2011年5月31日火曜日

20110531アザミの花


 午後母は退院した。昨日「明日午後2時に退院だよ。」と母に言って、しばらくしてから「退院はいつ?」と聞いてみた。母はすぐ忘れていて「朝10時。」ととんちんかんな答えをしていた。今日迎えに行って「朝ごはんは何だった?」と聞いたら「ご飯とみそ汁と、・・と。」と答える。「お昼ご飯のおかずは何だった?」と聞けば幾つかの品をあげて答える。男はそれが正確な答えかどうかは実際のメニューを予め調べていなかったのでわからない。しかし母の記憶の状況は薬のせいかしっかりしているようである。

 K先生は「(母の認知症の症状は)良かったり悪かったりしますよ」と言う。まだらボケで良かったり悪かったりしながら、母のアルツハイマー性認知症は確実に進行して行くのだろうと思う。母の症状はまだ発症初期の段階である。

 昨夜テレビで森重久弥と高峰秀子が演じる『恍惚の人』が放映されているのをたまたま見た。偶然と言えば偶然である。しかしこれは男と女房がこの映画をテレビで見るべくして見た‘必然’だったのだろうと男は思う。女房は腹を抱えて笑いこけている。森重久弥演じる痴呆老人は「もし、もし」とつぶやいて相手とコミュニケーションをとっている。この老人はいろいろ問題行動を起こすが、高峰秀子演じる嫁を「お母さん」と読んで甘えている。可愛さがある。一般に男が痴呆になったら可愛さが出てくるのではないかと思う。

 母は今日午後2時に退院する。そこで男は1時間ほど前母が入っていた病室に行き、母に「2時近くになったら来るからね。それまでテレビを見ていなさい。と言って母が寝たままテレビを見ることができるようにしてやった。母はリモートコントロールの操作器のらせんコードが伸びることを理解していず、男がコードを伸ばしてやったら、母はベッドに横たわったままテレビを見ることができることを初めて知ったようだった。
 
 久しぶりに今日は天気がよい。男はK病院を出てK町の中央を流れる川の辺を散歩した。太古の昔火山が噴火したあとに出来たこの盆地の中を流れる川の風景は美しい。男はこの風景が好きである。何度見ても飽きない風景が此処にはある。25分前に母の病室に着き退院の支度をした。病室のすぐ前が看護ステーションである。看護師の女性たちに「お世話になりました。またお世話になると思いますが、よろしくお願いします」と言うと、今回のようなことは度々起きているので看護師たちはにこにこ笑いながら、「はい」と言う。
 
 母を家に連れて帰ってしばらくして、女房が「散歩に行こう」と言う。二人で農道を散歩した。田圃に引く水路の水が勢いよく音を立てて流れている。小型トラクターで田を耕しているそばに何羽もの鳶が動き回っている。彼らの狙いは田を耕すと現れる小動物である。一羽が何か捕えてすぐ舞い上がった。女房は「ほら、見て!」声をあげている。

 道端の水路の脇にアザミが沢山紫色の美しい花を付けている。女房が一つ二つ手折って「綺麗!」と歓声を上げている。男は「俺が取ってやろう」と言うと、「とげがあって痛いわよ」と遠慮している。男は勢いよく4つ、5つ手折って女房に渡してやった。その花はコップに活けられて、女房が立つ台所の水道口のところに飾られていた。

2011年5月30日月曜日

老々介護の行動計画(20110530)

 男は母の介護について女房とよく語り合った。昔から常にそうであっただろうと思うが、例えば戦国時代の武将は、当時のある意味では企業経営が競争相手によって領地の存続が危機にさらされたとき、その危機の対処について子まで設けた妻との間でいろいろな苦悩があっただろうと思う。そのとき戦国武将たちは何かの決断をし、その結果起きたことについて自ら責任を負ったと思う。また妻たちもそれぞれ決断をして自らの身を処したと思う。それが語り継がれ、後世の作家たちによってドラマが作られ、人々はそれを読みまたは映画を見て何かを感じ何かを得て、それぞれその人生の糧としているのである。

 男は軍隊がある状況に直面したとき状況を判断し、状況に対処するため行動計画を策定し、状況に対処するように、自分や女房に関わる問題の解決をしようと思う。それは軍隊に比べれば針の先ほどちっぽけな状況であるが、ものの考え方は基本的に同じである。

男は母の介護計画の策定にとりかかった。状況の判断において男はフィードバックを重視した。どんなシステムでもよいアウトプットを得るためには負帰還(ネガティヴフィードバック)が重要である。女房ととことん語りあうことはその一つの方法である。

こうして男は先ず二つの方針を立てた。その一つは「人の道から外れないこと」である。母の介護のため田舎に例え一時的にせよ居を移すことが必要になる。そのため男も女房もそれぞれの何かを犠牲にしなければならない。そして何年か何年先かわからないが母がこの世を去った後、少なくとも母の弟妹たちが元気な間は、この田舎の家を守り法事などを執り行い親類づきあいをきちんと行わなければならない。自分たちが世を去った後も先祖の祭祀が継続されるようにしておかなければならない。それが人の道を踏むことである。

もう一つは夫婦が力を合わせてこれまで築きあげたものを大事にすることである。これは第一の方針と同様の重要度をもつ。二律背反にならぬように知恵を絞る必要がある。時間の経過とともに状況は変わる。常に状況を判断しながらこの二つの方針を貫く。そしてその下で行動の実施要領を決定し、それを常に見直しながら実行してゆく。

 一旦行動計画の概要が固まれば、後は実行あるのみである。二つの方針をしっかり守り、フィードバックを得ながら常に状況を判断し、実行してゆく。馬鹿な考え休むに似たり、ただ前に進むのみである。但し柔軟な思考をしながら行動あるのみである。

 男はこのようにして今後痴呆度が徐々に進んでゆく母の介護を行って行くことにした。明日、母は退院する。数日後母をH市の病院に連れて行き、その後数日間様子を見る。その間男と女房は先日母の為買ったaumimamori2によるネットワークと地域の介護システムの関係者と携帯電話によるネットワークを維持しながら、帰宅までの所要時間が数時間の範囲内のところで旅行などをし、45日間母を以前のように独り暮らしさせてみる。そして帰宅し様子を見てその後1カ月間以上独り暮らしが問題なく出来るかどうか判断し、大丈夫と判断されれば次回は8月のお盆休みまで帰って来ないようにしようと思う。

 しかし寒冷期に入る今年の晩秋時期以降は、独り暮らしは無理だろうと思っている。

2011年5月29日日曜日

雨だれの音 (20110529)

 今朝は雨である。女房はまだ眠っているが男は胃腸の調子が悪くお腹にガス溜まって張ってきて目が覚めたので5時過ぎに起き、男がインターネットに公開している吟詠の6月の吟題・嵯峨天皇の『山の夜』の解説を書いている。

軒下の出窓の屋根を叩く雨だれの音が聞こえている。この家は築40年以上経っているが、まだ天井に雨洩りはないようである。しかし雨が降ると窓際の天井をポトンポトンと叩く音があり、屋根瓦の隙間から多少の雨水が落ちているのではないかと思ったりする。

 嵯峨天皇の『山の夜』は嵯峨天皇が即位後間もないころ、谷川のほとりの山荘に居住したときお作りになった歌である。田舎に住んでこのようにして文を書きながら雨だれの音を聞くと、此処は嵯峨天皇が住んだ奥深い山荘ではなく田舎の町中であるが、嵯峨天皇が若き頃住んだ山荘の様子を想像し、1200年ほど前のイメージを重ねた感慨がある。

 ちなみに、嵯峨天皇(786824年、桓武天皇の第二皇子で第52代天皇)の御製である。嵯峨天皇は幼時から聡明で文武兼備の不出世の天子であったと言われており、漢詩人で書家でもあった。母方の先祖は後漢の霊帝の後裔で坂上田村麻呂と同族の坂上氏である。

その先祖は阿智使主を祖とする漢系渡来氏族(東漢氏)の一族である。阿智使主は後漢の霊帝の後裔と言われており、『日本書紀』応神天皇209月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」とある。何十万人とも言われる帰化人たちは後の日本の文化発展に大いに寄与し、皆日本人になっている。
『山の夜』という漢詩はつぎのとおりである。

  山夜 嵯峨天皇

移居今夜薜蘿眠 夢裏山鶏報暁天
不覺雲来衣暗濕 即知家近深渓邊

   居を移して今夜薜蘿(へいら)に眠る
夢裏(むり)の山鶏(さんけい)暁天を報ず
覚えず雲来たって衣(ころも)暗(あん)に湿う
即ち知る家は深渓(しんけい)の辺(ほとり)に近きを

薜蘿とは薜茘(まさきのかずら)と女蘿(つたかずら、さがり苔)のことである。薜茘は常緑の低木で蔓生であり、女蘿は苔の一種で地衣類である。

この詩の意味は、

   今夜は宮中から出て山荘に宿す。
辺りはまさきの葛や下がり苔が垂れ下がった深い森の中である。
ぐっすり眠っているとき、山鳥の声で目が覚める。夜が明けて来たのだ。
いつのまにか曇り空となり、着ている衣服もじめじめとしてきた感じである。
これは、この山荘が深い谷川のほとりに近いところに建っているからである。

である。

2011年5月28日土曜日

別府に遊ぶ(20110528)

