2013年10月31日木曜日

「意識」と「仏教」(13)――国内が「修羅」の状態にあるシナ(中国)――

大船植物園の中の小道の道端に源実朝の歌が書かれている札が掲げられている。その一つに源頼朝の「しらまゆみ 磯辺の山の 松の葉の 常磐にものを 思ふころかな」という歌があった(下の写真)。私は、これは実朝の父(頼朝)が父の異母弟であり実朝の叔父である義経を自害に追いやったことを義経の生母・常盤御前がきっと悲しんだにちがいないだろうと、この歌の作者・実朝がそう思って詠ったものではないのかなとふと思った。

当時の世の中は乱れに乱れており実朝自身も母・北条政子の孫で甥の公暁に殺された。それは仏教で説く「天上界・人間界・修羅界・餓鬼界・地獄界・畜生界」の中の「修羅界」のようなものであったことだろう。そういう時に『方丈記』が書かれたのである。

いま、シナ(中国)国内も朝鮮(韓国・北朝鮮)国内も「修羅界」のような状況にある。これらの諸国は日本のように天皇を戴く国の中に66ヶ国もの自治の国ができるまでの過程のような経験をしていない。それらの諸国は古来支配者「王朝」と被支配者「人民」の二極しかない社会しか経験していない。シナ(中国)では共産党「王朝」が少数民族の自治区に漢族を大量に送り込み、支配を強化し、漢語を強制し、混血を推し進めて漢族に同化させようとしている。ウイグル自治区もチベット自治区もそう遠くない未来には内モンゴルのように漢族に完全に支配され、同化されてゆくことだろう。そして「王朝」と「人民」との二極関係は続くが「修羅」の状況は次第に無くなって行くかもしれない。

かつて「修羅界」のようであったヨーロッパはEUとしてまとまり、そう遠くない未来には完全に一体となることだろう。日本はその頃どういう状況にあるのだろうか?その頃日本はアメリカとの緊密な同盟関係のもと、英語を共通語とした東南アジア諸国・パラオなど太平洋の島々の国・オーストラリア・ニュージーランドなどの諸国家の連合体の中にあって、非常に安定した平和と繁栄の状況にあるのだろうか?

日本人の祖先・縄文人は人類がアフリカを旅立ってヨーロッパ人やアジア人に分化する以前に当時陸続きであった日本列島にやってきた。大陸に残った縄文人と同じ集団は後発の北方系アジア人(漢族のルーツ)に殺された。縄文人と同じDNAを持つ人は朝鮮半島南部に極僅かしか残っていない。それもミトコンドリアDNAだけである。Y染色体遺伝子では日本以外の地域には全く無く、日本人の間にのみ存在しているものがある。

遺伝子は人の性格を特徴づける。人は性格が合う者同士であれば比較的仲良く付き合うことができる。人の集団である国にも集合的意識や無意識が国の性格を特徴づける。性格が合わぬ国とは決して仲良くなれない。無理に仲良くしても決して良い結果は得られない。日本の政治家や識者の中にはいわゆる親中派という人たちがいる。彼らは日本がアメリカから離れシナ(中国)の勢力圏内にいることを望んでいるのだろう。しかし日本はシナ語(漢語)を共通語とするグループに入ることよりも英語を共通語とするグループに居る方がきっと幸せであるに違いない。

中世に国中争いが絶えなかった日本ではあったが言語・文化が同じ人間同士が住む国であり、人々は和歌でお互いの心を通わせ合うことができたから今日の日本があるのである。幕末にアメリカに密航を企てたため囚われの身になっている間、倒幕の言を発したため処刑された吉田松陰は処刑される前に次の漢詩と和歌を詠んでいる。

 辞世
吾今爲國死(吾今国の為に死す)
死不負君親(死して君親に負(そむ)かず)
悠悠天地事(悠悠たり天地の事)
鑑照在明神(鑑照明神に在り)

身はたとい むさしの野辺に 朽ちぬとも

          とどめおかまし 大和魂




2013年10月23日水曜日

「意識」と「仏教」(12)――日本はなぜ戦争をしなければならなかったのか――

仏教では輪廻転生して「あの世」においても「この世」の行いの報いを受けると説いている。仏教では人は「この世」における行いの如何によって、「あの世」においては天上界・人間界・修羅界・地獄界・餓鬼界・畜生界の何れかに永遠に輪廻転生を繰り返すと説いている。無辜の民の大虐殺を命じた者とその命令を実行した者は次の世には畜生に生まれ変わり、そこから絶対這い上がることはできないであろう。それでもそのような罪深い人々を「この世」の人たちが真剣に供養するならば畜生の身ながら次の世に生まれ変わるときは餓鬼以上の世に生まれることもあり得るだろう。その人たちが功罪半ばであるならば、次の世では地獄以上の世に生まれるかもしれない。

