2011年10月31日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(60) (20111031)

 “秀吉は天正十五年の六月に対馬の宗義智(そうよしとも)を九州の箱崎に呼び、「明(もん)に侵攻するため朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけよ」と命じ、「日本を統一した祝いの言葉を述べよ」と、宗家を通じて朝鮮の来朝を促した。しかし当時の李氏(りし)朝鮮は明の朱元璋(しゅげんしょう)(洪武帝(こうぶてい)から位を授かっており、朝鮮という名前をもらっている関係にあり、明の冊封(さくほう)国であった。したがって、秀吉の要求を当然ことのように断った。

 これがきっかけとなって、天正二十年(文禄(ぶんろく)元年/一五九二)、第一次朝鮮出兵、「文禄の役」がはじまるのである。このときの日本軍は非常に強く、四月十二日に竈山(ふざん)に上陸すると、無人の野を行くが如く朝鮮半島を北上し、漢城(かんじょう)(今のソウル)まで押し寄せている。

 日本軍が漢城に到着したとき、すでに都のほとんどは火事で焼けていた。火をつけたのは身分の低い連中で、その者たちは自分たちが奴隷みたいな身分になっているのは戸籍文書があるせいだろうと、文書に火をつけたのである。

 王やその一族は城を逃げ出し、東海岸側と、西海岸側に分かれて逃げた。だが、それに付きしたがう家来は数十人くらいしかいないという惨憺(さんたん)たる様子であった。

 西海岸を逃げた朝鮮王を追ったのが小西行長(こにしゆきなが)(一五五八~一六〇〇)の軍隊である。小西行長は商人の出身であるから、明と戦争するのは賛成ではなかったと思われる。・・(中略)・・朝鮮王はほとんど身一つで国境付近まで逃げ、明に援護を求めるのである。

 一方、東海岸を北上したのは加藤清正(かとうきよまさ)(一五六二~一六一一)の軍であった。こちらは猛烈に追撃して、後の満洲(まんしゅう)国境近くで二人の王子を捕虜にした。・・(中略)・・

 小西行長は平壌(へいじょう)を占領すると、そこから北進せず、朝鮮および明と和平交渉を行った。しかしそれは明側の時間稼ぎにすぎず、明の大軍が到着すると総攻撃を受ける。一時は攻めてきた明の大軍を追い返すが、結局、謀略(ぼうりゃく)に敗れて、命からがら漢城まで逃げてくることになったのである。”

今から420年ほど前、秀吉は明を攻めるため朝鮮半島に大軍を送った。秀吉による朝鮮出兵は明を討伐することが目的であった。当時スペインは日本の武士を使って明に侵攻しようと企んでいたが、秀吉はスペインの意図を逆手にとり自ら明征服を考えていた。それは日本の防衛のためでもあったのだ。

商人出身の小西行長を総指揮官とする部隊は西海岸を北上し今のソウルを占領後、今のピョンヤン(平壌)を占領し、それ以上北上しなかった。朝鮮王は身一つで国境付近まで逃げ、明に助けを求めた。行長はピョンヤンで明・朝鮮側と和平交渉し、明側の謀略にひっかかり命からがらソウルまで退却した。商人ゆえに軍事的詰めが甘かったのだ。

一方、武士出身の加藤清正を総指揮官とする部隊は東海岸を北上し満洲国境付近で二人の王子を捕虜にした。さすが清正、初代肥後(熊本)藩主!         (続く)

2011年10月30日日曜日

秀吉の朝鮮出兵の真実

『改訂版 大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)に秀吉の朝鮮出兵について次のことが書かれている。

 天正15年(1587年)、秀吉は突如としてイエズス会の日本準管区長ガスパル・コエリョに「五カ条の詰問」を突き付けた。その第五条に曰く、「何故に耶蘇(やそ)会支部長コエルホ(コエリョ)は、其の国民が、日本人を購買して、これを奴隷としてインドに輸出することを容認する乎(か)」コエリョは種々陳弁したが、ポルトガル商人による日本人の奴隷売買は公然たる事実であった。

 秀吉の側近大村由己(ゆうき)は、秀吉による日本人奴隷売買の禁止が宣教師追放の目的であったことを明快に指摘している。この本には大村由己による秀吉への意見具申書が原文のまま紹介されている。

 秀吉のような統一者がいなかったフィリピンはスペインに蹂躙され占領されている。そのフィリピンのマニラ司教サラサールがスペイン国王に送った書簡(1583618日付)に「私がこの報告書を作成した意図は、シナの統治者達が福音の宣布を妨害しているので、これが、陛下が武装してシナに攻め入ることの出来る正当な理由になるということを陛下に知らせるためである。(中略)そしてこのことを一層容易に運ぶには、シナのすぐ近くの国の日本人がシナ人のこの上なき仇敵であって、スペインがシナに攻め入る時には、すすんでこれに加わるであろう、ということを陛下が了解されるとよい。そしてこの効果を上げる為の最良の方法は、陛下がイエズス会総会長に命じて、日本人に対し、必ず在日イエズス会士の命令に従って行動を起こすように、との指示を与えるよう、在日イエズス会修道士に指令を送らせることである。」

 当時、スペインは日本人を改宗させてスペインに協力させ、シナを征服しようとした。秀吉はスペインの意図を逆手にとってコリョに自らの明征服計画を披歴した。

コエリョは158533日付のフィリピン・イエズス会布教長宛て手紙で「もしも国王陛下の援助で日本66ヵ国全てが改宗するに至れば、フェリペ国王は日本人のように好戦的で頭のよい兵隊を得て、一層容易にシナを征服することができるであろう」と書いている。 

秀吉はコエリョが秀吉に明(当時のシナ(今の中国)の王朝の国)への軍隊派遣を要請した直後の158554日、コエリョに対して逆に自らの明征服計画を披歴し、ポルトガルの軍艦2隻を所望した。当時、ポルトガルはスペインの支配下にあった。

秀吉は朝鮮出兵前年の天正19年(1591年)、ゴアのインド副王(ポルトガル)とマニラのフィリピン総督(スペイン)に降伏勧告状を突き付けて、コエリョを恫喝している。

秀吉がフィリッピン総督に送った書状は今や大明国を征せんと欲す。(中略)来春九州肥前に営すべく、時日を移さず、降幡(こうはん)を偃(ふ)せて伏(降伏)すべし。若し匍匐(ほふく)膝行(ぐずぐずして)遅延するに於いては、速やかに征伐を加ふべきや、必(ひつ)せり。悔ゆる勿れ・・・というものであった。秀吉の朝鮮出兵の目標は、実はスペインとポルトガルに向けられていたのである。スペインの野望は実らなかった。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(59) (20111030)

 “天文(てんぶん)十八年(一五四九)イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが日本にやってくる。ザビエルは二年間の滞在中に薩摩の島津貴久(たかひさ)や周防(すおう)の大内義隆(よしたか)、豊後(ぶんご)の大友義鎮(よししげ)(後の宗麟(そうりん))などと謁見(えっけん)している。また天分十二年には種子島に漂着したポルトガル人が日本に初めて鉄砲を伝えた。・・(中略)・・

 この頃は、東南アジアに西洋の勢力が伸びてきた時代であった。その時代の風潮もあったのか、日本人の知らなかったアジアの情報が伝わってきていたようで、明(みん)などはそれほど強くないらしいという話があった。それを聞いた秀吉は、天下統一を果たした後は明を征服しようという気を起こしたようである。

 その理由はいろいろ推し量られるが、秀吉がまだ織田家臣団の中でも地位の低い頃から大陸に関心を示していたのは確かである。一例を挙げれば、天正五年(一五七七)十月に、秀吉は信長から対毛利中国派遣軍の総司令官を命じられている。そのとき信長「中国を征服したらお前にやろう」というと、秀吉はこう答えているのである。

 「それはすべてほかの大将に与えてください。私は信長公のご威光を朝鮮・大明国(だいみんこく)に輝かせますから、そこで領地を頂きたい」・・(中略)・・

 また天正十五年(一五八七)の九州征伐のときも、秀吉は毛利輝元(てるもと)に対し、「自分は高麗(こうらい)に渡る」といっており、別のところでは明国まで行こうというような話もしている。

