2011年11月30日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(90) (20111130)

 “教育勅語は先の大戦で日本が負けてからもその廃止を求める声は出なかった。というのはアメリカ人から見ても、その内容におかしな点は一つもなかったからである。事実、教育勅語ができたときは、日本政府がキリスト教とは違う新たな宗教的な教義をつくるのではないかという疑念が外国から出るのを恐れて、勅語を英訳、仏訳、独訳、ロシア訳、漢訳にして世界中に配っている。それでもどこからも反論がなく、むしろ評判がよかったのである。

 では、戦後なぜ教育勅語が廃止されたかといえば、戦後の日本の進歩的文化人の中に、教育勅語を残しておくと軍国主義に戻る恐れがある占領軍に告げ口をした者がいたためである。日本人がそういうのならば、ということで、占領軍が勅語の廃止をにおわせ(命じられたわけではない)、日本の衆参両院が廃止・失効を可決したのである。

 しかし、教育勅語を廃止した影響は極めて大きいといわざるを得ない。それによって日常道徳の拠り所となるものが否定されてしまった。極論すれば、現在の日本の風紀の乱れ、親殺し、子殺しの原因に教育勅語の廃止があったと言っても過言ではないのである。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 ここで書かれている「占領軍に告げ口をした」進歩的文化人が誰であるかは、今となってはどうでもよいことである。重要なことは戦後間もない昭和23619日、衆参両院の決議によって教育勅語が廃止されたという事実である。

 教育勅語は明治23年(1890年)1030日発布直後、諸外国の疑念を晴らすため英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・漢語に翻訳され、世界各国において評判の良いものであった。教育勅語は今の時代に照らしてもどこにもおかしなところはない。

 戦後、アメリカに押し付けられた憲法や諸制度は、今となってはおかしな部分が多く、いろいろな問題が噴出してきている。

問題が起きたときは一旦原点に立ち戻ればよい。教育勅語もその文体が今の時代にそぐわない部分はあると思う人も多いと思うので、文体を現代風に改め、原文併記の「明治231010日発布教育勅語改訂版」として衆参両院で再度可決し、復活させることが必要であると思う。

                                (続く)

2011年11月29日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(89) (20111129)

 “こうしてできた憲法は、西洋から見てなんらおかしいところのない憲法であり、日本人がつくったにしても、日本人の日常の生活感覚にはあまり関係ないという感じが強かったと思う。だからそれを補い、日本人の体質との間のすきま風を無くすために、憲法発布の億年の明治二十三年(一八九〇)に明治天皇の名で発布されたのが「教育勅語(ちょくご)」であった。

 教育勅語は非常に日本人の感覚に合うものであった。戦前の義務教育ではほとんど明治憲法のことは教えなかったが、その代わりに子供たちに徹底的に教育勅語を暗記させた。そういう理由もあるが、教育勅語は日本の隅々にまで、誰からも反対されることなく定着した。

 教育勅語がまず説くのは日本人の伝統的価値観である。つまり万世一系の皇室の尊さを述べ、それから「親を大事にせよ」「友人や配偶者と仲良くせよ」「身を慎(つつし)んで学業に励(はげ)め」「人格を修養せよ」といったことを述べる。そのあとに勅語は「一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公(こう)ニ奉ジ以(もっ)テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)ニスベシ」という。これを読むとやはり勅語は軍国主義的であると思うかもしれないが、当時、勅語を作った人たちの感覚としては、「徳川家の幕府や大名という主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。これからは国家に忠誠を尽くせ」といいたかったのである。国の象徴が天皇であるのだから(これは現行憲法も同じ)、「皇運ヲ扶翼」することは「国の繁栄に貢献」するというのと同じ意味である。ただ表現が伝統的で古風であったというだけである。

 このような内容のものであったから、誰もが感覚的に「ごもっとも」と納得できたのである。その点で、教育勅語は鎌倉幕府の執権北条泰時(やすとき)の定めた御成敗式目(ごせいばいしきもく)(貞永(じょうえい)式目)の系統につらなるものだといえるだろう。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。) 

 今、日本人の家庭で「教育勅語」の印刷物を所持している家庭は何%ぐらいだろうか?教育勅語は「徳川家の幕府や大名に忠誠を尽くす時代は終わったのだから、これからの日本人は国家に忠誠を尽くし、国家繁栄の為に貢献しなさい」という趣旨のことが古風な文体で書かれているから如何にも「軍国主義的」であるように見える。しかし教育勅語をよく読むと、現行憲法に照らして何処にもおかしなところがない。
 「教育勅語」は、日本人の遺伝子(DNA)とともに、日本人の身体の外にあって眼には見えない遺伝子であるということに日本人は気付かなければならない。DNAが「内部遺伝子」ならば、教育勅語は「外部遺伝子」を構成する要素の重要な一部である。

 この外部遺伝子は、左翼勢力によって相当傷つけられている。そして日本人に悪性のがんを引き起こしている。今こそこれを治療して、日本人を正常な状態に回復させなければならない。           (続く)

2011年11月28日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(88) (20111128)

 “一人前の国家になるためには治外法権を撤廃しなければならない。その下ごしらえとして明治憲法が必要だった。日本が諸外国から近代的な法治国家とみなされるためには、やはり法体系の根幹となるべき法律を制定する必要があったのである。

 その役割を引き受けたのが伊藤博文である。伊藤博文は若い頃にイギリスに行っているから、議会制民主主義が根付き、王室の安定しているイギリスのあり方が最も日本に向いているのはないかとわかっていた。しかしイギリスには憲法がないので、真似するにも真似できない。では幕府と親しかったフランスはどうかといえば、憲法はあるものの共和制だから参考にならない。アメリカもそのような理由で駄目である。

 どうしたらいいかと思い悩みながらも、伊藤はオーストリアに行く。当時のオーストリアはハプスブルグ家の時代で皇帝が存在する。そこで彼はシュタインという憲法学者に会って、立憲君主制というものを教えられるのである。それによって彼は元気を取り戻したといわれている。

 次に伊藤はドイツへ行く。当時のドイツはビスマルクの時代で日の出の勢いにあった。ビスマルクは伊藤にグナイストというドイツ第一の憲法学者を紹介した。この人はイギリスを含め世界で最初に『イギリス憲政史』というイギリスの憲法の歴史を書いている。しかもローマ法の専門家で、実務経験もあった。

 グナイストは伊藤から話を聞いてみて、日本にはドイツ帝国の憲法は当てはまらないだろうと考えた。というのも、ドイツ帝国はバイエルンやプロシアなど、いろいろな小国家を統一した連合国家で、日本とは成り立ちが違う。むしろ日本は昔のプロイセンに似ているから。旧プロイセン憲法を手本にしてはどうかと助言するのである。これはまさに慧眼(けいがん)というしかなく、当時伊藤に対して行ったグナイストの講義を筆記した資料を読むと、明治憲法の肝心のところはプロイセン憲法そのままといってよい。プロイセン憲法に日本的な部分をつけ加えたのが明治憲法となっているのである。

