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2011年12月12日月曜日

「渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える」は韓国併合までをもってひとまず終結させる。(20111212)

渡部昇一『決定版 日本史』には日米開戦のいきさつについてこう書き出している。

 “日露戦争の勝利は、世界に大きく三つの変化をもたらした。

 第一は、当時迫害されていた世界の有色民族のリーダーたちに独立の希望を初めて与えたこと。これは第二次大戦を経て続々と独立を達成した国々のリーダーたちの言葉によって証明されている。

 第二は、日本が世界的に大国として認知されたこと。ロシアに勝利したことで、日本は押しも押されぬ強国になったといってよいだろう。

 第三は、アメリカが日本を敵視するようになったこと。日露戦争は日米戦争へと向かうきっかけとなったのである。

 なぜアメリカが日本を敵視するようになったかといえば、アメリカは世界史をよく知っていたからである。世界の歴史では、小さな陸軍あるいは弱小な陸軍が奇襲攻撃を用いたりして大きな陸軍に勝ったことはしばしばあった。それは珍しいことではないし、世界の大勢に影響を与えることもあまりない。ところが、海上の戦いは文明の戦いであり、その勝敗が後の文明のありかたを決するのである。・・(中略)・・

 すべて海軍の戦いの勝敗で時代が大きく動いている。それだけに、日本海海戦で日本の連合艦隊がロシア艦隊を撃破したとのニュースはアメリカに衝撃を与えた。それまでは無視してもいいような小国で、むしろ同情さえしていた日本海軍がロシアの戦艦を何隻も沈め、自分のほうの軍艦は一隻も沈んでいない。この結果にアメリカは恐怖を覚えたに違いない。文明の変化が起こると感じたはずである。

 中国海軍の膨張に対してアメリカは強い警戒感を抱いているに違いない。TPPは中国封じ込めのためアメリカ主導で進められている。日本がアメリカの傘下に入り、強固な軍事同盟で中国に対峙することは中国にとって「生きるか死ぬか」の大問題である。

 中国はあらゆる謀略を用い、日本国内にシンパを増殖させ、沖縄県民の心を反戦・琉球独立に向かわせ、台湾国民の心を中国復帰へ向かわせ、日本国内にTPP反対の声を増大させようとしている。第一列島線・核心的利益の戦略の継続は中国の国家意思である。

 万物と同様に、人でも国でも「生き残る」「自存」の力が備わっている。その力は本来兼ね備えている自然のものである。しかし人でも国でもその「自存力」の根源を知り、その「自存力」を高める努力をしない限り、生き残ることは非常に難しくなるだろう。

 日本国の「自存力」の根源は、この日本列島に住みつき悠久の歴史を持ち、万世一系の天皇を頂いている日本民族一人一人の生来のDNA、これは大陸人とは異なっている部分があるDNAと、日本の精神文化や大和魂を形成している伝統的なもの・伝承されているものの二つである。DNAを「体内遺伝子」とすれば、後者は「体外遺伝子」ともいうべきものである。

この「体外遺伝子」は、戦前までは「皇国史観歴史教育」と「教育勅語」によりしっかりと維持され補強されていた。戦後それがなくなった。これは日本という国家の危機である。目には見えない危機である。日本はここに先ず対処すべきである。

2011年12月11日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(101) (20111211)

 “さらに明治四十二年(一九〇九)十月二十六日に、伊藤博文がハルピン駅で韓国人テロリストの安重根(あんじゅうこん)によって暗殺されるという事件が起こった。これによって日本国内の世論は一気に韓国併合へと傾き、翌年、正式に併合することになるのである。

 これに対して国際社会の反応はどうだったかというと、各国とも朝鮮半島が不安定な状態にあるのは利益に反するという意見で一致しており、イギリスもアメリカも、むしろ積極的に日本の韓国併合を勧めていた。ただアメリカは、韓国併合を認める見返りにアメリカのフィリッピン支配を完全に認めることを求めた。一方、イギリスは、同盟国の日本が強いほうがシナ大陸の利権を守りやすいということで、韓国併合に賛成していた。

 しかし、アメリカ、イギリスから勧められたからといって、日本はすぐには飛びついたわけではない。ロシアや清国も含めた各国の意見を十分聞いて、一か国も反対することのないことを確認したうえで併合を決めたのである。

 当時出版されていた、ポピュラーであるが権威もあるブリタニカの十一版を見ると、韓国併合について「植民地化(colonization)」という言葉は使っていない。「annexation」といっている。Annexationとは、例えばイギリスだと、イングランドとスコットランドの土地関係の問題に使う言葉である。Colonizationが劣った国から収奪するという意味になるのに対し、annexationはくっつき合って同等の国になろうとすることを意味する。イングランドとスコットランドの関係は、イングランドがスコットランドを植民地化したとはいえない。日本と韓国の関係はそれと同じだと見なしていたのである。

 事実、日本は非常に短期間で韓国に大幅に施政権を移している。日本の県議会に相当する議員は非常に早い段階でほとんど全員韓国人になっているし、県知事に相当するような人も出てきている。

 その頃、韓国のほうにも併合運動を進める動きがあった。当時の韓国で最大の政党が合併論に賛成していたのである。その理由として当時よく使われたのは、「日韓同祖(どうそ)論」という考え方であった。日本も韓国も先祖は同じだ、というわけである。これは部分的に正しいと思う。少なくとも百済(くだら)と古代の日本は同祖論といってもいい関係にあったはずである。

そのようなことで日韓両国は合併したわけだが、韓国がほかの世界の植民地と徹底的に違うところは、日本が大変な金を持ち出して韓国を日本と同じレベルまで引き上げようと努力している点である。小中学校をつくって義務教育を施し、大学をつくり、専門学校をつくり、それまではほとんど知られておらず、したがって使う人のいなかったハングルまで教えている。

また、韓国の王家は末代まで王のままで、皇太子は皇太子のままで変わらなかったし、韓国の正式な両班(リャンバン)、すなわち伝統的な貴族はそのまま日本の華族になった。こうしたことはヨーロッパの植民地では決して起こり得なかった。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)                           

 はっきり言えることは、日本は決して朝鮮(韓国・北朝鮮)を侵略していなかったことであり、「日韓併合」は当時の大韓帝国も同意していたということである。しかも合併したとはいえ、日本は韓国に施政権を移し、韓国を対等の国として育ててゆこうとし、日本の皇室から韓国の皇太子妃として嫁入りまでさせている。日本と韓国は、例えばイギリスにおけるイングランドとスコットランドのようなannexationの関係にあったのである。慰安婦問題などで自虐史観から抜けきっていない政治家たちは日本と韓国の間の近代史を良く勉強して貰いたい。韓国の一方的主張に決して耳を貸さないで欲しい。    (続く)

2011年12月10日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(100) (20111210)

 “日露戦争から五年後の明治四十三年(一九一〇)八月二十二日、日本は大韓帝国を「韓国併合ニ関スル条約」に基づいて併合した。これにより、韓国皇帝は大韓帝国の統治権を日本の天皇に譲与することになった。これが「日韓併合」(韓国併合)である。

 この韓国併合は日本が決して積極的に進めたものではなかった。むしろ予想外といえるような出来事があった。これには前段階がある。

 日本は日露戦争直後の明治三十八年(一九〇五)十一月、大韓帝国と第二次日韓協約を締結した。これによって韓国が日本の保護国になることが決まった。そして韓国総監府(そうかんふ)を置き、伊藤博文が初代総監として就任することになった。

