2012年10月31日水曜日


日韓関係の改善のために(72)「福沢諭吉の影響(続)(20121031)

日本に学び帰国し朝鮮の近代化のため活動を始めた金玉均と朴泳孝の二人のことについて引き続き呉善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。この部分は、当時の李朝の状況を知る上で重要である。日本側の対朝鮮方針の変更や朝鮮内部の守旧派の反発などで朝鮮の近代化は困難な状況にあった。金玉均が誘って日本に留学させ、福沢諭吉の世話になった留学生たちの大半は、後に金玉均らのクーデターに連座して処刑されたりしている。彼らの親たちの多くは中級以下の官僚や中人階級であった。その子供たちは、日本に留学した時は青年というよりはあどけなさが残る少年たちであった。自分の子供がそのような状況になった親たちの気持ちはいかばかりであったであろうか?

今、日韓関係は厳しい状況にあるが、その根本の原因は130年前の日本と朝鮮の間の状況にある。あらゆる問題も、それが発生したときは一旦「原点」に立ち戻って考えることが重要である。日本と韓国双方がその原点を正しく共通に認識することができれば、日韓関係は幾分か改善されると確信する。それでも日韓両国の間の深い溝は埋まることはないであろう。ただ、日韓双方がその溝がそもそも何によって生じているのか、理性的に良く正しく認識することができれば、日韓の関係改善は一歩前進するに違いない。

日本の政府は弱腰であるが、日本として韓国に強く要求すべきことは次の三つである。①韓国は自ら古地図・史料を改ざんしてまでして、古来明らかに日本の領土である竹島を歴史的にも韓国の領土であるというようなことはしないこと。②その事実がないにも拘わらず、まして当時の朝鮮の女性が日本の女性と同様に、当時としては破格の報酬で自らの身体を兵隊たちの慰安に提供していたという事実があり、また日本軍が朝鮮の女性たちを守るため悪質な朝鮮人ブローカーを取り締まっていたという事実があるにも拘わらず、「強制連行され従軍慰安婦にさせられた」と嘘の証言をした女性の言葉を宣伝の具に使って、当時の日本軍が朝鮮の女性たちを強制的に連行して従軍慰安婦にしたのだというようことを宣伝しないこと。③「日本海」の呼称を「東海」と言わないこと。
 
 “金玉均は一八八三年(明治一六)三月に日本から帰国すると、すぐに徐載弼(一七歳)をはじめ四〇数名の青年たちを日本に留学させ、その監督を福沢諭吉に依頼している。福沢は来日した彼らを自分の別邸に入れ、慶応義塾、陸軍戸山学校、各種の技術学校にそれぞれ就学させている。
 彼らのほとんどは、青年というよりは、いまだあどけなさの残る少年たちだった。金玉均は、政権の中枢を担う高級官僚の子弟を留学させようとしたが、希望者は少なく、多くが中級以下の官僚の子弟や、中人階級の子弟であった。彼らの大半は、後に金玉均らのクーデターに連座し、その渦中で暗殺、処刑、亡命などの運命をたどることになる。”(続く)

2012年10月30日火曜日


日韓関係の改善のために(71)「福沢諭吉の影響(続)(20121030)

 以下は重要な部分である。呉善花著『韓国併合への道 完全版』より全文引用する。
 “二回の渡日で金玉均は福沢から多くのことを学んだが、それについて田保橋潔氏は名著『近代日鮮関係の研究』のなかで次のように述べている。
 「福沢諭吉及びその門下が、近代朝鮮の政治文化に与えた影響は大きい・・・・・福沢は彼らに政治学の初歩を教え、全世界の文明国は、日本初め完全な主権を有するが、ひとり朝鮮は二千年の文化を有しつつ、老大国清の蕃属に甘んずる実情を理解せしめた。福沢の教を受けた朴泳孝・金玉均は、初めて独立・自主の真の意義をさとり、これが実現に邁進するに至ったといっても過言でないであろう。」(田保橋潔『近代日鮮関係の研究』上/朝鮮総督府中枢院)
 
私も金玉均らが「独立・自主の真の意義」をさとったのは、福沢諭吉を通してだったことはまちがいないと思う。実学も仏教も清国の文献も、近代的な主権をもった独立国家というステージへの手がかりを与えるものではなかった。そして金玉均はもちろん、劉大致にも呉慶錫にも、洋書を読解するだけの語学力はなかったのである。

 ちょうどその頃から、李朝はアメリカ、イギリス、ドイツ、ロシアと次々に修好条約を結んでいくが、当時の李朝には条文の欧文を正確に読んで理解できる者が育っていなかったという。

 金玉均は第二回目の日本滞在でも、会合や視察などに精力的な活動をみせている。福沢もまた彼に対して前回以上に各方面での援助をおしまなかった。
済物浦条約による賠償金五〇万円の支払いでは、福沢が井上馨外務卿を紹介し、井上を通じて銀行から李朝政府に資金を融通させている。返済期間も五年返済から一〇年返済へと延ばされた。
一行は李朝政府の名義で横浜正金銀行から一七万円を借り、そのうち第一回分として五万円を日本政府への支払いにあて、残り一二万円のうち六万円ほどを、政府軍用の武器や活字・活版印刷機の購入費、留学生費用、旅費、雑費などにあて、数万円を持ち帰って国庫に入れている。