 今から考えるとおかしいのは、明治憲法には「首相」という言葉も「総理大臣」という言葉もでてこないことである。それどころか、「内閣」という文字すら見あたらない。明治十八年(一八八五)にすでに内閣制度ができて、大宝律令、養老律令といった昔の律令が廃止され、太政大臣もなくなり内閣総理大臣の制度ができていたのに、明治二十二年(一八八九)に発布された憲法には何も書かれていないのである。・・(以下略)・・”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 幕末まで昔の律令背度が適用されていたが、明治維新後その律令を準用して明治4年(1871年)7月に、正院、左院、右院の3院と外務省以下8省からなる太政官が設置された。正院は天皇を直接補佐する政府の最高機関であり、その長官は太政大臣であった。明治18年(1885年)1222日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。
 シナや朝鮮は近代化が遅れ、李王朝が廃止され大韓帝国が発足したのは明治30年(1897年)10月のことであり、シナが清王朝から中華民国になったのは大正元年11日のことである。なお清王朝末期、日本にはシナから2万人の留学生が来ている。  (続く) 

2011年11月27日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(87) (20111127)

安政五年(一八五八)、当時の幕府はアメリカをはじめとする欧米五カ国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ)と通商条約を結んで正式な国交を持つようになった。しかし、そこで日本は決定的に不利な二つの条項を押しつけられた。

 一つは関税自主権の問題である。これは関税をかける権利だが、安政の条約では、日本が関税率を変える場合には、必ず相手国と協議しなければならないとされていた。これを自由にしないと、西洋諸国から安い商品が送り込まれ、日本の国内産業が潰される恐れがあった。

 二つ目は、治外法権(領事裁判権、extraterritoriality)の問題である。これは、日本で悪事を働いた外国人を捕まえても日本には裁く権利がなく、その権利はその国の領事館が持つというものである。つまり、日本には主権がないというわけで、これはなんとしてでも廃止しなければならなかった。

 しかし、外国はなかなか承諾しようとしなかった。当時の欧米諸国はアフリカ、インド、シナといろいろな国に行って、その国情を見ている。彼らにしてみれば、それらの‘野蛮な国の法律で自国民が裁かれるのはたまらないという心配があったのである。勝手な論理ではあるが、その心配はあたらないでもない。

 そこで、それらの国と 日本は違うということを理解させるため―――今見れば笑い話でしかないが―――外務卿(きょう)(のちの外務大臣)の井上馨(かおる)の主導によって鹿鳴館を造り、そこでダンスパーティを開いた。維新の志士がやるダンスパーティだから悲壮なものであったに違いない。「そんな西洋の猿真似をしてまで白人の歓心を得たいのか」という声があちこちで起こった。

 しかし、明治政府の人々は真剣だった。そもそも井上馨は青年時代に最も強硬に攘夷を唱えて暗殺されかかったような人物である。その井上が治外法権を撤廃するために必死で鹿鳴館外交を推し進めたという心情というのを、われわらは汲(く)み取るべきだろう。

 しかし、この二つの不平等条約が完全にてっぱいされるには時間がかかった。治外法権がなくなるのは日清戦争の直前であり、関税自主権が回復されるのは日露戦争の後の明治四十四年(一九一一)であるから、安政の条約を締結してから五十三年もかかったことになる。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 今、TPP問題で国内は揺れている。関税がゼロパーセントとなれば、従来778%という高い関税をかけて保護している日本の農業が壊滅的被害を受けると主張する学者があり、農業団体などはTPPに絶対に参加すべきではないと強硬である。TPPに参加すれば日本の関税自主権はなくなり、医療も含むあらゆる分野で日本はアメリカの属州のようになってしまう。食品の安全も保たれなくなり非常に危険である、というわけである。

 幕末に日本は欧米に先進国として認められていなかったから、日本は開国にあたって不平等条約を押しつけられた。欧米に日本がアフリカやシナと違う国であると認めさせるため、かつて攘夷派の急先鋒だった井上馨は鹿鳴館を造った。日本は幕末・明治の元勲たちの労苦を思い、進むべき道を誤らぬようにしなければならない。   (続く)   

2011年11月26日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(86) (20111126)

 “しかし、西郷にしてみれば一応勅許(ちょっきょ)はもらっており、それが潰(つぶ)されるとなるとメンツが潰されたも同然である。また西郷の感覚としては、新しい政権を取った者が贅沢(ぜいたく)をしているのが気に食わないという考えもあったと思う。これは西郷の全くの誤解なのだが、例えば大久保が立派な洋館を建てた。これは外国人と会うときに長屋で会うわけにはいかないというのが理由だった。事実、明治十一年(一八七八)に大久保が暗殺された後で調べてみると借金しかなかったといわれるから、決して権力にものを言わせてカネを儲けたわけではない。

 しかし、西郷の心境としては、「お前たちに贅沢をさせるために維新をやったのではない。これでは士族たちがかわいそうではないか」となる。その頃はすでに版籍奉還(はんせきほうかん)、廃藩置県(はいはんちけん)がなされて、士族たちの地位は相対的に低下していた。そのうえに商工業を国家建設の中心とするならば、維新を実現させた武士たちは完全に割を食うことになる。

 西郷の倫理観からすれば、大切なのは「士」と「農」であって、武士が武士らしく生きることのできる国をつくることが何よりも大切であり、そのためには食べる分のコメがあれば十分で、余分なカネは必要ない。武士と農民を大切にするのが新国家の使命だと考えていたようである。

 だが、現実はそううまくは行かない。特に自分の目で西洋文明を見てきた使節団の一行にしてみれば、「武士の覚悟なぞでは勝ち目はない。商業と工業を伸ばさばければ駄目だ」という思いがある。「士農」を中心に据(す)えるべきとする西郷と、「商工」重視の洋行組との決定的な対立点であった。

 自分の意見を退けられた西郷は、クーデターによって大久保たちを打倒することはできたはずである。しかし、彼はそうはせず、潔(いさぎ)よく下野(げや)して薩摩に帰るのである。結果として、この後、明治十年(一八七七)に西南(せいなん)戦争が起こるわけだが、これは西郷が起こしたというより、周囲の状況が彼を戦争に引きずり込んだと見る方が正しいだろう。彼には権力を私物化する意思などこれっぽちもなかったのである。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 TPP反対を叫んだ自民党議員の中には「農業が壊滅的打撃を受ける」と本気に信じた者もいただろうし、農業従事者の票が欲しかった者もいただろう。或いはTPPには参加しなければならいが、アメリカの言うなりにならないために反対を唱えた者もいただろう。

 アメリカはオーストラリアに海兵隊を駐留させ、中国を牽制すること明確に打ち出した。その中国は「地域支配戦略」を明確に打ち出し、アメリカの打撃力を強く意識した軍備を増強させている。情報戦やサイバー戦はすでにかなり進んで、サイバー攻撃では日本でもかなりの被害が出ている。

 中国は奇襲作戦を重視している。「周辺国を支配する」というのは中国4000年の歴史の中で一貫した国家的意思である。国際的ルール違反を平然と実行するのが中国の「性格」である。「性格」は生涯絶対変わることはない。              (続く)

2011年11月25日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(85) (20111125)

 “使節団が帰国してみると、国内では西郷が中心となって征韓論(せいかんろん)が湧きおこっていた。日本は新しい政府ができたことを受けて、朝鮮と国交を開くことを考えた。これはロシアの中に備えるためであった。つまり、朝鮮がロシアの植民地になることを恐れたのである。そのためには朝鮮に開国を促し、近代化してもらうほうがよい。それが朝鮮のためにも、そして日本の国益にも合致すると考えたのである。

 そこで新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいないのである。

 その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため、朝鮮は受け取りを拒否した。これは無理のない話である。一方、日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。ただ政治体制が変わって、日本は天皇親政の国に変わったことを伝えたかっただけであった。日本は朝鮮に説明をし、文書の書き直しもしたが、朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。

