2015年9月28日月曜日

20150928政府が積極的に説明しない日本の安全保障環境


政府は外交上の配慮からか、尖閣諸島における日中の軍事的緊張関係について、日本国民に対して具体的に積極的に説明していない。

航空自衛隊ではロシア空軍や中国空軍の偵察機・爆撃機に対する緊急迎撃発進(スクランブル)の回数が非常に増加して来ている。北朝鮮は核兵器搭載も辞さない姿勢で中距離弾道ミサイルの発射を行う姿勢を見せている。東アジアにおける緊張は近年非常に高まってきている。自衛隊と在日アメリカ軍はこのような状況に対処するため必要な措置を講じているようである。その一つが軍事的同盟関係にある多国籍軍の間の様々な共同訓練である。

今回成立した安全保障関連法は「日本が戦争に巻き込まれないようにするための法律」である。共産党や社会民主党がこれを「戦争法案」だとレッテルを貼って国民を扇動している。民主党や維新の党などもこれらの法律が「憲法違反」だとして、共産党との間で選挙協力をしようとしている。日本の存亡にかかわるような状況が起きようとしているのに、彼らは日本国民を守ることよりも党利党略にエネルギーを費やしている。

そもそも国家の存続・平和・安全のためとる行動は憲法にその定めがなくても自然法的に認められる国家固有の自衛の権利である。国民は誰から言われなくても自ずと「平和で繁栄していて安全な国家」の中で心の安らぎを得たいと願っている。それが「民の心(=民心)」である。ところがこれらの政党に所属している愚かな政治家たちは、自分たちを支持して議会に送ってくれたのは、その「民の心」によるものであると思いこんでいる。

彼らは「民意」と「民心」の区別をしていない。彼らを議会に送り込んだのは民が彼らに議会で彼らが掲げる政策を実現してもらいたいという「民の意識(=民意)」である。民は彼らに自分たちの平和と安全と繁栄が脅かされるようなことをして欲しいとは決して思っていない。そのことを彼らは認識していず、自分たちが民よりも偉い者であると己惚れている。これは無意識にそうなったのであろうが、実際、今回成立した法案の審議の過程で彼らはカメラに向かってそのような態度を示した場面があった。テレビで見ていて非常に不愉快であった。かれらに我々の税金で高い報酬を支払う必要は全くない!

中国は尖閣諸島を囲む防空識別圏を勝手に設定し、その圏内を飛行する民間航空機に対して、中国当局に事前に飛行計画を提出するよう要求した。

中国は太平洋上に第一列島線・第二列島線を引き、アメリカに太平洋の管理を中国・アメリカの二国間だけで共同で行おうと提案した。太平洋には日本の権益も勿論のこと、オーストラリア・ニュージーランド等大洋州諸国の権益も東南アジア諸国・台湾の権益も非常に大きい。

中東から日本に石油を運ぶシーレーンはインド大陸の西岸→スリランカ南岸→アンダマン海→マレーシア・スマトラ間のマラッカ海峡→南シナ海→台湾海峡を経由している。そのシーレーンを脅かすように中国は南シナ海の南沙諸島に軍事基地を建設しようとしている。海上自衛隊は日本のシーレーンを守るための能力を高めつつあるようである。

国家間の緊張はそれぞれ国家が自存を目指す行動によって生じる。日本に対して非礼かつ非友好的な国家が軍事力を高めれば日本はこれに対抗せざるを得ない。さもないと日本はそのような国家の思いのままになってしまい、日本国民の平和・繁栄・安全は保たれなくなってしまう。その結果日本国民の安心も得られなくなってしまう。

中国は沖縄諸島が古来中国領であったとしている。中国が用意している『琉球復國運動基本綱領』という文書、及び『琉球臨時憲法九条』には、一部の沖縄の人たちが求めている「琉球独立運動」と呼応するようなことが書かれている。その『琉球臨時憲法九条』の第四条には「琉球共和國由三個主要的州:奄米州, 沖繩州, 八重山州組成,各州包括了三個列島群在的琉球群島的所有島嶼.(琉球共和国は三つの主要な州、つまり奄美州、沖縄州、八重山州から構成され、各州は三個の列島群を内包する琉球群島所有の島嶼)」(2012年『月間WILL5月号より引用』と書かれている。かたくなに沖縄からアメリカ軍の基地の撤廃を求める翁長沖縄知事の本心はいったい何なのか?