ある国における「この世」の状況は、現にその世に生きている人々の「集合的無意識(collective unconsciousness)」の状態によって決まる。仏教が国民の間に根付いていない国家においては集合的無意識の中の「修羅」の無意識が強いのである。そのような国家はそう簡単には普通の「人間」的な国家に変わることはできないだろう。国家としての無意識を形成するものはその国家の民の集合的な体内遺伝子(DNA)と体外遺伝子(文化・伝統など)に基づくものである。これはなかなか変えることはできない。歴史が示すとおり、過去にこれを変えようと試みた‘ある組織的なもの’は結局成功を収めることはできなかったのである。

日本はなぜ戦争をしなければならなかったのか。日本国民は日米関係・日中関係・日韓関係を深く考えなければならない。そのとき開戦及びその終戦時の天皇陛下のお言葉(詔書)を読んでその意味をかみしめる必要がある。

 開戦の詔書(昭和16128日)に次の一節がある。
 「中華民国政府曩(さき)ニ帝国ノ真意ヲ解セズ、濫(みだり)ニ事ヲ構ヘテ東亜ノ平和ヲ撹乱(かくらん)シ、遂(つい)ニ帝国ヲシテ干戈(かんか)ヲ執(と)ルニ至ラシメ、茲(ここ)ニ四年有余(ゆうよ)ヲ経へタリ。」「米英両国ハ、残存政権ヲ支援シテ東亜ノ禍乱(からん)ヲ助長シ、平和ノ美名ニ匿(かく)レテ東洋制覇ノ非望ヲ逞(たくまし)ウセムトス。」

 終戦の詔書(昭和20815日)に次の一節がある。

 「曩(さき)に米英二国(にこく)に宣戦せる所以(ゆえん)も、亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに出(い)で、他国の主権を排(はい)し、領土を侵(おか)すが如(ごと)きは、固(もと)より朕が志(こころざし)にあらず。」「世界の大勢(たいせい)、亦また我に利(り)あらず。」「敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して、頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷(さっしょう)し、惨害(さんがい)の及ぶ所、真(まこと)に測(はか)るべからざるに至る。」


「意識」と「仏教」(11)――「国家」としての修羅・地獄・極楽 ――

もし世の中に「善い人」たちばかりしか居なかったら、その「善い人」たちは目立たないだろう。世の中に「悪い人」たちも居るから世の中で「善い人」たちは「善い人」たちとして認められるのである。しかし「善い」と「悪い」の判断基準はそのように相対的な尺度で決まるものではない。

普遍宗教においては何が「善」であり、何が「悪」であるかを明確に示している。言うまでもなく「人を殺すこと」「他人の持ち物を盗むこと」「他人に暴力を加えること」「他人を騙してその財貨を奪うこと」などは「悪」である。キリスト教の聖書には「淫らな思いで女を見る者は誰でもすでに心の中でその女を犯している」と書かれていて、それは既に「罪」を犯したことになるとされている。この「罪」を犯さない男は少ないであろう。

一方、仏教においては正しい見解をもって貪欲(貪り)・瞋恚(怒り)・愚痴(愚かさ)などの煩悩・障碍から離れ、正しい思惟・意思をもって妄語(うそつき)・悪口(わるぐち)・両舌(中傷)・綺語(無益語)をせず、真実を語り、他人を正しく賞賛・評価し、慈愛の言葉を為して他人を協調・融和させ、有益な言葉のみを語り、殺生・盗み・不倫行為をせず、生き物を愛護し、困窮者に対しては施しをして与え、そして正しい性道徳をもって夫婦仲睦まじくして正しく暮らすようにと、仏教の経典には人としての生き方が説かれている。さらに仏教の修行にあたってはそのような生き方をしながら布施を行い、戒律を守り、恥や苦しみを耐え忍び、また他人に恨みの心を持たぬようにするようにと説かれている。

最近シナ(中国)では仏教や論語を復活させ、さらに官許のキリスト教布教を奨励している。非官許のキリスト教会の活動も共産党‘王朝’に反抗しない限りにおいて黙認している。しかし日本のように古来仏教が栄え、神道とともに日本固有の文化として広く一般大衆に根付いている状態と違って、シナ(中国)共産党‘王朝’を存続させる手段としてそれらを実行しているので、一朝一夕で国民性が改善されることは非常に困難であろう。

「修羅」とは争い・闘争の状態のことである。「修羅」がある状況では穏やかさがなく、喜怒哀楽が激しく、「悪」の状況が頻繁に生じる。其処には「善」が少なく「悪」が多い。人は自らの行いによって報いを受ける。「悪」を行えばその人は一生の間に「修羅」や「地獄」の状況の中に置かれる。しかし普遍宗教が教えるところに従い「善」を行えば「極楽」又は「天国」の状態に置かれる。正に地獄・極楽又は天国はこの世の中にあるのである。


これは国家についても言えることである。日本の周辺の国家群はどうであるのか?日本はどうあるべきなのか?若い人たちにはそこのところを良く考えて頂きたいものである。