2017年7月31日月曜日

20170731朝顔の花


 男は朝のウオーキングのとき道端の幾つかの花を手折って持ち帰った。男はポケットガイドブック『野の花』によりその花の名前を調べた。何時も目にしている花の名前を知って男は「判ったぞ。あれはアカツメクサ(赤詰草:Trifolium pretense)、またの名をムラサキツメクサと言うんだ」と女房に言った。彼女は男の話にいい加減に耳を傾けながら、しきりにスマートホンで何か調べている。彼女は朝の中に変種の朝顔を観るため日比谷公園に行くつもりである。しかし彼女は朝顔が曇天でも開くかどうか心配しているのである。

 男は毎朝早く川の周りをウオーキングするようになって、道端の植物に興味を持つようになった。そこで男は本屋でそのポケットブックを買って来たのであった。その本で調べて判った花の名前はそのアカツメクサ(赤詰草:Trifolium pretense)とアレチマツヨイクサ(荒地待宵草:Oenothera biennis)である。道端に咲く野の花の名前などを知ることは楽しい。ガイドブックによればアカツメクサ(赤詰草:Trifolium pretense)はヨーロッパ原産で、明治以降牧草として輸入された草の中に混じっていたものが野生化した植物である。アレチマツヨイクサ(荒地待宵草:Oenothera biennis)は北アメリカ原産で日本各地に帰化した植物である。

 これを書いているとき女房から電話が来た。「朝顔の花がとても良かったよ」と弾んだ声である。男も女房と一緒にその変化朝顔を観に日比谷公園に行ったことがある。女房は花が好きで、あちこちに行って花の写真を撮っている。男は女房と一緒に花を観に行くことが多い。しかし男は花が格別好きであるというわけではない。

男は行楽を兼ねて近郊の各地に花を観に行き、女房と一緒に花の写真を撮っている。男は女房のパソコンに当日の行楽先を示すフォルダーを作り、そのフォルダーに当日撮った写真を保管している。女房はそのフォルダー内の写真を取捨選択し、良く撮れた写真をプリントアウトして室内に飾ったり親しい友達に送って上げたりしている。女房が撮った写真はなかなか芸術性が高い。男はそのように評価している。

 男はかつて分子生物学について学んだことがあった。この地球上のあらゆる生物は同根である。パンの酵母も同じである。細胞の中では種を保存するため化学分子が盛んに活動している。細胞の核の中にあるDNAに記録された情報に従いあらゆる現象が起きている。もし意識が量子の動きにより生じるものであるならば、男が道端の草花に意識を働かせるとき、その草花も何か応えているのではないだろうか?

 縄文人たちは自然の中のあらゆる現象に神が宿っていると考えていた。縄文人の子孫である日本人は山の神・川の神・海の神・水の神・巨木に宿る神・巨岩に宿る神・雨を降らせる神・神の使いをする動物などなど、畏(かしこ)まるべき対象に向かって合掌し、祈願する。日本中に見かける鳥居はそのように畏まるべき対象が宿っている場所に行くときくぐる門である。

天皇は宮中にあって、常に日本の平和・世界の平和を祈っておられる。畏(かしこ)まるべき対象である神に対しする「祈り」は、その神との間で「意識」のようなものが通い合うのかもしれない。それは実際に体験した者にしか理解できないことなのだろう。昔、蒙古来襲のとき二度も暴風雨があり、日本は救われた。それは天皇の祈りのお蔭だったに違いない。

 女房が去年8月に買った2鉢のシクラメンは未だ花を付けている。一年も経つのに不思議である。女房は常にそのシクラメンを手入れしながらシクラメンに語りかけている。「良く咲いていてくれて有難うね」と。かつて男がある詩吟の会で詩吟を学んでいた頃、仲間の女性も同じようなことを言っていた。彼女は家庭の主婦であったが、とても魅力的な女性であった。「男は男らしく、かつ逞しく、女は女らしく、かつ優しい」ことが最も良い。たとえ年老いて、80の齢を超えたとしても。


2017年7月26日水曜日

20170726日本人の気質・創造力と日本文化の源泉は縄文時代にある


意識は時間・空間を超越して延伸する。男の意識は縄文人たちの意識と交流している。男はNHKの『ドキュメンタリー「日本人はるかな旅」』をYou Tubeで視聴した。日本人の遠い先祖は縄文人である。この記事は筆者の「論」である。