 日本にとって韓国の併合は重い負担を背負い込むことになるため、伊藤博文は韓国を併合することに反対していた。もしも韓国を併合して日本が朝鮮半島を防備することになれば、その負担はたいへんなものになる。これに加えて特に産業らしい産業もない朝鮮半島に工業を興し、インフラを整備するとなれば、これはおおごとである。日露戦争に勝ったとはいえ、日本はヨーロッパ列強のような植民地経営をするような状況になかった。伊藤にはそれがよくわかっていたのである。

 ただ、いつまでも韓国の外交がぐらぐらしたままでは日本の国益が損なわれることになる。実際、日清戦争にしても日露戦争にしても朝鮮問題がその主因となっている。そこで韓国が近代化して富強になるまでの当分の間、外交権だけ預かればよいのではないか、そういう方針が出され、韓国を日本の保護国にすることになった。韓国もそれを承諾し、日韓協約が結ばれたのである。

 ところが韓国は、協約に基づいて日本が外交権を預かっているにもかかわらず、一九〇七年(明治四十)にオランダのハーグで開かれていた平和国際会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えた。しかし、これは出席していた各国から総スカンを食って、韓国は会議への参加を拒絶されている。(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 中国や韓国・北朝鮮(これらの国々の人々の一部または多数)は、なぜ国際ルール或いは国際的常識を無視するような行動をするのだろうか?一部の韓国人が例えばアメリカのフリーウエイに非常に目立つ横看板を立て、そこに「竹島は韓国領」と宣伝したり、剣道や茶道など日本固有の伝統文化の起源が韓国にあると宣伝したりするのは何故だろうか?彼らは国際社会からどんなに非難され、哄笑されても、「自分たちが世界の中心であり、自分たちがやっていることは正しい」と頭から信じ込んでいるように見える。

 明治時代一部の韓国人がオランダのハーグで取った行動や、勝手に李承晩ラインを引き自国の古地図を改ざんしてまでも竹島が韓国領であるように歴史を捏造する行動は「国の性格」に起因している。この「国の性格」は「人の性格」同様、変わることはない。

中国の指導部が南京事件を捏造し、記念館まで造り人民を教導しているやり方と、韓国の政府が竹島を独島とし、日本海を東海として子供たちを教導しているやり方とは類似している。政治家やインテリ層の一部に心情的に中国びいきの人たちが多いが、私は彼らに人の性格と行動や性格の相違と人間関係について勉強して貰いたいと思っている。(続く)

2011年12月9日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(99) (20111209)

 “それから、日本海海戦ではなんといっても連合艦隊司令長官、東郷平八郎の沈着大胆な指揮が光った。それと同時に、陸軍の機関銃と同様、海軍にも新兵器があった。それは下瀬(しもせ)火薬という四千度もの高熱を出す新しい火薬の発明である。これが当たると、当たったところから燃えだして、船の塗装まで燃えたという。当時の軍艦の大砲は甲板の上にあったため、甲板が火事になると戦闘能力を失ってしまったのである。また伊集院五郎(いじゅういんごろう)海軍大佐が考案した伊集院信管(しんかん)という非常に鋭敏で爆発力の高い信管なども実用化されていた。これらは当時、イギリスの百科事典に出ているくらい注目を引いた新兵器であった。

 また木村駿吉(しゅんきち)が開発した無線電信機によって「敵艦ミユ」の報がいち早く日本の連合艦隊に届いたことは、日本側に決定的な優位を与えた。

 こうしたことを考えると、明治維新以後、急速に発展した日本の科学力が盛況なバルチック艦隊を葬ったといっても過言ではないだろう。秋山好古による陸軍での機関銃の機関銃の導入も含め、日本の軍事力は当時の世界的水準を超えていたのである。だからこそ、ヨーロッパ最強の軍隊に勝てたのである。”

 実際、日露戦争の約十年後の一九一四年に始まる第一次大戦になると、騎兵の影が薄くなり、陸上では戦車の時代になる。これは日本が騎兵に機関銃を使ったことが研究されて、もう騎兵では役に立たないとよくわかったからである。一方、海上では軍艦の造り方が変わった。つまり、大砲を甲板に置かずに塔に入れる砲塔制になる。これも日露海戦の下瀬火薬の出現によって甲板が燃えても戦闘能力が落ちないように工夫されたものであった。後進国の日本が嘉永六年(一八五三)の黒船来航からわずか六十一年という短い間で、世界中の陸上、海上の戦闘形態を変えてしまったのである。まさに世界の軍事史に残る出来事であった。

 そして、日露戦争は単に日本が大国ロシアに勝ったというだけの戦争ではなかった。この戦争の結果は、さらに重大な影響を世界中に及ぼしたのである。それは、有色人種の国家が最強の白人国家を倒したという事実であった。これら世界史の大きな流れから見れば、コロンブスのアメリカ大陸発見以来の歴史的大事件といてもいい。世界中が目を疑うような奇跡的な出来事であったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 黒船来航からわずか61年という短い期間で、日本が当時世界最高の兵器や戦法を開発し、実用に供することができた素地は何だっただろうか?日本がシナ(当時清国)や朝鮮の国に先んじて近代化を成し遂げ、遅れとったシナから大量の留学生を受け入れ近代化の教育をし、軍隊を大陸から東南アジアまで展開させた理由は何だっただろうか?

 アメリカは日本を占領すると日本の能力の根源となるものを徹底的に取り除こうとした。天皇も廃止させようとした。しかしそのアメリカで差別や偏見の中ヨーロッパ戦線で大和魂をもって戦い、史上最強の陸軍と称賛され大統領から「諸君は差別とも戦った」という言葉を贈られて表彰された日系第442連隊の影響もあったことであろうと思うが、日本人の能力を利用することがアメリカの利益になるとアメリカは考えたに違いない。 (続く)

2011年12月8日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(98) (20111208)

 “ロシアにはナポレオン戦争でナポレオンを裸にして追い返した陸軍があり、イギリスに次ぐ大艦隊を持つ海軍があった。ロシア海軍は当時、バルチック艦隊、黒海艦隊、太平洋艦隊と三つの艦隊を持ち、アジアでは旅順およびウラジオストックに港を構えていた。

 このような大ロシアと戦って、誰も日本が勝てるとは思わなかったであろう。ところが、ご存じのように、日本は陸上戦で百戦百勝、海上では、黄海の海戦、蔚山(うるさん)沖の海戦、それから日本海大海戦でロシア艦隊を撃滅した。この戦争の結果は、世界の軍事史にも巨大なる影響を及ぼしたのである。

 というのは、ナポレオン戦争のときに最も恐れられたのはコザック騎兵隊であった。コザック騎兵隊に比べれば日本の騎兵隊はとるに足らなかった。江戸時代、日本では馬に乗った戦争がなかったため、馬は全く改良されておらず、明治初年に日本に来た外国人たちは、日本の小さな馬を見て進化論の証明になったと喜んだというぐらいのものであった。そのため日本は、戦争に備えて馬を輸入して育成していたのである。その日本が完全にコザック騎兵隊を押しとどめて、しかも陸上で白人に勝ちまくったのだから驚きである。

 これには秋山好古(あきやまよしふる)という天才が大きな役割を果たした。絶対に勝ち目のない日本の騎兵がなぜ勝ち得たか。これは日本軍が騎兵を歩兵として使うことを覚えたからなのだが、簡単にいえば、秋山好古は騎兵に機関銃を持たせたのである。機関銃を持った騎兵にとって、コザックは恐れるに足らなかった。いざとなれば馬からおりて機関銃で応戦し、向かってくるコザック兵たちをなぎ倒したのである。

