2010年12月31日金曜日

外交と防衛(20101231)

  老人は新幹線の中で『大東亜解放戦争』(岩間弘著、創英出版)を読んだ。この本は、現政権の首脳やスタッフ、外交・防衛関係の大臣やスタッフたちに是非読んでもらいたい本である。

と言うのは、外務大臣になることを希望していると噂される鳩山元首相やその取り巻きや、鳩山氏に影響を与えたとされる寺島実郎氏などは「冷戦時代の安保体制からの脱却」という切り口だけを金科玉条のように主張するが、それでは対ロシア、対北朝鮮、対中国外交戦略については、「軍事力は外交の非常に重要な手段である」という視点を持っていないように老人には思えるからである。

  新幹線の中に「ご自由にお持ち帰り下さい」と注記のある『WEDGE 2011 1』号が各座席に置かれている。それを読むと次のような記事が目にとまった。谷内正太郎氏・早稲田大学教授・元外務次官)が寄港した『TPP参加は「強い安保」「強い経済」への分水嶺』と題する記事である。

  「2020年頃には、中国軍の総合的能力は、米国を除けば、東アジア随一のものとなるであろう。これに対抗できる勢力は、米国の太平洋防衛網しかない。・・(中略)・・仮に、大きな紛争になれば、米国は、同盟国である欧州主要国にも援軍の要請が出来る。・・(中略)・・軍事的実態を見れば、東アジアが、北米や欧州と切り離されて、米欧に対抗する独自の国際政治の場を構成するという考えが、いかに幻想的かよくわかるであろう。また、東アジアにおいて、日本が、中国やロシアを押さえて、他のアジアの国々を従えてリーダーシップをとる、或いは、日本が、米国と中国やロシアの間を仲介するという議論が、どれだけ現実離れしているか分かるであろう。・・(中略)・・環太平洋自由貿易構想を、戦略的観点から眺めれば、日本が飛び終えるべきバスであることは自明であろう。・・(中略)・・閉塞感に鎖され、内向き、縮み志向に陥った日本はこの痛みを覚悟し、敢えて突破口を開いて局面を打開する強力なリーダーシップが必要である。菅直人総理は「歴史の分水嶺」という言葉をよく使う。分水嶺では、正しい方に滑っていかなければならない。(後略)」

  日本国憲法前文にあるような「公正と信義」は、中国にもロシアにも北朝鮮にも、また韓国さえにも「ない!」。「友愛の海」はない。日本は近現代の歴史に鑑み、冷徹な目でこれら「特殊な」国々と対峙しなければならない。ドイツがやったように、アメリカの「核のボタン」も、一朝有事の際には日米共同で押すということを日本は決意し、そのことを彼の国々の政府関係者に分からせなければならない。

  そういう意味で日本を過った方向に導くことになる鳩山氏や小沢氏は、考え方を改めるまで「黙って」いて貰わねばならぬ。マスコミもいつも同じ顔ぶれの論者だけではなく、谷内氏のように「正論」を唱える方々をテレビに出てもらうようにすべきである。

  冒頭に示した本には、「東京大学等出身の左翼、共産主義の学者や政治家が、文部科学省はじめ、多くの官庁に多数いて、日本を左へ、左へと向かわせ、最終目標を天皇制の廃止、打倒に向けている」と書かれている。この本で日本とロシアや中国や朝鮮との間の歴史を正しく紹介している。これについて今後このブログで書き留めておきたい。

2010年12月30日木曜日

新幹線の旅(20101230)


  今、新幹線の中でこれを書いている。9時9分新横浜発のぞみ19号は定刻通り新横浜を出発した。今日もお天気がとてもよい。列車の到着を待つ間、ホームで暖かい日差しに照らされる。気分は爽快である。女房に「帰るのが憂鬱?」と聞くと女房は「憂鬱」という。「俺は列車の旅が楽しい」と言うと「それは同じよ、でも帰れば仕事が一杯待っている、婆さまは私が帰ると何もしなくてすむし、ただじっと炬燵に座ってテレビを見ていれば、ご飯が出てくるし、楽だから私の帰るのを待っているのよ、ただそれだけよ」という。「婆さま」とは男の父親の後入りで女房にとっては実母である。しかし女房はその「婆さま」が男の家に後入りで来て以来、その「婆さま」とは一緒に暮らしていない。女房にとって「婆さま」の実家の叔父と叔母(叔父の嫁)が実質親代わりであった。

  昨日までばたばたして帰る準備をしたが、それは今朝、家を出る直前まで続いた。女房が好きなので、わが家では熱帯魚も金魚も飼われているし、シクラメンやデンマークカクタスや三色すみれなで沢山の花が育てられている。それらを一週間あまり不在の間、よい状態を保つため普段より余分の仕事が増えるのである。花は枯らさないように毛細管現象を利用した給水システムを使ったり、魚は飢え死にさせないように長期餌を与えたりする。二人暮らしとは言え綺麗好きなので洗濯物は多い。夕べ使った下着や寝巻なども洗濯して室内に干しておく。「発つ鳥跡を濁さず」の諺のとおり何もかもきちんと始末して家を出る。それは、もし万一事故か何かで死んだ後、他人に笑われないようにしておくためである。

  男の亡父が遺した家は風光明美な土地にある。田舎とは言え生活には便利である。男は其処が好きなのであるが、さりとて其処に定住することは難しい。都会の生活の良さを捨てることはできない。良いところ取りはできない。ただ、そう遠くない将来、男も女房も体が弱ってきたときどうするか考えなければならない。終の棲家は都会地よりも田舎にある老人ホーム、それも温泉地にある老人ホームの方が良いと考えている。

  今回年末のため新幹線の予約の変更は簡単ではなかった。初めの計画では博多からバスを利用しようと考え、博多からの列車の乗り継ぎのことは頭にはなかった。しかし大雪の恐れもあり山間部を通る博多からの高速バスの利用をやめ、特急列車に変更した。博多での列車の乗り継ぎのことがあり、新幹線の予約を変更しようと試みたが、いずれも満席で変更できなかった。博多でちょっと待ち時間があるが、一つ前の列車のグリーン車だけが利用できた。このため初めてであるがグリーン車にした。これは値段が高いがそれだけのことはある。飛行機を利用しても年末は新幹線のグリーン車で帰るのと比べ費用は大差ない。むしろ費用の割には時間的にも気分的にもゆっくりできる。繁忙期でなければ飛行機の方が断然安い。だから盆正月は飛行機を利用せず新幹線を利用している。ただ今回だけはそれもグリーン車になった。女房のストレスも幾分解消されるだろう。

  N700型ののぞみ号には列車内でインターネットができるようになっている。無線LANを利用するのであるが、そのためには予め無線LANの業者と契約しなければならない。男は列車内でわざわざインターネットをしなければならないような仕事をしているわけではない。列車内にAC100ボルトのコンセントがありさえすれば、内臓バッテリーのことを気にせず長時間パソコンに向き合うことができる。グリーン車では座席の肘のところにコンセントがあるので、そここら電源を取ってパソコンを動かしている。隣で女房は持参したプレーヤーで音楽を聴きながら本を読んでいる。列車は名古屋に着いた。

2010年12月29日水曜日

帰省(20101229)


  男は女房tと一緒に明日(29日)新幹線で九州に帰る。その準備でかなり前からいろいろ忙しかった。女房は帰れば「おさんどん」が待っている、と憂鬱気味である。何か楽しみがあって帰るのではなく介護が目的で帰るので、帰ってもなにもかも自分たちでやらなければならないことばかりである。男もいろいろ手伝うつもりであるが、介護と言うものはどうしても女の手がかかるものが多い。女房の実母である母(男の継母)は女房がいろいろ細々とよくやってくれるので、女房が時々帰ってくれることを期待している。女房も来年春には70歳になる。介護といっても「老老介護」である。無理をすると疲れが出る。

  しかし考えてみれば、世の中には遠くまで旅ができない人が非常に多い。介護を兼ねてとはいえ、遠い九州まで年に何度も帰ることができる人は、遠くまで旅ができない人から見れば羨ましいことである。ものは考え方次第である。あらゆる物事には表の面と裏の面とがあり、一方の面だけから物事を見、物事を考えるのは間違っている。

  ところで人の幸せは、その人が他者にどれだけ多くの喜びや幸福感や安心感などを与えたかによるものである。物事の原因が結果をもたらす。善い行いには良い報いがある。善い行いが多ければ良い報いも多い。逆に悪い行いには、決して良い報いはない。悪いことをして報酬を得ても、その人の前世から来世までの長い時間軸で見た場合、悪行は必ず罰せられる。現世にあっても「罰を被る」と言うように、罰を被る原因に気づくことになる。

  この「行い」というものは、形として目に見えるものばかりではない。因果を通じて目には見えない結果として顕れているものもある。「それが善い行いであった」と分かる人にしか分からぬものもある。わが家において男の継母である老母は遠い先祖から男の息子たちにつながるものを伝えてくれた。そのことは男にしか認識できないことである。男はそのこと故に老母をよく看る役目が与えられていると自覚している。

  ある行為を「役目」で行うと考える場合、自分の役目に気が付いていれば、どんな辛い役目でも粛々とこなして行くだろう。時にその役目が自分の死をかけたものであっても、生還を期しえないものであっても、平然としてその役目を果たすだろう。それが武士道である。幼い頃よりその心構えができている人とそうでない人とでは人生の生き方や志が違うだろう。今の時代、そんな大仰なことはないが、「役目」を自覚するとしないとでは、人々の評価も違ってくる。特に地縁血縁が濃い地域社会ではなおのことである。

  このたびお正月には孫たち一家も九州に帰ってくるというので女房の叔父・叔母たちが老母のところに沢山の餅や米や野菜などを届けてくれている。叔父・叔母たちも既に80を超えているが、姉である独り暮らしの老母のことを思っている。田舎の人たちは皆情が厚い。女房も親代わりだった叔父夫妻や姉のような叔母と厚い情を伝え合っている。

    皆、生得的に心根の優しい、思いやりがとても深い、心配りがよくできる人たちである。皆、90を超えた老母が、九州の片田舎で独り暮らしをしている様子を見て可哀そうに思っている。しかし老母は住み慣れた所で暮らす方が幸せだと思っている。

    今のところ老母は大変元気である。しかしその独り暮らしもそろそろ限界に近付きつつある。去年も入院騒ぎで老人は飛んで帰ったことがあった。

2010年12月28日火曜日

放送大学(20101228)

  昨日、放送大学から来年度の授業科目や面接授業時間割表など分厚い資料を送って来た。男は昨年、放送大学に20年ぶりに再入学して『分子生物学』などを選択して勉強したが卒業する意思はないので単位認定試験は受けなかった。放送大学ではテレビとFMラジオで遠隔授業が行われる。男の女房もこの大学で勉学を続けており、既に二つの専攻を卒業してそれぞれ「学士(教養)」という学位を授与されているのであるが、さらに別のコースを専攻して『バイオテクノロジー』など難しい科目の単位認定試験を受け、卒業する気でいるので一生懸命勉強していて、録画・録音した授業を何度も再生しては視聴している。

  送られてきた資料の中に『ONAIR』という機関誌がある。その1ページ目に2008年にノーベル物理学賞を受賞された小林誠・高エネルギー加速器研究機構特別栄誉教授を囲む対談の記事が載せられている。小林教授は素粒子という最もミクロな世界で、自然界にはクォークが3世代(6個)以上なくてはならないと提唱し、世界中の加速器の実験で、従来3個しか見つかっていなかったものを残りの3個見つけ、この宇宙誕生の謎の解明に大きく貢献された。日本人の科学者たちは理論物理や化学の分野で世界をリードしている。

  日本人のノーベル賞受賞者数は物理学賞で6名、生物学・医学賞で1名、化学賞で7名、文学賞で2名、平和賞で1名である。その他アメリカ国籍を取得した元日本人(南部陽一郎氏)、戦後台湾国籍となった元日本国籍の人(李遠哲氏)がそれぞれ化学賞を受賞した。李遠哲氏は旧日本帝国大学の一つであった台北帝国大学を卒業され方である。他に旧大韓帝国でノルウェー人の父と日本人の母の間に生れ「良夫」という日本名を持ち、戦後10歳の時から18歳の時まで横浜市で暮らし、後にアメリカに渡りアメリカ国籍を取得した人で、同じ化学賞を受賞したチャールズ・ペダーセン氏がいる。(以上、「Wikipedia」記事引用。)

  日本は従来非常に高い教育水準を維持してきた。日本は科学・技術で国を立て、貿易で繁栄し、世界有数の農業国、森林国、水産国としてその技術水準を高め、国防をしっかりとして中国やロシアや北朝鮮という国際ルールを無視するゴロツキのような国々の野心を打ち砕き、今世紀も来世紀も、美しい、平和な、安全な国で在り続けなければならない。日本は万世一系の天皇を奉じ、美しい日の丸の旗と、穏やかな旋律の日本国歌を大切にし、今後千年も万年も「東方の光」として世界に憧れを示し続けなければならない。

  男はかつて仕事の関係で放送大学の放送番組を作る現場や設備を見たことがある。諸外国でも放送大学のような遠隔授業を行っている。インターネットによる大学の授業も盛んに行われている。今の時代の人たちは、学ぶ気さえあればいつでもどこでもそこが大学のキャンパスとなる環境にいる。放送大学は世界に誇る非常に優れた教育システムである。

  『ON AIR』には、放送大学の教養学部を卒業した方のことや、大学院を卒業した方々のことや、さらに他の大学に進学し博士号を取得した方のことが紹介されている。もし男が20歳若ければ、そして今のように自由な時間があれば、男も放送大学の大学院を出て、さらにどこかの大学で学問をし、博士号も取得したかもしれない。今となってはそのような希望も気力も体力もない。人生のある時期、何に自分の時間を振り向けるかという考え方が重要であると思う。 時間は誰にでも同じ一日24時間しか無いのだから。

2010年12月27日月曜日

写真立て(20101227)


  このブログを書いている机の上に二つ写真立てがあり、目を左にやるとその写真立てが見える。写真立ての一個は男の友人(女性)がわが家に来て10日間滞在したときプレゼントされたものである。銀色の額縁の写真立ての周囲には修飾の字体でFriends is a gift of laughter and endless support 等の文字が描かれている。その中に来年春大学を受験する孫娘の写真が飾られている。その友人は自分一人とシェルター(捨て犬の檻)から貰ってきて育てている犬や猫と淋しいクリスマスイヴを過ごしたようである。カードにそう書いてあった。男と同じ年の彼女に電話してあげれば良かったと思うがそうしなかった。

    その隣に両開きの金色の額縁の写真立てがある。これは男があるパーティに参加したときプレゼントされたものである。その両開きの右側は、飾り模様の縁の中に楕円形の切り抜きがある。その中に来年高校に進学する孫娘の写真が飾られている。その左側には、チョコレート色と茶黄金色のツートーンの二重のラインで囲んだ方形の飾り縁の中に方形の切り抜きがある。その中に来春4歳になる孫息子の写真が飾られている。

    目を正面に向けると黒色のラックがある。そのラックの上の眼の高さの位置に2個の写真立てを置いてある。いずれも木製の簡単な構造の安物である。その一つは男と女房が40代の頃、南房総の花畑の中に二人並んで腰を落としてしゃがんだ格好で撮ってもらった写真である。後ろの方に老人が運転してきたホンダのシヴィックが写っている。

    その隣に女房が還暦のとき、かつての親子4人の水入らずで、青森まで3泊4日の旅行をしたとき撮った写真がある。その写真は八甲田のある温泉宿の近くで小高い丘とその上の紺碧の空をバックに老妻を中に両脇に二人の息子が写っている写真で、男が撮ったものである。そのとき二人の息子はそれぞれ既に結婚しており子供もいた。しかし二人の息子の母(女房)の還暦のお祝いということで、3泊4日の青森までのドライブ旅行を息子たちがプレゼントしてくれた。あのとき息子の嫁たちはよく協力してくれたものだと思う。

    あのとき車は長男の嫁の実父が4人ゆったり座れる高級なセダンを持っていて、それを貸してくれた。泊った三つの宿は二男が企画してくれたものである。有名な小牧温泉にも泊った。費用はすべて子供たちが負担してくれた。女房はその旅行の後、嫁たちに感謝の気持ちを伝え、お礼にと相応のことはしたが・・。

    子供たちが中学生と小学生のころ2年半ほど過ごした三沢も再訪し、そのころ官舎の近くにあった特徴ある赤い色の三角屋根の住宅が3棟残っていてまだ使われているのを見て皆懐かしがった。あの頃はスパイクタイヤを使っていて、冬の日の凍った夜でも車を運転することに全く不安は無かった。ある凍りつく冬の夜、女房は車を運転して、氷の轍に車輪をとられながらも坂道を登り、友人の家まで男を迎えにきてくれたこともあった。

    思えば男には小学校・中学校時代を過ごしたふるさとがあるが、子供たちにはそのようなものはない。親がよく転勤していたので、子供たちには子供時代の仲間との縁が薄い。老人のようにいわゆる竹馬の友はいない。それが親としては可哀そうに思うところである。

    歳月を経て、今度のお正月には男の田舎の家で孫たち家族を迎える。田舎の家では今雪が降り積もっているという。独り暮らしの老母にとって非常ににぎやかな大晦日となる。

2010年12月26日日曜日

己を知ること(20101226)


  人生の歳月を重ね高齢になれば、人は徐々に「霊的」になってゆくのだと思う。その証拠に高齢者同士顔を合わせ何か会話を交わすとき、例え相手が初対面の人であっても何故かある種の親しみを感じるものである。

  このところ男は自分自身のエネルギーが低下したと感じている。昨日、男と共に老いた女房に先日の定期健診結果が送られてきた。女房はオールA、血管年齢は75歳と少し実年齢より高いが健康そのものである。一方、老人の方はコレステロール、尿酸値、BMIとも正常値より高く、血管年齢も88歳である。エネルギーの低下はこのように数字として如実に表れている。生活習慣病になりかけている状態である。

  男はそういう状態で詩吟を詠じ、録音し、再生して自分の吟声を聴いてみる。このところ、その声に張りがないことを感じる。齢のせいだけではあるまい。健診結果の数値のとおり体調が良くないのだ。男は今後体調を良くするためいろいろ努力しようと思う。一方女房は近くのフィットネスクラブに通っていて、そこで毎月測定される体重やBMIや筋力などの数値をよくするため努力している。その成果が徐々に顕れつつある。

    女房は「お父さんもどこかスポーツクラブに通ったらどう?」と言うが、男には今のところその気はない。バスで行けば15分ぐらいのところに市のスポーツセンターがあり、そこにはいろいろなトレーニング用の器具や器械を置いてある。バスも年会費制の敬老パスがあるので交通費はかからない。その気さえあればそこで汗を流すことはできる。しかし時間をかけてそういうところで汗を流すよりも、早寝早起きし、ウオーキングをし、スロージョギングをし、発汗して無駄な脂肪を減らすことのほうが良いように思う。

    己を知ることについて、己の深層心理状態を知ることも重要である。以下は男がこれまで学んで体得した己を知るための一つの理論である。

    人の言動の9割以上は潜在的無意識に支配されている。長い人生の間、自ら意識して自らを変える努力を継続すれば、その結果が潜在意識の中に組み込まれ、人の言動に自ずと顕れる。何かと多忙な現代人は、自らを省みる余裕がない。「忙しい」という言葉の「忙」の字は「心を亡くす」と書く。歳を経て「心を亡くした」自分に気づかぬまま過ごすと、ある日取り返しのつかぬことをしてしまいかねない。

    元々生得的な無意識に加え、後天的な無意識がその人の言動を自動制御する。元々生得的な無意識は親から受け継いだものである。それはDNAに書きこまれている身体的な諸能力や諸機能、性格や知能などによるものである。後天的な無意識は生後の家庭環境、教育環境、訓練環境、社会環境などに影響を受けているものである。

    人の無意識は、自分自身では分からない。しかし自分の周囲の者からのフィードバックに注意すれば、自分の無意識がどのようなものであるか大方想像はつく。生得的な無意識は変わらないが、後天的な無意識は意識した反復練習を積み重ねるうちに獲得される。

    仏教では、生得的無意識を阿摩羅識(あまらしき、第九識、別名「無垢識」)と言い、後天的無意識を阿頼耶識(あらやしき、第八識)と言う。阿頼耶識は、「因果業報」の「業」の潜在力、習慣力としての無意識である。.第八識を良くすることが重要である。

2010年12月25日土曜日

国の為、内閣を改造せよ(20101225)


  ロシア大統領や副首相が日本の固有の領土である北方領土を公式訪問したことについて、駐ロシア大使が更迭されることになった。当然のことである。もう一つ、ロシアがそのような行動に出る前に鳩山前首相はロシアを訪問していた。彼はいったい何をしにロシアを訪問していたのか!

  インターネット番組で、小沢氏が先月横浜市で開かれていたAPEC(アジア太平洋経済協力会議で來日中であった中国の胡錦濤国家主席の招きに応じて胡主席と会ったということが明らかにされた。小沢氏は「(中国は)変わらないとだめになる」と中国政府の統治方法に限界があると伝えたという。日中関係がこれほど悪化した原因を作り、これからも作り続けることであろう中国側と小沢氏側の思惑が一致し、インターネットでアッピールしようと試みたのだろう。馬鹿げた情報である。

    鳩山氏と小沢氏は、この日本のために何か良いことをしただろうか?無私の真心で、この国の為に身を捧げてきたのだろうか?ただ、私利私欲のために政治を行ってきただけではないのか?それにくらべ、大平元首相は大変立派な方だった。彼はこの国の為に最後の最期まで働き、自分の後継者に最もふさわしい人物は権力闘争の相手であった福田氏(元首相)であると語り、選挙運動中に逝った。

    最近、菅首相も立派な首相になりつつある。最近の首相の言動には強い「志」が感じられる。己の身を国の為に捧げ、己の命を国の為に捧げる滅私奉公の気持ちで必死に政治を行えば、必ずその先に明かりが見えてくる筈である。

    尖閣ビデオ流出事件の一色正春元海上保安官は国の為「切腹」した。関係者の仙谷官房長官や馬淵国土交通大臣も「切腹」しなければならないだろう。警視庁のテロ情報流出事件について見識があまりにもお粗末だった岡崎国家公安委員長も、女性だから「流罪」である。彼女は熱心な「元反日活動家」という国家公安委員長に相応しからぬ過去がある。

  国家としての中国は日本にとって最も不愉快な相手である。中国首脳は口で「他国に脅威を与えない」と言いながら「尖閣(魚釣島)は中国の領土である」と言う。以下、『歴史通11月号20101』(ワック出版)に前衆議院議員西村眞梧氏が寄稿している記事を引用。)

① 中国共産党は2007年に『琉球復国運動基本綱領』というものをつくり、その中に「琉球人民は日本の琉球群島に対する植民地統治を認めない」などと書いている。

② さらに『琉球臨時憲法』というものまで掲げ、その第四条に「琉球共和国は、奄美州、沖縄州、八重山州の三つの主要な州からなる」とある。

    中国は他国に脅威を与えないと言いながら、

① 1973年にアメリカがベトナムから撤退すると、その翌年、中国は突然ベトナム軍を排除して西沙諸島、つまりベトナム沖の南シナ海の島を占領した。

② 中国では、これを「自衛反撃作戦」と呼んでいる。

③ 1992年、フィリッピンのスーピック海軍基地、クラーク空軍基地からアメリカ軍が撤退することになったら中国は「領海法」なるものを制定して、南沙(スプラトリー)諸島は中国の領土だと主張して、米軍が撤退して脆弱になった南シナ海に侵攻を始めた。

2010年12月24日金曜日

 ひ弱な国(20101224)


  海上保安官・一色正春氏(43歳)は、尖閣諸島での中国漁船衝突・拿捕事件のビデオをYouTubeに故意に流出させた責任をとり、「免職」に次ぐ重い処分である1年間の「停職」という処分を受け、上司の神戸海上保安部長に「もうしわけありませんでした」と詫びて辞表を出し、即日(22日)退官した。

    彼は警視庁の調べに対して彼は、始終一貫して「国民は海上の出来事を知らない。衝突事件の真相を多くの国民に知って欲しかった」と供述している。 彼はYouTubeにビデオを流出させた理由や、アカウント名(登録名)を「sengoku38」とした理由について「言いたくない」と言い、「職を失ったことについてどうこう言うつもりはない。間違ったことをしたつもりはない」と読売新聞の取材に答えた。

    彼は現代に生きる侍であった。彼は西郷南洲(隆盛)の作詞のように、「天意を識(し)り」、「自ら安きを謀らず」、志を貫き、国の為に見事「切腹」を果たしたのである。

  外交文書の公開で、アメリカ議会の外交委員会聴聞会での対応に関し、1971年11月に牛場駐米大使に宛てた日本外務省公電で、「尖閣諸島の領有権を主張する中国側への反論は望ましくない」と指示する記述が見つかった。中国側への反論は、尖閣諸島の領有権について日本と中国双方を平等の立場に置くことになるので、決して得策ではないという判断によるものであった。この時の日本側の判断が今日まで尾を引いている。中国福建省泉州市の漁港では漁民たちが「魚釣島(尖閣)は中国の領土である。自分たちの海で魚を獲って何が悪い」と息巻いているという。(23日付『読売新聞』引用)

    わが国は、ことここに至って、わが国土の例え1平方センチメートルといえども奴らに決してかすみ取られてはならない。海上保安庁や海上自衛隊(「日本国防海軍」)にはしっかり頑張ってもらいたいと思う。

  今日は天皇陛下のお誕生日である。77歳・喜寿を迎えられた。この日、快晴のよい天気で麓まで雪に覆われて輝く富士山が老人の家のバルコニーから良く見えた。男は女房と久しぶり「市民の森」公園に行った。横浜には幾つかの「市民の森」がある。土地の所有者が市に提供して森の中を散策することができるように整備されている。

