2016年12月22日木曜日

29161222『仏説阿弥陀経』について(1)


 私の父は長男であったが、故あって実家から離れ、教師として日本・韓国(当時「朝鮮」)の各地を転々とした後、大東亜戦争(戦後アメリカにより「太平洋戦争」と呼称を変更させられた)終結とともに朝鮮から引き揚げ、その数年後教職に復帰して赴任先で居住していた土地に居を構え、そこに墓所(小さな寺の境内にある納骨堂の一角)も確保した。その納骨堂に父も入り、昨年他界した継母も入っている。

 戦後裸一貫だった父は非常に辛抱・苦労して100坪の土地を手に入れ、其処に家を建てた。父は世間並みに、全体で五部屋と台所・浴場・玄関・廊下がある家の中に八畳の仏間を作り、法事など来客が多い時は仏間に続く四畳半の部屋との間の襖を外すなどして広さを確保できるようにしていた。

父の名義のままになっていたその家と土地は売却することになったので、私はその家の仏壇からご本尊・阿弥陀仏絵図や父母の法名軸などを自分の家に持ち帰り、ガラス扉付きの書棚の一角を改造して作った仏壇の中にそれらを収め、毎日読経して供養している。以前はそのような供養は殆どできなかった。因みに『広辞苑』によれば、「供養」とは「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を供え回向(えこう)すること」、「回向」とは「自分の修めた功徳を他にめぐらして、自他ともに仏果を成就しようと期する意」、「仏果」とは「仏教修業によって得られる結果」である。

 この仏壇は西を背に東に向いていて、このデスクトップ一体型のコンピュータの画面と向かい合った形になっている。読経時youtubeで公開されている『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』をダウンロードしてそのコンピュータからその音声を流してそれに唱和し、youtubeで公開されていない部分、即ち和讃六首の後の「願以此功徳。平等施一切。同発菩提心。往生安楽国。」の4句は自分自身で唱えている。読経をするときは「肩畳衣」を右肩に掛けて左に垂らし、あたかも僧侶が着る法衣のつもりになって厳粛な気分になっている。

 ところで仏教は輪廻転生を肯定している。仏教の経典の数は数千にも及ぶ。その中で『阿弥陀経』にも輪廻転生のことが書かれている。その部分は「是諸衆鳥。昼夜六時。出和雅音。其音演暢。五根五力。七菩提分。八聖道分。如是等法。其土衆生。聞是音已。皆悉念仏。念法念僧。舎利弗。汝勿謂此鳥。実是罪報所生。所以者何。彼仏国土。無三悪趣。舎利弗。其仏国土。尚無三悪道之。」である。

 「衆鳥」というのはその前文にある白鵠(白い大型の水鳥)・孔雀(クジャク)・鸚鵡(オウム)などの鳥のことである。『仏教要語の基礎知識』(春秋社)には「五根五力」「七菩提分」「八聖道分」などについて解説されている。「已」は「やめる」という意味である。「舎利弗」は釈迦の十大弟子の一人・シャーリプトラのことである。「三悪趣」は「悪行を重ねた人が死後に趣(おもむ)くと言われる三つの下層世界(地獄・餓鬼・畜生道)」である。

『新訳仏教聖典』(大法輪閣)にはこの漢文の意味を「(これらの)鳥が常に雅やかな音を出して、あらゆる「徳」と「力」と「教」とを歌っている。人々はこの声を聞いて、皆御仏を念(おも)い、御法を念(おも)い、僧伽を念(おも)う。舎利弗(しゃりほつ)よ。しかしこれ等の鳥は、罪の報いから生まれたものではない。彼の御国には三悪道の名すらものない」と説明している。


 しかし、「仏説阿弥陀経」には「舎利弗。不可以少善根福徳因縁。得生彼国。」(シャーリプトラよ「人の世の小さな善や徳を以ってはかの御国に至ることはできない」)と書かれている。心の底から阿弥陀仏を信じ、真剣に供養を続け、一心不乱に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える者のみが、現世において浄土に生き、来世においても浄土に生まれるのである。

2016年12月15日木曜日

20161215プラズマ


 放送大学の面接授業で「プラズマ物理科学」と題する講義を受けた。その講義は放送大学神奈川学習センターで土曜日と日曜日の二日間連続で行われた。受講者はこの授業に関することについてレポートの提出を求められている。さて、何を書こうかと悩む。

 古来哲学者たちは「我々は何処から来たのか。そして何処へ行くのか」と問い続けている。プラズマは発光現象を伴う。そのような自然界の光ではないが、普遍宗教は「光」をすべての中心であるようにとらえている。私は自然界の光と普遍宗教の「光」との間に何か、関係を見出したいという欲求に駆られている。

 138億年前に我々の宇宙が誕生した時はプラズマ状態であった。我々の宇宙の99%はプラズマであると言われる。我々はこの宇宙の中の数々の星々の中の一つであるこの地球上にあって、常に宇宙線・宇宙線以外のすべての放射線・紫外線に晒され続けていて、生体上で何らかの影響を受け続けている。

放射線は我々の体の細胞内でDNAを構成する分子の一部をイオン化してDNAに損傷を与え、紫外線はDNAを構成する分子内の原子を励起することによってDNAに損傷を与える。この損傷によってDNAの複製時にエラーが発生する。

放射線や紫外線によりDNAが損傷を受けたとき、それを修復するプログラムはDNAに予め書き込まれている。エラーが生じているDNAによって新たな細胞が作られた場合、その細胞は自動的に破壊される。そのほか生物には生命を維持するため免疫力を供えているなど様々な機能が備わっている。これはこの地上のすべての生物に、それぞれ進化の過程で自ずと備わってきた自己保存機能である。

 ところで、2600年前仏教を開かれた仏陀の教えが集大成されている『仏説阿弥陀経』というお経には、阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)は「彼仏光明無量照十方国。無所障害。是故号為。阿弥陀。(その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである)」と書かれている。