 別府は昔から湯の町であり、色町であった。流川通りは現在舗装された公道になっているが、昔は文字通り川で川の両側に温泉宿が立ち並び艶っぽい風情があったそうである。昔の川は公道の下に埋められた管路の中を流れているという。

 男の生母は別府で生まれ育った。生母の祖先は江戸時代K藩の藩士として奉行職を務めていたが、明治維新後別府に移り住み宝石店を営んでいた。男自身戦前の幼少時から戦後の少年時代にかけて別府とのかかわりがあり、男は別府にある種の懐かしさを感じている。

 母が入院した知らせを受けて男と女房は急きょ母が独り暮らしをするK町の家に帰ってきた。帰って来たときは家の内外のことでいろいろすることが多く、女房は生来の優しさで老いた母が可哀そうに思い、これまで母のため精一杯尽くしてきた。

女房は母にとって実の娘ながら4歳の時以降母と一緒に暮らしてはいず、どういうわけか母自身も女房のことを自分の娘と言うよりは、自分の面倒をよく見てくれる、ある意味では自分の家の家政婦のようである。女房は高校2年のとき男の家の養女となり、戸籍上では男と兄妹の関係にあった。そのころ男は既に社会人として自立した生活をしていたので、女房と一緒に暮らすことはなかった。ある日男の父親が「お前はあれと一緒になれ」と言った。男は素直に「はい」と言って女房と夫婦になった。以来50年近くなる。

 母の前世は御姫様と思われるほどに母は炊事が苦手である。母によれば「私は小さい時から大事にされて育った。家事手伝いなど一切したことがなかった。」という。男の父親にとって母の作った料理は誰にでもできるようなものばかりで、後妻である母の料理を喜んでいた節はなかった。男の父親と母の間に60を過ぎた娘が一人いて遠くに住んでいる。

 一方男の家に来た女房は高校2年の時以来、寒い冬の日でも期末試験があったときでも炊事をさせられていた。お陰で女房は家事一般のベテランになった。女房はこの家に帰ってきたときは母のためこまごまと精一杯働き、気疲れし、体重を減らし、横浜の家に戻ったときはいっぺんにどっと疲れがでてしまうことがたびたびある。

 そこで男は雨天のため渋っていた女房を別府の温泉に連れて行った。泊った宿は別府の老舗Sホテルである。男と女房はツインベッドが二つあり和室も付いている大部屋で12階の見晴らしの良い部屋に泊った。此処は大浴場のほか眺めのよい場所に大きなたらい型の一人専用の露天風呂が45つあり、サウナもある。食事はバイキング方式がおすすめである。料理の種類や質や内容が非常に良かった。スイーツも高級なものがバイキング方式で食べることができた。女房は「お父さんと一緒の誕生祝いだね。」ととても喜んだ。

 高速バスで別府に着いた日、雨の中「うみたまご」という水族館でたっぷり遊んだ。其処は平日で雨天ということもあって入館者が少なかった。男と女房は若い女性が訓練中のゾウアザラシの動きを見て、おかしくて仕方がなく、女房は腹の底から笑っていた。

翌日は観光バスで地獄めぐりをした。この12日の小旅行は男と女房にとって最良の思い出となった。男は女房の一代記を小説にして書いておこうと考えている。

2011年5月27日金曜日

未来の大地震災害 (20110527)

 IAEAが日本政府の要請に応じて今回の福島第一原子力発電所事故について調査を始めた。メルトダウンの原因となった海水注入による炉心冷却の遅れがなぜ起きたか、そこに指揮命令系統の欠陥がなかったかどうかまで調べてくれると良いと思う。

 事故考査委員会が政府内に作られるということであるが、それはおかしい。国会内に独立した機関として作られるべきである。さもないと、今回が天災ではなく人災であることが浮き彫りにされないだろう。たとえ人災であることが明確にされたとしても、人災を起こした責任者は罰せられないだろう。誰の責任に帰するか不明確になるだろう。

 今回の巨大地震は約千年前の貞観地震の規模とほぼ同じであることが分かっている。以下2011518日付け読売新聞の記事を引用するが、西暦869年の貞観地震を挟んで、日本各地で天災が発生している。今度の巨大地震で通常の地震以外の地震が多発しているが、これは約1000年前の状況に似た天災が起きる前兆かもしれない。そうならなければようがと祈るばかりである。

オカルト的な思考を冷笑する人たちは、天皇陛下が捧げている祈りを無視するだろう。靖国神社にも参拝しようなどとは思わないだろう。しかし男は、人は大自然に対して謙虚であるべきであると思っている。男も女房も、常に‘見えざる背後’のお陰を感じ続けている。「不思議だねえ」と顔を見合わせることが良くある。

    850年     出羽(山形)地震 最上川を逆流した津波が国府に迫る
    863年     越中・越後(富山・新潟)地震 圧死者多数、海の小島が壊滅
    86466年   富士山が噴火。溶岩流で青木が原樹海できる
    864年     阿蘇山(熊本県)が噴火、3年後にも噴火
    868年     播磨(兵庫)地震 官舎や寺がことごとく倒壊。
    869年     貞観地震
    871年     鳥海山(秋田・山形県)が噴火。
    874年     開聞岳(鹿児島県)が噴火。
    878年     関東地震 相模、武蔵で大被害。平安京でも揺れを感知。
    880年     出雲(島根)地震 神社や仏閣が倒壊。
    881年     平安京(京都)地震 翌年まで余震続く。
    887年     西日本地震 平安京ほか各地で大被害、大阪湾に津波来襲。
        南海・東南海連動地震の可能性。
    888年     八ヶ岳(長野・山梨県)が噴火。

  災害は忘れた頃にやってくる。人々が大自然を恐れ、大自然に祈り、謙虚な気持ちになっておれば、大自然の恐ろしさを出来るだけ避けようと皆努力するであろう。

  一発の核ミサイルでこの国は乱れ、平安を失う。人々の平和な幸せな暮らしを失う。何事も備えあれば憂いなしである。自分以上に国の為、共同社会の為働く心が大事である。

2011年5月26日木曜日

脳梗塞(20110526)

 母が緊急入院した。緊急といっても母は自分の頭がふらふらして痛かったので、不安になって自分でかかりつけのK病院に行って診察を受けたら即入院ということになったものである。

 地域で要介護の年寄りたちの面倒をみてくれている社会福祉士Aさんが、独り暮らしの母を見守ってくれていて毎日立ち寄って様子を見てくれている。昨日夕方も立ち寄ったら不在であったので心配して病院に問い合わせたら入院したということであった。

母は着の身着のままで病院に来たので戸締りもしていなかったということを看護師さんに話したら看護師の方からAさんに連絡してくれた。Aさんは同僚の女性と二人でわが家に来てくれて戸締りをしてくれて、服用中の高血圧やアルツハイマーの治療薬など必要なものを病院に持って行ってくれた。

横浜の家に帰って来たばかりの翌日である昨日の夜Aさんから男の方に母が入院したという連絡が入り、男は急きょインターネットでJRの切符を購入し、今朝早く新横浜を発ってドアツードアで7時間半かけてこのK町のわが家に帰りついた。男と女房は中一日置いただけでトンボ帰りのようにしてこの町に舞い戻って来たのである。都会に住んでいながら田舎で独り暮らしをしている90歳を過ぎた年寄りの面倒を看るということは、このようなことが度々起きるであろうことを覚悟しなければならないということである。

お互い顔見知りが多い小さな地域社会ではこのようにして独り暮らしのお年寄りを支えてくれている。大変有り難いことである。しかし男のように要介護者の家族が1000キロ以上も離れたところに住んでいるという事例は他にないらしい。

 男と女房は母のかかりつけの医師K先生に会って母の病状について説明を受けた。K先生によれば、母の診察のときスポットライトを母の目に当てて動かしてみたが母の眼球の動きがにぶかったという。脳のCTスキャンをしたら過去に起きたと思われる脳梗塞の痕が幾つか見つかった。白い小さな斑点のようなものが何枚かの写真に写っていた。今後の治療のため、数日後母の脳の状況について精密検査を行うことになった。

 老々介護は悪いことばかりではない。介護帰省のための鉄道や航空機の利用は気分転換となってこれまた楽しいことである。今日の新幹線の旅、そして博多での乗り継ぎ時間が5分しかなかったが博多でローカル線の特急に乗り替え山間部を走る列車の旅は楽しかった。

さらに母が入院中であるので男と女房は安心して羽を伸ばせる。明日は別府のSホテルに泊まって温泉にたっぷりつかり、美味しい食事を味わうことにした。別府へは高速バスで行く。天気予報ではあいにく雨であるのでちょっと残念であるが、こういう時しか羽を伸ばせない。明日、男と女房は高原の高速道路を走るバスにのって別府に向かう。先日もこの路線をバスで行ったがバスの車窓から眺める風景は雨にけぶっていても美しいと思う。Sホテルで一泊するが天候次第では水族館見学や地獄めぐりなど市内観光をしようと思う。明日は久しぶり楽しい小旅行となることだろう。

2011年5月25日水曜日

見守り機能付き携帯電話を持たせたが・・ (20110525)

 mimamri2という子供用の携帯電話にはメール機能が付いている。90歳を超えた年寄りにはこの機能は要らない。また留守電話機能も要らない。画面表示ももっとシンプルがよい。男は母にこの携帯電話を使い慣れさせようといろいろ苦心している。そばに付いていて細々教えればそのとおりできるが、痴呆になりかけている母にこの携帯電話を使い慣れさせるのは一苦労である。