  森の中を歩き、住宅街を抜けて国道に出る。直ぐそこに鑑賞魚などを売っている店がある。そこに立ち寄り、昨日清掃しフィルターを交換したばかりの金魚の水槽に入れる水草と、暮には田舎に帰り1週間ほど家を空けるので留守番用の餌を買う。その後通りを歩き、ちょっと洒落た構えの洋食レストランに入る。女房は「おすすめ」の和風スパゲッティのセット、男は和牛100%のハンバーグのセットを求める。セットにはスパゲッティの場合、サラダとスープとコーヒーが付く。ハンバーグの場合サラダとご飯とコーヒーが付く。其処はとても雰囲気の良い店で、料理の内容も申し分ない。値段も高くない。男と女房は其処でゆっくり寛ぐことが出来た。この店にはまた来ようと思う。

  エレベータで近所の80歳近い男性と一緒になる。「今日は天皇晴れでよい天気でしたね」と言うと、彼は「そうでしたね」と言い、「日本はひ弱な国だ」とぼやいた。「ひ弱」なのは政治家や官僚たちである。第一線の海上保安官や自衛官(「軍人」)は頑張っている。

2010年12月23日木曜日

旅人の宿りせむ野に (20101223)


  久しぶりテレビで『日めくり万葉集』という番組を観た。昨年録画しながら老妻と二人でずっと観ていた番組である。同じ内容のものが再放送されている。

  今日は昨年10月1日に放送されたものである。「旅人(たびびと)の 宿(やど)りせむ野(の)に 霜(しも)降(ふ)らば 我(わ)が子(こ)羽(は)ぐくめ 天(あめ)の鶴(たづ)群(むら)」(巻九・一七九一 遣唐使の母)

  この歌の作者は遣唐使の母が詠んだものである。遣唐使は舒明2年(西暦630年)8月に第一次が派遣され、寛平6年(西暦894年)8月に第18次派遣が中止されるまでずっと続けられた。ちなみに白雉4年(653年)の第二次遣唐使船は、入唐の途中、竹島付近で遭難している。4隻の船団の全部または一部が遭難したのは、第二次、第九次、第十次、第十四次、第十六次、第十七次遣唐使の時である。第十二次、第十三次は船が破壊、又は無風で中止となっている。遣唐使は大変苦労し、命を失うという危険を冒してまでして、当時先進国であった中国の良いところだけを吸収し、日本に持ち帰って来たのである。

  この放送番組でこの歌の撰者はジェニ・ワキサカという日系二世のブラジル人である。彼女は「吾子が手の届かない遠くに行ってしまうことに対する寂しさや憂慮、そこには子を思う母の気持ちが表れていて、私も共感を抱く歌です」と語っている。

  彼女は1971年、44歳の時サンパウロ大学に進学し、1987年に博士号を取得している。2008年にNARA万葉世界賞を受賞しており、著書に『万葉集―日本古典和歌への道』などある。なお、この歌はポルトガル語に翻訳されている。(NHK『日めくり万葉集vol.10』より引用。)

  この番組を一緒に観ていた老妻は、「私でも○○(長男の名前)がアメリカに留学したときも、○○(二男の名前)が海外に出かけたときも、成田で別れるとき‘これが最後になるかもしれない’と思ったわよ」とぽつんと言った。

  戦時中、日本の母親たちはわが子を戦地に送り出すとき、「これが最後だ」と思い、悲しかったことだろう。夫を送り出すときも同じ気持ちであったことだろう。送りだされた男たちは、同じ釜の飯を食う戦友との連帯感の中で「(家族に)恥をかかせないように」し、「名誉を大切に」し、「(過酷な状況にあることを)辛抱」し、「(終りの見えない苦しい状況にじっと)忍耐」し、「(少しでも状況を良くするように)努力」した。

  そして軍人約186万人、軍属約9万5千人の戦死者を出し、それを上回る戦傷者を出し、戦争に敗れた。日本は戦争には負けたが、戦争の目的は達成した。それは欧米の植民地を解放するという目的である。東京裁判で自虐史観を植え付けられてしまったが・・・。

  今の日本があるのは、彼ら英霊たちのお陰である。そのことを今を生きる日本人は決して忘れてはいけない。中国は黄海で韓国艦艇に自ら衝突して沈没した中国の漁船の補償を韓国に要求した。尖閣諸島での事件のときも中国はわが国に同じことを言った。中国は黄海や日本の奄美から南西諸島にいたる海域の太平洋側まで自国の領土・領海とすることを綱領や臨時憲法で明記している。人民のレベルでは中国人と日本人はとても良好な関係であるのに、国のレベルでは中国は日本にとって非常に不愉快な隣国である。

2010年12月22日水曜日

戦争回避の最善の方法(20101222)

  尖閣諸島で中国の漁船が日本のコースとガードの船に衝突してきた事件のビデオをYouTubeで世界中に流布させたという事件で、その行為をした海上保安官が検察には起訴されないが行政処分で「停職」となることになった。件の海上保安官は処分後退官する意向であるという。昔で言えば「切腹」である。彼は「切腹」して日本国民に対して国を守るということはどういうことかということを訴えようとしている。彼のことは将来何世紀にもわたり忘れられることはないであろう。彼の上司たちは彼を潔く退官させるがよい。

  日本と中国やロシアや北朝鮮は、人民のレベルでは本当に良い関係であるのに、国家というレベルでは敵対関係である。韓国も日本の領土を不法に占拠し実効支配しているという意味では敵対関係である。韓国はもし北朝鮮が戦争を仕掛けて来た場合や国として崩壊した場合、韓国に滞在している日本人の救出の為自衛隊(「日本国防軍」)の輸送機を向かわせることについて難色を示している。そればかりではなく、李承晩韓国初代大統領が戦前の日本を誤解して日本を敵視し、勝手に引いたラインの中に竹島を入れて以来、韓国は日本固有の領土である竹島を実効支配し続けている。

  国と国との関係は野生動物と野生動物の関係に似ている。仮に中国は虎、ロシアは熊、北朝鮮は狼、韓国は豹、日本は象、アメリカはライオンがそれぞれの生活圏としているところとするならば、それぞれはその生活圏を守りながら覇権を争い合っているようなものである。虎と熊と狼はお互い相手の様子を窺いながらも友好的である。象とライオンと豹は仲が良い。特に象とライオンは最も仲が良い。ライオンは豹をしっかり守っている。虎や熊や狼は自分たちの勢力圏を広げようとするが、今のところ象と豹の生活圏内には侵入出来ずにいる。それでも熊は象の領土の一部を確保し、手放そうとはしない。

  それぞれ動物の子供同士はまだ相手を知らないからお互いの生活圏に入り込んで遊んでいる。それぞれの動物の親たちは他の動物の子供を相手にはせず、むしろ可愛がっている。可愛がっておけば将来きっと役に立つとお互い考えている。

  中国漁船の衝突事件は、戦争になりかねない重大事件である。海上保安官たちは国境の最前線で日本の領土をまもるために命をかけて働いている。件の海上保安官の「切腹」は日本の自制と法治国家の秩序を中国政府と人民に示すものである。今後日本は南西諸島に自衛隊(「日本国防軍」)を配置し、防衛と打撃力を強化しようとしている。

  日本人は相手を尊重してものごとを婉曲に言い表わそうとする。例えば「防衛力の強化」というが、実際の中身は「軍事力の強化」である。中国の漁船によるあの事件が起きて以来、またロシア大統領やロシア副首相がわが国の北方領土を訪問して以来、もうそのような婉曲なものの言いかたは不要であると思う。

  一番分かりやすい言葉は、映画『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』でダニエル・イノウエ上院議員が語った言葉である。それは「戦争回避の最善の方法は、戦争の準備を万全にしておくこと」である。

2010年12月21日火曜日

雑感(『坂の上の雲』、戦争の抑止)(20101221)


  暮には九州の田舎に帰るので色々やっておかなければことがあり、気ぜわしい。今日(20日)は熱帯魚の水槽の手入れをした。水槽は60cmサイズのものであるが、これでもバケツ4杯以上水が入る。結構重い。マンション7階の室内に置いてあるので大地震のとき壊れて階下の方々に迷惑を与えてしまうことが怖い。水槽の台が壊れないように、水槽が倒れないようにと可能な対策は講じてあるが、阪神淡路大地震のような直下型の大地震が起きた場合、現状では駄目かもしれない。多分駄目だろう。

  そこで、何れはこの水槽を無くしたいのだが飼っている魚が生きている間は残しておかなければならぬ。魚も後何年生きるか分からないが、老齢で死んだ後は補充しないことにしている。それまでの間大地震が起きないことを願っている。

  手入れが終わって一服しているときテレビのスイッチを入れたら、「アメリカ魂のふるさと」という番組をやっていた。ナイアガラの滝の近くで結婚式を挙げたり、新婚旅行でこの観光地に訪れたり、結婚50年記念に其処を再訪したりしている様子が紹介されていた。

  50年ぶり訪れたというカップルの様子を見ながら老人は思った。「人生は長いようで短い」と。番組のナレーターも同じようなことを言っていた。その滝にはナポレオン皇帝の弟もやってきたそうである。人の歴史の時間よりはるかに長い時間、太古の昔からナイアガラの滝はある。人々はそこで神を感じ、人生の生き方を悟るようである。

  ナイアガラ瀑布が観光スポットなって間もなく其処への鉄道が敷かれた。鉄道は1840年に完成したという。日本では江戸時代天保11年のことである。明治維新は1868年、日本はその後急速に発展し、明治37年(1904年)日露開戦以前にわが国の海軍力は列強諸国と肩を並べようとするまでに成長していた。僅か半世紀の間に日本は欧米に追い付くまでになっていた。日露海戦では日本で開発した砲弾が威力を発揮しバルチック艦隊をうちやぶることができた。日本のそのような優秀性は何処からもたらされたのであろうか?NHK特別ドラマ『坂の上の雲』では次回その海戦が描かれるようである。

  司馬遼太郎は、日本人のルーツが7つほどあると言ったという。この日本列島には漢族と同じDNAを持つ人々や蒙古族と同じDNAを持つ人々やチベット族と同じDNAを持つ人々などが渡って来ている。生存競争に勝ち、生き延びた人々の子孫が笑われ日本人の祖先である。日本人の優秀性の大本は其処にあるのかもしれない。先日書いた「442部隊」の優秀さも見知らぬ土地に移住して生き延びた人々のDNAによるものであると思う。

  先日も書いたように、中国は綱領や臨時憲法など文書化してある「意思」により、隙あらば沖縄や八重山や奄美をわがものにしようと行動している。『坂の上の雲』に描かれているように、日本も「意思」をもって戦争に対する準備を万端整えておかなければ、いつ中国やロシアの餌食となるかわからない。日系二世のアメリカ上院議員ダニエル・イノウエ氏が言っているように「戦争を抑止する最良の手段は、戦争の準備を万全にしておくこと」である。そのことについて相手中国やロシアがなんと言おうと気兼ねすることは一切ない。
日本人は、戦争に負けて捨ててしまった古い価値観の中から良いものを取り戻す必要がある。武士道精神、万世一系の皇統を守ること、礼節、仁愛の精神、etc。

2010年12月20日月曜日

エレベーターのメンテナンス(20101220)


  男が住むマンションは築25年である。鉄筋コンクリート7階建て28戸の小さなマンションで、裏に12台分の駐車場がある。その外側は川の堤防があり、その堤防の上を歩く人たちはこのこじんまりとした小さなマンションの様子を観る見ることが出来る。

  以前防犯上の問題が何度かあった。そこでこのマンションでは防犯カメラを設置し、不正な侵入者を監視出来るようにした。その後そのような防犯上の問題は聞かなくなった。

  28戸と言ってもそのうちの2戸は近くにある自動車関連部品を作る会社の寮であり、3戸はオーナーが別のところに住んでいる賃貸入居者である。区分所有法により住宅管理組合があるが、オーナー入居者が少ないため1年交代の組合の役員はすぐ回ってくる。男も再来年には入居以来3度目の役員にならなければならない。

  小さいマンションなので住民のまとまりは非常に良い。7階までエレベータで上がることが出来、高齢者にとって楽である。管理組合では一階には車いすのための簡単なスロープや玄関入口には手すりも取り付けた。交通や買い物が非常に便利であり、建物の日当たりは非常に良い。しかも川のすぐそばにあるので、ウオーキングにも好都合である。

  このマンションでは今の時代としては古い形式になってしまったエレベータをメンテナンスしながら大事に使っている。ところが、最近このエレベーターのレベルを自動的に調整するシステムの不具合で、気温が下がった深夜から明け方にかけていびきのような洗濯機が回っているような音が発生し、コンクリートを通じて全戸に伝わるという問題が発生した。初めは水道の給排水システムのバルブか何かの振動音ではないかとか、家庭でパンを作る機械が自動的に動く時発生する音でないかとか、あるいはこの川に沿って設置された直系9メートルの防災用一時貯排水システムからの音ではないかなどといろいろ詮索された。しかし、深夜エレベータを停止してみて、原因はエレベータを油圧で上下レベルを調整するシステムの不具合であることが判った。

  機械室にそのシステムの心臓部がある。そこに油のタンクがあり、温度センサーが油の中に置かれている。気温が下がり油圧ポンプに送る油の量が減ると自動的にタンクから油が供給される仕組みである。問題は自動制御システムの心臓部のメンテナンスが不十分であったことである。マンションではエレベータの維持のため管理費を多く使っている。本来ならば管理会社は油圧装置の自動制御システムに関心があるべきである。住民はプロフェッショナルに期待して料金を払っている。問題の原因を住民から指摘されるまでもなく、問題が起きたらする対処できるようなノウハウを持っているべきである。

    男は多少工学的な知識や経験があったので、問題の原因を直感していた。結果直感のとおりであった。問題の原因を調べに来た管理会社や下請けのエレベータをメンテナンスする会社の担当者に要求して油圧システムの心臓部を見せて貰い、タンクの中も見て温度センサーの形やそれが置かれている状況を把握した。

    男は管理会社の上役らしい人物に「ノウハウは集めて整理し、業務引き継ぎのときに後任者によく説明されるようにすべきである。」とプロフェッショナルであるための仕事の仕方を教えてやった。今時の者はその苦言を真摯に受け止めたかどうか分からないが・・。

2010年12月19日日曜日

母の命日(20101219)

  昨日18日は男が9歳の時乳がんで他界した生母の命日である。母は33歳のであった。終戦の翌年であった。終戦の年の8月、子供3人を連れて朝鮮から引き揚げてきた年、乳房に異常が見つかったとき、がんは既にかなり進行していた。既に手遅れであったと思うが入院し、両方の乳房を切除する手術を受けた。まもなく母は病院から手遅れと見放され、父の実家で死の床に伏していた。相当痛みがあったと思うが、母は9歳だった男の前では決して苦痛の様子を見せることはなかった。そればかりではなく、死の間際、いつものように「起こしておくれ」と言い、「東に向けておくれ」と言い、「御仏壇から線香を持って来ておくれ」と言い、「お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。そのときはいつものようにがんが転移している「背中をさすっておくれ」とは言わなかった。9歳だった男は、そのときの様子を鮮明に覚えている。死の間際まで、遺して逝く自分の息子に身を以って人生の生き方というものを教えてくれたのである。

  男は朝食のときそんな話を女房にした。すると女房は自分が3歳の時、糖尿病で亡くなった父が遺した言葉を今になって思い出して、「あのときお父さんは‘M子(女房の名前)、K(女房の生母の実家)’に帰るんだよ」と言ったという。そのKで女房の祖父は、「M子、御父さんは死ぬ時何と言っていたか?」、と3歳だった女房によく聞いていたという。

  その話を初めて聞いて男は言った。「父親というものは娘の行く末がとても心配になるものだよ」と。3歳の愛娘を遺して死んでゆくとき、その娘のことを心配しない父親は殆どいない。先の大戦で戦場で散った父親たちもそうであった。妻や娘に宛てた幾多の手紙がそのことを証明している。勿論、息子たちに対しても同じ気持ちであっただろう。ただ、違うのは、息子に対しては「立派に成長してお母さんを大事にせよ、そして国の為尽くせ」と言うだろう。事実、遺された手紙にはそのような趣旨の文面が多い。

  昨日書いた『442部隊』の話もそうである。収容所に居ながら戦地に送った息子たちに「恥」「名誉」「我慢」「辛抱」「努力」という言葉を贈った。息子たちは「家族の恥にならないように」とわが命をかけて過酷な状況の中で戦った。『歴史通11月号2010』に元442部隊将校、ハワイ州選出上院議員であるダニエル・イノウエ氏が寄稿しているが、その中で彼は父親から「いいか、何をしようとも、決して家族と、お前の祖国アメリカ合衆国に不名誉なことをもたらすことはしないように、この国は私たちによくしてくれた。だから、死ななければならないのなら、名誉ある死を遂げるように」と言ったという。

    軍史上特筆される戦死者、戦傷者を出しながらアメリカ国内で日系人への偏見とも戦った。そして日系人の地位と名誉を勝ち取った。アメリカ大統領は442部隊の表彰式で「君たちは祖国アメリカのためだけでなく、日系人に対する偏見とも戦った」と第442連隊の兵士たちを称賛した。戦死した日系兵士たちは美しい記念墓地に安らかに眠っている。

    翻ってわが日本ではどうであろうか?男の叔母の夫が眠る靖国神社に、日本国の首相は日本を東京裁判で「侵略国家」とすることに成功した中国などに配慮して参拝しようとはしない。その中国はわが国の新防衛大綱について文句をつけ、一昨日のブログに書いたように沖縄・奄美を自国の領土にしようとする方針に沿って軍事力の増強を進めている。

2010年12月18日土曜日

映画『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』(20101218)

  男は女房と伊勢佐木町にある小さな映画館に『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』という映画を観に行った。とても感動し、涙が出た。映画館で購入した小冊子の記事を引用しながら、これを書く。

  この映画は第2次大戦時に日系人で編成された442連隊の真実と生存者の現在を描いたドキュメンタリー作品である。父母の国・日本と自分が生れた国・アメリカが戦争をするという苦悩を抱えながら、アメリカ国籍を有しているにもかかわらずアメリカの中で人種差別と戦い、ヨーロッパ戦線ではファシズムと戦い、連隊規模でアメリカ史上最多の戦死者を出した日系人部隊の兵士たちの物語である。この442連隊はアメリカ軍史上最も多くの勲章を受けた部隊として歴史に燦然と輝いている。

    アメリカ西海岸に住む約12万人の日系アメリカ人と在米日本人は全米10か所の強制収容所に入れられた。当時ハワイでは在ハワイアメリカ軍の半数を占める日系人が従軍していたが、その処遇はアメリカ軍当局の頭痛の種だった。軍当局は日系人兵士全員を密かにアメリカ本土に移送し第100大隊を結成した。この部隊の優秀さを認めた軍当局は、強制収容所からも志願者を集め日系人だけの第442部隊を創設した。この連隊が本土で厳しい訓練を受けている間、第100大隊はイタリアに上陸しドイツ軍落下傘部隊と激しい戦闘を繰り広げた。そして訓練を終えた第442連隊と合流し、多くの死傷者を出しながら「ゴーフォーブローク(当たって砕けろ)」を合言葉に地獄のヨーロッパ戦線を乗り越えていった。

    第442連隊は1944年9月、4年間もドイツ軍に占領されていたフランスの町・ブリエラを解放し、休む間もなくドイツ軍に包囲されていたテキサス大隊の救出に向い、221名の兵士の救出に成功した。第442連隊が駆けつけるまで2度にわたる救出作戦は失敗していた。第442連隊はこの戦闘で救出したテキサス大隊の兵士の数を上回る死傷者を出している。

    この連隊に所属していた第552野砲大隊は配属の変更によりドイツへ進軍し、1945年4月末、ナチスのダッハウ収容所の解放を導いた。皮肉にもアメリカ本土の強制収容所から出征した兵士たちがユダヤ人収容所を解放したという歴史的な事実はあまり公表されていない。映画のこの部分の実録映像を見て男も女房も涙が出た。

   第442連隊はフランス南部に転戦しブリエラを解放後、1945年4月末に再びイタリア戦線に送られ、北イタリアにあるドイツ軍最後の生命線ゴシックラインに送られ、そこを非常に短い時間で制圧した。ゴシックラインにはそこで戦死した日系兵士の像が建っている。

    この映画の中で442連隊の兵士として戦い、負傷しながらも生き残った元日系アメリカ人兵士14名の今と当時の回想が描かれている。回想の中である元兵士は14、5歳のドイツ軍少年兵を殺さざるを得なかった苦悩、ドイツ軍兵士の命を狙わず足を射ち、その兵士が助けを求める声を聞きながら戦闘のためその現場を撤退した後ボンという爆発音を聞いた。状況が収まりその兵士のところに行ってみると手榴弾で自分の頭部を吹き飛ばして自殺していたとう話など、今90歳前後になって初めて語った元兵士たちの話が紹介されていた。

    日系二世たちは、父母から「恥」とか「辛抱」とか「努力」など日本的な教えを受け、自らの命を差し出して日系人の名誉を勝ち取ったのである。第442連隊はワシントンで大統領に迎えられ表彰を受けた史上唯一の部隊である。彼らはわれわれ日本人の誇りである。

2010年12月17日金曜日

鳩山「友愛の海」が元凶(20101217)


  上のタイトルは『歴史通11月号20101』(ワック出版)に前衆議院議員西村眞梧氏が寄港している記事の中のタイトルである。そこに次のことが書かれている。老人は西村氏の主張に全く同感である。大いに喝采したい。

  その記事の中に次の一文があるのでそのままここに書きとめておく。多くの日本国民は全く知らなかったことであるので、老人は出来るだけ多くの人に知ってもらいたいと思う。

  「中国は沖縄を「琉球」と呼んでいますが、今回の中国のデモで驚いたのは、日の丸を踏みつけているデモ隊の白いシャツに「琉球奪還」とプリントしてあったことです。しかも中国共産党は二〇〇七年に「琉球復国運動基本綱領」というものをつくり、そこに「琉球人民は日本の琉球群島に対する植民地統治を認めない」などと書いているのです。さらに、「琉球臨時憲法」というものまで掲げ、その第四条にはおどろくべきことに「琉球共和国は、奄美州、沖縄州、八重山州の三つの主要な州からなる」とある。中国の狙いは明らかに奄美を含む沖縄本島です。尖閣は橋頭保(作戦のための足場となる拠点)にすぎないと考えている。まず橋頭保を固めて台湾を落とし、沖縄本島を落とす。・・(途中略)・・一九七三年にアメリカがベトナムから撤退すると、その翌年、中国は突然ベトナム軍を排除して西沙諸島、つまりベトナム沖の南シナ海の島を占領した。中国では、これを「自衛反撃作戦」と呼んでいます。次には一九九二年、フィリッピンのスーピック海軍基地、クラーク空軍基地からアメリカ軍が撤退することになったら中国は「領海法」なるものを制定して、南沙(スプラトリー)諸島は中国の領土だと主張して、米軍が撤退して脆弱になった南シナ海に侵攻を始めた。」


  多くの日本人はこの事実を知らないだろう。首相を初め多くの閣僚や国会議員たちもこのようなことに深い関心を持っていないだろう。そこが中国やロシアの付け目である。ロシアも中国も韓国を朝鮮半島から追い出そうと内心企んでいるに違いない。ロシアは理屈をつけて日本固有の領土である北方四島を日本に返そうとはしない。最近ロシア副首相も択捉島を訪問したという。「ロシアよ馬鹿にするな!今に見ておれ」と叫びたい。

    日本は古来、シナや朝鮮の国々とは常に緊張関係にあった。勿論人民のレベルではいい人たちは沢山いる。日本に貢献してくれた教養の高い人たちは多い。しかし、国と国とのレベルでは、常に緊張関係があり、日本という国は彼らに脅かされてきた。老人が主張する「最大多数の最大幸福」は、国が「志」をもって断固彼らの侵攻を抑え込むということによってのみ実現させることができる。民主党が社民党など目線が低い政党と組むことはわが日本国家の為にはならない。勿論、これら小党の主張を利用することは必要であるが、国の大事なことに口を出させ、「最大多数の最大幸福」を犠牲にしてはならないのである。

  上に示した本には、「442部隊」という有名な日系人部隊のことを紹介している。老人は若い時その映画を観たことがあった。現在、横浜ニューテアトルなどですずき じゅんいち(本名、鈴木潤一)監督による映画『442日系部隊―アメリカ史上最強の陸軍』が上映されている。日系人は東條首相から「祖国アメリカに尽くせ」と励まされ、大和魂をもち、Go for broke(当たって砕けろ)を合言葉に戦った。彼らは米軍服を着た「皇軍」だった

2010年12月16日木曜日

昨日の敵は今日の友(20101216)


  フランス国内にドイツ軍の基地ができることになった。フランスとドイツ両国はEUの主力メンバーである。日本の自衛隊(「日本国防軍」と言いたい!)が朝鮮半島や中国大陸に基地を持ち、逆に中国軍が日本国内に基地を持つというようなことは決してないであろう。ローマ帝国がドイツを含むヨーロッパの大部分を支配していた歴史にくらべ、日本を取巻く地域は支配地域の変動はあるにせよそれぞれ単独の地域であり、わが国は中国などと漢字文化を共有しているとは言え、それぞれ独自にその文化を発展させてきたという歴史があるので、ヨーロッパのようには行かない。鳩山氏や小沢氏が秋波を送る中国は、古来日本とは非常に深い関係があるとは言え、国家というレベルでは常に敵対的であった。

  日本は天皇と言う万世一系の精神的主(あるじ)を持ち、四面海に囲まれた島国の中で世界に類例の無い独自の文化を築き上げてきた国である。この日本は古代のシルクロードの終着点でもあった。この日本列島には能力のある人たちが初め陸続きのころは陸伝いに、海面の水位が上がって大陸から切り離された後は海を渡って、北方、北西方、西方、南方からやってきて、日本人の本になった。生き残る力のあった人たちだけがこの日本に辿りつき、日本人の本となった。つまり、生存競争に勝った人たちが我々の先祖である。