紀元前300年前後、渡来系弥生 (Toraikei-Yayoi) 人と呼ばれる人たちが戦乱を逃れて日本にやって来た。縄文人たちは彼らが温帯ジャポニカ種技術を持ち込む前に、既に熱帯ジャポニカ種の稲を水田で育てていた。縄文人たちは彼らがつぼ型土器を持ち込む前に、芸術性の高い縄文紋様のつぼ型土器を作っていた。縄文人たちは粘土に鹿の毛を混ぜて作った厚さの薄い土鍋を作って使っていた。日本人のDNAは東アジアの人たちのDNAとかけ離れていることが最近証明された。日本人の気質と創造力及び日本の文化は縄文時代に由来するものであると考えられる。

縄文人は16000年前から3000年前までの13000年間にわたり、北海道から沖縄までの各地で実に平和に暮らしていた。近年日本各地で非常に多数の縄文遺跡が発掘されている。東京の新宿三丁目では12000年前の土器が発見された。その土器は粘土の中にシカの毛が含まれている物であった。それは土器の厚さを薄くするように工夫された物であった。彼らはその土器で採集したドングリを蒸していた。

青森の三内丸山遺跡は5500年前のものである。其処では約780軒の小さな住居跡、10棟以上の大きな住居跡、高床式倉庫跡及び建物跡などが発掘された。その大型の建物は室内が広く作られていて祭祀のため使われていたものであったと考えられている。

其処では建物を建てるため樹齢200年の直径2メートルもあった栗の巨木が使われていた。人々は其処で1500年間定住していた彼らは栽培した栗・クルミなどの木の実やエゴマ・ヒョウタン・牛蒡・豆などの他、魚やシカ・タヌキ・ネズミなどを調理して食べていた。彼らはヒスイの耳飾りをしていた。彼らは他の地域の人々と交流・交易をしていた。4000年前、彼らは其処から去っている。縄文人たちは平地や海岸近くで暮らすようになった。

黒潮に乗って日本列島に辿りついた人々は丸木舟を作る道具として使われた丸ノミ石斧を製作していた。この種類の石斧は沖縄の具志頭村の遺跡でも見つかっている。其処は港川人と呼ばれる人骨9体分が見つかった場所である。港川人の古里はかつてスンダランドと呼ばれる大陸であった。

北方のシベリアからやって来た人々は南方のフィリッピン方面から黒潮に乗ってやって来た人々と日本列島の各地で出会った。両者は交流し、混血した。黒潮の民は丸ノミ石斧製作と造船・航海の技術を持っていた。黒潮の民の丸ノミ石斧製造技術は北方の民の磨製石斧製造技術に応用された。丸ノミ石斧製造技術を応用した磨製石斧製造技術は日本列島中に拡散した。

4200年前、長江(Chàng Jiāng)中流域で稲作と漁労を営んでいた人々は、北部で畑作と牧畜を営んでいた人々に圧迫された。長江(Chàng Jiāng)中流域で稲作と漁労を営んでいた人々は雲南省の山岳地帯に逃れ、一部の人々はボートピープルとなって日本にやって来た。長江下流域江南(Jiāngnán)地方の河姆渡(Hémŭdù)の漁民は漁に出た時、潮風に乗せられて九州辺りまで流されることがあるそうである。5000年前の河姆渡(Hémŭdù)遺跡から出て来た大量の炭化米は熱帯ジャポニカ種であった。(参考:『古代日本のルーツ 長江文明の謎』安田喜憲著、青春出版社)

岡山県の朝寝鼻貝塚では6000年前の土中から熱帯ジャポニカ種の稲を示すプラントオパールが見つかっている。このプラントオパールは西日本の9か所の遺跡で見つかっている。佐賀県の菜畑遺跡では紀元前930年頃の熱帯ジャポニカ種の水田跡が見つかっている。

紀元前300年前後、多くの人々が戦乱を逃れて中国から日本にやって来た。彼らは渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人と呼ばれる。彼らは水田で温帯ジャポニカ種の稲を作る技術を持っていた。当初、縄文人と彼らとの間で衝突が起きたが両者はすぐ共存し、交流し、人種間の混血が進んでいった。その混血の度合は地域差があった。北海道と沖縄は他の地域より少なかった。アイヌの人々と沖縄の人々は他の地域の人々より縄文人に近い。先祖代々日本人である人は誰でも皆、縄文人の遺伝子を持っている。勿論、渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人の遺伝子も同様である。