修信使一行は、金玉均・徐光範ほか二名を残して翌年の一八八三年(明治一六)一月、朴泳孝、金晩埴以下一〇名が復命のために帰途についた。前後して閔泳翊も、アメリカへの初使節として渡米する準備のため帰国した。このときに、慶応義塾の留学生兪吉濬や壬午軍乱を逃れて日本に亡命していた尹致昊の父尹雄烈(別技軍隊長)も一緒に帰国している。その後の金玉均らの通訳には尹致昊があたっている。尹致昊はようやく一七歳、なんとも若い。

福沢は帰国する朴泳孝らの一行に、門弟の牛場卓蔵、高橋正信、井上角五郎に加えて、印刷技術者二名、元軍人二名を同行させている。目的は新聞の発行、洋書の翻訳、洋楽の普及などをはじめとする文化活動の援助である。”(続く)

2012年10月29日月曜日


日韓関係の改善のために(70)「福沢諭吉の影響(続)(20121029)

 日本は李氏朝鮮で1882年(明治15年)723日に起きた壬午軍乱で日本人が殺害されるなど被害を受けた。李氏朝鮮はその損害の賠償金50万円を日本に支払うことになった。しかし李氏朝鮮にはその資金がなかったため、日本がその資金を融通したのである。それほどまでして当時の日本は李氏朝鮮が「自主の邦」になるように懸命な努力をした。日本は金玉均に期待し、特に福沢諭吉が先頭に立って金玉均に親身な支援をした。今の韓国はこのような日本の気持ちを少しも汲まず、“金玉均は「日本の侵略を助けた親日派なのではなく、日本の裏切りによって政治改革を挫折させられた、朝鮮で初めて近代的な改革を推進した人物」”として日本を逆恨みしている。真に残念で腹の立つことである。

韓国が日本の良き隣国になるのはいつの日のことか!絶望の気持ちを抱きながらも一縷の望みをかけている。先ずは日本人自らが日本と韓国の間の歴史について、正しく、良く知り、日本が韓国に一切の依存・依頼心を持たないことが最も重要であると思う。そして竹島やいわゆる従軍慰安婦などの問題に見られるような韓国の不条理な言動に対しては、日本は何一つ臆することなく、毅然とした態度で韓国に接することが重要である。日本はそういう国にならなければならない。石原慎太郎氏の目指すところや「大阪維新の会」が目指すところに大いに期待している。

 “壬午軍乱後に結ばれた済物浦条約で、李朝は日本に対して五〇万円の賠償金を支払うなどの取り決めをした・・(中略)・・賠償金五〇万円の支払いでは、福沢が井上馨外務卿を紹介し、井上を通じて銀行から李朝政府に資金を融通させている。返済期間も五年返済から一〇年返済へと延ばされた。”引き続き括弧(“”)で、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より引用する。

 “金玉均の第二回目の渡航は一八八二年(明治一五)九月だったが、そのときにも福沢邸を訪れている。その当時、日本の新聞は金玉均に注目して多くの記事を書いているが、そのなかにはあらぬ噂から人格攻撃にまで及ぶものもあった。福沢はそうした新聞への反論として、「金玉均の全貌」と題した『時事新報』の社説で、かれの人物と経歴を紹介し、金玉均を擁護しながら次のように書いている。

 「日韓の交際日に繁多なるの時に際して、我日本の友たる可き者は彼の開化者流の外に求む可からず。而して金氏の如きは党中の巨擘なれば其平生の顛末を記して人の惑を解くは我朝野の為に大切ならんと信じて敢へて爰に筆労を厭はざるものなり」(石河幹明箸『福沢諭吉伝』第三巻/岩波書店所収『時事新報』「社説」一八八二年九月一一日)”

 福沢は、かつて自らも若き日にヨーロッパを訪問し、文明・文化の落差のために誤解を招いた、身につまされる体験があって、こうした心配りをみせたのではなかったろうか。”(続く)

2012年10月28日日曜日


日韓関係の改善のために(69)「福沢諭吉の影響(20121028)

 1882年(明治15年)723日、李氏朝鮮では閔氏政権下、大暴動が勃発した。これは同年719日に李朝の旧軍兵士たちに対して一年以上も滞っていた俸給米のうち、たった一ヶ月分が支給されたが、役人たちの不正によりその支給された米の中には腐敗した米や砂や糠などが混じっていたことに端を発する。旧軍兵士たちの怒りが爆発し反乱が起きた。この反乱に対して閔氏政権は関係した兵士たちを捕らえ首謀者たちを処刑してしまった。このことに憤慨した各駐屯地の軍兵たちと、閔氏政権に不満を抱く農民や下層市民たちが一団となって大暴徒に発展した。これが壬午軍乱というものである。この軍乱で王宮内にいた堀本少尉ら日本人が殺害されたことなどの被害があった。(関連:2012929日土曜日『日韓関係の改善のために(40)「日朝修好条約締結後の状況(続)」(20120929)』)