  世界遺産となっている奈良や京都の寺や神社、仏像などを造った人たちの中には渡来人もいた。先祖が渡来人である人たちもいた。皆、今日純粋の日本人になっているのである。663年の白村江での敗戦以降、非常に多くの百済人が日本に渡り、皆日本人になっている。それよりずっと以前、中国の後漢滅亡後も沢山の漢族の人たちや朝鮮族の人たちが海を渡ってこの日本列島に住みつき、王族など優れた方々は朝廷に仕え、日本の文化発展に大いに貢献している。征夷大将軍坂上田村麻呂もその一人である。『日本書紀』や『続日本紀』にはその事実が書かれている。天皇家ですらそうである。桓武天皇の生母は朝鮮半島百済の武寧王を祖とする王族の末裔で、天皇から和氏(やまとうじ)という氏姓を賜った人の子孫である。天皇家の祖が大陸からやって来たという説があったが、それは虚説である。

    旧皇族・竹田恒泰氏が書いた『旧皇族が語る天皇の歴史』(PHP新書)には、「「倭族」と「日本人」は同一ではない。倭族と大陸系・半島系帰化人(渡来人)との混血が進んだ結果が、現在の日本人である。よって、倭族も帰化人も、日本人の先祖たる「日本人」なのである。とすれば、百済の滅亡によって日本に亡命してきた飛鳥時代の帰化人と、現在の日本で「在日」と呼ばれる人は、日本に来た時期が異なるだけであり、本質的には同じではあるまいか。今後混血が進むと、将来の日本人の先祖になるのであり、それは「日本人」にほかならない。」と書かれている。

    昨日の敵は今日の友、かつてアメリカは敵であった時期があったが今や最も親しい友である。中国も韓国も北朝鮮もロシアもそうなれば最も望ましいが、それは非常に困難であろう。何故かと言うとアメリカと日本はお互い尊敬しあい、価値観を共有できる部分があったし、アメリカに渡った日本人の子供たちはアメリカに忠誠を尽くし、ヨーロッパ戦線で非常に多くの血を流しもしたからである。東條英機首相がアメリカにいる日本人に、「日系人は祖国アメリカに尽くせ」という趣旨の手紙を送っていたという史実がある。

2010年12月15日水曜日

年賀状・クリスマスカード (20101215)

  男は年賀状を印刷し終えて、来年はこのように年賀状のために時間をかけられないと思った。出す相手によって通信文の内容も添付する写真も変える必要がある。女房とのツーショット写真を添付するものは誰にでも出すわけにはゆかない。年賀状を出す相手に今回限りで勘弁してもらおうと「来年からはなるべく世事に無縁の暮らしをし、年賀状も出す枚数を極力減らさせて頂こうと思います。しかし私どものことにつきましては下記ブログで情報を発信し続けます。」と一文添えた。

  クリスマスカードは毎年2通出している。以前は5、6通あ男は彼の足もとにも及ばないような存在であったが、非常にフレンドリーに付きあって下さっていた。奥様とご一緒に日本に何度か来られたことがあり、男は女房と息子たち二人を連れて一緒に食事にご招待したことがあった。何れも男が会社から派遣された研修のとき知り合った日系人の方々である。彼らが日本にやってきたとき、わが家に一泊してもらった方もいる。

  あのころは男も女房も若かった。我々がアメリカで研修を受けて帰国した後、今度はアメリカから技術者たちが日本にやって来た。日系人の技術者も来たがドイツ系など白人の技術者も沢山来た。男と女房は彼らのうちアメリカで親しくしていた方々をわが家に招待したり、富士五湖や鎌倉や明治神宮や隅田川の花火大会などに連れていったりした。

  2通のクリスマスカードの相手の一人は、その頃家族付き合いをしていた方の奥さんである。ご主人は男の直属上司だった。男が前立腺がんの手術を受ける1年前に同じ手術を受け、2年後に他界した。齢は男より1歳上であった。女房は男がアメリカに出張したとき自宅に招待してくれたり、本当に良くしてくれた。夫を亡くし、数年過ぎたとき、男と女房はサンディエゴで独り暮らししている彼女の家に4日間滞在した。翌年の春、彼女は追憶の旅にやって来てわが家に10日間滞在した。今、いろいろ思い出しながらこれを書いている。彼女は男と同じ年である。時々電話でコンタクトしあっている。

  もう一人は男が若かった頃、青森の三沢で知り合った元アメリカ海軍の少佐である。その頃佐官クラスの奥さん同士の会があって、男の上司が勧めてくれて若かった女房がその会のメンバーになっていた。彼は父祖がユーゴスラビアかどこかの出で、奥さんはスペイン系であった。男がアメリカに滞在していた頃、大学生だった下の息子がやってきて、西海岸のロスアンゼルスから東海岸のヴァージニアまで飛び、そのご夫妻の家に泊らせて頂いた。その時息子は部屋を開けたお子さんの一人の部屋に泊めて貰っている。

  その彼と奥さんは介護が必要な奥さんの高齢のお母さんと同居していて、サンディエゴからアリゾナの田舎町に移り住んでいる。昨年のSeason’s Greetingsにそのお母さんを介護しているので、何処にも行けない、まだ孫はいないと書いてあった。年に一度の連絡であるがお互い家族の写真を送り合い、消息を知らせ合っている。お互い会うこともなく、もう30年以上経つ。人生はそんなものである。

    男はこの記事を書きながら、これまで日本人も含め多くの方々と知り合った、その中で本当に心に残る方々、大事な方々は指折り数える範囲内である、と思った。

2010年12月14日火曜日

政治家から見た政治家(20101214)


  政治家は「民意」や「世論」を気にしながらも、自分が尊敬或いは支持する政治家に自分の政治生命の維持を託そうとする。自分が政界で「出世」するためには自分の「親分」の力、それも「政治家から見た政治家」の力であるが、それに頼る。その「力」の源泉は「金」である。政治家にとって政治活動のために「金」は喉から手が出るほど欲しいものである。金がなければ政治家としての自分の力が発揮できないと考えている。

  茨城市議会議員選挙では、小沢氏から金を貰い、指導を受け当選した谷亮子氏ら有名人の一年生議員が街頭で声を張り上げ、この国をめちゃめちゃにしてしまった鳩山前総理も駆けつけ懸命に努力したが、結果は惨敗であった。今のままでは民主党は統一地方選挙で勝つことは絶対に不可能であろう。

  市井の人々から見る最も望ましい政治家とは、 「最大多数の最大幸福」の実現に向けて、自ら志を持ち、自分の志を自分の言葉で語り、当選してもし自分の言葉通り事が運ばず、自分を応援してくれた人々の期待を裏切った場合、昔で言えば「切腹」し、自分の言葉に対して責任をとるような「誠実」な人である。今時の政治家でそのような高潔な人は非常に少ない。そのことが国民大衆の閉塞感につながっているのである。

  ここに西郷隆盛(号:南洲)の作詞を記す。彼は自分の言葉通り「安き」を謀らず志を全うし、鹿児島の城山の洞窟で自決した。介錯人は別府晋介(通称、本名は景長)である。銃弾で負傷した西郷が自決を覚悟すると晋介は、自分自身も足を負傷し籠に乗って移動していたが籠から降り、「御免なったもんし(お許しください)」と言って切腹した西郷の首を刎ねたという。晋介はその後銃弾の中、切腹し若干31歳の若さで自ら命を絶っている。

  何処から得た金か知らないが、一人5百万円以上の金を配り、多くの「志があるかどうかわからぬような新人」を当選させた小沢氏は「自分の姿勢と政治生活において、一点もやましいことはない」と言っている。何億円という大金の出所は明らかにしていないが、その金を(「自分の」政治に対する)姿勢と政治生活において一点のやましいことはなく、多くの議員を当選させた、だから金の出所を問われるのは心外であるということであろう。



  『 天意を識(し)る』 西郷南洲 作






 一貫す唯々の諾    従来鉄石の肝 


   貧居傑士を生じ    勲業多難に顕(あら)わる


   雪に耐えて梅花麗しく 霜を経て楓葉丹(あか)し   


   如(も)し能(よ)く天意を識らば     豈(あに)敢(あ)えて自ら安きを謀(はか)らんや



  「貫唯唯諾」という言葉は、『論語』の「里仁第四」にある「子曰、参乎、吾道一以貫之。曾子曰、唯、子出。門人問曰、何謂也。曾子曰、夫子之道、忠恕而己矣。」から引用している。老人は、今、この日本に、西郷隆盛のようなリーダーが必要であると切に思う。

2010年12月13日月曜日

美しい国・日本 (20101213)


  時間と言うものは容赦なく過ぎて行く。日曜日の今日一日何に多くの時間を割いたかと顧みると、老人は老妻と散歩がてらリサイクルの店に立ち寄り、ホームセンターに立ち寄り、大型複合商業施設「トレッサ横浜」まで足を伸ばし、家に戻るとBSフジで丁度奈良や京都の世界遺産のドキュメンタリー番組が始まったのでそれを見、夜NHK『坂の上の雲』を見るのに多くの時間を費やしている。その他、掛けている保険の整理をしたり、年賀状の宛先の整理をしたり、今こうしてブログを書くのにそれぞれ時間の塊を費やしている。

  奈良や京都の世界遺産を紹介している番組を見ながら、「来年は奈良に少しの日数滞在してゆっくり見て回りたいものだね」と語り合う。老人と老妻はこれまで何度か奈良や京都を訪れている。ただこれまでの旅は2泊程度の小旅行で、時間をかけてゆっくり見て回ったという満足感はない。今一度心行くまで奈良や京都を見て回りたいという願望はある。

  年の初めに豪華客船で横浜から四国まで旅をする人もいるし、年末年始の間海外に旅行する人もいる。しかし、老人と老妻はそのような旅をしたいとは全く思わない。この日本には美しいところ、価値あるところがあまりにも沢山ある。四季折々とても素晴らしい所が沢山ある。千年も千何百年もの間守り伝えられてきたものが沢山ある。

    日本と言う国には実に美しいもの、価値あるものが非常に沢山ある。それらは天皇を守り、天皇を支えてきた貴族たち、皇族や貴族の子孫で僧侶になった人たち、その人たちのリーダーシップのもとに寺や仏像や庭園や文芸やその他の物を造った人々、そしてそれらに人たちによって受け継がれてきたものが今日まで伝えられ、われわれの前に遺産として提供されているのである。

  人は何に多くの時間とお金をかけるかということは、その人の考え方による。お金持ちでなくても普段倹約し、必要なところに金を使う。見栄は張らず、ブランド品にも興味はない。自慢もしない。それが一番望ましい。しかしそのような考え方は、その人がこの世にもって生まれたもの(DNA)に加えて、この世に生れてから現在に至るまでの家庭環境、教育環境などによって生じるものである。

    一般に教養が低い人ほど、浪費をし、見栄をはり、ブランド志向をし、自慢をしたがる。そのようにして他者に対して自分を優位に示さないと自分自身が不安定で仕方がないのである。では老人自身にはそのような傾向が全く無いかと問い詰められるとすれば、老人も世間体を気にし、相手の者に何かを感じ取ることがあれば用心をし、先手をとろうとし、実際にそのようにしていることがある。

    人の世界も、動物の世界も、強い者が生き残る。これが自然の理である。「知は力」という言葉がある。「知」が劣る者は「知」が勝るものより弱い。「知」はただ単なる「知識」ではない。その人がこの世にもって生まれたもの(DNA)に加えて、この世に生れてから現在に至るまでの家庭環境、教育環境などによって生じる総合されたものである。この「知」の力は金の力にも勝る。「教養」が集約された概念が「知」である。

    この島国の日本には、そのような「知」が他国に比べ高密度で分散しているように思う。だから日本は非常に美しい国なのである。

2010年12月12日日曜日

各界のリーダーたちへ期待(20101212)


    老人はこのブログも含めて、プライバシーを公開することに若干の懸念がある。政治家や芸能人など半ば以上‘公人’である有名人を除いて全く一般の市井の一老人が自分の顔写真や経歴などを公開すると言うのは勇気の要ることである。しかし、老人の実弟など企業経営者は自分の顔写真を堂々と出している。見る方はその写真を見てその人がどういう人か納得する。問題はそのようにして少しでも‘公人’に近づくと、その発言には一定の注意が必要になってくる。いくら相手が‘公人’であっても、相手の地位・立場などを尊重しなければならない。しかし本屋に行ってみると、‘公人’を積極的に攻撃している記事を載せた本が並べられている。それを書いた本人も殆ど‘公人’同然の人たちである。

  言論の自由とは、そのような言論が自由にできることである。お隣の中国ではノーベル平和賞を授与された劉暁波氏が当局によって監獄につながれ、その奥様も半ば軟禁状態に置かれているという。世界中で中国は非難されている。

  その中国が北朝鮮と軍事的なつながりをもっているらしい。中国の高級軍人が北朝鮮を訪問し、北朝鮮も高官が中国を訪れている。中国は6カ国協議について北朝鮮に核開発を放棄させるように動くようアメリカ・日本・韓国から圧力をかけられている。ロシアは今のところ漁夫の利をねらっているのか沈黙している。しかし日米演習を‘妨害’した。

  アメリカは黄海で韓国軍と大規模な軍事演習を行い、引き続き日本の自衛隊(老人は‘国防軍’と言いたい!)と日本海及び南西諸島海域で大規模な‘軍事’演習を行って、煮え切らない中国に圧力をかけた。沖縄における米軍の存在は非常に重要であるとアメリカは何度も言っている。そのことを分かっているのは自衛隊(老人は‘日本国防軍’と言いたい!)と一部の政治家や一部の官僚や一部の識者だけである。

  菅総理は社民党と連携を組もうとしている。そのことを長島氏ら一部の民主党議員は心配しているとテレビの前で公言した。その「菅首相は10日夜、朝鮮半島有事が起きた場合、北朝鮮による拉致被害者の救出のため、自衛隊派遣の可能性を検討していることを明らかにした」という。これは11日の読売新聞記事である。それによれば、その発言は都内のホテルで開かれた拉致被害者との懇談で語られたものである。パフォーマンスの域を出ていない。首相に同席した東祥三内閣府副大臣は「(首相の発言内容の実現には)自衛隊法改正が必要だ。拉致被害者救出に向けて頑張るという決意の表れだ」と述べたと言う。

  もし菅首相に本気で日本の国土を守り抜くという‘志’があるならば、福島社民党などと連携を組もうなどと全く考えない筈である。‘志’があるならばアメリカの軍事力に依存している現状を不具合と認識し、自主防衛力の整備の必要性を国民によく説明し、あるべき日本の姿を描いて国民に訴え、広く国民の支持を求めるようにすべきである。そういう志が彼には全く見られず、人気取りのように見えるようなことしか言っていない。

  そういう中、渡辺恒雄・読売新聞グループ本社会長が民主党と自民党の大連立を働きかけているというニュースが飛び交った。社民党と組むと言うことは、「少数者の利益」のため大多数の利益が損なわれるということである。「最大多数の最大幸福」のため、各界のリーダーたちは今何を為すべきか、行動してもらいたいと一市井の老人は願っている。

2010年12月11日土曜日

先端医療保険(20101211)


  保険会社Aflacから先端医療の保険について案内が送られてきた。昔、老妻がある会社に勤めていたころ会社の総務の方に勧められて入っていた新がん保険はまだ継続中であるが、それに加えて医療保険ではカバーしない先端医療の保険に加入することを勧めてきたのである。先端医療は固形がんに対する重粒子線治療、固形がんに係る悪性腫瘍に対する陽子線治療などである。これらは現在のところ医療保険の対象外である。

  保険というものは安心のため加入するものである。そのため一定の費用がかかる。家計も国の予算と一緒で、何に重点的に予算を振り向けるかということが重要である。あれもしたい、これもしたい、あれも要る、これも要るでは予算は幾らあっても足りない。老人はこの先端医療保険に加入するため一部のある交通傷害保険を解約することにした。それくらいではまだ足りない。その他いろいろ仕分けをし、支出を切り詰める必要がある。

  保険というものは本人が生きておれば自分がどんな保険に入っているかということは分かる。しかし本人が死んだら遺された者は予め手元に情報を持っていない限り分からない。例えば老人と老妻は年末年始田舎で介護を兼ねて過ごすが、その旅行のため利用する新幹線のチケットは国内の旅行で事故死した場合支払われるよう、チケットの代金はその保障があるカードで決済した。しかしそのことを子たちにはまだ知らせていないので、万一のとき彼らは余計な労力を払わせることになる。そこで老人は自分と老妻が入っている保険の内容を一覧表にまとめた。それを子たちに送っておくことにした。

   しかしそれだけでは不十分である。老人はある葬祭業の会社と契約していて一切の費用は払い込み済みである。そこへ連絡すれば映画『おくりびと』ではないが、全てうまくやってくれるようにしてある。二人の戒名も既にもらってある。それぞれ相当立派な戒名である。しかし何処かの寺に葬儀に来て貰うようにするとその戒名では出来ないと断られる可能性はある。そこで折角契約し、払い込み済みであるその葬祭業者と生前に打ち合わせておかなければならない。遺影の写真の準備や連絡先など、生前きちんとやっておくべきことは沢山ある。普通、それらのことは遺族が大変苦労して行っているのが実際である。

  「立つ鳥跡を濁さず」である。人は早かれ遅かれ必ず「あの世」に行く。そのことを他人事のようにして日々を送るのも人生、わが事のようにして日々を送るのも人生である。一日を一生のように思い、その日にできなかったことを次の日に行い、やり残しをできるだけ減らしてゆくように日々を送る方がしあわせである。

  そのように思い、今日一日を送ったとしても、明日白骨となるかもしれない。「そんなのは嫌じゃ」と快楽に耽り、一時の悦楽で忘我しても、時が経てば空しさだけが残るだろう。確か『地図が読めない女、説明しない男』という名前の本だったと思うが、以前、老人は本屋でそれを立ち読みしたことがあった。自分の人生が見えないのは「地図を読めない」のと同じである。つまり男であっても女々しい男である。

  ではどうしたら自分の人生を見とおすことが出来るだろうか?答えは、誰も自分の人生を見とおすことができないのだ。ただ、「誰でも早かれ遅かれ死ぬ」ということだけは誰でも理解できる。「地図を読めない」男女はお寺で坊さんの話を聞いた方が良い。

2010年12月10日金曜日

憂国 (20101210)


 FaceBookで何ができるか、又FaceBookは老人にとってどういうメリットがあるのか、いろいろやってみた。ある程度見とおしはついた。老人はFaceBookを通じて、老人が発信しているブログへのアクセスを増やしたいと思っている。

 老人はこれまでこのブログで世の中の出来事について自分の意見を公開してきた。それは自分が会社勤めもせず、ボランティア活動もせず、町内会や同窓会などにも顔を出さず、年金暮らしで何ら生産活動もしていず、半ば隠居同然、遁世同然の日々を送っているので、自分が世の中に何か有用な役割を果たし、子や孫たちに何か価値あるものを遺す術としてブログに記事を載せることが自分にとって最も良いことであると思うからである。

 自分の顔、自分のバックグラウンド、関心事などをオープンにした上で、時にはもしかして記事に名前を出す人、それは政治家や一部の有識者やマスコミなどであるが、それらの方々に対して失礼かもしれないこと、或いは時には誹謗中傷・名誉棄損だと取られかねないこと、中国やロシア、時にはアメリカなどを批判する記事を書いて、ブログを読んでくれているある友人から老人の身を案じて電話がかかってきたこともあった。

 今日も良いお天気、老人は毎日軽いウォーキングをしている。先日あるリサイクルの店でひょっこり旧知の先輩にあった。‘先輩’と言うのは老人があるボランティア団体に所属していたとき知り合ったお方で、老人よりずっと年配の方である。そのお方は昨年大腸がんの手術を受け、この夏腸炎を患い体力が落ちたから、その回復のため毎日ウォーキングしていると言う。「80歳を超えるということは容易なことではないということが分かりましたよ」とその方はおっしゃった。老人はわが身のことを思い、心中「そうなんだろうなあ」と思ったものである。自分も後4、5年もしたら何か健康上の問題を持つかもしれぬ。

 ウォーキングを兼ねて行きつけの理髪店に行った。店主は老人の息子ぐらいの年代である。頭髪を刈ってもらいながらいろいろ巷の話を聞いた。巷では永田町の人間(政治家)とは違う感覚を持っていると思った。このところのロシアや中国や北朝鮮の動きに関連して「日本も核兵器を保有すべきであるという考え方も出てきていますね」と彼は言う。

 このところ領土問題で日本はやられっ放しである。菅政権は社民党に引きずられて鳩山前首相のように再びアメリカとの関係をぎくしゃくさせるようなことをしている。社民党に点数を稼がせてわが国を再び迷路に導いてしまうようなことをしている。老人は自分が書いたこのブログの「憂国」というラベルの記事を読み返してみた。自分が書いて公表したことを自分で言うのは気が引けるが、民主党政権になって以降‘憂国の情’激しく、憤りを感じながら記事を書いて公開している。自民党も頼りないということを書いた。

 鳩山氏は退任に際し「私のしたことは後世に評価されるだろう」という趣旨のことを言った。誰が評価するものか!彼はこの日本をめちゃめちゃにしただけである。ああいう男に国が将来叙勲で報いる必要は全くない!菅氏も所詮は市民活動出身者、器が小さい!彼があのような女性党首に振り回されるのは、彼にしっかりした志がないからである。

 政治家がだらしなくても自衛隊(老人は‘日本国防軍’と言う)は、国の背骨である。背骨がしっかりしている限り、何とかこの国は守られるだろう。

2010年12月9日木曜日

雑記 (20101209)

  毎朝起床前の日課として爪揉み、腹式呼吸、腹筋・背筋の鍛錬、ストレッチ、起床後は握力の鍛錬、各筋肉のストレッチをやっている。これで身体が温まる。コーヒーを沸かすなど朝食の準備を手伝い、朝食後歯を磨き、歯間ブラシや舌苔を取るブラシで丁寧に汚れを取り除き、髭を剃ったりシャワーを浴び背中や胸の皮脂を流し、整髪したりして一日の活動の前段階を終える。口腔衛生は特に就寝前丁寧に行う。

  ティータイムには紅茶に生姜の擂りおろしを加え、身体を温めるように心がける。体温を正常値の36.5度に維持することは体調維持に重要なことである。そのためには、食事と運動の内容を十分良くすることが必要である。睡眠は少なくとも6時間熟睡するよう心がける。それに加えて重要なことは喉や口の周りの筋肉を動かすことである。それにはお腹の底から力強い声を出すことである。詩吟の練習は最も効果的である。

  人間も機械、寿命と言うものは心がけ次第で長くもなり短くもなる。現役の頃は自分の健康について十分配慮する余裕もないのが現実である。若いから無理はきく。疲れも直ぐ取れる。しかし高齢となると無理は利かなくなる。無理をすると途端に病に倒れ、周りに迷惑をかけることになる。無理をしないこと、ストレスを貯めないことが肝要である。

  昨日も午前中はそうであったが、今日もデジカメに収められた写真の整理に時間を費やした。フォルダーを作って後で取りだしやすいように整理する。女房の友達にプレゼントする写真アルバムも作ってやる。これはA4のサイズ内に幾つもの写真の枠を挿入して其処にいい写真を貼りつける。芸術的なセンスが要求される。昨日、三溪園で撮った写真もそのようにして作った。非常に美しい出来栄えで、それを贈られた女房の友達は喜ぶだろう。

  そんなことをして時間を費やした後、コンピュータのメンテナンスを行った。セキュリティのためソフトウエアをノートン360バージョン4.0に更新した。3年間継続使用が出来るようにした。ブログをやっているのでセキュリティは特に重要である。

  ある人からFacebookのお誘いあり、それに乗ることにした。目的は男が日頃発信している我が国の防衛、政治、外交のことや人生の生き方、日本人のあるべき姿などの主張を出来るだけ多くの人に聞いてもらいたいと思うからである。友人・知人・親類・若い人など限られた範囲だけでなく、不特定多数の人、日本の政治家や男の上手くもない吟詠を公開しているブログからもリンクさせるなどしている。学歴もなく、知識人でもなく、テレビに出るような論客でもないごく普通の一年寄りが、国の為、若い人たちの幸せのため一生懸命ブログを書いている。それは年老いた男の自己満足、ドンキホーテのようなものだと言えばそれまでである。しかし全く無駄ではあるまい。男の一念はきっと何かに通じるだろうと思っている。いや通じなくても良いのだ。しかしある友だちなどから「(男の)ブログを読んでいる」と励まされ、嬉しく思っている。

    一日の経つのは早い。あれもしなければ、これもしなければ、と思いつつ一日が過ぎ去ってゆく。今日もお天気が良かった。しかし少し気温が下がってきた。男は運動を兼ねて近くの家電量販店にエコポイントの手続きをしに行った。12000ポイントある。

2010年12月8日水曜日

国指定名勝「三溪園」の紅葉(20101208)

  男は老母の介護のこともあって横浜陶芸センターでの陶作活動は休止中である。休止する前に釉がけしてあった多目的皿が一枚焼き上がっているのを年内に受け取りに行こうと思っていた。

  国指定名勝「三溪園」は、その横浜陶芸センターの直ぐ近くにある。この三溪園は生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三溪(実名・富太郎)の元邸宅である。彼はここに京都や鎌倉などから歴史的に価値のある建築物を移築し、明治39年(1906年)に「三溪園」として一般に公開したものである。175,000 ㎡(約53,000坪)の園内には10棟の重要文化財を含む17棟の古い建築物が四季折々の自然の景観の中に巧みに配置されている。(以上、財団法人三溪園保勝会発行小冊子より引用)

  男と女房はよくこの三溪園に行く。仲秋の名月の時には森の木立の上から昇ってくる満月が大池の水面に映え、小舟の陰影とともに何ともいえぬ風情がある。このとき臨春閣という紀州徳川家初代・頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築の座敷で、邦楽の演奏会が行われる。老人と老妻は今年もその日の夜、其処に遊んだ。