 このような背景から生まれたのが「征韓論」である。当時は武士の名残(なごり)で血の気の多い者が多かったから、武力行使をしてでも朝鮮を開国させるべきだという意見が沸騰してきたのである。

 そのとき西郷は、息巻く周囲をなだめつつ、「外交文書のやりとりで埒(らち)が明かないなら、自分が特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。それで、もし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と主張した。

 そこへ使節団の一行が帰国してきた。当然のことながら、大久保利通ら朝鮮半島への武力行使に全く否定的だった。そんな余裕はどこにもない。一刻も早く商工業を興して富国強兵策を実行しなければ、日本は西洋に呑みこまれてしまうという危機感でいっぱいだったのである。しかも当時は徴兵制が施行されたばかりで(明治六年布告)、現実的に朝鮮出兵を実行できる状態にはなかった。”(渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 明治新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいない。その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため朝鮮は受け取りを拒否した。日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。日本は朝鮮に説明をし文書の書き直しもした。しかし朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。このような背景から生まれたのが「征韓論」であった。西郷は周囲を抑え、自分自ら特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。そこでもし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と言った。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にし国家の大業は成し得られぬなり」と言った西郷ならではの「征韓論」を抑える言動であった。           (続く)

2011年11月24日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(84) (20111124)

“使節団のメンバーのほとんどは維新の志士であったから、江戸と京都の間を歩いた経験がある。その道路がどんなものかを良く知っている。つまり舗装されていないから大八車(だいはちぐるま)も通れない。馬が、人間の足でなければ通れないのである。ところがアメリカへ行くと、すでに鉄道が走っているのである。また、ヨーロッパは、ナポレオン戦争が終わって五十年経っており、その間に彼らは休みもせず武装し、工業を高めてきた。その文明は圧倒的だったはずである。

 この差を埋めるにはどうすればよいのか、特にみんな武士であったから武器のことはよくわかる。ぼやぼやしていると、日本は西洋の植民地にされかねない。一刻も早く兵力を増強しなくてはならない。そのためには性能のすぐれた武器を持たなければいけないのだが、船一つ大砲一つ買うにしても造るにしても莫大な金がかかる。だからますます金を儲けなければいけない。その結果「富国強兵(ふこくきょうへい)」というスローガンを掲げるに至ったのである。この「富国強兵」ほど正確な当時の現状認識はなかったと思う。また、「富国強兵」を実現させるためには自前の産業を育成しなければならない。そこで生れたスローガンが「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」であったのである。

 しかも、この一行が偉かったのは、我彼の格差に驚きながらも、自分たちは何年くらい遅れているのかと考えたところになる。歴史を振り返れば、信長、秀吉の頃はまだ対して遅れていない。大ざっぱに考えると、五十年くらい遅れているのではないかと判断するのである。そして、それなら追いつけると確信する。

 それで、日本に帰国したらとにかく富国強兵をやろうと意見が一致する。実は使節団の中でも大久保と木戸は一緒にいるのが嫌だからと別々に帰国しているほど仲が悪い。しかし、それでも富国強兵が必要だという見かただけは変わらなかったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 日本のこれからの道は、「和魂洋才」と「富国強兵」しかない。世界は中国の台頭によって再び幕末のような状況になってきた。アメリカは日本を抑え込むため中国と手を結ぶという識者もいる。つまりは、弱肉強食の世界の再来である。どの国も「生き残る」ため必死に知恵を振り絞り、強い国に自国の安全を依存しようとする。東南アジア諸国が、もしアメリカや日本が頼りにならないと判断したら、これらの国々は中国に対抗して団結し、より強い「武力」を保持しようとするか、中国にぶら下る道を選ぶだろう。

中国は自分たちの核心的利益である日本の沖縄・南西諸島・尖閣を「奇襲」するかもしれない。アメリカ議会の諮問機関「米中経済安全保障見直し委員会」の年次報告書には「中国が奇襲攻撃で日本周辺を含む東シナ海での海洋権益を支配する、<地域支配戦略>がある」と書かれている。

 中国は4000年の歴史の中で、皇帝がモンゴル人のとき(元朝)も満州人のとき(清朝)も常に周辺諸国を支配下に置くという中華思想を持ち続け、今の、言わば「共産党王朝」のときもその国家思想は変わっていない。歴代中国王朝の柵封下にあり小中華思想を捨て切っていない韓国・北朝鮮は、再び中国の下に身を寄せる可能性はある。  (続く)

2011年11月23日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(83) (20111123)

 “明治政府ができたときに、非常に注目されたのが西郷隆盛の地位である。西郷隆盛は唯一の陸軍大将であって、当時の武士たちから最も尊敬されていた人物である。しかし、その西郷には自分たちが天下を取った時に、これからの日本をどうするかというビジョンがなかったように考えられる。これはひとり西郷のみならず、ほかの人にもなかったのではないかと思うのである。

 それで具体的にどうしようかとなった。そのとき、幕末の頃に長州藩の留学生としてイギリスに渡った伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)の存在が大きくものを言った。自分の目で西洋の凄(すご)さを見ている彼らは、いくら書物で勉強したところで現物を見るには到底及ばないことを知っていたはずである。これは想像だが、使節団の話が出たとき、伊藤と井上は大久保たちに「ヨーロッパ文明は、幾ら本を読んでも絶対にわからない。政策を立てようと思うのならば、西洋を一度見てくるべきだ」と繰り返し助言したのではないだろうか。

 それにまた条約もきちんと結び直さなくてはならないし、ということで、条約改正も含めて、明治四年(一八七一)から六年(一八七三)にかけて岩倉具視(いわくらともみ)を団長にした岩倉使節団が欧米の視察に出ることになった。この使節団には、長州の実力者木戸孝允(きどたかよし)、それに付き添って伊藤博文、そして薩摩の大久保利通という大物が参加した。一方、留守番も必要なので、これは西郷隆盛が中心になることにした。

 これも明治維新が革命でなかったという一つの論拠となるかもしれない。例えば、ロシア革命をやったレーニンが、革命が終わった数年後に、留守は仲間に任せて自分は二、三年ロンドンに行ってくるというわけにはいかなかったはずだ。毛沢東(もうたくとう)でも同じである。

 岩倉使節団の一行は欧米で何を見たのか。見るべきものはちゃんと見たのである。それは驚くべき日本と先進国の格差である。それは「もう士農工商ではどうにもならん」という危機感であり、さらに言えば「これからは工と商の時代だ」という実感であったはずである。これは耳で聞いてもわからなかった話である。こうした驚きは、岩倉使節団の十一年前に咸臨丸(かんりんまる)で渡来した福沢諭吉も受けたものである。・・(以下略)”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 時事新書『航海日記』という本がある。これに万延元年(一八六〇)正月18日から同年928日までのことを使節団副村垣淡路守範正(48歳)が書き記したものである。正使新見豊前守正興(40歳)以下77名は、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗りハワイを経てサンフランシスコに入港。随伴した勝海舟艦長の咸臨丸はサンフランシスコから帰国。ポーハタン号はサンフランシスコを出てパナに入港。一行は汽車でパナマ地峡横断、アスピンウオールから軍艦ロアノーク号でニューヨークへ。フィラデルフィア号に移乗してポトマック河を遡りワシントンに到着。ビュカナン大統領に謁見、将軍の親書を呈上している。帰路はナイアガラ号でアフリカの喜望峰を経て帰国している。その間安政の大獄が進行。一行帰国の翌年アメリカでは南北戦争が勃発した。              (続く)