 そしてまた、騎兵の強みである機動性を使って満州の大草原を駆けめぐり、敵の背後に向かってシベリア鉄道を脅かした。シベリア鉄道が破壊されることはロシアにとって補給線を絶たれることになることで、死活問題である。大軍であればあるほど、補給線の確保は重大な問題で、ロシアは非常に神経質になった。このようにして、秋山の「コロンブスの卵」のような発想で、騎兵隊は世界最強のコザックを打ち破ったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 NHKのドラマで『坂の上の雲』が3年がかりで創られ、今年はその第三回目である。NHKは史実にかなり忠実にドラマを創っているように思われる。勿論ドラマであるから創作部分は多い。断片的史実の他はすべて創作であるといってよいほどである。

 一方、韓国では歴史よりも物語を大事にしている。韓国人は物語がいつのまにか史実になるように思い込んでいるように見える。例えば「竹島は韓国領」という物語を創り世界中(国際裁判所があるスイスのジュネーヴを除く)に宣伝しまくっている。剣道も茶道も、また禅すらも韓国に起源があるという物語を創り、世界中に宣伝しまくっている。韓国人の中の良識派は自国民がそのような振る舞いをしていることに眉をひそめているに違いない(と思いたい)。いずれにせよ、韓国という「国の性格」はそのような韓国人によって形成されている。人でも国でも「性格」は生涯変わらない。しかし「行動」は自分(自国)に利益をもたらす方向に変わる。                  (続く)

2011年12月7日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(97) (20111207)

 “日本がロシアと戦う決意をしたのは、日英同盟の成立による。ロシアは北進事変を口実に満州に兵を進め、いっこうに撤兵する様子がなかった。このままでは朝鮮はいずれ完全なロシアの支配下に入ってしまう。そうなれば日本は窮地に陥ることになる。ならば、相手は強敵だから乾坤一擲(けんこんいってき)の大勝負に出るしかないと考えたわけである。

 こうして明治三十七年から三十八年(一九〇四~〇五)にかけて起こった日露戦争は、世界中の度肝を抜くような大事件となった。日露戦争の意義については、どんなに高く評価しても評価しきれないほどの大きな意味がる。

 というのは世界史的に見ると、コロンブスが一四九二年にアメリカ大陸を発見して以来、白人は続々と世界に出ていって、有色人種の国を植民地にしたり、不平等条約を結んだりして、気がついたら世界地図に独立国として残っているのは、トルコ、風前の灯のシャム(タイ)、それから日本しかなくなっていた。

 そして当時の情勢から見れば、白人たちがさらに清国を分割することが確実であった。清はアヘン戦争、アロー戦争でイギリスこてんぱんにやられたうえに、北進事変で完全に腰が抜けてしまっている。ロシアはどんどん南下してきて、すでに満州はロシア領になっており、さらには黄河(こうが)以北か揚子江(ようすこう)以北まで取る可能性があった。それからイギリスは、香港、九龍諸島に加え、揚子江沿岸も取る気があっただろう。フランスはすでにインドシナ(ラオス、カンボジア、ベトナム)を領有し、広州(こうしゅう)湾を取り、ドイツは青島から膠州湾(こうしゅうわん)、さらに山東(さんとう)省の権益を取り、なんでもされ放題のありさまになっていた。

 インドもセポイの反乱で全く反抗精神をなくし、ビルマ(現ミャンマー)も領土を取られており、マレーも話にならあに。インドネシアはオランダ領になっている。アフリカはもちろん問題外であるというわけで、見渡したところ、地球の有色民族の中で白人の勢力に抵抗できそうな国は日本しか残っていなかった。

 その日本がロシアと戦ったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 日本の学校でこのような史実についてどれほど教えられているだろうか?一方で、戦争中日本軍が悪いことをした、例えば南京虐殺や朝鮮の慰安婦や沖縄の集団自決強制など、ありもしなかったことを実しやかに教えている。皆、自虐史観にとりつかれた反日的な日教組の教師たちが、中国や韓国・北朝鮮のお先棒を担いで子供たちを洗脳している。

 日本人がこのような情けない状態になったのは戦争に敗れたことを契機にアメリカが日本を再び軍国にしないという強い意志のもとアメリカ流の文化を日本に押し付けたことに根本の原因がある。一方で日本に反感を持つ国々つまり中国・韓国・北朝鮮はそのようなアメリカの動きを利用して日本国内の反日的勢力(一部の在日外国人や日本人の進歩的文化人・新聞記者など)に働きかけ、活発に活動を行っているためである。

 問題が起きたら原点に立ち戻れば良い。一部の進歩的文化人の告げ口がきっかけでGHQによって廃止においこまれた教育勅語を復活させればよい。        (続き)

2011年12月6日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(96) (20111206)

“その北京防衛軍の司令官となったのはマクドナルドというイギリス公使であったが、この人は軍人でもあったため、柴中佐を中心とする日本軍の優秀さをいち早く認めた。指揮が優秀であること、兵隊が実にきびきびとして統制がとれており、いつもにこやかであることなど、非常に感銘を受けたらしい。

 それからまた、助けに来た日本の第五師団は猛暑の中、悪戦苦闘しながら戦い、北京を占領する。占領後は、各国の軍隊が占領地域を分割して治安維持をはかったかが、占領地域において一切略奪行為を行わなかったのは日本だけであった。これを見て、当時の北京市民は日本の旗を掲げたという話があるくらいである。

 そういう様子を見ていたマクドナルドは、「日本は信頼できる」と本国の外務省に伝えたに違いない。彼は北京のあと東京に公使として赴任し、日露戦争後には初代の日本大使になっている。このマクドナルドがロンドンで日本の林董(はやしただす)公使に最初に日英同盟の提案をし、伊藤博文ですら信じなかった日英同盟が成立するのである。

 この日英同盟は、大正十年(一九二一)十二月まで、およそ二十年間にわたって存続した後、同年のワシントン会議の結果、解消されることになった。これは当時、日本を第一の仮想敵国と見なし、対日戦略構想を立案していたアメリカの介入によるものであった。

 日英同盟の代わりに結ばれた日・英・米・仏の四国協定は何の意味もない。何の役にも立たないものであった。これ以降、日米関係は悪化し、日本は対米戦争の道に入り込んでいくことになるのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 私は、国の「性格」というものについて考える。人の「性格」は変わることがないように、国の「性格」も変わることはない。「性格」はDNAと成長期の環境により形成されている。他者が自分の「性格」を変えようとすると自分は怒る。

アメリカの「性格」は「陽気である。」「開放的である」。「傲慢なところがある」。「ひたすら富と豊かさを求める」。「自分の富と利益が損なわれるようであると友達でも容赦なく文句を言い、喧嘩を吹っ掛ける」。「兄弟のイギリスや親族のイスラエルを大事にする」。その兄弟であるイギリスや親族であるイスラエルは、兄貴分であるアメリカと一緒に荒野で戦うことを当たり前と思っている。さながら西部の荒野の三兄弟のガンマンのようである。アメリカは「日本はときに扱いにくいがよい友人であると思っている」。

 日本はアメリカ以上の超大国になることができるだろうか?私は、それは決してあり得ないと思う。日本にとってアメリカやイギリスやフランスなどは「性格」的に折り合うよい友だちである。しかし、中国や韓国や北朝鮮は「性格」的にどうしても折り合えない。ロシアの「性格」は「ずるい」と言える。しかしロシアの出方次第では折り合えないこともない。

日本人はルーツに中国や韓国・北朝鮮の血も混じっているが縄文・渡来系弥生人が母体である。万世一系の血統の天皇がいる国である。「性格」が折り合わない中国・韓国・北朝鮮と一緒に同じ屋根の下で同じ釜の飯を食い、同じ風呂に入り、共に外敵と戦う、というような暮らし方は決して上手く行く筈がない。               (続く)

