2012年5月31日木曜日


聖武天皇(16)「主権とは? 民主党は日本国を分解させようとしている」(20120531)

 国家において「主権」はその国家にしかない権力・権利であるが、よく「地域主権」という言葉を耳にする。野田総理と小沢元代表が会談し終わって小沢氏は記者団の前で何度か「地域主権」という言葉を使った。この言葉は民主党政権が公約に掲げた「地域主権改革」に発するものである。

 国家が特定の地域の「主権」を認めれば、その国家はまとまりのない国家になるだろう。そもそも「主権」とは「①その国家自身の意思によるほか、他の意思に支配されない国家統治の権力。国家構成の要素で、最高・独立・絶対の権力。統治権」であり、「②国家の政治のあり方を最終的に決める権利」である(広辞苑より)。

 民主党は有志議員による「外国人選挙権議員連盟」を発足させ30日初会合を行った。この目的は永住外国人住民の法的地位向上を推進することである。この議連のメンバーには元外国人、或いは親が元外国人で日本国籍取得後国会議員になった人も多数いるであろう。「地域主権」を掲げる真意は何処にあるのか、日本国民はよく考える必要がある。

 古代、日本に非常に多くの韓人(百済人・新羅人・高麗人)・渤海人・シナ(漢)人らが日本に帰化していることが『日本書紀』『続本後紀』などの史書に記録されている。これらの人々は天皇から氏姓を与えられ、それぞれの故国における地位に応じて位階を授けられ、居住地を与えられ、また有能な人は中央官人として取り立てられて朝廷に貢献している。朝廷は帰化人たちの兵役・税を免除し、生活のため田を与え、日本語の教育を施している。

大東亜解放戦争後日本に残留し、また戦後新たに日本に渡って来た非常に多くの韓国・北朝鮮の人たちは日本で永住権を与えられ、二世・三世等その子孫たちは日本に帰化した人が多い。彼らの子孫も数世紀も経ないうちに皆日本人になるだろう。地方自治体で永住外国人に参政権を付与することは間違っている。本屋の店頭に平凡社から出されている『在日朝鮮人ってどんな人?』という本が並べられていた。書いた人は大学教授徐京植(ソキョンシク)氏である。立ち読みして感じたことは、差別があったという実例をあれこれ挙げて訴え、故に外国人参政権が与えられるべきであると主張しているものである。権利だけを主張し義務・責任を棚に上げ、ただ「良いところ取り」だけをしようとしているということである。民主党の政権公約と軌道を一にするものである。「地方主権」など決して許してはならないことである。

聖武天皇の御世、渤海が日本との友好関係を保っているなか、新羅が日本との関係を断ち切ろうとする動きがあった。背後にシナ(唐)の動きがあった。朝廷は最後には新羅からの使いを「無礼だ」として追い返させた。その後でも日本からは新羅に然るべき地位の職員を派遣して新羅の動静を探らせていた。渤海からは聖武天皇崩御以降も朝貢が継続していた。これこそ「主権」の行使である。『続日本紀』から“”で引用する。

“天平三年(731) 五月十一日 新羅使の金長孫ら四十人が入京した。”
“五月十九日 金長孫らが天皇に拝謁し、種々の・・(中略)・・をたてまつった。そして来朝の期年についてどうするかをお伺いした。”
 “五月二十一日 金長孫らを朝堂で饗応した。天皇は来朝の期年は三年に一回でよいと答えられた。”

 “天平七年(735) 二月一七日 新羅(しらぎ)使の金相貞らが入京した。”
 “二月二十七日 中納言・正三位の多治比真人県守(たじひのまひとあがたもり)を、兵部省の庁舎に遣わし、新羅使入朝の趣旨を尋ねさせた。しかし新羅国は国号を軽々しく改めて王城国と名乗った。これによって礼を失っするものとして、その使者を追い返した。”

 “天平九年(737夏四月一日 使者を伊勢神宮・大神(おおみわ)神社・筑紫の住吉・八幡の二社および香椎宮(かしいのみや)(仲哀天皇を祀る。福岡市東区香椎)に幣帛(みてぐら)を奉り、新羅国の無礼のことを報告した。”

 “天平十年(738)六月二十四日 大宰府(だざいふ)に使者を遣わして、新羅使金想純らを饗応し、そのまま帰還させた。”

2012年5月30日水曜日


聖武天皇(15)「日本最古の音楽舞踊大学」(20120530)

   日本最古の「音楽舞踊大学」である雅楽寮(うたまいのつかさ)が設立されたのは、第四二代文武天皇の御世の大宝元年(701)のことである。シナ(中国)から奪われていた旧高麗の領土を回復し、日本との交流の再開を求めてやってきた渤海からの使いの船が漂着した蝦夷の地で災難に遭いながら生き残った8人が聖武天皇に拝謁したとき、天皇は彼らに位を授け、位階に応じた服装を与え、宴会に招き、雅楽寮の音楽でもてなした。(『聖武天皇(11)「シナ人(漢族)による侵略から高句麗の領土を回復した渤海との交流」(20120526)』参照。)

 その雅楽寮は、『続日本紀』(宇治谷 孟 全現代語訳、講談社学術文庫)によれば、大宝元年(701)七月二十七日、太政官が職(しき)(省の下の役所)の下の役所の一つとして雅楽寮が太政官の判任として置かれ、以後当時の政府の機関として運営されていた。以下天平三年(731) の条から“”で引用する。
“七月二十九日 雅楽(うた)寮に属する各種の楽生(がくしょう)の定員を定めた。大唐楽には三十九人、百済(くだら)楽には二十六人、高麗(こま)楽には八人、新羅(しらぎ)楽には四人、度羅(とら)楽(済州島の楽)には六十二人、諸県(もろがた)舞(日向国諸県郡の歌舞)には八人、筑紫(ちくし)舞は二十人である。大唐楽の楽生は、日本人と外国人を問わず、教習に堪える者を取り、百済・高麗・新羅などの楽生は、それぞれの国の人で、学ぶ能力のある者を取る。ただし度羅楽・諸県・筑紫舞はそれぞれ楽戸(雅楽寮に属する品部)から取る。”とある。

  放送大学印刷教材‘88『音楽史と音楽論』(柴田南雄教授)に「令義解」という史料のコピーが紹介されている。史料には「頭一人云々」とある。「頭」は「かみ」と呼び、雅楽寮の長官(うたまいのつかさのかみ)のことである。以下印刷教材から“”で引用する。

 “それは中国の唐の「教坊」の制度に拠ったものだが、長官以下の管理職6名、教授37名、奏楽のための笛工(ふえふき)8名、雇人22名以上、生徒定員数356名という大規模なものであった。和楽・唐楽・三韓楽・伎楽の4科に分かれていたが、このうちの和楽とは、神楽(かぐら)、風俗歌など、この時代までに定着して日本ふうになり切っていた音楽であろう。”

  ここで「伎楽」とは、“612(推古帝20)年に百済の楽人味摩之(みまし)が、中国南方(江南地方か)の呉(くれ)の伎楽(仏教の仮面付パントマイムとその音楽)を学んで来日、桜井に住んで少年たちを教えた。これが外人教師による個人レッスン、早教育の事始めである。”(同印刷教材から引用。なお、岩波文庫『日本書紀』推古天皇二十年の条にこの事実の記事がある。)