科学は宗教の対岸にある。宗教は科学的に証明されていないことでも信じることを要求する。阿弥陀仏の存在を信じる人は、その光明に歓喜する。

もし、我々の宇宙が一つの‘生命体’であると信じ、「宇宙は阿弥陀仏そのものである」と信じることができれば、我々人間は「帰命無量寿如来。南無不可思議光。(身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する)」ことによって救われることになる。

阿弥陀経には「もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひともその国に生れたいと願うべきである」と書かれている。

 親鸞聖人は自ら肉食妻帯し、「遊煩悩林現神通(阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す)」と説かれ、人々に「仏の教えを信じる善良なもの」の姿を体現されたのである。私は、親鸞聖人はこの地球上のすべての人々を救うことが出来る最高の宗教を打ち立てられたお方であると思っている。


2016年12月4日日曜日

20161204帰命無量寿如来・南無不可思議光


表題は七言絶句の長詩のようなお経、親鸞聖人が作られた『正信偈』の最初の第一句と第二句である。私は、親鸞聖人は最初のこの二つの句をもって、先ず浄土真宗の教えの根本を述べられたものであると考えている。

 『帰命無量寿如来』とは、『「‘無量寿’即ち‘阿弥陀(Amitāyus) ’である‘如来(tathāgata) ’即ち‘仏(Buddha) ’」に「‘帰命(namas) ’即ち‘「身命を捧げて仏陀に帰依する’」』という意味である。「帰依」は「神仏など絶対的なものに服従し、これにすがること」である。

『南無不可思議光』とは、『「‘不可思議’即ち‘①思いはかることもできず言葉でも表現できない・②考えても奥底を知り得ない・③不思議’」な「光」に「‘南無(namas)’即ち‘帰命’と同じ意味であるがそのような気持ちで敬礼(きょうらい)する」』という意味である。「敬礼(きょうらい)」は「うやうやしく礼拝すること」である。(用語の意味の出典:『仏教要語の基礎知識(春秋社)』と『広辞苑(岩波書店)』)

 従い、表題の二つの句全体では「身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する」という意味になる。西本願寺派ではこの部分を五七調で「ひかりといのちのきわみなき 阿弥陀(あみだ)ほとけを仰(あお)がなん」と和歌のようにしている。

 私は「不可思議な光」は、一切の疑念も抱かずに一心不乱に阿弥陀仏におすがりすれば、必ず感じ取ることができるものであると確信している。その光は形而上学的な概念の、自分だけしか感得できない、言葉では言い表せず、伝えることもできない、或いは言葉にして話せば誤解されてしまうようなものであると思っている。因みに「形而上学」とは「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在を純粋思惟により、或いは直感によって探求しようとする学問」である。これはマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んでそれを活動の理論的根拠としている日本共産党が絶対受け容れられない学問であるに違いない。

 「不可思議光」は、合理主義・科学万能主義に毒されている現代人にはなかなか理解できないものである。しかし、そのような人でもせめて丸一日、早朝から深夜まで何処かのお寺のお堂にこもり、一心不乱に『般若心経』でも唱え続ければ何かをつかみ取ることができるかもしれない。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ必ず得るものがあるに違いない。

 浄土真宗のお経『正信偈』には、「遊煩悩林現神通・入生死薗示応化」という句がある。その意味は大雑把に言えば、「阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す。その人にとって現世は即ち浄土である。そのような人は現世で苦悩している人を救う」である。

キリスト教では「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(Anyone who looks lustfully at a woman has in his heart already committed adultery with her.)」と教え、煩悩を認めてない。またイスラム教では神が命じた戒律に従うことが強く求められている。一方、親鸞聖人が今から約810年前に確立された仏教の教えは、私は世界で最も優れた宗教であると確信している。その教えは今から2600年ほど前釈迦牟尼が確立された教えに完全に沿っているものであることは確かである。


奈良時代に聖武天皇は当時の総合大学である東大寺を建設された。そのお蔭で今日日本では仏教と言う精神文化が根付いている。親鸞会はその布教方法を巡って批判されているが、仏教の儀式の面よりも仏教そのものを大切にする運動は歓迎されるべきことである。仏教のお寺も僧侶も空気を食べて生き残ってゆくことはできない。そのため仏教教団各派の活動がある。私は既存のどの派にも所属せず「浄土真宗自分派」の「独り会」を続けようと思う。親鸞の教えは私の身近な者たちから次第に伝わってゆくことを期待して・・・。

2016年12月1日木曜日

20161201手製の仏壇


 亡父が遺した家と土地は母(継母)の他界後一年を経て売却された。その家は長年空き家になっていて、今後必要とされない状況であったので、その家・土地を相続する権利がある者が語り合って売却処分となったのである。

 その家にあった仏壇の中からご本尊(阿弥陀如来を描いた絵図)や厨子・香炉・花器・鐘などの仏具と亡父・亡継母の法名軸を持ち帰り、手製の仏壇の中に収めた。その仏壇は四つのガラス扉付きの高さ190㎝・幅165㎝の書棚の一角に、棚を取り外して高さ60㎝幅40㎝ほどの空間を作り、内側を金張りにしたものである。その中に単4乾電池が入っていてLEDのランプの頭を押さえるとスイッチが開閉される仕組みの灯篭を仏具屋で購入して収めた。厨子の裏側に終戦(昭和20年、西暦1945年)の翌年12月に享年33歳(満32歳)のとき他界した亡母と、その翌年生母の乳を吸うことなく享年2歳で他界した末弟の法名が書かれている紙も折り畳んで置いてある。

 その扉を開けると良い香りが漂ってくる。普通の仏壇では線香を焚くとその香りが辺りに漂うが線香の煙も漂う。灯篭のロウソクの煙も漂う。しかしこの手製の仏壇に中にはLEDの光が灯る小さな灯篭があり、線香を焚かなくてもその香りが漂うように、多量の良質の線香が入っている箱の蓋を開けたままにして置いてある。手前に布製台座付の鐘を置いてあり、私は畳肩衣という略式の法衣を肩に掛けて横に垂らし、灯篭を灯し、数珠を手にして「チーン」と鐘を鳴らして読経する。読経時には明かり・香り・鐘の音の三つが重要である。

