2016年12月22日木曜日

29161222『仏説阿弥陀経』について(1)


 私の父は長男であったが、故あって実家から離れ、教師として日本・韓国(当時「朝鮮」)の各地を転々とした後、大東亜戦争(戦後アメリカにより「太平洋戦争」と呼称を変更させられた)終結とともに朝鮮から引き揚げ、その数年後教職に復帰して赴任先で居住していた土地に居を構え、そこに墓所(小さな寺の境内にある納骨堂の一角)も確保した。その納骨堂に父も入り、昨年他界した継母も入っている。

 戦後裸一貫だった父は非常に辛抱・苦労して100坪の土地を手に入れ、其処に家を建てた。父は世間並みに、全体で五部屋と台所・浴場・玄関・廊下がある家の中に八畳の仏間を作り、法事など来客が多い時は仏間に続く四畳半の部屋との間の襖を外すなどして広さを確保できるようにしていた。

父の名義のままになっていたその家と土地は売却することになったので、私はその家の仏壇からご本尊・阿弥陀仏絵図や父母の法名軸などを自分の家に持ち帰り、ガラス扉付きの書棚の一角を改造して作った仏壇の中にそれらを収め、毎日読経して供養している。以前はそのような供養は殆どできなかった。因みに『広辞苑』によれば、「供養」とは「三宝(仏・法・僧)または死者の霊に諸物を供え回向(えこう)すること」、「回向」とは「自分の修めた功徳を他にめぐらして、自他ともに仏果を成就しようと期する意」、「仏果」とは「仏教修業によって得られる結果」である。

 この仏壇は西を背に東に向いていて、このデスクトップ一体型のコンピュータの画面と向かい合った形になっている。読経時youtubeで公開されている『正信偈』『念仏和讃』『仏説阿弥陀経』をダウンロードしてそのコンピュータからその音声を流してそれに唱和し、youtubeで公開されていない部分、即ち和讃六首の後の「願以此功徳。平等施一切。同発菩提心。往生安楽国。」の4句は自分自身で唱えている。読経をするときは「肩畳衣」を右肩に掛けて左に垂らし、あたかも僧侶が着る法衣のつもりになって厳粛な気分になっている。

 ところで仏教は輪廻転生を肯定している。仏教の経典の数は数千にも及ぶ。その中で『阿弥陀経』にも輪廻転生のことが書かれている。その部分は「是諸衆鳥。昼夜六時。出和雅音。其音演暢。五根五力。七菩提分。八聖道分。如是等法。其土衆生。聞是音已。皆悉念仏。念法念僧。舎利弗。汝勿謂此鳥。実是罪報所生。所以者何。彼仏国土。無三悪趣。舎利弗。其仏国土。尚無三悪道之。」である。

 「衆鳥」というのはその前文にある白鵠(白い大型の水鳥)・孔雀(クジャク)・鸚鵡(オウム)などの鳥のことである。『仏教要語の基礎知識』(春秋社)には「五根五力」「七菩提分」「八聖道分」などについて解説されている。「已」は「やめる」という意味である。「舎利弗」は釈迦の十大弟子の一人・シャーリプトラのことである。「三悪趣」は「悪行を重ねた人が死後に趣(おもむ)くと言われる三つの下層世界(地獄・餓鬼・畜生道)」である。

『新訳仏教聖典』(大法輪閣)にはこの漢文の意味を「(これらの)鳥が常に雅やかな音を出して、あらゆる「徳」と「力」と「教」とを歌っている。人々はこの声を聞いて、皆御仏を念(おも)い、御法を念(おも)い、僧伽を念(おも)う。舎利弗(しゃりほつ)よ。しかしこれ等の鳥は、罪の報いから生まれたものではない。彼の御国には三悪道の名すらものない」と説明している。


 しかし、「仏説阿弥陀経」には「舎利弗。不可以少善根福徳因縁。得生彼国。」(シャーリプトラよ「人の世の小さな善や徳を以ってはかの御国に至ることはできない」)と書かれている。心の底から阿弥陀仏を信じ、真剣に供養を続け、一心不乱に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える者のみが、現世において浄土に生き、来世においても浄土に生まれるのである。