 “雅楽寮は制度などの変遷を経ながらも、約250年間継続する。(中略)この雅楽寮を1879(明治12)年に設置された音楽取調掛―-のちの東京音楽学校、東京芸術大学音楽学部―-と比較することはたいへん興味深い。・・(中略)・・往時は唐楽・三韓(朝鮮3国)楽と国別であり、それぞれの国の音楽家が招かれて師となったが・・(中略)・・今日それら作曲科、器楽科、声楽科等々の分科の中で講座を担当する教官が、ドイツに留学した人であるとか、イタリア、あるいはフランスで修業した人であるかによって、現実には《ドイツ楽》《イタリア楽》《フランス楽》を講じ、学生に修得せしめている。”

 “731(天平3)年には渡羅(とら)楽(今日のタイ南部の音楽。異説もある。)が最大の学科となり、736(天平8)に伝来した林邑(りんゆう)楽(林邑はベトナムだが、僧仏哲が持ち帰ったインドの音楽)が、809(大同4)年には雅楽寮の教科目に加わった。”

 これより前の749年には、東大寺で渤海(ぼっかい)楽(旧満州すなわち中国東北から沿海州にかけてのツングース族の国の音楽)が唐楽、伎楽とともに上演されるなど、8世紀を通じて東洋のあらゆる国の音楽が首都を中心に行われていた。”

 “雅楽寮の生徒定員356名というのは、当時の人口推定550万ないし600万に比して、かなり多い。もし、単純に今日の日本の総人口との比率から考えるなら、生徒数7000名ほどのマンモス大学に相当する。”

2012年5月29日火曜日


聖武天皇(14)「日本最古の総合大学」(20120529)

 ユネスコより世界遺産に登録されている東大寺の建設は、聖武天皇(在位:神亀元年二月四日(72433日)~ 天平勝宝元年七月二日(749819日))が財政悪化・社会混乱という国難の最中、全国各地の国分寺・尼寺とともに国家の大事業として推進されたものである。

 “東大寺は現代でいえば、国立の総合大学のようなもので、広いキャンパスを擁し、今は存在しておりませんが、大仏殿の後方には巨大な講堂が聳え、それをコの字型に囲むようにして、寄宿舎と大学の校舎を兼ねた僧坊が建てられ、そこには一〇〇〇名の見習僧たちが住みました。彼らは一六歳前後で全国から推薦されて集まり、六つの学派に分かれて、教授に当たるそれぞれの師僧について勉学しました。

 見習僧たちはまず五明(五つの学問)といって、五つの科目を学びました。それは声明(しょうみょう)(言語・文法)・因明(いんみょう)(仏教論理学)・内明(ないみょう)(仏教教義)・工巧明(くぎょうみょう)(建築・土木)・医方明(いほうみょう)(医術・薬草)からなっており、これらの五つの学問の修得はインド仏教以来の伝統でありました。当時の僧侶には、仏教そのものよりも工学系や医学系の技術で名を成した者が多いのです。なかには優秀な技術が買われ、政府の命令で還俗する者もおりました。

 見習僧たちは所定の学業を修めるとまた地方に帰り、その地の文化の向上や経済の発展に貢献しました。奈良時代で最も有名な僧侶は行基でありますが、彼は巨大な灌漑用の溜池を築いたり、灌漑水路を掘ったり、川に橋を懸けたりしながら、各地に寺院を建て、そうした工事の拠点にしました。行基は東大寺の建立にも貢献しています。

 また聖武天皇の侍医として最後まで側に仕えたのも僧侶でありました。法栄という僧侶で、彼は僧侶でありながら九州で医者としての名声を上げ、天皇に抜擢された人物です。

 ところで、仏教にもさまざまな見解があり、奈良時代には中国から伝わった六つの学派がありましたが、見習僧たちはいずれの学派の教義も学ぶのが習わしで、これを六宗兼学、その後の平安時代では八宗兼学と言いますが、この兼学の習慣はやがて「一宗一派に偏らない」という考え方を生み、東大寺の伝統となりました。”(以上、森本公誠著『世界に開け華厳の花』春秋社より引用。)

 天平十五年(743年)十月十五日、聖武天皇は次のように詔された
 「ここに天平十五年、天を十二年で一周する木星が癸未(みずのとひつじ)に宿る十月十五日を以て、菩薩の大願を発して、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の金銅象(こんどうぞう)一体をお造りすることとする。国中の銅を尽くして像を鋳造し、大きな山を削って仏堂を構築し、広く仏法を全宇宙にひろめ、これを朕の知識(ちしき)(仏に協力する者)としよう。そして最後には朕も衆生(しゅうじょう)も皆同じように仏の功徳を蒙り、共に仏道の悟りを開く境地に至ろう。・・(中略)・・もし更に一枝の草や一握りの土のような僅かなものでも捧げて、この造仏の仕事に協力したいと願う者があれば、欲するままにこれを許そう。国・郡などの役人はこの造仏のために、人民のくらしを侵しみだしたり、無理に物資を取り立てたりすることがあってはならならぬ。国内の遠近にかかわらず、あまねくこの詔を布告して、朕の意向をしらしめよ。」(『続日本紀(中)』(講談社学術文庫・宇治谷孟全現代語訳より引用)

 国分寺建設の詔は天平十三年(741)三月二十四日発せられた。「(前略)そこで全国に命じて、各々に七重塔一基を造営し、あわせて今光明最勝王経と妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)をそれぞれ一揃い書経させよう。朕はまた別に、金泥で今光明最勝王経を手本に習って写し、七重塔ごとにそれぞれ一部を置かせる。・・(中略)・・国司らは各々に国分寺を厳かに飾るように努め、あわせて清浄を保つようにせよ。・・(中略)・・遠近に布告を出して、朕の意向を人民に知らせよ(後略)。」(『同(上)』(同上)

 東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。(ウイキペディア)

 聖武太上天皇は天平勝宝八年(756年)五月二日崩御された。大仏(盧舎那仏)の鋳造が終了し大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝四年(752年)夏四月九日のことである。開眼供養は天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として行われた。

2012年5月28日月曜日


聖武天皇(13)「長屋王の変(2)」(20120528)

 当時国家転覆の企みは重罪であった。長屋王は当時の政界を取り仕切り、天皇の名において信賞必罰等を厳しく行っていたため怨みを買っていたかもしれない。「長屋王が妖術を学んでいる」と密告した無位の中臣処連東人はその後官人に取り立てられて外従五位下右兵庫頭(うひょうごのかみ)まで昇進していたが、事実を偽って長屋王を告発したということがわかってきたらしい。左兵庫少属従八位下の大伴宿禰子虫と東人は左兵庫と右兵庫という所属は違っていたが、ある意味で同僚で、囲碁仲間でもあった。東人は子虫と囲碁をしている場で子虫に切り殺された。それは囲碁をしながらの話が長屋王のことに及んだ時のことであった。『続日本紀』には「子虫ははじめ長屋王に仕えて頗る厚遇を受けていた。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である」と書かれている。

なお長屋王の弟の鈴鹿王はその後天平九年八月二十八日に「知太政官事」に任じられている。天皇に代わって政務を代行することができる地位である。今いえば内閣総理大臣のようなものである。冤罪で自殺・一家心中に追い込まれた長屋王と同じ立場になったということである。

ものの本などには、「長屋王の変」を藤原家の陰謀だとか皇室内の争いだとか推定で勝手なことが書かれているがいずれも人心を惑わすものである。それだけではなく、左翼的な人や日本を貶めたい一部のシナ(中国)人や韓国人らに気付かぬうちに利用されている。特に東大の歴史学者らは学術的に掘り下げたことを書いているが、余計な私見を文中に忍び込ませているようである。そういう学術的図書を参考にしながら、『続日本紀』に書かれていることをそのまま素直に読み取ることが必要である。