朝鮮南端の3000年前の集落の遺跡からは温帯ジャポニカ種の炭化米とともに多数の縄文土器など縄文時代の生活道具が出土している。当時、縄文人たちは朝鮮半島南部に進出していたのである。朝鮮半島南部には倭人(Wajin)系の人の豪族の古墳がある。しかし縄文人たちは日本列島内で渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人と出会うまで、水田稲作を拒否し続けていた。その理由は、日本列島では採集・小動物の捕獲・漁労により十分な食料が確保されていたからである。

縄文人たちは紀元前300年ごろ以降、渡来系弥生(Toraikei-Yayoi)人たちから水田稲作の技術を学び取った西暦0年には温帯ジャポニカの稲が北緯41度にある青森県の水田で栽培されていた。青森県の垂柳遺跡では当時の水田跡が発掘された。其処には大人男女の足跡に混じって子供の足跡もあった。その水田では温帯ジャポニカ熱帯ジャポニカの稲が混植されていた。地力を回復させる休耕地もあった。縄文人たちはこの混植が稲の成長を早めることを知っていたのである。

後漢の滅亡時と百済の滅亡時にも多くの人々が朝鮮半島から日本にやって来た。戦後、非常に多くの朝鮮半島の人たちが日本で永住権を得て住んでいる。近年東南アジア系やヨーロッパ系やアフリカ系の人たちとの混血も増えた。将来、日本人の容貌や形質は変わってゆくことだろう。

「大和言葉・言霊(KOTODAMA)・大和魂」は13000年間続いた縄文時代にその基礎が形作られたものであると考えられる。それゆえ男系の皇統・古来の文化・伝統が維持され続けるかぎり、日本人はその容貌や形質が変わってもこの日本列島で繁栄しながら安全に平和に暮らし続けることができるに違いない。最も重要なことは男系の皇統・古来の文化・伝統の維持である。


2017年7月25日火曜日

20170725雑感


 男は毎朝5時前に起きて、近くの川の周りを散歩している。男はウオーキング用の衣服とヘッドバンド、家の鍵・携帯電話(スマートフォン)及び飲料水のボトルなどを前日の就寝前に準備してあるので5時にはすぐ出かけられる。

 ウオーキングのコースはその朝の気分次第で色々なルートを選ぶ。今朝は9300歩ほど歩いた。肩や腕の各所の筋肉をほぐすため、バーベルを持ち上げるように和タオルの両端を両手で持って肩の後ろで上げ下げしながら歩く。

 川の堤防の上に小さな空き地があり木陰になっている所にベンチが置かれている。其処にさしかかった時、男は女房がかつて訪問介護のヘルパーとして働いていた頃のことを思い出した。彼女は其処で一休みしながらおにぎりなどの昼食をとり、その後午後の訪問先に向かっていたのであった。彼女はそのようにして働きながらしばしば休みを取って九州の田舎に帰り、其処で独り暮らしをしている母の介護をしていた。

その母は彼女の実母であり男の継母であった。男はウオーキングの後シャワーを浴びた。そして朝食の準備をしている彼女の肩を抱きながら言った。「お前はよく頑張ったね。有難う」。女房は母を介護しているときでも、ホームヘルパーとして働いているときでも常に相手のことを思いやり、最善を尽くしていた。彼女は「利他」の精神にあふれ、その行為を受けた相手が喜ぶ様子を見て彼女も喜んでいる。彼女の介護を受けていた方が他界した時、彼女はその葬式にも参列したこともあった。

早朝、川の周りをウオーキングをしている人たちやジョギングをしている人たちは多い。犬を散歩させている人たちもいる。すれ違う人たちの容貌はさまざまである。縄文系と思われる容貌や渡来系と思われる容貌。日本人の容貌はバラエティに富んでいる。男も女房も縄文系の要素が多い。日本人は容貌・体つき・気性などの何処かに縄文人の遺伝子によるものを持っている。

 縄文時代は16000年前から3000年前まで13000年間も続いた。その縄文時代は日本人の精神に何らかの影響を与えている。日本人の「利他(RITA)」の精神・「和(WA)」の精神・「おもてなし(OMOTENASHI)」の精神は縄文時代に培われたものであるに違いない。それらの精神は田舎で受け継がれている。

 今、国政選挙における「一票の格差」が問題になっている。左翼的な弁護士たちは、都会と田舎の間では「一票の格差」が大きいため多数決による弊害が生じていると主張している。その「弊害」とは富の分配に関わることだけなのか?