2016年12月15日木曜日

20161215プラズマ


 放送大学の面接授業で「プラズマ物理科学」と題する講義を受けた。その講義は放送大学神奈川学習センターで土曜日と日曜日の二日間連続で行われた。受講者はこの授業に関することについてレポートの提出を求められている。さて、何を書こうかと悩む。

 古来哲学者たちは「我々は何処から来たのか。そして何処へ行くのか」と問い続けている。プラズマは発光現象を伴う。そのような自然界の光ではないが、普遍宗教は「光」をすべての中心であるようにとらえている。私は自然界の光と普遍宗教の「光」との間に何か、関係を見出したいという欲求に駆られている。

 138億年前に我々の宇宙が誕生した時はプラズマ状態であった。我々の宇宙の99%はプラズマであると言われる。我々はこの宇宙の中の数々の星々の中の一つであるこの地球上にあって、常に宇宙線・宇宙線以外のすべての放射線・紫外線に晒され続けていて、生体上で何らかの影響を受け続けている。

放射線は我々の体の細胞内でDNAを構成する分子の一部をイオン化してDNAに損傷を与え、紫外線はDNAを構成する分子内の原子を励起することによってDNAに損傷を与える。この損傷によってDNAの複製時にエラーが発生する。

放射線や紫外線によりDNAが損傷を受けたとき、それを修復するプログラムはDNAに予め書き込まれている。エラーが生じているDNAによって新たな細胞が作られた場合、その細胞は自動的に破壊される。そのほか生物には生命を維持するため免疫力を供えているなど様々な機能が備わっている。これはこの地上のすべての生物に、それぞれ進化の過程で自ずと備わってきた自己保存機能である。

 ところで、2600年前仏教を開かれた仏陀の教えが集大成されている『仏説阿弥陀経』というお経には、阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)は「彼仏光明無量照十方国。無所障害。是故号為。阿弥陀。(その仏の光明には限りがなく、すべての国々を照らして何ものにもさまたげられることがない。それで阿弥陀と申しあげるのである)」と書かれている。

科学は宗教の対岸にある。宗教は科学的に証明されていないことでも信じることを要求する。阿弥陀仏の存在を信じる人は、その光明に歓喜する。

もし、我々の宇宙が一つの‘生命体’であると信じ、「宇宙は阿弥陀仏そのものである」と信じることができれば、我々人間は「帰命無量寿如来。南無不可思議光。(身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する)」ことによって救われることになる。

阿弥陀経には「もし人々が阿弥陀仏の国に生れたいとすでに願い、または今願い、あるいはこれから願うなら、みなこの上ないさとりに向かって退くことのない位に至り、その国にすでに生れているか、または今生れるか、あるいはこれから生れるのである。だから舎利弗よ、仏の教えを信じる善良なものたちは、ぜひともその国に生れたいと願うべきである」と書かれている。

 親鸞聖人は自ら肉食妻帯し、「遊煩悩林現神通(阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す)」と説かれ、人々に「仏の教えを信じる善良なもの」の姿を体現されたのである。私は、親鸞聖人はこの地球上のすべての人々を救うことが出来る最高の宗教を打ち立てられたお方であると思っている。


2016年12月4日日曜日

20161204帰命無量寿如来・南無不可思議光


表題は七言絶句の長詩のようなお経、親鸞聖人が作られた『正信偈』の最初の第一句と第二句である。私は、親鸞聖人は最初のこの二つの句をもって、先ず浄土真宗の教えの根本を述べられたものであると考えている。

 『帰命無量寿如来』とは、『「‘無量寿’即ち‘阿弥陀(Amitāyus) ’である‘如来(tathāgata) ’即ち‘仏(Buddha) ’」に「‘帰命(namas) ’即ち‘「身命を捧げて仏陀に帰依する’」』という意味である。「帰依」は「神仏など絶対的なものに服従し、これにすがること」である。