中国は「抗日70周年記念」軍事パレードで“「空母キラー」と呼ばれる対艦弾道ミサイル「東風21D」、日本やグアムの米軍基地を射程に入れる中距離弾道ミサイル「東風26」、戦略爆撃機「轟6K」。”を展示した。「抗日」といっても日本と戦ったのは蒋介石の国民党軍であって毛沢東の共産党軍ではない。

以上及び以下に、読売新聞今年922日号「変わる安保2」から括弧(“”)で引用している。政府が外交的配慮からか日本国民に対して積極的に知らせなくても、また一部の報道機関が敢えて報道しようとしなくても、日本国民は自分の身に迫る危険を察知し、身を守るため団結するだろう。皮肉にも「戦争法案」「憲法違反」というレッテル貼りは日本国民にそういう行動をとらせるための非常に良い薬となっているのである。

“中国政府は。公船などを繰り返し尖閣周辺の領海に侵入させるとともに、尖閣の北方約100キロメートルの公海上に海軍の艦艇2隻を常時派遣、日本側に圧力をかけている。海自は同じ数の護衛艦で。「マンツーマン(11)デフェンス」に当たっている。

中国海軍は徐々に尖閣への接近姿勢を強めている。日本政府関係者によると、昨年後半から今年初めにかけては複数回、尖閣の沿岸から約70キロ・メートルにまで迫ったという。


親米マルコス政権打倒のナショナリズムに押され、比上院が米軍駐留の条約批准を否決したのは91年。アジア最大だったスーピック海軍基地とクラーク基地は、翌年まで返還され、米軍は全面撤退した。突然生まれた「力の空白」を突き、中国はフィリッピンの支配下にあったスプラトリー(南沙)諸島・ミスチーフ礁を95年に占拠。以降、大規模な岩礁埋め立てによって人工島を次々造成し、港湾や滑走路を整備していった。”

2015年9月23日水曜日

20150922政治家は「民意」と「民心」の違いを知るべし!


 先ず「意」と「心」の違いを知る。以下は『広辞苑』から引用し参考にしている。
「意」とは;①「心・心の動き・考え」
                       ②「物事の内容・わけ」
                       ③【仏教】広義では「思考活動一般」・狭義では「感覚的ではない、または抽象的な知覚能力」
       *「意」には「心」そのものの他「心の動き・考え」などが含まれる。
「心」とは;①「人間の精神作用のもとになるもの、またはその作用」であって、
  ア「知識・感情・意志の総体」
  イ「思慮・おもわく」
  ウ「気持・心持」
  エ「思いやり・なさけ」
  オ「情緒を解する感性」
  カ「望み・こころざし」
  キ「特別な考え・裏切り・晴れない心持・ふたごころ」
       ②【比喩的に用いて】
  ア「おもむき・風情」
  イ「事情」
  ウ「趣向・くふう」
  エ「意味」
  オ「わけ・なぞ解きの根拠」
  カ(歌論用語)「内容・歌の主題・題材・発想など」
       ③ア「心臓・胸・むなさき」
        イ「物の中心」
    である。  *「精神作用のもと」には意識されない「‘無意識・深層’の心」がある。

 沖縄県知事・翁長氏は「辺野古に新基地は造らせないとの公約実現に全力で取り組む」として政府と対立している。彼は「民意」を受けて沖縄県知事になった。しかし「民心」はどうであるのか?「民意」は民全体の「意」に非ず、過半数の「意」でしかない。
 
 民主党・日本維新の会(維新の党)・共産党などは今回成立した安全保障関連法案が「民意」に背くものであるとして政府と対立している。しかし「民心」はどうであるのか?