2011年11月22日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(82) (20111122)

 “さて、慶応四年(明治元年)/一八六八年三月十四日、明治天皇は公家や諸侯に対し、「五箇条(ごかじょう)の御誓文(ごせいもん)」を示し、明治新政府の方針を明文化した。これは近代日本の指針となった重要な声明である。以下に全文を記しておくことにする。”

 一 広ク会議を興(オコ)シ万機公論(バンキコウロン)ニ決スヘシ

 一 上下(ショウカ)心ヲ一ニシテ盛ンニ経綸(ケイリン)ヲ行フヘシ

 一 官武一途(イット)庶民ニ至ル迄(マデ)各(オノオノ)其(ソノ)志(ココロザシ)遂ケ人心ヲシテ倦(ウ)マサレシメン事ヲ要ス

 一 旧来の陋習(ロウシュ)ヲ破リ天地ノ公道(コウドウ)ニ基クヘシ

 一 知識ヲ世界ニ求メ大(オオイ)ニ皇基(コウキ)ヲ振起(シンキ)スヘシ

 この五箇条の御誓文は明治政府ができて最初の内容のある詔勅(しょうちょく)のようなものだが、いわゆる詔勅とは違い、天皇が神に誓ったものという形をとっているのが特徴である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 この文の意味は次のとおりである。五箇条の御誓文に続く御言葉の意味のみ添える。(明治神宮『大御心』より引用)

“一 広く人材を集めて会議体を設け、重要政務はすべて公正な意見によって決定せよ。

 一 身分の上下を問わず、心を一つにして積極的に国策を遂行せよ。

 一 朝臣武家の区別なく、さらには庶民の総てにわたって、各自の志望を達成できるようにはからい、人々を失意の状態に追いやらぬことが肝要である。

 一 これまでのような、かたくなな慣習を打破して、普遍性のある道理に基づいて進め。

 一 知識を世界の先進国に求めて、天皇の大業を振興せよ。

 これより、わが国では前例のない大変革を行おうとするにあたり、わたしはみずから諸臣の先頭に立ち、天つ神、国つ神に誓い、重大な決意のもとに国政に関する基本条項を定め、国民の生活を安定させる大道を確立しようとしているところである。諸臣もまたこの趣旨に基づいて心を合わせ努力せよ。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 人として日々の暮らしの中に何か問題が起きあとき、原点に立ち戻り考えて出直すことが、それから先へ進む上で重要である。同じように、国として何か問題が起きたとき、国が歩んできた原点に立ち返って考え直し、再出発することが重要である。

 戦争に負け、有史以来初めて外国の軍隊に征服されたわが国は、戦勝国側の論理で裁かれ、東條英機首相以下七人が処刑され、アメリカ製の憲法と精神文化を押しつけられ、現在に至っている。その歪み・矛盾が各所にほころび始めている。

 左翼・売国奴・理想主義者・似非保守思想家たちはこの状態を有難がり、この状態を改め日本人が戦前の精神を取り戻そうとすることに激しい抵抗をしている。しかし、我々の子々孫々のため、日本は、原点に立ち戻り再出発することが必要である。   (続く)

2011年11月21日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(81) (20111121)

“徳川慶喜の大政奉還、および王政復古の大号令によって徳川時代は終わりを告げ、明治維新を迎える。この明治維新(いしん)を考える婆に重要な一点は、維新の元勲(げんくん)たちは、倒幕運動を革命ととらえていないのではないかということである。

 政権の中心になった人たちは思慮深く、もしあのとき慶喜が頑張っていたら危なかったとわかっていたようである。徳川幕府はフランスと親しく、フランスも幕府の援助を申し出ていたから、その気になればいくらでも援助を得ることができた。すると、勤皇軍にはイギリスが味方して、国を二分する内戦になる恐れもあったのである。

 そうなれば、どちらが勝ったにせよ代償としてイギリスかフランスに領土を割譲させられていたかもしれない。それが避けられたのは、ひとえに慶喜のおかげであるというようなことで、慶喜は後に侯爵(こうしゃく)になるのである。また、家を継いだ家達(いえさと)は貴族院議長になっている。

 そう考えると、やはり明治維新というものは革命というよりも大幅な政権交代と考えたほうがよいのかもしれない。こあたりがいかにも日本的なところで、簡単に革命とはいえないところがある。フランス革命では国王ルイ十六世も、「パンがなかったらお菓子を食べればいいじゃない」といったと伝えられる王妃マリー・アントワネットもギロチンにかけられている。ロシア革命では皇帝一族だけではなく、その馬まで殺されている。それに比べれば、日本の明治維新はいかにも穏やかである。

 これを英語では「リストレーション(restoration)という。まさに「王政復古」、主権者が再び王家に代わったことを意味する言葉である。日本では天皇家は滅ぼされたわけではなく、ずっと続いていた。だから、そこに再び主権が戻ったというのが「リストレーション」である。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 TPPで国論を二分するような激しい動きがある。TPPに参加することによって、日本はアメリカの属国になる、と極端な言い方をする人もいる。しかし、ここは明治維新の元勲たちのように思慮深く対処することが賢明である。

 明治維新後欧米を視察した岩倉使節団の一行や、その11年前咸臨丸では欧米した勝海舟や福沢諭吉は、それぞれ何を見て何を感じ取っただろうか。それは、日本は工業と商業を盛んにし、国を富ませ、強い軍事力を持たなければならないということであったに違いない。いわゆる「富国強兵」である。日本はそのようにしなければ西洋の植民地にされかねないという危機感があった。
 今の日本人は、TPPで利害得失のみに注意を向け、「富国」を目指しているが、「強兵」は不要だと考えている。これでは片手落ちである。「強兵」の意識が薄いから、日本はアメリカに敬意を払われず、中国などに甘く見られているのである。    (続く)

2011年11月20日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(80) (20111120)

 “小御所会議のあと、すぐに新政府軍と旧幕府軍が衝突した鳥羽伏見の戦いが起こる。このときはまだ幕府軍の数は多かったが、慶喜に戦う気がなかったうえに、薩長軍の鉄砲は新型で射程が長かったため、幕府軍はあっさり負けてしまう。大阪城に籠城して戦おうとした幕府方の人間もいたが、気がついてみたら、大阪城にいた慶喜は戦いを放棄して軍艦開陽丸(かいようまる)で江戸へ逃げ帰ってしまっていた。慶喜は水戸の出身だから光圀(みつくに)以来の尊皇的な思想が強く、「錦(にしき)の御旗(みはた)」を掲げる「官軍」と戦うことを好まなかったのである。そして江戸に戻ると、恭順の意を示して江戸城から立ち去ってしまった。

 もしこのとき慶喜が戦う気を見せていれば、日本は内乱状態になっていただろう。勝敗もどちらに転んだかわからない。というのは、薩長方に軍艦がほとんどなかったのに対し、幕府は何隻もの軍艦を持っていたからである。すると、江戸に攻め上がった官軍は、箱根あたりで幕府軍と衝突し、そこで幕府軍が頑張っているうちに幕府の戦艦が大阪あたりに逆上陸して後方を押さえれば、官軍は干上がってしまう。実際、幕臣の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)は主戦論を唱え、そういう案を出しているのである。

 しかし、「ぜひ戦わせてくれ」という小栗を振り切って、慶喜は退いてしまう。すると今度は、その志を受けた勝海舟(かつかいしゅう)が西郷隆盛と一対一で話し合って、江戸城を無血開城してしまうのである。