 この被害に対して李朝から日本に賠償金が支払われることになったが、その資金は福沢諭吉の取り計らいにより日本政府が銀行から借りて、返済期間も10年間に延長させて李朝に融通している。福沢諭吉は著書『学問のすゝめ』に書いてあるとおり、「政治は国民の上で成り立っており、愚かな人の上には厳しい政府ができ、優れた人の上には良い政府ができる。法律も国民の行いによって変わる」と説き、学問の有無が人生に影響を与えるのだとの考えを持っていたので、金玉均ら李朝の優秀な若い人たちに期待していたのである。

 福沢諭吉は『学問のすゝめ』の冒頭に「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ人ノ下ニ人ヲ造ラズト云ヘリ」とアメリカ合衆国の独立宣言から引用しているとおり、近代国家の仕組みのあるべき姿について明確な理念をもっていた。一方、「天は自ら助くる者を助く」(God helps those who help themselves)という言葉が引用されているサミュエル・スマイルズの『自助論』(原題Self-Help)が、明治4年(1871年)に『西国立志編』と題して日本語に翻訳されていた。福沢諭吉の『学問のすゝめ』とこの『西国立志編』は明治の青年たちに広く読まれていたという。この二つの本は、今改めてよく読まれるべきものである。

明治期の日本人は人に依存せず人に依頼せず、自ら独立独歩の精神が旺盛であったのである。そういう日本人たちがいた国家は強かった。それにくらべ戦後の日本人はどうか?軍事・防衛はアメリカに依存し依頼し、経済・貿易はシナ(中国)に依存し依頼し、独立独歩の気概に欠けていないか?これは130年前の李朝の状況と似ていないか?経団連会長らが民主党幹部と会見し、日本とシナ(中国)の関係について善処を求めた。これは「商道」が「政道」を動かそうとすることではないのか?シナ(中国)はその動きを知って、早速尖閣問題でさらなる強硬措置をとると宣言した。国家の経済の発展のため、文物往来・文化交流・友好親善のためには「商道」が盛んでなくてはならぬ。しかし、「商道」はあくまで「政道」によって統制されなければならないものであるのだ。(続く)

2012年10月27日土曜日


日韓関係の改善のために(68)「金玉均の日本視察(20121027)

 朝鮮の開化・独立のため獅子奮迅の活躍をし、クーデター(甲申クーデター)を起こしたが清国の介入により失敗し、その後日本に亡命し、日本名を名乗って日本国内を転々と移動し、最後に上海に逃れたところで、清国との縁を断ち切ることができない李朝が差し向けた刺客に暗殺されてしまった金玉均の遺体は、朝鮮に船で運ばれ、その屍に対しても凌遅刑という刑が科せられた。呉善花著『韓国併合への道 完全版』には、そのおぞましい刑により切り刻まれ、胴体が揚花津港にさらされている写真が掲載されている。

韓国では“併合条約に調印した総理大臣李完用らをはじめとする多数の「親日派」ならびに「併合推進派」の人々に「売国奴」の烙印を押したまま、いまなお赦そうとはしていない。ただ金玉均については、北朝鮮の方が早かったが、韓国でも大分前から高く評価するようになっている。ただ、そこでの金玉均は「日本の侵略を助けた親日派なのではなく、日本の裏切りによって政治改革を挫折させられた、朝鮮で初めて近代的な改革を推進した人物」とされている”そうである。以下同様、呉善花著『韓国併合への道 完全版』より“”で引用する。

 “金玉均は長崎で地方議会、裁判所、小中学校、師範学校、電信施設などを見学し、大阪では府知事らと会見して練兵場・印刷所・建設会社などを訪れている。また京都では毎日各地を見物するほか、府庁訪問、第二回内国博覧会見学、盲啞院見学など、精力的な活動を展開している。
 金玉均は京都へ着くと東本願寺を訪問する。李東仁の紹介を受けてのものだったろう。東本願寺は金玉均の到着を東京三田の福沢諭吉に連絡し、福沢は三田在住の東本願寺派の僧侶を迎えにやっている。金玉均は東本願寺の客館を宿として京都を見物し、迎えに来た僧侶とともに東京に向かい、東京に着くや、時をおかずに三田の福沢邸を訪ねている。 金玉均が東京に入ったのは五月三〇日頃のことだった。
 
 日本にはすでに紳士遊覧団の一行として渡日し、そのまま日本に留学していた兪吉濬、柳正秀、尹致昊がいた。通訳には慶応義塾の留学生兪吉濬が当たり、金玉均一行は三田の福沢邸を拠点にほぼ二ヵ月の間、ほとんど休むことなくさまざまな人物と会っては意見を交換し、政治・経済・軍事の全般にわたる主要施設に足しげくかよいつめたのである。