 そして天下を取ってみると、日本中に何度も戦争を経験している武士がゴロゴロしており、その中には自分は大陸の領地をもらいたいという人間もいた。そういうところから、明を取ろうじゃないかという、今から見れば誇大妄想的な計画を実行に移すことを考え始めたようである。”

 私の先祖有田氏は豊前田川の田川氏に発する。田川氏は公家でありながら京都に住まず田川庄に土着豪族となった藤原隆輔を祖としており、田川氏の一族に安田氏・有田氏等がいた。その豊前田川郡は秀吉の九州征伐の結果、森(毛利)吉成に与えられた。また有田氏の子孫が住んだ豊後は秀吉による九州征伐後大友宗麟没後長男義統(よしむね)に安堵されが、秀吉の九州征伐前まで大友宗麟は豊後・筑後に勢力を延ばしていた。

 その豊後国の豊後高田庄(現在の大分市皆春などの一帯)は昔藤原摂関家の領地であったが秀吉による小藩分割政策の結果熊本藩・延岡藩等の領地として分割された。平安時代末期に京都から下って来た藤原氏姓の官人が豊後高田庄で53歳のとき病没し、後にその墓所が有田屋鋪内に納められた。その子孫は名字を有田、氏姓を藤原と名乗り大友屋方に厚遇されていたが大友家没落とともに没落し、以降代々門田高畠(現在は皆春の高畑地区)を本拠として農業に従事し、曾祖父の代に善福寺の台地に転住した。

 どの家々も栄枯盛衰であるが自分の家の先祖のことや伝承などを子どもに伝えるということは重要である。同様に国家としても日本の神話時代からの正しい歴史や伝統や文化などを次世代の子どもたちによく伝えてゆくことが大変重要である。     (続く)

2011年10月29日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(58) (20111029)

 “信長は明智光秀(あけちみつひで)の謀反(むほん)により、天正十年(一五八二)、京都の本能寺(ほんのうじ)で命を落とす(本能寺(ほんのうじ)の変)。そして明智を山崎の戦いで討ち、柴田勝家や徳川家康などのライバルをしりぞけて信長のあとを継いだ羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって、天下は統一されることになる。

 その統一のシンボルとして秀吉が徹底的に祭り上げたのが朝廷である。秀吉は関白(かんぱく)・太政大臣(だじょうだいじん)になるときに、平清盛の真似をしてご落胤(らくいん)説までつくっている。

 秀吉の皇室尊重というのは画期的なもので、大名たちにも「子子孫孫まで皇室に仕え、忠誠を誓う」という文書を提出させている。それは関白太政大臣である自分に忠誠を誓わせることにほかならないが、自分の背後に天皇があることを強く印象づけるものである。秀吉自身の身分が低いだけに、皇室を背後に統治を行うことを考えたのだろう。信長が気づいたように、皇室の力とはそれほど強力なものなのである。したがって、その後も大名は皆、宮廷から位をもらってみずからの格を上げていくという形をとるようになっていく。

・・(中略)・・秀吉は皇室、宮廷を徹底的に奉(たてまつ)ったのである。江戸時代の儒者林羅山(はやしらざん)にいわせれば「天皇を利用する」ことによって、秀吉は天下統一を果たすのである。”

 “天下を統一した秀吉が政治面で徹底して行ったのが、天正(てんしょう)十年(一五八二)にはじめた「太閤検地(たいこうけんち)」である。これは信長が手がけていたものを秀吉がさらに推し進め、全国的に徹底したものである。・・(中略)・・

 この頃の秀吉は民への目配せも十分に行い、検地をおこなう際には民衆に迷惑をかけてはいけない、お金も受け取るなという厳重な命令を出している。税法改正にはいつの時代にも‘取られる側’の不満が募るものだが、この太閤検地に関しては例外的にうまくいった。事実、天正十三年(一五八五)から文禄(ぶんろく)四年(一五九五)までの約十年間に一揆(いっき)のような騒動は一度も起こらなかったから、これは不思議なくらいの成功だったといえるだろう。”

 特に戦国時代以降古の名家のほとんどは没落し、新興の武家の配下になったり一般の民百姓に落ちぶれたりした。京都の公家の子女は地方でそれなりの家格の家に嫁ぎ、そこで子をもうけた。皇室の子孫も天皇になった方以外は僧になったり臣籍降下して一般の民になっていった。しかし身分が下っても地縁血縁の狭い地域社会では家柄は伝承された。

幾世紀も経て高貴な血統の遺伝子は日本全国に拡散し、現代に生きるわれわれの血の中に多かれ少なかれ含まれている。秀吉は平清盛の真似をしてご落胤説をつくったが秀吉の先祖に皇族の遺伝子が入っていたかもしれない。名馬の遺伝子がない親馬からは名馬となる素質を持つ馬は決して生まれないのである。しかし折角名馬の遺伝子を持って生まれてもよく育てられなければ決し名馬にはならないのである。        (続く)

2011年10月28日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(57) (20111028)

 “応仁の乱は将軍の権威を著しく衰えさせたが、それだけではなく、守護大名が家臣に実権を奪われるという事態も生じさせた。いわゆる「下剋上(げこくじょう)」である。こうした風潮の中、日本中に戦国大名が誕生することになった。

 戦国時代は約百年といわれるが、私はこの戦国時代がなかったら日本は実に寂(さび)しい国になっただろうと思う。戦国時代の武将の言行を書き留めた『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』という本がある。この本は館林(たてばやし)藩士であった岡谷繁実(おかのやしげざね)(一八三五~一九一九)が戦国時代の武将から江戸中期の将軍までの事績をまとめたものである。いろいろな武将が戦場で発した言葉、実際の行動、また戦いに臨む心得、相手との駆け引きなど、さまざまな知恵が事細かに記されている。これはまさに日本の宝ともいうべき内容であって、日本人を利口にするのに大いに役立ったと思う。

 シナには春秋・戦国という荒れた時代があり、その時代の逸話を書いた『史記』や、歴代王朝の歴史の面白いところを抜いてまとめた『一八史略』などがあるが、『名将言行録』はそれに匹敵する書物である。明治になってから出版されたため、古典の感覚で受け取られないのが残念だが、これはシナの歴史における『一八史略』くらいの価値は十分にある。”

 “当時の戦国大名は権謀術策(けんぼうじゅつさく)を用いて権力を手にした者が多かったから、人間が賢くなった。上杉謙信だろうが武田信玄であろうが、知力を尽くして外交をやった。信長も秀吉も家康も同じである。その点では、戦国時代から家康に至る時代ほど、日本人の能力が発揮された時代はなかったのではないかと思われる。

 群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)とうのは確かに人間のレベルを上げる。ゆえに、まともな封建時代がない国は近代国家になれなかったといわれるのである。発達した封建時代があった国は西ヨーロッパと日本だけであって、インドにも中国にも朝鮮にもなかった。それらの国の近代化は、結局、植民地または半植民地の時代を通過するか、共産革命を通過するしかなかった。”

 “その群雄割拠のあと、一頭地を出(いだ)したのは織田信長(一五三四~一五八二)である。・・(中略)・・信長が日本を啓蒙時代に導いた・・(中略)・・啓蒙時代とは何か。これをひとことでいうならば、「宗教の権威を最高にしない時代」ということになる。・・(中略)・・比叡山の焼き討ち、あるいは一向宗の皆殺し・・(中略)・・長篠(ながしの)の戦いの有名な鉄砲の使い方・・(中略)・・三列に並んだ鉄砲隊が順番に一斉射撃・・(中略)・・これは西洋ではハプスブルグ家がオスマントルコと戦ったときに初めて使った戦法だが、それは長篠の戦いから百年あとの一六九一年のことである。また、ある戦場である一定の時間、弾を撃ち続けるという戦術的思想も信長がオリジナルである。この思想が実現するのは第一次世界大戦時のドイツ軍まで待たなくてはならない。・・(中略)・・皇室を背景に命令を下さなければ天下を取れないという大戦略をもち、・・(後略)” (以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)                     (続く)

2011年10月27日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(56) (20111027)