 母は男だけが帰っているときはそうでもないが、女房が一緒に帰っているときは自分でやれることでも何でも女房にやってもらえるので、女房に頼り切ってしまう。それでは、折角なんとか自立して暮らしていることが出来なくなってしまう。

女房自身もある意味では嫁の立場と全く同じようなものであるが、生来の優しさで母の面倒をよくみている。普段ヘルパーとかお互い年老いてしまったためたまにしか顔を見せない近所の人ぐらいしか会話の相手がいなくなってしまっている母は、女房がいるときは何度も聞いている話をくり返してしている。女房もそのような母が可哀そうになって、毎度同じ繰り返しの話を良く聞いてやっている。それは女房の心労を一層深めることになる。

女房は母がいずれは介護を受けることになると思って、50代のころホームヘルパーの資格をとってずっと年老いた人たちの世話をしてきた。その間放送大学で福祉関係の知識を身に付け、介護福祉士の資格もとった。その思いの心底は本人には分からない。第三者でないと深層の心理はわからない。3歳の時自分の父親を病気で失い、4歳の時今世話している母と別れて暮らしてきた女房の心の奥のことを、男は理解しているつもりである。しかしそのことは誰にも理解できないことだろうと男は思っている。

赤の他人の嫁の立場なら、女房は良い思い出の無い土地で母の面倒を看ようなどと思わないだろう。そのような原因になることが何度も女房は経験している。それでも母を一生懸命看ようと思うのは、女房が口癖のように言っている「自分が後悔しないため」である。それに80歳を過ぎた女房の実の叔父叔母から自分の姉である母のことを託されていることもある。男はこの家の長男であるという立場もある。

男は在宅介護の事業所の担当者と話して其処に一通のFAXを送った。その内容は母には何度も教えたのであるが、母がmimamri2という携帯電話を良く取り扱えないので訪問してくれた時には挨拶代わりに、「散歩や買い物で外に出るこの携帯電話を必ず首に下げて行くように」とか「この携帯電話のベルが鳴ったときは耳元にこの携帯電話を近づけるように」とかいったことを挨拶代わりに一言話して欲しいというというものである。

母が住む町でつい最近80代の女性が家をでたまま数日を過ぎても行方不明になっていて、町内防災放送などで何度もそのことが放送れていた。そのようなことに母がならないように母が出歩く時には必ずこの携帯電話を持って行って貰わねば、折角の機能が何の役にも立たないことになってしまう。横浜に戻って来た男は自分の携帯電話機で母の所在、つまりmimamri2の所在を確かめた。それがいつも同じ場所になっている。困ったものである。

2011年5月24日火曜日

60年前の中学同級生(20110524)

 男は田舎に帰って来るたびに昭和28年卒業の中学同級生たちに会っている。担任の先生は若くして他界したが音楽大学を出たばかりの美人でスタイルの良い先生であった。その先生との思い出を共有しているせいもあり、その中学校に進んだ小学校時代の同級生たちの絆が深いせいもあって、37組の同級生たちは男子女子無関係にとても仲が良い。皆今年は74歳になる。男のように5月生まれの者はすでに74歳になっている。

 そういう同級生たちの中で久大線沿線の大分に近い駅の近くに住んでいるT君(愛称Tちゃん)の家には小学校・中学校を通じて同級生であったI君がよく訪れている。男が帰ってきたというので、Tちゃんの家に同級生たち4人が集まってきた。大腸がんを患って手術後抗がん剤治療を受けているA君は、現在の状態では養生が大切なので男に会うことはできない。その代り自分が経営している養鶏農場でとれた自然卵を男のためにI君にことづけてくれた。ちなみにA君の奥さんも同級生である。彼女は男の幼馴染である。彼女の実家の先祖は男の家と同じであり、家同士同じ村の中で良く行き来していた。

 I君は愛妻に先立たれた。同級生の中には他界した者もいる。最近70代後半で他界した有名人が何人かいる。70代になると同級生たちもあと何年生きているだろうかということが話題になる。ちなみに男とI君とA君の父親同士は親子そろって同じ小学校を出た仲の良い同級生同士であった。このことが37組の同級生同士の絆を一層深くしている理由の一つである。このような例は全国的に見てもそう多くはないだろうと思う。

 同級生たちは自家用車で別府のKホテルまでバイキングのランチを食べに行った。都会に住んでいる男にとっては驚きであったが、其処のバイキングのランチは一人800円弱の安さにもかかわらず、メニューも内容もそれなりに豊富である。利用客の中には韓国人らしい人達も来ていた。駐車場の利用は無料である。同級生の一人が此処のバイキングランチのことを知っていて、皆を其処に連れて行ったのである。

 74にもなった爺さんたちがKホテルのバイキングランチを食べに行き、其処でたった800円弱を払って3時間も長居してだべっている。従業員たちはそのような爺さんたちに決して白い目を向けることなく、暖かく接してくれている。話題の中に福島原発のことがあった。皆はあれは菅総理の無能が原因の人災であると憤慨していた。

爺さんたちのすぐ隣で二十歳代の若者が一人で食事をしている。見ていると何度も何度も席を立っていろいろなものを取って来ては食べている。驚くほど大量に食べている。ちらっと横目でみるとお腹が相当膨らんでいる。爺さんたちはさすが小食である。

Tちゃんはよく別府航路を利用している。サンフラワー号に乗ったことがあったらしく、その船の姿を男に見せたくてランチからの帰りに別府港に立ち寄った。あいにくその船は入っていなかったが別の大型船が停泊していた。Tちゃんによると、1000円払って会員登録をしておけば12名の1等運賃が4000円引きとなるらしい。男は是非一度女房と一緒に大阪からその汽船に乗って帰って来たいと思った。

2011年5月23日月曜日

au携帯電話安心見守り機能(20110523)

 男は母のためにmimamori2というauの携帯電話機を購入して母に使ってもらうようにした。購入といっても充電機用アダプターだけの価格で本体は0円であった。この電話機は非常にシンプルで防水・防塵の堅牢な作りである。後で知ったのであるが、この電話機のメーカーは男の携帯電話機と同じ京セラである。直感的に行動し飛び込んだ店にあったものがこの電話機であった。それまでこの電話機のことは知らなかった。運がよいと言えばそれまでであるが、男は出会いの不思議さを常に感じている。人によっては偶然は必ずしも偶然にあらず、それは見えざる力に左右された必然であると男は思っている。

 この携帯電話機は3か所まで登録した通話相手先にしかつながらず、登録先の番号のワンタッチキーと、通話呼出しなどのためのセンターキーと、終話きーの三つのキーの操作だけで登録先と通話ができる。その他の機能としてメールとGPSがあるだけである。ゲームとかカメラとかサイト検索などの機能は省かれている。

 男は早速それを母に使わせてみた。100円ショップで買ってきたストラップを取りつけてそれを首に掛けさせ、何度か操作法を練習させた。母は初めちょっと戸惑っていたがすぐ慣れた。今後は男や女房との通話は携帯電話だけにして、母にはアルツハイマー性認知症という厄介な病気がまだ軽いうちに、この携帯電話機の使用法を体で完全に覚えこませておこうと男は思っている。何事も初期のうちに手を打って置くことに越したことはない。

この携帯電話機を使うことによる費用はどうかというと、男、女房、母三者トータルで4000円ほど固定費が増えるだけである。費用対効果を考えると決して無駄ではない。三者が皆同じau電話機を使っているので、通話料金は一切かからない。その上遠隔地にいても、母の居場所や移動経路が分かる。もし何かあって母がブザーのひもを引っ張ったときは、1回につき1万円ほどの料金でセコムから現場に急行してくれる。このような優れものの携帯電話機は他にないと男は思う。

 男は母の弟妹にあたる叔父叔母に、この携帯電話を母に持たせたことを報告しておいた。皆年老いた叔父叔母たちは、独り暮らしの姉のことを心配している。「通話料は一切かからない。」と説明したら、皆非常に驚いていた。皆は男が母の面倒を良く見ていることに感謝してくれている。

 女房は母の楽しみのためゴーヤの苗を買ってきた。男は庭の片隅にそれを植えるため、三角屋根の形をしている棚を作った。ゴーヤは毎年植えている。ゴーヤ棚の材料は、以前ホームセンターで買ったものを毎年使って作っている。去年も沢山ゴーヤの実が成った。母はぶつぶつ独りごとを言いながらその実をもいで、簡単な料理をして食べていた。今年も同じことだろう。ただ、今年からは男と女房が帰ってくる頻度が大幅に増えるだろう。

 女房は今年沖縄の特別な苗を買ってきた。そのことを携帯電話のこととともに叔父叔母に話しておいた。お互い距離は離れていてもこの携帯電話により頻繁に会話をし、母の認知症の症状の進行をできるだけ遅らせたいと男も女房も思っている。

2011年5月22日日曜日

アルツハイマー性認知症(20110522)

 女房と一緒にタクシーでH市にあるU病院に母を連れて行った。其処はK先生が紹介状を書いてくれた病院である。其処はこの家からタクシーで片道40分ぐらいかかるところにある。その病院には痴呆老人病棟もある。