 私は、「民心」は「平和で繁栄していて強い国家の中で安心」を得ることであると思う。その「安心」を得る方法について、これらの党は「戦争法案」「憲法違反」などと主張し、盛んに宣伝活動を行って、国民の「不安」を煽っている。その活動の根拠を一部の有名な学者の発言に求めている。これはよく見受けられる商品の宣伝・広告の方法に非常によく似ている。

 彼らは;
    “万世一系の天皇を戴いている故に「安心」がある”という「民心」を忘れている。この「民心」と、労働組合など「人々の群れ」の「民意」(=個別の民意)とを分けて考えてはいない。“「民意」=「民心」”としている、或いは敢えてそうしようとしている。
  日本人種は縄文人と中国長江中流域からやって来た渡来系弥生人との混血人種(古墳時代人)をベースに、その後朝鮮半島などから渡来し帰化した人々や、特に戦後世界各地から日本に移住し日本人と混血した人々から成る雑種である。
  そのような多人種の民族の統合の象徴が天皇であり、天皇がましますゆえに日本は「単一民族国家」であり続けるのである。
  「雑種」であるがゆえに国内にいろいろな「民意」が存在し、「雑種」であるがゆえに人々が互いに競い合って科学・技術・ものづくり等に成果をあげている。
  「単一民族国家」であるがゆえに調和のとれた平和な社会が生まれ、人々はその社会で起きる問題を解決しながら国家として、また社会として進化を続けている。
  人々はそれぞれの群れの中で「互いに従順」である(文化人類学者・船曳建夫)。労働組合員・教職員組合員らはそれぞれの群れの中で「互いに従順」である。
    世界の地政学的構図はアメリカという現代の「西ローマ帝国」・ロシアという現代の「東ローマ帝国」、そして「漢族が中心の‘(共産党)王朝’国家シナ(中国)」・「‘日出る国の天子’を戴く日本」「東南アジア諸国」「中東イスラム諸国」「アフリカ諸国」などであり、その境界を巡って今もなお対立・紛争が続いている状況に目を向けていない。
    世界の秩序は全体的あるいは局所的における軍事力の均衡によって保たれている現実に目を向けていない。国家は「一つの‘野獣的生物’」である。これが現実である。
    日本はアメリカ・オーストラリア・ヨーロッパ諸国など「現代の‘西ローマ’帝国」の中で価値観を共有し、敵・味方対立の中で、陣営を共有する国々と軍事同盟関係をもつことによってしか、「日本国家として生き残れない」ということを認識しようとしない。
    「民心」は「平和で繁栄している強い国家」の中で「安心すること」であるということに気付いていない。

日本は、政権交代が行われるような国家であることが望ましい。野党の政治家たちは上記のことを自覚し、国家観を正して欲しい。国家観が欠如した政治家たちが結集しても所詮「烏合の衆」である。日本のためにはならない。

大衆の言動に「民意」を感じるのは良いが、「民心」を汲み取ることができない政治家は要らない。そういう「サラリーマン政治家」たちは国会から追放されるべきでる。

2015年9月11日金曜日

20150911集団的自衛権の行使について一言


 民主党を初め野党・一部の憲法学者らが集団的自衛権の行使について「たとえ限定的であっても憲法の範囲を超える」と主張している。共産党や社会民主党は安全保障関法案を「戦争法案」と呼んで国民の感情をその方向に引き付けようと躍起である。

 彼らがその法案に理解を示さない根本原因は何処にあるのだろうか?民主党の一部にはその法案の成立の必要性を理解している人たちもかなりいると思われる。しかし民主党は労働組合や日本教職員組合を出身母体にしている人たちが多い。党員たちの思想は国家のことよりも個々の国民のことに重きを置くという点では一致していているようであるが、国家のことについては一致点がないように見受けられる。

 国家のことについて「国家は一種の生物」であるという見方をしないと、左右の歩み寄りは出来ないだろう。ところが国家を「一種の生物」と見ることは、多くの日本国民にとってなかなか難しいことであるのかもしれない。なぜなら戦後の日本はアメリカの軍事力を頼みにして平和と繁栄を享受してきたからである。中国もロシアもアメリカの軍事力に敬意を示している。彼らはアメリカに刃を向けると手痛い傷を負うと思っている。戦後70年間平和と繁栄を享受してきた日本国民の中には、「性善説」に立って、日本が近隣諸国と懸命に善隣友好の外交に努めれば、日本は武力攻撃を受けるはずがないと信じ込んでいる人々が多いのかもしれない。