 “足利八代将軍義政(よしまさ)は東山文化を築いた人物として知られる。応仁の乱で焼け落ちた都を離れた義政は、文明(ぶんめい)十四年(一四八二)、東山山荘の造営をはじめ、そこで銀閣を建てた。銀閣には当初、祖父である三代将軍義満(よしみつ)が造った金閣(きんかく)にならって銀を施すつもりだったらしいが、銀を貼るほどのお金がなかったようで地味な造りになった。しかし、日本人にしてみれば、いぶし銀というのは渋い趣味のもっとも特徴的な言い方である。それがかえって好まれて、銀閣寺文化(東山文化)が生まれるのである。

 絢爛豪華(けんらんごうか)な義満の北山文化に比べ、東山文化は「わび・さび」や「幽玄(ゆうげん)」を特徴とした。義政は、書画、茶碗、茶の湯といったものに対する独特の審美眼(しんびがん)を発揮した。茶室をわずかに四畳半という小さな造りとしたり、また当時シナではあまり高く買われていなかった牧谿(もつけい)の水墨画を評価した。

 こうした義政の感覚は日本人の感性と見事に合致した。それ以降の日本的な美の感覚というのは、義政の系統を引くものといってもよいだろう。ゆえに義政が愛した茶道具は信長や秀吉の時代になると大名物(おおめいぶつ)となり、飛びきりの高値がついて、城一つとでも交換したいというような話にもなった。

 義政は応仁の乱を引き起こした当人であり、政治的な能力は評価できたものではないが、こと美的な感覚については一種の天才であったといっていいだろう。義政にとって日本人の美意識が確立されたと考えれば、やはり忘れてはならない歴史的人物ということになるだろう。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 NHKドラマ『坂の上の雲』に、駐在武官時代も含め7年間ロシア滞在した広瀬少佐が日本に帰国する前親交があったロシアの海軍将校たちによる送別会が行われているシーンがあった。その場所に広瀬少佐と交際していたロシア人女性アリアズナが『荒城の月』をピアノで弾き、会場にいた一同はその演奏に感動するが、後方にいた一部のロシア人たちは「猿が作曲したものではない、あれは贋物だ」と吐き捨てて会場を去る場面がある。
 私は高校時代ある同級生の女性と豊後竹田にある岡城址に遊んだことがあった。其処は滝廉太郎の『荒城の月』の曲が生まれた場所である。作詞者土井晩翠は故郷の仙台青葉城と学生時代に訪れた会津若松の鶴ヶ城を重ね合わせてイメージしながらこの詩を作ったという。この詩にも曲にも室町時代に始まった「幽玄の美」が感じられる。

 春高楼の花の宴 めぐる盃影さして 

千代の松が枝わけいでし 昔の光いまいずこ

秋陣営の霜の色 鳴き行く 雁の数見せて 

植うるつるぎに照りそいし むかしの光いまいずこ

 天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿 

写さんとてか今もなお ああ荒城の夜半の月            (続く)

2011年10月26日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(55) (20111026)

 “足利幕府は八代将軍義政(よしまさ)のとき、継承問題からこじれてくる。義政の正室日野富子(ひのとみこ)にはなかなか男子が生まれなかった。そこで自分の弟で仏門に入っていた義尋(ぎじん)を還俗(げんぞく)させ、足利義視(よしみ)と名を改めさせて次の将軍にしようとした。ところがその途端に日野富子は妊娠し、翌年男児(足利義尚(よしなお))を出産する。・・(中略)・・それぞれ有力な守護大名(しゅごだいみょう)が後見人となり対立するようになった。そして、細川と山名を軸に応仁(おうじん)元年(一四六七)、全国を二分した応仁の乱が起こるのである。・・(中略)・・

 応仁の乱は京都を荒廃させるなどマイナス面もあったが、日本の歴史に大きな影響を与えた。応仁の乱の前と後では、日本の貴族、豪族がほとんど入れ替わってしまうのである。皇室と公家のほかでそれ以前の名家で残るのは、島津(しまづ)、伊達(だて)など三つ、四つだけであり、残りはほとんどすべて入れ替わっている。・・(中略)・・

 応仁の乱とは、結局は相続争いであったといってよいだろう。

 応仁元年にはじまった応仁の乱は十一年も続いた。京都は戦場になり焼け野原となったが、大名がそれぞれ自分の領国に戻って、自国の経営につとめた。それに加えて、公家や禅僧が都を逃れ地方に散っていったことで全国各地で文化が興(おこ)った。

 例えば九州の菊池(きくち)家の菊池重朝(しげとも)は臨済宗の僧桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)を招き、学問の普及につとめた。この桂庵玄樹は後に島津家に招かれて、『大学章句(だいがくしょうく)』を出版するが、これは日本で初めて出版された朱子学の書物である。

 また関東管領上杉憲実(かんとうかんれいうえすぎのりざね)は、足利学校を再興し、円覚寺(えんかくじ)の僧を校長に招き、北宋で出版された貴重な書物(宋版(そうはん))を寄付している。この足利学校はフランシスコ・ザビエルも「日本最大の坂東(関東地方)のアカデミー」と記してヨーロッパでも知られるようになった。太田道灌(おおたどうかん)、上杉謙信(けんしん)、武田信玄(しんげん)など、関東に学問のある大名が出たのも足利学校の影響と考えられる。

 中央政府が弱体化するから、地方の豪族は自ら国を治める方法や民を手なずける方法などを工夫しなければならなかった。そこから、古今の制度を研究してみようという動きも起こった。また戦乱の都を離れて地方に下った公家の娘が大名に嫁(か)することもあった。このようにして地方に文化が広がったのである。

 またもう一つ特筆すべきなのは、伊勢神宮が庶民に支えられる全国的崇敬(すうけい)の対象となったことである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 物事には必ず表裏、前後、上下等二面性がある。悪いことがあればよいことが必ずある。歴史を見るにそのような見方でみるならば、日本が如何に良い国であったかよく分かる。戦後日本人は洗脳されていたから自虐史観に陥ってしまっていたのである。  (続く)

2011年10月25日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(54) (20111025)

 “南朝を支えていたのはほとんど北畠親房(きたばたけちかふさ)(一二九三~一三五四)一人だったといっていいだろう。そもそも「南北朝」という考え方自体、北畠親房から出たと考えていい。親房は南朝の総参謀長として、おそらくは宋(そう)の司馬温公(しばおんこう)が記したシナの歴史書である『資治通鑑(しじつかん)』から着想を得て、南朝・北朝という概念を打ち立てたものと考えられる。そして、南朝のレジティマシー(正統性)を唱えて士気を鼓舞したのである。・・(中略)・・

 北畠親房は『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』という南朝の正統性を主張した歴史書を書いている。後世に残るこの歴史書は、彼が南朝勢力拡大のために船で奥州に向かう途中、暴風に遭って難破し、常陸(ひたち)国(茨城県)に上陸して小さな城に籠城(ろうじょう)していたときに書かれたものである。もともとは後醍醐天皇の息子の義良(のりなが)親王(後の後村上天皇)のために書かれたものといわれている。・・(中略)・・

 楠木正成の三男の正儀(まさのり)などは、何時まで戦っても見込みがないと北朝との和睦(わぼく)をめざし、一時は北朝に投降して一族の怨みを買ってしまった。

 その後、北畠親房が死に、楠木正儀の子正勝(まさかつ)が落ちたことのない千早城(ちはじょう)で敗れてしまい、南朝は和平に応じるより道がなくなった。そして三代将軍義満(よしみつ)の時代に南北朝が合一されるのである。

 ここまで南北朝時代が続いたのはなぜか。それは、南朝も北朝も皇位継承権がある男系だったからである。明治の皇室典範(こうしつてんぱん)はこの前例を踏まえて作られている。

 さて、足利幕府は南北朝の合一に成功した義満の時代に非常に大きな力を得た。義満自身は天皇に肩を並べるような、あるいはかつての蘇我入鹿(そがのいるか)や道鏡(どうきょう)にも比べられるような権威を持った。すなわち自分の妻を天皇の母(国母(こくぼ)にし、義満自身は太政(だじょう)天皇(天皇の母の夫)という立場に立ったのである。そしてついには偏愛していた二男の義嗣(よしつぐ)を天皇にしようと画策した。

 ところがそんな計画を立てた途端に発病し、十日後くらいにあっけなく死んでしまうのである。すると不思議なことに義満の息子は逆に皇室尊重の態度を示すのだから日本という国は面白い。