2011年12月5日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(95) (20111205)

 “このイギリスの国益とは何か。それはイギリスがシナ大陸に持つ自分たちの利権を指している。

 実は、日英同盟を結ぶ直前まで、イギリスは南アフリカでボーア人というオランダ系移民の子孫を相手に戦争をしていた(ボーア戦争)。この戦争は一八九九年から一九〇二年まで四年も続いた。このアフリカの南端で戦っていた陸軍が、いざというときにシナ大陸まで地球を半分回ってやってきてロシア軍を押さえることは到底不可能な話だった。しかし、ロシアは今まさに南下をはじめている。これを抑えなければ、シナに持っているイギリスの莫大な権限を守るすべがない。そこでイギリスは日本と手を組むことにした。

 これが日英同盟締結の真相である。日本にしてみれば、イギリスは普通の国とは軍事同盟を結ばないという超一流国である。そのイギリスと軍事同盟を結ぶというのはたいへんなプラスなので、非常に喜んだのである。

 では、イギリスがなぜ日本を選んだのかというと、それは明治三十三年(一九〇〇)に起きた北進(ほくしん)事変がきっかけとなった。これは北京にいる列強八か国の公使館のある区域が、「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清を扶(たす)け、西洋を滅ぼす)を掲げる義和団(ぎわだん)という宗教団体の反乱(拳匪(けんぴ)の乱)によって包囲され、それを後押しする清国が列強に対して宣戦布告した事件である。

 このとき、欧米列強は日本が救援軍を派遣することを望んだが、日本政府は三国干渉の経験から国際社会の反応を恐れて動こうとしなかった。日本軍が動けば、日本を敵視している国は必ず「義和団の乱を口実にして日本は清を侵略した」と言い出すに違いない。そこで日本政府は他国からの正式な要請がなければ動かないことにしたのである。白人中心の世界に日本が受け入れられるためには、欧米協調を旨として、節度ある行動をとる必要があると考えたのである。最終的にはイギリス政府が欧州各国の意見を代表する形で日本に正式な出兵要請をし、それを受けて日本は出兵を承諾したのである。

 その救援軍が到着するまで、北京の公使館区域を守るときいちばん活躍したのも日本人であった。当時、北京にある公使館員を中心に北京防衛軍が組織されたが、その中で最も勇敢にして功績があったのは、柴五郎中佐という公使館付き武菅の指揮のもと戦ったわずかな人数の日本人兵であった。(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 日英同盟は幸運であった。しかしその幸運の元になったものは日本政府の正しく適切ない判断と、日本軍人の清い心と勇敢さと規律と兵法能力の高さだった。ここに武士道精神の真髄をみることができる。          (続く)

2011年12月4日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(94) (20111204)
 “そのロシアが遼東半島を租借して旅順を軍港にする。それだけならまだしも、現在の北朝鮮あたりまで手をのばしてきた。日本は必死になって、満州を自由にするのは仕方ないとしても、朝鮮半島には出てきてもらっては困るという趣旨の交渉をはじめた。ところが、ロシアは全く聞く耳を持たない。鴨緑江(おうりょっこう)河口にある龍岩浦(りゅうがんぽ)という漁村を手に入れ、これを軍港に変える。それから北朝鮮の鉱山採掘権や森林伐採権なども取る。そしてついに、日本と眼と鼻の先にある鎮海(ちんかい)湾のあたりに軍港を借りたいと朝鮮政府に要求するのである。
 鎮海湾を押さえられたとしたら、全朝鮮がロシア軍に制されることになる。これは日本にとって致命的である。このロシアの重圧については、昭和二十五年(一九五〇)に朝鮮戦争がはじまったとき、アメリカのマッカーサー元帥(げんすい)も認めざるを得なかった。アメリカ軍は朝鮮半島を防衛するため、ソ連の指示を得た北朝鮮軍と死闘を繰り広げることになるのである。
 ロシアは朝鮮政府に圧力をかけた。朝鮮は事大(じだい)主義の国であったから、三国干渉で日本があっさりドイツ、ロシア、フランスの圧力に屈して遼東半島を返すのを見て、やはり白人国にはかなわないのだろうと判断した。そして一気にロシア寄りになるのである。さすがに鎮海湾に港を貸すことは反対したが、それもいつひっくりかえるかわからない。
 これをもって日本はロシアとの外交交渉を続行するのをあきらめ、シベリア鉄道の完成の前というぎりぎりのタイミングで戦争に突入するのである。
その前に日本にとって幸いな出来事があった。日露戦争が勃発する二年前の明治三十五年(一九〇二)に日英同盟が締結されたのである。日英同盟はイギリスの国益を守るためにできたようなものだが、それは日本の国益とも一致したのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)
歴史に「もし」ということはないが、日英同盟は日本にとって幸運だった。また朝鮮戦争で朝鮮半島がソ連のおもいのままにならず、韓国という西側陣営の国が残り、日米安全舗装条約が締結されたことも幸運だった。
幸運は偶然だっただろか?私はそうではないと思う。「思う」というよりも「信じている」。というのは、これは客観的に証明されているものではないが、元寇のときもそうであったが、日本は日本列島が侵略されそうな危険な状態になったとき、何かが起きているのである。眼には見えない「何か」がこの日本列島と日本民族を護ってくれているのである。
その眼には見えない「何か」は、万世一系の天皇と日本民族の祖霊だと思う。日本中何処にもある鳥居と神社はその「何か」と交流する場所である。
国として靖国神社を祀らないことは絶対間違っていると私は思う。
                                   (続く)

2011年12月3日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(93) (20111203)

“日清戦争の講和交渉の結果、日本は清国から賠償金と台湾、澎湖(ほうこ)諸島および遼東(りょうとう)半島(関東州)の割譲を受けることになった。これがそのままおさまっていれば日本にとってこのうえない好条件となったのだが、そうはいかなかった。

 台湾と澎湖諸島は清国にとって実効的な支配の及ばない土地だったから問題はなかった。遼東半島も万里(ばんり)の長城(こうじょう)の外にあり、清国にとって比較益重要どの低い土地だった。一方、日本にとっては関東州は南満州(まんしゅう)に入り込んでおり、それだけの地域を割譲してもらえば、その後の日本の移民問題も起こらず、日露戦争のもとになる旅順(りょじゅん)、大連(だいれん)がロシアの手に渡ることもなかったわけだから、日露戦争そのものが起こらなかった可能性も大きかった。また、朝鮮を併合する必要もなかったといってよい。

 ところが、日本が講和条約を結ぶとすぎに三国干渉(かんしょう)が起こった。ロシアが音頭(おんど)をとって、ドイツとフランスとともに、遼東半島を日本が取るのは東洋の平和を脅(おびやかす)ものであると文句をつけ、明治二十八年(一八九五)四月二十三日、日本に対して「遼東半島を清に返還せよ」と要求してきたのである。

 日本人は非常に怒ったが、この三か国を相手に一戦を交えたところで勝ち目はない。それで明治天皇が「遼東還付の勅語」を発布されたためみんな我慢したのである。

 しかし、その後、日本が返した遼東半島南端の旅順と大連をロシアが租借(そしゃく)

し、山東半島の青島(チンタオ)をドイツが租借し、威海衛と九龍(きゅうりゅう)半島をイギリスが租借し、広州湾はフランスが租借することになった。これは日本にとって納得のいく話ではない。とりわけロシアが遼東半島に進出してくるのは絶対に困る。ロシアは幕末の頃から日本の最大の敵であった。幕末にすでに對馬(つしま)に上陸されたことがあり、日本はイギリスに頼んでこれを追い払ってもらったことがあったほどである。