 福沢の紹介による政界の井上馨・大隈重信、財界の渋沢栄一・大倉喜八郎らをはじめ、榎本武揚、副島種臣、内田良平など、民間人を含む多数の人々と、ほとんど連日連夜の会合をもっている。
 また横浜の清国公使館をはじめ、各国の領事館もくまなく訪問しており、外国事情の収集にも余念がなかったことが知られる。各省庁や民間施設の視察にも多くの時間を割き、適宜、李朝政府に必要と思われる機材の発注もしている。・・(中略)・・
 七月末、金玉均一行は東京を発って神戸から船に乗って帰国の途につくが、下関に着いたときに壬午軍乱の知らせを受け、花房公使の乗る明治丸に同乗して帰国している。”

2012年10月26日金曜日


日韓関係の改善のために(67)「日本は、依存心・依頼心を捨て去れ!(20121026)

 人は、自分から何か与える(Give)ものがない状態で、自分以外の者に何か依存心・依頼心を持つ(Take)と、その途端にその人は弱い立場に立つことになる。会社であろうと団体であろうと政党であろうと、そういう組織体から何かGiveするものがない状態で、自己以外の他の組織体に何かを依存し、依頼してTakeすると、その途端にその組織体は弱い立場に立つことになる。国家も同様で、日本国として他国に何かGiveするものがない状態で、他国に依存し、依頼してTakeすると、その途端に日本国は弱い立場に立つことになる。

 今朝、またシナ(中国)の公船が領海侵犯をした。我が方が彼らに「領海の外に出よ」と警告しても、相変わらず「この海域はわが海域である」と応答してくる。日本国政府は危機管理センターに設置している「情報管理室」を「官邸対策室」に格上げしたが、何度言っても分からないやつには、「力ずく」で抑え込むしかないだろう。今の日本国政府の腰抜け国会議員や官僚どもに期待するのは無理かもしれぬが、真に腹の立つことである。これも、戦後日本人が長年アメリカやシナ(中国)に依存心・依頼心を持ち続けてきた代償である。しかし知恵を出し切り、良く、良く考えてみるべきである。其処に彼らが逆に日本に依存し、依頼しなければならないものが沢山あるはずである。日本はそれをカードにして、逆に彼らに脅しをかけることはできるはずである。

 石原慎太郎氏が東京都知事を辞任し、新党を立ち上げることを決心された。高齢にも拘わらず今の日本の現状を見て、やむにやまれぬ気持ちから決心されたのであろう。腰抜けの国会議員や官僚どもを叩き直すきっかけになればと、大いに期待したい。

 朝鮮(李氏朝鮮・大韓帝国)が日本の保護国にならざるを得なかった原因は何であったか?それは、当時の朝鮮の指導者も国民も依存心・依頼心が強かったからである。日本は長い鎖国から目覚め、西欧列強に伍して生き残ってゆくためにGive and Takeを行うべき相手を良く選んでいた。当時の日本人は、生き残ってゆくために天皇を中心として一丸となって必死に頑張っていたのだ。そのような気持ちを今の日本人は持っているだろうか?

 今からちょうど130年前の9月、金玉均は日本に第二回目の渡航をした。このとき彼は福沢諭吉から多くのことを学んでいる。彼はその年の3月第一回目の渡航をし、長崎から博多・下関・神戸・大阪・京都・東京・横浜を精力的に回り、いろいろ学んでいる。7月末、帰国の途次、彼は母国で起きた壬午軍乱の知らせを受けている。(参考:呉善花著『韓国併合への道 完全版』)(関連:2012929日土曜日『日韓関係の改善のために(40)「日朝修好条約締結後の状況(続)」(20120929)』以後2012103日水曜日『日韓関係の改善のために(44)「李朝への干渉を強化する清国」(20121003)まで)(続く)

2012年10月25日木曜日


日韓関係の改善のために(66)「宮本武蔵(20121025)

 日本人は人間関係において、「以心伝心」「気働き」など言葉で表現されるように「言わなくても分かる」という気持ちがある。ところがそれは誤解を招きやすい。相手は「言われなければ分からない」のである。同じ日本人同士でもそういうところがある。それが日本人と外国人の間となると、「言わなければ分かってもらえない」ことが多くなる。

 国家と国家同士では、「言わなければ分からない」どころか「力ずくで分からせる」ことが必要になる。それは一人の武士、例えば宮本武蔵が大勢の敵の中で精魂を振り絞って戦い、勝って生き残る場面を連想させる。もし、そのような場面でもし宮本武蔵が自分の弱みを見せ、何かに頼る気持ちを見せていれば、宮本武蔵は歴史に名を残していなかっただろう。尖閣諸島や先島諸島近海でシナ(中国)海軍の行動が活発化してきている。こういう状況のときに、日本はシナ(中国)に対して微塵にも弱みを見せたり、決して何かに頼る様子を見せたりしてはならない。シナ(中国)に対しては、日本は、もしシナ(中国)が越えてはならぬ一線を越えた場合には、「力ずくで分からせる」という気迫を示さなければならぬ。今の政府にはそのような気骨ある人物は皆無である。