 日本人のアイデンティティには縄文人の「心」が深く関わっているに違いない。もし日本から田舎が無くなってしまったら、日本人の「心」は不安定な状態になってしまうことだろう。「一票の格差」はそういう問題意識を持って考えられるべきではないのか?



2017年7月18日火曜日

20170718死生学


 男は80を過ぎて子孫に伝えておくべき事を整理している。You Tubeで公開されている『NHKスペシャル「日本人はるかな旅」』に若い女性の声で「私たちは 何処から来たのだろう?」という言葉が背景の効果音・映像とともに映し出されている。NHKの『サイエンスZERO(縄文人のルーツ)』では縄文人の“核DNA解析”の結果明らかにされたことが紹介されている。男は日本人のルーツから自分の「家」の系図に至るまで過程を示す一枚のExcelチャート「(我が家の)ルーツ図」を作った。

男は曾祖父が書き写して遺していた系図をもとにして自分の「家」の系図を整理し、新たにWordによる「家系図」を作っていた。さらに男は耳学問的に学んだ最新の量子科学や宇宙論をもとに仏教と科学との連関を思惟しながら、散文で書き記す作業を続けている。

この度作った「ルーツ」図はその家系図につなぐものである。男の子孫はこの「ルーツ図」・「家系図」・「散文」に触れることよって、「自分は何処から来て何処に行くのか」ということを自覚することができるだろう。

福岡に住んでいる友人Kさんから八女茶と八女茶を練り込んだ菓子が送られて来た。Kさんは男より10歳年長であるがまだ軽トラックを運転していて大変元気なお方である。彼は現役時代イランに18年間、フィリッピンに3年間、奥様と二人で異国の地で暮らしていた。七、八年前その奥様は他界された。それ以来彼は独り暮らしを続けている。

男は30年前の現役時代Kさんと仕事を通じて知り合い、以来ずっと交流し、女房とともに彼の知己を得ている。彼から頂いた贈物に添えられている手紙には「○○ご夫妻様」と書かれている。男はKさんに電話を入れお礼を申し述べた。いつもながら非常に長電話になる。その会話の中でKさんは「自殺する年寄りがいるが、私は人間は最期までしっかり生きるべきであると思っている」と言った。男はKさんの話に頷きながらKさんの話を傾聴した。

長電話が終わって居間に行くと女房が放送大学の『死生学』の講義をインターネットで聴いている。教授は「自殺者の背後には孤立感がある」と話していた。男は先ほどのKさんの話が気になって来た。男は今後Kさんに頻繁に電話を入れようと思った。

Kさんは電気・電子関係の物づくりや修理が趣味である。何年か前、Kさんは亡き奥様の実家の農場が猪の被害に遭っているというのでわざわざ秋葉原まで行って部品を調達し、太陽光発電による電源装置付きの高電圧パルスジェネレーターを製作してその農場に取り付けた。その装置は市販の物よりも高性能で、猪撃退の効果は抜群だそうである。またある時近くの消防署から頼まれ、故障した消防無線装置の修理をしてあげたことがあったそうである。以来その消防署からはKさんに何かと連絡があるそうである。

 男は先月放送大学同窓会設立当時の役員仲間が主宰しているある親睦の団体の旅行会に20年ぶりに顔を出した。参加者は男を含め22名だった。この中には男より年長の男女が何人か含まれている。当日江戸時代からの伝統の「お茶講」を体験した。そして四万温泉のあるホテルに一泊し、翌日建設中の八ッ場ダムを見学した。男はこれを動画に撮り、宿の大広間での宴会風景の写真と一緒にGoogle Photoを利用し、このシステムを使うことが出来ない人には録画したDVDを郵送する方法で参加者全員に配布して上げた。