 日本の皇室は、山あり谷ありで、何度も切れそうになりながら辛(かろ)うじて続いてきたようなところがある。・・(中略)・・

 神代から見てくると、皇室は何度も断絶の危機に瀕(ひん)していることがよくわかる。しかし、それを乗り切って、次第に万邦無比(ばんぽうむひ)な安定した王朝になっていったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 戦後マッカーサーによって十五宮家のうち十一宮家の皇籍離脱が決定された。今、男系の皇統の維持が黄信号である。何としてでも男系皇統を維持しなければならない。(続く)

2011年10月24日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(53) (20111024)

 “尊氏はその北条高時を討伐するために自ら征夷大将軍を名乗り、勝手に出陣する。すると在京の武士の半数以上がこれに従った。朝廷は尊氏を懲罰にかけることもできず、逆に従二位(じゅにい)を授け、労をねぎらい、兵を京に戻すように促すが、尊氏はそれに従わなかった。それどころか、鎌倉で勝手に論功行賞(ろんこうこいうこうしょう)をはじめ、部下たちに土地を与え、寺社にも寄付をした。これによって武士の間で尊氏の人気は一段と高くなった。もはや尊氏ははっきりと反朝廷へと旗幟(きし)を鮮明にしていた。

 これに対抗したのが新田義貞である。尊氏が論功行賞として与えた土地が東国にあった新田の領地であったことを聞いた義貞は天皇側の総帥として尊氏と対峙(たいじ)することになった。・・(中略)・・戦争には「錦(にしき)の御旗(みはた)」が必要だから光厳(こうげん)天皇から院宣(いんぜん)を貰うべきであること。持明院(じみょういん)統の光源厳天皇は建武の中興で政治的には御用済みのような形になっていたが、もともと正式にあとを継いでいるのだから院宣を与えることができる。それをもらえば尊氏も官軍になれるのである。

 尊氏は赤松の案に従って九州で大軍を集め、京に攻め上がる途中で院宣を受け取った。これで尊氏も官軍となったのである。”(注:光厳天皇は、楠木正成が仕える大覚寺統の後醍醐天皇が謀反人として隠岐に流されていたとき幕府によって即位させられていた持明院統の天皇である。その後醍醐天皇が隠岐から抜け出して来て京都に戻っていた。)

 “尊氏が大軍を引き連れて攻め上がってきたと聞いたとき、楠木正成は「尊氏軍と正面から戦ってもかなわないから、天皇はひとまず比叡山(ひえいざん)に逃れて時機を待ってはどうか」と進言した。・・(中略)・・ところが公家たちが「天皇が京を去るのはよくない」と口を出し、楠木正成の計画はいれられなかった。文民統制の失敗である。仕方なく楠木正成は自分の意に反して出陣し、摂津国湊川(みなとがわ)で玉砕(ぎょくさい)するのである。

 結局、後醍醐天皇は比叡山に逃げ込むが、最後には足利尊氏との和睦(わぼく)を受け入れて光厳天皇の弟である持明院統の光明(こうみょう)天皇に三種の神器を譲り、太政(だじょう)天皇という名目のみの位をもらって花山院(かざんいん)に幽閉(ゆうへい)されることになった。・・(中略)・・しかし後醍醐天皇はまだあきらめなかった。その後、花山院を脱出して吉野(奈良県)に逃げ、尊氏側に渡した神器は贋物(にせもの)であるとして、吉野朝(南朝)を開くのである。

南朝は後醍醐天皇の死後も続き、南北朝が一つになるのは幕府が開かれてから五四年後の明徳(めいとく)三年(元中(げんちゅう)九/一三九二)のことであった。(明徳の和約)”

そこに至るまで、足利尊氏とその弟・直義との間の対立など紆余曲折があった。富の支配権をめぐる骨肉の争いは昔も今も変わらない。何かルールが必要である。  (続く)

2011年10月23日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(52) (20111023)

 “足利家は八幡太郎(はちまんたろう)源義家(よしいえ)の子義国(よしくに)の二男義康(よしやす)の子孫であり、新田家はその義国の長男義重(よししげ)の子孫である。系図だけなら、新田義貞のほうが上になるが、新田家は名家とはいえ田舎の豪族であるのに対し、足利家は代々北条家から嫁を取るなどして家格が上と見なされた。それにより、足利尊氏が武家では勲功(くんこう)第一ということになった。

 だが公平に見れば尊氏の功績はそれほどではない。鎌倉を滅ぼした新田義貞、千早城で頑張った楠木正成、京都に一番乗りした赤松円心、そして大塔宮(だいとうみや)護良(もりなが)親王の不屈の戦いと令旨(りょうじ)がなければ建武の中興はならなかった。尊氏の功績はこの四人に比べて明らかに見劣りする。

 しかし、その足利尊氏が武士の首領となって、後醍醐天皇と敵対することになるのは、それだけ武士たちの不満が高まっていたということである。恩賞が欲しくて命がけで戦ったのに、僧侶や女官や踊り子の下に置かれたのだから当たり前である。楠木正成ですら後醍醐天皇は皇太子に譲位すべきだと考えていた。赤松円心などは「すぐに天皇親政をやめ、武家政治に戻すべし」と主張した。

 この円心の意見は武家たちの総意といってもいい。では、その武士たちの首領となり得るのは誰かといえば、源氏の正統の家柄からいっても、人間的な器量からいっても尊氏が最適だったのである。”

 “足利尊氏は政治の実権を握るべく画策をはじめる。まずそりの合わない護良(もりなが)親王を排除するため、自分の子を皇太子にしたがっている阿野廉子(あのれんし)と手を結び、後醍醐天皇に対して「護良親王に謀反の恐れあり」と讒言(ざんげん)をした。天皇はそれを信じ、親王を捕らえ鎌倉に送り、尊氏の弟足利直義(なおよし)の監視下に置いた。護良親王はその翌年、北条時行(ときゆき)の鎌倉攻めの際に、鎌倉を脱出する直義の独断で殺されてしまうことになる。”

 鎌倉に鎌倉宮という神社がある。この神社は明治天皇のご意思により明治2年に東光寺跡に建立された。この神社本殿の後方に護良親王が9か月間幽閉されていた土牢がある。建武の中興に尽力された護良親王は鎌倉を脱出する義直の命により義直の家来・淵辺義博により斬首された。護良親王には京都から随行した家臣や女官などいたであろう。ひとり土牢に幽閉されていたときはどんなに辛く苦しかったことであろうか。

 南北朝時代は親族同士である足利家と新田家の争い、足利家の尊氏・義直兄弟間の協調と対立、北朝を立てる足利尊氏と南朝・後醍醐天皇を立てる楠木正成との抗争、足利尊氏は弟・義直と共に北朝を立てていたのに義直が側近・高師直と対立したことがもとで南朝に接近し、高師直が討たれると南朝と手を切ったが兄・尊氏は弟・義直が再び南朝に接近することを恐れ直義の先手を打って南朝に降伏を申し出るなど、南朝を巡る事態が起きた時代であった。                           (続く) 

2011年10月22日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(51) (20111022)

 “そのうちに後醍醐天皇が隠岐島(おきのしま)から抜け出して、伯耆(ほうき)国(鳥取県中部・西部)の船上山(せんじょうざん)で名和長年(なわながとし)の援助で兵を挙げる。おかしいのは、後醍醐天皇討伐のために派遣されたはずの足利高氏(尊氏)まで天皇に帰順し、幕府に対して寝返ってしまう。同じく新田義貞(にったよしさだ)は関東で兵を起こして鎌倉に攻め入り、幕府を滅ぼすのである。”

 “このようなことが一か月くらいの間にバタバタ起こった。そして後醍醐天皇は京都に戻り、政治を執ることになった。源頼朝が幕府を開いてから百四十年ぶりに政権は朝廷に戻った。これがいわゆる「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」である。

 ところが建武の中興はうまくいかなかった。恩賞がでたらめだったのがそのいちばん大きな理由である。北条幕府が元寇後の恩賞問題で衰退していった失敗例を、後醍醐天皇も繰り返してしまったのである。

 ただ北条幕府の場合は同情すべき点もあるが、今回のは同情の余地がない。というのも、恩賞は全く不公平なものだった。阿野廉子(あのれんし)(一三〇一~一三五九)という側室の意見によって左右された。後醍醐天皇にしてみれば、自分と一緒に隠岐島のような、当時は地の果てみたいな場所に流されたときについてきた女官や公家に重きを置きたい気持ちがある。また、当初味方についていた比叡山(ひえいざん)の僧なども恩賞を求めてきた。後醍醐天皇はそういう者たちに莫大な領地を与えた。”