 韓国に対しても同様である。韓国の国会議員らが竹島に上陸した。韓国は心情的に日本に勝ちたいという「克日」の気持ちが強い。竹島は自分たちが力ずくで自分のものにした島であるという気持ちがあるから、韓国人にとって竹島は「克日」のシンボルなのだろう。だから韓国は日本からいくら「不法占拠」と言われても一向に構わないのである。これは日本人にとって極めて腹立たしいことであるが、日本が隣国との間で「友好善隣」「経済繁栄」を最優先して付き合おうとしている限り、この問題は決して解決されないだろう。

 日本はシナ(中国)に対しても韓国に対しても、当面は「忍」の一字、「耐」の一字で「我慢」し、「辛抱」するしかない。「当面」と言うのは、日本人自身が「何事も丸く、丸く、事を荒立てない生き方」に慣れきっているから、先ずは「万止むを得ざる場合には、事を荒立てることも辞さぬ」という生き方もできるようになるまで、という意味である。政治・経済・外交・軍事・防衛・教育の各面で、指導者たちの世代交代が終わり、日本人の意識が変わるまでは、シナ(中国)や韓国が一線を越えた場合、その誤りを「力ずくでも分からせる」ことができないからである。

物事には常に二面性がある。戦勝国であったアメリカから押しつけられた憲法であってもこれまで良いことは沢山あった。しかし、今、日本は「宮本武蔵」にならなければならないような状況に置かれつつある。日本は自主憲法を制定し、教育勅語を復活させ、旧皇族の皇族復帰を実現させ、天皇を崇敬する国家の秩序を取戻さなければならない。

2012年10月24日水曜日


日韓関係の改善のために(65)「開化派官僚が果たした役割(続)(20121024)

大分県日田市に「咸宜園(かんぎえん)」という塾の史跡があり、広い敷地の中に秋風庵やこの塾を創設した広瀬淡窓の書斎などの建物が残っている。日田市ではこれを往時の姿に復活させる計画を推進している。秋篠宮殿下も此処を訪れている。

咸宜園(かんぎえん)は、屋号を堺屋とする商家の五代目三郎右衛門(さぶろううえもん)(桃秋(とうしゅう))の長男として天明2年(1782年)に生まれたが家督を弟に譲って学問の道を歩んだ淡窓が開いた私塾である。この私塾には全国の68ヶ国中隠岐と下野(しもつけ)(現在の栃木県)を除く66ヶ国から学問を求めて集っていた。日本では江戸時代後期に全国各地に藩校(はんこう)や私塾(しじゅく)ができ、教育への関心が高まっていた。淡窓は、文化2年(1805年)に長福寺というお寺の学寮で開塾し、その後、場所や名前を「成章者(せいしょうしゃ)」「桂林園(けいりんえん)」「桂林荘(けいりんそう)」と変えて、文化14年(1817年)に「咸宜園」を開いた。

江戸時代には武士の子弟が通う藩校などの他、私塾があった。私塾には陽明学学者・中江藤樹(なかえとうじゅ)(16081648)の「藤樹書院」、朱子学と陽明学を融合させた学者・池田草庵(いけだそうあん)(18131878)の「青谿書院(せいけいしょいん)」、蘭方医(オランダ医学の医師)・緒方洪庵(おがたこうあん)(18101863)の「適塾(てきじゅく)」、時事問題を重視し漢学も教えた教育者・吉田松陰(よしだしょういん)(18301859)の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」などがあった。

淡窓は商家の出であったが功績を認められて士分となり、名字を名乗り帯刀することが許された。ちなみに身分や階級制度が厳しかった江戸時代でも、農民から士分になった二宮金次郎などの偉人がいた。逆に自ら申し出て士分から町人になった人もいた。士農工商の身分や上士・下士の階級制度は世襲を基本とする「役割」の制度であって、人々はそれぞれの役割で最善を尽くすことが求められた。従って商人の中には財をなし、地方行政の一翼を担い、淡窓のように日本中に名をとどろかせた立派な教育者になった人もいる。大村益次郎は郷里長州(今の山口県)に戻ってから高杉晋作らと共に討幕に身を投じている。高野長英は長崎でシーボルトの蘭学塾鳴滝塾で学んだあと咸宜園に入門した。彼は弾圧を受けながらも開国を訴え続けた信念の人であった。

咸宜園では「三奪法」といって、入門者に学歴・年齢・身分を問わず、すべての門下生を平等に教育していた。その一方で塾生ひとりひとりの学力を客観的に評価・判断して席次をつける「月旦評(げつたんひょう)」という制度や、全寮制であるので毎日規則正しい生活を実践させる「規約」や、門下生に塾や寮を運営させる「職任(しょくにん)」の制度などが定められていた。日本では封建時代においてもデモクラシーが息づいていたのである。

 門下生になるためには米百俵が必要であった。今のお金に換算すると200万円ほどかかった。江戸時代、為替制度が発達していて「職任」の「主簿」という役目に任じられた塾生は、入門者の郷里から為替が送られてきているかどうか確認していたという。