男は同大学で一つのコースを卒業した後別のコースに再入学したがろくに勉強せず留年し、たまに興味がある科目があったとき面接授業を受けるだけである。ところが女房は「知らなかったことを知るのはとても楽しい」と言い、同大学を三度も卒業してそれぞれ学位を貰い、さらに別のコースを専攻して勉強している。先ほどの『死生学』も今度単位を取るため試験を受ける科目の一つである。男は女房のことを「大した者だ」と感心している。

放送大学では自宅の居間がキャンパスになる。放送大学の講義内容はテレビとラジオの特定のチャンネルやインターネットで配信されている。男は女房が学んでいる様子を傍で見ていて学ぶことが多い。

人は「自分が何処から来て。何処に行くのか」について確たる情報を持っていないと不安である。人はその不安を解消させるため悩み、もがき、苦しみ、時には攻撃的なって他人に危害を加えたりする。学問に親しむ人は心が安定している。そういう人は自分を大きく見せようとして見栄を張ることもしないし、謙虚で質素な暮らしに満ち足りている。

Kさんには子供はなく、親戚は亡くなった奥様の実家だけである。300年続いたKさんの実家は没落してKさんには身寄りはない。Kさんは築地の本願寺で永代供養をあげ、90になる今、寿命のある限り独りで生き続ける覚悟でいる。男がKさんに「お元気ですか?」と話すと、Kさんは元気な声で「仕事が一杯あって・・」と言う。男が「私は毎朝4時半に起きて川の周りを歩いていますよ」と言うと、Kさんは「私も朝早くから‘半田ごて’を握って格闘していますよ。11時には暑いので作業をやめて・・・」と笑いながら返答した。

Kさんは男に「話しておきたいことがある」と言い、電話を終えるとき「今度お会いしたときは肉を500グラム食べましょう」と言った。女房にそのことを話したら「肉だけでは健康に決して良くない」と心配する。これまで女房は「Kさんは奥様を亡くされているから」と気遣って、夫婦二人でKさんに会うことは遠慮していた。

しかし男は今度Kさんに会うときはKさんを我が家に招きたいと女房に話した。20数年前男と女房はKさんの家に招かれてKさんと亡き奥様手作りの料理を頂いたことがあった。男はそのお返しをしたいと思っている。我が家には煙が出ない遠赤外電熱式の卓上焼肉器がある。これを使って普段は男と女房の二人だけで焼肉を食べているが、今度はKさんと三人で焼肉パーティをしたいと思っている。それがKさんと一緒の三人の最初で最後のイベントとなるかもしれない。


2017年7月12日水曜日

20170712量子意識 


 アントン・ツァィリンガー(Anton ZeilingerUniversity of Vienna)は光子を144km離れた2地点間でテレポートさせる実験に成功した。この実験では量子が遠隔で作用したしたことが判った。しかしなぜ量子が遠隔で作用するのかについては今のところ証明不可と言われている。理論的には人間も量子で出来ているので人間をテレポートさせることは可能であると言う。

 発射された光子が二つのスリットを通り抜けた時、光子の波動性による干渉縞が生じる。この干渉縞が人間の意識で変化するかどうか実験が行われた。ノエティック科学研究所(Institute of Noetic Sciences)のディーン・レイディン(Dean Radin)は科学的な実験を行った。その結果、人間がそのスリットを通り抜ける光子に意識を集中させると、その集中を始めた3秒後にその干渉縞に明らかに変化が起きた。この実験には延べ250人が参加し、有意な結果が得られたという。しかしこれは非常に不思議な現象である。

 アインシュタインは「重力は時空の歪みやさざ波により生じる」と言った。一方エドワード・ウィッテン(Edward WittenInstitute for Advanced Study(日本語の名称:プリンストン高等研究所)は1995年に超弦理論を修正したM理論を提唱した。これによりアインシュタインの一般相対性理論と量子理論が統一されることになった。

アインシュタインの重力と量子力学の強い力・電磁気力(原子の内部で陽子と中性子を結び付けている力)・弱い力(放射性崩壊を司る力)の四つの力がM理論により統一的に説明できるようになった。後は実験でこの統一的理論を実証することが残っている。因みに重力は質量ゼロの粒子Gravitonにより伝えられる。カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)とマサチューセッツ工科大(MIT)などの研究チームは20159月、巨大観測装置LIGOで重力波を検出したと発表している。

