2018年5月21日月曜日

20180521女流漢詩人江馬細香の作詞『自画に題す』


 私はある詩吟教室で月二回詩吟を教えている。「教えている」と書けば「上から目線」のように聞こえるが実はそうでない。私は19年前、この教室の前身である「詩吟を楽しむ会」というサークルを発足させ、詩吟の「指導者」としてその会を主宰していた。その会が始まったのは放送大学の同窓会で知り合ったIさんという一人の女性に、私がそういう会を作りたいと相談したのがきっかけである。その会は2年前私の希望で解散していた。

ところが元メンバーの中から「続けて欲しい」という希望が出た。1年前正式の詩吟教室として名称を私の雅号「信風」を冠した会が再開された。私は「信風会」の「先生」となり、これまで詩吟についてそれまで学び身につけてきたものすべてを伝えるためいろいろ工夫・努力している。私は「先生」と呼ばれることを認めているが、それは私の肩書ではない。私は肩書を全く必要としていない。「先生」はその会の中での通称である。

今月は教える吟題を江戸時代の女性漢詩人・江馬細香の『自画に題す』にした。従来詩吟といえば男性の作によるものばかりを教えていたが、今回初めて女流漢詩人の作による詩の吟詠を教えることにした。ただ、漢詩の詠い方の節・調べについてはメンバーが個々に考えて独自のものを作ってもらうことにした。勿論私はメンバー個々にそれぞれ主体性を持ってもらうように注意を払いながら、メンバーが困惑しないように手助けしている。

「江馬細香(天明744日(1787520日)〜 文久元年94日(1861107日))。江戸時代の女性漢詩人、画家。美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の愛人であったことでも知られる。」(以上、ウイキペディアより引用。)

江馬細香は頼山陽の恋人であり弟子であった。二人の出会いは江馬細香が27歳、頼山陽が34歳のときであった。頼山陽はそのとき離婚して独身であった。頼山陽は美濃を遊歴中江馬細香の才媛ぶりを知り、細香を自分の妻にしたいと思って細香に会った。しかし細香の父親・江馬蘭斎は自分の細香が山陽の妻になることを望まなかった。しかし彼は自分の娘が山陽の弟子になることは許した。山陽は細香を自分の妻にしたいと申し出ることなかった。その後京都に居た山陽と岐阜の大垣に居た細香は何度か行き来していたらしい。

先日テレビで桑名から大垣に至る鉄道の旅の番組が放送されていた。山陽はその大垣から舟で桑名まで行く情景を『舟大垣を発し桑名に赴く』と題する詩にまとめている。当時も川幅は広くなかっただろうし、舟もせいぜい2、3人しか乗れない小さな舟であったと思われるが、きっと楽しい川下りであったに違いない。

 江馬細香は後に以下の詩を作った。私はこの詩を教室のメンバーがそれぞれ自分なりに節をつけて詠うことを求めた。皆はそれぞれの思いを籠めてこの詩を吟じよう、良く詠おうと努力している。こういうことは普通の詩吟教室では行わない。私は「先生」であるので一応範吟を示し、URL http://takaban.seesaa.net/article/458969184.html
 でインターネット上に公開している。

題自畫 江馬細香

孤房弄筆歳年移
一誤生涯何可追
聊喜清貞與渠似
幽蘭痩竹寫寒姿

自画(じが)(だい) 江馬(えま)細香(さいこう)

孤房(こぼう)(ふで)(ろう)して歳年(さいねん)(うつ)
(ひと)たび生涯(しょうがい)(あや)まる(なん)(お)(べ)けんや
(いささ)(よろ)こぶ清貞(せいてい)(かれ)(に)たるを
幽蘭(ゆうらん)痩竹(そうちく)寒姿(かんし)(うつ)

 この詩の意味は次のとおりである。(公益社団法人関西吟詩文化協会がインターネット上に公開しているものを引用させて頂いている。)
「孤独な生活の中にあって絵筆を握り幾年かの歳月が過ぎ去ってしまいました。生涯にひと度、普通の婦人とちがう道をえらんでしまったからには、どうして取り返しがつきましょうか。
 私がわずかに喜びとするのは、ひとすじに志を守り通してきたことが、ちょうど蘭竹の清らかさに似ていること。ですからひっそりした蘭や痩せた竹の冷たいまでに純粋な姿を好んで詩や画に描くのです。」

 人の一生は長いようで短い。私たちは今から190年ほど前に生きていた男・頼山陽と女・江馬細香の交流に思いを馳せながら、今を生きているのである。

2018年5月1日火曜日

20180501長く王臣と為りて王室を護る



 「長く王臣と為りて王室を護る(長爲王臣護王室)」は頼山陽の作詩『百済を復す(復百濟)』の最後の句である。渡部昇一の『古代史入門』(PHP研究所発行)に、「頼山陽は日本の通史を一人で書いた最初の人である」「頼山陽は日本の歴史の中で詩になるような事件を六十六取り上げて、これを見事な楽府体の詩にした」とある。

 下記URLはその詩の吟詠である。

 
 西暦663年、日本が百済(朝鮮半島の南西部の国)を救おうとして800隻・42千人の大軍を派遣して、百済軍5千人と共に唐(当時の中国)と新羅(朝鮮半島の南東部を支配していた国)連合軍と白村江で戦い、惨敗した故事にちなんで、頼山陽が上記の詩を書いた。

 国が敗れた百済から何千人という数の人々が日本に渡航し、学識・経験を有している者は当時国政を担っていた朝廷に仕えて朝廷を支えた。彼らは氏姓制度の中で天皇から氏姓を賜り、その子孫は沢山の名字の家々に分化していった。それらの事実は日本の歴史書『日本書紀』に記録されている。頼山陽はそのことを詩にしたのである。

 人々のそれぞれの出自の多様性は弾力あり、活力あり、柔軟性がある社会と文化を育む。日本では神武天皇以来の男系の皇統が維持され、第36代孝徳天皇の御世、西暦645年に初めて元号が定められ現在に至っている。この天皇を中心とする伝統が日本の社会と文化を一層豊かで安定したものにしている。

 ある特定の思想・信念のもとにそのような日本の有り様を好まず、外国の勢力と連携してでも今の政権を打倒し、自分たちが理想とするあらたな日本に作り替えたいと考えている人たちがいるようである。しかしそれは日本の社会と文化の弾力・活力・柔軟性がもたらす一つの現象である。もし其処にいろいろと矛盾が大きくなれば、中庸に向かって自然に修正されることだろう。其処が日本の良いところである。

 「偽装保守」と批判されている籠池氏に影響を受けたのは一時名誉校長になった昭惠夫人だけではない。籠池氏の理想に共鳴し小学校建設のため多額の寄付をした人たちだけではない。籠池氏側だけが「正義」であり安倍政権側を「不正義」であると一方的に決めつけ、メディアの報道だけが正しいとして安倍政権打倒の為だけにエネルギーを費やしている野党の国会議員たちも同様である。

 男は『安岡正篤 易経講座』を書棚から出して再び読み始めた。今日本に求められるのは「中庸」である。元来日本人は「中庸」が好きである。天命に照らして「中庸」を得るため矛盾を正す必要が生じれば、日本人は命を懸けてでも矛盾を正すため「折中」しようとする。白村江の戦いも、戦後「太平洋戦争」と呼称変更された「大東亜戦争」も長い時間軸の中で評価すれば「折中」の動きであった。良かった部分がある一方で悪かった部分も必ずある。これからもそのような「折中」の動きが表れるかもしれない。そのときメディアによる報道に流されることなく、易経による正しい判断が先ず下される必要がある。