読経の発声の抑揚などは経本(その仏壇の下に西本願寺派・東本願寺派・親鸞会の三つの経本を納めてある)に譜が書かれているとおりに行う。毎日『正信偈』など読経し、経本に書かれているとおりに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える。親鸞会という浄土真宗の一派が作成した経本には親鸞聖人が作られた七言絶句の『正信偈』を読み下したものが書かれているので、それも『正信偈』を理解するために朗読している。

 ところで親鸞聖人の教えを説く教団として「真宗教団連合会」という組織があって、これには浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・真宗高田派など10ほどの教団が加盟している。これとは別に上述の「浄土真宗親鸞会」という教団がある。この教団は親鸞聖人の教えを巡って、本願寺派・大谷派など対立している。この教団は布教方法を巡って批判されている。

 私は元来「一匹狼」で何処かの組織に入って活動することを好まない。しかし私は昨年継母の他界により、もともと亡父が門徒であり亡父のあとその継母が門徒であった寺の門徒になり、真宗大谷派から「准大講頭挌」という肩書を頂いている。このため私は遠隔地に住んでいてもその寺との縁が続いている。毎年本山と教区に指定の額のお金を納めている。

 毎日読経し、その読み下しや御文などを朗読しているうちに、親鸞聖人の御教えが次第に自分の心の中に溶け込んでくるように感じている。親鸞聖人は阿弥陀仏に一心に帰依する人は煩悩のまま浄土に生きることになる、と説いておられる。私は自分の哲学として、過去世・現世・来世にわたる意識のつながりが絶対あると考えている。つまり今を生きている人は誰かの「あの世」を「この世」として生きているのであり、「この世」を終えた人は、時を経て、殆どの場合親族の誰かとして生まれ変わるものである、と私は考えている。

 遠隔地にあるお寺の門徒であっても私は言うなれば「自分派」の浄土真宗「独り会」の者のようなものである。私は親鸞会の主張も良く吟味しながら自分なりに親鸞聖人の教えを忠実に学ぼうと思っている。手製の仏壇の下の棚には『原始仏典(中村元編・筑摩書房)』『新訳仏教経典(大法輪閣版)』『仏教の基礎知識(水野弘元著・春秋社)』『正法眼藏(岩波文庫)』『歎異抄(岩波文庫)』『歎異抄(真宗教団連合編)』『親鸞(笠原一男著・NHKブックス)』、さらにその下の棚にはスピノザの哲学関連の本や『脳科学は宗教を解明できるか(春秋社)』『意識は傍観者である(早川文庫)』などが収められている。

 書棚は西側を背にして置かれているので手製仏壇も背後は西方である。今私は椅子をくるりと回転させ、東側の窓に面して置かれている机上のコンピュータに向かってこれを書いている。自分の書斎にこのような仏壇があるということは大変恵まれていることである。このような恵まれた環境にありながら自分の天与の寿命を無知・無為のゆえに縮めるような愚かなことはしてはならない。精進・工夫・努力しつつ時を送るようにしているうちに、私もやがて「この世」を去ることになる。私が今在ることは正に有り難きことなのである。


2016年11月27日日曜日

20161127年寄りは引き込んで阿弥陀仏のことを語った方が良さそうである。


三橋貴明氏の話を聞いてなるほどと思った。

ドイツは物を作りEU域内の国々はそれを買う。ドイツの貿易収支は黒字、一方のEU域内のある国々は赤字となる。

その国々は貿易赤字を解消するため努力する。つまりドイツの物がEU域内で売れ行きが悪くなる。するとドイツはロシアとか中国とかEU域外の国に物を売り、EU通貨の対ドル為替差(ユーロ安)で利益を上げる。EU域内は日本の国内とは違い、EU域内個々の国々の経済格差をEU全体で調整することは出来ない。EUはかつて幕藩体制の日の本の国のようである。

ドイツはEU域内での貿易収支を黒字にするだけではなく、EU域外の区の間でもEU通貨安(ユーロ安)で利益を得て国の富を益々蓄積している、EU域内で富を蓄積している国と、益々疲弊しつある国とが出て来る、その代表はギリシャやスペインというわけである。

三橋氏は大阪のテレビでグローバル化推進派の竹中平蔵氏と議論したとき、竹中氏は「TPPは自由貿易である」とか言った由。海外に進出した企業の中では、そのあおりを食う日本国内の労働者や技術者(下請けの中小・零細企業のひとたち)が出る一方で、ますます所得を増やす人たちも出るであろう。

企業活動は資本の論理で動く。将来、一握りの資本家が農協や「ゆうちょ」とかの金融を牛耳ることにならないか、組織内に入り込んだ外国人・元外国籍の幹部がNHKやその他のテレビ報道機関を牛耳ることにならないか、外国資本が特定の地域の土地を買い占めることにならないか。現実に様々な状況が懸念されている。

「問題が起きてしまってからでは遅い」と年寄りがいろいろ心配しても、若い世代の人たちが問題意識を持って行動を起こしてくれないと状況は変わらない。政府・与党は労働移民を認める決定を下したが、このことにより将来起きるかもしれない問題について十分予防措置を取っておくべきであるが、彼らにそのような問題意識は無さそうである。

正論を語る人たちはメディアを敵視し、メディアもその人たちを敵視する。左翼・リベラル派と言われる人たちは「国家よりも自由が大事」という固定観念に陥っている。勿論国家も自由も共に大事である。「国家よりも自由」と「自由」だけに重きを置くことに問題があるのである。