 M理論では宇宙は11次元でできているという。人間の脳は4次元だけ認識できるように進化してきたが超弦理論を発展させたM理論の登場により、我々の宇宙はBRANE と呼ばれる幕のように見える物体の中に存在していることが判ったと言う。BRANEは幕(MEMBRANE)から派生した用語である。BRANEはより高い次元の空間にひろがっていて、十分なエネルギーが与えられればBRANEは巨大な大きさに成長すると言う。

 男は毎晩9時に就床し、5時に起きて男が住む28室の7階建て集合住宅の7階から眼下に見える1級河川の川辺を1時間ほど歩いている。男は歩きながら人間の意識が時間と空間を超えて、広大無辺に自由自在に融通無碍に広がることについて考えていた。

早朝6800歩ほど歩き終えてシャワーを浴び、女房が用意してくれている朝の食卓に着く。朝食の定番はパン一片・ドリップ珈琲・卵の目玉焼き一個・青野菜・トマト・バナナ・ヨーグルト・キウイフルーツなどである。勿論、男もドリップ珈琲を準備するなど家事を分担している。この記事は朝食の後片付けを終えて男の部屋で書いている。

「意識」は量子化されるか? もし「意識」が量子化されるならば「意識」は時間・空間を超越し、広大無辺・自由自在・融通無碍に量子として存在し得るだろうか? 過去に生きたある人の「意識」は現在に生きているある人に伝わるだろうか? もし伝わるとすれば、それは意識の「共鳴・共振」なのか?

加計学園獣医学部新設について、野党及び朝日・毎日などのメディアはこの新設決定が「歪められた行政により推進された」と主張している。先日衆参両院で行われた閉会中審査で加戸守行・前愛媛県知事は、今回の政府の決定が「歪められた行政が正されたものである」と発言したが、朝日・毎日は加戸氏のこの発言を一切報道しなかった。これは、読者に対して偏向的な報道を続けている朝日・毎日と野党の国会議員たちが反権力意識の「共鳴・共振」現象を起こしている状況であろう。為政者はこういう意識の「共鳴・共振」現象が起きないように先手を打っておくべきであった。

 仏教では「意識」のみならず「無意識」の領域についても説かれている。仏教では「意識」の領域では生老病死の四苦に、「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五取蘊苦」の四つの「苦」を加えて「四苦八苦」という。因みに「生苦」は母胎に妊娠する初刹那のことである。精子が卵子と結合した刹那が「生苦」である。また「五取蘊苦」は他の七つの「苦」を総括したものである。加計学園獣医学部新設問題も四苦八苦の葛藤の現象である。

 仏教で説かれている「無意識」の領域の最も浅い潜在意識から最も深い潜在意識まで三つの無意識層はそれぞれ「未那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」・「阿麻羅識(あまあしき)」である。「男」は座禅の経験が全く無いが、深い禅定に至ればこれらの意識が自ずと顕れるのかもしれない。それは仏教で説かれている神通力と何か関係があるのかもしれない。

 もし「意識」が時間・空間を超越し、広大無辺・自由自在・融通無碍に存在し得る量子によるものであるとするならば、そして自分の意識を過去に生きていた善男子・善女人の意識と「共鳴・共振」させることができるのであるとするならば、人が仏壇の前で、十字架の前で、或いは神道の拝殿の前で手を合わせて祈る行為は、その人が希求しているある事を物理的に実現させようとする行為であるということができるだろう。為政者にはこのような祈りの行為が求められる。「驕り」は絶対禁物である。

2017年7月9日日曜日

20170709縄文人


男はGoogle Chromeに置いたフォルダーに『NHKスぺシャル「日本人はるかな旅」』・『DNA解析で見る日本人のルーツ』・『日本人のルーツ「シベリヤ」』・『未来を創る科学者達「(6)遺伝子に隠された日本人の起源」』など30余りのYou Tube動画のタイトルや総合研究大学院大学が昨年秋に発表したプレスリリースなどのブックマークを収めている。

Y染色体遺伝子のハプロタイプDを持つ縄文人は狩猟用の優れた石器文化を持ってこの日本列島に北方から渡って来た。一方、南方からも丸ノミ石斧(せきふ)製造の技術や航海の技術を持っていた人々が黒潮に乗ってこの日本列島にやって来た。彼らはミトコンドリアDNAハプロタイプM7aの人々であり、縄文人たちと混血したと思われる。彼らが持ち込んだ丸ノミ石斧(せきふ)は樹木の伐採等に役立つ新たな石器の道具の製造に役立った。