 日本から見れば、ドイツにしろ、フランスにしろ、イギリスにしろ、あるいはアメリカにしろ、海を越えて来なければならないから、そんなに大きな脅威ではなかったが、ロシアは朝鮮半島まで陸続きであったから、その恐怖はよその国と比べものにならない。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 当時、日本にとって三国干渉した欧米諸国は脅威ではなかった。アメリカは日本に開国と通商を求めて黒船で日本を威圧したが日本を占領する意図は全くなかった。イギリスは日本を助けた。ところがロシアは日本にとって非常に脅威であった。

澎湖諸島は、台湾島の西方約50kmに位置する台湾海峡上の島嶼群のことである。澎湖諸島と台湾は清国の実効支配が及んでいなかった。尖閣諸島も同じである。しかし、中国は今になってそれらはもともと中国領であると主張している。

17世紀後半、清国に攻められていた明を復活させようと鄭成功は17万余の軍を興し戦ったが敗れ、台湾に逃れ台湾にいたオランダ人を追い払った。鄭成功は平戸で生れた。生母は日本人田川 松である。松の父親は平戸藩氏藩士田川七左衛門である。彼は台湾人の不屈精神のシンボルとして社会的に極めて高い地位を占めているという。     (続く)

2011年12月2日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(92) (20111202)

 “また陸軍のほうは普仏(ふふつ)戦争で勝ったドイツの真似をしようと考えて、ドイツ参謀(さんぼう)本部の指導を仰ぎ、師団(しだん)をつくるのである。師団というのは、元来ナポレオンのときに生まれたもので、一つの軍隊の中に一種の自己完結性のある団体をつくるという発想である。日本はそうした師団をいくつか組織した。

 ところが、清国は昔と同じ感覚で戦争をはじめたから、その差は歴然であった。まず黄海の海戦では五隻の巡洋(じゅんよう)艦が日本軍に沈められ、その他の艦船も損傷を受けて威海衛(いかいえい)に逃げ帰った。逆に日本側は一隻も沈没することはなかった。陸戦の戦いも同じく、近代的な訓練を受けた日本の兵隊と、寄せ集めのような清国の軍隊とでは勝負にならなかった。だから、あっという間に終わってしまったのである。

 ちなみに、黄海の海戦では、負けて自殺した丁汝昌(ていじょしょう)という清国の海軍提督(ていとく)の死体が威海衛からジャンクで運ばれると聞いたとき、伊藤祐亭(いとうすけゆき)連合艦隊司令長官は、それは武士道に反するとして日本の軍艦に乗せて立派に送り返したという美談が残っている。

 日清戦争で日本が勝ったことにより、朝鮮半島は「大韓帝国(だいかんていこく)」という独立国となった。朝鮮民族が「帝国」という言葉を使い、国王が皇帝と称したのは、このときが最初にして最後である。国王と皇帝は呼び方が違うだけではないかと思われるかもしれないが、国王が皇帝と呼ばれるようになったということは、韓国のシナ大陸の王朝からの独立を象徴的に表現しているのである。(以上渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 韓国・北朝鮮の人たちのものの考え方・見かたを特徴づける要素の大きな部分は、朝鮮半島の各王は200年以降シナの天子(皇帝)の柵封下にあり、民はその下に支配されていたということである。その歴史的事実は、韓国・北朝鮮の人たちの深層心理を形成しているだろう。
 同様に中国の人たちのものの考え方・見かたを特徴づける大きな部分は、何千年もの間、天子が自国のみならず周辺の国々をも統治するということをやってきたということである。その歴史的事実は中国の人たちの深層心理を形成しているだろう。
 そもそも深層心理は自覚出来ないものである。それは第三者である心理学者がいろいろな知識・技術を用いて導き出すものである。

 民の集合体である国家の「性格」は、民の深層心理を反映したものである。日本がいろいろな方法で中国や韓国・北朝鮮の「性格」を変えさせようとしても無理なことである。しかしその「行動」は自国にとって利益のあることであれば変わる。国としての「自存力」が働く。しかし永久に変わったままであるということは絶対ないであろう。  (続く)

2011年12月1日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(91 (20111201)

 “現代に生きるわれわれは日本が独立国であることになんの疑いも持っていない。しかし、幕末から明治にかけての日本人は、「このままでは日本は西洋人の植民地になるかもしれない」という深刻な不安を抱えていた。当時、有色人種の独立国は実質上、日本とトルコしかなかった。シャム(タイ)は独立国であったけれど、いつ植民地にされてもおかしくないようなところでかろうじて独立を保っている有様だった。

 福沢諭吉は何度も欧米に旅行し、日本人に「脱亜入欧(だつあにゅうおう)」を説いていた。これは単純な欧米崇拝ではない。「なんとしても近代化せねば、われわれは白人の奴隷になってしまう」という焦燥(しょうそう)感から出たものである。福沢はそれを「下からの近代化」によって行おうとした。だからこそ彼は慶応義塾(けいおうぎじゅく)をつくり、塾生たちに「官僚にならず、民間人として新知識をかつようせよ」と説いたのである。

 一方、同様の危機感を抱いていた明治政府は「上からの近代化」をめざした。その流れの一つとして、日本以外にもアジアに独立国があることが望ましいと考えた。日本一か国ではとても白人の力には対抗できない。仲間が欲しい。だから朝鮮の清国からの独立をしきりに求めたのである。これは日本の切実な願いであった。

 ところが、清国はそれを許そうとしない。「朝鮮は二百年来、清国の属国であり、日本ごときが今さら口を出す筋合いのものではない」というわけである。その結果として勃発したのが明治二十七年から八年(一八九四~九五)にかけて行われた日清戦争である。

 それまで清国は、例えば海軍では定遠(じょうえん)とか鎮遠(ちんえん)という大きな軍船を買って日本を脅しにかかっていた。長崎に立ち寄ったときは、乗組員が長崎に上陸して乱暴を働いて死者が出たこともあった。それから東京湾に来たときは、大きな軍艦を持っていることを見せつけて、日本人の度肝(どぎも)を抜いた。

 ところが、日本人が偉いのは、その驚きにすぐ対応するところにある。清国の軍艦は相手の船に巨体をぶっつけて損傷を与えるタイプのものだった。それを理解した日本は、そんな戦法は時代遅れであると見抜き、それより小型でいいから速度が速くて速射砲をポンポン撃てるような船がいいと考えて、そういう形式の船を次々に配備していくのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 今の日本の若い人たちが、また中国の人たちや韓国の人たちが、また在日の韓国・北朝鮮や中国の人たちが日清戦争に至ったいきさつをどれほど正しく知っているだろうか?