『南無不可思議光』とは、『「‘不可思議’即ち‘①思いはかることもできず言葉でも表現できない・②考えても奥底を知り得ない・③不思議’」な「光」に「‘南無(namas)’即ち‘帰命’と同じ意味であるがそのような気持ちで敬礼(きょうらい)する」』という意味である。「敬礼(きょうらい)」は「うやうやしく礼拝すること」である。(用語の意味の出典:『仏教要語の基礎知識(春秋社)』と『広辞苑(岩波書店)』)

 従い、表題の二つの句全体では「身命を捧げて阿弥陀如来におすがりし、不可思議な光を仰いでこれにうやうやしく礼拝する」という意味になる。西本願寺派ではこの部分を五七調で「ひかりといのちのきわみなき 阿弥陀(あみだ)ほとけを仰(あお)がなん」と和歌のようにしている。

 私は「不可思議な光」は、一切の疑念も抱かずに一心不乱に阿弥陀仏におすがりすれば、必ず感じ取ることができるものであると確信している。その光は形而上学的な概念の、自分だけしか感得できない、言葉では言い表せず、伝えることもできない、或いは言葉にして話せば誤解されてしまうようなものであると思っている。因みに「形而上学」とは「現象を超越し、またはその背後に在るものの真の本質、存在を純粋思惟により、或いは直感によって探求しようとする学問」である。これはマルクス主義を「科学的社会主義」と呼んでそれを活動の理論的根拠としている日本共産党が絶対受け容れられない学問であるに違いない。

 「不可思議光」は、合理主義・科学万能主義に毒されている現代人にはなかなか理解できないものである。しかし、そのような人でもせめて丸一日、早朝から深夜まで何処かのお寺のお堂にこもり、一心不乱に『般若心経』でも唱え続ければ何かをつかみ取ることができるかもしれない。「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ必ず得るものがあるに違いない。

 浄土真宗のお経『正信偈』には、「遊煩悩林現神通・入生死薗示応化」という句がある。その意味は大雑把に言えば、「阿弥陀仏に帰依した人は煩悩のまま神通を表す。その人にとって現世は即ち浄土である。そのような人は現世で苦悩している人を救う」である。

キリスト教では「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである(Anyone who looks lustfully at a woman has in his heart already committed adultery with her.)」と教え、煩悩を認めてない。またイスラム教では神が命じた戒律に従うことが強く求められている。一方、親鸞聖人が今から約810年前に確立された仏教の教えは、私は世界で最も優れた宗教であると確信している。その教えは今から2600年ほど前釈迦牟尼が確立された教えに完全に沿っているものであることは確かである。


奈良時代に聖武天皇は当時の総合大学である東大寺を建設された。そのお蔭で今日日本では仏教と言う精神文化が根付いている。親鸞会はその布教方法を巡って批判されているが、仏教の儀式の面よりも仏教そのものを大切にする運動は歓迎されるべきことである。仏教のお寺も僧侶も空気を食べて生き残ってゆくことはできない。そのため仏教教団各派の活動がある。私は既存のどの派にも所属せず「浄土真宗自分派」の「独り会」を続けようと思う。親鸞の教えは私の身近な者たちから次第に伝わってゆくことを期待して・・・。

2016年12月1日木曜日

20161201手製の仏壇


 亡父が遺した家と土地は母(継母)の他界後一年を経て売却された。その家は長年空き家になっていて、今後必要とされない状況であったので、その家・土地を相続する権利がある者が語り合って売却処分となったのである。

 その家にあった仏壇の中からご本尊(阿弥陀如来を描いた絵図)や厨子・香炉・花器・鐘などの仏具と亡父・亡継母の法名軸を持ち帰り、手製の仏壇の中に収めた。その仏壇は四つのガラス扉付きの高さ190㎝・幅165㎝の書棚の一角に、棚を取り外して高さ60㎝幅40㎝ほどの空間を作り、内側を金張りにしたものである。その中に単4乾電池が入っていてLEDのランプの頭を押さえるとスイッチが開閉される仕組みの灯篭を仏具屋で購入して収めた。厨子の裏側に終戦(昭和20年、西暦1945年)の翌年12月に享年33歳(満32歳)のとき他界した亡母と、その翌年生母の乳を吸うことなく享年2歳で他界した末弟の法名が書かれている紙も折り畳んで置いてある。