  男と女房は毎年その三溪園の紅葉を楽しんできた。今年はいろいろあって最良の時期に其処を訪れることができず、少し遅いが紅葉はどうだろうかと思いつつ、今日(7日)、焼き上がった作品を受け取った後、三溪園に行ってみることにした。

  三溪園には、男も女房も敬老パスで無料で入ることができる。男が陶芸作品を受け取り、其処で陶芸を教えている若い女性の先生たちや事務の女性、一緒に陶芸を楽しんでいた仲間の女性らと会話を交わしている間、女房は先に園内に入り、写真を撮っていた。

  三溪園の紅葉はとても綺麗であった。1週間ほど前であれば尚綺麗であったことだろう。携帯電話で「いつもの銀杏の木のところにいます」と女房が言う。其処へ行ったが女房は見当たらない。銀杏の木は園内の合掌造り旧矢箆原家住宅のあたりにあったけな、と思いつつもう一度電話してみる。「ここよ」と女房が遠くで手を振っている。大きな銀杏の木があるところは海岸門をくぐって春草盧という織田信長の弟・有楽斎の作であると伝えられている三畳台目の茶室に向かう途中にある。去年、其処には地面一杯に黄色い銀杏の落葉が積もっていた。今年は去年ほどではないが矢張り銀杏の落葉が美しかった。

    女房は今月初め友達と奈良に遊んできた。其処の紅葉も綺麗であるが、三溪園の紅葉は何処にも勝る風情があり、最高に美しいと思う。女房は「今年はだめかと諦めていたが、来てよかった」と感激して何度も同じことを言う。

    園内にはつわぶきの花が黄色い花をつけている。海側の南門から入ったところは日当たりが良いため、水仙が見事な花をつけている。初音茶屋を経て梅林に行く途中、道端に水仙が花を咲かせようとしている。梅林ももうじき花をつけることであろう。大池に向けて渓流のようになっているところに架かっている寒霞橋を渡り旧東慶寺仏殿を見、旧矢箆原家住宅を見、風情のある美しい紅葉の写真を摂りながら、待春軒という茶屋に立ち寄る。

    そこで女房は原三溪が考案したと言う三溪園そばを取り、男はたぬきうどんを取り、一服したのち二人は帰途についた。お陰さまで今日もとても良い日であった。

2010年12月7日火曜日

「民意」と「最大多数の最大幸福」(20101207)


  民主党政権成立時、考え方が違う社民党及び国民新党の2党と連立政権を組んだ。その結果、「最大多数の最大幸福」という考え方が何処かに押しやられたと老人は考える。国民新党は小泉改革が悪であったとして郵政民営化の見直しを迫った。社民党は先の日米合意を白紙に戻すことを迫り、結局政権から離脱した。今ねじれ国会と民主党政権への支持率大幅低下の状況下、菅政権は再び社民党との撚りを戻し、他の野党との連立も視野に入れ始めた。問題は菅政権が「最大多数の最大幸福」を目指そうとしているのか、少数の意見に同調してでも政権を維持しようとしているかと言うことである。

  政治家はよく「民意」を気にする。「民意」は世論調査に取り上げられて「世論」となるものである。その辺の巷の人々の意見だけでは「世論」にはならない。しかし「世論」は水面に浮かぶ水草のようなもので、風の吹きまわしで位置も形もかわってしまう。だから「世論」だけで政治をやってもらったのでは困る。結果的にこの国の民の「最大多数」の人々が「最大幸福」を実現することは難しい。この国の政治家はこの辺りの認識が甘い。

    この国の政治家たちは「民意」ばかりを気にし、国家として最も大事なこと、即ちこの国の領土・領海・領空・排他的経済水域をどう守り、他国からの侵略を絶対に防ぐということについて「輿論」(「世論)ではない!」を喚起しようとする志がない。

   それでも自民党時代にはこの国の「輿論」を作り上げようとする動きが少し見られた。しかしこれに真っ向から反対の姿勢を取り続けているのが社民党であり、共産党であり、公明党である。この国の最大多数の人々の最大の幸せは、我が国の領土・領海・領空・排他的経済水域がきちんと守られてこそ初めて実現するものである。しかしこれらの政党は、自分たちを支持する少数の人々が最も多く幸福を得ようすることを推進している。弱者への目線とか、市民の目線とか言って「浮草」のような大衆受けを狙っている。

   中国は我が国を標的にして「輿論」(「世論」ではない!)を作り上げて来ている。尖閣諸島での問題も、北朝鮮に対する煮え切らない姿勢も、また南沙諸島領有化の動きも、皆この「輿論」に基づいている。この「輿論」は中国共産党が発足以来、一貫して変わらぬ理念のもとに作り上げてきたものである。それに加担させられた馬鹿な日本人が多い。

   それをこの国のおめでたい識者や政治家やマスコミは、「(尖閣諸島問題は)中国の国内事情で起きた」と分かったようなことを言い、その方向で「世論」を誘導している。馬鹿ではなかろうか!先日NHKの日曜討論で、所謂在日米軍への「思いやり予算」のことで、評論家・内橋克人氏が司会者からたしなめられていた。「思いやり予算」などと言うから、この国の民は財政状況厳しき折そんなものは減らせと言うのである。所謂「思いやり予算」というのは「在日米軍駐留経費負担」のことである。我が国の防衛は在日米軍に頼っている。在日米軍の駐留経費について、我が国が応分の負担をするのは当然のことである。

   政治家がその所属する政党の足かせから離れて、この国の民の「最大多数」の人々の「最大幸福」を実現するため志を同じくする政治家同士連携し、中国に対峙して我が国の領土・領海・領空・排他的経済水域を防衛するため「輿論」を喚起するする行動に出るならば、この国の未来に希望はある。若い人たちよ、年寄りにこの国の未来を任せてはならぬ!

2010年12月6日月曜日

ウォーキング(20101206)

  今日、日曜日も温暖な天気である。空は晴れていて風も穏やか、ウォーキングには最適な日和である。男は昼前、近くの川に沿って川下の方に歩いて行った。8人乗りのボートが何艘も川を上ってきている。白い帽子に白いシャツ、オールを漕いでいる人たちは齢の頃50代、60代だろう。コックス兼トレーナーが声をかけて漕ぎ手を叱咤激励している。リズミカルにオールが水を打つ音が力強く、老人はオールを漕ぐ男たちを頼もしく思った。

 家では良いお父さん、又は夫であろう。家では今日うるさいおやじが居なくて、妻たちはそれぞれ家事や自分の好きなことをやっていると思うが、片や男たちはたまの日曜日、こうして集まり、ボートを漕ぐ訓練に参加している。この川の川下に市の漕艇場があり、男たちは市体育協会が主催するボート教室に応募して参加し、仲間を作り、プログラムに従って訓練を受けているのである。

    男はもし自分が彼らの年代であったなら、是非参加することだろうと思った。しかしそのような年代は過去のことである。そのころこのような施設はなく、川も汚く、風景も美しくは無かった。この川でこのようなボートの訓練が始まってから10年も経っていないと思う。近年ウォーターフロントの整備が進み、川岸の両岸の民家も色とりどりの新しいものに建て替えられ、景色が良くなってきている。この川のウォーターフロントは市民の憩いの場であるが、大規模災害時の防災活動の拠点ともなるように整備されている。

    男はかつて街づくりの区民会議に参加し、積極的に活動していたことがあった。今では自ら遁世隠居老人と称し、年寄りが余計な口出しをするようなことから努めて遠のいている。そのようにして浮いた時間を自らの人生の締めくくりのため使っている。事業家である弟から「兄貴、まだそう達観するのは早いよ。人間の自然の寿命は125歳というから、僕は125まで生きるつもりだ」と言われている。

    男も女房もこの世で思い残すようなことはあまりないと思っている。全てが満ち足りている。上を見れば切りがなく、下を見ても切りがない。「吾只足るを知れば」何一つ不足はない。その時々の状況に応じて事を為せばそれで良いと思っている。物欲が無いと言えばそれまで、金銭欲がないと言えばそれまでである。しかし夢のため今年も3000円出して園末ジャンボ宝くじを買った。毎年当たりもしないが、買わなければ当たることも無い。宝くじのため出したお金の一部が他者の幸せのために使われるなら無駄な支出でもない。

    男はこの世においてまだ完成していない部分は多少残っているが、あの世に行くまでには完成させることができるという見込みはある。しかし完成を急ごうとも思わない。時の流れに従って、物事はなるようにしかならぬものであると思っている。無病息災を願い、精進努力はするが、若し自分が病気になってももがくことなく、自然に任せることだろう。

    川の堤防の上を歩いているときジョギングしている白人の若い女性とすれ違う。昔は毛色の変わった人をみかけることは稀だったが、今は多くの外国人が日本で暮らしており、毛色の変わった人をみかけても特別視する人はほとんどいない。この川の川辺の空き地でインド人のグループがクリケットを楽しんでいる。その場所を彼らに先取りされたらしい少年野球の子供たちが、場所が空くのを待ちながらのんびり観戦している。

2010年12月5日日曜日

弟との会食(20101205)


  昨夜(3日)男は横浜のとある居酒屋で二つ違いの弟と久しぶり会い、楽しく語らった。我は73、彼は71、お互い結構長生きしてきたものである。いろいろなことを語り合ったが、男にとって人生の目的は、究極的に何であるかということがメインであった。

  人も所詮その本能の部分においては種の保存に対する欲望がある。人間であるから本能の部分を前頭葉で抑え込み、あからさまにしないように振る舞っているだけである。しかし人は何故宇宙開発を推進しているのか?結局はこの地球が人間の住む環境でなくなったときに備えて、人類の種の存続を宇宙のどこかで実現しようとしているのである。

  勿論そのときはこの地球上の全人類のうち非常に限られたごく少数の男女と、多分僅かの動植物しか存続させることはできず、この地球上の殆どの生物はこの地球上で死滅する運命になるだろう。それでもごく限られた数の種の保存という目的は達成されるだろう。

  この地球上において、今この時間において、男たちは他の動物同様、自分の子孫を残したいと願望している。動物である雄と違って、男たちが残したいものは名誉とか業績とか社会的な価値もある。女たちはその点においては男たちほどではないだろう。男勝りの女は別として・・。

  本能的な部分で見るならば、好運な男たちは自分の子孫を残すことが出来ている。しかし、子孫を残すことができていない男たち(雄)も沢山いる。これが人間を含めた生き物の世界の実態である。「子孫を残す」ということは、男たち(雄)にとって非常に大切なことである。

  この日本で、30代の独身女性たちも本能的に子供を持ちたいと思っていても、生活の面で自立できていないためその欲求を満たすことができない状況にある。生活の面での安定を求めて収入の良い男と結婚したがる女性を、そのような自立を求めながらも満たされていない女性が非難している。「そのような女が居るから、女は男たちから見下げられるのだ」と。しかし男性の皆が高収入であるわけではなく、定職も持てず自立できない若い男たちも多い。これが現実の世界である。

  このような状況を動物の世界に対比して見ると、動物の世界では力量のある雄だけが群れの雌たちを独占でき、子孫を残すことができる。他の雄たちはその機会を狙って争うが、多くの雄たちは雌を手に入れることができない状況にある。人間も似たようなものである。

  男は妻をもつ男たちが複数の女性を愛することにとについて、社会通念上の考え方を言えと言われれば次のように答えるだろう。先ず、社会通念上それは不倫というものであって、それは絶対許されることではない、と言う。しかし続いて以下のように言うだろう。

    関係者の全員が等しく了解する観念として、男性と女性の間に色恋の感情はあったとしても男性は子孫を残すという一点において、相手の女性はその男性によってしか自分が望む子供を持ち得ないとう限定された条件において、たとえ社会通念上の不倫であってもそれは「最大多数の最大幸福」の実現のための唯一の方法であるということを関係者全員が等しく了解している限りにおいて、それはいわゆる不倫ではなく、関係者全員共通の目的達成の手段となる。その「社会通念上‘不倫’」と言われるものが、関係者全員が共通して目的達成の手段であることを了解していることが最も重要である。しかしこの世の中において、そのようなことがもし現実にあるのであれば、それは極めて希有のことである。

2010年12月4日土曜日

独り暮らし体験(20101204)

  独り暮らしも態勢が整うまで結構多忙なものである。今日の午後は電気工事のため時間を費やした。夕食のため時間をなるべくかけないように出来たてのとんかつを買ってきて、冷蔵庫にあるキャベツを専用の道具で沢山スライスし、消毒のため買ってきたとんかつをちょっと電子レンジで加熱し、消毒したものを適当な大きさに切って大皿に盛り、数日分と大目に炊いておいたごはんのおかずにして食べた。本当は何か料理を試みようと思っていたがそんな時間的余裕はない。

  それでも今朝、男は一つだけおかずを作っていた。それは、この3日間の独り暮らしに備えて予め買っておいた大根葉を料理したものである。これは至極簡単にできる。先ず大根葉を洗い、適当な大きさに刻む。フライパンにゴマ油をたっぷり敷いて鉄なべのフライパンが焦げ付かないようにしておく。ハムとベーコンを適当な分量を取り、刻んでおく。削り干しやちりめんじゃこを多めに用意しておく。これらは塩分の供給にもなる。みりんや料理用の日本酒を用意しておく。すりごまや胡椒を用意しておく。

  ごま油で熱したフライパンの中に大根葉、ハム、ベーコン、ちりめんじゃこ、削り干しなどを投入する。箸で材料が焦げ付かないように混ぜながら熱する。大根葉が熱でしなびてきたところにみりんを沢山加え、胡椒をふりかける。味を見ながら料理用日本酒を少し入れ、みりんを加え、すりごまを加え、かき混ぜる。フライパンの中の水分が蒸発し、汁が無くなるまで熱する。それで出来上がりである。これは結構美味しい。出来たおかずは量が多いので2、3日分ある。今夜の夕食は大量のキャベツやこの大根葉のおかずで十分栄養が摂れたと思う。鉄製の鍋を使っているので適度に鉄分も摂れる。

  今朝はパンにした。5枚切りのホテルパンを1枚だけ取り出し、北海道バターを塗り、その上に刻んだ玉ねぎを置き、その上にチーズを載せてオーブンに入れる。熱を加えるとチーズが溶けて刻んだ玉ねぎが散らないようにパンにくっ付く。その上にハムを載せ、熱を加える。これで出来上がり。コーヒーと牛乳とこのパン1枚で朝食は終わる。

  独り暮らしが長くなる場合、男は汁ものが好きであるので、シチューなどを4、5日分作っておき、それを一食分づつ何日か食べる。そうすれば余り手間がかからない。手間をかけずに十分な栄養を摂る。それが一番である。ただ、この場合、同じメニューの食事が続くので、飽きがくる。そこで汁ものはシチューだけではなく、カレーでもおでんでも団子汁でもよい。ドイツ人は毎食ジャガイモとソーセージで済ませるらしいが、男も合理的な考え方をするタイプなので、そのようなやり方をするだろう。

  電気工事の業者が来ているときに女房が旅先から電話をくれた。女房は友だちと二人で自由気楽な短い旅をしている。大阪に泊って、奈良や京都のスポットに行っている。出発前お天気のことが気になっていたが、さすが天気女、雨にも降られず楽しんでいる。

    ここは今朝強い風と雨だった。川は一気に増水し、早いスピードで流れていた。男はベランダに出て、吊り下げられている花の籠が強風に煽られて激しく揺れていたので取り外し、床に置いたりした。老妻は花が好きで、花を大事に育てている。これで旅先の女房も安心だろう。電話がかかって来たとき、そのことを伝えておいた。勿論感謝された。

2010年12月3日金曜日

3日間の独り暮らし (20101203)

  今朝(2日)から3日間、女房は友達と気ままな京都旅行に出かけている。6時始発のバスに乗って行くため、5時前には男も目が覚めて女房の出発のためコーヒーを沸かしたり、リンゴの皮をむいたり、いろいろ手伝った。5時に鳴るように携帯電話の目覚ましをかけていたのであるが、その前に起きたので少し眠いが時間がたっぷりある。

  今日の午後、男は柏まで定期的な内視鏡検査を受けに行く。昨日は女房と一緒に横浜まで定期的な健康診断を受けに行った。通常の特定検診に加えて二人とも血管の老化度をチェックして貰った。女房の方はさらに乳がんなど二つの検査項目を追加した。この施設は環境も設備も従業員の仕事ぶりも非常に良い。検査データはコンピュータで管理されていて、健康状態の変化が良く分かるようになっている。

  高齢者の特定検診は血液と尿と身長・体重・体脂肪・胴回り検査などが主である。その他は自分の希望で追加できる。勿論費用はかかる。男は1~2年に一度、胃と大腸の内視鏡検査を受けている。人間の身体も機械と同じで、その機械の状態を外部からチェックすることにより、不具合を早期に発見し、早期に対処することができる。4、5年に一度、人間ドックに入れば健康管理は完璧であると思う。

  柏からの帰り横浜で久しぶりに弟と会うことになっている。駅ビルの居酒屋でビールを味わいながらよもやま話を語り合うことを非常に楽しみにしている。女房が居ない3日間、男は普段女房が行っている熱帯魚や金魚の世話(餌やり)や、シクラメンなどへの水やりを代行する。自分の食事は適当に作って摂る。外食は今夜以外しないつもりである。

  明日は台所への電気回路を増やす工事がある。過負荷でブレーカーが落ちることがあるので、その問題を解決するため分電盤取り換えと電気配線の追加工事を専門の業者に依頼した。もともとこのマンションの電気配線などの設計が良くなかった。壁コンセント用の分電ブレーカーの数が不足している。24年前入居時そのことに気付かなかった。分電盤のブレーカーが落ちるのは電気掃除機など電源投入時の過電流が原因である。電気掃除機は初め吸引力を半分以下に設定してスイッチを入れ、テレビなどのスイッチは予め切るようにしているが、時々それを忘れることがある。ちなみに、男の田舎の家では独り暮らしの老母(継母)のため台所ではガス器具を一切使わずIHに変えた。そのとき分電盤や電気回路などの改善工事を行っているので問題は全く生じていない。

  つかの間の独り暮らしとは言え結構忙しい。その間、女房は親友と二人の女旅を楽しむ。あいにく天気は下り坂のようである。しかし新幹線と宿だけがセットになっていて、後はこの企画の参加者が自由に行動するという旅は結構楽しかろう。親しい女性同士二人だけの旅行は良く見かけるが、男性同士二人だけの旅行は聞いたことがない。動物の世界でも雌同士は集団を作るが、雄同士はお互い争い合うことが多い。雄は本質的に一匹でいることを望む存在だろうと思う。自分より優れている相手を避けようとする。

  昨日、健康診断の最後のメニューに医師による診察があった。会話を交わし、胸に聴診器を当ててみるだけのものである。担当の医師は男と同年でしかも男より2カ月遅く生まれた人だった。彼は男の若さに驚きと妬みの感情を示しているように見えた。

2010年12月2日木曜日

権利と義務、職務と責任(20101202)


  老人は学校教育や社会的問題に対する新聞などの論調を少しおかしいなと思っている。先日は栃木県の小学校で12歳になる女の子がいじめを苦に自殺したことについて報じられていた。今日(1日)には、小中学校の給食費の未納に関することが報じられていた。いずれも事実関係に関する記事で、一切のコメントはない。コメントを出すと新聞報道の中立性が損なわれるとでも考えているためだろうか?

  この国の政治家も官僚も教育関係者も報道機関も一般の民も「権利と義務」「職務と責任」という基本的であり普遍的な道徳観についてきちんとした観念を持っていないのだと老人は思う。誰でも考えてみれば至極当たり前の観念であると老人は思うが、「権利と義務は物事の両面である。もし権利を主張するならば、その権利を得るため義務を果たさなければならない。逆に義務を果たせばそれに関連する権利を得ることができる。」「職務には相応の責任を伴う」というこの二つの観念について、皆どう捉えているのであろうか?

  いじめ自殺のことについて老人は10月27日に「小6女の子の自殺」と題してブログに書いている。その女の子が通っていた学校の校長はその女の子の自殺といじめとは関係がないと責任を回避していたが、最近になってようやく責任を認めるようになった。その女の子がいた学級は崩壊している状況であったようである。

    学級の崩壊、女の子に対する周りのネグレクト、そういった状況が生じていないかどうか、担任の学級運営がうまく行っているかどうか、そうことを把握し、問題を事前に発見し、適切に対処して問題を解決するということは、管理者たる校長の職務であり、校長はその校長という職務遂行の対価として俸給が与えられているのである。

    故に問題が起きたとき、校長は自分の管理にどこか落ち度があったのかもしれない、とまず発言すべきであった。それが校長としての責任の一つを果たすことになるのである。それをその校長はしなかった。その女の子の自殺の原因の究明や、再発防止に至る努力を行うことは、校長が次に果たすべき責任である。最後に自らの至らなさを恥じて、校長の職を辞することもその校長の最後の責任である。  

    職務には相応の責任が伴うという普遍的な原理に、何故誰も着目しようとしないのだろうか?そういう問題を発掘し、記事にするのはジャーナリズムの義務ではないのか。何故ならジャーナリズムは「言論の自由」という権利があるからである。

    給食費未納の問題も同じである。権利ばかり主張して「対価を払う」という義務を果たさないのはどう見てもおかしい。「子どもは社会全体で育てるべきである」などと主張して対価を払わないのは、払わないことを正当化しようとする屁理屈である。

    権利を主張するならば、義務も主張すべきである。そのことを何故誰も着目しようとしないのだろうか?

    日教組は国旗や国歌に対して敬意を払おうとしない。その一方で日本国民としての権利ばかりを主張している。政治家も官僚も報道機関も「権利と義務」「職務と責任」という対立的な言葉について、きちんとした観念を持っていないから、彼らに好き勝手な行動を許している。老人はそのことをおかしいと思う人々がこの国に増えることを願っている。

2010年12月1日水曜日

穏やかな日々 (20101201)

  一度行楽に出かけると、その後、写真の整理をしなければならない。「・・ねばならない」と何か公的な義務があるわけではない。しかし男は自分の性分として、行楽に出かけて撮って来た写真は、その都度きちんと整理しておかなければ気が済まないのである。

  男と女房がそれぞれ撮った写真は先ず大きなテレビの画面で観賞する。このとき面倒臭いのは、カメラが違うとカメラとテレビをつなぐケーブルが異なることである。テレビのビデオ入力端子は黄色である。ここにケーブルの一端を差しこむ。問題はケーブルの反対側、つまりカメラに接続する端子の構造がカメラによっては違うことがあることである。デジタルカメラのケーブルは一方がUSBと黄色のビデオ端子であるが、カメラにつなぐ方はカメラによっては型が違うのである。しかしCanonは共通仕様で問題ない。

  今年はいろいろあって花の写真は殆ど撮っていない。居間に飾ってある花の写真は去年撮ったものである。先日紅葉狩りに行ったとき何枚か良い写真が撮れていた。何れも女房が撮ったものばかりである。それをA4サイズや2Lサイズで印刷してやった。女房は自分が撮った風景の写真がA4サイズで印刷されたものを見て、「これは綺麗だねえ。11月に飾る写真が無かったの」と大いに喜ぶ。女房は早速写真をパネルに収めて居間や玄関や自分の部屋などに飾った。男は自分の部屋にはそのような写真を飾る気はない。

    女房が撮った写真の中には、ミレーの絵のような印象的な風景が納められている。パナマ帽のような帽子をかぶっている年老いた男性を、伴侶か娘らしい女性が支えながら歩いている後姿が風景の中に小さく写っている。遠方に何人かの人がいる。たまたま美しい紅葉をカメラに収めたいと欲して撮った写真がミレーの絵のような風景になっている。素晴らしい!男は何れの日にかこの写真をもとに、一枚の絵を描きたいと思った。

  折角撮って来た写真は保存のためコンピュータに取り込む。そして男や女房が写っている写真は別のフォルダーに移す。そして写真ソフト、男はPhoto Studioというものを使っているが、それを起動して写真を拡大して評価し、良い写真だけ残し、後はゴミ箱に捨てる。男や女房が写っている写真については上半身を切り取った写真を作り、名前をつけて別のフォルダーに移す。

  何故そのような面倒なことをしているかというと、フォルダーにきちんと名前を付けておけば、後に写真を例えばカレンダー作成のため使用する場合も見つけやすい。上半身の顔写真は、何にでも利用することができるからである。勿論それは男又は女房があの世に行くときの葬式にも使うことができる。実はそれが主目的であるが・・。

  男が写真の整理をし終わる頃、女房が「甘酒ができましたよ」と呼んでいる。男は作業を中断して居間のテーブルにつく。息子の嫁が創作した湯呑茶碗に甘酒が入っている。まだ熱い。別の器に生姜の擂りおろしが入っている。小さじですくい熱い甘酒の中に入れ、かき回して、少しずつ口に含みながら頂く。身体も心も温まるような気分になる。

  サイドボードの上に数鉢のシクラメンが咲き誇っている。CDコンポから老妻が好きな南こうせつの「今日は雨」やかぐや姫の「なごり雪」などの音楽が流れている。男と女房の穏やかな日々の一コマである。

2010年11月30日火曜日

一日一生 (20101130)


  野崎さんと言うお方が、「一日一絵」を決心されて27年間毎日絵手紙の絵を描き続けたという話がテレビで紹介されたことがあった。「継続は力なり」というが、27年間、一日も欠かさず毎日絵手紙の絵を描き続けたということは大変素晴らしいことである。野崎さんは毎日絵を描き続けて、人生を生きる上で悟ることがあったという。

  お名前は失念したが、ある学者ご夫妻で、奥様が大腸がんに冒され、ご主人は奥様との時間をできるだけ増やすように心がけ、ご夫婦で短歌の贈答を奥様の最期まで続けられたという話がテレビで紹介されていた。短歌も五七五七七の韻律にこだわらず、字余りも気にせず作られたものである。紹介されたものを書きとめていなかったのが残念であるが、奥様がいよいよ今際のとき作られた歌は印象に残っている。「この世」で息をしていることが詠われていた。「この世」という語句が印象に残っている。