 かくいう私自身も日本の近代史を徹底的に学び始めたのは数年前のことである。日本の近代史は戦後あまりよく研究されなかったし、一般大衆も関心を示さなかった。ところが近年近代史を研究する動きが活発になったようで、そのせいか日本の近代の歴史資料が次々明るみでるようになった。影響力が大きいNHKは「歴史」という言葉を表に出さず、さりげないタイトルで視聴者にメッセージを発している。

 気をつけなればならないことは、歴史資料の切り口に添えられる「言葉」である。皇国史観のないディレクターが何も知らない日本国民を洗脳していないだろうか?  (続く)

2011年11月30日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(90) (20111130)

 “教育勅語は先の大戦で日本が負けてからもその廃止を求める声は出なかった。というのはアメリカ人から見ても、その内容におかしな点は一つもなかったからである。事実、教育勅語ができたときは、日本政府がキリスト教とは違う新たな宗教的な教義をつくるのではないかという疑念が外国から出るのを恐れて、勅語を英訳、仏訳、独訳、ロシア訳、漢訳にして世界中に配っている。それでもどこからも反論がなく、むしろ評判がよかったのである。

 では、戦後なぜ教育勅語が廃止されたかといえば、戦後の日本の進歩的文化人の中に、教育勅語を残しておくと軍国主義に戻る恐れがある占領軍に告げ口をした者がいたためである。日本人がそういうのならば、ということで、占領軍が勅語の廃止をにおわせ(命じられたわけではない)、日本の衆参両院が廃止・失効を可決したのである。

 しかし、教育勅語を廃止した影響は極めて大きいといわざるを得ない。それによって日常道徳の拠り所となるものが否定されてしまった。極論すれば、現在の日本の風紀の乱れ、親殺し、子殺しの原因に教育勅語の廃止があったと言っても過言ではないのである。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 ここで書かれている「占領軍に告げ口をした」進歩的文化人が誰であるかは、今となってはどうでもよいことである。重要なことは戦後間もない昭和23619日、衆参両院の決議によって教育勅語が廃止されたという事実である。

 教育勅語は明治23年(1890年)1030日発布直後、諸外国の疑念を晴らすため英語・ドイツ語・フランス語・ロシア語・漢語に翻訳され、世界各国において評判の良いものであった。教育勅語は今の時代に照らしてもどこにもおかしなところはない。

 戦後、アメリカに押し付けられた憲法や諸制度は、今となってはおかしな部分が多く、いろいろな問題が噴出してきている。

問題が起きたときは一旦原点に立ち戻ればよい。教育勅語もその文体が今の時代にそぐわない部分はあると思う人も多いと思うので、文体を現代風に改め、原文併記の「明治231010日発布教育勅語改訂版」として衆参両院で再度可決し、復活させることが必要であると思う。

                                (続く)

2011年11月29日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(89) (20111129)

 “こうしてできた憲法は、西洋から見てなんらおかしいところのない憲法であり、日本人がつくったにしても、日本人の日常の生活感覚にはあまり関係ないという感じが強かったと思う。だからそれを補い、日本人の体質との間のすきま風を無くすために、憲法発布の億年の明治二十三年(一八九〇)に明治天皇の名で発布されたのが「教育勅語(ちょくご)」であった。

 教育勅語は非常に日本人の感覚に合うものであった。戦前の義務教育ではほとんど明治憲法のことは教えなかったが、その代わりに子供たちに徹底的に教育勅語を暗記させた。そういう理由もあるが、教育勅語は日本の隅々にまで、誰からも反対されることなく定着した。

 教育勅語がまず説くのは日本人の伝統的価値観である。つまり万世一系の皇室の尊さを述べ、それから「親を大事にせよ」「友人や配偶者と仲良くせよ」「身を慎(つつし)んで学業に励(はげ)め」「人格を修養せよ」といったことを述べる。そのあとに勅語は「一旦緩急(いったんかんきゅう)アレハ義勇公(こう)ニ奉ジ以(もっ)テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)ニスベシ」という。これを読むとやはり勅語は軍国主義的であると思うかもしれないが、当時、勅語を作った人たちの感覚としては、「徳川家の幕府や大名という主家に対して忠誠を尽くしていた時代は終わった。これからは国家に忠誠を尽くせ」といいたかったのである。国の象徴が天皇であるのだから(これは現行憲法も同じ)、「皇運ヲ扶翼」することは「国の繁栄に貢献」するというのと同じ意味である。ただ表現が伝統的で古風であったというだけである。

 このような内容のものであったから、誰もが感覚的に「ごもっとも」と納得できたのである。その点で、教育勅語は鎌倉幕府の執権北条泰時(やすとき)の定めた御成敗式目(ごせいばいしきもく)(貞永(じょうえい)式目)の系統につらなるものだといえるだろう。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。) 

 今、日本人の家庭で「教育勅語」の印刷物を所持している家庭は何%ぐらいだろうか?教育勅語は「徳川家の幕府や大名に忠誠を尽くす時代は終わったのだから、これからの日本人は国家に忠誠を尽くし、国家繁栄の為に貢献しなさい」という趣旨のことが古風な文体で書かれているから如何にも「軍国主義的」であるように見える。しかし教育勅語をよく読むと、現行憲法に照らして何処にもおかしなところがない。
 「教育勅語」は、日本人の遺伝子(DNA)とともに、日本人の身体の外にあって眼には見えない遺伝子であるということに日本人は気付かなければならない。DNAが「内部遺伝子」ならば、教育勅語は「外部遺伝子」を構成する要素の重要な一部である。

 この外部遺伝子は、左翼勢力によって相当傷つけられている。そして日本人に悪性のがんを引き起こしている。今こそこれを治療して、日本人を正常な状態に回復させなければならない。           (続く)

2011年11月28日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(88) (20111128)

 “一人前の国家になるためには治外法権を撤廃しなければならない。その下ごしらえとして明治憲法が必要だった。日本が諸外国から近代的な法治国家とみなされるためには、やはり法体系の根幹となるべき法律を制定する必要があったのである。

 その役割を引き受けたのが伊藤博文である。伊藤博文は若い頃にイギリスに行っているから、議会制民主主義が根付き、王室の安定しているイギリスのあり方が最も日本に向いているのはないかとわかっていた。しかしイギリスには憲法がないので、真似するにも真似できない。では幕府と親しかったフランスはどうかといえば、憲法はあるものの共和制だから参考にならない。アメリカもそのような理由で駄目である。

 どうしたらいいかと思い悩みながらも、伊藤はオーストリアに行く。当時のオーストリアはハプスブルグ家の時代で皇帝が存在する。そこで彼はシュタインという憲法学者に会って、立憲君主制というものを教えられるのである。それによって彼は元気を取り戻したといわれている。

 次に伊藤はドイツへ行く。当時のドイツはビスマルクの時代で日の出の勢いにあった。ビスマルクは伊藤にグナイストというドイツ第一の憲法学者を紹介した。この人はイギリスを含め世界で最初に『イギリス憲政史』というイギリスの憲法の歴史を書いている。しかもローマ法の専門家で、実務経験もあった。

 グナイストは伊藤から話を聞いてみて、日本にはドイツ帝国の憲法は当てはまらないだろうと考えた。というのも、ドイツ帝国はバイエルンやプロシアなど、いろいろな小国家を統一した連合国家で、日本とは成り立ちが違う。むしろ日本は昔のプロイセンに似ているから。旧プロイセン憲法を手本にしてはどうかと助言するのである。これはまさに慧眼(けいがん)というしかなく、当時伊藤に対して行ったグナイストの講義を筆記した資料を読むと、明治憲法の肝心のところはプロイセン憲法そのままといってよい。プロイセン憲法に日本的な部分をつけ加えたのが明治憲法となっているのである。

 今から考えるとおかしいのは、明治憲法には「首相」という言葉も「総理大臣」という言葉もでてこないことである。それどころか、「内閣」という文字すら見あたらない。明治十八年(一八八五)にすでに内閣制度ができて、大宝律令、養老律令といった昔の律令が廃止され、太政大臣もなくなり内閣総理大臣の制度ができていたのに、明治二十二年(一八八九)に発布された憲法には何も書かれていないのである。・・(以下略)・・”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 幕末まで昔の律令背度が適用されていたが、明治維新後その律令を準用して明治4年(1871年)7月に、正院、左院、右院の3院と外務省以下8省からなる太政官が設置された。正院は天皇を直接補佐する政府の最高機関であり、その長官は太政大臣であった。明治18年(1885年)1222日、内閣制が発足したことに伴い、太政官制は廃止された。
 シナや朝鮮は近代化が遅れ、李王朝が廃止され大韓帝国が発足したのは明治30年(1897年)10月のことであり、シナが清王朝から中華民国になったのは大正元年11日のことである。なお清王朝末期、日本にはシナから2万人の留学生が来ている。  (続く) 