 病院長U先生の診察結果、母は単なる老人性の物忘れではなくアルツハイマー性認知症であるということであった。男も女房も「ああ、やっぱりそうだったのだ」と母のここ半年近くの状況からそう納得した。まだ初期の段階であるので対応は楽である。しかしこの病気は月日の経過とともに徐々に進行する。母は非常におおらかな性格であるので、問題行動は起こさないだろう。母には幸せな晩年を送ってもらうようにしたいと思っている。

母は高血圧薬など6種類の薬をのんでいる。薬は朝、昼、晩と種類や数が違う。独り暮らしで認知症が出ているため、薬ののみ違いが起きている。今度、認知症を遅らせる薬が追加された。女房は母が薬を正しくのむように、小袋が沢山並んで配置されている壁掛け式の大きなシートを買ってきた。それは朝・昼・夜の区分と曜日が分かるようになっていて、シート1枚が1週間分である。

女房は母の脳活動を活発にさせるため、母に自分の薬をその小袋に分けて入れる作業をさせ、その様子を観察した。母はその作業を完璧にはできない。女房は別室でこのブログを書いている男のところに来て、「幼稚園児よりも悪いのよ」とため息をついて嘆いた。

それでも母はなんとか自分で自分がのむ薬の区分けができた。女房は「お母さんはこのシートをここに掛けてもらうのがいいと言っているので、ここに吊り下げるようにして」と男にその取り付けを頼んだ。男は「明日、金具を買って来て取りつけてあげよう」と答えた。この町にはやや大きいホームセンターがあって、必要なものは何でも手に入る。

母は早速その薬のシートから薬を取るのに勘違いが生じた。薬の袋に書き込む日付の関係で今日の分だけそのシートの区分けしたものは使わず、従来通りのやり方にするように予めよく説明してあったが、母は直近のことは忘れてしまっていて、曜日が今日と同じであるが日付の違うところから薬を取って既にのんでしまった。

女房はそのシートを2週間分の2枚用意してあった。薬には日付を書いてあっても母の勘違いは必ず起きるだろう。そこで1週間分の1枚だけ掛けておき、来週の分はヘルパーに頼んで出して貰うことにした。今後はヘルパーとの連絡を一層密にしなければならない。

アルツハイマー性認知症はその進行を遅らせることはできても改善することはできない。来年の今頃は母の病状はもっと悪くなっていることだろう。女房は母の脳の活動をできるだけ活発にさせて母にはこれまで通りなるべく自立した生活を続けさせようと、母と会話を多く交わしている。その様子は、女房が自分に早かれ遅かれ降りかかってくるであろう介護の苦労を、できるだけ先延ばししようともがいているかのように見える。

男は女房の負担ができるだけ少なくなるようにしようと思っている。2週間後、母をまたU病院に連れてゆかなければならない。今度は男一人で帰ってくることにした。

2011年5月21日土曜日

老人施設入所手続き(20110521)

 人口18000人、高齢化が最も進んでいる町村の一つであるK町には、3か所の特別養護老人ホーム、2か所の介護老人保険施設、5か所の高齢者共同生活事業所、1か所のデイサ―ビス事業所がある。高齢者共同生活事業所のうちNPO法人による事業所は2か所ある。

 男はもう78年前、母が一部の施設に入所できるように手続きを済ませている。しかし入所待ちの人が多いので、要介護度が3以上になってもなかなか入れない人がいるようである。まして母の要介護度は今度2に上がるかもしれないがまだ1の段階である。急に入りたくなってもそう簡単には入れない。

 母は自分がデイサービスを受けているある施設を大変気に入っている。其処は介護予防のためのプログラムが大変しっかりしている。運動器具もそろっている。母はそこに通うようになって足腰が非常に丈夫になった。この地域は地中をちょっと掘ればどこでも天然温泉が湧き出るので入浴は温泉を楽しめる。食事の内容も大変よい。

母が以前そこにショートステイしたとき個室だった。その個室は清潔で雰囲気もよい。コンパクトで機能的に出来ている。母は口癖のように「まるでホテルに泊まっているみたい。」と喜んでいた。見舞いにみてくれた母の弟妹たちも「ここは良い」と感心していた。

男は以前訪問介護サービスを提供するNPO法人の理事長を7年間勤めていた。そのとき自分もヘルパーの資格を得ておこうと講習を受け、2級の資格のほか精神障害者や視覚障害者のヘルパーの資格も得ていた。その講習のとき実習で幾つかの施設で研修を受けた。そのとき体験した老人施設よりもこの度手続きした施設は格段上等である。

そこで男は今日、母が気に行っているその施設に母が入所できるように手続きをした。合計3か所入所希望を出してあので、何か状況が変わり母が急に施設に入りたくなったときはそのうちの何処かに入れるだろう。

 勿論母は長年住み慣れたこの町で、この家で最期まで安心して暮らして行けることを望んでいる。男も女房も母のその願望を満たしてあげるように最大の努力は惜しまないつもりでいる。認知症の進行を食い止めるため、明日K先生が紹介状を書いてくれた病院に母を連れてゆく。余程のことが無い限り男も女房も将来ずっとこの家に住んでいなければならなくなった時はそのようにするつもりでいる。このように母の介護に関して、夫婦が同じ気持ちでいるということは大変幸せなことである。

 母に訪問介護サービスを提供してくれている事業所のサービス提供責任者のOさんが、男と女房に会うため夕刻帰宅途中立ち寄ってくれた。女房は認知症症状が出ている母が注意を欠いている冷蔵庫の中のことなどをOさんに説明し、今後の対応について依頼した。

 今日入所手続きをした施設には以前母のケアマネージャーをしてくれていた人がいる。その人が明日行く病院に連絡をしてくれた。人口18000人の山間の風光明美なこの町の地域の皆が母のことに関わり合ってくれている。都会地ではこのようになかなか出来ないことがこの地では出来ている。有り難いことである。

2011年5月20日金曜日

老人性認知症(20110520)

 母には老人性認知症の症状が若干見られる。長谷川式の検査結果で最近まで30点満点で21点あったが、今回それが17点になっている。自分の年齢を聞かれたときよく覚えていず、数歳の違いなら大して問題ではないが20歳も若い年齢だと答える。あらかじめ示した物を一旦隠して思い出させるが正しい答えができないなどなど、以前に比べれば直近のことについて覚えていない。

 男は母の掛かりつけの病院のK先生に会って今後のことについてアドバイスを頂き、今年新たに出た認知症治療薬の普及を担当する拠点病院に母を連れてゆくため紹介状を書いて頂いた。その病院は県の認知症疾患医療センターの連携・協力医療機関に指定されていて、ここからタクシーで1時間近くかかるところにある。

 男は明後日母を連れてその拠点病院に行く。今後毎月1回その病院に通い診察してもらってその新しい認知症治療薬を処方してもらう。それを3ヵ月間ほど続けて薬の効果を確かめるなどしてもらい、その拠点病院がOKすればその後はかかりつけのK先生の方で同じ薬を処方してもらえるようになる。そうなれば今までと同じように母が一人でいつものように散歩がてら押し車を押して、いつもの病院に通うことができるようになる。

 K先生は男に『認知症のお年寄りへの対応』(順天堂大学医学部精神医学講座教授・新井平伊先生著)と『認知症の高齢者への具体的な接し方』(筑波大教授・高橋正雄先生監修)の二つの小冊子を渡してくれた。母の状態は、今はまだ物忘れがひどいという程度で見た目大変元気であり健常者とほとんど変わらない。しかしそのうち妄想が起きたり、独りで散歩に出たのはよいが帰り道がわからなくなったり、失禁したりするようになるだろう。そのようなとき叱ったり追及したりせず、母と感情を共有して母の味方になってやるなど、認知症患者と接するテクニックがその本には書かれている。

 今年夏93歳になる母には長年住み慣れた町で心から安心して独り暮らして行けるように、介護する側では今後一層工夫が必要である。K先生はGPS機能付きの携帯電話を母に持たせることを勧めてくれた。実は母がK先生の病院に入院中淋しくないように母に携帯電話を持たせたことがあった。その時は90歳近くになる高齢の母にとって初めてのことなので携帯電話を上手く使えずその病院の看護師に迷惑をかけていた。母が退院したあとその携帯電話は一時休止にしていた。その携帯電話はGPS機能が付いていない。

 男は母の弟妹にあたる親戚の叔父・叔母に母の状況を詳しく説明し、母にGPS機能付きの携帯電話を持たせること、そして来月から34か月男が女房と一緒に毎月一回定期的に帰省し母を病院に連れてゆくことになったことを話した。その叔父・叔母たちは、男の話を聞いて自分たちの姉である独り暮らしの母が大事にされていることに深く感謝してくれていて、男や女房にいろいろ気遣いをしてくれている。

遠方から毎月帰ってくるのは費用もかかる。しかしいろいろな方法で出来るだけ費用がかからないように工夫しながら毎月帰ってくるのは、男にとって楽しみの一つである。

2011年5月19日木曜日

認知症の年寄りの扱い (20110519)

 明日、男は女房と田舎に帰る。忙しくその準備に追われている夜10時前、93歳の母から電話が入った。「今、何処?」と。昨日、女房が母に「明後日帰るからね。17日の夕方になるよ」と何度も繰り返し話していた。これまで母は、女房が言ったことを忘れていることが多かったので、今度は忘れないように紙に書かせておこうと考えた、女房は「其処に紙と鉛筆がある?」と聞いたら「ある」と言うので、「今から言うことを紙に書いておきなさい」と言った。女房によれば、母はそのとおり紙に買いとめた様子だったと言う。