  人は限りある「この世」を生きている。「この世」は限りあり、「あの世」へと続くものであるが、「この世」を粗末に生きてしまう人も多い。かく言う老人も若いころそのような粗末な生き方を全くしなかったかと自問すれば、「否」である。自ら省みれば恥多き過去であったことは確かである。自問すれば、背後霊があるとすれば、その背後霊に護られて今日まで生きてきた、実は生かされて来たことは確かである。さりとて、これからは全く恥無き歩みをするかと自問すれば、100%肯定できる程の自信はない。ただ、少しでも多く、残りの「この世」を過ちの無いように生きて行こうと決意し、努力している。

  昨夜、NHKの連続ドラマ『龍馬伝』は終了した。シナリオライターの思い入れがあったと思うが、龍馬は自分の命を国の為使いきったか、と切られて今際のとき自問していた。龍馬は新政府のメンバーの名前に自分の名前を書いていなかった。龍馬が私心あって行動しているならば切ろうと思っていた中岡慎太郎は、龍馬の無私・無欲・国の為のみに己の命を捧げてきたことを知り涙を流した。そうして中岡も龍馬を誤解していた者らに切られ、3日後に死んだ。龍馬33歳、中岡30歳の若さであった。

    西郷南洲は私心に依らず、自分が教えた私学校の生徒らに担がれ、西南戦争で敗れて49歳のとき自刃して没した。その戦争の発端は旧薩摩藩で調達し保管していた武器弾薬等を政府に略奪されたことに端を発している。その南洲が生前自分の妹の長男・市来政道に対して、人生の何たるかを教え、諭し、南洲自身の処世観を披歴した詩がある。老人はこの詩が好きである。勿論漢文であるが、詩吟で詠うときは訓読したものを詠う。今月の吟題はその作詞『天意を識る』である。

    幕末・明治初期に活躍した人たちには私心がなく、国の為命を捧げるという誠の心だけがあった。南洲は遺訓の中で、「命もいらず、名もいらず、官位も金も要らぬ人は、仕末に困るもの也。この仕末に困る人ならでは、艱難を共にし、国家の大事業は成し得られぬなり。」と言っている。これに比べ、今の政治家たちは「命は惜しい、名誉は欲しい、叙勲されたい、金も欲しい」という輩が多い。彼らには『天意を識る』にあるような「一貫した志」がない。武士の心や大和魂がない。あるのは妾のような腐った根性だけである。彼らは政治家として国のあるべき姿・形についてまともに論じ、世論を啓発しようとする「志」も「情熱」も持ち合わせていない。どういう政治家たちがこれに該当するかは、自ら明らかである。

2010年11月29日月曜日

紅葉狩り(20101129)

  今日(29日)日曜日、都内の紅葉狩りに出かけた。初めに池袋の東武デパートの12階にある「ハゲ天」で天麩羅の食事をとり、その後東京メトロに乗って茗荷谷駅でおり小石川の東京大学植物園に行った。ここは去年の同じ日に来ている。しかし今年はここの紅葉はあまり良くなかった。驚いたのはセコイアの木々の葉っぱが今年の夏、猛烈な暑い日差しに晒されたためか皆変色し、弱弱しく見えたことであった。男は大木を背にして女房と写真を撮り合ったり、目についた美しい紅葉の写真を撮ったりした。漆の木の葉っぱが色々なバリエーションで色づいていて綺麗であった。池には大きな鯉が泳いで来て、近づくと寄ってきて大きな口を開けて餌をねだっている。「あの口の中に指を入れたらぱくっと噛むが、痛くないよ。歯が無いんだから」と老人が言うと、「そうかねえ」と女房が言う。

  この植物園に何処かの大学の生涯学習のメンバーか或いは放送大学の同窓会のメンバーらしい団体10数人が来ていた。メンバーは80歳代ぐらいの高齢の男性から40代ぐらいの女性まで様々で、メンバーの長らしい80歳代ぐらいの高齢の男性がその人よりも年が下の男性や女性のメンバーからヨイショされるような言葉を受けて非常に楽しそうにしていた。この様子はある意味では、特定の高齢の方々を喜ばせるというボランティア活動のようなものである。ヨイショした者が次にヨイショされるとは限らないが、或る意味では順送りを了解する文化的現象である。 

    かく言う男も若くは見えるが既に73歳という結構高齢者である。放送大学の同窓会の役員に名を連ねていてそのようなグループの様子はよく分かる。しかし、男は一匹狼のようなところがあり、また、毎日結構忙しくしているし、ちょくちょく九州の田舎にも老母(継母)の介護で帰っているので、役員会にもあまり顔を出していない。どちらかと言えば、そのような集団行動は嫌いな方である。従って、例えば老人会などには関わりたくないと思っているし、いろんな会合の誘いが来るがことごとく参加を断って来ている。

    年賀状も減らそうとか、次第に人間関係の束の太さを小さくするようなことを、敢えて行っている。その分、女房と一緒に過ごす時間を増やし、また、ブログなど自分の世界に関わる時間を増やしたいと考えている。但し、男が主宰している詩吟の会は、メンバーを増やしたいとは思っていない。自然に増えるのは構わないが、「来る者を拒まず、去る者を追わず」一切こだわらず、個々のメンバーが月2回集って楽しく時間を過ごして貰えばよいと思っている。この会のメンバーは殆ど女性である。

    話は横道にそれたが、その東大の植物園を出て、脇の道を上り、そして下って大通りに出て、都営三田線の白山の駅から一つ目の千石駅で降り、六義園に行った。ここは去年も同じ日に訪れた公園である。そこの紅葉は大変綺麗であった。男も女房もそれぞれ好きな景色をカメラに収めた。この公園はとても風情があり、すばらしい公園である。今年はライトアップを観ようと夕方近く、その公園を訪れた。

    独立行政法人の東大植物園の入場料は300円でシニアの割引は無かったが、ここは都営でシニア割引があり、男も女房も放送大学の学生証を見せて150円で中に入ることができた。受付の女性は二人の学生証を見て、女房に「素晴らしいですね」と言ったという。

2010年11月28日日曜日

無題(20101128)

  今日(27日)は多忙な一日であった。先日、男の吟詠のブログに西郷南洲(隆盛)の作詞『天意を識る』を公開したのであるが音の高さは詩吟の世界で「1本」にしてあった。それでも自分で言うのは何であるが、そう悪くはない吟詠である。しかし、加齢とともに声の張りとか艶が無くなっていることを感じていて、すこしでも良い吟を公開したいと思い、「3本」で詠ってみた。

  朝、寝起きがあまり良くなかったせいか声がよくない。そこで自動車のエンジンのように自分の身体が本調子にするための暖気運転を試みた。身体を動かしたり、‘気’を自分の体中に取り込むような動作をしてみたり、黒砂糖のぬるま湯を呑んでみたり、独特の発声練習をしたりした。

  その後、この西郷南洲の作詞を吟じて何度も詠い直してはその都度録音した。録音用の装置はオリンパスのレコーダーである。それを再生しては聴いてみて自己評価し、比較的よさそうなものを残し、他は削除した。そして残った一番良さそうな吟詠をUSBで繋いでコンピューターに取り込み、ソフトウエアで拡張子の形式をWMAからMP3に変換した。それをブログ「吟詠」に取り込み、この吟題について‘1本’と‘3本’の二つの吟詠を公開した。

  今夜は男が講師をしている詩吟の会があった。その会は、東京の目黒区住区センターで毎月2回開催している。今日はその住区センターに1時間半ほど早く行き、そこの印刷機を使って、来年のテキストを印刷し、製本した。今日はその印刷用原稿を完成させるための作業にも時間を費やしている。来年のテキストの印刷・製本後、夕方からいつものように詩吟の会を開いた。今日は一日の大部分を、男は自分の趣味の詩吟のため費やした。

  考えてみれば、このように自分の趣味のため忙しいのは大変結構なことである。男は詩吟を若い時から楽しんで来た。詩吟はただ声を出して詠うだけではつまらない。詩文の意味や作者の人となりや歴史のことなどいろいろ調べ、教養を深めることに意味がある。男の吟詠のブログには結構多くの人が毎日訪れて来てくれている。訪問してきてくれている人の名前は分からない。男は自分の吟詠だけではなく、自分がその吟題について書いたものにも目を通して貰っていると思うと一層励みが出て、詩文や語句の解釈や作者や歴史のことなどいついてできるだけ内容がよいものにしようと思う。

  詩吟の会の帰りの列車の中で会のメンバーの一人が真剣な顔をして、「明日、黄海でアメリカと韓国の合同演習が始まると、北朝鮮は日本にミサイルを撃ってくるのではないか」言う。男は「北朝鮮がミサイルを発射しようとするならば、事前にその動きがわかると思う。その場合、米軍も自衛隊もミサイル迎撃や、先制攻撃でミサイル発射基地をつぶすだろう」と話しておいた。しかし、実のところ男も不安である。我が国は自衛隊はあっても、軍隊はない。政府の要人に軍隊の経験者はゼロである。お隣の韓国とは比較にならない。彼は「問題は政府の対応だ」という。「ロシアや中国になめられてしまった」と憤慨している。男は我が国は一日も早く憲法を改正して国の形を整えなければならないと思う。

2010年11月27日土曜日

パワーゲーム (20101127)


  人も国家も動物も、基本的には同じ動きをする。相手より優位に立ちたいと願望し、優位に立つことを「自己実現」と考える。もっとも動物の「思考」の中身は、は男が勝手に想像するだけであるが・・・。

  一人の‘人’のパワーよりも、その‘人’が複雑、かつ機能的にネットワーク化された集合的組織体である‘国’のパワーほうが、勿論比較することは馬鹿げているほどでかい。でかいに決まっているが、人々はその基本的な部分で人と国家と動物を‘比較’することの意味を考えようとはしない。

  人の頭脳は幾つもの分野に分かれ、各分野は身体の各部の機能にそれぞれ関わっている。同様に国の機能も幾つもの分野に分かれ、各分野は国家という組織体の各部の機能にそれぞれ関わっている。動物は知能が低いというだけで、基本的には人や国家の場合と同じである。しかも、動物は生存のため視覚や聴覚や臭覚などが人以上に優れているものが多いし、運動能力も人以上に優れているものが多い。

  国家という組織体の中で、勿論、政府という頭脳の前頭葉の部分は最も重要である。国家という組織体は科学技術を駆使して、国家の存続の為に必要な能力や機能を高めるように努力している。どこの国でもその点は同じである。

  国家という組織体は、自らの「自己実現」を目指し、しばしば国際的ルールを無視して行動する。中国や北朝鮮やロシアがそうである。我が国はこれらの国々に対して、「公正と信義」に頼り、おろおろしながら「冷静に、冷静に」対応しようとしているだけである。

  しかし、そもそも昔から「武」というものは何故あるのか?それは、先にも言ったように人も国も動物も皆基本的に同じような部分があり、相手の出方次第では自衛自存のため戦わざるを得ないからである。

  今回、北朝鮮による韓国の領土・ビョンヒョン島に対する砲撃に対して、アメリカ海軍は原子力空母1隻とイージス艦4隻を黄海に派遣し、韓国海軍と合同の軍事演習を行うことになった。これは前から計画されていたものである。以前はその種の合同演習は中国に配慮して日本海で行われていた。しかし、北朝鮮が中国を味方にして挑発を止めないため、今度は中国大陸と朝鮮半島の間の黄海で演習を行うことになった。

  その狙い、真意は軍事上の機密で絶対明らかにはされないが、男は上に述べた動物の行動に対比して考えるとき、それは中国と北朝鮮に対する圧力であると思う。中国はそれを非常に嫌がっている。何故ならもし中国が韓国に対して軍事行動をとり、北朝鮮の南進と朝鮮半島統一を支援しようとした場合、そこにアメリカ海軍と韓国海軍のパワーが展開されるとその意図は実現しないからである。

  人も国家も動物も「自己実現」を目指して、人は人に対し、国家は国家に対し、動物は同じ種の動物に対し、闘争する。皆、自分が他者に対して優位に立ちたいのである。皆、自分が他者を圧倒し、差別したいのである。それが、生物の性である。

  「武」を軽んじる政治家や官僚、「武」に憧れながらも「武」忌み嫌う庶民、そういう国は他国から敬意を払われず、軽蔑されるだけである。 

2010年11月26日金曜日

40年の歳月(20101126)


  今朝、自分の部屋のベッドの中でテレビを見ていて、起きてきた女房が「今朝、テレビで三島由紀夫のことを放送していましたよ。今日が40年目の命日だって」という。男は作家とか芸術家は、時代を予見する力があるのだ、そのとき一般の人々はその方々の言動を理解できないのだ、と思った。

  40年前、男は33歳であった。そのころ男は制服を着て四ツ谷駅で切符を買おうとした時、窓口の係員から「税金泥棒!」とののしられたことがあった。それでも男は「百年兵を養うは、 これ、一日、用いんがためなり」という孫子の言葉を知っていて、駅員のののしりを悔しく思いはしたが、別に怒りもしなかった。

  今、時代は様変わりし、自衛隊(男はこの言葉が嫌いである。歩兵を「普通科」と言ったり、「工兵」を「施設科」と言ったり、ズバリ物事を言うことをできるだけ避けようとする姿勢に怒りを覚える。)は国民の間にようやく認知されてきている。日本国民はアメリカ主導の「日本人の魂」を抜く戦略にまんまとはまり、東京裁判の結果、日本が侵略国家扱いにされてもそのまま受け入れ、明治以来の父祖たちが血を流して築いてきた日本国家を忌み嫌って今日まで来てしまった。

  三島由紀夫はそのような状況を変えたいと思い「檄文」を発表し、陸上自衛隊東部方面総監室内で、方面総監の見ている前で、武士の作法にのっとり見事割腹し、介錯人がためらって三太刀ほどでようやく彼の首を刎ねたという事件があった。

  三島由紀夫の行動について、リベラリストたちは一様に「三島由紀夫の‘男の美学’である」と喧伝した。例えば筆者が誰か分からぬが、ある人は三島由紀夫の『憂国』を評して「三島由紀夫は、人間はどうあるべきか、あるいは、人間はどうするべきかというような‘べき論’を持ち出したかったのではないと感じた。三島由紀夫が描いたのは、‘もはや死ぬしかないと思って実際に死ぬ人間の美しさ’ではないかと思った。‘もはや死ぬしかないと思って実際に死ぬ人間’を‘美しい’と感じているのは誰だろうと考えてみた。それは、三島由紀夫自身だろうと思った」などと言っている。

  しかし、23日、北朝鮮が韓国の住宅地を砲撃し、兵士も民間人も殺すという暴挙に出た。このとき我が国の政府の対応は非常にのんびりしたものであった。そのことが今国会で、若い世代の議員たちによって追及されている。

    この国の概ね60代以上のリーダーたちはマインドコントロールされてしまっていて、憲法前文の文言「諸国民の公正と信義」にひたすら頼っている状況である。相手が事前に作戦計画を持っていて、命令あり次第直ちに具体的な実施計画を立てることができる状況で核ミサイルの照準を我が国に向けている状況下、もし実際にその作戦計画が実行されようとする兆候があり次第、我が国が直ちにこれに反応する態勢を持っていないと危険である。

    24時間体制で、尖閣諸島など我が国の領土・領海・領空の警戒監視を継続している自衛官(男は‘兵士’或いは‘軍人’と言うべきであると思っている)や海上保安官たちが悲しい思いをしなくてもすむように、この国のリーダーたちには心を入れ替えてもらいたいと、男は切に願っている。


2010年11月25日木曜日

鎌倉散策 (20101125)

  今日(24日)は良い天気である。男は女房と久しぶりに鎌倉で遊んだ。北鎌倉の駅を降りて先ず円覚寺に行き、入り口で色づいた紅葉を愛でた。最も美しい紅葉に出会うにはまだ少し早い。あと1週間経てばさらに美しいだろうと思う。

  次に東慶寺に行った。入口に雪景色の中で撮った梅の木々の写真が飾ってあった。門をくぐると小路の両側に表面がごつごつの険しい肌を見せている幹と枝だけの梅の木々が幾つかの柱に支えられて痛々しく立っている。その下に珍しく‘りんどう’を見た。女房もこの寺に良く訪れるが、‘りんどう’は初めて見たという。色づいた紅葉もあった。

    男は西郷南洲(隆盛)の作詞『天意を識(し)る』の中の句を思い出し、吟詠を口ずさんだ。枝だけの梅の木と色づいた紅葉、それは「雪に耐えて梅花麗しく、霜を経て楓葉丹(あか)し」という部分である。紅葉は気温の差が激しい時期に木々の葉がストレスを受けて色づくのである。霜に会わないまでも夜の低い気温と日中の温かい太陽で楓の葉は赤くなる。そして冬になり雪に耐えて梅の花が麗しく咲く。

    男は女房がこの寺で十二分楽しむように思って決して先を急ぐこともなく、女房のペースに合わせて時間を過ごした。お互いデジタルカメラを手にしてそれぞれ好き好きに被写体にレンズを向けてシャッターを切っている。女房はブルーベリーかラズベリーか知らないが、紫色に色づきつつある何かの丸い実がなっているものを見つけ、身体を地面につけるようにしてその写真を撮っている。通りがかりの女性もその実に興味があって「珍しいですよね」と会話を交わしている。

    東慶寺を出て明月院に行った。其処は北条時宗の父・時頼の墓所があるところである。明月院の境内に野鳥のための餌台が造られていて、そこに人が近づいても野鳥たちが多少警戒しながら餌を食べにやってくる。そこにカメラを構えていて、野鳥がやってきたとき連続写真を撮った。家に帰ってテレビに映してその野鳥の映像を楽しんだ。

    時宗の廟は円覚寺にある。時宗はモンゴル来襲という国難のとき、今でいう内閣総理大臣に相当する役職にあった。役職名は執権である。当時の時宗の官位は正五位下相模守というものであった。時宗はモンゴル人が皇帝となった元(当時の中国)が圧倒的な国力を背景として我が国に2度にわたり侵攻して来たとき、鎌倉の武士団や九州の武士団を指揮してこれを防いだ。その功績を明治政府は評価して天皇に奏上し、時宗は天皇から明治37年(1904年)に従一位の官位を追贈されている。

    男は以前、廟の入り口にいた係の女性が何も注意しなかったし、自分も何も考えずに靴を脱いで時宗の廟所に上がり、親しくお参りしたことがあった。本来なら、一般の人は其処まで上がってはいけなかったのだが、其の時はつい知らず上がってしまった。

    明月院を出て建長寺の脇を通り、トンネル状のアーチを抜けて鶴岡八幡宮に向かった。昼食のためのレストランや喫茶店などはこのアーチを抜けたところにいろいろ良さそうな店がある。その近くに鎌倉近代美術館がある。

    鶴岡八幡宮の大銀杏の木は暴風で倒れた後根の部分から新しい生命が生い茂っている。平家池の方は紅葉が綺麗であった。小町通りを楽しみ、帰途に就いた。

2010年11月24日水曜日

夢 (20101124)

  夢を見て朝、目が覚めるのは良く睡眠した証拠である。室内が暗いからとて夢を見た後すぐ起床せず、そのまま目をつぶって眠ろうとすると眠れないことはない。しかし、その後の起床したときなんとなく気分がさっぱりしない。

  男は昨夜も11時過ぎに就床し、夜中一度トイレに起きたが、今朝は7時前に夢を見て目が覚めた。6時間は良く眠ったことになる。そこで今朝はいつものようにベッドの中で爪揉み、腹式呼吸、ストレッチなどの運動をし、多少工夫を加えて普段よりは骨格・筋肉の各方面をよく捻ったり伸ばしたりした。この健康法は101歳になるあるお方から教えてもらったものを基本に自分で考え出したものである。これが結構有効であることがわかった。男はこの健康法についてこのブログの「健康法」というラベルのところに書いてある。

  ユングの心理学で研究されているが、夢を分析してその人の心の奥底にあるものを探り出すことを自分で試みてみる。ユングも言っているそうであるが、その夢分析の手法は時に誤った結論を導くから注意が必要である。しかし、自分の夢について自分なりに分析し、勝手に結論を導くのは誰にも害を及ぼさないので、ある意味では楽しい。

  今朝は男が東北に向かうある列車に乗っているとき制服を着た航空自衛官の幹部(男は‘日本国防空軍将校’と言いたい)が大きな荷物を3個ばかり持って同じ客車に乗り込んできた。席はあちこち空いているが、彼は荷物2個を入口付近の荷物棚に載せ、一つを男が座っている席の上に載せた。そして男に話しかけてきた。男も何処かで彼を会ったことがあるように思った。彼も男を知っていて「○○さんですね」と言う。

  列車は昔の急行列車である。彼はある男がかつて業務で訪れたことがある或るレーダーサイトに行くのだという。その列車は青森が終点であるが、彼は荷物を置いたまま途中で下車するのだという。男が「荷物は?」と聞くと、「後日終着駅で受け取る」と言う。そこで目が覚めた。変な夢であるが、ある種の懐かしさを覚える夢であった。

  男はここ10年近くもOBの会には顔を出していない。その会の機関誌に男の近況を知らせる記事を投稿しようかと、このところ時々思っていた。その会に顔を出していた頃の昔の仲間の一人は福岡の宗像に家を建てて晴耕雨読の暮らしをしていて、詩吟を習い始め、月一度詩吟を楽しんでいるという。「九州に帰郷の折には是非立ち寄って下さい」と言ってくれている。一度その友人に会いたいと思いながら未だ実現していない。九州の田舎にはちょくちょく帰っているが、余程決心しないとそれは実現しそうもない。決心というのは、絵を描くとか、詩を書くとか、小説を書くとか、何か目的を持って独り旅をするということである。ただ友人に会うだけのため独り旅をするのは馬鹿げている。男はそのための時間を作らなければならないと思う。その旅の事前準備も含めて。

  男は自分が主宰している詩吟の会の来年のテキストを完成させなければならない。来年のテキストは本文を漢詩にし、下に読下しの文と解釈を書いた形にした。これまでは漢文は時々解説で入れるだけであったが、来年は趣向を変えた。

  年賀状の準備もしなければならない。アメリカの友人に英語でクリスマスカードも書かなければならない。ここ数日、すこしネジを巻いて的を絞って集中しようと思う。

2010年11月23日火曜日

晩秋 (20101123)

  今日(22日)も一日が終わろうとしている。男は日を急がぬように物事を処しているが、今日はブログを書く時間が遅くなってしまった。いつもなら朝の中に書いているのであるが、今日はテレビも観ないのにこの時間、夜10時を回ってしまった。

  今日はプリンターのインクを買ったついでに川沿いを歩いてみた。1週間前、田舎の川の周りを写真を撮るため歩いたが、そのときススキなど色づいていて綺麗であった。今日、この都会地の川沿いでもススキなど黄色になり、堤防の桜並木も赤く色づいていて綺麗であった。歩きながら男はこの景色のことを女房に話してやろうと思った。

    田舎の川原は石ころだらけで川底は浅く水の流れは速く、川の両岸に住宅が少し見える程度であるが、この都会地の川は流れが非常に遅く、川も深さも浚渫された個所は満潮時1メートル以上はある。鉄道の橋や車通りの橋などもかかっていて両岸に住宅などの建物がある。風景は田舎と都会地とでは全く違うが草木は秋の色になって自然の時の流れを感じさせる。このような風景を見て万葉の時代の人たちは花鳥風月を感じて歌を作っているが、男にはそのような才能がないのでちょっと残念である。

    会社勤めをしていないのでたっぷり時間がある筈であるが、今日も短歌を勉強したり、絵を描いたりする風流なことをする時間は無かった。あれもしたい、これもしたいと思いつつも思うようにはならないものである。

  それでも男が最も時間を割いていることは進捗している。男は従兄弟たちに写真を送るついでに、皆に共通な先祖のことを書いたものを同封してやろうと作業した。作業をしていると女房が午前中1回、午後1回、お茶の時間を取ってくれる。午後のお茶の時間には田舎から送ってきた金時芋を専用の釜で焼いたものを添えてくれた。これは食べやすいように半分に切ったものを焼いているのであるが、その半切れが美味かった。

    イギリスの貴族は午前11時に、「イレヴン」と言ってビスケット何枚かを紅茶とともに食べるという。今は王子が全く普通の庶民の女性と結婚し、王位を継ぐ時代であるからどうだかわからないが、かつてイギリスでは貧乏な貴族でもその習慣は変えなかったそうである。わが家では男はビスケットが好きであるが、老女房はそれが口中で歯にまとわりつくから余り好きではないと言う。ただ、男はイギリスから輸入されたビスケットはあまり美味しいとは思わない。やはり日本製の方が口に合う。

    近所の方から生シイタケを頂いた。ご主人が修善寺に行ったとき貰ったものだという。女房がそれにチーズを置いてオーブンで焼いたものを夕食のおかずの一つとして出してくれた。シイタケは男と女房の故郷・大分の特産物である。親戚の家でも庭先の木陰で栽培していて、その家で一緒に摘んだものを焼いて食べたことがある。生シイタケは焼いて食べるのが一番である。干したシイタケは水につけて柔らかくしたものを調理すると味が増していて美味しい。

    この齢になってもまだ欠けた歯が1本もない健康な歯を大事にしようと、最近は歯間ブラシも使って入念に歯を磨く。以前は気ぜわしく洗顔・ひげそりもそこそこにしていたが、最近は丁寧に時間をかける。時間が足りないが急ぐこともない。

2010年11月22日月曜日

アメリカ・日本・EU (20101122)


 日本は国土的にはアメリカやEUに比べればとても小さい。しかし世界の中でよく話題になるのは日本とアメリカとEUの科学技術や産業である。

  今日(21日)の読売新聞にX線自由電子レーザー(XFEL)のことが出ていた。XFELは極微の世界をのぞく最強の装置で、理化学研究所播磨研究所(兵庫県佐用町)において間もなく完成するという。

  現在アメリカではXFEL施設が既に動き出しており、欧州では2013年に稼働するという。つまり、アメリカ・日本・EUが極微の世界を観察する装置で今後1個1個の原子をくっきりと調べ、例えば細胞膜のタンパク質の構造や、細胞内外の物資のやりとりの仕組みや、金属の結晶の細か穴に気体の分子が吸いこまれてゆく様子を明らかにしようとしている。

  現在の電子顕微鏡では光の波長より小さいものはよく見ることができない。可視光の波長は数千分の1ミリメートルなので1000万分の1ミリメートルの原子の姿を探ることには適していない。それを波長が約1億分の1ミリメートルのX線を使えば原子の構造を観察することが可能になる。

  XFELはX線を波長が揃ったレーザー光の形にして観察対象物に照射する。レーザー光の発生間隔は10兆分の1以下であるので、超高速で動く分子の反応も把握することができるようになる。

  このXFELが稼働し始めるようになると、タンパク質の異常から生じる病気の原因や、その病気に対する薬の効用の理解が進み、エイズなどの難病の治療に使える発見があるかもしれないという。また空気中に含まれる環境汚染物質を効率よく回収・分解したり、水素を貯蔵したりできる素材の開発に生かせるという。

  昨日新聞か何かで見たが、ある学者が今後の世界は軍事力よりも経済力で覇権を争うようになると言う趣旨のことを言っていた。男はその見解は一見正しいようで間違っていると断じる。一見正しいように見えるから一般国民はその言に惑わされる。

  何故なら、「国家」というものは複雑多様な機能ごと作動する「頭脳集団の組織」が複雑多様に絡み合った超巨大な有機的組織体であるから、軍事を司る組織はそれ独自で発展し、他の「国家」に脅威を与え続けるからである。経済力も科学技術力も同様である。日本から見て友人でもあり「敵」でもある国家群、中国やロシアや北朝鮮は軍事力だけでなく、経済力や科学技術力でも我が国を凌ぐようになりたいと願っていることは間違いない。

  憲法前文にある我が国が「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」していても、「敵」の「軍事分野の頭脳集団の集合的組織」は、日本の期待をせせら笑って見ているのである。「敵」に「公正と信義」などはない!