その人たちは「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約(通称「日米安全保障条約」)によって、もし日本が某国から武力攻撃を受けたらアメリカは日本を守るためその強大な軍事力をもって反撃を加えることになっているのであるから、今更、憲法の解釈を変更してまでして「限定的な集団的自衛権の行使」に踏み切る必要はない、と思っているに違いない。しかしそれは幻想である。言うなれば、それは日本が「アメリカ旦那に囲われている妾・日本」のような、甘ったれた態度である。アメリカが「ライオン」であるならば日本は「虎」となって、お互いの利益を確保するため相助け合いながら、共通の「敵」に対抗しなければならないのが現実の世界の状況である。

 しかし、生物が自ら生き残るためそれぞれの種ごとに進化を遂げてきたように、「一種の生物」である国家もそれぞれ進化を続けている。しかも、それぞれの国家は「一種の生物」として環境の変化に適応しながら生き残るため、その保有している力(=軍事力・外交力)を高め、それを柔軟に使用できるように努力している。中国が「抗日戦勝利70周年記念」と称し、軍事パレードを行い、大陸間弾道弾・中距離弾道弾等のミサイルを誇示したのは、アフリカのサバンナで猛獣同士が自分の力を相手に見せつけようとする行動に似ている。

 「国家の自己保存」はいかなる国家にも備わっている固有の権利である。そのことは憲法にわざわざ書いていなくても元々国家が保有しているものである。その固有の権利を状況の変化に適応できるようにするため、最も効果的に、最も合理的に、最も経済的に行使することは政府の義務である。良識ある日本国民は、今の憲法の前文に書かれている「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しよう決意」するだけでは、日本の平和と繁栄が持続し得ない状況になってきていることを知っている。

 これを知らない、あるいは知ろうとしない政治家や学者は国家のことよりも自分の利益や自分が所属するグループの利益を優先しているか、元々、反権力・反国家の思想の持主であるか、あるいはただ情緒的に平和と繁栄を願望しているだけかのいずれかであろう。とは言え、この日本は言論の自由がある国家である。かつて、民主党政権のとき、人権保護法案という美名のもと、個人の言論を封じ込めようとする動きがあった。新聞社など報道機関の言論は認めるが個人の発言に対しては、外国人でもなれる人権保護員会の委員が目を光らせ、摘発することができるようになっていた。あのような悪法が自由民主党と公明党の政権復帰によって実現されなくなったのは、良識ある日本国民にとって幸せであった。

安全保障関連法案は国会において徹底的に議論されていて、その状況が国民に公開されている。言論が自由な幸せな国・日本の安全を隙間なく守るための安全保障関連法案が成立すれば、武力によって日本の固有の領土をかすめ取ろうと試みは挫折することだろう。国家は「一種の生物」である。生物は生き残るため、人間が言う「暴力」を振るう。そのような不法な力の行使ができないようにすることは、国民の幸せにつながることである。

3要件を満たすことを絶対条件とする、限定的な集団的自衛権の行使ができるようにすることは、今、日本をとりまく状況に適応して日本が「一種の生物種」として生き残り、進化するため絶対必要なことである。「一種の生物」である国家が生き残るということは、その「生物」の細胞のようである国民が平和に幸せに暮らすことができるということである。


言論は自由であるとは言え自分の主張を通すため集団を作って為す暴力的な言動を、野党とはいえ政党の党首が容認するようであってはならない。横浜で行われることになった安全保障関連法案に関する公聴会では、国会議事堂前で行われた同法案反対集会で見られたような「言葉の暴力」がないように願いたい。

2015年9月2日水曜日

20150901安全保障関連法案に対する反対者たち(2)