“天平元年(729)二月十二日 長屋王を自殺させた。その妻で二品(ほん)の吉備(きび)内親王、息子で従四位下の膳夫(かしわで)王・無位の桑田(くわた)王・葛木(かずらぎ)王・鉤取王らも長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。そこで邸内に残る人々を皆捕えて、左右の衛士府などに監禁した。”

 “二月十三日 使いを遣わして長屋王と吉備内親王の遺骸を生馬(いこま)山(生駒山)に葬った。そこで天皇は次のように勅した。
 「吉備内親王には罪がないから、例に準じて送葬せよ。ただ笛や太鼓による葬楽はやめよ。その家令(三位以上に賜る家政処理の職員)や帳内(親王に賜る舎人)らはともに放免する。長屋王は犯した罪により誅せられたのであるから、罪人であるとはいえ皇族なので、その葬り方を醜いものにしてはならない。
 長屋王は天武(てんむ)天皇の孫で、高市(たけち)親王の子であり、吉備(きび)内親王は日並知皇子尊(ひなめしのみこのみこと)(天武天皇皇太子草壁(くさかべ)皇子の、娘)である。」”

 “二月十五日 次のように詔した。
 「左大臣・正二位の長屋王は、残忍邪悪な人であったが、ついに道を誤って悪事があらわれ、よこしまの果てに、にわかに法網にかかった。そこで悪事の仲間を除去し、絶滅させよう。国司は人が集まって何事かをたくらむのを見逃してはならぬ。”

 “二月十七日 外従五位下の上毛野(かみつけの)朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)ら七人は、長屋王と意を通じていたことがとがめられ、いずれも流罪に処せられた。その他の九十人はすべて放免された。”

 “二月十八日 左大弁・正四位上の石川朝臣石足らを、長屋王の弟で従四位上の鈴鹿王の邸に遣わして、次のような勅をのべさせた。
 「長屋王の兄弟姉妹と子孫、およびそれらの妾のうち連座して罰せられるべき者たちは、男女を問わずすべて放免する。”

 “二月二十六日 長屋王の弟・姉妹と子供たちのうち、生存する者には、禄を給することが認められた。”

 “四月三日 次のように、詔した。
 「内外の文官・武官と全国の人民のうち、異端のことを学び、幻術を身につけ、種々のまじない・呪いによって、物の命を損ない傷つけるものがあれば、主犯は斬刑に、従犯は流刑に処する。(以下略)」”
 “(四月三日の条の中の一部、他略)舎人親王が朝堂に参入する時、諸司の官人は親王のため座席をおりて、敬意を表するに及ばない(理由不明)。”

 “天平十年(738)七月十日 左兵庫少属(しょうさかん)・従八位下の大伴宿禰子虫(こむし)が右兵庫(うひょうごの)頭(かみ)・外従五位下の中臣処連東人(みやこのむらじあずまひと)を刀を以って切り殺した。子虫ははじめ長屋王(ながやおう)に仕えて頗る厚遇を受けていた。たまたまこの時、東人と隣り合わせの寮の役に任ぜられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王のことに及んだ時、子虫はひどく腹を立てて東人を罵(ののし)り、遂に刀を抜いてこれを斬り殺してしまった。東人は長屋王のことを、事実を偽って告発した人物である(天平元年二月十日の項)”
 

2012年5月27日日曜日



聖武天皇(12)「長屋王の変(1)」(20120527)

 長屋王は藤原不比等(ふじわらのふひと)薨去後、皇親の代表として当時の政界の中心的存在となり上は天皇しかいないという地位にあった。今で言えば内閣総理大臣のようなものである。この立場は非常に重要である。いささかも天皇のお立場を汚すものであってはならない。

その長屋王は自分より16歳(別史料によれば24歳)年下の聖武天皇に対し、聖武天皇のご生母の呼称について「大夫人(おおきさき)」と呼ぶのは公式令(くしきりょう)に基づけばおかしいので、「皇太夫人」とすべきであるが、いかがいたしましょうか、とお伺いを立てた。聖武天皇は24歳でご即位の一か月後、自ら発表したご生母の呼称「大夫人」を、さらにその1か月後に「文書に記す場合は皇太夫人とし、口頭では大御祖(おおみおや)とし、先勅での大夫人の号を撤回して、後の号(皇太夫人と大御祖)を天下に通用させよ」と以前の勅を変更する詔をされた。聖武天皇のご生母は藤原不比等の娘・宮子であった。これは内閣総理大臣のような立場にあった長屋王の最初の失敗である。

長屋王は、自害する二日前、元興寺で行われた法会(ほうえ)で、僧侶の食事の配備所にやってきて、施しを受けている沙弥(しゃみ)(在家の仏教信仰者)をみて叱責して手にしていた笏で打った。その沙弥は頭から血を流し恨めしそうに涙を流して、たちまちにしていなくなったという(渡辺晃宏『平城京と木簡の世紀』より引用)。これも自分の立場をわきまえない長屋王の失敗である。そのとき長屋王は46歳(別史料に基づけば54歳)であった。

 当時の状況を今の日本の状況に照らし合わせてみると、「日本は日本人だけのものではない」というようなことを言った鳩山元首相や、天皇がご臨席された行事に「(大震災後の)公務多忙だから」と出席しなかった菅元首相は天皇に対する自分の立場をよく弁えていたであろうか? 小沢氏にいたってはシナ(中国)に140名もの国会議員を連れてゆき、一人一人を胡錦濤国家主席に‘拝謁’(握手)させ、自らは差し回しの大型高級車でさながらあたかも‘国家元首’のように振る舞った。次期国家主席予定者習近平氏を、宮内庁を恫喝して強引に天皇陛下に引き合わせた。そのシナ(中国)では、習氏が天皇に挨拶のため頭を下げている写真は報道されなかったという。そのうえ、韓国のソウルの大学で「天皇の先祖は騎馬民族で韓国人と同じである」というようなことを言った。これも天皇をないがしろにした非常に不敬な行為である。

 『続日本紀』にある長屋王の変関連の記事を“”で引用する。
 天平元年(729) 二月十日 左京の住人である従七位下の塗部造(ぬりべのみやっこ)君足(きみたり)と、無位の中臣宮処連(なかとみのみやこのむらじ)東人(あずまひと)らが「左大臣・正二位の長屋(ながや)王は秘(ひそ)かに作道(さどう)(邪道。ここでは妖術)を学び国家(天皇)を倒そうとしています」と密告した。天皇はその夜、使いを遣わして三関(鈴鹿(すずか)・不破(ふわ)・愛発(あらち))を固く守らせた。またこのため式部卿・従三位の藤原朝臣(ふじわらのあそん)宇合(うまかい)・衛門佐(えもんのすけ)の従五位下の佐味(さみ)朝臣虫麻呂(むしまろ)・左衛士佐(さえじのすけ)の外従五位下の津嶋(つしま)朝臣家道(いえみち)・右衛士佐の外従五位下の紀(き)朝臣佐比物(さいもつ)らを遣わして、六衛府の兵士を引率して長屋王の邸を包囲させた。

 二月十一日 太宰大弐(だざいだいに)・正四位上の多治比真人(たじひのまひと)県守(あがたもり)、左大弁・正四位上の石川(いしかわの)朝臣石足(いわたり)、弾正尹(だんじょうのかみ)・従四位下の大伴宿禰道足(おおとものすくねのいわたり)の三人を権(かりに)参議に任じた。巳(み)の時(午前十時前後)に一品(ぽん)の舎人(とねり)親王と新田部(にいたべ)親王、大納言従二位の多治比真人池守(いけもり)、中納言正三位の藤原武智麻呂(むちまろ)、右中弁・正五位下の小野(おの)朝臣牛養(うしかい)、少納言。外従五位下の巨勢(こぜ)朝臣宿奈麻呂(すくなまろ)らを長屋王の邸に遣わし、その罪を追求し尋問させた。
 