 その後も東北・北海道を戦場に戊辰(ぼしん)の役が起こっているが、もはや歴史の流れに逆らうわけにはいかなかった。榎本武陽(えのもとたけあき)がたてこもった函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にしても短期間で落ちるし、東北地方で頑張った庄内藩も降参して終わるのである。

 これを革命といってもいいと考える歴史家もいるようでだが、私は革命を起こされた側のトップに君臨する慶喜が殺されず罰せられないのだから、革命といえないのではないかと思う。日本の歴史に独特な「国体の変化」というべきであろう。

 ただし、勤皇側が特に憎んだ人物が二人いた。先の小栗上野介と京都で志士たちを斬りまくった新撰組(しんせんぐみ)の近藤勇(こんどういさみ)である。この二人は殺されているが、これは例外といってよいだろう。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より)

 勝海舟と坂本龍馬は元治元年(文久四年)(1864年)2月から4月にかけて行動を共にしている。その間、216日、二人は当時熊本藩領地であった鶴崎(現大分市)の本陣に宿泊している。その時、勝海舟は「大御代は ゆたかなりけり旅枕 一夜の夢を千代の鶴崎」と歌を作っている。海舟はその6年前の安政53月、鹿児島で薩摩藩主・島津斉彬に拝謁している。江戸城無血開城の決定はその2年後の明治元年(1868年)314日、江戸田町薩摩藩邸における西郷吉之助(隆盛)・勝海舟会談で決定されている。西郷吉之助はその2日前に勝海舟に「会おう」と手紙を書き、板垣退助には「勝手に動くな」と手紙を書いている。かくして吉之助・海舟両雄共通の「外国の介入は後世に汚点を残す」とする認識どおりに事が運んだ。内戦もなく皇国の「大御代」は守られたのである。    (続く)

2011年11月19日土曜日

「十年以内に日本を核攻撃」と中国軍トップが発言




“これが中華思想の本質を現している。中国4000年の歴史の中で「他国を支配下に置く」という皇帝・朝廷(今はまさに「中国共産党王朝」)の「意思」は、今後1000年経っても変わらないだろう。これは「世界が中国をどう見ようと、どう言おうと一向に構わない」という頑固な「意思」である。
封建制を経験したことがない中国の人民は「王朝」の「意思」のままに動く。日本が経済・文化交流を盛んにして中国を「大人の国」に成長させようなんていうことは、全く馬鹿げた考え方である。そのようなことを言う政治家・政党はこの国を危うくする。
中国は「生き残るため」非常に多くの中国人を海外に移住させた。明治政府が日本人の海外移住を進めるよりもずっと早い時期から中国人は世界中に移住してきた。今、日本に住む中国人は韓国・北朝鮮人よりも多くなり(約70万人)、その増加率は急速である。中国(共産党王朝)は13億人の民を養うため必死である。
日本は中国のこの「国としての性格」を軽く見てはならない。人に「性格」があるように、国にも「性格」がある。「性格」は生涯変わらない。「性格」は「行動」に現れる。その「行動」は周囲の状況で多少変動するが、本質的に変わらない。
日本は欧米諸国とは「性格」的に反発が少ない。時に喧嘩があっても本質的に欧米諸国とは「仲が良い」。しかし中国とは「性格」的にそりが合わない。表向き仲良くできても、「心底仲良くなれない」。これは聖徳太子の時代以前からそうであったと考えられる。文字を持っていなかったから記録が残っていないだけである。
中国人は同じアジア人で、日本は古来中国からいろいろな文化を取り入れてきた。個々の人間同士は非常に仲が良い。中国で官吏になった阿倍仲麻呂は李白や王維ら中国の詩人・官僚と親友であった。鑑真和上は日本人の尊敬の的である。個々の人たちとは仲が良いが「国」のレベルでは仲がしっくりゆかない。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(79) (20111119)

 “徳川慶喜(よしのぶ)が慶応(けいおう)三年(一八六七)に大政奉還を申し出る。これは土佐の山内容堂(やまうちようどう)の案であったといわれるが、おそらく後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の意見であろう。慶喜にしてみれば、政権を返上しても、ほかに誰も政治をやった者がいないのだから、自ずと徳川家が再び政治を執り行うことになるであろうと考えていたようである。ところが、これは徳川家にとって致命的な失敗だった。なぜ失敗なのかと言えば、ひとたび政権を返上してしまえば徳川家はほかの大名家と同列の立場になってしまうからである。それに慶喜は気づいていなかった。

 慶喜の大政奉還の申し出を受けて、同年十二月九日に王政復古の大号令が発せられた。それと同時に、幕府が政権を朝廷に返し、慶喜が将軍を辞職した後をどうするかを話し合うために京都御所の小御所で会議が開かれた。これが「小御所会議」といわれるものである。

 小御所会議には皇族や公家の代表、主な大名およびその家来が集まった。また明治天皇が初めて御簾(みす)の奥にご出席になった。近代日本の最初の御前会議である。だが、ここに大名中の大名である徳川慶喜は呼ばれていなかった。

 これを見た山内容堂は「この会議に慶喜を呼ばないのは何ごとであるか。ここに集まる者たちは天皇がお若いのをいいことに、自分が天下を取ろうとしているのではないか」という発言をする。その言葉じりをとらえて公家の代表として出席していた岩倉具視(いわくらともみ)が「天皇がお方である。なんたる失礼なことをいうのだ」と怒ってみせた。

 天皇が若いことを理由にするのは、天皇が頼りにならないといっているようなものである。それに気づいた山内容堂は恐れ入って、それ以上発言できなかった。

 それを見て、今度は大久保利通(としみち)が次のように発言した。「慶喜がここに出席するためには、まず慶喜が恭順の意を示し、徳川の領地をすべて差し出すべきではないか」と。そこから会議は岩倉・大久保の線で慶喜討伐まで一直線に突き進むのである。

 小御所会議は「山内容堂・後藤象二郎に対する岩倉具視・大久保一蔵(いちぞう)(利通)四人の決闘だった」と徳富蘇峰はいっている。蘇峰は、小御所会議で無記名投票が行われれば、公武合体のほうに動いただろうと推測しているが、山内容堂の発言にかみついた岩倉と大久保の議論で「公武合体」は「倒幕親政」へと変わってしまったのである。

 TPP参加を表明した野田総理はTPP参加9カ国の会議に呼ばれなかった。この9カ国の会議は「小御所会議」のようなものである。日本が徳川慶喜、アメリカが明治天皇、他の8カ国は最後の将軍徳川慶喜以外の大名や公家の代表に相当する。そしてアメリカ政府の意思決定に関わる役人が大久保利通のようなものである。

 アメリカ政府の意思決定にかかわる役人は、日本がTPPに参加しても決して日本の思うようにはさせないと考えている。徳川慶喜は天下の将軍であっても天下を自分の都合のよいように動かすことができるほどの武力を保有していなかった。日本もアメリカの核の傘に守られ、アメリカ軍の打撃力に守られてやっと専守防衛ができている程度の力しか持っていない。                        (続く)

2011年11月18日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(78) (20111118)

 “桜田門外の変から大政奉還へと一気に突き進むというときに思想的な根拠となったのは、「王政復古(おうせいふっこ)」、すなわち君主制の復活という考え方である。

 そして歴史上に王政復古の範を求めると、北条幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇、そのとき働いた楠木正成(くすのきまさしげ)と新田義貞がいるというので、これらの人々が幕末から明治にかけて英雄中の英雄になって浮かび上がってくることになった。

