2015年6月27日土曜日

人は煩悩の身で生き、その生き様はその人の来世を決める。


宗教によって人智を超える存在に対する信仰は様々である。私は仏教徒でもなく、その宗教の信者でもないが、仏教は「人の生き方に関する学問」であると思っている。そこで仏教における人智を超える存在について、私自身の体験的確信を基に考えてみる。表題は私自身の体験的確信に基づくものであるが、「来世」について人それぞれ百人百様の考え方がある。

仏壇に向かって合掌し、「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と唱えながら、「あの世」の父母・弟妹・祖父母・叔父叔母のことを思い浮かべる。このとき、私は私の「この世」の余生において為すべきことを為す決意を新たにする。

私は「南無阿弥陀仏」とは、「人智を超えた宇宙・大自然の動きに逆らうことなく、宇宙・大自然のままに我が身を任せます」と宣言することであると思う。仏壇に明かりを灯し、供え物をし、香を焚き、鐘を鳴らして、その前で「南無阿弥陀仏」と唱えながら、既に「この世」にはいない父母・弟妹・祖父母・叔父叔母のことを思い、次に神棚に明かりを灯して供え物をし、神棚を見上げて遠い数多の見知らぬ先祖たちから今の自分に至る連綿とした血脈のことを思いながら大きく二度、両手の平を叩き合わせ、その後深く頭を下げる。

皆、それぞれの「この世」を煩悩の身で生き、喜怒哀楽・愛憎の日々を送り、無念或いは満足の思い、或いは死に際に自分が今死ぬ意義・目的・意味を再確認し、或いは何の思いも無しにそれぞれの「この世」を去って行くのである。私もやがてその時が来るまで、私の「この世」を同様に煩悩の身で生き、喜怒哀楽し、愛するがしかし誰も憎まず、無念はないが「自分がこの世で為すべきことは為した」と満足して「この世」を去ることだろう。是非そうありたい。

肝心なことは、人はその人生を煩悩の身で生きているということである。しかも、最も確信すべきことは、人はそれぞれの「この世」を過去に生きた誰かの「あの世」として生きているということである。つまり、人は誰かの生まれ替わりとして煩悩の身で人生を送っているということである。煩悩の身であるから、自らを道徳的な「高み」に引き揚げる努力をしないかぎり、幸せな人生を送ることはできない。但し、人に生まれ替わることができる人は善男善女であって、殺人者・誘拐者・盗人などの悪人ではないと言うことである。しかしたとえ極悪人であっても、その後修行し、善人になった者は生前の行いの程度に応じてそれにふさわしい人に生まれ替わるのである。ある人の前世の有り様は、その人の顔かたちとして顕われる。人でも犬でもそうであるが、根性の悪い人や犬の顔相は良くない。逆に根性が良い人の顔相はよいし根性が良い犬の顔相も良い。

上記の「高み」とは、それぞれの人に相応なものである。生まれながらにして手足が短く、五体不満足で他人の手助けなしには生きてゆくことが出来ない人でも、自分が持っている才能を発揮し、人々に感動を与えている人がいる。働き盛りのときに筋萎縮症という重病にかかり、或いは現代の医学では救うことが出来ない重病にかかり余命が少ない人でも、自分が持っている才能を発揮し、人々に感動を与えている人がいる。或いは突然事故に遇い、死んでしまった人でも、その死後その人の生前の善行が称えられ、無名だったその人のことが多くの人々の心に深く印象付けられ、後世に語り継がれる人もいる。国のため、また愛する家族・恋人のため、「靖国神社で会おう」と誓い合って戦場に散っていった兵士たちのことは、戦後70年を経た今でも日本国民の間に語り継がれ、言い継がれ、後の世においても永遠に伝えられてゆくことであろう。

カラフトの電話局で最後の言葉を伝えて死んで逝った電話交換手の女性たちや、沖縄のひめゆり部隊の女性たちも同様である。傍から見てどんなに惨めで可哀そうな人でも、その人の心の持ち方次第で道徳的な「高み」に昇り詰めることは可能である。そのようにして「高み」に上った人は、他の人々に感動を与える。「私は不幸だ、あの人が憎い」と思いながら言いながら日々を送っている人は、周囲の人々を不愉快にする。その人は自分の言動を正当化したくて周囲の人に愚痴をこぼす。そのような人は決してその「高み」に上ることはできないであろう。

地獄極楽は人々の「この世」にあり、また「あの世」にもある。「この世」で「高み」に上った人は「あの世」で更に「高み」に上ることができる可能性がある。しかし、「あの世」においても誰かの「この世」として煩悩の身で生きるのであるから、その人の前世において折角「高み」に上った人でも、現世において地獄の苦しみを味わう可能性がある。現世において悪行を為した人は現世においても何らかの苦しみを必ず受けている。

人を殺め、人を騙し、人に苦しみを与え、人を悲しませた人は、自分が死ぬまでの間に必ず何らかの苦しみを受け、死後も苦しみを受ける。極悪人はその罪の軽重によってその者の「あの世」が定まる。その者の「あの世」は畜生・虫けら・或いはそれ以下の下等な生き物の世界である。私の腕に止まり私の血を吸い、私に叩き殺される蚊もそういう極悪人の誰かの生まれ替わりであるかもしれない。

私は「この世」の実像は宇宙・大自然そのものであると考えている。人間には「意識」があるから、人間はその「意識」を、時間と空間を超越した世界まで働かせることができる。「意識」は時空を超越し、広大無辺に自由自在・融通無碍である。そのような「意識」により、私は宇宙・大自然の中の一存在であり、宇宙・大自然の動きの一部であるが、私自身の力では私がその宇宙・大自然の中の一存在であり、宇宙・大自然の動きの一部であるという状態を変えることも、変えようとすることもできない。その「意識」が霊魂であるとすれば、それは宇宙・大自然の霊魂の一部である。

日本の文化として仏教や神道が根付いているが、日本人が神仏に手を合せるという行為は何であろうか?それは、今自分が「この世」を生きているという自分の存在の意義を確認し、「この世」を生きる目的・役割を確認し、自分が誰かの「あの世」を「この世」として生きていることを確認し、「この世」を去った身内の者を思うことではないだろうか?私は人々がただ習慣的に仏前に合掌し、神前にお参りするだけでは全く意味がないと考えている。そのような人は自分の最期を迎えたときおろおろすることだろう。しかし、そのような人でも、その人が最期を迎えるとき「南無阿弥陀仏(ナムアミダブツ)」と唱えることができるならば、その人の心は落ち着き、表情が穏やかになるのではないだろうか?