 長屋王は天武天皇の第一皇子・高市皇子と天智天皇の皇女の子である。舎人親王と新田部親王もともに天武天皇の皇子(おうじ)である。聖武天皇は天武天皇の孫・文武天皇の第一皇子である。ウイキペディアには「長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている」と書かれているが、推論の域を出ていない。それをあたかも真実の如く書いているのは、歴史研究家としては決して正しい態度であるとは言えない。このウイキペディアの記事を書いた人は藤原氏に対するある種の偏見をもっていると言わざるを得ないだろう。

2012年5月26日土曜日


聖武天皇(11)「シナ人(漢族)による侵略から高句麗の領土を回復した渤海との交流」(20120526)

 高句麗は朝鮮半島中北部から満洲一帯にあった国であり、その国民は農耕と狩猟・牧畜を行っていた。668年、高句麗はシナ(唐)・新羅連合軍によって滅ぼされ、北部の高句麗遺民はシナ(唐)によってシナ営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた。高句麗の末裔による数度にわたる再興は全て失敗したが、一部の遺民は、粟末靺鞨の建国した渤海国に参加している。旧領に残った者は、後に勃興した女真の金に取り込まれていき、歴史から姿を消した(以上、ウキペディアより引用)。
 
 高句麗の遺民が参加した渤海は、旧高句麗の多くの領土を回復した。その渤海から727年秋、日本に友好親善を求める使者がやってきた。その渤海人とはどういう人たちであったのだろうか。韓国・北朝鮮では高句麗を朝鮮の歴史の一部であるとしているが、言語的観点から現代の韓国・北朝鮮の祖とされる新羅と、高句麗・渤海とでは、民族的・言語的に隔たりがあるという(ウイキペディアより引用)。
 
 一部の(或いは多くの)韓国人の反日感情の遠因は、日韓併合以前の深層心理的なものにあるのかもしれない。北朝鮮には高句麗・渤海人の血が多く残っているのではなかろうか。美人は韓国人よりも北朝鮮人の方が多い。高句麗人と新羅人はミトコンドリア遺伝子やY染色体遺伝子においても何か特徴的な違いがあるのかもしれない。勿論長い年月の間に混血してしまって遺伝子的には多様化しているであろうが・・。

“神亀四年(727)九月二十一日 渤海郡(ぼっかいぐん)王(渤海は七~十世紀頃、中国東北部から朝鮮北部まで領有した国)の使者、首領・高斉徳(こうさいとく)ら八人が出羽(でわ)国に来着した。使いを遣わして慰問し、また時節にあった服装を支給された。(蝦夷に襲われるという難にあっていた。)
 “十二月二十日 渤海王の使者の高斉徳ら八人が入京した。”
 “十二月二十九日 使者を遣わして、高斉徳らに衣服と冠・はき物を賜った(衣服の下賜は臣従させたことか)。渤海郡は、もと高麗(こま)国である。淡海朝廷(おうみのみかど)(天智朝)の七年十月、唐(とう)の将軍李勣(りせき)が高麗を伐ち滅ぼした。その後、この国の朝貢は久しく途絶えていた。ここに至って渤海郡王は、寧遠将軍の高仁義ら二十四人をわが朝へ派遣したが、蝦夷の地に漂着したために、仁義以下十六人が殺害され、首領の高斉徳ら八人が、僅かに死を免れて来朝したのである。”

 “神亀五年(728)正月十七日 天皇が中宮に出御し、高斉徳らが渤海王の書状と土地の産物を奉った。書状の文には次のようにあった。
 「武芸(渤海第二代の王)が申し上げます。両国は山河を異にし、国土は遠く離れています。遥かに日本の政教の風聞を得て、ただ敬仰の念を増すばかりであります。恐れながら思うのに、日本の天朝は天帝の命を受け、日本国の基を開き、代々栄光を重ね、祖先より百代にも及んでいます。武芸は忝(かたじけ)なくも、不相応に諸民族を支配して、高句麗(こうくり)の旧地を回復し、扶余の古い風俗を保っています。ただし日本とは遥かに遠くへだたり、海や河がひろびろとひろがっているため、音信は通ぜず慶弔を問うこともありませんでした。しかし今後は相互に親しみ助け合って、友好的な歴史に叶うように使者を遣わし、隣国としての交わりを今日から始めたいと思います。そこで謹んで寧遠将軍郎将の高仁義・遊将軍果毅都尉(かきとい)の徳周・別将の舎航ら二十四人を派遣して書状を進め、合わせて貂(てん)の皮三百枚を持たせてお送り申し上げます。土地の産物はつまらぬものですが、献上して私の誠意を表します。皮革は珍しいものではなく、却って失笑を買って責められることを恥じます。書面の言上では充分真意が伝えられると思えませんが、機会あるごとに音信を継続して、永く隣国の好(よしみ)を厚くしたいと望みます。」

 そこで天皇は高斉徳ら八人に正六位上を授け、位階に応じた服装を賜った。五位以上の官人と高斉徳らを宴会に招き、大射礼(だいじゃらい)及び雅楽寮の音楽でもてなした。宴が終了し身分に応じて禄が与えられた。”
 “二月十六日 従六位下の引田朝臣(ひけたのあそん)虫麻呂(むしまろ)を、渤海使を送る使者に定めた。”

 “四月十六日 斉徳(せいとく)ら八人にそれぞれ色どりのある絹布や綾・真綿を身分に応じて賜った。そして渤海郡王に書状を賜って、次のように述べられた。
 「天皇はつつしんで渤海郡王にたずねる。王の書状を読んで、王が旧高麗の領土を回復し、日本との昔の修好を求めていることを具(つぶさ)に知った。朕はこれを喜ぶものである。王はよろしく仁義の心で国内を監督撫育し、両国は遠く海を隔てていても、今後も往来を絶たぬようにしよう。そこで首領の高斉徳らが帰国のついでに、信書ならびに贈物として綵帛(さいはく)十疋・綾十疋・絁二十疋・絹糸百絇(く)・真綿二百屯を託す。このため一行を送り届ける使者を任命し、それを遣わして帰郷させる。気候はやや暑くなってきたが、貴国の平安で好適であることを期待しています。」”

 “六月五日 渤海(ぼっかい)の使節を送って行く使者らが天皇に拝謁した。”
 “六月七日 使節を送って行く船の水手(かこ)(水夫)以上すべて六十二人に、身分に応じて位階を授けた。”

2012年5月25日金曜日


聖武天皇(10)「信賞必罰」(20120525)

 『続日本紀』(講談社学術文庫 宇治谷 孟 全現代語訳)を読み進むと聖武天皇が官僚に対して信賞必罰で臨み、朝廷を統率しておられたことがわかる。以下“”で引用する。

 なお、律令制においてすべての役所には上から長官(かみ)、次官(すけ)、判官(じょう)・主典(さかん)の四等官が置かれ、この下に下級官人が仕えていた。四等官の職名は各役所ごと違っていた。例えば、近衛府では長官は「大将」、次官は「中将・少将」、判官は「将監」、主典は「将曹」であった。国司は長官が「守(かみ)」、次官が「介(すけ)」、判官が「掾(じょう)」、主典が「目(さかん)」であった。判官では大国の判官は「大掾」、主典では大国の主典は「大目」などと呼ばれていて位が上だった。

