近く、校庭の隅に周囲が塀で囲われた中にあった。まだその国民学校では3学期は終わっていなかった。ともゑは3学期から音楽の代用教員を務めていた。
3学期、その国民学校では日本人は信輔だけであった。鎌田君は父親が転勤したため日本人の生徒は信輔一人だけとなっていた。ともゑは信輔がいる1年生の教室で生徒たちにオルガンを弾きながら日本の唱歌を教えていた。須美子は姉・ともゑの教えぶりを真似ようと教室の後ろでともゑの授業をじっと観察していた。ともゑは「出た出た 月が丸い丸い まん丸い盆のような 月が・・・」という歌を教えていた。須美子はそのときの様子を信輔に語ってくれたことがある。
須美子は「あのときね、のぶちゃんはとても上手に歌っていたよ。でも、朝鮮人の子供たちは‘盆のような’のところでどうしても上手く歌えなかった。あそこのところは子供たちにとって難しかったのね。」と言い、自分が子供たちに同じ歌を教えるときの参考にしたようである。信輔が詩吟をやっていると言ったとき、須美子は「のぶちゃんには小さい時から音楽の素質があったのよ。」と感心していた。
須美子が柳川の田舎にいたとき、ともゑが何かのことで須美子に腹を立て、「大邱に帰りなさい!」と須美子の追い出しにかかったが、信輔と信直は須美子の側に立って母・ともゑに反抗していた。結局ともゑが須美子の旅行鞄を庭に投げ戻さなくなったことにより、その騒ぎは収まった。数日後須美子は大邱の自分の宿舎に戻り、新学期から教壇に立った。信輔は2年生になり、信直は柳川国民学校の1年生になった。その学校の日本人の先生は信輔たちの両親だけとなっていた。ともゑは音楽を教える臨時の代用教員であった。
日本の敗戦の色が濃くなり、世情は不安定になってきつつあった。その時期その片田舎の国民学校でも空襲に備えた避難訓練などが行われていた。その国民学校の校長であり、その地域の青年訓導所の主事でもあった一臣は、日本人は自分たち一家しか住んでいない慶尚北道醴泉郡柳川邑の片田舎で日本の国の方針を一身に背負って頑張っていた。
その頃一臣は警察からかピストルを一丁渡されていた。何事にも興味津津な性格がある信輔は食卓の上に無造作に置かれていたそのピストルを手にし、引き金に指をかけたことがあった。そのとき実弾は入っていなかったかどうかは分からないが、父親・一臣は血相を変えて信輔を叱りつけた。
そのような時期、ある日の夜一人の日本人の来客があった。一臣とその客人は町で暴動が起きているという話をしていた。突然何か不穏な状況が起きた。その一臣一家はその客人の手助けで便所の側から塀の外に逃れた。最後に客人が塀によじ登り終わった時、突然家の中に人が入って来て怒声と物音がした。その客人は塀の上に這いつくばったまま息を殺していた。塀の外の一臣達も息を潜めてじっとしていた。
それは昭和20年(1945年)春、須美子が京城(ソウル)女子師範学校を出て大邱(テグ)の国民学校に教師として赴任する前、慶尚北道醴泉郡のど田舎にあった柳川国民学校の校長官舎に住む義兄・一臣の一家を訪れた時のことであった。校長官舎は校門に近く、校庭の隅に周囲が塀で囲われた中にあった。まだその国民学校では3学期は終わっていなかった。ともゑは3学期から音楽の代用教員を務めていた。
3学期、その国民学校では日本人は信輔だけであった。鎌田君は父親が転勤したため日本人の生徒は信輔一人だけとなっていた。ともゑは信輔がいる1年生の教室で生徒たちにオルガンを弾きながら日本の唱歌を教えていた。須美子は姉・ともゑの教えぶりを真似ようと教室の後ろでともゑの授業をじっと観察していた。ともゑは「出た出た 月が丸い丸い まん丸い盆のような 月が・・・」という歌を教えていた。須美子はそのときの様子を信輔に語ってくれたことがある。