  全ては個々の人の遺伝子同士の「有機的集合的組織」は、その国の潜在的意識の中にある。中国人は今でも我が国を軽蔑するとき「小日本人」という。アジア大会で彼らは日本人を熱烈に応援しただろうか?ロシアの外相は北方領土について旧ソ連が何故あのような約束をしたか理解できない」と言っている。「北方の熊」の深層心理は変わらないのだ。男は活発に発言しているリベラリストの政治家や学者たちに、非常に腹が立っている。

2010年11月21日日曜日

年賀状を減らすこと(20101121)

  今年の年賀状はどうしようかと考えている。去年、かなりの人に年賀状を出さなかった。今年はさらに減らそうかと考えている。

  年賀状を出さない理由を書いたはがきを出そうかと思ったが、それも止そうと思う。年賀状を出さない理由を書くぐらいなら年賀状の中で「来年から年賀状は失礼します」と書けばよい。男から年賀状が来なくなった相手はついに男に年賀状を出さなくなるか、男のことを心配して何か言ってくるか、「失礼なやつ」と怒るかの何れかであろう。

  年賀状が来るのが極端に少なくなると、少し淋しくなるかもしれない。しかしその一方で、年賀状をやり取りする人が限定され、少なくともこちらから出す年賀状の中身は濃くなる。その方が其の年賀状を貰った相手は嬉しいだろう。

  人は誰でも同じ1日が24時間しか与えられていない。その限られた時間をどのように使うか考えることが重要であると思う。例え「ご無沙汰しています」とか「お元気ですか」とか印刷された年賀状に直筆で一言添えられていても、そのような年賀状は根本的に虚礼である。虚礼は廃止し、真心のこもった礼を尽くすべきである。

  年賀状を出さないということは、一時的に相手に対して礼を欠くことになる。何年間も年賀状が来ないということで心配してくれる人もいるだろうから、一応「かくかくしかじかのため、年賀状を出さないことにしました」と連絡するのが良いのかもしれない。

  売れっ子作家などは公に刊行する紙面上でなにか言い訳を書いているのを見たことがある。男がかつて弟子であった詩吟の先生は、毎年1000枚近くの年賀状を出しているが、その年賀状には文章は無く、自らデザインした文字が書かれている。主だった相手には自ら筆をとって書いた文字、その他大勢にはその紙面をカラーコピーしたものを送っている。しかしあて名書きは印刷ではなく自筆である。数が多いので差出人名はゴム印である。男などせいぜい数百枚であり、それも相手からは印刷物が多いが、その詩吟の先生のように1000枚も出すとなると大変である。費用も馬鹿にならない。

  男はあと生きてせいぜい10数年程度だろう。自分が「あの世」に逝ったらそのとたんに縁が切れる相手と、ある意味で虚礼的に年賀状のやり取りをするのはあほらしいことである。そういう意味で、自分が恩を受けた人、自分にとって重要な人、親しい人などごく限られた人に対してだけ、年賀状を出すようにすべきである。

  昨日は先日叔父の葬式で帰省したとき摂った写真や竹馬の友と会ったとき摂った写真を印刷した。相当な量になった。それを今日(20日)それぞれに送ってあげようと思ったが一日中雑事があって、それは明日送ることにした。いろいろ雑事をこなしている中に夜になってしまった。女房が風呂の準備をしてくれている。風呂に入って一息入れて、今夜ははやばやとベッドに入って読書でもしようと思う。

  雑事の一つに自分の部屋の整理や掃除をしていたら以前使っていた水彩画を描く道具を入れてある鞄に目が止まった。男は時間を作って水彩画を描きたいと思った。時間は誰にも同じ24時間、これからは中身の薄い年賀状のやり取りをしないことも含め、余計な世事をなるべく作らないようしにしなければと思う。

2010年11月20日土曜日

岡崎トミ子国家公安委員長の答弁 (20101120)


  参議院予算員会の議論を聞いていて民主党も終わりだなと老人は感じた。みんなの党の小野次郎議員が岡崎トミ子国家公安委員長に対して「国際テロ情報の流出についてどう思うか」聞いたが、彼女は「今調査中であり、意見は差し控えたい」という答弁しかしなかった。小野議員が念押しに何度も聞いたが、その都度同じワンパターンの答弁であった。

    小野議員も指摘していたが、老人は、彼女は自分の考えを述べることができるような見解と知識を備えていないのだと感じた。彼女は反日運動などを活発に行い、その筋の人々からちやほやされたかもしれないが、一般の主婦の程度の見識しかないようである。小野議員は彼女に我が国からの国際テロ情報の流出が、どういう経緯で何処から流出したのかということを聞いているわけではなかった。彼女の見解を聞いていたのである。

    彼女は国際テロ組織が世界中で今どのような動きをしていて、現実に何が起きていて、各国はこの組織を除去し、或いはその活動を抑えるためにどんな活動をし、対策を講じているのか知らず、我が国からのその種の情報の流出がその情報源にどんな影響をもたらすのか、各国がその種の情報の管理について我が国に対しどのような不安感を持つのかなどいうことについて、担当の大臣として一片の見識もないのだ。

  菅総理も寄り合い所帯のような民主党内をまとめるため、閣僚の指名にあたりいろいろなソースから人材を選ばなければならなかったのかもしれない。今日の読売新聞には民主党の外交・安全保障調査会の役員会で、政府が来月初めの策定を目指す新たな「防衛計画の大綱」を巡る意見集約を図ったが、平岡秀夫総務副大臣ら護憲派議員らが集まり反対論を噴出させたという記事が出ていた。同記事には「外交・安全保障をめぐり、保守系から旧社会党系まで幅広い立場の議員を抱える民主党は、今なお安保に関する統一の基本方針がない」とある。民主党政権に最早これ以上、国の運営を任せることはできない。

  民主党に対する国民の支持率は低下し、小沢一郎氏は1年生議員の会合で「国会の解散は起きうる」と発言した。菅総理は囲碁仲間の「立ち上がれ、日本!」共同代表与謝野馨氏と会い「世間話」をした。国の在り方、国の形をめぐって菅総理の政権運営は厳しさを増しつつある。民主党の分裂、政界の再編成は必然の状況になりつつあるように見える。

    民主党は初めて政権を取った政党は気持ちを高揚させ国家運営にあたったが、いざ実際に国の運営に携わってみると大きな現実の問題にぶっつかる。好むと好まざるとにかかわらず現実的にならざるを得なくなる。それが今の民主党の状況である。

    この世界の構造について、ミクロを最も単純なもの・素子のようなものであると見れば、この世界はミクロの世界からマクロの世界まで基本的に同じ構造がある。高等な動物ほど脳の構造は発達し、高度な分業体制が出来ているが、国家の頭脳はそのような頭脳の集合で、国家としての機能ごとの「頭脳の集合」の「大集合」と言う構造になっている。リベラリストの政治家たちは、男の左脳的思考より、女の右脳的思考に偏るようである。

    国家という組織体を把握する一番手っ取り早い方法は、「国家」を「動物」と同じに観ることである。動物たちは自らの生存のために勢力争いをする。国際テロ組織はがん細胞のようなものである。菅総理はこの国の為どのような決断をするだろうか?

2010年11月19日金曜日

「行動」は「環境」と「刺激」の関数である(20101119)

  人の行動を方程式にすると、「行動」は「環境」と「刺激」の関数である。人に限らず生き物は「快」を選び、「不快」を避けようとする。複雑に見える人の行動も煎じ詰めればすこぶる単純である。輪廻転生を認める仏教的自覚が無ければ人間は動物と同じである。

  勉強の嫌いな者を無理やり勉強させても無駄である。その者に好きなことをやらせれば喜んでするだろう。しかし幾ら好きなことでも社会的規範の範囲内でなければならない。社会的規範は人に限らず猿やライオンや犬などある程度知能がある動物の社会にもある。

  裁判員裁判で死刑の判決を受けた者は裁判官席に向かって頭をたれ「ありがとうございました」と言った。二人を殺した、それも利権を狙い残虐な方法で命を奪うというやり方に対して裁判員たちも極刑はやむなしという判断をしたのである。

  その人は人を殺すとき正気ではなく、殺したあと正気になった。弁護士は情状酌量を求めたが裁判長は「控訴をお勧めします」と異例の言葉を付け加えた。人を殺すと言う非道な行動の原動力は何だろうか?男は遺伝子にその要素の一つがあると考える。

  2010年4月8日付け記事、ブッダ『感興のことば』を学ぶ(19) (20100408)に書いたが、オランダの遺伝学者ハン・ブルナー博士はある家系について調査した結果、「MAOA(モアアミン酸化酵素A)」というタンパク質を全く作れない男性は全員が攻撃的な性格であったという。今回死刑の判決を受けた男性は遺伝子に異常がありMAOAを作ることが出来ないタイプなのかもしれない。人口の移動で遺伝子は拡散し、複雑性は年々増加してゆく。

  遺伝子的に犯罪を起こす可能性があっても環境に恵まれ、良い刺激を受け、社会的規範を守ることが「快」であるという経験が重なれば、生涯罪を犯すことなく無事に生き抜くことができるのかもしれない。しかし男はその確率は高くないだろうと思っている。

  ところで女房は自分の部屋を放送大学の勉学に身を入れやすい環境にすることを望んだ。そこで男は今日一日がかりでその環境づくりの作業を行った。居間に置いていてそこでパソコンを扱うことができるようにしていた茶色の木製厚板テーブルのコンピュータラックを女房の部屋に移し、女房がそれを机代わりに使うことが出来るようにした。また内臓ハードディスクや外付けのUSBハードディスクに録画でできるLED26インチのフラットテレビを買ってきて女房の部屋で放送大学の授業を受けることができるようにした。老女房は大満足である。コンピュータラックに置いていた携帯用パソコンは男の部屋に移した。

  女房はこれまで居間のテレビで放送大学の授業を受けていた。女房は既に二つの学位を得ていて三つ目も所要の単位数に達しつつある。男も放送大学に再入学して籍を置いているが、女房が居間のテレビで勉強しているので自分の勉強にあまり身が入らなかったという「言い訳」をしていた。これからは女房が放送大学の勉強をしている時、男もテレビで授業を受けることができる。これからは真面目に勉強しようという気になった。

  人は頭を使えば、いくらでも自分のQOL(生活の質)を上げることができる。同じ一生、工夫なしに送るのと、常に工夫を凝らしながら自己を高めるようにして送るのとは大違いである。人生は限りがあり、短い。男も女房も「あの世」がそう遠くない。

2010年11月18日木曜日

商人根性(20101118)


  住友商事のある幹部がテレビで、ロシア大統領が北方領土を視察し、我が国がこれに抗議したが、ロシアは我が国に一層の経済協力を求めていることについて「この機に我々は会社のため、ロシアのため商業活動をする」という趣旨の発言をした。この発言の中に「日本のため」という言葉は無かった。言わずもがな、ということであったのか、貿易でロシアだけでなく日本も得をすると考え敢えて「日本」のことに触れなかったのか。

  NHKテレビ連続ドラマ『龍馬伝』で三菱商事創始者岩崎弥太郎の父親が土佐に帰郷した龍馬歓迎の宴席で自分の息子・弥太郎が武士の魂を忘れて金儲け走っているのではないかと心配して「武士の魂を忘れず商いをしてもらいたい」と言ったら、龍馬は「弥太郎さんは日本のため頑張っちょる」というようなことを言った。父親はそれを聞いて安堵したという場面があった。

  老人が若いころ上司であった元陸軍士官学校54期生だった方は、若かった老人に「マレーでイギリス軍を駆逐し、植民地を解放したあと、商人たちがやってきて悪いことをした」というようなことを言っていた。その方は既に鬼籍に入られているが、この国では士魂をもった世代がいなくなり、上記の商社マンのような連中が金の力でこの国を動かす時代になったのだと老人は嘆いている。

  今日(7日)の読売新聞で中国のミサイルは在日米軍基地を攻撃する能力を有しているとか、ヘリコプターを搭載した中国の漁業監視船が東シナ海に向かったという記事が出ている。その一方で尖閣ビデオを公開した海上保安官に対し、免職・降格・減給などの区分がある行政処分が検討されているという記事が出ている。

    また菅首相が中国の胡錦濤主席と会ったとき、菅首相は胡錦濤主席に目を向けることなくペーパーを読み上げたという。国の代表として相手の国の代表に対談するとき、相手の眼を見据えて話すべきである。昔武士の時代、殿様に会うとき平伏して「表を上げよ」と言われるまで殿様の顔を見なかった。菅首相の態度はそれに似ている。中華思想を前面に推し進め、周辺の国々を柵封下に収めたいと心中思う中国人たちは内心喜んだに違いない。

    この国の指導者たちは情けない。件の海上保安官は弁護士を通じて「今回私が事件を起こしたのは、政治的主張や私利私欲に基づくものではありません。ただ広く一人でも多くの人に、遠く離れた日本の海で起こっている出来事を見てもらい、一人ひとりが考え判断し、そして行動して欲しかっただけです」と言っている。彼らとは雲泥の差の感覚である。

    国境の海で空で海上保安官や自衛官(老人は‘軍人’と言いたい)たちは国の為命がけの働きをしている。遠く故国を離れた外国で自衛官たちはPKO活動に従事している。この事実を平和ボケし、特に概ね60代以上のひとたちに是非認識して貰いたいと老人は思う。

    近現代史を勉強するにつけ、「国」という組織体は、熊やライオンなどの動物と同じで、縄張り争いをし、自分の勢力権を拡大しようとしている実態を、日本国民は知らなければならないと思う。この国は、近現代史教育に力を入れるべきである。

2010年11月17日水曜日

新幹線車内にて(20101117)

  男は今、博多発新幹線車内でこれを書いている。無線LANでインターネットに接続できるが、その準備をしていないのでそれは出来ない。今回初めてEX-ICを使った。これは予めインターネットで予約・購入しておけば切符の購入なしで改札口でカードをタッチするだけでレシートが出、切符代わりになるものである。

  EX-ICを利用すれんばお得な価格で乗車できるがそれは新幹線区間だけである。男は田舎の駅で博多までの自由席特急・乗車券を買ったが、もし、その時新横浜までトータルの切符を買えば100円安くなるところであった。つまり、EX-IC利用では特急券乗り継ぎの場合の割戻が利かないのである。

  博多駅ではEX-IC用の改札口は別になっている。男はそのことを知らなかったから、改札口の駅事務室でEX-ICカードによりシートを出してもらわなければならなかった。この点JRは不親切、というかJRは顧客の声を聞いて改善すべきである。男はJR東海に一言物申しておこうと思った。

  新幹線に乗って初めて読書する時間が持てた。これまで2週間そんな時間的余裕はなかた。男が持参してきた本と言うのは『改訂版・大東亜解放戦争』(岩間 弘著、創栄出版)上・下巻である。下巻は持参する必要がなかった。上巻を要所要所マーキングし、メモを取りながら読んでいる。この本は日本を取り巻く近現代史が詳しく書かれている。とても良い本である。政治家たちに是非読んでもらいたい本である。

  男の席は先頭車両16号車の中ほど窓際である。博多ではこの車両内はガラ空きだったが、名古屋でかなり人が増えた。博多を出てすぐ先頭車両の先頭の出口にいた車内販売のワゴンがやって来た。男は最初の客として弁当とアイスクリームとコーヒーを買った。お茶は田舎の家で朝食時に作ったお茶をペットボトル2本に詰めて持ってきた。経費節約のためそうした。車内でこれを呑んで見ると自動販売機で買うお茶と味が全く同じようであった。お茶は自宅で詰めて持って来るに限ると思った。

  男は列車のデッキで女房に長電話する。長電話しても家族間は無料である。これはいい。新横浜にはあと1時間半ほどで着く。そこからタクシーにのって2週間ぶりに我が家に帰る。田舎の家を去るとき継母は涙声で「さびしくなる」と言った。これから寒くなり、91歳の年寄りは十分な栄養を取らず、運動量も減ってくると体力が落ちてくることだろう。1か月もしないうちに何か起きなければよいがと思う。

  昨日、継母がデイサービスに行っている間に、男はあの世の亡父に聴かせるべく、仏壇に向かって数曲漢詩を吟じた。田舎の家では窓などを閉め切っていても朗々と吟じる声は外に響いて聞こえたことであろう。コンダクターという専用楽器を弾きながら全く久しぶり吟じた。先週末土曜日、男の代わりに教室で会員に詩吟を教えてくれた女流吟詠家からメールが来て、彼女はインターネットで男の吟詠を聴いて、なるべくそのとおりに教えたという。明日からまた男の普段の暮らしが始まる。

2010年11月16日火曜日

郵便箱の鍵(20101116)

  明日(16日)朝出発して横浜に帰る。こちらに12日間滞在したことになる。そのうち2日間は大分で過ごしたからこちらには賞味10日間である。しかし横浜を発ってから2週間であるので、女房にとっては男が随分長く家を空けたという感じである。女房によれば、近所の人がびっくりしているそうである。

  ときどき海釣りに行っては獲れたての魚を持ってきてくれる近所の方は、男が居ない間に鯛を一匹持ってきてくれたそうである。女房は2日間かけて一人でそれ食べたという。男がいるとき女房は大抵鯛味噌を造ってくれるが、今回男はその味を逃した。

  今日、老母(継母)はデイサービスに行った。老母はデイサービスをいつも楽しみにしている。91歳と言ういい齢をしていてもやはり女、「今日は何を着て行こうか」と思案している。老母はプライドが高く、他人から自分ができるだけ良い恰好をしているところを見て貰いたいのである。

  男は老母がデイサービスに出発したあと、先日老母の妹やその娘、孫、ひ孫たちが訪れて来てくれたとき頂いた野菜の一部を民生委員のIさんにプレゼントするためIさん宅を訪れた。Iさんはこの家のすぐ裏手の通りに住む一人暮らしの80幾つかの男性が、最近詐欺に遭ったという話をしてくれた。

  その男性は多少痴呆なりかけている人だという。町の役場から水道の検査に来たという人が女性と二人連れでその男性のお宅に来て、水道の検査をした結果問題があるから工事が必要であると嘘を言って工事の契約書を取り交わしてしまったという。しかしその男性は思考力が戻ってIさんにそのことを話した。Iさんはすぐ警察に電話を入れた。翌日その二人連れが契約書に基づきお金を受け取りに来ることになっていた。警察は張り込みをし、その詐欺師を逮捕し、契約は破棄させたという。詐欺師はその男性のお宅に上がり、その男性に預金通帳を出させ、預金額を調べたという。契約金はその預金額の範囲内であった。

    Iさん自身その男性のことが気になるものだからいつものように自転車で巡回するふりをしてその男性のお宅の近くを通ったら、軽自動車が一台目立たぬように停まっていて、それが警察の張り込みだと分かったという。

  先月男が横浜にいるとき、老母から「年金の振り込みの通知が来ない、あなた知らんかえ」と電話がかかって来たことがあった。そのとき男はむっとして「そんなことわしが知っているはずがないだろう」と言った。考えてみるにこの家の玄関の脇にある郵便箱には鍵がない。悪意のある誰かよそ者が一人暮らしの老婆の家をマークして年金の状況を調べようとしたかもしれない。2か所からの年金振込通知が2通とも届いていないというのは変である。

    女房はしきりに郵便箱に鍵をかけるようにした方が良いと言っていた。男はIさんからさっきの話を聞いて、郵便箱に小さな南京錠を付けた。鍵は小さいので昔亡父が使っていたキーホルダーに1つ取りつけ老母に渡した。男もスペアを持っている。

    この家の近くにナイトクラブが近くオープンする。入口に「暴力団御断りの店」と書いた紙が張ってある。この町も段々油断できなくなってきたものである。

2010年11月15日月曜日

 檀家の寺(20101115)

  里山の村に小さな寺がある。浄土真宗東本願寺派の寺である。男の家は本来西本願寺派であるが亡父はこの地に住み着いてその寺の檀家となり、生前その寺の住職から自分の戒名まで貰っていた。小さな寺であるから墓地はない。その代り境内に納骨堂があって、亡父はその納骨堂の中に納骨壇を確保していた。亡父の遺骨はその中に納められている。

  亡父の後妻であった老母(継母)はその寺の檀家の総代から年会費の納入を求める書類を貰っていて、会費の納入のことをしきりに気にしていた。そこで男は久しぶり亡父の納骨壇に参ってこようと思い、老母から年会費が入っている袋を預かり散歩がてらその寺まで歩いて行った。

  里山の村では藁かなにか燃やしているらしい煙が漂っている。その村に向かう一本道の両側は遠くまで広々とした田圃である。この道を歩いている人は一人しか見かけなかった。遠くでトラクターを運転して作業をしている人がいる。村に入りお寺に向かう。「モー」と牛の鳴き声がする。その方向に目をやるとお寺がある台地のすぐ下で耳たぶに札を付けている牛が3頭柵につながれている。老人は小声で「モー」と言って牛を見る。牛も男に目を向けた。男は心の中で「お前たちもそのうち(人間に)食べられるのだろうな」と思った。自分も牛肉を美味しいと思いながらたべるのであるが・・。

  お寺では誰もいない。住職が住んでいる家の玄関のベルを鳴らしても応答がない。男は折角年会費を持ってきたのに困ったなと思いながら、とりあえずわが家の納骨壇に参ることにする。納骨堂の扉を開け、靴を脱いで中に入る。正面の仏壇のローソクの明かりを灯し線香に火を付け手を合わせる。納骨壇の明かりを灯し、そこにある線香を1本取って半分にし、その線香に火をつけて我が家の納骨壇の香炉の中に置き、手を合わせる。誰も居ないので声を出して「南無阿弥陀仏」と何回か唱え、亡父に語りかける。

  ローソクの明かりを消し、納骨堂から出て寺の周りを見る。誰も居ない。鐘楼の向こうで農作業をしている一人の年老いた男性を見かけた。その方に挨拶し、ここに来た趣旨を話し、「K(亡父の名前)の息子です、横浜からちょくちょく帰ってきていますが今回はちょっと長めにこちらに来ています」と言うと、「(老母は)もうお幾つになられましたか?」と聞いてきた。その方は老人の亡父や老母のことをよく知っているようである。

    その方は「年会費は私が預かっておきましょう。私はここの住職の叔父です」という。「住職は昼から出かけています。判がないんじゃが・・」と言うので、老人は「サインでよいです。ペンは持っています」と答える。その住職の叔父にあたる人は農作業で汚れた手を洗って領収書に署名してくれた。

  亡父は総領でありながら実家から出てこの地に住み着き、この地で没した。男の亡父の墓(納骨壇)はこちら、男の先祖が代々住んだのは亡父の実家がある昔、豊後高田庄と呼ばれていた土地、そこに33歳でこの世を去った男の生母の墓もある。老人から見れば先祖の祭祀を何処で行うようにすればよいのかという問題がある。

  しかし今日この寺まで歩いて来てみて、男は「亡父が住み着いたこの地を先祖の祭祀を行う場所にすべきである」と思った。理由は、亡父は総領であったからであり、男も総領であるからである。「総領」の意味は昔と全く違うが・・。

2010年11月14日日曜日

先祖の祭祀(2010114)

 先日男の出身地の市役所支所で男の曾祖父母の戸籍抄本を取ろうと手続きをした。役所の吏員はコンピュータをたたいて男の曾祖父のデータを探し出してくれた。データは確かにコンピュータに記録されている。しかしその吏員は「除籍されているため出せません」という。男が「第三者に出すわけではなく、当のひ孫本人がここにきて、個人的に出して欲しいと言っているのになぜ出せないのですか?私は自分の先祖のことを調べ子孫に伝えたいのです、法律の根拠は何ですか?」と食い下がった。吏員は課長に相談した。課長は法律書を調べ、戸籍法関係規則の条文を見せてくれた。男は「法律はそうであっても、個人的にそっと教えてくれてもよいではないですか」と言った。課長は「お気持ちはよくわかるのですが、どうしてもできません」と言う。男は手続きの書類に「○○○(曾祖父名)と○○(曾祖母名)の生年月日」と記し、そのカウンターから去った。