なお、民部省・兵部省・大蔵省などの長官は、今の中央官庁の事務次官のようなものであった。3.11大震災と福島第一原発事故は人災の側面が大きい。国会議員・中央官庁官僚が「奉公に勤めないため」起きたとも言えるのではないか。

 “神亀四年(727二月二十一日 天皇が内安殿に出御し、詔(みことのり)して文武百官の主典(さかん)以上の者を召し入れられた。左大臣正二位の長屋王が勅(みことのり)をのべて、次のように言った。
 「この頃天の咎めのしるしがしきりにあり、災異がやまない。時の政治が道理に背き、民の心が愁いうらむようになると、天地の神々はこれを責めて、鬼神が異状を表すと聞く。
 朕(ちん)が民に徳を施すことが顕著でなく、そのために怠りが欠けるところがあるのであろうか。または百寮の官人が奉公に勤めないためであろうか。朕は九重の奥に離れて暮らしているにで、いまだ詳しく判らないことが多い。諸司の長官に命じて、各官司の主典以上の官人について、心を公務にくだき勤務状況の目だって良い者と、心に偽りを抱いてその職務を尽くさない者との二種類を選び、その名を記して奏上させることとする。その上で良い者は功績をはかって昇進させ、悪い者はその行状に応じて官位を下降させる。各長官はよろしく隠しはばかることなく報告し、朕の意に副うように。」
 この日、使者を七道の諸国に派遣し、国司の治政状況と勤怠の実情を巡監させた。”

 長屋王は後に国家転覆の罪で自殺させられた。妻の吉備内親王と四人の息子たちはそれぞれ自ら首をくくって死んだ。遺跡から発掘された木簡から広大な長屋王の邸宅には後に聖武天皇の皇后となられた光明子が入居されたのではないかと推定する人もいる。(参考:講談社学術文庫『平城京と木簡の世紀』渡辺晃宏著。但し、著者は推測を交え、長屋王の変が藤原氏によって仕組まれたとする説を唱えている。この部分について著者は先入観と推測でものを言っていることや、長屋王への尋問等諸状況から絶対承服できない。

 “三月十日 天皇は正殿(大極殿)に出御し、詔して善政を行った官人に禄物を賜った。最上と判定された二位の者には絁(あしぎぬ)百疋・五位以上の者には四十疋・六位以下の者に二十疋、次上と判定された五位以上の者に二十疋・六位以下の者に十疋、中等とされた者には賜り物はなく、下等とされた者はすべて職を解かれた。”

 “十二月二十日 これより先に使者を七道諸国に遣わして。国司の勤務状況と治政業績を巡察させた。使者たちはここに至って報告書を提出した。天皇は使者の奏上によって、上等の者には位を二階、中等の者には一階を進ませ、下等の者には今回の昇進選考を取止め、最も甚だしく法を犯した丹後守・従五位下の羽林(はねばやし)連兄麻呂(えまろ)を流罪に処し、周防(すほう)国の目(さかん)の川原史(かわはらのふみと)石庭(いわにわ)らは除名(官位剥奪)に処せられた。”

2012年5月24日木曜日

聖武天皇(9)「1350年前も現在も東アジアの情勢は同じである」(20120524)

 神亀三年(726) “夏五月二十四日 新羅使・薩飡(さつさん)(第八位)の金造近らが来朝した。”
 “六月五日 天皇は宮殿の端近くに出御し、新羅使は調物を貢上した。”
 “六月五日 金造近らを朝堂で饗し、地位に応じて物を賜った。”
 “秋七月十三日 金奏勲(金造近)らが帰国した。その際璽書(じしょ)(天皇の印を押した文書)を賜り、それには次のようにあった。
 勅(みことのり)する。伊飡(官位第二位)の金順貞よ。卿はかの国内を安らかに治め、わが朝廷にも忠実に仕えた。ところが貢調使薩飡金奏勲らは奏して「順貞は去年六月三十日に卒しました」という。哀しいことである。順貞は賢臣で、よく国を守りまた朕が股肱と頼むところであった。今はもういない。よい臣下を失ってしまった。ここに黄絁百疋・真綿百屯を贈って弔う。汝の功績を忘れず、せめて体を離れた魂にこれを贈る。”

 聖武天皇の御世も、日本はシナ(唐)や新羅との間で緊張関係にあった。天智三年(663年)、日本は今のインチョン(仁川)近くの白村江で、シナ(唐)と新羅の連合軍と戦い、大敗した。この戦いは当時シナ(唐)に侵略されていた百済からシナの勢力を追い出すことが目的であった。日本は朝鮮半島に進出した13万人のシナ(唐)・新羅連合軍と戦って敗れた。400年前神功皇后によって確保されていた朝鮮半島における日本の権益は、同盟国・百済の滅亡とともに一切失ってしまった。

 江戸時代末期の歴史家で詩人の頼山陽は、「シナと日本とどちらが得をしたか。忠義の人々(百済人)は皇室に仕え、末代まで皇室を守った」ということを詩に書いている。後漢滅亡時も非常に多数の漢人・韓人が日本に渡来して帰化し、天皇から身分に応じて氏姓を授かり、皇室の力になった。その子孫は多くの家・名字に分かれた。

 白村江の敗戦はシナ(唐)と日本との海軍力の差が原因である。勿論唐軍は陸海軍合わせて13万人、日本軍は42千人あまりという兵力の差はあったが、海軍力に限って見れば唐の海軍は170隻、これに対して日本海軍は先方の記録では1000隻となっている。戦闘船の数が多くてもシステム的には貧弱で、洋上における戦闘経験も無かった。

戦後半世紀ほど経った後であったがシナの皇帝の冊封下にあった新羅は、自主独立している日本の動向が気になっていたのであろう。一方、シナも高句麗や渤海のことが気になっていた。日本もシナの動向が気になっていた。だから日本は大使を新羅に派遣し、一方新羅は自主独立の国・日本に朝貢して敬意を表していたのである。

このような状況は今も変わらない。日本人は経済・貿易関係でシナ(中国)での市場を拡大したいと考える一方で、シナ人(中国人)を警戒している。むしろ嫌っている。同様に韓国・北朝鮮人の深層心理にはシナ人(漢人)に対する警戒心があると考えられる。その一方で、シナ人(中国人)も韓国・北朝鮮人も天皇がいる日本に対しある種の羨望があると考えられる。

特に竹島・日本海・従軍軍慰安婦問題・日本の文化乗っ取りなど一部(或いは多数の)韓国人による反日活動については非常に腹立たしいものがある。先日英国のチャールズ皇太子がDJ(ディスクジョッキー)に出演するというテレビ報道では、チャールズ皇太子の隣に韓国系と思われる女性、その隣にアフリカ系の女性が立っており、主としてアフリカ系女性が皇太子にいろいろ説明している場面があった。イギリス女性は一人もいなかった。これは韓国による何か意図的な工作の一つではないかと疑いたくなる。つまり、日本の皇室の一般大衆化工作が主眼で、実はチャールズ皇太子は利用されているのではないか。

一部の(或いは多数の)シナ人(中国人)も一部の(或いは多数の)韓国人も、日本に皇室がなくなることを潜在的心理として持っているに違いない。沖縄米軍基地反対・北朝鮮主体思想礼賛・反歴史観思想著述・女性天皇容認(或いは推進)などに見られる日本の左翼学者らは、彼らの対日工作に都合よく利用されているように見える。なお付け加えれば、TPP反対の愛国的学識者らには、TPP反対の一方で日本の軍備増強も併せて強調して貰いたいものである。さもなければ彼らも左翼思想家と言われることになるだろう。