 ところが母は自分が紙に書き留めたことを忘れてしまっていて、我々の帰りをじっと待ち続けていたらしく、夜の10時前になって電話をよこしてきた。これは完全に認知症が始まっている。本人はそのことを全く自覚しいていない。男はそう直感した。

 最近の知見で、痴呆が始まった者に対しては、叱らないこと、笑顔で接することが良い結果を生むことが分かってきたという。NHKの「クローズアップ現代」でそのことが紹介されていた。認知症の患者に対して、①否定しない、②褒める、③役割を与える、ということが非常に重要であるという。

 認知症の患者でも、人の笑顔を読み取る能力は健常者と大差ないという実験結果があるそうである。加齢とともに喪失感が高まってくる。まして高齢の認知症の患者が、自分に出来なかったことを叱られると、その喪失感は一層大きくなり、徘徊したり、怒りを露わにしたりするのだという。

 田舎に帰る前夜にNHKで認知症のことに関する番組があったのは、決して偶然ではないと男は思っている。これまでそのような‘偶然’のようなことをたびたび経験している。巡り合わせが良いことがしばしば起きている。男は、それは決して‘偶然’ではなく、背後の何か、‘あの世’の行った人が導いてくれた‘必然’であると信じている。

 これまで母の言動が単なる物忘れによるものであったのか、認知症の初期の症状によるものであったのか判断が付かなかった。NHKのその番組を見て、男はこれは間違いなく認知症の初期の症状だと確信した。母はもう93歳にもなろうとしているので、普通一般には母の状態は「年寄りの物忘れ」だと片づけられるだろう。母の症状は若年認知症とは違うので扱いやすい。

 母はヘルパーの支援などを受けながら独り暮らしをしていて、わが家をよく守ってくれている。女房は、母が家の中や庭など外回りを綺麗にするのは、「年寄りが独り暮らしをしていて人に馬鹿にされたくない」という自負心から来ているのだと言う。男もそう思う。

 しかしそれはその家の長男である男にとって有難いことである。母は男の女房になった娘を通じて、男の家に立派な子孫を遺してくれた。男は母に、母がわが家のために立派な役割を果たしてくれたのだ、と何度か話したことがある。母は「だ~れも来ん」と、周囲が皆高齢になり、ヘルパー以外の訪問者が殆ど無くなってしまったことを嘆いているが、母は元気な間は独り暮らしが良いのである。母には叱らず笑顔で接して行こうと思う。

2011年5月18日水曜日

東日本大震災報道写真展 (20110518)
   
  男は今日、女房と横浜にある日本新聞博物館に行った。この博物館は、横浜中央郵便局のすぐ近く、道路を挟んだ反対側にある。今日はお天気も良く、明後日九州の田舎に帰るので土産物など買うついでにこの博物館に行って、東日本大震災の報道写真展を見ることにした。また、高島屋デパートでは岩手物産展もやっているので、そこで何か買って被災した岩手県を少しでも応援したいと思った。

 男と女房は横浜市の敬老パスを使って、市営バスと市営鉄に乗りつぎ、関内で下車してその博物館まで行った。その博物館は東横線が乗り入れしているみなとみらい線日本大通り駅のすぐ傍にあるが、市営地下鉄関内駅から歩いて行っても近い。むしろこの方が横浜のダウンタウンを散策できて楽しい。男は女房の背に掌を当てて「横浜はいいねえ」と言うと、女房は「そうでしょう?田舎はたまに行くのが楽しいのよ。田舎がいいって、そこに住み続けるのはとてもできない」という。

男と女房は一戸建ちが建ち並ぶ郊外の住宅地に住んではいないが、日々生活する上ではこの上なく便利なところに住んでいる。日常の買い物は直ぐ近くのスーパーでできる。ちょっと高級感のあるものは、敬老パスを使って30分ぐらいで横浜駅まで行けるので、その近くの店で買うことが出来る。羽田空港に行くにも、鎌倉に行くにもここは便利である。

 そのようなところに住んでいて、東日本大震災報道写真展を見た。写真は全部で90枚展示されている。それは、新聞やテレビで見るのと違い、非常に心を動かされるものばかりである。被災地に行った人々は誰でもその被災状況に圧倒されると話しているが、テレビや新聞報道で知ることと、実際の状況とはもの凄く大きな差があると思った。展示されている大きな写真パネルを見るだけでも、テレビや新聞報道で知る内容と大きな開きがある。

 東北の太平洋側の海岸線の美しい町や村々で、心豊かに暮らしていた非常に多くの方々が、あの311日午後246分の巨大地震によりその生活が一変した。男と女房のように、都会地の便利な環境で暮らしていると、そこが一番良いところだと思い込んでいるが、三陸の田舎ので暮らしていた人々も、そこが一番良いとことだと思い込んでいた。その暮らしがあの大津波で一変してしまったのである。

 写真の中の一つに、巨大津波すべてが流された相馬市の原釜付近で、取り残された市民らに対する必死の救出が自衛隊員や消防団員らによって行われていて、津波が襲った翌日、12日の午前710分ごろ、早朝の寒さに震える小学生低学年らしい女の子の肩に、そっと自分の制服の作業用上着を掛けてやっている自衛隊員とその女の子が写っている写真があった。「命だけ助かって一晩夜を明かしたのだろうね。寒かっただろうね。親は生きているのだろうか」と男はつぶやいた。女房は黙ってじっとその写真を見つめていた。

 手書きの「石巻日日新聞」も一部が展示されていた。女房はそれをじっと見つめ、「少ない人数でよく頑張ったわね」と、ぽつりと言った。「未曾有の大震災」と軽く言うが、報道写真を見て、男は、この復興は国として復興庁を新設して取り組むべきであると思った。

2011年5月17日火曜日

人権擁護法案の中身への疑問 (20110517)

 男は静かに隠居しているつもりであった。しかし、黙ってはおれないことがある。民主党政権が次期臨時国会に提出する方針を固めた「人権侵害救済法案」は、同政権が温めてきた三法案「外国人参政権」「夫婦別姓」「人権擁護法案」の一つである。その中の「人権擁護法案」の形を変えて「人権侵害救済法案」として次期国会に提出しようとしている。

 しかし、「人権侵害救済法案」は、表向き「不当な差別や虐待で人権侵害を受けた被害者の救済を目的とする」ものであるが、その中身は「令状なしで家宅捜索や逮捕が可能」「面識が一切ない人に対しても侵害認定可能」「侵害認定をする委員は国籍条項が存在しない」等々相変わらず売国的法案となっているらしい。

 新聞に出ていたが、この法案にはメディア規制条項はなく、新聞社などマスコミ各社はこの法案について何も言っていないようである。しかしもしこの法案が成立したら、男のように自分の実名と写真を公開して、堂々と政治的な批判してきた人間も、また匿名でものを言っている方々も危険にさらされることになる。

男はこのブログに丸一日投稿出来なかった。その原因は別原因がにあると信じたいが、もしかして、男がネッと上で政治的な発言をしていることが気に入らない誰かが、男のこのブログに何か仕掛けたのではないかと疑っている。「エンジニアが問題解決に取り組んでいる」とか「復元中である」というメッセージがブロガ―から出されていた。

 女房はこれまで口酸っぱく、「あまり激しいことは書かない方がいいよ。」と男に忠告してくれていた。女房が言っていたとおりのことが起きたのかもしれない。男は、「人権侵害救済法案」は、メディアを規制対象とせず、個人を規制の対象として、ネットでの影響を抑え込もうとしているようにと思う。男のこのブログ記事が何故削除されそうになったのか?「人権侵害救済法案」は絶対阻止しなければならないと男は思う。

 昨日の参議院予算委員会で、民主党の今野 氏が菅総理に対し、今回の大震災の復興の為には、「復興院」を立ち上げ、東北に事務所を設けることを提案し、次のように言って質問を締めくくった。彼は、宮沢賢二の「雨ニモ負ケズ」の詩を朗読し、その詩の中にある「アラユルコトヲ自分ヲ勘定ニイレズニ」という部分を強調し、菅総理が自分を勘定に入れずにものごとを進めるならば、「自分は菅総理について行きます。」と宣言した。

 また自民党の衛藤晟一氏が質問のとき、彼が参考人として呼んだ内閣府原子力委員会専門委員で独立総合研究所の青山繁晴社長は、福島第一原子力発電所被災事故発生時、「午前650分に(首相の受け入れ)準備をするように、と東京電力本店から現場に指示があり、その準備が他の作業に加えて必要だったことは間違いない。それが初動対処の遅れを生じた。総理大臣と言う者は東京に居て指揮するべきであった。」というようなことを述べた。

 菅総理は復興院という時限的組織を立ち上げることに反対し、自ら本部長となる復興本部立ち上げに執心している。戦時中、挙国一致内閣が言論統制をしてまでして政府機能を維持しようとした。現政権に同じ轍を踏ませないようにせねばならぬ。

2011年5月16日月曜日

近所の家に身を寄せている被災者(続き) (20110516)