咸宜園になぜ全国各地から人が集まったかというと、咸宜園での教育内容が当時としては最高水準の九級までの教育が行われていたからである。一般の私塾や藩校における教育水準は五級程度までであったから咸宜園における教育レベルは飛び抜けて高かった。入門者は咸宜園で高い水準の教育を身につけて郷里に帰れば、その郷里では立派な学問を身につけた人として尊敬され、私塾を開いて庶民の教育に尽力することができた。咸宜園出身者の中には大村益次郎、高野長英ら蘭学者になった人や、鹿児島・久留米・佐伯などの各藩校の教授になった人や真宗の僧侶になった人などがいる。

17世紀に生きた中江藤樹は日本における陽明学の祖とされる。彼の教育の理念の特徴は、教育の対象が武士だけではなく一般民衆にも教育の機会を設けたところにある。藤樹は自らを省みて心を慎む日々を重んじ「致良知(ちりょうち)(良知に致る)」という言葉で説いたという。幕末に生きた緒方洪庵の弟子には、李氏朝鮮の金玉均ら開化・独立派若手官僚たちを支援した福沢諭吉がいる。

幕末から明治初期に生きた池田草庵は農家の出身であった。草庵は豊岡藩・出石藩・福知山藩の藩校でも講義している。松陰の門下生には大村益次郎とともに討幕運動に奔走した高杉晋作や、今、韓国で最も嫌われているという伊藤博文らがいる。日本人の知的水準の基礎は江戸時代の藩校や私塾における教育にあったと言える。それは遠く奈良時代に聖武天皇が奈良に総合大学である東大寺を創建し、東大寺で学んだ僧侶たちが勤める国分寺・国分尼寺を全国各地に作り、日本人の教育水準を高める基礎を築いて下さったからである。日本人が日本における古来の教育制度について良く知っていることは重要である。引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、“”で引用する。

“金玉均は国王に、盛んに自らを日本に派遣するように働きかけたという。国王高宗としても、将来有望な若手官僚たちに日本の見聞を深めさせることに異存はなかった。また高宗は金玉均より一歳下の同世代ということもあって、若くて才気のある官僚たちの親分格のような金玉均に対して、ことのほか大きな期待を寄せているようであった。
高宗は金玉均、朴泳孝、閔泳翊、徐光範の四人を特別に日本へ派遣しようとしたが、朴泳孝と閔泳翊は都合がつかず、金玉均と徐光範が渡日することになった。金玉均は三一歳、徐光範は二三歳であった。金玉均が釜山を発って日本に到着したのは、一八八二年(明治一五)三月のことだった。”(続く) 

2012年10月23日火曜日


日韓関係の改善のために(64)「開化派官僚が果たした役割(続)(20121023)

 日本と韓国の関係が良好な状態になるまでにはまだまだ相当時間がかかるであろう。恐らく数世紀もかかる可能性がある。人と同じように国家にも受け継いだ「DNA」があり、「心」があり、「性格」がある。人と同じように国家にも「深層心理」や「無意識の行動」もある。人が自己変容を遂げようとするとき、人は自らの心の深奥にあるものを知る必要があるが、自分の心の深奥にあるものは、一般的には自分自身ではなかなか認識することはできないものである。国家も同様であるだろう。

人は自分自身を変容させることに少しでも進展を感じることがあれば、それをきっかけにますます自分自身を知る機会を多く持つことができるようになるに違いない。そうすれば人は自分自身に潜む問題を自分自身で発見することができるようになるだろう。「問題の発見」を妨げるものは三つある。それは「文化」と「知識」と「感情」である。国家も同様で、この三つが国家に潜む問題の発見を妨げる要素になっていると思う。

李朝末期、金玉均ら若き貴公子たちは、若いが故に柔軟な思考をすることができた。彼らが日本に学ぼうとし、ロシアを警戒し、シナ(中国)に失望したのは、李朝に潜む問題に気付いたからであると思う。彼らは世界に目を向け、未来に目を向け、自分たちの国・朝鮮はどういう進路を進むべきか知った。しかし悲しいことにその若い芽は保守的な思考しか出来ない年寄りたちに潰されてしまった。日本の明治維新の場合、若いエネルギーを生かそうと考えた先見の明があり権力もある藩主たちがいた。日本の場合、漢学は朝鮮のように朱子学だけに凝り固まってはいず、陽明学も盛んであり、さらに蘭学も盛んであった。引き続き呉 善花 著『韓国併合への道 完全版』より、“”で引用する。関連:2012913日木曜日 『日韓関係の改善のために(24)「日韓ボタンの掛け違いは何故起きたか(続)」(20120913)』、2012914日金曜日 『同(25)「砲艦外交に出た日本」(20120914)』、2012915日土曜日 『同(26)「砲艦外交に出た日本()(20120915)