2011年11月27日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(87) (20111127)

安政五年(一八五八)、当時の幕府はアメリカをはじめとする欧米五カ国(アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダ)と通商条約を結んで正式な国交を持つようになった。しかし、そこで日本は決定的に不利な二つの条項を押しつけられた。

 一つは関税自主権の問題である。これは関税をかける権利だが、安政の条約では、日本が関税率を変える場合には、必ず相手国と協議しなければならないとされていた。これを自由にしないと、西洋諸国から安い商品が送り込まれ、日本の国内産業が潰される恐れがあった。

 二つ目は、治外法権(領事裁判権、extraterritoriality)の問題である。これは、日本で悪事を働いた外国人を捕まえても日本には裁く権利がなく、その権利はその国の領事館が持つというものである。つまり、日本には主権がないというわけで、これはなんとしてでも廃止しなければならなかった。

 しかし、外国はなかなか承諾しようとしなかった。当時の欧米諸国はアフリカ、インド、シナといろいろな国に行って、その国情を見ている。彼らにしてみれば、それらの‘野蛮な国の法律で自国民が裁かれるのはたまらないという心配があったのである。勝手な論理ではあるが、その心配はあたらないでもない。

 そこで、それらの国と 日本は違うということを理解させるため―――今見れば笑い話でしかないが―――外務卿(きょう)(のちの外務大臣)の井上馨(かおる)の主導によって鹿鳴館を造り、そこでダンスパーティを開いた。維新の志士がやるダンスパーティだから悲壮なものであったに違いない。「そんな西洋の猿真似をしてまで白人の歓心を得たいのか」という声があちこちで起こった。

 しかし、明治政府の人々は真剣だった。そもそも井上馨は青年時代に最も強硬に攘夷を唱えて暗殺されかかったような人物である。その井上が治外法権を撤廃するために必死で鹿鳴館外交を推し進めたという心情というのを、われわらは汲(く)み取るべきだろう。

 しかし、この二つの不平等条約が完全にてっぱいされるには時間がかかった。治外法権がなくなるのは日清戦争の直前であり、関税自主権が回復されるのは日露戦争の後の明治四十四年(一九一一)であるから、安政の条約を締結してから五十三年もかかったことになる。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 今、TPP問題で国内は揺れている。関税がゼロパーセントとなれば、従来778%という高い関税をかけて保護している日本の農業が壊滅的被害を受けると主張する学者があり、農業団体などはTPPに絶対に参加すべきではないと強硬である。TPPに参加すれば日本の関税自主権はなくなり、医療も含むあらゆる分野で日本はアメリカの属州のようになってしまう。食品の安全も保たれなくなり非常に危険である、というわけである。

 幕末に日本は欧米に先進国として認められていなかったから、日本は開国にあたって不平等条約を押しつけられた。欧米に日本がアフリカやシナと違う国であると認めさせるため、かつて攘夷派の急先鋒だった井上馨は鹿鳴館を造った。日本は幕末・明治の元勲たちの労苦を思い、進むべき道を誤らぬようにしなければならない。   (続く)   

2011年11月26日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(86) (20111126)

 “しかし、西郷にしてみれば一応勅許(ちょっきょ)はもらっており、それが潰(つぶ)されるとなるとメンツが潰されたも同然である。また西郷の感覚としては、新しい政権を取った者が贅沢(ぜいたく)をしているのが気に食わないという考えもあったと思う。これは西郷の全くの誤解なのだが、例えば大久保が立派な洋館を建てた。これは外国人と会うときに長屋で会うわけにはいかないというのが理由だった。事実、明治十一年(一八七八)に大久保が暗殺された後で調べてみると借金しかなかったといわれるから、決して権力にものを言わせてカネを儲けたわけではない。

 しかし、西郷の心境としては、「お前たちに贅沢をさせるために維新をやったのではない。これでは士族たちがかわいそうではないか」となる。その頃はすでに版籍奉還(はんせきほうかん)、廃藩置県(はいはんちけん)がなされて、士族たちの地位は相対的に低下していた。そのうえに商工業を国家建設の中心とするならば、維新を実現させた武士たちは完全に割を食うことになる。

 西郷の倫理観からすれば、大切なのは「士」と「農」であって、武士が武士らしく生きることのできる国をつくることが何よりも大切であり、そのためには食べる分のコメがあれば十分で、余分なカネは必要ない。武士と農民を大切にするのが新国家の使命だと考えていたようである。

 だが、現実はそううまくは行かない。特に自分の目で西洋文明を見てきた使節団の一行にしてみれば、「武士の覚悟なぞでは勝ち目はない。商業と工業を伸ばさばければ駄目だ」という思いがある。「士農」を中心に据(す)えるべきとする西郷と、「商工」重視の洋行組との決定的な対立点であった。

 自分の意見を退けられた西郷は、クーデターによって大久保たちを打倒することはできたはずである。しかし、彼はそうはせず、潔(いさぎ)よく下野(げや)して薩摩に帰るのである。結果として、この後、明治十年(一八七七)に西南(せいなん)戦争が起こるわけだが、これは西郷が起こしたというより、周囲の状況が彼を戦争に引きずり込んだと見る方が正しいだろう。彼には権力を私物化する意思などこれっぽちもなかったのである。”

(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 TPP反対を叫んだ自民党議員の中には「農業が壊滅的打撃を受ける」と本気に信じた者もいただろうし、農業従事者の票が欲しかった者もいただろう。或いはTPPには参加しなければならいが、アメリカの言うなりにならないために反対を唱えた者もいただろう。

 アメリカはオーストラリアに海兵隊を駐留させ、中国を牽制すること明確に打ち出した。その中国は「地域支配戦略」を明確に打ち出し、アメリカの打撃力を強く意識した軍備を増強させている。情報戦やサイバー戦はすでにかなり進んで、サイバー攻撃では日本でもかなりの被害が出ている。

 中国は奇襲作戦を重視している。「周辺国を支配する」というのは中国4000年の歴史の中で一貫した国家的意思である。国際的ルール違反を平然と実行するのが中国の「性格」である。「性格」は生涯絶対変わることはない。              (続く)

2011年11月25日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(85) (20111125)

 “使節団が帰国してみると、国内では西郷が中心となって征韓論(せいかんろん)が湧きおこっていた。日本は新しい政府ができたことを受けて、朝鮮と国交を開くことを考えた。これはロシアの中に備えるためであった。つまり、朝鮮がロシアの植民地になることを恐れたのである。そのためには朝鮮に開国を促し、近代化してもらうほうがよい。それが朝鮮のためにも、そして日本の国益にも合致すると考えたのである。

 そこで新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいないのである。

 その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため、朝鮮は受け取りを拒否した。これは無理のない話である。一方、日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。ただ政治体制が変わって、日本は天皇親政の国に変わったことを伝えたかっただけであった。日本は朝鮮に説明をし、文書の書き直しもしたが、朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。

 このような背景から生まれたのが「征韓論」である。当時は武士の名残(なごり)で血の気の多い者が多かったから、武力行使をしてでも朝鮮を開国させるべきだという意見が沸騰してきたのである。

 そのとき西郷は、息巻く周囲をなだめつつ、「外交文書のやりとりで埒(らち)が明かないなら、自分が特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。それで、もし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と主張した。