80の声を聞く年寄りは自ら体験し・実感している「阿弥陀仏」の有難さを説くことに精を出した方が精神衛生上良さそうである。


2016年11月21日月曜日

20161121プロパガンダ


 プロパガンダには次の三つのタイプがあることを知った。
 ① 恐怖プロパガンダ
 ② ルサンチマンプロパガンダ
 ③ 木を見せ、森を見せないプロパガンダ

 これは三橋貴明氏が提供している講座を受講して学び得た知識である。「一市井の無学な老人」としてふと思ったことは、わが日本の運営に関わっている政治家や官僚たちと雖も、プロパガンダについて確実な知識を持たずに物を言い、或いは行動している人たちが結構多いのではないだろうか、と言う事である。

 我々はテレビや新聞などによる報道で、「国の借金は一人当たり何百万円」とか、「国の財政破綻」という文言を散々聞かされてきた。ところが三橋氏によれば、「国の借金は‘政府の借金’」であり、「発行した国債は日本銀行が買い取る」ので、「円」を通貨としている我が日本においては「財政破綻はあり得ない」と言うのである。「国の借金」「国民一人当たり826万円の借金」「財政破綻」など、と言う文言は「恐怖プロパガンダ」である。これは明らかに国民の購買意欲を減じさせ、公共投資を鈍らせている。「デフレ」からの脱却は困難である。その責任は安倍総理と日本銀行の黒田総裁にある。

 一方「ルサンチマンプロパガンダ」とは三橋氏によれば、弱者が強者に対して抱く 憤りや怨恨、憎悪といった感情のことである。「ルサンチマンプロパガンダ」は国の財政を自分の家計に連想させ、「国にそんなに借金があるのであれば、お金を節約しなければならない」とか、「政治家を減らせ、歳費を減らせ、その分を低所得者の救済に回せ」などという心理を国民に起こさせる。「コンクリートから人へ」という旧民主党のプロパガンダ、「大企業・高所得者に重く課税し低所得者には減税せよ」「一票の格差は憲法違反である、比例代表制にせよ」など主張する日本共産党や社民党のプロパガンダなどはポピュリズムを煽り、結果的に国を破滅に導く。彼らは自分たちの勢力拡大のため、嘘を真実のように平気で吹聴する。

 三橋氏によれば「木を見せ、森を見せないプロパガンダ」とは、日本政府が発行した国債を「政府の子会社であるような」日本銀行が購入している状況は実は「国債の貨幣化」という状況であるのにも拘わらず、財務省は「財政ファイナンス」という言葉を使ってそのことを国民に知られないようにしているようなプロパガンダである。

かつて国土交通省が握っていた「道路特定財源」を財務省の管轄下に置くため、「国土交通省の職員が税金でマッ サージチェアを買っていた」という話を持ち出して「道路特定財源はけしからん」という結論に結び付けた事例が「木を見せ、森を見せないプロパガンダ」であるという。

様々なプロパガンダを創り出す人たちは「頭の良い高学歴な人たち」である。彼らは自分たちが主張したことが崩れると、「自分たちは間違っていなかった」ということを人々に印象付けるためにあらゆる論理を編み出す。メディアに携わる人たちは彼等、即ち世に自分が書いた書物を出している「先生」たちの言う事を有難がり、「先生」たちの間違った「見識」でも自分たちもその「先生」たちと同じレベルにあると思いたくて、メディアを通じて無知・無学(本当は決して無知・無学ではない)の市井の人たちに「上から目線」で吹聴する。

 今日わが日本における情報伝達の仕組みは非常に高度に進化しつつある。若い人たちの間ではSNSやフェイスブックなどによる情報交換が一層盛んになってきている。「上から目線」では一般国民の「空気」の重さに気付かないだろう。クリントンがトランプに敗れたのは、トランプが「上から目線」のマスメディアの人たちに「反トランプ」的言動を取らせ、一般国民の間に漂っている「重い空気」を自分に引きき寄せた戦略が功を奏した結果である。

 意識的・無意識的に様々なプロパガンダを拡散し続けるマスメディアに対抗するSNSやフェイスブックなどの仕組みは自然に進化してゆくに違いない。それは今後我が日本を更に強靭な国家として進化させるに違いない。但し政府はSNSやフェイスブックなどに最も正しい情報が流れるように、また一般国民の間でSNSやフェイスブックなどがさらに進化してゆくように導いて行くことが重要である。

それは「国家」が前面に出ることではなく、国民の「自由」が前面に出ることでなければならない。首相官邸・内閣府が今後どういう方向に情報を発信してゆくのか監視しなければならない。「国家」よりも「自由」を最重視しているのがリベラル派の人たちである。彼らは意識的にせよ無意識的にせよ「ルサンチマンプロパガンダ」を行う人たちである。例えば「戦争に巻き込まれる」という感情は共有されやすいが、「武力攻撃を抑え、武力攻撃から身を守るのは武力しかない」という現実を観たくないという感情がある。「国家」によって自分たちの「自由」は侵されたくない。そういう状況の中で国民を正しい方向に導いてゆくのは首相官邸・内閣府の役目である。


 

2016年10月30日日曜日

20161030国民に「夢と希望」を持たせよ!


 28年度自衛隊観閲式・観艦式の動画を左欄にリンク引用した。この度の観閲式には在日アメリカ陸軍と海兵隊が参加した。また観艦式には韓国海軍が参加した。

さて、小池百合子東京都知事が「希望の塾」と命名した政治家養成のための塾を開いた。受講の応募者は4000名を超え、その中から2900人が塾生になったとのことである。

私が見たところではNHKを含む大手メディアでは取り上げたところは無かったようであるが、彼女はその塾の基調講演で次のように言っていた。「東京都や日本には何でもある。しかし希望が欠けている」と。塾生たちはその言葉をどう受け止めたことだろうか?