 “金玉均は、江華島での日朝交渉に通訳として参加していた呉慶錫が漢城に戻るたびに、彼と会い、彼が語る日本人の印象や日本の国情について熱心に耳を傾けた。また劉大致は魚允中が紳士遊覧団で日本へ行った際の見聞と、上海・天津での見聞をまとめた『中東紀』を高く評価し、その写本を金玉均に貸し与えるなどして、金玉均にしきりに日本行きを勧めている。
 『中東紀』によれば、魚允中(当時三三歳)は遊覧団のなかで主として大蔵・財務関連の調査を担当したが、日本財閥の巨塔渋沢栄一から資本主義経済についてのさまざまな知識を得ている。また彼は李東仁の紹介で福沢諭吉とも会い、福沢の広汎な識見に感じ入ったという。そのため魚允中は、一行の兪吉濬(二五歳)と柳正秀(ユジュンス)を福沢家に託して慶応義塾に留学させ、また尹致昊(一六歳、父は別技軍の責任者尹雄烈)を同人社に託し、英語を学ばせようと留学させている。”(続く)

2012年10月22日月曜日


日韓関係の改善のために(63)「開化派官僚が果たした役割(20121022)

 韓国では、自分たちの先人たちが果たした役割を評価していない。韓国では誤った歴史教育により、東アジアでいち早く近代化を成し遂げた日本が、李氏朝鮮を何とか自主独立の国にしようとしたが失敗し、やむ得ぬ状況のなかで、大韓帝国皇帝自らが苦渋の決断として日本による韓国併合が行われたことをもって「日本による韓国の侵略だった」としている。一部の韓国人は、日本に学び自らの国を改革しようとして挫折した自分たちの先人たちを売国奴ときめつけ、その子孫まで糾弾している状況がある。その背景には何があるのか?先に李明博大統領が竹島を訪問した行為も、天皇(彼は「日王」と天皇を軽蔑する用語を用いた)に謝罪(彼は非公式には「韓国民の前にひざまずいて謝れば」と言った)を要求した行為も、親日行為が「親日反民族法」に触れることを恐れたためではないかと思う。呉 善花 女史は『韓国併合への道 完全版』の中で下に“”に示すとおり書いている。

韓国には李氏朝鮮時代の悲しい歴史があるため、韓国人は自らのアイデンティティを確立するため苦しんでいるのであろう。その裏返しとして、「克日」すなわち「日本に勝つ」という激しい感情を持つのだろう。韓国人が自らの心の深奥にあるものを認識できるようになったとき、韓国人の間に初めて反日感情は消えて無くなり、日本と韓国の関係は良くなるのではないかと期待したい。しかしそうなるまでには今後何世紀もかかることだろう。

 “「盧武鉉は、柱としての親北政策の内部に、「国内改革」と、「旧世代批判・戦後韓国の自己内省」の問題を取り込んでいったのである。盧武鉉はこれをもって「新しい韓国を建設する」と主張し、それを「民族旌旗(精気との表現も見られる)を立て直す」と表現した。そうして国民の民族主義的な感性に訴え、親北「民族統一」への動きを盛り上げていこうとしたのである。
 結局のところ盧武鉉政権は、韓国にようやく生まれた「戦後韓国の政治・経済・社会のあり方への根本的な批判と自己内省」の気運を、反日を内部に向けて親日派を国内から一掃し、同時に容共を内部に広めて反共派を国内から一掃することへとすり替えたのである。・・(中略)・・ 親日派を国内から一掃するために制定されたのが、二〇〇四年三月に成立した「日帝強占下反民族行為真相糾明に関する特別法」、いわゆる「親日反民族法」である。・・(中略)・・ 盧武鉉政権はこの特別法に加えて、同法で反民族行為と判定された者の財産およびその子孫が受け継いだ財産を、強制的に国家が没収できる「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」を二〇〇五年一二月に制定した。”

“さらに付け加えておくべきことがある。二〇〇五年三月二〇日 当時の野党ハンナラ党の元喜龍(ウォンヒリョン)が、「日帝強占下親日反民族行為真相糾明に関する特別法」の中の親日犯罪または親日反民族行為に規定している行為を、擁護したり称賛したりした者を処罰できる「日帝侵略行為歪曲および擁護防止法」を新設したいと述べたことである。・・(中略)・・彼はこの法律はフランスのいわゆる「反ナチス法」と同水準のものだと述べている。”(続く)

2012年10月21日日曜日


日韓関係の改善のために(62)「独立党(20121021)

李朝時代の志士たち、すなわち独立党のメンバーは、日本で言えば平安時代の政治の中枢にいた公家たちの息子たちのような立場の若者たちであった。平安時代、朝廷の政務は公家たちが行い、その実務は公家ではない諸大夫階級が担っていた。李朝の開化派の志士たちは貴公子たちであったが、明治維新を成し遂げた幕末の日本の志士たちは、土佐や長州や薩摩の下級士族たちであった。其処には彼らに期待する先見の明ある藩主たちがいた。

善花 女史は『韓国併合への道 完全版』の中で、新羅時代の花郎(ファラン)精神は日本の武士道精神に近いものがあり、それは現代の韓国軍の軍人教育にも流れているという。以下“”で引用する。