須美子は「あのときね、のぶちゃんはとても上手に歌っていたよ。でも、朝鮮人の子供たちは‘盆のような’のところでどうしても上手く歌えなかった。あそこのところは子供たちにとって難しかったのね。」と言い、自分が子供たちに同じ歌を教えるときの参考にしたようである。信輔が詩吟をやっていると言ったとき、須美子は「のぶちゃんには小さい時から音楽の素質があったのよ。」と感心していた。
須美子が柳川の田舎にいたとき、ともゑが何かのことで須美子に腹を立て、「大邱に帰りなさい!」と須美子の追い出しにかかったが、信輔と信直は須美子の側に立って母・ともゑに反抗していた。結局ともゑが須美子の旅行鞄を庭に投げ戻さなくなったことにより、その騒ぎは収まった。数日後須美子は大邱の自分の宿舎に戻り、新学期から教壇に立った。信輔は2年生になり、信直は柳川国民学校の1年生になった。その学校の日本人の先生は信輔たちの両親だけとなっていた。ともゑは音楽を教える臨時の代用教員であった。
日本の敗戦の色が濃くなり、世情は不安定になってきつつあった。その時期その片田舎の国民学校でも空襲に備えた避難訓練などが行われていた。その国民学校の校長であり、その地域の青年訓導所の主事でもあった一臣は、日本人は自分たち一家しか住んでいない慶尚北道醴泉郡柳川邑の片田舎で日本の国の方針を一身に背負って頑張っていた。
その頃一臣は警察からかピストルを一丁渡されていた。何事にも興味津津な性格がある信輔は食卓の上に無造作に置かれていたそのピストルを手にし、引き金に指をかけたことがあった。そのとき実弾は入っていなかったかどうかは分からないが、父親・一臣は血相を変えて信輔を叱りつけた。
そのような時期、ある日の夜一人の日本人の来客があった。一臣とその客人は町で暴動が起きているという話をしていた。突然何か不穏な状況が起きた。その一臣一家はその客人の手助けで便所の側から塀の外に逃れた。最後に客人が塀によじ登り終わった時、突然家の中に人が入って来て怒声と物音がした。その客人は塀の上に這いつくばったまま息を殺していた。塀の外の一臣達も息を潜めてじっとしていた。
2010年9月22日水曜日
母・ともゑ (20100922)
話は前後するが、2学期になる前の夏休みに信輔は母親から鍛えられたことがあった。その鍛え方は、学校の校庭の隅にあった井戸端で母親がバケツに汲んだ水を信輔に浴びせ、信輔がグラウンドを走って一周し、戻って来るとまたバケツの水を浴びせ、信輔がまたグラウンドを走って一周して来るというやり方であった。それは信輔が母・ともゑから強制されて行った運動ではなく、母と子の遊びのようなものであった。信輔の母親は転校してきたわが子が、日本人の生徒が鎌田君とわが子しかいない学校で淋しくないようにと遊ばせていたのである。井戸端には大人の女性が一人いてともゑと話をしていた。
その女性は日本人ではなかったかもしれない。信輔の記憶ではその女性は鎌田君のお母さんではなかったように思う。ある日、母・ともゑとその女性が井戸端で鶏を処理していた。信輔はその女性が騒ぎ立てる鶏を抑えて刃物で首を刎ねたら、その鶏が首のないまま1、2メートル突っ走りバタンと倒れたのを見たことがある。鶏はその晩の夕食のおかずになったに違いないが、信輔はその晩のおかずが何であったかは覚えていない。
信輔の父・一臣は田舎の学校の校長としてまた青年訓導所の主事として、地域の状況を把握しようと考え、信輔を連れて何軒かの朝鮮人の家を訪問したことがあった。それは信輔が柳川の公立国民学校に転校する前のことであった。その日は信輔も永川の学校に通う必要がなかった休校日であった。