 これには『太平記(たいへいき)』の影響も大きかったと考えられる。『太平記』は反北条という立場で後醍醐天皇側から書かれているため、幕府と戦おうとする者は楠木・新田側に立ち、彼らを英雄視することになるのである。

 実際に王政復古するまでには紆余(うよ)曲折があった。幕末当時、いちばん説得力があったのは、「公武合体論」であった。これは日米修好条約締結をめぐってこじれた朝廷と幕府の関係修復をめざしたもので、朝廷と幕府の君臣の関係を改めて確認したうえで、実際の政治は公家も参加するが、実際は朝廷より委任された幕府及び大大名が行うという、それまで慣習化されていた形式を再確認して幕府の権力強化をねらったものである。これは薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)・久光(ひさみつ)、越前藩の松永慶永(よしなが)(春嶽(しゅんがく)らが唱え、西郷隆盛(さいごうたかもり)も最初は賛成していたと思われる。

 常識的に考えると、公武合体はいちばん無難な方法である。ところが歴史の大変革のときというものは、必ずしも理にかなった無難な方法が通るかというと、そうはならないものである。

 公武合体から王政復古への大転換の舞台となったのは小御所(こごしょ)会議である。徳富蘇峰(とくとみそほう)の言葉によれば、「徳川幕府を造った出発点が関ヶ原の戦いであるとすれば、徳川幕府を終えたのは小御所会議である」ということになる。では、小御所会議とはどういうものであったのか、以下に触れてみよう。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 今、日本はTPPをめぐって歴史の転換期にある。自民党の大物はTPP反対集会に参加して「TPPは日中韓の関係を壊すものである」という趣旨のことを述べた。ある識者は、「日本の貿易量でみるとかつて対米貿易量が大きかった。しかし今では対中貿易量が増え、対中国は20%、それに対して対アメリカは15%、と中国がトップになり、今後ますます中国の比重が大きくなる」と言い、「アメリカやオーストラリアが日本にTPP参加を迫るのは、アメリカやオーストラリアは、東アジア共同体に参加したいためである」と言った。これらの発言で見えてくるのは、そう遠くない将来、日中韓を中核とした政治・安全保障・経済の統合である。

 その方向が良いのか、アメリカ・オーストラリアが提唱する環太平洋貿易自由連合体が良いのか。日本は歴史の大転換点に立っている。

 私はグローバリゼーションで国境の壁を取り払うという選択は絶対すべきではないと考える。性格の違う者同士が一緒になっても必ず破たんするに違いないと思う。 (続く)

2011年11月17日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(77) (20111117)

 “ルース・ベネディクトは日本の文化を「菊と刀」で表現した。「菊」とは、本居宣長(もとおりのりなが)が「敷島(しきしま)の やまと心を人問はば 朝日に匂ほふ山桜かな」と詠んだような優しい気持ち、平安朝文学をつくったような雰囲気のことである。一方、「刀」は大和(やまと)魂であり、鎌倉武士に象徴される武士道になる。したがって、大和心というのは菊派の大和心と刀派の大和心(大和魂)の二つがあることになる。

 これを人間のあり方として見れば、両方を備えた人が好ましいということになる。どちらの比重が大きいかは人によっていろいろ違うと思うが、武のたしなみがって心が優しいという人が日本人の理想像になるわけである。

 この菊と刀を神代からある「和魂(にきたま)」「荒魂(あらたま)」という言葉で表せば、菊は和魂派で大和心、刀は荒魂派で大和魂ということになる。この二つの大和心は時代によって現れ方が異なり、戦争中は刀派、荒魂派の大和心(大和魂)が随分主張されたし、平和な時代は菊派・和魂派の大和心が主流となった。

 江戸時代にうたわれ、今でも花柳(かりゅう)界でうたわれている今様(いまよう)がある。「花より明るく み吉野の 春のあけぼの見渡せば 唐人もこま人も 大和(やまと)心になりぬべし」というものだが、これは菊派の大和心の雰囲気をよく表している。江戸がいかに平和な時代だったかということである。”

 「今様」とは「現代風、現代的」という意味であり、奈良平安時代の「当時」という意味である。「今様」というと雅楽の楽器で奏でる今様と、「酒はのめのめ」のような筑前今様とがある。筑前今様の「黒田節」は手拍子で楽しんだり、袴姿で右手に槍と左手に大杯を持ち男踊りと男の歌声とを見聞きして楽しむものである。

 雅楽今様での詠い方は雅楽演奏のメロディに合わせたようなもので、演奏に合わせるようにゆっくり詠うものもあり、少し早めに詠う場合もある。少し早めに詠うとそれは当時の庶民が詠っているような雰囲気を感じることができる。

 私は両方好きで、詩吟の漢詩の前に今様が入っているものや、漢詩の起句・承句と転句・結句の間に入っているものがある。

 日本にはこのような素晴らしい文化があることを日本人は誇りに思わなければならないと思う。ちなみに韓国には「アリラン」という民謡がある。韓国人はそれを誇りに思ってることであろう。其処は民族と文化の違いである。どちらが良いとも悪いとも言えない。

 ただ、今の日本人は日本の古い文化を知らない人が多い。これは大きな問題である。文化や伝統は日本民族の「体外遺伝子」の重要な一部である。「体外遺伝子」というものは、「古事記」の神代につながる万世一系の天皇がいる日本という国の「自存」のため、非常に重要・不可欠な要素である。

                                 (続く)

2011年11月16日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(76) (20111116)

 “この攘夷派弾圧に舵(かじ)を切ったのが大老井伊直弼(いいなおすけ)だった。井伊直弼は攘夷の考えを持っていた孝明天皇から勅許(ちょっきょ)を得られないままアメリカと修好通商条約を結び、また、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を次の将軍に推す協調派を無視して、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(後の家茂(いえもち))の将軍継嗣(けいし)指名を強引に行った。これに対して朝廷は、幕府が孝明天皇の意に反してアメリカと修好通商条約を結んだこと、一橋慶喜を次の将軍に推した大名たちを弾劾(だんがい)する文書を水戸藩士に渡した。この動きに激怒した井伊は、反対派を烈(はげ)しく弾圧した。これがいわゆる「安政(あんせい)の大獄(だいごく)」(一八五八~一八五九)である。

 この安政の大獄によって、尊王攘夷運動の急先鋒であった梅田雲浜(うめだうんぴん)や頼三樹三郎(らいみきさぶろう)(頼山陽の三男)、吉田松陰(よしだしょういん)らが刑死もしくは獄死している。また、橋本佐内(はしもとさない)は開国派であったにもかかわらず、藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)を助けて一橋慶喜の擁立運動を行ったために処刑された。さらに、開国に反対する藩主徳川斉昭も蟄居(ちっきょ)させられた。

 藩主を蟄居させられ、さらに朝廷から水戸藩に渡った密勅の提出を求められた水戸藩士は憤慨した。そして安政七年(一八六〇)三月三日、十七人の水戸藩士と一人の薩摩藩士が江戸城桜田門外(さくらだもんがい)で井伊大老の行列を襲撃し、暗殺するという事件が起こった。「桜田門外の変」である。