 その扉を開けると良い香りが漂ってくる。普通の仏壇では線香を焚くとその香りが辺りに漂うが線香の煙も漂う。灯篭のロウソクの煙も漂う。しかしこの手製の仏壇に中にはLEDの光が灯る小さな灯篭があり、線香を焚かなくてもその香りが漂うように、多量の良質の線香が入っている箱の蓋を開けたままにして置いてある。手前に布製台座付の鐘を置いてあり、私は畳肩衣という略式の法衣を肩に掛けて横に垂らし、灯篭を灯し、数珠を手にして「チーン」と鐘を鳴らして読経する。読経時には明かり・香り・鐘の音の三つが重要である。

読経の発声の抑揚などは経本(その仏壇の下に西本願寺派・東本願寺派・親鸞会の三つの経本を納めてある)に譜が書かれているとおりに行う。毎日『正信偈』など読経し、経本に書かれているとおりに「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える。親鸞会という浄土真宗の一派が作成した経本には親鸞聖人が作られた七言絶句の『正信偈』を読み下したものが書かれているので、それも『正信偈』を理解するために朗読している。

 ところで親鸞聖人の教えを説く教団として「真宗教団連合会」という組織があって、これには浄土真宗本願寺派・真宗大谷派・真宗高田派など10ほどの教団が加盟している。これとは別に上述の「浄土真宗親鸞会」という教団がある。この教団は親鸞聖人の教えを巡って、本願寺派・大谷派など対立している。この教団は布教方法を巡って批判されている。

 私は元来「一匹狼」で何処かの組織に入って活動することを好まない。しかし私は昨年継母の他界により、もともと亡父が門徒であり亡父のあとその継母が門徒であった寺の門徒になり、真宗大谷派から「准大講頭挌」という肩書を頂いている。このため私は遠隔地に住んでいてもその寺との縁が続いている。毎年本山と教区に指定の額のお金を納めている。

 毎日読経し、その読み下しや御文などを朗読しているうちに、親鸞聖人の御教えが次第に自分の心の中に溶け込んでくるように感じている。親鸞聖人は阿弥陀仏に一心に帰依する人は煩悩のまま浄土に生きることになる、と説いておられる。私は自分の哲学として、過去世・現世・来世にわたる意識のつながりが絶対あると考えている。つまり今を生きている人は誰かの「あの世」を「この世」として生きているのであり、「この世」を終えた人は、時を経て、殆どの場合親族の誰かとして生まれ変わるものである、と私は考えている。

 遠隔地にあるお寺の門徒であっても私は言うなれば「自分派」の浄土真宗「独り会」の者のようなものである。私は親鸞会の主張も良く吟味しながら自分なりに親鸞聖人の教えを忠実に学ぼうと思っている。手製の仏壇の下の棚には『原始仏典(中村元編・筑摩書房)』『新訳仏教経典(大法輪閣版)』『仏教の基礎知識(水野弘元著・春秋社)』『正法眼藏(岩波文庫)』『歎異抄(岩波文庫)』『歎異抄(真宗教団連合編)』『親鸞(笠原一男著・NHKブックス)』、さらにその下の棚にはスピノザの哲学関連の本や『脳科学は宗教を解明できるか(春秋社)』『意識は傍観者である(早川文庫)』などが収められている。

 書棚は西側を背にして置かれているので手製仏壇も背後は西方である。今私は椅子をくるりと回転させ、東側の窓に面して置かれている机上のコンピュータに向かってこれを書いている。自分の書斎にこのような仏壇があるということは大変恵まれていることである。このような恵まれた環境にありながら自分の天与の寿命を無知・無為のゆえに縮めるような愚かなことはしてはならない。精進・工夫・努力しつつ時を送るようにしているうちに、私もやがて「この世」を去ることになる。私が今在ることは正に有り難きことなのである。