 “そもそも建武の中興は平安時代のような王朝への復古をめざすものであり、公家と女官の王朝文化華やかな時代を理想としていた。・・(中略)・・武家などは見下すべき存在で、むしろ武家なき世こそ望ましいと考えていたのである。

 だから武士たちは必ずしも報われなかったのである。・・(中略)・・建武の中興の立役者(たてやくしゃ)というべき楠木正成さえ、もともとの領地である河内(かわち)と摂津(せっつ)を与えられただけだった。

 例外は足利尊氏と新田義貞である。この二人は北条家から寝返ったが、どちらも源氏という出自(しゅつじ)の良さがあった。武家をなくしたいと後醍醐天皇は考えたが、武家の力なしに天皇親政はかなわないこともわかっていた。そこで、家柄を重視するという宮廷風のやり方で、この二人を取り上げたのである。”

 後醍醐天皇と武士団はその時代の「支配者」で、その時代の民が望んでいたものあった。動物であるアザラシが極北の民イヌイットを「誘い」自らを捕獲させ殺させるが、それによってイヌイットはそのアザラシから「命令」されて、イヌイットの集団の中ではアザラシの肉を「分かち合う」。つまり富の分配の命令者は人間集団の「外」に存在する世界では、人間集団の中に「支配者」は要らない。

しかし現実の世界では必ず「支配者」が必要である。「市民」は支配者にはなり得ない。民主党のマニフェストにある「国家主権の委譲」はとんでもない偽善である。 (続く)

2011年10月21日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(50) (20111021)

 “一方、後醍醐天皇は一説には五十万ともいわれる幕府の大軍と笠置山で戦うが、善戦空しく陥落(かんらく)し、三人の側近とともに楠木正成の赤坂城へと向かう。しかしその途中で幕府に捕まり、元弘二年(一三三二)三月、天皇は謀反(むほん)人として隠岐(おき)に流されてしまう。幕府は次の天皇として持明院統の量仁(かずひと)親王を即位させた(光厳(こうげん)天皇。”

 “赤坂城で幕府軍と激しい戦いを繰り広げた楠木正成は、食糧が尽き援軍の見込みもないというので、城に火を放って逃げ、正体をくらました。戦死したものと思われたが、その一年後に、幕府の留守部隊が警備していた赤坂城を襲い、占領してしまうのである。のみならず、勢力を拡大して金剛山(こんごうざん)に築いた千早城(ちはやじょう)に立てこもり、徹底抗戦をはじめる。

 驚いた幕府は八十万と言われる大軍を送り込むが、千早城だけは何か月経っても落ちなかった。この「落ちない」というのは非常に重要であった。やがて幕府が大軍を送り込んでいるのに、小さな城一つを落とせないという噂が天下に知られるようになり、幕府に不満を持つ勢力があちこちで反幕府の兵を挙げはじめたのである。こうして天下の形勢は一変することになった。

 このとき反幕府の旗を掲げて挙兵した武士の多くは、後鳥羽上皇が挙兵して失敗した承久(じょうきゅう)の乱のとき上皇側について敗れた者の子孫たちだった。また、大塔宮の命を受けた吉野・十津川(とつがわ)あたりの武士がゲリラ作戦を展開しはじめた。さらに大塔宮の令旨(りょうじ)を受けた播磨(はりま)の赤松円心(あかまつえんしん)(一一七七~一三〇五)も挙兵し京に攻め入った。”   

幕府が天皇を謀反人にし、隠岐に島流しにし、同じ神武天皇のY染色体遺伝子を継いでいる皇族を天皇に即位させた、というところが面白い。これは天皇を軽んずる不敬行為であると言わざるを得ない。しかし、一方で幕府は北朝も正統としていたので、北朝の天皇のご意思を汲んで後醍醐天皇を「謀反人」とすることができたのだと思う。さらに面白いのは引き続き渡部昇一『決定版 日本史』を引用するが、隠岐に流されていた後醍醐天皇は隠岐から抜け出して再び兵を挙げている。

 なお、後醍醐天皇まで南朝・北朝交互に天皇を出していた後、幕府が立てた光厳天皇以下北朝系天皇は明治44年(1911年)に明治天皇の勅裁により南朝が正統とされたので皇統は後醍醐天皇と阿野廉子と間にできた第三子である義良(のりなが)親王が第九六代後醍醐天皇の後を継いで第九七代後村上天皇となり、それ以降南朝系の天皇が二代続き、南北朝合一後は北朝系の第一〇〇代後小松(ごこまつ)天皇なり、以降以降続いている。
 南朝・北朝どちらでも神武天皇以来のY染色体遺伝子を受け継いでいる。このことが非常に重要である。「皇統の維持」のため「女系」もやむなしという考え方が広まることは絶対に許せない。なんとしてでも男系の皇統を守らなければならない。
  (続く) 

2011年10月20日木曜日

昭和208月の終戦まで「建武の中興」での一時中断はあったものの「武士」の時代が続いていた。(20111020)

代々北条家から嫁を取っていた足利尊氏は保身のため後醍醐天皇側に寝返り、その間親族の新田義貞が幕府を攻め北条幕府は第十四代執権北条高時で終わった。

かくして天皇親政は140年ぶりに復古し、建武の中興は成った。今から約700年前のことである。しかしそれは長く続かなかった。

楠木正成は自分の思いとは別に国のあるべき姿について強い信念を持ちつづけ、終始後醍醐天皇を支えつづけ、再び後醍醐天皇に敵対した足利尊氏の軍勢と戦って玉砕した。かくして足利幕府の武家による政治が再開した。

日本は明治維新があったとはいえ、白人優越の世界を変えようと戦い、敗れたとはいえ所期の目的を達成することができた大東亜解放戦争の終了まで、基本的には「武士」たちがこの国を動かしてきた。白人優越の意識が強かったアメリカはそのうような日本を恐れ、日本人の精神を徹底的に改造しようとした。

平安時代の昔から天皇は象徴的な存在であられた。皇統は神武天皇から今上天皇まで男子一系で続いている。このような国は世界に類例がない。日本人は皇国史観を是非とり戻さなければならない。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(49) (20111020)

“当時の天皇の在位期間は八年程度で、これは互いに相手方に皇位が行っているときに、「早くこちらに回してくれ」と譲位を促したためである。その仲介役となった鎌倉幕府は、だんだん両統から督促(とくそく)が煩(わずら)わしくなってきた。そこで正安三年(一三〇一)、時宗の子供の貞時(さだとき)は、両統の即位を十年交代にすると決める。

 鎌倉幕府の権威が揺らがなければ、この方式は有効に機能したかもしれないが、幕府は元寇の後始末で弱体化していた。その結果、皇位継承は南北朝の争いへと発展していくことになるのである。”

“第九十六代後醍醐(ごだいご)天皇(大覚寺統/在位一三一八~一三三九)は気性が激しく、また学問に熱心であった。とりわけ好んだ学問が宋学(そうがく)、つまり朱子学(しゅしがく)であった。先に述べたように、南宋で生まれた朱子学は、蒙古(もうこ)の支配に対して自分たちこそ正統であるとし、それを明らかにする正統論や大義名分論を重んじた。後醍醐天皇は、この正統論に深く傾倒した。

後醍醐天皇は三十一歳で即位する。当時は幼帝が多く、こういう壮年の新天皇は珍しかった。宋学を学んで名分を重視していた後醍醐天皇は、「日本の正統たる天皇の地位が幕府の意向で決まり、皇位継承に幕府が干渉するのはゆるすことのできない不遜(ふそん)な行為である」と考えた。”

“十年で皇位を交替するという方式は幕府が勝手に決めたことであり、宋学の大義名分に照らして考えるとおかしいというのである。ちなみにこのような考え方は幕末維新の志士たちの行動原理にも通じる。志士たちは朱子学の名分論によって幕府の体制を非としたのである。

後醍醐天皇は、正統を守るためにはそれに介入する幕府を討たねばならないと考え、討幕復古の計画を立てる。”