 幕府の力が急に衰えたのは、この桜田門外の変が原因である。なんといっても幕府は武力政権である。徳川八百万石と称し、三河以来の武士団・旗本八万騎を抱えるといわれる徳川家の「武」の威信は当時の最大の権威であり、誰からも恐れられていた。武士の上には藩主がいる。殿様は武士から見れば絶対の存在である。その殿様の上にあるのが幕府なのである。そのため幕府は大公儀といわれ、雲の上に仰ぎ見るような存在であったのである。

 その武力政権のトップに君臨する大老が、あろうことか江戸城の前で痩(や)せ浪人に襲われて首を取られたのである。これは考えられない事態であり、幕府の権威が地に落ちたことを象徴的に示す事件であった。

 この桜田門外の変からわずか七年後に大政奉還(たいせいほうかん)が行われ、その二年後には明治天皇は江戸城にお入りになる・・(後略)。”

 近代史の部分は渡部昇一『決定版 日本史』を全文引用した。引用しながら日本が開国に至る歴史ドラマを眼の前で見る思いであった。私の意識がその時代に遡って延伸し、私はあたかもその現場に居合わせているような錯覚に陥った。物語ではなく、歴史書を読むということはそういうことである。

 進学受験のため歴史をただ単に年代と事実だけで追い、丸暗記するだけではこのような錯覚には決して陥らないだろう。                    (続く)

2011年11月15日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(75) (20111115)

 “尊王攘夷(そんのうじょうい)論が公に語られるようになったのは、幕府が開国と修好条約の締結について独自に決められず、諸大名の意見を聞き、朝廷にお伺いを立てて却下されたことがきっかけになったといってもよい。しかし、そういう尊王攘夷論の思想のもとになる国体観というものは、それより以前にじわじわと発達していた。

 これは大きくいえば日本の歴史が意識されたということで、大きなものでいえば徳川幕府の天下の副将軍、徳川光圀(みつくに)が作った『大日本史』の存在がる。これは神武(じんむ)天皇から南北朝の統一までの歴史を紀伝体で記した歴史書である。『大日本史』は普通の人が手に入れて読むような本ではなかったが、一般に広く流布した本もあった。頼山陽(らいさんよう)の『日本外史(日本外史)』である。これは平家の勃興から徳川十二代将軍家慶(いえよし)にわたる武家の歴史を家系ごとの列伝体で書いた歴史書で、講談的な面白さがある。

 この『日本外史』を松平定信(まつだいらさだのぶ)が読んでみたいと言い出し、求めに応じて頼山陽は大名家の儒者の子供であったから、徳川家の不興を買うようなことは書かない。しかし、松平定信に渡した原稿は、将軍家に触れるときは改行して他の文書より一字上げて書き、朝廷について書くときは二字上げて差をつけている。これによって、読んでいると幕府の上に皇室があることが自然にわかるようになっているのである。

 また、徳川家康について書くときに、初めの頃は「少将殿」という呼称になっているが、偉くなるに従って「徳川中将」「内府」というように書き方を変えている。これは当然なのだが、読むほうとすれば、どうして位が変わるのかと考える。そしてだんだんと皇室から位をもらっていることに気づくのである。

 この『日本外史』は幕末から明治にかけて非常によく読まれた。すると『日本外史』を読む者には、幕府の上に天皇があって、天皇から位が来ているらしいというような関係がなんとなくわかってくるのである。そして将軍は元来、天皇の持つ政治権を奪っているものであるという認識が広がっていくことになる。幕府にもそうした認識があったからこそ、鎖国をやめるかどうかというときに皇室の意見を聞こうという意見が出たと思うのである。

 この『日本外史』の次に頼山陽は『日本政記(せいき)』を書いた。これは天皇家の歴史を中心にして神武天皇から第百七代後陽成(ごようぜい)天皇の時代まで、つまり秀吉の第二次朝鮮出兵の終結までお取り上げた通史になっている。分量的には『外史』の半分くらいだが、『外史』が武家政治の時代からはじまっているのとは内容を異にする。

 この『日本外史』と『日本政記』は維新の志士の必読書となり、木戸孝允(たかよし)も伊藤博文も影響を受けたといっている。(後略)”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』)

 日本は武家の時代でも神武天皇以来男系でつないできた天皇がいる国である女性の天皇が何度か出たが、それはあくまで神武天皇以来の男系につなげる役割を担っていた。「女性」と「女系」は違う。「女系」になるとその天皇以降、その天皇の母親のミトコンドリアが遺伝していゆくが、神武天皇のY染色体遺伝子はその時点で途切れてしまうことになる。そのような事態は絶対に避けなければならない。      (続く)

2011年11月14日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(74) (20111114)

 “怒ったのは攘夷(じょうい)に熱心だった孝明(こうめい)天皇(在位一八四六~一八六六)である。孝明天皇は幕府に対し二度も攘夷の意思を表明し、ここに「尊王攘夷」のスローガンが生れることになった。

 幕府には鎖国が続けられないことがわかっていた。日本は「武」の国だから、アメリカの黒船を相手に戦っても勝てないことはすぐさま理解できた。黒船が江戸湾に入ってきて江戸城を砲撃してきたら、止める手立ては何もないのである。ゆえに、腹の中では開国せざるを得ないと思っていたのである。

 そして幕府は、開国しても大きな問題はないと判断していた。それは海で遭難してアメリカの捕鯨船に助けられ、米本土に渡っていた元土佐の漁師、ジョン万次郎(一八二七~一八九八)から得た情報によるものだった。

 ジョン万次郎は白人と結婚した最初の日本人といわれ、アメリカの捕鯨船に乗ったときには船長代理のような役に選ばれていたこともある。ゴールドラッシュにわくカルフォルニアの金山を見たり、アメリカ大統領にも会ったこともある。もちろん英語もできるというわけで、アメリカについて桁違いに正確な知識を持っていた。

 幕府は日本に帰国したジョン万次郎を重用して、いろいろ話を聞いた。その中でいちばん重要だったのは、「アメリカには日本を征服する気はない」ということだった。アメリカが日本に開港を求めた真意は、捕鯨船のための水や補給のための避難港が欲しい、できれば貿易もしたいということであると聞いて、幕府は安堵(あんど)し、それほどの危機感を持たなかった。しかし、幕府はそれを外に向かって公表しなかった。そのため実情を知らずに「攘夷」を声高に叫ぶ攘夷派が生れてしまったのである。

 本来であれば、徳川幕府は初めから断固開国するというべきだった。それを怠ったために、朝廷、諸大名、そして庶民まで巻き込んで日本中が蜂(はち)の巣をつついたような騒ぎになったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 いま日本国内はTPP参加について揉めている。慎重派はTPPに参加すれば日本の農業は甚大な影響を被るし、医療面や保険面で日本の制度が維持できなくなるなどと主張している。一方推進派は日本は参入することにより貿易が活発になり経済が潤うと主張している。一方でTPP不参加はもはや出来ない状況であるから参加し、参加により不利益を被る部分について対策措置を講じればよいと主張する推進派もいる。

 慎重派の主張には幕末の攘夷のような思想が感じられる。「TPP開国を迫るアメリカの要求を退けよ」という思想である。徳川幕府はアメリカが危険でないということを公表しなかった。今の日本政府は国内のTPP反対派の主張に対する反論もせず、国民に対してTPP参加の必要性を説得しようともしない。国民の間に政府に対する不信感が広まるのは当然である。                            (続く)