家庭訪問の道で丸い小山の脇を通ったとき、その小山に穴があった。一臣は「これは狐の巣だ」と信輔に言った。山間の谷間に家が点々とあった。一臣はその中の一軒の家を訪れた。子供であった信輔は父親がその家の主人と何を話したのか、関心もなかったから覚えていない。ただ、その家で出された菓子のことを覚えている。それは白く長方形の形をしていて噛めば形が崩れ落ちるようなサクサクとした歯触りの菓子であった。米で作った菓子であったのだろう。帰路一臣は信輔に正露丸を2錠与えて呑みこませ、自分も呑んだ。
冬に入る前、ともゑは庭に埋め込んだ壺に朝鮮漬けを仕込んだ。ともゑは朝鮮の人から朝鮮漬けの作り方を習っていて、そのとおりに漬けた。食卓には朝鮮漬けがあったに違いないが信輔は覚えていない。日常のおかずが何であったかということは全く記憶がない。
しかし非常に印象的であったことだけは覚えている。それは小さい心に興味が深かったことだけである。例えば、ある日信輔は一臣が庭でミツバチを飼ってハチに唇を刺され、唇が腫れあがっていたことや、炭焼きをして木炭を造っていたことや、寒い冬の日に妹・富久子の足の土踏みの部分に霜焼けができて腫れていたとき、一臣は其処に針を刺して血を出して治療したことなどを覚えている。幼い富久子は痛がったに違いない。うっ血した個所に針を刺して血を出し霜焼けを治す方法を、一臣は朝鮮の人に教わって実施したに違いない。針は火に炙り、朝鮮の焼酎か何かで消毒していたことであろう。
気候が穏やかな日、朝食は一家5人揃って官舎の脇の屋外でテーブルを囲んで食べた。ともゑは子供のおやつにするため砂糖で紅白の模様が付いた飴を作ったりしていた。それは日本が戦争に敗れる3ヶ月ほど前の、朝鮮の片田舎に住む日本人の家の暮らしの一コマであった。
話は前後するが、2学期になる前の夏休みに信輔は母親から鍛えられたことがあった。その鍛え方は、学校の校庭の隅にあった井戸端で母親がバケツに汲んだ水を信輔に浴びせ、信輔がグラウンドを走って一周し、戻って来るとまたバケツの水を浴びせ、信輔がまたグラウンドを走って一周して来るというやり方であった。それは信輔が母・ともゑから強制されて行った運動ではなく、母と子の遊びのようなものであった。信輔の母親は転校してきたわが子が、日本人の生徒が鎌田君とわが子しかいない学校で淋しくないようにと遊ばせていたのである。井戸端には大人の女性が一人いてともゑと話をしていた。
その女性は日本人ではなかったかもしれない。信輔の記憶ではその女性は鎌田君のお母さんではなかったように思う。ある日、母・ともゑとその女性が井戸端で鶏を処理していた。信輔はその女性が騒ぎ立てる鶏を抑えて刃物で首を刎ねたら、その鶏が首のないまま1、2メートル突っ走りバタンと倒れたのを見たことがある。鶏はその晩の夕食のおかずになったに違いないが、信輔はその晩のおかずが何であったかは覚えていない。
信輔の父・一臣は田舎の学校の校長としてまた青年訓導所の主事として、地域の状況を把握しようと考え、信輔を連れて何軒かの朝鮮人の家を訪問したことがあった。それは信輔が柳川の公立国民学校に転校する前のことであった。その日は信輔も永川の学校に通う必要がなかった休校日であった。
家庭訪問の道で丸い小山の脇を通ったとき、その小山に穴があった。一臣は「これは狐の巣だ」と信輔に言った。山間の谷間に家が点々とあった。一臣はその中の一軒の家を訪れた。子供であった信輔は父親がその家の主人と何を話したのか、関心もなかったから覚えていない。ただ、その家で出された菓子のことを覚えている。それは白く長方形の形をしていて噛めば形が崩れ落ちるようなサクサクとした歯触りの菓子であった。米で作った菓子であったのだろう。帰路一臣は信輔に正露丸を2錠与えて呑みこませ、自分も呑んだ。
冬に入る前、ともゑは庭に埋め込んだ壺に朝鮮漬けを仕込んだ。ともゑは朝鮮の人から朝鮮漬けの作り方を習っていて、そのとおりに漬けた。食卓には朝鮮漬けがあったに違いないが信輔は覚えていない。日常のおかずが何であったかということは全く記憶がない。