先日行われた東京10区と熊本県の衆議院議員補欠選挙では、いずれも彼女が応援した候補が当選した。これは自由民主党という政党が勝利したものではない。自由民主党は国民の空気を読み間違えている。国民の空気は地縁・血縁・街頭アンケートだけがすべてではない。インターネットを通じた無数・無名の人々の直感のようなものもその空気の大きな部分を占めている。そのことに自由民主党と言う政党は気付くべきである。さもないと次の国政選挙では失敗することだろう。

私はフェイスブックやツイッターやブログで、私が関心を持っている方々や組織の発言をモニターしている。山本一太衆議院議員はインターネットやメディアに精通していると言われている。自由民主党の議員諸侯は国民の間に漂う「空気」について、インターネット上に現れている「空気」に大いに関心を持つようすべきである。

さて「希望」についてである。今、日本国民は未来に「夢と希望」を持っているだろうか?私は「NO」であると思っている。国民の購買意欲を削いでいるのは政府が喧伝する「財政赤字」「赤字国債」「増税」「年金支給率」といった言葉である。どれも暗いイメージの言葉ばかりである。メディアは政府の尻馬に乗って国民を暗い気持ちにさせている。

国の財政について担当する官署では、税収と財政支出のバランスをとることに最も注力するのは当然である。税収を増やさなければ年々増え続ける医療・福祉のため予算を確保できない。そこで当該官署はあらゆる方法を考え出して税収を増やすことに腐心する。

 日本の通過は「円」であり、政府が発行した国債は日本銀行が買い取っている。EUでは自国の通貨はなくなり「ユーロ」が通貨となっている国々が多い。そういう国々では自国で国債を発行することはできない。一方、日本の通貨は「円」である。政府が発行した国債は、政府と一体的な日本銀行が買い取っている。これは「円」で発行した国債を、「円」という「貨幣」にしているようなもので、国債発行残高がある程度まで増えたとしても、財政破綻というようなことは起きないらしい。

財務省のホームページでは「財政赤字の問題点」として「財政赤字の拡大(公債発行の増加・債務残高の増大)」とあり、これが「財政赤字の拡大 (公債発行の増加・債務残高の増大)」「世代間の不公平」「民間部門の経済活力の低下」「財政への信認低下による金利上昇」を生じるとしている。

上記「財政への信認低下による金利上昇」に関しては、「政府財政への信認低下がさらに進めば、金利上昇に留まらず、政府の資金調達が困難となる」、と説明している。

果たしてそうなのだろうか? 財務省の別のページでは「金利の推移」と題するグラフが示されている。これには「公債残高」と・「利払費」・「金利」の推移が示されている。「公債残高」増え続けているが、「金利」は下がり続け、極めて低い水準にあってなお低下傾向にある。

市井の無学の一老人が直感的に思うことであるが、政府・自由民主党は国民に「夢と希望」を与えるため、国債残高をあまり気にせず次のことに注力して投資と構造改革に取り組むべきではないのだろうか? 

以下①〜⑦はそのアイデアである。これは官僚ではなく、政治家が前面に立って行うべきことである。政治家に、国民に「夢と希望」を与える能力・見識が無ければ、国民は不幸である。

①日本の労働人口は年々減少する。自由民主党はこれに対処するため労働移民の受け入れを画策しているが、それは将来必ず禍根を残すに違いない。そのような短絡的・愚かなことをするよりも、あらゆる業種・生業について生産性を上げるため積極的に投資すること。
②今のところ発電コストが高すぎて実用に程遠いが、核融合発電の実用化に向けて巨額な投資をしてこれに取り組むこと。
③バイオ・小規模水力・樹木廃材・風力・波力・太陽光など非核分裂反応エネルギー(再生可能エネルギー)の開発に巨額な投資をすること。
④例えばカルデラ大噴火などを含め、想定外の災害時に甚大な被害を受ける確率が大きい核分裂反応エネルギー(原子力発電)の安全運転に注力する一方で、この原子力発電の利用は時期を明示して将来ゼロにすること。
④全国にくまなく新幹線網・鉄道網・広帯域電気通信網を建設し、人・物・金・情報の行き来を更に活発化する公共投資を積極的に行うこと。
⑤将来人類が地球外惑星(当面、火星)に移住・生存できるような宇宙開発を含め、宇宙の利用のために巨額な投資を行うこと。
⑥目的・目標を示して海底資源の開発のために巨額な投資を行うこと。
⑦保育園から大学卒業までの教育費は、国公立の施設における費用と同等額全額を国家が負担すること。


2016年10月10日月曜日

20161010 日本人とは何者か・何処から来たのか・何処へ行くのか


 最近「ああそうなんだ!」と目覚めたことがあった。それは80歳に近いというこの齢になって、初めて三橋貴明氏の講座やブログに接することになったためである。私は元来取捨選択しながらも好奇心が強く新しいものが好きな性格であるから、「あの世」にかなり近い齢にもかかわらず、またこれまで何度も隠居・隠棲に憧れていたにも関わらず、「終わり良ければすべて良し」として、「日本の国を思う」志を貫徹して最後の線香花火のように燃え尽きたいと思うようになった。享年33歳の若さで、「起こしておくれ、仏壇から線香を取って来ておくれ、東を向けておくれ、お父さんを呼んできておくれ」と言って、私が父を呼びに行っている間に、皇居がある方角に向かって手を合わせて逝った母の言葉が、いつも私の脳裏にある。母は朝鮮で8年間、朝鮮の人たちの教育に携わっていた父を支えていた。

 さて、安倍政権は労働移民政策を考えているらしい。わが国のいわゆる「限界集落」は農業の担い手となる労働移民の受け入れにより、将来日本の中の外国のようになってしまうだろう。今のところ日本国内の企業が限界集落の解消のため役立つことをしているが、そのうちに外国の資本が食指を動かし、日本国内の様々な問題の解決のため自分たちが何かをすれば儲かることが分れば、大量の投資をし、利益の吸い上げにとりかかることだろう。

グローバリズムは人・物・金が国境の壁を取り払って自由自在に行き交うことを善とする経済的思想である。言うなれば、政道よりも経済優先の商道を優先させる思想である。外国資本といっても、その背後に莫大な資産を保有しているほんの一握りの超大金持ちがいることだろう。彼らには国家観はなく、世界中何処へでも暮らしやすいところに行って住み、働かずに利益を吸い取る。一般庶民の暮らしは彼等の動きに影響を受けることになる。