 女房はベランダに出ているとき、その女の子が「ママ、ママ」と叫ぶ声を聞いたという。その子はなぜ自分のそばに母親がいないのか判らず、母親を恋しがっていたのである。暫くして女房は、その三女とその女の子の手を引いて去ってゆく後ろ姿を見た。「埼玉の方に帰って行ったんだわ。おばあちゃんも胸が割かれる思いでしょうね」とぽつりと言った。

 おばあちゃんと一緒に来ていた二人の男の子のうち、中学生の子は福島の両親の元に戻った。高校生らしい子はおばあちゃんと一緒にこちらで暮らすようである。

 その高校生らしい子の所に同じ年ぐらいの子が遊びに来ていた。男は通りがかりに声をかけた。いつも男の方から声掛けし、関心を示しているので、その男の子も男にはある種の親近感を抱いているようである。

男はいくらおばあちゃんが傍に居るとはいえ、その子が親元を離れ何時も家の中にいるので気がかりである。男は友達と語りあっているその子に「学校は?」と聞いた。するとその子は「通信教育を受けます」と、元気な笑顔で話してくれた。男は「それはいいね。なにか手伝えるかもしれないので、何でも聞いて」と話しておいた。その子は男が話しかける前に来訪していた友達が、「横浜に行こう」と話していたということを女房に話した。

 男が難しい年頃のそのような男の子に関心を示し、「折を見て、友は類をもって集まると言うことを話してやるんだ」と女房に言ったら、女房は「うるさいおじいさんだと思われていると思うよ」と笑う。男は「それでいいんだ。あの子はにこにこしていて優しそうないい子だ。教えざるの罪というのがある。齢をとった者は若い者に遠慮せず教えてやることが大事だ。俺は何かと声をかけてやり、力になってやろうと思っている」と応じた。

 女房は「その子は通信教育を受けても勉強はしないわよ。友達が横浜に行こうと言ってたんでしょう?田舎ら出てきて楽しいことばかりあって、通信教育で勉強なんて出来っこない」と言う。男は「多分そうだろうと思う。しかし、その子も中学を出ただけでは駄目だと思っている筈だ。勉強する目標がきちんとすれば、真剣になる筈だ」と言った。

 巨大津波による被災や福島第一原子力発電所による放射能被災は、その子のような人生これからという子供たちに大きな影響を及ぼしている。子供の教育は親の責任でもあるが、その親が子供に十分接してやれない現実がある。被災地の行政庁はそれぞれ必死になって、次代を担う子供たちの教育について可能な限りの対策を講じる努力を続けている。それでも男が接しているような現実が起きている。

 男はその子に折に触れ関心を示し、その子が間違った道に行かないように気を付けようと思う。都会地では他人に対して無関心であることを美徳のように思っている人が多い。田舎では逆である。齢が若い者が近所の年寄りに挨拶をしないと言って不満を言う年寄りが多い。もし、年寄りである自分の方から若い者に笑顔で挨拶ができるならならば、相手の若い者は必ず挨拶を返す筈である。もし、挨拶を返さない者がいて、そのようなことがニ度あったときは、三度目にはその相手を叱りつければ良いのである。

2011年5月15日日曜日

近所の家に身を寄せている被災者 (20110515)

 男の家の近所に被災した福島からある家族が引っ越してきた。その家族は70歳ぐらいの女性と中学生と高校生ぐらいの孫が二人の3人家族である。二人の孫はその女性の長女の子供である。両親は福島に残り、二人の子供たちだけが祖母であるその女性と一緒にこちらに避難して来た。

 その女性には3人の娘がいた。その女性は二女の家族と一緒に暮らしていた。巨大津波が襲ってきて、二女と二人の子供のうち上の子は津波に流されてしまった。一家の幸福な暮らしは一挙に失われてしまった。

 一家の家は南相馬にあり、福島原発から30キロの圏内に近いところにあった。津波が来たとき一家は逃げた。その女性は1歳半の孫娘をしっかり抱いて逃げた。二女は途中で上の子供と一緒に、家に何か大事なものを取りに引き返した。そのとき津波が襲いかかって来た。1歳半の孫娘を抱いて逃げていたその女性は、襲ってくる津波を見た瞬間、二女と上の孫は助からないだろうと思った。こちらには二女と幼い孫の葬式を終えてやって来た。

男はその女性と中学生らしい男の子に初めて出会ったとき、この人たちは多分福島から避難して来た人たちだろうと思った。そこで男は近所づきあいとなるその人たちに何か手助けしてあげたいと思い、その人話しかけた。上述の話は、その女性が涙ながらに男に話してくれた内容である。

 数日後、今度は女房がその女性と孫二人が引っ越してきたその家を訪れ、その女性に語りかけた。その女性は「まあ、上がって下さい。」と言うので、これまでその家には一度も上がったことがなかったが、その女性に勧められるままその家に上がり、その女性の話に耳を傾けた。女房はその女性の悲しみを分かち合った。その女性は母親を失った1歳半の孫娘を三女に託し、高校生と中学生の二人の孫とこちらに避難してきたという。

父親らしい人がそこに入居の準備をしていたとき、男はその男性と言葉を交わしている。その男性は長女のご主人であった。「すみません。私の方からご挨拶にお伺いしなければならなかったのに。」とその男性は男に詫びた。

 数日後その女性は、埼玉の友人の方に身を寄せている三女と、津波に遭ったとき抱いて逃げた1歳半の孫娘に会うため埼玉の方に行っていた。その孫娘は婆ちゃん子で、いつも「ばあば、ばあば」となついている。その女性はその孫娘が不憫で、三女が身を寄せている埼玉の方に行っていたのである。一週間ほどして、その女性はその孫娘と三女を連れてこちらに戻って来た。

 男はその女性が孫娘をあやすため外に出ているときたまたまそこを通りがかり、その女性と孫娘に出会った。その小っちゃな女の子は目がくりっとしていてとても可愛らしい。母親が居なくなったことをまだ認識できずにいるだろう。成長しても自分の母親のことは覚えていないだろう。本当に可哀そうなことである。男はその女の子の頭をそっと撫でてあげた。男の眼からその女の子の姿が離れない。いつまでも離れることはないだろう。

2011年5月14日土曜日

戒名(20110514)

男は女房の分も一緒に、さるお方から大変立派な戒名を頂いている。戒名は本来戒を授けられて、俗名を改めて付けられる名前である。しかし仏教が俗化し葬式仏教と成り下がってしまってからは、戒名は一般に人が死んだあと僧侶がその死者に付けるものとなってしまった。しかもお布施の金額で戒名の文字数が違うと言う。全く馬鹿げたことである。

男も女房もそれぞれある程度人生を達観しているつもりであるので、早々と戒名を授けて頂いた。戒名を授けて下さったお方は男に向かって、「あなたは死ぬ時にはさらに修行が進んでいるだろうから‘居士’の上に‘大’を付けたよ。」とおっしゃった。男の戒名は「願真院」で始まっている。女房の方は「明光院」で始まり、「大姉」で終わっている。途中の文字はまだ修行が足りないので言えないが、それぞれ大変立派なものである。

しかし女房は昔から男よりずっと修行が出来ている。女房は小さい女の子の時から祖父にいろいろなことをよく教え込まれていた。男の方は生母が早世し、父親も男が小学生のときから傍にいなかったせいもあるかと思うが、女房に比べてまだまだずっと俗っぽい。しかし折角頂いた戒名に恥じぬよう、心正しい生き方をせねばならぬと思っている。

70歳の誕生日を過ぎて数日後、体調を崩していた女房は気弱になっていたのか、突然、「お父さん、戒名は仏具店かどこかで仏壇に飾れるように作って貰って、生命保険証書などと一緒に判るようにそこの書棚の中にしまっておいたら?」と言った。女房の体調は10日ほどで回復したが、男はこの際女房が言うように、戒名とその葬祭の契約書や生命保険証書など一式をまとめて、息子たちに判るように予め示しておこうと思う。
 
男は二人の息子たちに、自分と女房の戒名を知らせてある。わが家の祭祀のことは長男に託してある。男と女房が一緒に万一事故に遭って死んだとき、息子たちが困らぬように、息子たちには我が家の玄関のカギをそれぞれ1セットづつ渡してある。1セットと言うのは、我が家の玄関のカギは防犯上二重にしてあるからである。鍵の構造も、簡単には解錠できない特殊なものである。かといって、この家には大してめぼしい資産はないが・・。
 
人は何時、突然あの世にゆくかもしれない。物事の現象は時々刻々変わり、決して常ではない。そういうことを考えて、男はもう積み立てを終えているがある葬祭会社と契約し、自分や女房の葬式はその会社の斎場で祭壇等一式揃えて、それなり立派な葬式をやって貰えるようにしてある。さらに男も女房も個別に一定額の保険も掛けてあって、葬式にかかる一切の費用を賄えるようにしてある。
 
その上、男は女房と一緒に旅行するときの費用は、万一の事故に備えて旅行傷害保険付きのクレジットカードで決済している。そのクレジットカードを使えば、万一旅行事故死したときにはそれぞれ保険金が下りるようになっている。それは、万一突然事故死した親から、遺してゆく息子たちへのプレゼントになるものである。昔武士は殉死したり罪を得て切腹したりして、後に遺る家族の安泰を願った。同様に、男は、自分が死んだ先のことまで考えることは男として非常に重要であると思い、そのようにしているのである。

2011年5月12日木曜日

介護帰省(続き)(20110512)