 この国では核家族化が進み、先祖のことを大事にせず、今生きている自分が第一であるという風潮がある。先祖を大事にすると差別と言う弊害を取り除けないと考えられているのであろうか?この国の若い世代は自分の先祖のことはあまり知る必要はない、と考えているのではないかと思う。しかし男はそれは大いに間違っていると思う。

 男は先祖を大事にしていない家は子供の代になって何か良くないことが必ず起きていることをよく見かけている。その逆に先祖を敬い、先祖を大事に祀っている家はそれなりに栄えていることをよく見かけている。この国でも同様である。国のため尽くし、命を落とした方々を敬わなければ、この国の行く末は必ず危うくなる。全国民の宗家的存在である万世一系の天皇を大事にしなければこの国の行く末は必ず危うくなる。

 仮に一代に2人づつの子供がいるとして千年も経てば、子孫は1兆人になる計算である。そういう意味で、「○○家の先祖」といってもその先祖は○○家だけの先祖ではなく、他の家の先祖でもあると言える。しかし、○○家の一族が、意識の上で遠い祖先を共有し、その遠い祖先に思いを致し、今を生きるならば、その一族にはきっと幸せが訪れるであろう。

 男はおよそ1千年前の先祖に、父或いは母を通じてつながる一族の中心的存在である。男が生まれた土地には先祖が共通、家紋も共通な「新宅」と呼ばれてきた家があり、先祖の墓を守る親戚が近所づきあいをしている。しかしその「新宅」の跡取りはその父の代に火事に遭い、系図も何もかも焼失してしまったという。男の母方の叔父も戦後シベリアで抑留生活を送っている間に大切な系図を失ったという。今の時代、先祖のことが分からなくなってしまっている家が余りにも多い。

 男は自分がこの世を去ったら、自分の子たちは先祖のことが全く分からなくなってしまうことを心配し、自分の子たちにはきちんとしたペーパーや記録媒体で先祖のことを書きのこす作業を行っている。男は一族に呼びかけ、先祖の祭祀を執り行う場所を作り、男がこの世を去った後も毎年或いは隔年定期的に集って皆が共通の先祖につながる意識を持つようにしたいと考えている。

2010年11月13日土曜日

黄砂来襲 (20101113)


  昨日(11日)は夜、風が強く吹き、少し雷雨もあった。男は「子供部屋」を自分の部屋とし、そこでインターネットもできるように配線している。机は無いので小さな茶卓を台にし、その上にパソコンとプリンターと蛍光灯スタンドを置いて座イスに座って作業をしている。今回諸工事があってちょっと長めにこの家に滞在しているが、これは将来さらに長く滞在しなければならなくなるための自己訓練でもある。宇宙飛行士が宇宙で暮らすために訓練しているようなものである。一人の年寄りを看るため、一般には嫁一人で看たり娘一人で看たりして負担が大きい。それを複数の者が交代で看るならば負担は分散される。男は女房の負担をできるだけ軽くしてやりたいと思って行動している。

  男は25日に横浜に帰るつもりでいたが、長居するとあらぬ誤解を受けるかもしれないし、老母(継母)の自立独居のためにもよくないと判断した。そこで今日は老母に「16日に横浜に帰る」と言った。今日は老母にヘルパー任せの入浴ではなく、湯船に自分で湯を入れる、入浴後は浴槽の排水栓を抜く、予め更衣室の暖房を付けるなど手順を「やってみせ、やらせて」みた。これはあと2回、明日と明後日実地訓練を行うことにする。

    老母はかつて女房が時々手伝いに帰っていたころ、まだ70代で何でも自分でやっていた。がんを患って初めは手術で入院、1年後抗がん剤治療で入院し、その後第二腰椎を圧迫骨折し、加齢とともに自立度が低下してしまった。たった1時間しかないのにヘルパーはこれまで大変な負担を強いられていたと思う。今後は自分でできることは自分でやり、ヘルパーの時間を浮かし、その分良いおかずを作ってもらうようにした方が良い。そのことを老母に理解してもらった。上記のような訓練は男だからできることである。

  老母は15日月曜日、デイサービスに行く。その夕方、ボランティア団体から弁当が届けられる。それは老母がデイサービスから帰ってくる時刻より前になる。民生委員のIさんが弁当を一旦自宅に持ち帰り、老母がデイサービスから戻ってきたらわざわざ届けてくれる手筈になっていた。しかし、それはIさんに申し訳ない。男はIさんに自分が弁当を受け取るから予定通り届けてくれるように伝えることにした。

  今日は大量の黄砂が飛んできて山など霞がかかっているようにぼんやりとしか見えない状況である。人や動物の肺には黄砂で汚れた空気が入り込んでいるのだろう。女房が男のこと心配してくれている。横浜には明日黄砂が来襲するという。女房は外出しなくてもすむようにいろいろ準備したそうである。横浜の家には空気清浄機があるが、ここにはそんなものない。「俺は大丈夫だよ」と言っておいた。しかし空気の悪さは感じる。

  女房と長々携帯電話で話す。老母はすでに自分の部屋で寝入っている。朝7時前には起きてくるだろう。男は自分も早く就寝しなくてはと思う。老母を看るということは男も女房も自分の自由が利かないということである。男は老母がわが家のため大きな貢献をしてくれたことに、一族の長として感謝している。だから男は老母が後何年生きるかわからないが、最期まで幸せな気持ちで過ごしてもらいたいと思っているのである。

2010年11月12日金曜日

諸工事 (20101112)

  今日(11日)は、居間の畳表を新しくする工事と仏間にエアコンを取り付ける工事を行っている。居間には茶ダンスがあり食器類が沢山詰まっている。かつて男の亡父が地区の自治委員をしていた頃、我が家に20人ぐらい集っていたという。その頃、奥さんたちが集まって接待をしていたという。そのため我が家には20人分の食器類を揃えていたという。今では集会はレストランなどで行うようになり、そのような大量の食器類は不要になっている。以前、継母が大腸のがんで入院したとき、男はそれら食器類を整理して仕分けし、社会福祉協議会に沢山寄付したが、我が家にはまだ整理すべきものが沢山残っている。

  しかし今日は畳表の張替えのため、とりあえず茶ダンスの中の食器類を別室に移し、茶ダンスを移動させやすいようにした。畳表の新調後、また元通り戻すことにする。このような作業は腰が曲がった91歳の継母にはできない。居間の畳を替えたいというのは継母の希望であり、継母は今はやりの畳表シートを敷くだけで済ませようと考えていた。しかし、シートでは特に靴下を履いているとき足を滑らせ事故になるおそれがある。面倒であるが継母がかつて講で懇意にしていた畳屋さんに頼んで張り替えて貰うことにした。

    継母がデイサービスに出かけている間に畳表の張替以外の諸工事を行っている。仏間のエアコンの電源はテラス側の配線から取るようにしたが、分電盤内のスイッチの切り替えをしなければならない。その工事は明日知り合いの業者が来てやってくれる。

  継母の部屋のテレビは沖縄の店から来週届く予定であったが、早く届いたので今日それも取付工事を行っている。BSは共聴テレビのケーブルと信号を混合しているが、混合器の電源が居間のテレビだけのためになっているため、居間のテレビでBSを観るときでないと継母の部屋のテレビではBSが見られない。そこで今日は天井裏にある混合器の取り換え工事もやってもらうことにした。

  懇意にしていて、ドアホンが作動しないときなど継母が電話すればすぐ飛んできてくれてみてくれる町の電器量販店の店員は一昨夜暗い中、屋根に登BSのアンテナを取り付けてくれた。その店員はわが家の工事が終わると別の家で地デジ対応の工事があるという。彼はこの町からそう遠くない里山の方に住んでいるという。まだ夕食はとっていないという。男はその店員にも家庭があり、家では夫の帰り、父の帰りを待っていることだろうと思い、工事終了後パンプキンクリームのポタージュスープと、一つ残っていた回転焼を温めて食べさせてやった。残っていたどら焼きも一つ持たせてやった。

  畳屋さんは男より年長のようである。男の亡父のことを良く知っている。男はしばしその畳屋さんと話した。一緒に来ていたその方のお嫁さんというが、若く見える。その人が、以前男が継母の運動のため、継母を抱き抱えるようにして病院から連れて帰っているとき男と継母を見かけたという。丁度2階で布団を干していたときだったという。小さな町の中では、いつどこで誰が見ているかもしれない。悪いことはできない。昨日は継母の代わりに近所の方の葬式にお参りし、ご遺族の方と言葉を交わした。昔亡父と継母が大変お世話になった方だという。

2010年11月11日木曜日

今日は大忙し(20101111)

  今日(10日)は大忙しであった。昨日、親戚の叔母、その叔母の娘と孫娘各1名、その孫娘の子供で2歳の男の子と9カ月の男の子が突然来訪、いつものことながらその叔母の家で収穫した新米、かぼちゃ、ホウレンソウ、小松菜、名前不詳の柔らかい野菜、牛蒡、大根、山芋、柿など沢山持って来てくれた。男が継母のところに来ていると聞いて娘に車を走らせてやって来てくれたのである。叔母は継母の10歳年下の妹である。叔母たちが来て家の中は一気に明るくなった感じである。男の子たちは活発で愛らしい。

  お昼はその娘が作ったすしご飯である。皆で食べてなお沢山余るほど作って持ってきてくれた。細長い形のかぼちゃの煮つけも沢山作って持ってきてくれた。茶の間のこたつを囲んで賑やかな中でそのご飯を頂いた。その娘は料理が得意で沢山野菜が入っているすしご飯は味付けがとてもよく、かぼちゃの煮物も塩分控えめの甘口でとても美味しかった。

  男はデジカメを取りだして皆のスナップ写真を沢山撮った。特に可愛い盛りの男の子たちの可愛い仕草の瞬間を沢山撮った。その中から善いものを印刷して送ってあげようと思う。そのためCanonのiP2700というプリンターを買った。

  今日は沢山頂いた野菜を処理しり、近所の方の葬式に参ったり、畳替えの準備をしたり、あれやこれやでこうしてパソコンに向かうことができたのは夜になってからである。野菜は無駄にしないように、ホウレンソウは沢山おしたしにしにした。そのやり方については初めてのことなので携帯電話で老妻に指南を仰ぎながら、大なべを使って大胆に豪快に料理した。出来上がりは最高である。幾つかのパックに分けて冷蔵庫に保存した。大根の葉っぱも塩もみして洗い、一部を刻んで試みにごま油で炒め、ハムを加え、胡椒やみりんなどを加え炒めてみた。結構美味しい。小松菜は熱湯に浸してあくを取り、あぶらげと一緒に炒め、味付けして炒めた。これも沢山できた。継母は「あんた何でも出来るのねえ」としきりに感心する。男料理も結構楽しいことが分かった。一般に男は左脳を使い理論的に実行するから失敗もあるが、女よりは料理が上手にできると思う。

  夕食にカレーライスを作った。残りなすもピーマンも加え、隠し味に地元産のニンニクを加えた。飲みものに農協の野菜ジュース、デザートに柿を出した。継母は「美味しい、まるでホテルにいるようだ」と大喜びで食べてくれた。

     73歳の男が91歳の継母と、初めてやや長期間になるが二人暮らしをしている。男は12日に横浜に帰る予定であった。しかしこちらでまだしなければならなにことが沢山ある。13日の詩吟はときどき教室にきてくれている女流吟詠家に代講を依頼した。ヘルパーの派遣元には25日まで援助は要らないと申し入れた。家族が同居しているときは、介護保険でヘルパーの派遣を受けることはできない仕組みである。

  昨日はBSを受信できるようにした。明日は、居間の畳の張替えと仏間にエアコンの取付工事がある。来週は継母の部屋のテレビを地デジ対応に変える。そのうち今後こちらでの生活が主になり横浜には時々帰るパターンになるだろう。そう思い、男の部屋にIT環境を充実させ、住み心地が快適になるように整備を進めている。

2010年11月10日水曜日

国の形(20101110)


  人と国を対比させながら考える。「人格」を定義づける要素として思想、性格、知性、身体、知力、気力、運動能力、武術能力、行儀といったものが考えられる。同様に「国の形」を定義づける要素して、国家としての不変の意志、その意志に基づく発言と行動、総合的国力、軍事力、民度といったものが考えられる。

  「国の形」を外国に対して具体的に表現し、演じる立場にある組織人、つまり「役者」は誰であろうか? それは、内閣総理大臣、内閣官房長官、外務大臣、国防(防衛)大臣及び国家公安委員長の5者ではなかろうか?

  この「役者」たちは、「国としての不変の意志」と「その意志に基づく発言と行動」「総合的国力」の三つを具体的に表現し、演じる役目を負っている政治家である。この「役者」になる政治家は、たとえ政権が代わり、人が代わっても「役」を演じ、表現する基本的な内容は変ってはならない。これら役者たちが演じる内容は始終一貫していて不変でなければならない。そうすれば、これら「役者」たちの「演技」を観る諸外国の人たちは、常に一目おいて畏敬の目、或いは警戒の目でこの国を観るようになるだろう。

  中国は共産党一党独裁のもと始終一貫して「大中華思想」を表現し、隣国がどう思うとお構いなしに勝手に領土の線を引き、我が国に対しては沖縄すらも中国の領土であると公言してはばからない。

    シナは古代から周辺国を獣の名前で呼び、我が国を「東夷」と呼び、天皇を決して「天皇」と呼ばず、「王」と呼んできた。今でも中国人は日本にわざわざ「小」を付けて軽蔑しようとしている。かつて「小中華思想」を抱き、今でも深層心理の底に、自らは決して気付かぬままにそのような思想を持っているに違いない朝鮮半島の人々も、「日本海」を「東海」と主張し、竹島を自国の領土と宣言して実効支配している。対馬さえも彼らの領土であると考えている人たちが多いようである。

  中国は大多数を占める漢族の人々がその深層心理から顕れる「大中華思想」を中国の国力の高まりに乗じて積極的に推し進めようとしている。中国は多民族国家であるが、漢族がその文化を他の民族に強制し、国として一体融合した大中国に成長させようとしている。チベット自治区でもチベット語は教養として存続させるが、学校教育や日常生活すべての面で漢族との同化政策を、警察力を行使してまでも強制的に推進しようとしている。その他の民族が多数住む地域でも同様である。

  我が国では昨年首相に鳩山由紀夫氏が就任して以来、この「国の形」はめちゃめちゃになってしまった。菅直人氏が首相になって過ちに気付き修復を図っているが、国際関係、特に中国やロシアや北朝鮮との関係において問題が一層深刻化してきている。

  中国や韓国・北朝鮮やロシアと日本との間で人々の交流や一衣帯水の経済関係が築かれても、何千年もの間培われてきた深層の心理は、遺伝子学的にもそう簡単に変わることはないだろう。だからこそ「国の形」を表現し、演じる上記「役者」たちにはしっかりしてもらわなければならないのである。「戦略的互恵関係」といっても彼と我とは同床異夢である。「役者」は彼の「戦略」の真意を我は知らなければならない。

2010年11月9日火曜日

竹馬の友(20101109)

  男はかつて亡父がしばしば乗っていた久大線を特急列車「ゆふ」号に乗ってで大分に向かっている。亡父がこの線路の列車に乗っていた頃、久大線の列車がジーゼル化されるまでの間、蒸気機関車が客車を牽引していた。当時、豊後森駅には機関区があり、扇状に蒸気機関車を入れる建物が活躍していた。現在その建物はガラス窓も割れて廃屋となり、歴史的遺跡として保存されている。

  車窓から見える風景は美しい。ところどころ紅葉になっている。あと1週間もすれば一層美しくなるだろう。大分に到着し町に出て手土産にバウムクーヘンを買った。今日(7日)は竹馬の友だちに会う。

    そのうちの一人は今年になって体調を崩し、毎日点滴を受けている。大腸内に大きなポリープがあり、入院して手術しなければならないという。それだけならまだいいが、彼はちょっとした動作でも息が上がるという。顔色は生彩を欠いている。細君は同級生である。中学時代同級生だった夫の健康を心配していて、元気がない。

  彼は丘陵の斜面を利用して大規模に自然放牧の養鶏場を経営している。その主が病に倒れようとしている。細君も同じ73歳、先行きの不安はぬぐえない。彼と細君は日中その牧場で仕事をし、夜は山を下って親から継いだ家で過ごす。今では見渡す限り住宅街になっているが、男が子供のころ見渡す限り一面の田圃の向こうに集落があり、彼の家はその集落の中にあった。

  男は彼の牧場にもう一人の竹馬の友が運転する軽自動車で一緒に行った。3人の竹馬の友はそれぞれ長男であり、その父親同士も長男で同級生だった。親子2代同級生同士で、子供時代お互いの家を行き来し、泊ったりしていた。彼の細君と老人とは幼馴染である。彼女は男の家では「新宅」と呼んでいた家の末娘であった。男と彼女とは数世代前の血がつながっている。子供の頃、二人小川で海老獲りをしていた。男は遊びのつもりであったが彼女は「あれは食料にするためだった」と言う。

    60数年前の思い出話で時間の経つのも忘れるほどであった。その話の中で、彼は男の祖父が仲間と協力して進駐軍から貰い受けた網など廃材を利用して、4人が通った小学校の校庭に野球用のバックネットを作ったという話をしてくれた。男には初耳であった。と言うより、未来にしか目を向けていなかった男は祖父がそのような善いことをしたことに無関心であったので記憶していないのだと思う。

     男はそこに連れて行ってくれたもう一人の竹馬の友とともに、彼と彼の細君を励ました。これが最後かもしれないと思い、沢山写真を撮った。笑顔を作らせ写真のでき具合を確かめながら何度もシャッターを切った。男はその中から、できるだけ明るい、楽しい写真をプリントし,皆に送ってあげようと思う。

    彼と彼の細君に見送られ、その牧場を後にし、男は従弟の家に向かった。従弟の家の前で送ってくれたもう一人の竹馬の友と別れ、従弟の家で夕食など呼ばれながら歓談した。

2010年11月8日月曜日

家事援助(20101108)

  タイトルの「家事援助」は男が継母のために行っている作業のことである。今日(6日)もお天気が良かったので、男は大忙しだった。寝具類を外に干し太陽の光を当てた。その間、継母を入浴させた。湯船には予め太陽熱温水とガス湯沸かし器の温水をたっぷり満たしておいた。継母がその湯を使って自分の頭を洗うことができるようにするためである。

  いつもなら継母はヘルパーさんに頭を洗って貰っており、髪をドライヤーで乾かすのもヘルパーさんにやってもらっていた。女房がいくら口酸っぱく「頭は自分で洗い、洗った後、自分で髪を乾かすように」と言ってもなかなか実行していなかった。しかし今日は男しか手伝いは居ず、いやおうなしに自分のことは自分でやらなければならない。継母は湯船にたっぷり満たされた湯を使い、自分で自分の頭髪を洗った。洗った髪も自分で乾かした。ただ、「シャンプーはどれか」とか「ドライヤーをどう使えばよいか」と言うので、男は継母の教育だと思い、その都度気楽に教えてやった。継母は「あー、やっぱり風呂はいい。今日は自分で頭を洗った。気持ちよかった」と満足げであった。

  継母が自分の頭髪を洗うのを人任せにするようになったのは、圧迫骨折で腰を痛め入院したりしたからである。しかし、筋力も付き、腰が曲がった元気な婆さん並みになった。押し車を押したり、杖を突いたりして気楽に散歩に出かける。継母はもともと頑健な身体であった。それががんを患い、腰を痛め、自立度が極端に低下していた。しかしかかりつけの先生による健康管理と老健でのデイサービスで継母はすっかり回復した。腰が曲がっている以外は普通の年寄りとは変わらない。

  継母が散歩をしている間、男は継母の部屋の清掃を念入りに行った。継母が散歩に出かけるとき老人は「玄関のカギはいつもやっているとおりにするように」と言って、いつも自分で散歩に行くときと全く同じようにさせた。やがて継母は散歩から帰ってきたので男は昼食の準備のため買い物に出かけた。行き先は農協がやっているスーパーである。昼は久しぶりすき焼きを食べさせてやろうと豊後牛を250グラムほど買ってきた。白菜やネギや豆腐や白滝やシメジなど、中に入れる材料も買った。

  継母は普段独りだけのさびしい食事をしている。「おいしい、おいしい」と言いながら沢山食べた。継母は肉類が大好きである。以前、焼き肉をしてやったら「こんなおいしいものは滅多にありつけない」と言いながら沢山食べた。十分な栄養と適度な運動が年寄りの健康の秘訣である。不健康そうな年寄りは大概栄養不足である。

  明日、日曜日男は竹馬の友数人に会うため家を空ける。一泊して翌日役場に行き、老人の曾祖父母の戸籍抄本を取る。以前男がまだ30歳代の頃、叔父に依頼して曾祖父母の戸籍を取り寄せたことがあったが、それをどこかに逸失してしまっていた。それを入手し、わが家の家系のことを書にして遺し、先祖を祭祀するところを造る、これが「あの世」に近くなった男の役目の一つである。亡父は先祖の祭祀について心残りのままあの世に行ったが、男はわが家の直系の長男として亡父の思いを実現させたいと思う。

2010年11月7日日曜日

弁当サービス(20101107)

  昨日(6日)夕方、民生委員のIさんが継母に弁当を持ってきてくれた。弁当は5の付く日の夕食用としてこの町のボランティア団体が作って届けてくれるものである。

  9月に継母が熱を出してヘルパーさんから連絡を受け、女房と二人で急きょ帰って来ていたときIさんが玄関のベルを鳴らした。出てみると「民生委員のIと申します。何度も来てみましたがお留守のようなので心配だったものですから」という。継母はかかりつけの先生の病院に入院させていた。ヘルパーさんから連絡があった日丁度土曜日だったがその病院に電話を入れ、入院させて欲しいとお願いした。そして懇意にしているタクシー会社に電話を入れ、継母を病院に送って欲しいとお願いした。タクシーの運転手さんは玄関まで入り継母をタクシーに乗せ、ヘルパーさんが病院まで付き添ってくれた。

  男が民生委員Iさんに会ったのは初めてである。Iさんは「お母様に隣のお惣菜屋さんで何か食べ物を買って来ようと思いましたが、好みがわからないのでためらっていました」と言う。Iさんはボランティア団体が行っている弁当サービスのことを話してくれた。女房はIさんからその話を聞いて即座にそのサービスの提供をお願いした。

    女房は行政が関わっているホームヘルプサービスの団体に初めから参加して、10数年以上長年お年寄りの家の家事援助サービスに関わり、放送大学で社会福祉関係のことを学び、介護福祉士の資格も取得したその道のベテランである。今は退職したが、もともと女房がホームヘルパーをしようと思い立ったのは継母の老後のことを思っていたからである。

  男の継母は女房の実母である。女房はその母とは9歳の時以来同じ屋根の下に住んでいない。女房にとって育ての親はその母の実家の人たちである。女房はその家で祖母や叔父・叔母たちの顔色を窺いながら暮らしていた。

    Iさんのお宅は継母の家からそう離れていないところにある。男と女房はIさんのお宅に伺い、いろいろ話をした。Iさんは男とほぼ同年のようである。二人は良いお方に巡り合ったと喜んだ。

    男は弁当の中身に興味があった。ご飯を入れる器、お惣菜を入れる器、そしてスープを入れる器の3点セットである。器の姿・形も品が良く、なかなか機能的にできている。ご飯は五穀米を炊いたものであった。お総菜は5品以上、栄養バランスもよく考慮されている。スープは豆腐や野菜など刻み食のように小さくしたものがぎっしり詰まっている。月3回、月末に支払うのであるが、1回400円である。これは非常に良いサービスである。都会地では到底このような弁当をこの値段で配ることは考えられない。男はこの弁当を取るようにした女房にその中身を見せてやろうと、継母に断り最初に写真を撮っておいた。

    この町は高齢化が進んでおり、65歳以上が人口の約30%を占めて、その割合が年々増え続けている。この町に郡内の医師会が設立し、運営している老人健康保険施設があり、継母は月6回、この施設でデイサービスを受けている。その内容はさすが医師会がやっているだけあって非常に良い。運動も食事も娯楽もすべての面で徹底している。以前、継母はこの施設に数ヶ月間入所していたことがあった。個室はまるでホテルの一室のようである。風呂は温泉で継母は「一番風呂に入れて貰った」とよく喜んでいた。継母はゆくゆくこの施設に入りたいと願っているが、そうは行かない。継母は現在要支援2のレベルである。

2010年11月6日土曜日

親族の写真(20101106)


  男は叔父の葬儀に出るため急いで準備していたとき、肝心の数珠を入れるのを忘れたがデジカメは忘れなかった。そのカメラで撮った多数の写真はデジカメのSDカードに保存されている。しかし保存媒体としてそのSDカード1枚だけでは不安である。そこで男は写真をパソコンのデスクトップと持参したUSBメモリにも保存した。

  男はこの携帯用のノートパソコンに保存した写真を継母に見せてあげた。叔父の葬儀に出ることができなかった継母は、パソコン画面上に拡大した写真を見てとても喜んだ。継母は仏事に出なくてもこの土地のしきたりに見合った金額の香典を出している。叔父の葬儀に男は 継母と弟の分の香典を持って出席した。「とても立派な葬式だったよ」と話して聞かせるだけでは継母もつまらないだろう。パソコンの画面上とは言え、こうして実際に写真を見せてあげると継母は頭の中で自分自身がその葬式に出席していたような気分になると思う。男はそこまで考えてデジカメを持参したわけではないが、写真に写った人に写真を送ってやって喜んでもらおうと単純に考えて写真を撮ったのであった。