科学的社会主義を信奉する日本共産党はその点を突き、人々に自分たちの主張が正しいと訴えるだろうが、自由主義・民主主義の思想の観点からは、彼らの主張を絶対受け容れることはできない。勿論天皇への崇敬・男系皇統維持・自衛隊の国防軍化の観点からも。

日本人は今一度「自分たちは何者であり、何処から来て何処へ行くのか」自問する必要がある。社会に影響力のある学識者・言論者・ジャーナリスト・青少年の教育に携わる教師・政治家・官僚たちは、「そのことは分っている」と反発するかもしれないが、今一度謙虚になって自問して貰いたいものである。

日本人は基本的に縄文人を基層とする多人種の混血の人種である。しかもその縄文人は7万年前±13000年にヨーロッパ人と分岐した人種であり、日本列島に辿りついて北海道から沖縄までの日本列島だけに住みついた人種である。

 今から約1万年前(国際標準模式層断面及び地点(Global Boundary Stratotype Section and Point 略称GSSPによれば11,784年前)以降、8200年、52004200B.P(年前)に気候変動が起きていた。これは文明の発祥・発展・衰退と深い関係がある。

 “中国文明の源流は黄河文明だと思われてきたが、じつはその1000年以上前に長江流域で文明が華開いていたのである。・・・(中略)・・・中国の雲南省から長江流域、そして西日本には多くの文明的共通点がある・・・(中略)・・・6300年前に誕生した長江文明は、4200年前に起こった機構の寒冷化によって大きな変節を迎える。北方で畑作牧畜を行っていた漢民族のルーツにつながる畑作牧畜民が南下し、長江中・下流域で長江文明を発展させた稲作漁労民は、雲南省や貴州省の山岳地へと追われることになった。・・・(中略)・・・畑作牧畜民に追われた長江流域の人々の一部は、ポートピープルとなって海に逃れ、台湾や日本へ到達した。・・・(中略)・・・とくに約3000年前の寒冷・乾燥化は厳しいもので、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた・・・(中略)・・・長江文明をつくりあげた稲作漁労民は、畑作牧畜民のように争いを好まなかった。・・・(中略)・・・多くの人々は、北方からやって来た人々と一緒に暮らしただろう。しかし、そうでない人々もいた。そうした人々が、しだいに雲南省や貴州省の山奥に移り住むことになった・・・(中略)・・・長江流域の民が向かったのは、中国の山奥ばかりではない。すでに指摘したように、海を渡り、台湾にも行っている。さらには日本列島にも渡り、日本の弥生式文化の成立に大きな影響を与えたと考えられる。・・・(中略)・・・倭人は苗族や台湾の生番族とも同じ文化を共有している。”

 上記括弧(“”)内は『古代日本のルーツ 長江文明の謎』(安田喜憲著、青春出版社)より引用したものである。この本には温帯ジャポニカ稲作文明が長江河口から直接鹿児島県さつま市笠沙町黒瀬海岸と朝鮮半島南部経由で九州へ伝搬した図(佐藤洋一郎『稲の日本史』角川書店による)が描かれている。

 縄文人はヨーロッパ系の人の祖先と近いが、北は北海道から南は沖縄までの日本列島だけにしか生き残っていなかったという世界で特異な人種である。縄文人と共通のミトコンドリアDNAハプロタイプでは、南方由来のM7aは沖縄と北海道のアイヌで多く分布し、朝鮮半島においてもこのタイプが少し見られる。縄文人のY染色体DNAハプロタイプD1bC1a1は日本列島だけにしか存在していない。長江中・下流域に起源があると考えられるO1b2は日本人の間に多く分布しているが朝鮮人には少ししか分布していない。DNAから見れば日本人には中国人や韓国北朝鮮人には見られない特殊な部分がある人種である。

倭人は縄文人と長江流域から渡ってきた弥生人が混血した人種である。倭人は朝鮮南部に進出していた。倭人とは古墳時代人のことである。朝鮮南部には日本の古墳と同じ形の前方後円墳が存在している。中国吉林省に建っている広開土王碑には倭人が高句麗まで攻め上ったことが書かれている。神功皇后が新羅を攻めてこれを支配下に置くことができたのも、朝鮮南部に居た倭人たちの働きによるものであったに違いない。

日本語と似ている朝鮮語は、倭人たちがもたらしたものかもしれない。福沢諭吉は朝鮮の一般の人たちが読めるようにするため、諭吉が発行を推進した新聞の漢文の文字にはハングル語の‘ふりがな’を付けた。上述の古墳や広開土王碑に書かれていることやハングル語の‘ふりがな’のことは今の韓国内ではすべて否定されている。しかし史実は事実である。

 稲作は韓国からもたらされたものではなく、長江中・下流域⇒山東半島⇒朝鮮南部⇒九州のルートと長江河口から九州南部への直接ルートでポートピープルとして渡ってきた稲作漁労民がもたらしたものである。彼等渡来系弥生人たちは争いを好まなかった。一方“狩猟・漁労・採集生活で豊かな暮らしを行ってきた縄文人は、森を大切にし、循環再生を基本とする穏やかな社会”(引用は上掲)を作っていた。従い渡来系弥生人と縄文人はお互いに殺戮し合うことは無く、混血して古墳時代人となった。縄文人たちはいろいろなものづくりに長けていた。これらのことが今の日本人の物づくりや創造性発揮の原動力となっている。

 中国唐王朝初期にできた『隋書倭國傳』に「新羅・百済皆以倭爲大國多珍物、並敬仰之、恆通使往來(新羅・百済、皆倭を以て大國にして珍物多しと爲し、並びに之を敬仰し、恆に通使・往来す)」と書かれている。当時、朝鮮の新羅の国も百済の国も倭国(=日本)が大国であり、珍しい物が多い国として新羅・百済両国とも倭国(日本国)を敬い尊んでいたのである。