“元弘(げんこう)元年(一三三一)、後醍醐天皇はあらためて討幕計画を練るが、再び計画は漏れてしまう。今度は幕府も黙ってはおらず、三千の兵を京都に送り武力制圧をはかる。天皇は三種(さんしゅ)の神器(じんき)を持って比叡山(ひえいざん)から奈良に逃げ、さらに笠置山(かさぎやま)に落ちる。・・(中略)・・

このとき、突如として後醍醐天皇を助けて兵を挙げたのが楠木正成(くすのきまさしげ)(一二九四?~一三三六)である。彼は宋学を学んでいたともいわれ、正統論から後醍醐天皇の味方をする立場になったようである。楠木正成は天皇と面会したあと、河内(かわち)の赤坂城に立てこもって幕府の大軍と戦いはじめる。”

700年近く前、後醍醐天皇は足利尊氏や新田義貞の働きで140年ぶりに武家の政権を倒し朝廷の政権を奪還することができた。しかしそれは長く続かなかった。平安時代の昔から天皇は象徴的な存在であられた。皇統は神武天皇から今上天皇まで男子一系で続いている。このような国は世界に類例がない。皇国史観をとり戻さなければならない。(続く)

2011年10月19日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(48) (20111019)

 夢窓国師『夢中問答集』で国師と問答した足利直義は南北朝時代という皇位継承の混乱期に生きた武将である。北条氏の幕府に代わって兄・尊氏とともに足利幕府を樹立し、天下に副将軍と言われた。南北両朝が存立した原因について渡部昇一『日本史』を引用する。

 “南北朝の争いのもとは、後嵯峨(ごさが)天皇の私情によるものである。後嵯峨天皇には久仁(ひさひと)親王(後の後深草(ごふかくさ)天皇)と恒仁(つねひと)親王(後の亀山(かめやま)天皇)という二人の皇子がいた。皇位は当然、長男である久仁親王が譲り受けることになったが、後嵯峨天皇はことのほか、二男の恒久親王を愛され、皇室財産である所領の多くを恒仁親王に譲ろうとした。それだけではなく、皇位を後深草天皇に譲った後嵯峨上皇はどうしても恒仁親王を皇位につけたいと考え、後深草天皇が結婚してまだ子供ができないうちに恒仁親王を皇太弟(こうたいてい)とした。さらに後深草天皇が病気になると、まだ十七歳であったにもかかわらず退位させて上皇とし、恒仁親王を皇位につけた。このとき即位した亀山天皇はわずか十一歳だった。・・(中略)・・

 後嵯峨上皇は文永九年(一二七二)に遺言状を残して亡くなる。その遺言状には財産分与については明記されていたが、誰が宮廷の実権者になるかは幕府にまかせるとしか書かれていなかった。これがトラブルのもとになった。

 時の執権時宗は元の来襲に備えて全力を傾注しているところであり、宮廷内の問題にはかかわりたくないという気持ちだったのだろう。そこで、後嵯峨上皇の皇后であった西園寺姞子(さいおんじきつこ)(大宮院(おおみやいん))に上皇の本心がどこにあったかを問い合わせた。すると大宮院は「後嵯峨上皇は亀山天皇の親政を望まれていた」と答えたという。

 その結果、幕府は亀山親政を決め、皇太子にも亀山天皇の息子である世仁(よひと)親王(後の後宇多(ごうだ)天皇)を立てた。かくして皇統は嫡流(ちゃくりゅう)を離れてしまうことになった。後深草上皇にすればこれは心外というしかない。・・(中略)・・

後深草上皇は悩んだ末に出家を考える。それを聞いた時宗は同情し、評定(ひょうじょう)を開いて、後深草上皇の皇子煕仁(ひろひと)親王を亀山天皇の猶子(ゆうし)(子とみなすこと)とし、将来煕仁親王が即位したときは後深草上皇の院政にすることにして一応の決着をみた。

この約束は守られ、後宇多天皇は煕仁親王に位を譲り、煕仁親王は九十二代伏見(ふしみ)天皇となる。そして後深草上皇が院政を敷いた。

その後、後深草上皇の系統を持明院(じみょういん)統(後の北朝)と呼び、亀山上皇の系統を大覚寺(だいかくじ)統(後の南朝)と呼ぶようになった。この両統はだいたい交互に皇位を譲り合っていたが、次第に対立するようになる。”

                                   (続く)

2011年10月18日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(47) (20111018)

 “実際に、時宗は元の来襲に対して、非常に立派に戦った。

 当時は元に滅ぼされかけていた宋から禅の高僧が次々に渡来していた。そのため、その頃から鎌倉の仏教は禅宗が特徴になる。その禅宗の教えを受けた時宗は青年ながら非常に肝(きも)が据(す)わっていて、これには宋の禅師たちも感服している。特に無学祖元(むがくそげん)に参禅してからは、その勇邁(ゆうまい)な気性に磨きがかかった。

 蒙古来襲のとき、時宗はまだ二十歳の青年であったが、いささかも慌てることなく泰然としていたのは、祖元の精神的指導に負うところが少なくないだろう。祖元もまだ二十歳の時宗のことを「二十年乾坤(けんこん)を握定(あくてい)して喜慍(きうん)を表情に出さず、外敵を掃討しても驕(おご)る素振りを見せない」といって称賛している。

 日本の武士たちはそれまで外敵と戦ったことがないから恐れを抱く者もいたらしいが、時宗に会うと皆奮い立って戦場に出かけて行ったそうである。時宗自身は鎌倉にいて動かなかったわけだが、それでも武士たちを奮い立たせるだけの何かを以ていたのであろう。頼山陽(らいさんよう)は『日本楽府』の中で、時宗のことを「相模(さがみ)太郎(時宗)は肝(きも)、甕(かめ)の如し」と表現している。”

 先の巨大地震被害を受けた福島第一原発の初動対処において菅元首相は東京を離れ現場に赴いた。それ以前においても菅元首相には官僚たちの信頼がなく、昔大学で勉強したというだけであるにもかかわらず「俺は原子力発電に詳しい」とうぬぼれ、初動対処を誤った。もし時宗が首相だったら放射能汚染に苦しむ今の状況は起きなかったと思う。

昔の指導者は仏教の指導者に師事して教えを受けていた。例えば古代において聖徳太子も聖武天皇も仏の教えを政治に反映された。戦犯処刑された東条英機元首相もそうであったが日本国の指導者は仏教の精神を心に刻んで政治を行ってきたと思う。しかし戦後特に民主党政権になって以降、各指導者は世俗にまみれ、私利私欲のかたまりのように見える。民主党員は起訴されている小沢元代表の恫喝と彼の子飼いのシンパに怯えている。

『夢中問答集』(校注・現代語訳川瀬一馬、講談社学術文庫)に夢想国師と室町幕府初代将軍足利尊氏の同母弟直義との問答を記録が収められている。その中に(問)「あまりに善根に心を傾けたる故に、政道の害になりて、世も治まりやらぬよしを申す人あり。その謂(いは)れあいや。」(答)「聖教(しょうきょう)の中に、癡福(ちふく、‘つまらぬ福’の意)は三生(さんしょう)の怨(あだ)と申すことあり。・・(中略)・・次の生に欲界(よくかい、‘淫欲と食欲の強い衆生の住む所’の意)の人天に生(しょう)じて、富貴(ふっき)の果報を得る故に、世間の愛着(あいちゃく)もいよいよ深く、罪業の薫力(くんりき)も亦重し。たとひ罪業をばさしも作らぬ人なれども、政務に心を乱したり。・・(後略)」とある。

民主党の国家観なき政治家たちは「市民」を標榜し、公式マニフェストに「憲法提言中間報告」あり、その中に「国家主権の委譲や共有へ」という下りがあるという。どういう人物がこのマニフェストをオーソライズしたか想像はつく。民主党は売国の危険政党である。時宗は「あの世」でこの国の現状を嘆いていることだろう。  (続く)

2011年10月17日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(46) (20111017)

 “それでも最後の頃に、九州の豪族の少弐資能(しょうにすけよし)の息子の景資(かげすけ)が射た矢が敵将劉復亨(りゅうふくきょう)に当たり、彼が死んでしまう。当時の軍隊のこと、大将が死ぬと戦闘ができなくなって、元軍は日本軍の追撃をあきらめて船に引き揚げるのである。すると日本にとって幸いなことに、その夜、大嵐が来て元軍の多くの船が沈んでしまった。残った船も撤退を余儀なくされた。