今シナ(中国)は虎視眈々と尖閣・沖縄・八重山・奄美の領有を狙っている。こちらに隙があれば直ちに侵攻してくるだろう。シナ(中国)は日本の遣唐使がシナ(唐)に滞在中黄海を越えて13万の兵力を朝鮮に侵攻させたように、シナ(中国)に多くの日本人が滞在していてもシナ(中国)は行動を起こすに違いない。天智三年(663年)のときの日本の海軍はシナ(唐)の海軍に比べて兵器システムが劣っていた。1350年前と同じ轍を踏まないように、日本は万全の構えをしておかなければならない。

2012年5月23日水曜日


聖武天皇(8)「シナの皇帝やその皇帝の冊封下の朝鮮の王との違い」(20120523)

 神亀三年(726)“二月二十一日 次のように制した。
 内命婦(五位以上の位階の婦人)が、五位の位階をもちながら、六位以下に相当する官職に任じられた場合、今後は正六位相当の官職の俸給を支給せよ。”
 女性はその特性上、いろいろな立場で職場を変えさせられることがあったのであろうか? 給与は女性たちの勤務の実態に応じて支払われたのである。江戸時代の大奥の場合どうであったのだろうか? 興味にあるとこころである。

 “六月十四日 次のように詔した。
 民の中には長患いにかかり、治らない者、あるいは重病にかかり昼夜苦しんでいる者がある。朕は民の父母として、どうして憐れまずにおられようか。医者と薬を左右京・四機内及び六道の諸国に送り、このような病に苦しむ者を助け治療し皆に安らぎを得させ、病の軽重に応じ籾を与え恵みを加えよ。所司はよく心掛けて朕の心に適うよう努力せよ。”

 第十六代仁徳天皇(313年~399年)の御世、四年(316)の春二月に、天皇は高台から遠くを望み家々から煙が立ち昇っていないのをご覧になられて「百姓(おほみたから)既に貧しくして、家に炊(いひかし)く者(ひと)無きか。」と憂えたが、七年(319)夏四月に天皇は台の上から遠くを望み、家々から煙が多く立ち昇っているのをご覧になられて「朕(われ)、既に富めり。更に愁い無し」と喜ばれ、「其(そ)れ天(あめ)の君(きみ)を立つるは、是(これ)百姓(おほみたから)の為になり。」と仰せられた。当時百姓とは農民だけではなく、各種の業務を行う一般庶民のことである。業務で異なる姓が沢山あるので百姓と言っていたのである。
 
天皇は古来常に民を慈しみ、民の幸せを願って来られた。このようなことが、シナの皇帝やシナの皇帝の冊封下に安んじていた朝鮮の王にあったであろうか?日本とシナ・朝鮮との根本的な違いはここにある。

 江戸時代末期の歴史家・詩人・頼山陽はこの故事を漢詩にしている。それは以下のとおりである。詩吟ではこれがよく吟じられている。
   炊煙起(すいえんおこる)
 煙未だ浮かばず。天皇憂(うれ)ふ。
 煙已(すで)に起こる。天皇喜ぶ。
 漏屋(ろうおく)敝衣(へい)赤子(せきし)を富ましむ。
 子富みて父貧しき此の理無し。
 八州に縷々(るる)たり百万の煙。
 皇統を簇擁(そうよう)して長く天に接す。

2012年5月22日火曜日


聖武天皇(7)「刑の執行に恵みを垂れることがなくてよかろうか」(20120522)

 以下『続日本紀』より“”で引用する。神亀二年
“九月二十二日 次のように詔した。(初めの部分略)朕は徳少なく才能がうすい身で皇位をうけつぎ、戦々競々として、夕べになるとおそれつつしんで、一物でも失うことがなかったかと案じ、いのちあるものの生活が安らかであるようにねがっている。しかし天の教えと命令は明らかでなく、まことの心を尽くしても感応がなく、天は星の運行は異状を示し、地は震動を起こしている。仰いで考えてみると、この責任は深く自分にあると思う。(後略)”

 “十月二十一日 摂津(せっつ)国の人、少初位(しょうそい)下の掃守(かにもり)連族(やから)広山(ひろやま)らは姓(かばね)から族(やから)の字を除かれた。”
 “十月二十九日 昼に太白(金星)と歳星(木星)の光の穂先が互いに合った。”
 古代は大気の汚染がなく、日中でも空の星が見えていたのだろうか?

 “十一月十日 (前略)中務少丞・従六位上の佐味(さみ)朝臣虫麻呂(むしまろ)と典鋳正(てんじゅのかみ)(鋳物司の長官)・正六位上の播磨(はりまの)(あたい)弟兄(おとえ)にそれぞれ従五位下を授けた。弟兄は初めて甘子(かんし)(柑橘類の一種)を唐から持帰り、虫麻呂は初めてその種を植えて実を成らせた。それでこの授位があったのである。”
 身分としては「朝臣」姓が「直」姓より上なので、従六位の虫麻呂が先に書かれているのであろうか? 虫麻呂・弟兄両名とも功績により特別昇進して同じ従五位下になった。
 
“十二月二十一日 次のように詔した。
死んだ者は生き返ることができない。処刑された者はもう一度息をふき返すことがない。これは古典にも重要なこととされたことである。刑の執行に恵みを垂れることがなくてよかろうか。今刑部省の奏上した在京および天下諸国の現に獄につながれている囚徒のうち、死罪の者は流罪に、流罪の者は徒罪(ずざい)に減刑せよ。徒罪以下の者については、刑部省の奏上のようにせよ。”
当時のこととして誤審もあったかもしれない。冤罪で死罪の判決を受けた者もいたかもしれない。聖武天皇は、人々の命を最も大事にされたのである。

2012年5月21日月曜日


聖武天皇(6)「今光明最勝王経」(20120521)

 聖武天皇の御世・神亀二年(725)に次のことがあった。興味ある部分を“”引用。
“六月二十二日 太白(金星)が昼に見えた。”
“七月十七日 七道の諸国に次のように詔した。

災(わざわい)を除き幸いを祈るには、必ず幽冥(奥深い神の力)をたよりとし、神を敬い仏を尊ぶには、清浄であることを第一とする。今、聞くところによると、天神・地祇を祭る諸国の神社内には多くの汚れた悪臭があり、各種の家畜を放し飼いにしているという。神を敬うための礼儀が、どうしてこのようでよいであろうか。国司の長官自らが幣帛(みてぐら)を神に捧げ、謹んで神社の清掃を行い、それを年中の行事とせよ。また諸寺院の境内はつとめて払い浄めよ。そのうえで僧尼に今光明経(こんこうみょうきょう)を読ませよ。もしこの経がなければ、最勝王経(さいしょうおうきょう)を転読させ国家を平安にさせよ。”

この時代の神社やお寺はどのようなものであっただろうか?神社内に各種の家畜を放し飼いにしていたということは興味深い。ただ、日本がシナや朝鮮に対して誇れることは、日本は1300年の昔、全国的に仏教を広め、「清潔」の観念を広めたということである。シナの皇帝やその冊封体制下の朝鮮の王と違い、天皇は日本民族の家々の「宗家」のような、或いは「日本一家」の「家長」のような存在であったということである。

聖武天皇は、「災を除き幸いを祈るには、必ず幽冥(奥深い神の力)をたよりにせよ」と仰せられた。如何に科学が発達しようと、科学を超越する「何か」が必ずある。それを恐れないならば、必ずばち(罰)が当たる。そのことは体験的に知ることである。勿論、科学万能の考え方をする人は、体験的に知ることはないだろう。自分に起きた不思議なことも不思議とは思わず、偶然に起きたと思っていることをわざわざ「必然」の現象であるとは決して考えないだろう。しかし、人間はそのように傲慢で良いのだろうか?