 後漢滅亡後も、白村江の敗戦後も非常に多数の漢族・韓族の人たちが日本にやって来た。そして混血し、日本の伝統や文化を継承する純粋の日本人になった。戦後は在日中国・韓国北朝鮮籍の人たちのみならず、ヨーロッパ系・東南アジア系・アフリカ系の人々との混血も増えている。その中からスポーツや芸能やなどで活躍する人たちが出現している。

日本人はDNA的には世界に類を見ない多人種の雑種である。戦後日本国籍を取得した韓国朝鮮系日本人は約35万人いる。一方日本に永住している中国人は約23万人いる。これは増加傾向にある。日本人になった韓国朝鮮系人も中国人も今後数世紀もしないうちに混血が進み、体の一部に縄文人のDNAを持つようになり、皆完全な日本人になることだろう。しかし労働移民など、将来に禍根を残すようなことは避けるべきであり、日本への帰化には一定の条件を付し、日本国民としての宣誓を行わせるべきである。グローバリズムの落し穴に十分気を付けるべきである。

日本民族は単一特殊な民族であるに違いない。日本人が普段使っている文字も漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字・英語と多様であり、同じ町の中に古い文化と共に新しい文化が併存し、暮らし方も多様である。それが日本の総合力を高め、また日本の進化の原動力にもなっている。日本人はこのことを先ず自覚し、それを自分の心の深奥に据えるならば、いかなる状況においても慌てず穏やかに対処し、もし身に危険が降りかかれば日本民族として団結してそれに対処してゆくことだろう。日本民族は過去にそのようにしてきたし、これからもそのようにして行くに違いない。

そういう民族性を恐れたのがアメリカであった。しかし空母機動艦隊を創設し運用した国は世界でアメリカと日本の二国だけである。今アメリカの力は弱まっているものの依然として超強大な軍事力を維持している。日本がアメリカをはじめ、ASEAN諸国やインドなどと軍事的な連携をすれば、環太平洋地域における平和と安全を維持できることは確かである。「軍事は外交の手段である」。志ある人たちには是非このことを念頭に置いていてもらいたいものである。


日本が独自のステルス戦闘機を開発し、試験飛行させたことについて今のところアメリカは文句を言ってきていないようである。TPPにおいても日本はアメリカと対等に利益を分け合う構図をつくることに成功する前までは、日本国内ではTPPに反対し、日本がアメリカから離れることを主張する論調も盛んであった。「真に強い侍同士はお互い相手を尊敬し合う」ものである。日本が強ければ強いアメリカも日本を尊敬するだろう。集団安全保障関連法を、「日本がアメリカのために戦争に巻き込まれる法律である」、と非論理的に情緒的に思う人たちが心配している。しかし自らの心の深奥に前述のことがしっかり据えられて居れば、そのような心配は全く無用である。

2016年9月19日月曜日

20160919最大多数の最大幸福を脅かすグローバリズム


 今日の三橋経済新聞(三橋貴明氏主宰)に『グローバリズムとの戦い』と題する記事が載っている。三橋氏は「英語を流ちょうに話し、国籍や国境を意識せず、金儲けが狙える国の企業に投資し、安全な日本国に居住し、日本国で居住することが危険になれば、より安全な国に逃避するような連中が一番恐れるのは民主主義である。彼らは国民を分断しようとしている」、というような趣旨のことを述べている。

私は彼の意見に賛成である。日本国内には上記のような国家観が欠如した利己主義の輩がごまんといるだろう。彼らの中には自由民主党の政治家もいることだろう。その政治家は表向き天皇を崇敬し愛国心に満ちたことを口にし、身体・精神・知的各種障害者への思いやりを口にし、母子家庭なで生活保護・奨学金などで細々と暮らしている経済的弱者への思いやりを口にしていることだろう。

 そのような偽善者を左翼の人たちは非難し、自分たちこそそういう弱者の味方である、と常にアッピールしている。日本では細かく幾つもの政党があるが、各政党はいろいろな考えの人たちの受け皿になっている。しかし最も危険な政治家は、表向き慈愛にみちていて実行力があるが、その裏で金儲けに励む連中である。そういう政治家たちが日本を危うくする。

 私はかつて仕えた陸軍士官学校54期出身の方から「日本軍がマレー半島からイギリス軍を追い出した後、商社の連中が進出し、良からぬことをした」というような話を聞いたことがある。そのように言われた商社も実は日本国家の財政を支えていたに違いない。

 物事には善い面も悪い面も一緒に存在している。それで物事が成り立っている。ただ、悪い面は善い面を暗くしない程度に抑制されなければならない。その抑制が効かなくなると必ず問題が起きる。例えば自由主義は衰退し、全体主義が台頭することになるだろう。

 世界一の情報通信技術を持っている日本は、その利活用を活発にする必要がある。スマートフォンやパーソナルコンピューターなどにより人々の間の意思疎通がより活発になれば、上述の危険な政治家も、金儲けに走る国家観のない利己主義の人たちも自ずと制御されるようになることだろう。

 ただ其処にも危険が潜んでいる。フェイスブックなどで自分の顔をはっきり見せず、自分のプロフィールもできるだけ隠すのはそういう危険から身を護る行動の顕れである。ツイッターなどで匿名で激しい言葉を使い、何かを攻撃し、自己満足している連中も、表に出て群れを成せば非常に危険な集団になることだろう。群れを成すのは全ての生物が自ら持っている力・自存力の顕れである。集団暴行・テロ行為・新興宗教団体や特定思想団体の集団的な行動・暴力団の行動などはすべて単独ではできないことを群れになって行っていることである。公安当局は彼等をしっかり把握し、暴発しないように制御している筈である。