 当時の人々がこれを「神風(かみかぜ)」と呼んだのは、まさに実感であったと思われる。

 その後、一度は退いたものの、フビライは南宋(なんそう)を征服し、弘安(こうあん)四年(一二八一)、今度は南宋の軍隊を使い、十数万人の大軍を博多湾に派遣してきた。これが「弘安の役」である。

 その間に幕府は防衛のため堅固な防壁をつくり、簡単に突入できないように備えていた。また、敵船に切り込むなど果敢な攻撃もあり、元軍を長期間海上に留めていた。やがて閏(うるう)七月、大暴風雨がやってきて、海上の元軍は全滅した。十数万の元軍のうち、帰国できたのは二割にも満たなかったという。再び神風が吹いたのである。

 強力な軍隊を有していた蒙古が侵略できなかった場所は三つあるといわれる。東ドイツの森と、ベトナムのジャングルと、それから日本海の沿岸である。”

 “蒙古来襲に対して、朝廷では諸社寺に国難打開の祈祷(きとう)を命じ、当時の亀山(かめやま)上皇自身も伊勢神宮に参拝して「国難に身を以て代わらん、わが命を召されてもいいから敵を滅ぼしたまえ」と奏上(そうじょう)した。それによって神風が吹いたと朝廷は思い込んだ。

 そのため、実際に蒙古と戦った武士をあまり重んじなかった。時宗の功績に対する朝廷の評価も極めて低く、従五位上(じゅごいじょう)から正五位下(しょうごいげ)に位が一級上がっただけだった。

 時宗の働きが認められたのは日露戦争の頃で、明治天皇は元寇の際の時宗の苦労を思いやられて、明治三十七年(一九〇四)、勅使(ちょくし)を鎌倉の円覚寺(えんかくじ)にある時宗の墓にお遣(つか)わしになり、従一位(じゅいちい)をご追贈(ついぞう)になられたのである。”

 私と妻は鎌倉に良く出かける。毎年晩秋の鎌倉も楽しんでいる。円覚寺にはJR横須賀線北鎌倉駅を降りて鎌倉まで散策する途中必ず立ち寄る。何年か前のことであったが、円覚寺の時宗廟にお参りしたいと思い、受付の女性にその旨言って中に入った。その時つい靴を脱いでお廟の堂内に上がってしまった。本当は下で手を合わせるべきであったが、無意識に靴を脱いで上に上がってしまったのである。平日だったせいで観光客も少なく、私と妻以外にお廟に参る人もなく、受付の女性も気さくな女性で私たちに何の注意も払わなかった。後で思うと不思議なことであった。その時の私は時宗が明治になって追贈されたことを知っていて、時宗や北条一族に対して特別な思いがあった。   (続く)

2011年10月16日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(45) (20111016)

 “文永五年(一二六八)、ジンギスカンの孫の世祖フビライ・ハンが高麗(こうらい)を通じて日本に国書を送ってきた。当時一七歳の執権北条時宗(ときむね)は、返書を送ろうとする朝廷の意向を拒絶し、朝鮮の使者を追い返してしまった。国書の内容が無礼だったからである。

 時宗が使者を追い返したことで、フビライ・ハンは日本攻撃の命令を出した。かくして文永十一年(一二七四)、「文永の役」がはじまる。

 文永の役のとき元(げん)(蒙古(もうこ))軍はおよそ四万、そのうち八千人は朝鮮の兵であった。元軍はまず対馬(つしま)を襲い、残虐の限りを尽くして全島を奪った。わずか八十騎で迎え撃った対馬守宗助国(そうすけくに)は無残にも玉砕(ぎょくさい)した。続いて上陸した。続いて上陸した壱岐(いき)でも、守護代平景隆(たいらのかげたか)が自決、その家族も皆殺しにされた。

 戦後日本の電力業界の鬼と言われた松永安左衛門(まつながやすざえもん)は壱岐の出身であり、常々「俺の血には蒙古が入っている」といっていたそうである。なぜかというと、壱岐の男はほとんど殺されて女は皆強姦されたから、というわけである。それほどまでの虐殺が行われたのである。

 元寇(げんこう)については戦後あまり語られなくなったが、われわれの子供の頃、蒙古は非常に恐れられていた。「捕まった人たちは手に穴をあけられて船べりに吊(つ)るされた」などという話も伝わっていた。・・(中略)・・モッコとは何かと聞くと祖母も知らなかったのだが、「いちばん恐いものはモッコなんだ」と繰り返し言うのである。おわかりかと思うが、モッコというのはモーコ(蒙古)のことなのである。元寇のときの蒙古の恐ろしさが、東北の山の中でもこのような形で語り継がれていたわけである。

 さて、対馬・壱岐を侵した元軍は十月二十日に博多湾から箱崎付近に上陸し、迎え撃つ鎮西(九州)のおよそ五千の日本軍と激烈な戦いがはじまった。

 元軍は大陸の戦闘に慣れているため集団戦法で攻めて来て、日本は苦戦する。また、このときはじめて大砲というものを知る。大砲といっても弾丸を撃つのではなく、火薬の塊(かたまり)に火をつけて投げる擲弾筒(てきだんとう)のようなものだったらしいが、経験のない攻撃に日本軍は押され、どんどん退いてしまう。”

 自民党の国会議員たちが鬱陵島に行こうとして訪韓したが入国を拒否された事件があった。その鬱陵島には日本語で書かれた大きな看板が観光客の目に止まるように掲げられていてそこには「対馬は韓国の領土」と書かれている。とんでもないことである。

 玄葉外相訪韓時韓国はまた慰安婦問題解決を強い口調で要求してきたという。韓国人は日本固有の文化・日本オリジナルの文化をなんでも真似し、少し内容を変え、それを韓国が最初に創ったと宣伝したり、日本固有の文化・日本オリジナルの文化をそっくり取り入れそれが韓国に起源があるような物語を創って宣伝したりする。何故韓国人はそうなのか、元寇のとき元軍4万の中の8千人の朝鮮兵は対馬で日本人皆殺しに加担したに違いないと約750年前の出来事に重ね合わせをあれこれ想像している。        (続く)

2011年10月15日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(44) (20111015)

“頼朝は朝廷に対しては恭順(きょうじゅん)な態度をとり、つとめて衝突(しょうとつ)を避けた。守護(しゅご)・地頭(じとう)を設置したのは、実質的な日本支配でありながら、古代の律令(りつりょう)そのままに公家を立てているのでる。そして、問題が起こるたびに頼朝自身が従来の不文律(ふぶんりつ)の慣習によって判断していった。

 この頼朝の実質主義、慣例主義をもとに成文化(せいぶんか)したのが第三代執権北条泰時(やすとき)の「御成敗式目(ごせいばいしきいもく)」(貞永(じょうえい)式目)」である。これは聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条憲法の項目数を三倍にしたという五十一条の簡単なものだが、当時の武士たちが納得できる道理を主としていたから、武士たちに対しては非常に効き目があった。その方針は、頼朝以来の慣習と、武家の目から見た「道理」を一つにしたものであった。

 泰時は、「京都には律令があるが、それは漢字のようなものである。それに対してこの式目は仮名(かな)のようなものである。したがって、これができたからといって律令が改まるわけでは全くない」と言明している。後には条項が追加されていくが、この式目は武家の根本として、多少の変更を加えながら明治維新まで続いた。

 ではなぜ武家の原理が道理なのかといえば、当時の幕府には立法権がなかったからである。宮廷には上皇、天皇がいて、太政大臣(だじょうだいじん)がいて、その下にも大臣がたくさんいる。その末端に征夷大将軍が位置しているわけである。将軍の指揮権というものはその下であるわけだから、立法権どころの話ではない。だから「道理」を原理として武家をまとめようとしたのである。

 しかし、この道理に基づく式目が明治維新までの武家法の大本になったのは、立法的な権利を振り回さなくても、その内容が皆納得できるものであったからである。

 それ以前の日本の立法は、大宝律令(たいほうりつりょう)をはじめとして唐の影響を受けていた。それから明治憲法は当時の西洋、特にドイツの影響が強かった。戦後の憲法はアメリカの命令によるものである。しかし御成敗式目は日本人が自らの手で作った憲法である。ここに御成敗式目の重要性がある。本当の法律というものは、このように「道理」で納得して、あまり理屈をいわずに皆に受け入れられるものであるべきである。これは特筆大書すべきものであって、御成敗式目は本物の「土着の法律」なのである。