聖武天皇は仏教を広めることを政治を行う上での基本的な思想とされた。聖武天皇が読めと仰せられた金光明最勝王経には次のようなことが書かれている。(大法輪閣版『新訳仏教聖典』より“”で引用する。)
“すべて仏(ほとけ)に於いては、三種(みいろ)の身(からだ)が備わって居(い)る。・・(中略)・・三種の仏の身とは、化身(けしん)と応身(おうしん)と法身(ほうしん)とである。

化身というのは仏(ほとけ)が人人を救おうために、かりに人の世に生まれて道を求むる相(すがた)を示し、種々(いろいろ)の法(のり)を究(きわ)めて覚(さとり)を開き、ついで能(よ)く人人の根機(ちから)を知り、時を知り所を知って、それにかのうたように身を表して法を説くものである。汝等(おんみら)の眼(まなこ)に映(うつ)ろうて来た各自(めいめい)の知る仏(ほとけ)は、皆この仏であって、それは人毎(ひとごと)に見るところを異(こと)にしていたはずである。

次に応身と言うのは、仏が求める人のために直ちに真諦(まことのことわり)を説き述べて方便(てだて)の法を用いず、ただ肉体(からだ)に執(とら)われず或いは歓(よろこ)び或いは怖(おそれ)れつする心を除くを旨(むね)とし、限りない仏法(みのり)の大本(おおもと)となって居(お)るもので、これはものさながらの理(ことわり)と、それを悟(さと)る智慧(ちえ)から生まれ出る本願(ねがい)の力によって現れたものである。

終わりに法身というは法(のり)そのものを身とすることで仏の身の大本(おおもと)は、この世のあるがままの理(ことわり)と、それを知る智慧(ちえ)との一つになった法(のり)にある。前の二つの身(からだ)は仮りの身で、この法身から現れたものである。”


2012年5月20日日曜日


聖武天皇(5)「隼人・蝦夷に対する仏教による教化」(20120520)

 当時奈良の都からみて辺境のような遠い土地であった今の鹿児島や東北は、なかなか大和朝廷の支配下には入ろうとしなかった。しかし最終的にはそれらの地域に住む人々は大和朝廷の支配下に入り、日本は統一された。その過程で薩摩の隼人や阿多・東北の蝦夷に対する仏教による教化が、第四一代持統天皇(686年~697年)の御世の2年目頃から行われるようになった。仏教を全国にひろめるため、第四五代聖武天皇は奈良に東大寺と全国各地(各国)に国分寺をお造りになられ、教育制度などを確立された。しかし蝦夷が完全に大和朝廷の支配下に入るまでには捕虜にした蝦夷たちの強制移住と復帰などいろいろなことがあった。以下、『続日本紀』と『日本書紀』から興味と関心がある部分を“”で引用する。

 “十一月二十三日 大嘗祭(だいじょうさい)を行った。”
 “十一月四日(日付の乱れ) 諸国の長官・秀才(秀才試験の合格者)および公務に精励している人たちを招き。宮中で宴を賜り、それぞれに絹糸十絇を賜った。”
 “神亀二年(725年)正月十五日 大初位(だいそい)下の漢人(あやひと)法麻呂(のりまろ)に中臣志斐連(なかとみのしひのむらじ)という姓(かばね)を賜った。”

 大初は下から3番目、4番目の低い官位である。大初上は上から26番目の従八位下、下から4番目の、要するに最下級層の官人の官位である。日本に帰化していた漢人の子孫がそういう官職に就いていた。勿論、帰化漢人の子孫でも非常に高い官職に就いていた人もいた。征夷大将軍坂上田村麻呂などがそれである。連という姓は臣民でも非常に高い階層に与えられているものである。帰化人の子孫で最下級層の官人であった人が何か功績があって、臣下として高い身分を与えられたということである。

 “神亀二年(725年)正月二十四日 華蓋(けがい)(笠の形をして北極星の上にある星座)のところに彗星が現れた。”
 “閏正月四日(日付の乱れ) 陸奥(みちのく)国の蝦夷(えみし)の捕虜百四十四人を伊予(いよ)国に、五百七十八人を筑紫(ちくし)(九州)に、十五人を和泉監(いずみのげん)にそれぞれ配置した。”
 “三月十七日 常陸(ひたち)国の百姓で、蝦夷の裏切りで家を焼かれ、財物の損失が九分以上の者には、三年間租税負担を免除し、四分以上の者には二年間、二部以上の者には一年間、それぞれ租税負担を免除した”

 蝦夷とは、古代東北地域に居住していた人びとのことである。彼らは大和朝廷による日本全国統一の過程で朝廷に抵抗した勢力で、朝廷側から一方的に付けられた呼称である。朝廷側は彼らとの戦に勝って捕えた人々を捕虜にし、九州や現在の愛媛県に強制的に隔離した。これは後に元の居住地に戻されている。なお、それ以前は隼人と言われる薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々が大和朝廷に反抗していた。

 以下は、岩波文庫『日本書紀』(1995316日第1刷、199846日第5刷)に出ている記事であるが、引用記事を“”で示す。

 持統三年(688年)“三年の春正月(はるむつき)丙辰(ひのえたつのひ)に、務大肆陸奥国(むだいしみちのくに)の優曇郡(うきたまのこほり)の城養(きかふ)の蝦夷脂利古(えみししりこ)が男(こ)、麻呂(まろ)と鉄折(かなをり)と、髭髪(ひげかみ)を剔(そ)りて沙門(ほふし)と為(な)らむと請(まう)す。詔(みことのり)して日(のたま)はく、「麻呂等(まろら)、少なくとも閑雅(みやび)ありて欲(ものほりす)ること寡(すくな)し。遂(つひ)に此(ここ)に至(いた)りて、蔬(くさびら)食(くら)ひて戒(いむこと)を持(たも)つ。所請(まう)すままに、出家(いへで)して脩道(おこなひ)すべし」とのたまふ。

 「務大肆」は脂利古に係る冠位である。「曇郡」は出羽国置賜郡で現在の山形県南部、米沢盆地とその西一帯のことである。「城養」は大和朝廷の防衛施設のことである。「蔬」は野菜のことである。僧侶になりたいならば、髭を剃り、頭をまるめて野菜食とし戒めを守り修行せよ、と諭している。

 また、持統六年(691年)閏五月(のちのさつき)の“己酉(つちのととりのひ)(十五日)に、筑紫大宰率(ちくしのおほふこともちのかみ)河内王(かわちのおほきみ)詔して日(のたま)はく、「沙門(ほふし)を大隅(おほすみ)と阿多(あた)とに遣わして、仏教(ほとけのみのり)を伝ふべし。”とある。大隅はのちの大隅国(鹿児島県東部)、阿多は薩摩国(同西部)で、両隼人はのちに首長にひきいられて定期的に朝貢し、隼人司に所属して朝儀に吠声を発し、風俗の歌舞を奏するなどのことに奉仕している。

2012年5月19日土曜日


聖武天皇(4)「板屋や草ぶきの御所」(20120519)

 引き続き『続日本紀』から関心がある部分を“”で引用する。
 “十月五日 天皇は紀伊(き)国に行幸された。”その行幸先で
 “忍海手人大海(おしぬみのてひとおおあま)ら兄弟六人に、手人(工匠)の名称を除き、外祖父である従五位上の津守(つもり)連通(とおる)の氏姓に従わせた。”
 “十月二十三日 天皇の一行は平城宮に還った。”
 “十月二十九日 これより先、散位(さんい)・従五位下の息長真人臣足(おきながのまひとおみたり)を出雲按察使(いずものあぜち)に任じたが、その任にある時、みだりに不正な財物を取った。その行状をとがめて位禄を召し上げた。”