 男と女房の介護帰省が始まったのは8年前母が大腸に悪性腫瘍が出来たときからである。男は帰省の都度、母がかかりつけの町医者K病院のK先生に挨拶に行ったり、盆正月の挨拶をしたりしていた。ある日その先生から遠距離電話が入った。「お母様のおなかの超音波検査をしたら56センチぐらいの影が見つかりました。精密検査を受けさせた方が良いと思います」という内容であった。

 男はすぐさま帰省しK先生に会って詳細を聞いた。そして母を横浜の自分の家に連れて来て川崎のS病院で精密検査と手術を受けさせるべくK先生に紹介状を書いて貰った。K先生はエコー写真など検査データ全部を入れた大封筒とS病院外科部長I先生宛の丁寧な紹介状を書いてくれた。

 男は母と一緒に暮らしたことが殆どなかったので母を横浜に移住させ、男の家のすぐ近くに住まわせ面倒をみようと本気で考え、近くに手ごろな家も見つけていた。

母はS病院のI先生の執刀で無事手術を終えた。後でI先生は「お母様はご高齢なので、正直な話、手術に当たってはかなり緊張しました」と語っていた。退院するときI先生は、「本当は血液内科で引き続き抗がん剤を使う治療を受けた方が良いのですが」と言っていた。しかし、母は一日も早く自分の家に帰りたがった。

一年後、I先生の言うとおり大腸にがんが再発した。男はK先生が予め連絡をしてくれていたO大学病院に母を連れて行った。ところがO大学病院に空きベッドがなく、O大学病院が候補にあげたA病院に入院させ、抗がん剤を使用して治療することになった。

男はA病院の主治医M先生に、「母のがんは治さなくてもよいです。がんと仲良く生きられるだけ生きればいいです」と言った。抗がん剤は種類が多い。M先生はK先生から送られたデータを元に、母のがんに効きそうな抗がん剤を選んで使用してくれた。それも高齢のため血球数が増えないので抗がん剤は一回の分量を減らし、期間をおいて3回使用した。すると不思議なことにがんの影が消えた。その後はだめ押しにリツキサンという抗がん剤ではない高価な薬を8回使用して、母は無事退院することができた。以後K先生が暫くの間、M先生の指示に従ってMRI検査などケアしてくれて母のがんは完治した。

母は住みなれた自分の家で気ままに独り暮らしをする道を選択した。それは男と女房が母の面倒を良く看るという条件付きである。こうして今年93歳になる母は公的な介護支援を受けながら、それなりに自立した独り暮らしをしている。

男や女房にとって母が介護サービスを受けながらでもそのように自立して暮らしてくれていることは有難いことである。それでもここ数年、母に介護サービスを提供している施設やK病院から突然、「お母様が熱を出して入院しました」とか「少し熱があり体調を崩しています」などと電話がかかってくることがある。その都度男が帰省したり、女房が帰省したりしている。年寄りの体調は急変する。男と女房は母を老人施設に入れることが出来ぬまま長期間母在宅介護をしなければならないことになるかもしれない。

2011年5月11日水曜日

介護帰省(20110511)

 男は母を看るため女房と一緒に来週早々2ヵ月ぶりに九州(K町)に帰ることにし、インターネットでスカイネットアジア航空(SNA)にアクセスして女房の分と合わせ二人分の航空券を購入した。九州に帰るのにはANAを利用して福岡空港経由で帰るか、スカイネットアジア航空を利用して大分空港経由で帰るかどちらかである。

福岡経由の場合は高速バスを利用し、大分経由の場合は空港から大分まで空港アクセスバスを利用し、大分からはJRか高速バスか、場合によってはタクシーを利用する。タクシーを利用してもSANの場合航空運賃が安付くので経費的にはトントンであまり変わらない。ただし、九州の家までの所要時間は福岡経由の方が絶対早い。

 航空運賃はどうかというと、SNAの方は65歳以上のシニア料金があり、大分と羽田間の運賃は月~金の間は何時でも定額の14170円という定額である。土日は1000円高い。 一方、福岡経由の場合は、3か月前とか早割があって、以前は片道17000円とか19000円とか、場合によっては11000円という安い時もあった。ところが最近は25000円~28000円台である。博多まで新幹線を利用する経費と大差ない。

その他のサービスについて比較すると、SNAの場合機内サービスでコーヒーとかその他の飲み物が出るが、ANAではお茶以外は有料である。SNAの場合、乗客は飛行機とターミナルビルの間はバスによる移動を行うので、その点ANAに比べ不便である。

 母を看るため年に45回九州に帰っているが、それは男にとって楽しみでもある。ところが女房にとっては必ずしも楽しいことではない。独り暮らしの母は週3回のホームヘルパーによる家事の援助、それは主として何かおかずを作ったり、母の入浴を世話したりすることであるが、その援助を受けている他、毎週1回デイサービスを受けている。

それらの介護サービスは、家族がいる場合デイサービス以外はカットされる。母に食べさせることは女房の仕事になる。母のため食事を作ってやるだけではなく、たまにしか帰らないので家庭の主婦としてしなければならないことが数多くある。女房にとって九州に帰るということはちっとも息抜きにはならない。

そのような家事労働をしなくてすむように母を一、二泊の温泉旅館に連れて行ったことがあったが、その時でも女房は母の入浴の介護をしなければならず、心が休まることはない。男の妻は誰に対しても「自分が後悔しないために」と言って真心を尽す。それが女房の生来の性分である。男はそのような女房を労り、心からねぎらってやりたいと思う。

 九州に帰った折には時々小旅行を兼ねることがある。これまで34日の鹿児島旅行や、23日の宮崎旅行を夫婦二人だけで楽しんだことがあった。母はそのとき「これは私の気持ちだから」と入れ歯のない笑顔でお金を包んで男に渡してくれたことがあった。

 今度も熊本を経て天草まで旅行しようと計画していた。しかし今回はそれができない。その理由は女房の体調がすぐれないこと、もう一つは母が将来何処かの老人施設に入所出来るよう手続きすることなど余分な仕事があるからである。

2011年5月10日火曜日

母の日(続き)(20110510)

 男は継母との電話を女房に渡した。電話の向こうで継母がまだなにかしゃべっている。女房がその母に話しかけた。「わたし、風邪をひいてしまったの。熱が出て、咳こんで二晩もよく眠れず、病院通いしていたのよ。」。電話の感度がよく、継母の声が聞こえる。

 女房はここ一週間ばかりの状況を、92歳の年寄りによく理解させるように細々と説明した後、「ごめんね。母の日の贈り物ができなかった。」と謝った。二言三言言葉を交わした後、「わたし、お母さんより先に死ぬかもしれないよ。」と言った。すると母は即座に「それは困る。あんたには私より先に死なんようにしてもらわんと。」と言っていた。

 母が毎週通っているデイサービスの老人施設では、90歳、100歳の年寄りが沢山いるという。母もこの分だと100歳以上長生きするかもしれない。母が100歳のとき、男は82歳、男の妻は78歳にもなる。しかし二人揃って生きているという保証はなない。これは二人揃って生きているという前提であるが、その頃には男と女房は何処か、O県内の老人ホームを終の棲家としてくらしていることだろう。その時には母もK町内の何処かの老人施設に入っていて貰わなければどうにもならぬ年齢になっている。

 女房は育ての親の家の大家族の中で末娘のような立場で育った。10歳年長の叔母は少し齢が離れた姉のような存在であった。ちょっと広めの家に曾祖母、祖父母、その長女である母、その下にその家の長男以下4人の弟たち、2人の妹たち、長男の嫁、そして女房が一緒に暮らしていた。女房と母は、昭和19年アメリカ軍による空襲の最中、一家の大黒柱が病死したため大阪から実家に引き揚げて帰っていた。

 女房の叔父であるその家の長男はN村の旧家から嫁を迎えたばかりであった。その母が男の家に後妻として入った後、その叔父夫婦が、4歳になった女房の親代わりとなった。女房が母の日などに贈り物をする叔母の一人は母親代わりの義理の叔母であり、もう一人は女房の10歳上の姉のような存在であった叔母である。

母親代わりの義理の叔母は大姑、姑、小姑たちのいる中でその長男の嫁は家事百般から農作業まで何もかも良くこなし、その上幼かった女房を自分の子ども同様に可愛がって育ててくれた。あれから65年以上時が過ぎ去り、皆老人になってしまった。

 女房の祖母は、自分の長女を男の家に嫁入りさせた後、幼かった女房を良く可愛がった。大家族の中で一番幼い女の子は、上の食べ盛りの男の子や女の子たちの中で、スイカなどおいしい食べ物を確保するのが遅い。そのことをその祖母はよく見ていて「これはM子のものだよ」と別にしてくれていたという。

 その祖母は婦人会の会長など幾つかの社会的活動の団体の役職についていて人望が厚かった。先に他界した祖父も町内会長や市会議員などを務め、人望が厚かった。その祖母が97歳で他界する前に女房は知らせをきいて帰郷し、死ぬ前の1週間ほどの間、その祖母を良く看とった。それまでの間、女房の義理の叔母が良く看ていた。

 女房が母の日に贈り物をする相手が3か所あるのは以上の事情によるものである。

2011年5月9日月曜日

母の日(20110509)