しかし非常に印象的であったことだけは覚えている。それは小さい心に興味が深かったことだけである。例えば、ある日信輔は一臣が庭でミツバチを飼ってハチに唇を刺され、唇が腫れあがっていたことや、炭焼きをして木炭を造っていたことや、寒い冬の日に妹・富久子の足の土踏みの部分に霜焼けができて腫れていたとき、一臣は其処に針を刺して血を出して治療したことなどを覚えている。幼い富久子は痛がったに違いない。うっ血した個所に針を刺して血を出し霜焼けを治す方法を、一臣は朝鮮の人に教わって実施したに違いない。針は火に炙り、朝鮮の焼酎か何かで消毒していたことであろう。
気候が穏やかな日、朝食は一家5人揃って官舎の脇の屋外でテーブルを囲んで食べた。ともゑは子供のおやつにするため砂糖で紅白の模様が付いた飴を作ったりしていた。それは日本が戦争に敗れる3ヶ月ほど前の、朝鮮の片田舎に住む日本人の家の暮らしの一コマであった。
2010年9月21日火曜日
母・ともゑ (20100921)
信輔は職員室に呼ばれ、校長である父親の前に立たされ強く叱責された。何故か鎌田君は呼ばれていなかった。校長であり、柳川公立青年訓導所主事でもある信輔の父親は、建前として自分の息子が主犯であり、鎌田君は信輔に強要されたためやむを得ず従ったに過ぎないという構図を描き、主犯者に全責任があるという考え方を朝鮮人の教職員たちに示そうと考えたに違いない。その考え方を日本人の教頭・鎌田先生と予め示し合わせていたに違いない。鎌田君は家でお父さんの教頭先生からこっぴどく叱られていた筈である。
教頭以外朝鮮人である先生方の皆の前で、父親は蠅たたきのような先の柔らかい物で信輔の頭を、「何故そのような行いをしたのか!」と言いながら一発びしりと叩き、「お前は級長だぞ、級長がそんなことをしても良いのか!」と言いながらまたばしッと叩き、「馬鹿もの!」言ってまた叩いた。信輔は初めから無言で父親である校長の為すまま、言うままにしていたが、「もう、このようなことは二度とやってはならんぞ!」と言われたとき初めて口を開き「はい」と素直に一言だけ答えた。その様子を職員室の朝鮮人の先生たちは黙って見ていた。信輔は放免された。以来、信輔は鎌田君とは遊ぶことはなく、朝鮮人の同級生たちと遊んでいた。しかし、永川の学校にいたときのような楽しいことはなく、信輔が73歳になっても懐かしく想い出す5歳年上の新井玄観のような友達はいなかった。
校長室で叱られた日の夕方、家で校長対生徒ではなく父対子となった時、一臣は信輔に笑顔を作って「もうあんなことはもう絶対してはならんぞ」と諭した。信輔は職員室での屈辱感を思い出しながら「うん」と一言言っただけで後は何も言わなかった。ともゑも信輔の行為を許しがたいと考えていたのか、信輔は母親からもかばってもらったという記憶は全くない。もし「物事の善悪の判断の正しさ」と「屈辱感」とを天秤にかけたら、信輔にとって「屈辱感」の方が重かった。しかし、その気持ちはやがて信輔の心の深層に畳み込まれ、長年思い出すことはなかった。
その年、昭和19年(1944年)の初冬、一臣一家は一臣の弟、つまり信輔の父方の叔父・幸雄の祝言で又四郎の家に帰った。そのときの集合写真に写っている信輔は父・一臣からも母・ともゑからも離れた端っこに独りぽつんと立って写っていて、その表情は淋しげである。子供ながら1年生の2学期の学校生活は面白くなかったのであろう。
翌年、昭和20年(1945年)春、須美子は京城(ソウル)女子師範学校を繰り上げ卒業して教師として赴任する前に義兄・一臣と姉・ともゑの家にやって来た。須美子はそこがとても辺鄙な田舎であったことを後年信輔に語ってくれた。その時丁度春休みで信輔は2年生になろうとするときであり、信直は小学校(当時国民学校)に上がろうとするときであった。信直は4月1日生まれなので学校は信直と一級違いである。