“独立党のメンバーには・・(中略)・・などがいた。後に彼らが国家を根底から揺るがすクーデターを引き起こすのだが、そのとき、金玉均は三〇代であり、メンバーの大半は二〇代前半の若年であった。独立党の中心メンバーは若いだけではなく、その多くが将来を嘱望される両班の息子たちだった。とくに金玉均、朴泳孝、洪英埴、徐光範らは、いずれも政権中枢の重職を担う最高級の官僚を父にもつ、いわば貴公子たちであった。なかでも朴泳孝は前国王の娘婿で、王家から錦陵尉の称号を与えられた準王族、貴公子中の貴公子だった。ひとくちに言えば、独立党は若き貴公子たちが指導した集団ということになる。・・(中略)・・

私は彼らが開化独立を旗印に結束したところに、新羅時代の花郎(ファラン)精神の伝統を感じるのである。新羅では上級貴族の子弟で一五、六歳の男子を指導者として花郎と称し、その下に数百人から千人の青壮年たちが結集して花郎徒という集団をつくっていた。彼らは学問・芸術・武芸を磨いて肉体と精神を鍛え、戦時には勇猛な戦士集団として活躍した。

花朗は戦場では常に先頭に立って戦い、けっしてひるむことがなかったという。義のために国家のためには自らの命を捧げることをいとわず、友のために命を捧げることも清く美しい行為とされた。日本の武士道精神に近いものと言える。
花郎精神は新羅時代以降、儒教、仏教、道教などの影響を受けて独自の発展をとげ、現代韓国の軍人教育にもこの花郎精神が流れている。

文人主義の国韓国では、大学生は社会の期待を一身に背負った誇るべきエリート集団として尊重されてきた。戦後、韓国の学生運動には確かに「暴走」があったかもしれないが、彼ら学生戦士たちの意識の底にも花郎精神が流れていたことは、私の体験からも確かなように思える。
彼ら独立党が日本に大きく惹かれたのは、彼らの花郎精神が日本の武士道精神と共鳴するところがあったかもしれない。”(続く)

2012年10月20日土曜日


日韓関係の改善のために(61)「実学思想から開化思想へ(20121020)

 これまで引用してきた『韓国併合への道 完全版』の著者・呉 善花女史は、この本の中で、李朝では若手官僚たちが実学を支持し、仏教が個人の内面の救いをもたらして朱子学に対する批判精神を養わせたことを説明している。一方、日本では朱子学の他に陽明学が学ばれていた。仏教は古来日本人の暮らしの中に深く根付いている。神道も日本人の精神に深く関わっている。日本人はその他八百万の神々を敬い、路傍の地蔵菩薩の石像も拝む。

私は浅学非才なるゆえそれぞれの学問の正しい理解を得るに至っていないが、それなりに概観するところによれば、朱子学は、一言で言えば人は人倫の道を追求することが最善であるので、何よりも先ずはそのとおりに行うべきであるとする理論を構成している学問であって上下の人間関係を律する上で都合が良い学問であるようであり、一方、陽明学は、人は人倫の道を外すことはあってはならないが、その真理を知るうえで人の行動を制限していては真理に到達できないから、真理を知って行動し、その行動と自ら知ったその真理を一致させるという理論を構成している学問であるようであると思う。これは功利主義の実学とはちょっと違うように思う。

明治維新を成し遂げた日本の志士たちは皆、陽明学派であった。中江藤樹の流れを汲む志士たちが明治維新を成し遂げた。その一方で日本の志士たちは人倫の道の究極に天皇を位置付けた。これは朱子学的である。日本の明治維新は下士・郷士の身分の下級士族たちが先見の明ある藩主たちを動かして成し遂げられたものである。

ところが李朝では日本の下級士族に相当する中人階級の若い官僚たちが文明開化とシナ(中国)による冊封体制からの独立を目指したが、李朝には両班階級はいても日本のような武家の領主は存在していなかったから、朝鮮の開化と独立を目指す若手官僚たちのエネルギーが活かされることはなかった。また、徳川幕府は人倫の道に沿って政治を行っていたが、李朝を動かしていた大院君や閔氏一族は、人倫の道から外れた政治を行っていた。こういう状況だったから、李朝は外国の力によらなければ変革を遂げることは全くできなかったのである。日本と朝鮮との精神文化上の大きな違いはこの辺のところにあると思う。

 “西洋文明との接触が深まるにつれて、実学からしだいに開化思想が芽生えるようになっていくが、その点で北学派の果たした役割が最も大きいと言われる。なお、金玉均の親しい同志として終始行動をともにした朴泳孝の家も、朴桂寿の学統につながっていた。・・(中略)・・
 現実への寄与を説く開明的な実学と、万物の平等を説き個人の内面の救いをもたらしてくれる仏教――この二つが彼らに硬直した朱子学に対する批判的な精神を養わせ、より近代的な人格を形成させるのに、重要な役割を果たしたことは確かだと思う。”(続く)