 “武家文化の本質は、わかりやすくいえば、やくざ世界の発想と同じである。やくざの世界は自分たちのシマを守ることに一所懸命であり、親分、義理人情を大切にする。それから女は二次的な役目しかない。物と同じ扱いで、これはマフィアでも、女のことをthingと呼ぶことからも明らかである。また、武士は恥をかいたら切腹するが、これはやくざが指を詰めるのと同等である。要するに血を持って償(つぐな)うわけである”

 御成敗式目に書かれた「道理」は聖徳太子の十七条憲法の内容と「道理」という点で似通うところがある。御成敗式目には必要な「道理」が具体的に書かれている。 (続く)

2011年10月14日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(43) (20111014)

“ついでにいっておけば、四回目の国体変化は明治憲法の発布であり、五回目は敗戦による占領憲法の制定である。先にも述べたが、憲法は英語で「コンステューション」といい、これは元来「体質」という意味を持つ。したがって、憲法の制定は国の体質が変わったと考えてもいいだろう。ただ、日本では国体は変わっても断絶はしなかったという点が大変に重要なのである。

 “その意味で、鎌倉幕府は民主政権だったのである。北条氏は日本の歴史上初めて民政を意識して、民の暮らしをよくすべきだという発想を持っていた政権でもある。それが何によってもたらされたかと考えると、おそらく頼朝側近の大江広元を通じて北条氏に伝わった『貞観政要(じょうかんせいよう)』の存在があったものと想像される。

 『貞観政要』は、統治者がいかにあるべきかを教えた書物で、唐の第二代皇帝太宗(たいそう)が側近の魏徴(ぎちょう)たちと腹を割って闘わせた政治論をまとめたものである。これはトップのための教訓で、日本には平安時代に伝えられ、清和(せいわ)天皇のときに貞観(じょうかん)という年号(八五九~八七七)もできたほど宮廷では重んじられた。

 北条政子もその重要性を知り、自らは漢文が詠めなかったため、公家の菅原為長(すがわらのためなが)に仮名訳させて読んでいる。そして、上の者は威張ったり贅沢(ぜいたく)をしたりしてはいけない、民を重んじなくてはいけないと、『貞観政要』の教える要点を押さえた政治をしているのである。

 シナではそのご実行されることのなかった『貞観政要』の精神は、日本の武家政治に入り込み、明治初年んい日本に来た欧米人すべてを驚嘆させるほど高い民度の国をつくるのに貢献した。”

 日本は敗戦によって体質を変えさせられた。いわば一人の人間が強制収容所で洗脳され従来と異なる食べ物を与えられ薬漬けにされ、条件反射的に行動するように訓練され、人が変わったようになってしまったようなものである。

 いくら日本人が怖かったからとはいえアメリカはやりすぎだった。なにもアメリカ流の憲法や精神を日本に押し付ける必要はなかった。今その弊害が現れていて今度は利益確保を目的に行動するアメリカ自身が困る状況になりつつある。太平洋とそれに接する国々の地勢図が中国の台頭や朝鮮半島の情勢で変化しつつあるからである。

かつて日本が盟主であった太平洋地域おけるアメリカの国益と日本の国益とは合致すると私は思う。問題が起きたらその原点に立ち戻ればよい。その原点とは明治憲法下の日本精神である。皇国史観と教育勅語で代表される日本の本来の精神である。

そこに立ち戻るには日本一国だけでは困難である。アメリカと日本が共同で声明を発表し、現憲法制定時の国際情勢などを挙げて「当時としては現在の憲法制定はやむを得なかった」という趣旨で日米共同声明を発表することである。 (続く)

2011年10月13日木曜日



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日本国国会議員として決して許されざる行為である。
民主党前原誠司議員も慰安婦問題で基金を創設すると言っている。
日本国国会議員は、慰安婦問題についてその事実関係を徹底的に学習してもらいたい。
日本国国会議員たる者は、韓国に対して、間違った歴史観や先入観で物を言い、行動して貰っては困る。
日本国国会議員がもし特定の思想でもって韓国に対しものを言い行動するのであれば、良識ある日本国民は彼らを決して許さないであろう。
最近戦後の自虐史観や先入観念から抜け出した日本国民は増え続けている。霞が関住人は市井の無名の声を上げていない多くの日本国民の存在を軽視してはならない。


【msm産経ニュース記事の内容】
元慰安婦を支援する団体が12日、ソウルの在韓日本大使館前で開いたデモに社民党の服部良一衆院議員(比例近畿)が参加した。服部氏は「野蛮な行いをしながら公式な謝罪をしていないのは、日本の国会議員として恥ずかしい。帰国したら慰安婦問題を広める」と発言。「闘うぞ」とのシュプレヒコールを上げた。

 服部氏は産経新聞の取材に「以前から関心があったので参加した」と話した。

 この集会には2003年、民主党の岡崎トミ子元国家公安委員長が参加し、問題視された。

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(42) (20111013)

 琵琶(びわ)法師の語り物としての『平家物語』は作者不詳である。琵琶法師がいつ頃からこの物語を語り始めたのかも不明であるということである。私の手元に講談社学術文庫『全訳注 杉本圭三郎 平家物語』が(一)から(十一)まである。ときどき書棚から取り出して文語調の原文はざっと目を通すだけで現代語訳を読んでいる。琵琶法師が琵琶を弾きながら語ったとされるこの物語を読むと、これを書いた人はかなり歴史に詳しい人物で、しかもその人一人だけで書いたのではく複数の人がチームを組んでこの物語の登場人物に関する出来事やその登場人物の人となりに関する情報を集め、琵琶法師が語る原稿を書いたのではないかと、私は素人なりに想像する。

 平家とは権勢をほしいままにした伊勢平氏のことである。平氏には桓武平氏など四つの流れがある。桓武平氏の流れを汲む伊勢平氏が『平家物語』の主人公である。頼朝と義経の対立についてもこの物語の中で語られている。

 渡部昇一『日本史』の中で興味を引いた部分は頼朝の未亡人北条政子のことである。北条政子の実家北条氏も桓武平氏の流れをくむ土着豪族で在庁官人であったらしい。以下括弧(“”)で引用する。

“頼朝(よりとも)のあと継いだ二代頼家(よりいえ)、三代実朝(さねとも)の時代である。実質的に実権を握っていたのは頼朝の未亡人北条政子(まさこ)と、その背後にいる北条家であった。特に実朝の頃には実権は完全に北条家に移り、北条幕府と呼ぶべきものに変わっていた。源氏の血が絶えてからは、将軍職には公家から幼い子供を連れてきて据え、北条氏は「執権(しっけん)」として実質的な政治を行うようになった。

これが可能になったのは北条政子をはじめ、政子の弟義時(よしとき)、その息子の泰時(やすとき)と、北条家にすぐれた人物がいたからである。義時や泰時の立場から云えば、自分の姉、伯母(おば)と一緒になって北条幕府をつくったといってもよいだろう。”

“承久の乱は日本の国体の三度目の変化だと私は思う。この「日本の国体は変化すれども断絶せず」というのは、日本史および日本人の国民性を考えるうえでのキーポイントである。

一回目の国体変化は、第三十一代用明(ようめい)天皇の仏教改宗である。

二回目は源頼朝が鎌倉幕府を開いたことによって起こった。宮廷と関係なく天下を武力で征服し、守護・地頭を置いた。これは政治の原理の根本的変化である。

そして三回目の承久の乱では、先に触れたように三人の上皇を島流しにした。さらに順徳上皇の子で四歳だった仲恭(ちゅうきょう)天皇は在位わずか七十日で幕府によって廃された(当時は「半帝」とか、九条家出身なので「九条廃帝」などと呼ばれ、仲恭天皇と追号されたのは明治三年になってからである。

これ以降、皇位継承を幕府が管理することになった。宮廷の位でいえば、うんと低い武家の頭領が皇位継承を決めていくことになったのである。これはある意味で主権在民のようなもので、大きな国体の変化である。”    (続く)