ある日、ともゑは妹・須美子の態度を怒って須美子を家から追い出そうとした。ともゑが須美子の旅行鞄などを庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がそれを拾って家の中に入れた。ともゑはそれをまた庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がまた拾い上げて中に入れた。
信輔は職員室に呼ばれ、校長である父親の前に立たされ強く叱責された。何故か鎌田君は呼ばれていなかった。校長であり、柳川公立青年訓導所主事でもある信輔の父親は、建前として自分の息子が主犯であり、鎌田君は信輔に強要されたためやむを得ず従ったに過ぎないという構図を描き、主犯者に全責任があるという考え方を朝鮮人の教職員たちに示そうと考えたに違いない。その考え方を日本人の教頭・鎌田先生と予め示し合わせていたに違いない。鎌田君は家でお父さんの教頭先生からこっぴどく叱られていた筈である。
教頭以外朝鮮人である先生方の皆の前で、父親は蠅たたきのような先の柔らかい物で信輔の頭を、「何故そのような行いをしたのか!」と言いながら一発びしりと叩き、「お前は級長だぞ、級長がそんなことをしても良いのか!」と言いながらまたばしッと叩き、「馬鹿もの!」言ってまた叩いた。信輔は初めから無言で父親である校長の為すまま、言うままにしていたが、「もう、このようなことは二度とやってはならんぞ!」と言われたとき初めて口を開き「はい」と素直に一言だけ答えた。その様子を職員室の朝鮮人の先生たちは黙って見ていた。信輔は放免された。以来、信輔は鎌田君とは遊ぶことはなく、朝鮮人の同級生たちと遊んでいた。しかし、永川の学校にいたときのような楽しいことはなく、信輔が73歳になっても懐かしく想い出す5歳年上の新井玄観のような友達はいなかった。
校長室で叱られた日の夕方、家で校長対生徒ではなく父対子となった時、一臣は信輔に笑顔を作って「もうあんなことはもう絶対してはならんぞ」と諭した。信輔は職員室での屈辱感を思い出しながら「うん」と一言言っただけで後は何も言わなかった。ともゑも信輔の行為を許しがたいと考えていたのか、信輔は母親からもかばってもらったという記憶は全くない。もし「物事の善悪の判断の正しさ」と「屈辱感」とを天秤にかけたら、信輔にとって「屈辱感」の方が重かった。しかし、その気持ちはやがて信輔の心の深層に畳み込まれ、長年思い出すことはなかった。
その年、昭和19年(1944年)の初冬、一臣一家は一臣の弟、つまり信輔の父方の叔父・幸雄の祝言で又四郎の家に帰った。そのときの集合写真に写っている信輔は父・一臣からも母・ともゑからも離れた端っこに独りぽつんと立って写っていて、その表情は淋しげである。子供ながら1年生の2学期の学校生活は面白くなかったのであろう。
翌年、昭和20年(1945年)春、須美子は京城(ソウル)女子師範学校を繰り上げ卒業して教師として赴任する前に義兄・一臣と姉・ともゑの家にやって来た。須美子はそこがとても辺鄙な田舎であったことを後年信輔に語ってくれた。その時丁度春休みで信輔は2年生になろうとするときであり、信直は小学校(当時国民学校)に上がろうとするときであった。信直は4月1日生まれなので学校は信直と一級違いである。
ある日、ともゑは妹・須美子の態度を怒って須美子を家から追い出そうとした。ともゑが須美子の旅行鞄などを庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がそれを拾って家の中に入れた。ともゑはそれをまた庭に投げ捨てた。すると信輔と信直がまた拾い上げて中に入れた。
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