 東京オリンピックのエンブレムについて大問題となった。その背景にはアート製作過程における「無意識的な何か」が作用しているのではなかろうか?アートを作るとき芸術家は心の中に何かイメージを持っているだろう。そのイメージの元は自分がかつて何かを見て強い印象を受けていて、普段は表に現れないが自分の無意識の中にあるものとか、或は自分自身が全く意識していなくても、自分がこの世に生まれる前から定められているかのように自分の心の中に在るものであるとか、何か普通の人にはないようなものであろうと思う。

芸術家はそのイメージの元を自分の心の中で一つの形に作り上げ、何かを表現しようとするのだと思う。そしてそのように表現されて一つの形として表現されたものが、「盗作」「パクリ」とされてしまうことは起こり得るだろう。ただ、著作権が非常に尊重される社会、そしてインターネット上でその作品がその作家自身のオリジナルなものであるかどうかについて全世界的な点検が行われるようになっている現代では、自分が折角創作した作品がそのような「盗作」「パクリ」という汚名を受けないように細心の注意と点検が必要である。

 国立競技場と同様にエンブレムも作り直すことになった。問題が起きたときは先ず原点に立ち戻ることが重要である。そのときその問題にかかわった人を悪者に仕立て、その人を社会から抹殺するようなことをしてはならない。それは決して正しいことではない。物事を判断するときはそれを四方八方から眺めて判断するべきである。そういう意味で安全保障関連法案について思うことがある。
 
 安全保障関連法案を推進したいと考える側も、これに反対し法案の成立を阻止したいと考える側も、それぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に動かされているに違いない。私は「国家は一つの生物種」であり、「生物は自己保存のため行動する」という考え方をし、東アジアの中で日本を含む諸国がそれぞれ自己保存のため行動している状況を自分なりに観察しているので、日本が生き残るためには安全保障関連法案の成立は是非必要であると思っている。

 産経ニュースに以下括弧(“”)で示す記事が出ている。安全保障関連法案の反対者たちもそれぞれ自分の心の中にある「無意識的な何か」に突き動かされて過激な言動をしていると思われる。ただ、石平氏が言っているように“言葉の暴力を容認するような「リベラル」はリベラリズムと言えるのか”という言葉には、大いに賛同するものである。

国会周辺で行われた安全保障法案反対集会に維新の党の党首は参加していなかったが、民主・共産・社民・生活の各党の党首が参加していた。各党首は石平氏の言葉をどのように受け止めているのだろうか?

 “東京・永田町の国会議事堂周辺などで行われた安全保障関連法案に反対する集会をめぐり、評論家の石平氏が「平和を語る資格」について産経新聞に寄稿した。石平氏は安倍晋三首相をののしる言葉の暴力に「日本のリベラルは死んだ」と嘆いた。寄稿の全文は次の通り。”

“8月30日、国会議事堂前での安保法案抗議集会で、山口二郎法政大教授は安倍晋三首相に対し「お前は人間じゃない」との暴言を吐いた。時代劇の決めぜりふからの借用らしいが、現代の人権感覚からすれば、それは明らかに、安倍晋三という一個人に対する言葉の暴力である。”

 “反安保法案運動が始まって以来、映画監督の宮崎駿氏は安倍首相のことを「愚劣」と罵倒し、日本学術会議前会長で専修大教授の広渡清吾氏は7月末に安倍首相のことについて「バカか嘘つきか」と二者択一の手法でののしった。そして学生団体「SEALDs(シールズ)」の中核メンバーの奥田愛基氏に至っては、8月の連合主催の国会前での安保集会で「バカか、お前は」と罵声を安倍首相に堂々と浴びせた。”

“こうした中で反安保法案運動はそのしかるべき趣旨から逸脱して理性と節度を失い、単なる安倍首相に対する「怨念の個人攻撃」へと変質した。このような「平和運動」はもはやその名に値しない。言葉の暴力を平気で振るうような人間たちに、「平和」を語る資格はどこにあるのか。”


 “さらに問題なのは、前述のような発言に対し、反安保法案運動の陣営から内部批判も自己反省もいっさい聞こえてこないことだ。日本の「保守」とは対極の「リベラル」を代表するような新聞などもそれをいっさい問題視していない。このような異様な事態はむしろ、日本のリベラル全体において基本的な人権感覚がまひしていることを示している。”