 政府はそういう危険をできるだけ排除し、理想的な社会を創るため努力している。ここで重要なことは、マスメディアがもっと情報通信に関心をもち、中央政府・地方政府と国民との間のコミュニケーションがもっと活発になるような役割を担うことである。個人或は志を同じくする人々の集団だけでそのような役割を担おうとしても糠に釘のような結果しか得られないが、マスメディアが動けば情報通信に対する人々の関心が深まり、中央政府・地方政府と国民との間のコミュニケーションが活発になるに違いない。

 英語を流ちょうに話し、金儲けに走る連中が既に引き起こしつつあるのかもしれない貧富の拡大は、中央政府・地方政府と国民との間のコミュニケーションが活発になることによって防ぐことが出来る筈である。国民の大多数が一部の政治家・識者・ジャーナリストたちの発言に惑わされることなく物事の善悪を判断し、最大多数の最大幸福を目指して自ら行動するならば、貧富の差も適度に保たれ、人々の安全が保たれ、国家の平和と繁栄が保たれるに違いない。

 

2016年9月18日日曜日

20160918中近東などで国際マイクロウエーヴ回線の建設に関わったKさん


 男より9歳年上のKさんは今88Kさんは最愛の奥様を亡くして45年は経っているだろうか、福岡のある町に独り暮らしをしている。Kさんが奥様を亡くす前に長年住んでいた横浜のある町にはまだそのマンションの一戸が残っていて、Kさんは年に何度か福岡と横浜の間をフェリーを利用して往復している。

 そのKさんは旧電信電話公社(現NTT)の職員で、その技術を買われてN社に転職し、N社が国際協力機構JICAの依頼を受けて中近東・東パキスタン(現バングラディシュ)等に建設した国際マイクロウエーヴ回線の建設の現場責任者として携わった経歴の持主である。

 男はそのKさんと仕事を通じて知り合い、30年来の良い友人関係になっている。男はKさんが元気にしているかどうか確かめるため先ほど福岡のKさんに電話を入れた。その時二つのことが話題になり、長々と語り合った。話題の一つは戦艦大和を引き揚げ、欠けた部分は継ぎ足し、少なくとも往時の外観の形だけは復元して、横須賀かどこかに記念・追悼公園を作って、そこにモニュメントとして飾ったらどうか、ということである。

もう一つは、戦後日本が国際貢献の一環として、日本の高度な情報通信技術力を活かして世界の後進地域に情報通信網の基幹となる国際マイクロウエーヴ通信回線を建設した当時の建設現場の実話に関することある。男はKさんから当時の苦労話を聞き、それを何とか小説にして世に知らせる方法はないものかと思った。

何年か前、私男はKさんから百田尚樹の『永遠のゼロ』という本を突然贈られた。その後私はKさんを誘ってその映画を観に行ったことがあった。その時映画館の中で男の隣の席にいたKさんは、その映画の上映中声を押しころして泣いていた。映画の筋はその本に書かれているとおりであった。
(関連:『永遠のゼロ』
『天涯孤独になったある友人のことを思う』

男は「自分はKさんと共に生かされている。Kさんの年齢になるまで自分がこの世に在るかどうかは分らない。しかしお互い何か因縁がある二人とも、この世での役割を終えない限りあの世には行けないのだろう。その役割とは戦艦大和と国際マイクロウエーヴ回線のことを日本人の魂の永遠の遺産として、後世に伝える仕事の一端のほんの僅かでも担うことである」と思った。

国際マイクロウエーヴ回線のことについては戦艦大和のような知名度が無い。識者・言論者・小説家の間にもその認識が無いに等しい。日本の情報通信技術は世界一のレヴェルであるが情報通信技術の利活用の面においては日本がシンガポールや韓国の後塵を拝する状況にある。

東京都の豊洲市場の建設にあたり、設計変更がごく一部の者、多分それには東京都議会の一部の議員も含まれているであろうが、その一部の者だけが知っていてそれ以外の大多数の者、勿論東京都民も全く知らないことであった。それは当時豊洲市場の建設計画に関わった石原元都知事すら知らないことであった。

小池新都知事は当時のいきさつについて調査し公表すると宣言している。彼女は都民の目線で情報公開を積極的に進めるつもりである。こういう事態になったのは、情報通信技術の最高レヴェルのインフラが整備されていることであろう東京都において、その情報通信技術の利活用の面において全くお粗末であったことを証明している。

男はそういう見解により、人生の殆どを陽が当らない地道な仕事をしてきた情報通信技術者の古老の話を是非小説化できないものかと思ったのである。通信回線は生物体の神経系のようなものである。は中近東やインド・東パキスタン(現バングラディシュ)・フィリピンなどでマイクロウエーヴ通信回線や衛星通信回線の建設に携わった方である。

しかし男は小説を書く能力はない。しかしKさんの人となりやKさんが行った仕事について小説を書くための取材源は沢山ある。男は山崎豊子の『大地の子』のような小説は全く書けないが、後世に記録を遺すという意味でKさんのことを小説にすることに挑戦する価値はある。但しそれは男のコンピュータ上に遺し、書いた内容を密かにKさんに見せるだけという極めて閉鎖的な作業である。それで充分である。いずれ男がこの世を去った後、それが何かの役立つことがあるかもしれない。

男が関わっているあるメーリングリストの友だちの小学校時代の恩師はビルマ戦線で共に戦ったある元陸軍伍長の上官で、元陸軍中尉であった。その元中尉は部下であった元伍長が戦線で経験したことを書き留めていた手記を預かっていた。その手記をそのメーリングリストの仲間が活字化し、製本化した。これにより公式の戦争記録とは異なる生々しい体験が本の形で後世に遺り、一つの歴史資料となる。

上述の国際マイクウエーヴ回線網建設に従事した人の経験も同様に小説の形で後世に遺すことができれば、これも一つの歴史資料となるだろう。79歳である男はそういうものを後世に遺す作業をするため、男より9歳年長のKさんと共に生かされているのだと思っている。男もあと10年位は生きているかもしれない。その時Kさんはこの世を去っているかもしれない。男はKさんに会ってKさんのけいけんについてせめてメモを書き残す程度の取材しなければならなにと思った。