 散位(さんに・さんい)とは職務を持たない官人、つまり位階だけしか持っていない者のことであり、真人とは天皇・皇太子の子孫である。天皇はそのような身分の高い息長真人臣足に折角出雲地方の行政を監督する令外官である出雲按察使という官職を与えたのに、息長真人臣足汚職をしてしまったのである。いくら名門で地位が高くても不正に対しては厳しく処断された。位禄が召し上げられれば、家族を養えず、家人に給与も払えず、一家離散、皇族の系統と雖も乞食・野垂れ死にの憂き目に遭ったのである。

 “十一月八日 太政官が次のように奏言した。
 大昔は人間が淳朴で、冬は土中に居室をつくり、夏は樹上をすみかとしました。後の時代の聖人は、そのかわりに宮室をつくり、また京師(都)をこしらえて、帝王はそこを住居としました。万国の使者が参朝する所は壮麗でなければ、どうして帝王の徳を表すことができるでしょうか。今、平城宮に見られる板屋や草ぶきの家は、大昔のなごりで、造るのに難しく、こわれ易くて、人民の財を無駄に費やすことになっています。そこで五位以上の官人や、庶民のなかでも造営する力のある者には、瓦ぶきの家を建てさせ、赤や白の色を塗らせるように、有司に命ぜられるように要望します。この奏言は許可された。”

 今で言えば内閣総理大臣の職にある人が、このようなことを天皇に申し上げた。神亀元年は西暦724年である。奈良の都でこの年になって天皇の御所は板屋や草ぶきだったし、都に住む貴族の家々も極めて質素なものであったのだろうと推察される。ただ、瓦は製造されていたので、お寺の屋根は瓦葺だったのだろうか?

シナの皇帝や朝鮮の王の住居は贅沢を尽くしていたようであるが、日本国の天皇の住居は質素なものであった。現在もその状況は変わらない。家具も質素そのもの、皇后陛下や皇太子妃殿下の髪形も質素で飾りはない。これが日本の天皇家のお姿である。

 所謂『魏志倭人伝』には、「倭の地は溫暖、冬夏生菜を食す。皆徒跣(とせん)(はだし)。屋室あり。」とあり、実際は100%この魏の「新聞記者」の書いたとおりではないと思うが、魏(西暦220年~223年)の頃、北九州では高床式或いは掘立式の家があったのであろう。

2012年5月18日金曜日


聖武天皇(3)「渡来帰化した人々も皆同じ日本人」(20120518)

  日本は移民の受け入れが少ないと言われているが実はそうではない。古来、日本に非常に多くの人々が朝鮮半島から渡来し帰化し、皆日本人になっている。それだけではなく韓国籍・北朝鮮籍のまま非常に多くの人々が日本に永住的に居住している。その韓国人たちが自分たちの政府の後押しでソウルの日本大使館の前にも世界各地にも従軍慰安婦像を建設し、自らの同胞の韓国人の屈折した対日感情を煽りたてている。

 従軍慰安婦など全く存在していなかった。日本軍兵士相手に自発的に自分の肉体を提供し金を稼いでいた朝鮮の女性たちは沢山いたが、日本政府または日本軍がそのようなことを強勢的に行わせていたという事実は全くない。この問題の発端は、千田 夏光(せんだ かこう、1924828 - 20001222 本名:千田 貞晴)という一日本人小説家が書いた小説の中で「従軍慰安婦」という言葉を造語し、その小説が売れて韓国人の屈折した反日感情が高まって「嘘」が「真実」のようになり、自虐史観に捉われていた政治家・河野洋平氏がそのような嘘の話をまともに信じ、河野談話まで出して韓国に謝罪したことにある。

一部の(或いは多くの)韓国人は従軍慰安婦や竹島や日本海呼称のことや、また剣道・茶道・華道など日本固有の文化の起源が韓国にあるかのように世界中で宣伝していることなど盛んに反日的プロパガンダを行って日本人の感情を損ねている。これは長い目で見れば決して韓国のプラスにはならないだろう。韓国政府が指導して幼稚園児までもが「竹島は韓国領土」と歌わせているのは異常だとしか言いようがない。

今特別視されている日本に永住的に住んでいる韓国籍・北朝鮮籍の人々の中には、日本に帰化し、日本に溶け込んで各界で活躍している人びとが非常に多い。これらの人々は今後100年もしないうちに皆、万世一系の天皇を頂く日本人の一員になることだろう。日本と韓国の明るい未来のため、韓国政府は日本と韓国の古来の歴史を正しく認識し、韓国人が反日的感情を持たないように導くべきである。

引き続き『続日本紀』から関心事のみを“”で引用する。
 “四月十八日 この日、月が熒惑(けいわく)(火星)を犯した。”
 “五月十三日 次の者にそれぞれの氏姓を賜った。(後略)”

 『日本書紀』『続日本紀』などには、日本に渡来してきた人たちに天皇が氏姓を賜う記事はよく出て来る。現在の日本人の「氏」の呼び名は天皇から賜った氏姓から来ているものもあり、中央から地方に下向した貴族などが下向先の地名などを元に付けたものもあり、領主から与えられたものなどいろいろある。江戸末期の歴史家頼山陽の「頼」だけ見れば、彼は一字であるのでその出自は大陸系かと思う人も居るかもしれないが、頼山陽の「頼」は戦国時代の落ち武者「岡頼」氏に由来すると言われている。その岡頼氏の遠い祖先が何処の出身だったか知る由もない。

戦前朝鮮半島の人々は本名とは別に「日本名」をもっていてそれで通用していた。戦後はその名残で「通名」が使われていてその人が日本国籍なのか韓国・北朝鮮籍なのか全くわからない。名前だけ見れば皆日本人独特の名前になっている。

古代、東漢氏と呼ばれていた人びとは後漢滅亡後日本に渡来してきた漢人や韓人集団で、阿智使主の直系の子孫は天武天皇より忌寸(いみき)の姓を賜っている。征夷大将軍坂上田村麻呂の姓は忌寸である。後世桓武天皇の御世、「自分の先祖は忌寸姓であった」と主張して桓武天皇からその氏姓を賜った人たちがいる。それらの子孫も今では先祖が忌寸姓であったことなど全く知らない人たちが圧倒的に多いだろう。まして特別な家柄でもない限り、東漢氏であったことなど全く分からいであろう。栄枯盛衰、かつて栄えた家柄も落ちぶれて見る影もない家となってしまっている人たちも非常に多いだろう。

名字と氏姓とは別である。封建時代公には名字を名乗ることを禁じられていた家でも非公式には名字はあり、家紋があった。家紋は氏・素性のルーツを示すもことがある。古代朝鮮半島などから渡来した人々の子孫も、今では一部を除いてその人々のルーツは全く分からなくなってしまっている。一世代25年として1000年も経てば、一組の父母の子孫は単純計算で240乗の人数、つまり1兆人になる。地縁血縁社会での重複による濃淡はあるにせよ、血は混じり切っている。皆日本人になってしまっているのである。

こう考えると、今、日本に在住している韓国・北朝鮮籍の人たちもいずれ皆日本人となり、自分の先祖が誰であるか全くわからなくなってしまうことだろう。今、盛んに行なわれている従軍慰安婦・竹島・日本海呼称・日本文化乗っ取りなどの反日的プロパガンダは、結局その人たちの為にはならないのである。「馬鹿なことは止めよ」とその人たちの同胞に働きかけて貰いたいものである。