 母の日はアメリカで行われていた風習を明治末期、日本でも真似るようなり、特に男が生まれた昭和12年(1937年)に、多分、森永製菓が宣伝効果を考えてのことだろうが、毎年第二日曜日を「母の日」としたことがあって、一般にその風習が広まったと言われている。その日は日本国の祝日でもなんでもない。但し、昭和初期から戦後しばらくまでの間は、皇后の誕生日であった36日が「母の日」とされていたという経緯がある。

アメリカの場合は、1905年、フィラデルフィアの一少女が、自分の母親が死んだとき、その日を特別な日として、生前の母親を敬う日とした話を、時の大統領ウイルソンが伝え聞いて、国として毎年5月の第二日曜日を「マザーズ・デイ(母の日)」として祝日にした。

 男は、この日本で、「父の日」とか「バレンタインデー」とか、どこかで勝手に決めた日が、あたかも国として決めた日のごとく、その日にちなんだことが風習化されていることに多少憤慨している。しかし、その日に親子間、恋人間など親しい間柄で何某かの交流が行われることは決して悪いことではないと思っている。

 女房に、二人の息子それぞれの夫婦から「母の日」にそれぞれ贈り物が届いた。男も女房にカーネーションひと束を買ってきてプレゼントした。このように折り目節目に贈り物をされて、女房は喜んでいる。

 女房は毎年母の日に、男の名前で3か所に贈り物をしている。その3か所とは、先ず産みの親、次に育ての親である義理の叔母、そして実の叔母である。ところが今年は体調を崩したためそれが出来なかった。これまで欠かさず毎年行ってきたことが、今年は出来なかった。女房はその3か所に電話を入れ、今年贈り物を出来なかった理由を話した。

 女房の産みの親は男の継母である。その母は今年の夏93歳になる。男はその母に電話を入れた。「お元気ですか?」とゆっくりとした口調で問うと「元気です。いつもありがとうございます。」と丁寧に答えてくれる。続けて「NHKののど自慢をみた?」「誰からからか電話が来た?」「誰か遊びに来た?」などと問うて独り暮らしの状況を確認した。


 母は「だーれも来ん。」「電話も来ん。」といつもの通りの言い草である。「T子から電話なかった?」と男は聞いてみた。「T子からも電話は来んよ。」と言う。そんなことはない。これもワンパターンのいつもの言い草である。T子は男の腹違いの妹である。

 その母は、32年前に死んだ男の父親の後妻として、わが家に来た男の継母である。男の父親はその継母を妻に迎えてほどなく教師に復帰することができて実家を離れたので、男はその継母と暮らした期間は数年間である。

一方、女房は継母がわが家に後妻として入ったとき4歳だったが、継母の実家に残された。以来、10数年間、母娘離れ離れに暮らしてきた。

男はわが家の長男である。男も女房も、男がわが家の長男であるという立場でその母と深い縁がある。特にその母がもう完治したが8年前がんを患って以来、夫婦二人一緒に年に4、5回帰省したりして、これまでずっとその母の面倒をみてきている。

2011年5月8日日曜日

元軍医先生の突然の死(続き)(20110508)

 女房は掛かりつけの耳鼻科の先生のことを「おじいちゃん先生」呼んでいた。男も過去に二度ほどその先生に診てもらったことがある。その診療所は非常に狭いワンフロア―で、受付と診察場所と治療場所と待合場所が何の仕切りもなく分けられていて、患者には自分の順番がくるまでの間、先生の話声や受付の応対の様子や、治療器具を操作する看護師の声など、何もかも全部が聞こえ、全部まる見えに見える。

男は、自分の順番が来て診察と治療を終えた後、先生に「家内が先生に大変お世話になっています。」と礼を述べた。先生は、カルテに書かれている男の名前をじっと見つめて、男と同じ名字の女性の名前を思い出し、「ああ、Aさんだね。」言った。その様子も他の患者やスタッフ全員に否応なしに知れ渡る。

 そのような狭苦しいごちゃごちゃした診療所で、元軍医のその先生は他界されるまでの44年間働いていた。先生に助手は居ず、自分の孫娘のような看護師や薬剤師や受付の女性たち3、4人が先生の手足となって働いていた。先生は皆家族のような女性スタッフに囲まれて楽しそうに、気楽に診療をしていた。先生は1時間以上も順番待ちをしている患者のことなど一切お構いなしであり、患者もそのことを気にしていないふうであった。

患者の中には先生と長いお付き合いのある老婦人がいた。その老婦人は先生に何か贈り物を届けたらしい。その話も開けっぴろげに皆に聞こえる。患者は皆まるでお互い知り合いのようで屈託ない。男もその場の雰囲気に慣れ、小声で隣の患者と言葉を交わす。患者は皆その先生を尊敬し、その先生に全幅の信頼を置いている様子であった。

 その先生が信頼されている理由の一つに、その先生には全く欲が無いことがある。そして、先生は患者に心から寄り添い、患者にとって最も適切な治療を施してやっていることである。女房は毎年花粉症に悩んでいたが、その先生のお陰で今年も全く平気だった。

その先生が処方する薬は、先生の指示に従って薬剤師の女性が取り揃えている。薬剤師は自分が取りそろえた薬の名前と内容が間違いのないかどうか先生に確認して貰っている。その様子が皆に聞こえる。患者はそのこと一つをとっても、先生に信頼を寄せる。

そのような先生であったから、先生は、皆、と言っても特に高齢の女性が多いが、患者たちからその他界を惜しまれ、「これからどうしょう」と思われ、一方で、先生のように齢をとってから皆に迷惑をかけぬうち、元気なうちにある日突然ぽっくりと逝きたいと思われたりした。

女房は自分自身がそのような死に方をしたいと常々思っているから、その先生の耳鼻科が閉鎖されるという張り紙を見て驚くと同時に、先生は善い死に方をしたのだと思った。

しかし男は、完璧なほど立派なその先生でも若い軍医のころには、何か失敗があったに違いないと思った。その理由は、男自身もこれまで自分が歩んできた人生を振り返り、自分はこの齢になるまで、数多くの失敗や恥ずかしいことがあり、それが積み重なって今日の自分があるのだと思っているからである。しかし、その先生は男とは違うかもしれない。

2011年5月7日土曜日

元軍医先生の突然の死(20110507)

 女房はついこの間70歳になった。男が住む横浜市では、70歳になると希望者には市営バスや地下鉄に乗れる「敬老パス」が与えられる。女房は、その「敬老パス」を貰えることをとても楽しみにしていた。このパスは無料ではなく、年収により支払額に差がある。

 女房は、このところインフルエンザにやられたのか体調不良が続いている。夜中に咳が出てよく眠れず体力を落としている。かかりつけの耳鼻科も連休中で休みになり、女房は近所の懇意にしている内科に行き、抗生物質と腫れや痛みを和らげる薬・出血を抑える薬とツムラの麻黄附子細辛湯を処方されていたが、症状はあまり改善されていない。

 そこで女房は、連休が明けた今日、「敬老パス」を使ってバスに乗り、そのかかりつけの耳鼻科に行った。行ってみたら「先生が亡くなった」という内容の張り紙がしてあったという。電話の向こうで女房は、「びっくりしたわ。あんなにお元気だったのに。これからまたバスに乗って、S病院に行きます。」と言う。

男は女房の体調を心配して「大丈夫か。俺もS病院に行くよ。」と言うと、「大丈夫よ。それよりも、干してある布団を取りこんでおいて。」という。女房は37度ほどの微熱があるが、ここ1週間ほど日に干していない自分のベッドの寝具をベランダに干していた。

女房は、お天気が良ければ必ずと言って良いほど、毎日のように寝具を干す。男の寝具も一緒に干したり、他の洗濯物が多い時は日変わりで干したりしている。女房は根っからの綺麗好きで、こう言えば「そんなのじゃない」と怒るが、「炊事・洗濯・お掃除大好き」な、典型的な主婦である。子育ても「暖かな家庭にしたい」と必死の思いで二人の男の子を育て上げた。男はそのような女房を、もう50年間も伴侶にしている幸せ者である。

男がまだ現役のころ、そのような家庭第一の女房に不満を漏らしたことがあった。その時、芸大生であった息子は、「お母さんは家事という面での性能が特に優れている。」と言ったことがあった。しかし「他方の面では劣っている部分がある。」とまでは言わなかった。
 
ある日、男が女房にその息子が言ったことと言わなかったことの全部を言ったことがあった。そのとき女房は非常に怒った。男に直接怒りをぶっつける代わりに、その息子に対して怒りの感情をあらわにしていた。しかしそのことはすぐ忘れてしまっていた。女房の最大特徴は、おおらかさと無類なまでのこころの暖かさと優しさである。

S病院に着いた女房から電話が来た。「S病院の耳鼻科にいます。隣の方が言ってましたが、金曜日の先生はとても良い先生だって。良かったわ。」と元気そうな声である。男は「大丈夫か」と一応気遣いしてみせたが、この分なら心配ないだろうと安心した。

 高齢のため、突然他界してしまった元軍医の耳鼻科の先生は、とても懇切丁寧に診察し、完璧に治療してくれる名医であった。ご高齢であったが若く見え、矍鑠としていた。その耳鼻科は患者に大人気で、何時行っても自分の順番がくるまで2時間近く待たされていた。

女房はその元軍医の先生に全幅の信頼を置いていた。人生は無常である。いつもの通りの幸せが、いつまでも続くという保証は全くないのである。