  男は沢山撮った写真の中から良いものを厳選してPicasaウエッブアルバムに入れ、写真に写っている方々にそのアルバムにアクセスして貰って見て貰おうと思った。男が横浜に帰るのは1週間先である。横浜に帰ってから写真を現像してそれぞれ送ってあげるが、その前にパソコンを持っている人には今夜にでもそれを見ることができる。勿論葬儀に参加しなかった弟には見せたいと思う。URLを教えられた人にしかその写真は公開されない。

  男は今日午前中温泉に入った。人口1万7000人の山間の盆地にあるこの町には、あちこち天然の温泉が湧き出ている。入浴料300円でかけ流しの温泉を楽しむことができる。このような温泉は老人の家から近いところにもあるが、天気が良いので男は自転車を踏んでちょっと遠いところにある温泉に行った。

    その温泉は12時から入れるが、男はそのことを知らなかったので11時過ぎその温泉に着いた。事務所には誰も居ず、女性が一人で浴場の清掃作業をしていた。「まだ開いていなかったんだね」と老人が言うと、その女性は「ちょっと待って下さい、湯の温度を確かめます」と言って男湯の方に入って行った。やがて出てきて男から百円玉3個受け取った。老人は4畳半ほどもある広い湯船を独占して、ゆったりと温泉を楽しんだ。

    温泉を楽しんで家に帰るとYouTubeで尖閣諸島で中国の漁船が我が国の巡視船にぶつかってきた映像が流れたことが報道されていた。この間国際テロに関する情報収集のデータがネット上に流れた。我が国の情報管理や国益を守る意思はどうなっているのか不安になる。先日ロシア大統領が我が国の北方領土を公式訪問し、その上、そのことに一切触れずに親書を送ってよこした。我が国はなめられているのだ。

    尖閣諸島の領土・領海を守るため、海上保安庁の保安官や海上自衛隊の隊員らは命をかけて我が国の国益を守ろうとして頑張っているのに、あの仙谷官房長官や仙石氏に繰られているかのように見える菅首相は余りにも市民目線でリベラリスト過ぎる。

2010年11月5日金曜日

だんご汁(20101105)

  亡くなった叔父の縁で今まで会ったことがなかった従弟の家に泊った。その家で全く気兼ねもなく楽しく過ごした。初対面だった従弟の嫁さんにも、また娘さんにも、飼われている犬にも全く不思議なくらいに心理的な垣根が無かった。叔父の生前、叔父の思いが一方通行だった甥っ子である老人が、叔父が他界して其処に姿が見えないのに、あたかも其処に叔父がいるように、今度は男があの世にいる叔父に対して一方通行の思いを致している。これが「不思議」である。その叔父よりも年下であったが既に他界しているもう一人の叔父の妻が、男に「それがご縁なのよ」と真剣に言う。男もそう思う。

  男は叔父の遺骨が安置されているそばで休んだ。従弟の嫁さんが男の寝どこの準備をしてくれているそばで、叔父の遺骨が安置されている祭壇に向かって、線香を灯し、鐘を鳴らし、「南無阿弥陀仏」と声を出しながら手を合わせ、そのご縁のことを感謝した。

    今日4日も秋晴れの良い天気である。男は従弟の車で送られて駅に向かった。途中、叔父の遺骨が納められる新しい墓所に立ち寄った。従弟が2年前に造ったという立派なお墓に巻いた。その新しいお墓の主として、この地に礎を築いた叔父の遺骨が納められる。

    従弟は叔父の長男として立派にその役目を果している。昨日、火葬場で撮った従兄弟たちの集合写真が完成したら、従弟に依頼してその写真をその墓前に報告して貰おうと思う。従兄弟会を作れ、というのが叔父の生前の思いであったから、あの世で叔父は喜ぶだろう。

    男は2時過ぎに継母が独り住まいしている家に着いた。継母はデイサービスに行っている。お天気が良いので男は継母のベッドの寝具を日に干し、近くのデパートで茶菓子一箱を買いそれを持ってホームヘルプサービスを提供してくれている社会福祉法人の事務所に行った。目的は日ごろ継母が世話になっているお礼かたがた男が滞在中は継母へのホームヘルプサービスを断るためである。もともと家族がいるときは介護保険によるサービスは受けられないことになっている。

    帰りにACOOPのスーパーに立ち寄りだんご汁の材料や果物などを買い込んだ。男はだんご汁が大好きである。だんご汁は大分名物である。男料理のだんご汁は中身が豪快である。玉ねぎ、人参、ジャガイモ、かぼちゃ、茄子、ピーマン、豆、肉、いわしのつみれ、いりこ、竹輪、かまぼこなどなどなんでもごっちゃに水煮して素材の旨味を十分引き出す。そして団子を伸ばして入れ、味見しながらフンドーキン味噌を加え、良く煮る。団子は強力粉をしゃもじ山もり一杯ボウルに入れ、微量のグリセロリン酸カルシウムが加えられるアルカリイオン水を加えて練り、親指サイズにちぎってだんご状にして、熟成のためしばらく寝かせておき、それを引き延ばしながら程度の長さにちぎったものである。

    デイサービスから帰って来た継母は、「デイサービスで美味しいものを食べておなかがいいから夕食は要らない」と言っていた。しかし、どんぶり茶碗に盛っただんご汁をみて「おいしそうだね」と言う。男が「食べる?」と聞くと「ちいっとでいい」と言うので、どんぶりお茶碗に少しいれて差し出した。継母「これは美味しい」とかなり食べた。


2010年11月4日木曜日

従兄弟たちの集合写真(20101104)

 3日、とてもよいお天気に恵まれた。男は福岡の叔父の葬儀に参加して以前叔父が望いたことを実現させることができた。叔父は従兄弟たちの集いを望んでいた。奇しくも叔父の葬儀の日、その叔父の願いがかなった形である。火葬が終わったあと明るく穏やかな日差しの中で、男が持参していたデジカメのシャッターを他の人に押してもらって、男がこれまで一度も会ったことがなかった従弟たちも一緒に従兄弟7人の集合写真を撮った。

 世の中には不思議なことが起きる。不思議なことが起きたときそれが偶然に起きたと考える人が多いだろう。しかし男は、それは決して偶然ではなく、起きるべくして起きた必然のことであるといつも思っている。この日、男が願っていたとおりの写真ができた。

 男は家に帰ったら写真を現像して皆に送ってやろうと思う。男は勧められるままに無くなった叔父の長男になる従弟の家に泊った。遠慮がないと言えばその通りである。家に帰ったら女房からきっと叱られるであろう。

 しかし、世の中には余計な気遣いをしない方が良いことが多い。人はお互い迷惑をかけあいながら暮らしている。迷惑をかけないようにしていても時間軸の中でどの時点かで必ず迷惑をかけるものである。無心に、気の流れに逆らわず、融通無碍に生きた方が良い。

  初めて会った従弟の家に遠慮なく泊めさせてもらって、いろいろ話ができて良かった。これから先の時間軸の上で皆幸せになるだろう。明日、男は独り暮らしの継母の家に行く。継母はデイサービスに行っているが男は合鍵を持っているので先に帰って、継母の帰りを待つことになる。仏壇に手を合わせ、亡父に今日のことを報告しよう。亡父も10歳年下の叔父の葬式に老人が参加して喜んでいると思う。

2010年11月3日水曜日

帰郷(20101103)

    福岡に住む叔父が90歳で他界した。肺炎だったという。その叔父は男の亡父より10歳年下である。男はその葬式に出るため急きょ帰郷した。羽田から大分に飛び、別府で一泊して翌朝特急に乗り、11時からの葬儀に間に合うようにした。

    73歳の男は叔父が死んだという話を今朝聞いた。初めは遠いので香典だけ送って帰らぬつもりだった。しかしその叔父は男の父が30数年前死んだとき亡父の葬儀に来てくれた。男の亡父も長男であったし自分自身も長男である。長男は長男らしく振る舞わなければならない。これまで遠方に住んでいるという理由で親戚には相当義理を欠いてきた。自分自身もあの世が近い。これまでの不義理はこれから良く義理を果たすことで帳消しにしてもらおうと考えている。従兄弟たちも福岡で老人に会うのを楽しみにしてくれている。

   男はインターネットで航空券とホテルとJR九州の特急列車の指定席を予約した。今まで全く念頭になかったが、今回初めてスカイネットアジア航空(SNA)を使った。理由は65歳以上片道14100円で安いからである。羽田発17時25分発大分行きに乗った。以前はANAでも機内サービスでコーヒーなど出してくれたが経費節減でそれが無くなっている。しかしSNAではそれがある。飛行機はコンパクトで座席は左右3席づつである。機内のアテンダントは女性が二人だけである。無駄が一切ない快適な空の旅であった。

   大分空港に着いて手荷物を受け取り表に出るとバスが待っている。別府・大分行きのバスに乗る。料金1450円で別府北浜に着く。予約したホテルは別府駅近くのビジネスホテルである。北浜からそこにゆくのに徒歩で10分ほどかかるが、北浜のバスターミナルではタクシーが待ってくれている。ホテルまで620円。ホテルはじゃらんのポイントを使うので朝食付きで4000円ほどである。ホテルの部屋に荷物を置いて遅い夕食をとりに出る。駅の建物内にある「豊後茶屋」という店で大分名物のだんご汁とやせうまを取る。味は、ま、こんなものかな、という程度であった。老人の方がもっと美味しく作れるだろう。

   男は九州に帰ったときいつも感じることがある。それは、其処が自分の生まれ故郷であり、竹馬の友が居り、従兄弟・従姉妹たちが居る土地であり、横浜や東京などの大都会と違う雰囲気が漂うところである。暖かなやさしさを感じるところである。都会地は都会地でいいところも多い。便利で機能的で人間関係のわずらわしさもない。しかしそのような都会地からときどき九州に帰ると、何故か心の安らぎを感じる。

    男は此処に主たる住居を移し、都会地との間を逆方向にときどき移動する生活を夢見る。つまり7割大分に住み、3割横浜に住む。ときどき大分空港から羽田空港に向かう。今と逆である。大分で晴耕雨読の暮らしをし、たまに都会地に出て刺激を受ける。やろうと思えばやれないことはない。住む家もある。庭で多少の野菜は作れる。借りる土地はある。

    男はホテルの部屋でそのようなことを夢見ながらブログの記事を書いていると、携帯電話のベルが鳴った。女房からである。男は今夢見ていたことを女房に語った。女房は笑いながら「お母さんと一緒に住んだら」と言う。男は明日夕方その継母・91歳に会う。

2010年11月2日火曜日

沖縄の問題(2)(20101102)


  以下は先月25日の記事の続きである。翌26日の「90年世代」、28日の「沖縄の問題」、29日の「特攻」に関連する記事でもある。

  『歴史通11月号』(ワック出版WiLL発行)に沖縄県コザ市生まれ、78年防衛大学校卒業、82年2等海尉で退職後、琉球銀行等を経て現在拓殖大学客員教授である恵隆之介氏と前航空幕僚長田母神俊雄氏との対談記事が出ている。恵氏はその中で「沖縄県知事選」のところで書いたこと以外に次のことを言っている。もし、沖縄の現状がそのとおりならば、全国民はその実情を知らなければならない。おそらく官房長官のもとには沖縄に関し各種情報が上がっていることであろうが、多くの国会議員は知らないだろう。このことは是非知って貰いたいことである。

  折しもロシアのメドベージェフ大統領が我が国の北方領土を視察したという。ロシアは当時のソ連の中心の国であった。ソ連は1945年(昭和20年)8月1日日本に宣戦布告し、14日に日本がポツダム宣言の受諾を決定した後、同年8月28日から9月5日にかけて北方領土に上陸し占領した。このとき日本軍は物資や戦力が不足するなかでも激烈に抵抗し、多数の死傷者を出しながらもソ連軍の北海道侵攻を食い止めた。樺太(現在のサハリン)・千島の防衛で命を落とした日本軍将兵は約3700人であった。

  択捉・国後の二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固有の領土であった。ヤルタ協定でソ連に「手渡される」ことになっていた千島列島にこの2島が入っていない。この二島については、ソ連軍は当初アメリカ軍がやってくると様子見であったがアメリカ軍が来ないと知るとその二島どころか9月1日と4日に歯舞・色丹の二島に占領し、住んでいた日本人を追い出してまった。

    左翼・マスコミはこのような北方領土における歴史的事実には全く目を向けず、沖縄のことばかり書きたてている。このことを恵氏は同誌で指摘している。以下その要約である。

平成9年、橋本首相が左翼勢力に譲歩し、総務省管轄の基地交付金70億円を設定した。これは使途自由である。反対派の活動資金の温床ともなっている。沖縄でデモに参加すると最低でも日当3千円、幹部なら2万円もらうことができる。

今、沖縄ではテレビ局が毎日沖縄戦の被害を10分間放送している。中国に関しては親中国のムードを作っている。

沖縄の学校教育は反日反米である。

日本国民と沖縄県民との分断工作こそ中国が仕掛ける罠である。

⑤ 左翼勢力は、沖縄戦において日本軍が島民民を虐殺したとか、戦う相手は米軍ではなく日本軍だったとか、ものすごい反日プロパガンダを小学生に行っている。

今沖縄県で97%のシェアをもつ地元二紙は、明らかに県民を親中国に誘導している。

⑦ 戦後復原された首里城の玉座は北京の方向を向いている。

  この事実を多くの日本国民はどう思うか。左翼勢力は沖縄に集合し、反国家権力闘争を行っている。国会でもとりあげられたが、過去に反日運動に加担していたことがあった岡崎トミ子国家公安委員長は、この問題をどう扱おうとしているのだろうか。

2010年11月1日月曜日

老朽化と死に支度(20101101)


  人間の体も一種の精巧な機械である。機械は長時間作動させ続けると徐々に老朽化してゆく。人間の身体の細胞は定期的に入れ替わり、怪我などで死んだ細胞が新しい細胞と入れ替わる。機械の場合は部品を取り換える。しかし人間も機械も寿命がある。

  機械は大事に使えば長持ちする。人間という機械も同様である。無理をすれば寿命が短くなる。かつて鉄道で使われていた蒸気機関車は退役後あちこちで展示されているが、鉄でできているため錆が進行し、いずれぼろぼろに壊れてしまう運命にある。人間も物質でできている以上、朽ちて姿・形が無くなって行く。人間は土から生まれ、土に還るというが、そのとおりである。

  一般に人間は73歳までは元気だという。73歳を過ぎると病気になりやすいのだという。老人は今73歳である。来年の誕生日以降老人の身体に何が起きるかわからない。気をつけなければならない。免疫力が低下すると途端に体調を崩しやすくなるだろう。「年寄りの冷や水」という諺があるが、年寄りは見かけが元気そうでも無理は禁物である。

  森重久弥は天寿を全うして他界したと言う。天寿を全うするということは、何も長生きしたというだけのことではない。人生において為すべき役割を果たしたということである。他界する年齢には全く関係がない。老人も今自分の役割を果たそうと日々心がけている。

  時間は誰にも共通である。人によって一日が例えば22時間であったり26時間であったりすることはない。誰にも共通の24時間である。この時間をどのように割り振って一日を過ごすかということが重要である。現役世代では、働くことに多くの時間を割かなければならない。例え自分が為したいことが別にあったとしても、働くためにその為したい願望を胸に秘めながら一生懸命働かばければならない。働くことがその時期の役割である。

  田舎のわが家の玄関の上り口の直ぐ見える所に、亡父が徳川家康公の遺訓を書いた札を掲げてある。老人は今、改めてその遺訓をかみしめている。遺訓は「人の一生は、重荷を負うて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし、心に望み起らば困窮したるときを思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つことばかり知りて、負けることを知らざれば、害その身に至る。己を責めて人を責めるな、及ばざるは過ぎたるより勝れり。 」というものである。

  73年間動いてきた自分の体という機械は徐々に性能が低下し、機能が衰えてゆく。性能や機能の低下に対処して、道具や器具をうまく使ってゆこうと考えているが、そのうちにその気持ちも思考力も衰えて行く。つまり、体力も気力も知力も衰えてくるのである。遂には他人の助力を受けることなしには生きて行けなくなってくる。その日はいつか?

  老人は日々あの世に行くための支度をしてゆこうと思い日々を過ごしているのであるが、出来栄えは7割で十分だと思っている。7割できれば合格である。ある意味では‘いい加減’である。‘いい加減’でも死に支度をしないよりはずっと増しである。今のうちに為しておかねばと思う死に支度は沢山ある。しかしそのうち7割ができれば十分である。そのようにして今日も一日、宇宙の時間軸に沿って24時間が過ぎて行く。

2010年10月31日日曜日

台風接近(20101031)

    今年は寒気の進出の出っ張りが例年より後ろに引いているので、この時期、台風は日本に接近しやすいのだと言う。台風14号は今夜関東に最も接近または千葉県南部に上陸する可能性がある。その後熱帯低気圧になると言う。

    男は今夜は詩吟を教える日なので、女房が台風の中出かけることが危ないと心配する。テレビで報道される天気図を見ると台風は幾つもの輪の中心にあり、その輪の範囲が大きいので如何にも危なそうである。しかし、男が行く先はその輪の範囲からすれすれ外れる場所であり、風雨は多少強いと思われるが瞬間風速15メートルにもなる可能性は低いと思う。それも詩吟が終わって帰る頃、台風は関東に最接近する予定なので、左程心配することはない。しかし、一応、ビニールの雨合羽を携行しようと思う。

    明日、日曜日の朝から、近所の方がわが家の玄関の下駄箱を修理・改装して下さることになっている。材料費は廃材利用なのでタダで工賃のみかかる。ご近所の方が自分の仕事の合間にやって下さる工事である。有難いことである。

    わが家では玄関の下駄箱の上に水槽を置いて大きな金魚(最初の頃は小さかったが成長して大きくなった)を2匹飼っている。玄関に金魚を飼っていると縁起がいいらしいのだが、下駄箱の修理・改装のため一端水槽を移動させなければならない。移動先は空いている和室である。今日は朝からその作業を行った。

    金魚の水槽の中に「水工作」というフィルターを入れている。このフィルターは別にモーターで動かすものではなく、エアーポンプからの送気だけで糞や餌の食べカスなど水槽内の汚物を除去してくれる。しかし、2週間もすればフィルターが汚れてくる。フィルターの部品は1、2度汚れを除去して再使用しているが、今回新品を付けて以来初めての清掃なので、面倒であったが念入りに行った。

    作業が終わる頃、女房が田舎から送ってきた金時のようなさつま芋を専用の器具で焼いて出してくれた。牛乳と一緒に頂く。「美味しいね」と言いながらテレビのスイッチを入れたら昨夜、突如中止された日中首脳会談のことがコメンテーターを交えて議論されていた。

    1978年、中国の鄧小平中国副首相は、尖閣諸島の問題を棚上げにすると言った。鄧小平氏はこの問題は次の世代に委ねる、と言った。そして、1990年代の初頭、鄧小平氏は「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)ということを言った。

    その熟語の意味が誤訳されて、「能力を隠して再起を待つ」とか「野心を隠して爪を研ぐ」と取られていると言う。しかし鄧小平氏が言った「韜光養晦」(才能を隠して外に表さない)という真意はともかくとして、男は今の中国の軍事力増強の状況を見れば、実際は「野心を隠して爪を研ぐ」という意味にしか取れない。おそらく大多数の日本人はそう感じていると思う。

    人も、人の集合体である国も、その根っこに動物の本能がある。動物のオスは他のオスと縄張りを争う。強いものが勝つ。日本は価値観を共有する諸国と手を組んで、集団の力で中国に対処しなければならない。核武装も視野に入れる必要がある。

2010年10月30日土曜日

風邪を引かない方法(20101030)


  徐々に気温が下がって来ている。男は昨年101歳になられたあるお方に東洋医学の健康法を教わった。それを極力実行している。お陰で体調は良い。時々「100回噛む」ことを忘れ、時々「口が卑しくて食べすぎたり」して胃を壊すことがある。しかしそれで懲りて最近はそんなことが無いように心がけている。起床時の日課はもう何か月も継続している。食事と運動は体調維持の基本である。それも3カ月ぐらい継続しないと効果が出ない。

  男は起床時ベッドの中で次の運動をしている。この運動のため勿論寝具は足の方にずらして運動をしやすくしている。その運動のやり方は次のとおりである。

  先ず爪を揉む。但し薬指の爪だけは揉まない。101歳のお方からはそのことは教えられなかったが、老人はインターネットである医者が、薬指は交感神経に関係があるので揉まない、と書いてあったのでその通りにしているだけである。本当は薬指を揉んでも構わないのであろうが、男は副交感神経だけを刺激することにしている。

  揉み方は爪の両端を挟んで「イチ、ニイ、サン」と3回揉む。合計8本の爪の両端をそのように拍子をとりながら揉む。次に両手の指先を真っ直ぐ平行に合わせ、同様に「イチ、ニイ、サーン」と強く押す。その間、呼吸を整える。

  次に額から息を吸い、足の裏で吐くことを意識しながら、実際は鼻で息を吸い、吸った息が気道を通って肺に貯まることを意識する。肺にちょっとの時間息を貯め、次に肺から脚、つま先へと貯めた息が流れることを意識しながら、出来るだけ細く、長く吐き続ける。脚はベッドから10センチぐらい浮かす。そのとき足のつま先や足の裏から吐くように神経を集中させる。吐いて吐いて吐きまくると足先が温まる感じがしてくる。息も上がる。

    そこで次に爪もみをしながら呼吸を整える。両足の裏を合わせて脚を開き、膝をぺたっとベッドに付ける。次に腰を浮かし、お尻の穴を絞り、息を吸い脚を閉じながら陰部を上に突き出すように上げ、次に息を吐き脚を開きながら下げる。その動作を3度ぐらい行う。これで精力が漲る感じがしてくる。そして再び額から吸い、足で吐く動作を行う。この一連の動作を3回繰り返す。

  次に左腕を伸ばし、右腕でそれを抑え、左足を伸ばした右足の上にくの字に組み、首を左に向けて身体を捻る。次に逆側を同様に行う。これを3回繰り返す。

  その動作を終えた後四つん這いになる。先ず右手と左足を伸ばし、十分伸ばして背中や腰の筋肉を鍛える。次に逆側を同様に行う。この動作を3回くり返す。次に腕立て伏せを10回行う。これは早く、深く行う。たまにゆっくり、緊張を持続させながら行う。

  最後に起き上って運動具を使い腕、腹筋、背筋などを無理のない程度に簡単に鍛える。握力を鍛える道具で10回ほど握力も鍛える。これで起床時の運動は終わる。次に水をコップ1杯飲む。シャワーを浴びて背中や胸の皮脂を洗い流し、洗顔する。

    つま先や足の裏から「気」が出るイメージを持つことや、上記のことは男が独自に編み出した方法である。101歳のお方は爪揉みと額で吸って足で吐くことだけ教えてくれた。後は自己流である。しかしこれが非常に良い。体温が上がり、免疫力が上がり、風邪を引かず、気温が低くても薄着で過ごせる。男の妻も自分なりに適度に行ってくれている。

2010年10月29日金曜日

特攻(20101029)


  本屋に立ち寄り何かいい本がないかと物色した。本屋の入り口の台上に『図説特攻』という本が目についた。その本は森山康平という人が著したもので河出書房新社が出版したものである。裏表紙にまだ10代と思われる特攻隊員が出撃前子犬と人形を抱いて微笑んでいる写真がある。これから死ぬというのに悲壮感がまったくない表情である。

 どんな内容の本かと思い立ち読みしてページをめくった。値段は1600円である。ついこの間、この本やで『大東亜解放戦争』という上下2巻の本を4000円も出して買ったばかりである。この本を買おうかどうか躊躇したが、結局買うことにした。このような本は今後出ないだろう。蔵書にしておけば男があの世に逝った後、孫がいい齢になった頃手にして読んでくれるかもしれない。そう思って思いきって買った。

 先の大戦で、特攻隊慰霊顕彰会という組織が編纂した『特別攻撃隊』(平成2年・非売品)には特攻戦死者の全氏名が掲載されているという。それによれば海軍が4156人、陸軍が1689人、合計5845人の方々が先の大戦で散っていったという。

 航空特攻の中心はフィリッピン近海における特攻と沖縄近海にものが大部分であるという。フィリピン航空特攻の戦死者は695人(海軍419人、陸軍276人)、沖縄航空特攻の戦死者は2610人(海軍1590人、陸軍1020人)となっているという。航空特攻では沖縄近海における戦死者が圧倒的に多い。必死で沖縄への米軍の侵攻を阻止しようとしたのだ。

 関行夫大尉が神風特別攻撃隊の隊長を命じられ、その任務を引き受け、出撃直前、同盟記者の小野田政にたいして「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」と語り、さらに「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のために行くんじゃない。最愛のKA(ケイエイ)(海軍隠語でKAKA、つぃまり奥さんのこと)のために行くんだ。命令とあらばやむを得ない。KAがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ、すばらしいだろう!」と言ったという。関大尉はその年の春結婚したばかりだったという。

 特攻隊員の戦死者は多かったが無駄死にではなかった。護衛空母セント・ロー、護衛空母オーマニ・ベイを沈めた他、戦車揚陸船LST-472 など5隻の戦車揚陸船を沈め、その他駆逐艦、歩兵揚陸船など多数の船を沈めた他、多数の空母その他の艦船に被害を与え、戦闘能力を失わせている。九州沖では正規空母フランクリンに海軍特攻機が急降下攻撃を行い、爆弾2個を投下し、空母は10度以上傾き戦闘不能に陥った。

    同空母で戦死者800名ほど、戦傷者不詳という被害を与えている。アメリカ側では「太平洋戦争中最も悲惨な被害だった」と言っているという。この海軍急降下爆撃機は敵弾を受け空中分解して海中に落ちたという。

    男は若いころまだ小学生だった二男を連れ靖国神社に詣でたとき、そこで特攻隊員の遺書を読んだことがある。隊員たちは皆20代前後の若さであった。読んでいて涙が出た。今の日本があるのは、彼らの犠牲の賜物である。日本人は決して忘れてはならないのだ。