 そこへ使節団の一行が帰国してきた。当然のことながら、大久保利通ら朝鮮半島への武力行使に全く否定的だった。そんな余裕はどこにもない。一刻も早く商工業を興して富国強兵策を実行しなければ、日本は西洋に呑みこまれてしまうという危機感でいっぱいだったのである。しかも当時は徴兵制が施行されたばかりで(明治六年布告)、現実的に朝鮮出兵を実行できる状態にはなかった。”(渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 明治新政府は朝鮮国王高宗に外交文書を送るが、この文面に「皇」とか「勅」という字が使われていたことから行き違いが起こった。当時の朝鮮は清(しん)の属国であるから、皇帝といえば清の皇帝以外には考えられない。また朝鮮に勅語を出すのも清の皇帝しかいない。その清の皇帝しか使えない言葉が日本の国書に使われていたため朝鮮は受け取りを拒否した。日本側には朝鮮を日本の属国にする意思など全くなかった。日本は朝鮮に説明をし文書の書き直しもした。しかし朝鮮は交渉を拒否し、関係がこじれてしまった。このような背景から生まれたのが「征韓論」であった。西郷は周囲を抑え、自分自ら特使として朝鮮に乗りこんで直談判をする。そこでもし自分が殺されるのであれば出兵もやむをえない」と言った。「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にし国家の大業は成し得られぬなり」と言った西郷ならではの「征韓論」を抑える言動であった。           (続く)

2011年11月24日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(84) (20111124)

“使節団のメンバーのほとんどは維新の志士であったから、江戸と京都の間を歩いた経験がある。その道路がどんなものかを良く知っている。つまり舗装されていないから大八車(だいはちぐるま)も通れない。馬が、人間の足でなければ通れないのである。ところがアメリカへ行くと、すでに鉄道が走っているのである。また、ヨーロッパは、ナポレオン戦争が終わって五十年経っており、その間に彼らは休みもせず武装し、工業を高めてきた。その文明は圧倒的だったはずである。

 この差を埋めるにはどうすればよいのか、特にみんな武士であったから武器のことはよくわかる。ぼやぼやしていると、日本は西洋の植民地にされかねない。一刻も早く兵力を増強しなくてはならない。そのためには性能のすぐれた武器を持たなければいけないのだが、船一つ大砲一つ買うにしても造るにしても莫大な金がかかる。だからますます金を儲けなければいけない。その結果「富国強兵(ふこくきょうへい)」というスローガンを掲げるに至ったのである。この「富国強兵」ほど正確な当時の現状認識はなかったと思う。また、「富国強兵」を実現させるためには自前の産業を育成しなければならない。そこで生れたスローガンが「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」であったのである。

 しかも、この一行が偉かったのは、我彼の格差に驚きながらも、自分たちは何年くらい遅れているのかと考えたところになる。歴史を振り返れば、信長、秀吉の頃はまだ対して遅れていない。大ざっぱに考えると、五十年くらい遅れているのではないかと判断するのである。そして、それなら追いつけると確信する。

 それで、日本に帰国したらとにかく富国強兵をやろうと意見が一致する。実は使節団の中でも大久保と木戸は一緒にいるのが嫌だからと別々に帰国しているほど仲が悪い。しかし、それでも富国強兵が必要だという見かただけは変わらなかったのである。”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用)

 日本のこれからの道は、「和魂洋才」と「富国強兵」しかない。世界は中国の台頭によって再び幕末のような状況になってきた。アメリカは日本を抑え込むため中国と手を結ぶという識者もいる。つまりは、弱肉強食の世界の再来である。どの国も「生き残る」ため必死に知恵を振り絞り、強い国に自国の安全を依存しようとする。東南アジア諸国が、もしアメリカや日本が頼りにならないと判断したら、これらの国々は中国に対抗して団結し、より強い「武力」を保持しようとするか、中国にぶら下る道を選ぶだろう。

中国は自分たちの核心的利益である日本の沖縄・南西諸島・尖閣を「奇襲」するかもしれない。アメリカ議会の諮問機関「米中経済安全保障見直し委員会」の年次報告書には「中国が奇襲攻撃で日本周辺を含む東シナ海での海洋権益を支配する、<地域支配戦略>がある」と書かれている。

 中国は4000年の歴史の中で、皇帝がモンゴル人のとき(元朝)も満州人のとき(清朝)も常に周辺諸国を支配下に置くという中華思想を持ち続け、今の、言わば「共産党王朝」のときもその国家思想は変わっていない。歴代中国王朝の柵封下にあり小中華思想を捨て切っていない韓国・北朝鮮は、再び中国の下に身を寄せる可能性はある。  (続く)

2011年11月23日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(83) (20111123)

 “明治政府ができたときに、非常に注目されたのが西郷隆盛の地位である。西郷隆盛は唯一の陸軍大将であって、当時の武士たちから最も尊敬されていた人物である。しかし、その西郷には自分たちが天下を取った時に、これからの日本をどうするかというビジョンがなかったように考えられる。これはひとり西郷のみならず、ほかの人にもなかったのではないかと思うのである。

 それで具体的にどうしようかとなった。そのとき、幕末の頃に長州藩の留学生としてイギリスに渡った伊藤博文(いとうひろぶみ)や井上馨(いのうえかおる)の存在が大きくものを言った。自分の目で西洋の凄(すご)さを見ている彼らは、いくら書物で勉強したところで現物を見るには到底及ばないことを知っていたはずである。これは想像だが、使節団の話が出たとき、伊藤と井上は大久保たちに「ヨーロッパ文明は、幾ら本を読んでも絶対にわからない。政策を立てようと思うのならば、西洋を一度見てくるべきだ」と繰り返し助言したのではないだろうか。

 それにまた条約もきちんと結び直さなくてはならないし、ということで、条約改正も含めて、明治四年(一八七一)から六年(一八七三)にかけて岩倉具視(いわくらともみ)を団長にした岩倉使節団が欧米の視察に出ることになった。この使節団には、長州の実力者木戸孝允(きどたかよし)、それに付き添って伊藤博文、そして薩摩の大久保利通という大物が参加した。一方、留守番も必要なので、これは西郷隆盛が中心になることにした。

 これも明治維新が革命でなかったという一つの論拠となるかもしれない。例えば、ロシア革命をやったレーニンが、革命が終わった数年後に、留守は仲間に任せて自分は二、三年ロンドンに行ってくるというわけにはいかなかったはずだ。毛沢東(もうたくとう)でも同じである。

 岩倉使節団の一行は欧米で何を見たのか。見るべきものはちゃんと見たのである。それは驚くべき日本と先進国の格差である。それは「もう士農工商ではどうにもならん」という危機感であり、さらに言えば「これからは工と商の時代だ」という実感であったはずである。これは耳で聞いてもわからなかった話である。こうした驚きは、岩倉使節団の十一年前に咸臨丸(かんりんまる)で渡来した福沢諭吉も受けたものである。・・(以下略)”(以上、渡部昇一『決定版 日本史』より引用。)

 時事新書『航海日記』という本がある。これに万延元年(一八六〇)正月18日から同年928日までのことを使節団副村垣淡路守範正(48歳)が書き記したものである。正使新見豊前守正興(40歳)以下77名は、アメリカの軍艦ポーハタン号に乗りハワイを経てサンフランシスコに入港。随伴した勝海舟艦長の咸臨丸はサンフランシスコから帰国。ポーハタン号はサンフランシスコを出てパナに入港。一行は汽車でパナマ地峡横断、アスピンウオールから軍艦ロアノーク号でニューヨークへ。フィラデルフィア号に移乗してポトマック河を遡りワシントンに到着。ビュカナン大統領に謁見、将軍の親書を呈上している。帰路はナイアガラ号でアフリカの喜望峰を経て帰国している。その間安政の大獄が進行。一行帰国の翌年アメリカでは南北戦争が勃発した。              (続く)