2011年11月13日日曜日

20111113国旗の重み 六十年の時を経て届いた手紙

この動画は、最後まで見た。最後の部分では私は胸が迫り、涙が出た。

私の叔母も夫も男児二人女児二人の4人の子供を遺してビルマ戦線で戦死している。
叔母は96歳で他界している。終戦後まだ若かった叔母は夫の帰還を待っていた。祖母(名前はこの動画に出てくる同じシズエ)は叔母に「堪(こら)えよや」と自分の娘を慰め励ましていたことを子供心に覚えている。
叔母の初盆で大分に帰ったとき、叔母の家の仏間に靖国神社の写真と凛々しい軍服姿の夫の写真が掲げられていた。靖国神社の写真の中には夫の写真が小さく埋め込まれていた。

この動画は11分弱の長さであるが、忙しい人はあまりよく見ないだろうと思う。そこで初めの手紙の部分だけ以下のとおり抜粋し引用させて頂いた。

昭和19615日米軍、上陸開始。

サイパンでの戦況を克明に日記に綴り続けた一人の海軍将校がいた。長田和美海軍中尉はこの翌日の七月五日最後の日記を残している。しかしそれはこれまでのいうに戦況を綴ったものではなかった。

七月四日

命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後無事戻ることができた。

とうとう最後の抵抗をする判断がくだされた。ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士たちは立派に戦った。

このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。しかし、敵の圧倒的な車力を目の当たりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。サイパン島は小さすぎる。身長百五十センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。

 あと一日か二日で最期を迎える。何も思い残すことはない。できる限りのことは行った。私の心はおだやかで満ち足りている。これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。どのように名誉ある最期が迎えられるかのみを考えている。これは私だけではなく、非戦闘員達にも日本人としての名誉ある最期を迎えさせてやりたい。

七月五日

わが妻、シズエへ。

何も言い残すことはない。君と結婚して十七年がたった。

幸せな思い出に満ちた十七年だった。来世への想い出でこれ以上のものはないだろう。

君になんとか恩返しをしたかった。感謝の気持ちでいっぱいだ。私のぶんも子どもたちを可愛がってほしい。私が至らぬために、子ども迷惑をかけるかと危惧している。

今後、日本は本当に困難な時期を迎えるだろう。日本は、あらゆる勇気を奮い起こして

困難を紀来なければならない。

君は優しすぎる。父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。

日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。高宮の父、兄、姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。

コン、マサ、ヤスへ。

強い正直な日本人になってくれ。将来の日本を担ってほしい。兄弟どうし、互いに協力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。

コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。

この日記を託すモリ海軍中佐はセオの同級生である。機会が出来次第、セオに会いに行き何が起きたのか細かい事情を聴いてくほしい。

敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。

これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。

体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。  カズミより

ナガタシズエ様      (昭和十九年七月五日)

(以下経緯要旨)

しかしこのメッセージは家族に届かなかった。皆玉砕したため届けられる人がいなかったのである。

サイパン戦を検証するにあたりNHK渡辺ディレクターはワシントンの国立公文書館に保存されていた二十余りの文書、サイパンに従軍した日本軍将兵の日記や手紙を翻訳した文書を見つけ出した。それが上記の手紙である。

妻の静江さんは九十五歳になっていたが存命 渡辺氏はやっとのことで長田中尉の家族を見つけ出した。20111113国旗の重み 六十年の時を経て届いた手紙

この動画は、最後まで見た。最後の部分では私は胸が迫り、涙が出た。

私の叔母も夫も男児二人女児二人の4人の子供を遺してビルマ戦線で戦死している。
叔母は96歳で他界している。終戦後まだ若かった叔母は夫の帰還を待っていた。祖母(名前はこの動画に出てくる同じシズエ)は叔母に「堪(こら)えよや」と自分の娘を慰め励ましていたことを子供心に覚えている。
叔母の初盆で大分に帰ったとき、叔母の家の仏間に靖国神社の写真と凛々しい軍服姿の夫の写真が掲げられていた。靖国神社の写真の中には夫の写真が小さく埋め込まれていた。

この動画は11分弱の長さであるが、忙しい人はあまりよく見ないだろうと思う。そこで初めの手紙の部分だけ以下のとおり抜粋し引用させて頂いた。

昭和19615日米軍、上陸開始。

サイパンでの戦況を克明に日記に綴り続けた一人の海軍将校がいた。長田和美海軍中尉はこの翌日の七月五日最後の日記を残している。しかしそれはこれまでのいうに戦況を綴ったものではなかった。

七月四日

命令に従い、私は艦隊司令部に出頭した。いまや司令部は前線と化し、空襲の真っただ中にある。生きて帰れるかわからなかったが、任務終了後無事戻ることができた。

とうとう最後の抵抗をする判断がくだされた。ひと月にわたる激しい戦艦の砲撃と絶え間ない空襲に対抗し、前線のわが軍人、兵士たちは立派に戦った。

このように絶望的な状況下で戦えるのは日本人だけであろう。しかし、敵の圧倒的な車力を目の当たりにして、さすがの大和魂も歯が立たない。サイパン島は小さすぎる。身長百五十センチと小柄な私でさえ隠れることが困難だ。

 あと一日か二日で最期を迎える。何も思い残すことはない。できる限りのことは行った。私の心はおだやかで満ち足りている。これが運命だ。こうなることが決まっていたのであろう。どのように名誉ある最期が迎えられるかのみを考えている。これは私だけではなく、非戦闘員達にも日本人としての名誉ある最期を迎えさせてやりたい。

七月五日

わが妻、シズエへ。

何も言い残すことはない。君と結婚して十七年がたった。

幸せな思い出に満ちた十七年だった。来世への想い出でこれ以上のものはないだろう。

君になんとか恩返しをしたかった。感謝の気持ちでいっぱいだ。私のぶんも子どもたちを可愛がってほしい。私が至らぬために、子ども迷惑をかけるかと危惧している。

今後、日本は本当に困難な時期を迎えるだろう。日本は、あらゆる勇気を奮い起こして

困難を紀来なければならない。

君は優しすぎる。父親を亡くした息子たちのよい相談相手になってやり、彼らを強く、廉直な日本人に育ててくれ。

日本がある限り、暮らしに困ることはないだろう。万一の時が来たら、日本人として名誉ある最期を迎えてほしい。高宮の父、兄、姉、そして板付の義母、義兄、それから「てつお」にくれぐれもよろしく伝えてくれ。

コン、マサ、ヤスへ。

強い正直な日本人になってくれ。将来の日本を担ってほしい。兄弟どうし、互いに協力しあい、全力を尽くしてお母さんを助けてあげてくれ。

コンとマサ、君達は兄としてヤスの面倒をよく見てやってくれ。

この日記を託すモリ海軍中佐はセオの同級生である。機会が出来次第、セオに会いに行き何が起きたのか細かい事情を聴いてくほしい。

敵の戦闘機の砲撃や空襲が頭上を飛び交っている。

これまで過ごした年月に対し、君になんと礼を言えばいいのかわからない。

体を大切にして、末永く充実した人生を送ってほしい。  カズミより

ナガタシズエ様      (昭和十九年七月五日)

(以下経緯要旨)

しかしこのメッセージは家族に届かなかった。皆玉砕したため届けられる人がいなかったのである。

サイパン戦を検証するにあたりNHK渡辺ディレクターはワシントンの国立公文書館に保存されていた二十余りの文書、サイパンに従軍した日本軍将兵の日記や手紙を翻訳した文書を見つけ出した。それが上記の手紙である。

妻の静江さんは九十五歳になっていたが存命 渡辺氏はやっとのことで長田中尉の家族を見つけ出した。