このようにして縄文人たちはこの日本列島の北海道から沖縄までの島々で今から16000年前から3000年前までの約13000年間にわたり、日本各地の森の中や平地で集落を作り、狩猟・採集の平和な暮らしを続けていた。縄文人たちは世界最古の土器を製造し、当時としては先進的な石器を製造してそれらを使いこなしていた。縄文人が文字を持っていたかどうかはわからないが、縄文人は世界最古と言っても良いほどの文明を日本列島で築き上げていた。そのような事実がわかる遺跡が最近日本の各地で次々に発見されている。そこで発掘された人骨・土壌・種子等が自然科学的手法で分析・研究され続けている。

従来、塩基が約16千個のミトコンドリアDNAの解析結果により縄文人のルーツが論じられていた。ところが1950年代に福島県の三貫地貝塚で縄文時代の人骨が100体以上発掘され、その人骨の歯から塩基が約30億個もある核DNAが国立科学博物館によって解析された。その結果、縄文人のY染色体DNAの配列が明らかになった。別の研究機関(佐賀医科大学・国立遺伝学研究所)でも縄文人の人骨に残っている歯のDNAが解析された。比較研究結果、縄文人29人中17人のDNAがシベリアの先住民ブリアート人のものと一致した。一方、韓国・台湾・タイの人とのDNAの一致はそれぞれ一人だけしかなかった。

縄文人はY染色体DNAハプロタイプがDの人々であった。タイプDはタイプA・B・Cとともに人類がアフリカから出発した初めの頃に分岐したタイプである。タイプAとタイプBはアフリカ人のものである。タイプCは日本固有のタイプC1a1として存在している他、ほかオーストラリア・オセアニア先住民とモンゴル人・アメリカ先住民などに見られる。

Y染色体DNAのハプロタイプDの人々は日本列島の他、チベットとインド洋のアンダマン諸島にしか存在していない。地域によって大きな差があるが現代の日本人にはY染色体DNAのハプロタイプDが30%前後分布している。日本人の容貌・瞼(まぶた)・頭髪等形質の何処かと性格・知能・身体能力等の何処かに代々親から受け継いだ縄文人の遺伝子の発現がある。これが日本人と他の東アジア人との違いをもたらしている。アイヌの人々や沖縄の人々は縄文人の特徴を多く残しているがルーツが全く同じ日本人である。

紀元前4000年頃地球の寒冷化が起きた。中国大陸の北方で畑作・狩猟の生活をしていた人々が南下して来て、長江中流域で稲作・漁労の生活をしていた人々を圧迫した。紀元前3000年頃、長江中流域で稲作・漁労の生活をしていた人々はこの圧迫を逃れ、一部の人々は雲南省の山岳地帯に移住した。他の人々は長江を下り、河口から東に漕ぎ出て九州南部に辿りついた。一部の人々は北上し、山東半島を経由して朝鮮半島南部に渡り、更に九州北部にやって来た。彼らは縄文人たちと混血し、各地で新たな文化圏を作っていたと思われる。

紀元前300年頃、中国大陸での戦乱(周末期の戦国時代)から逃れて非常に多くの人々が日本に渡って来た。その時縄文系の人たちとの間で衝突が起きて多くの死者が出た。この縄文系の人たちは長江中流域から逐次渡来してきて縄文人と交流し、混血も進んでいた人たちである。しかしこの衝突は一時的で、その後は縄文系の人々と新たな渡来人たちは住み分けて共存しつつ、互いに交流し混血して行った。

その後、西暦219年の後漢滅亡後と西暦633年の百済滅亡後に非常に多くの人々が日本に渡って来て天皇から姓・位階・耕作地・職などを与えられた。日本書紀にその事実が記録されている。地域によって差があるが、日本人のY染色体DNAでハプロタイプO型の人が50%前後含まれているのは日本人の先祖に上記のように大陸から渡来してきた人々がいたからである。人は両親から半分ずつの遺伝子を受け継ぐので、現在を生きる日本人の遺伝子は非常に多様である。その多様性は世界一である。

日本人種は多人種の混血種である。2000年以上にわたり男系の皇統が継続している日本では天皇の権威が多人種混血種の日本人を束ね、日本を単一の民族国家にしている。このことを日本人は良く自覚しなければならない。