2010年3月31日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(11) (20100331)

仲間由紀恵が主演する『ごくせん』というテレビ番組をたまたま観た。この番組は最終回であった。仲間由紀恵は大江戸一家の‘お嬢’で3D組のクラス担任である。このクラスはいわゆる‘ワル’ばかりが集まっているクラスで、他校のワルどもと張り合って喧嘩をする。お嬢は大江戸一家での躾や訓練がよく出来ているのか、若い女でありながら腕っ節が滅法強い。そこらのワルども敵ではない。相手が鉄パイプで殴りつけてきても武道の心得がよく出来ていてさらりとかわし、相手の逆手をとってやっつけてしまう。

この番組を観て思ったことが四つある。まず第一は、この‘先こう’はワルの教え子たちを心から、しかもものすごく愛している。第二は、人が生きる上で踏むべき正しい道を、非常に厳しく教えている。第三は、情にもろいお姉さんのような、母親のような人である。第四は、一人対多人数の徒手戦闘に滅法強い武道の達人である。つまり、「情熱」「誠実」「女性」「武道」の四つのキーワードで、この女の‘先こう’を語ることができるのである。

最も肝心なことは、この女の‘先こう’が向かうところ敵なしの武道の達人でなければ、他の三つの要素が如何に優れていても、ワルたちはついては行かないだろう。簡単な言葉でいえば、暴力を抑えるにはそれに勝る力でもって対抗しなければ、相手は服従しない、ということである。如何に道徳的なことを言い態度で示しても、相手はせせら笑ってついて行かないだろう。同じことが、組織対組織、国対国の関係でも言える。わが国が近隣諸国から尊敬される条件の一つは、自衛隊、海上保安庁、警察という、ある意味で優れた‘力’を持っているからである。わが国が中国を脅威と感じるのは、彼の国の軍隊が膨張し続け、東シナ海からアメリカの影響力を排除しようと意図して、現実に行動しているからである。わが国が北朝鮮を嫌うのは、彼の国が人々の暮らしを犠牲にしてまで核武装をし、その能力をさらに高めようと意図し、現実に行動しているからである。

社民党は非武装中立を党の中心的理念として掲げている。その社民党と組んだ民主党は、今その足かせに苦しんでいる。反小泉路線を掲げる国民新党は、その党首の、人々には‘遺恨’のように見える言動に、眉をひそめている。連立の矛盾は初めから分かった上で連立を組んだのであろうが、リーダーが余りにも優柔不断なそぶりを見せ続けたため、普天間の問題で、今非常に大きな壁に突き当たっている。この矛盾を解消するには、一定の‘手みやげ’を持たせて連立を解消し、公明党やみんなの党や自民党の一部または全部と大連立を組むしかないと思う。それをやれる人物は、一人しかいない。彼は目的のためなら何でもやる人のようである。そういう人でないと、その大仕事は成就しないだろう。

さて、ブッダ『感興のことば』第1章は42番まであるが、第2章に移る。
1 愛欲よ。わたしは汝の本(もと)を知っている。愛欲よ。汝は思いから生じる。わたしは汝のことを思わないであろう。そうすれば、わたしにとって汝はもはや現れないであろう。

2010年3月30日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(10) (20100330)

 NHKスペシャル人体製造の衝撃という番組を観て考えさせられた。ヒトの幹細胞で何でもできるのだ。豚に移植して人間の肝臓を作ることも、女の幹細胞から精子を創ることも、免疫の型が全く同じ兄弟姉妹を創ることも、である。

 イギリスでは議論の末、200811月に‘救世主兄弟’という免疫の型が全く同じ兄弟(姉妹)を厳しい条件付きで創ることを認める法律が作られたという。その条件とは、救世主兄弟が提供するものは血液の病気の治療に限るというものである。アメリカではそのような法律はなく、両親と医師の間の話し合いで決定することが奨励されている。日本では会議はよく開かれるが議論がなされていない状況であるという。これは、アメリカ人の半数はDRD4遺伝子の繰り返し頻度が7回の人であるのに対し、日本人では4回の人が殆どであるということがそのような状況を作り出しているのだろうか?7回の人は新しもの好きな性格で、4回の人は内気であるという。日本人は「和を以って尊しと為す」国民なのだ。

 日本では国際的に厳格な基準で認められている施設で、豚に人間の肝臓を創らせる研究が行われ、種の異なるマウスとラットの間で実験が成功している。つまりマウスにラットの肝臓を創らせることに成功したのである。人体改造で若返りも可能になる。

 救世主兄弟は、受精卵が分裂を始めて8個になったときその中の1個を取り出して免疫の型を調べ、一致したものを母体に入れて免疫の型が全く同じ子供が創られとき、その子供のことをそう呼ぶ。アメリカではケイティという女の子が、救世主兄弟で弟・クリストファーの骨髄で病気を治療し、成功している。受精卵の分裂が8個になったとき、そのうちの1個を取り出しても、残りの7個で分裂が進み、胎児として成長するということである。クリストファーは、父親である夫の精子と母親である妻の卵子を体外受精させ、受精した23個の卵を次々調べ、ケイティと免疫の型が全く同じ受精卵を見つけ出して、妻の子宮内に着床させ、生れた男の子の名前である。極端に言えばクリストファーは人造人間である。

 アメリカではマーク・ヒューズ医師は103の救世主兄弟を創ることに成功しているという。またザボス医師は中東のある国で認められているクローン人間創りを試みているという。救世主兄弟は、兄弟(姉妹)が重い病気になったとき、例えば腎臓の2分の1、肝臓の半分、骨髄、皮膚などを提供する役割を担わされるべく、この世に生を受ける存在である。将来、自分が病気になったときのために、若い時に自分の幹細胞を保存しておけば、自分の寿命を延ばせることも、若返ることも可能になるらしい。その費用は150万円であるという。

 人体製造の技術は驚異的である。今後ますます発達するであろう。製造される人体と仏教の哲理とは対立するものでるのか、そうでないのか?私の哲学の思索の新たな課題が出て来たと思う。クリストファーの両親はケイティの命を救った。しかし本当に救うことが出来ているのだろうか?よくよく突き詰めて考えれば、答えは‘否’である。

40 子も救うことができない。父も親戚もまた救うことができない。死におそわれた者にとっては、かれらも救済者とはならない。

2010年3月29日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(9) (20100329)

 大腸がんで入院中の叔母に見舞いの花束を贈った。花束にはメッセージを添えた。メッセージの書き出しは「病の苦しみを察します。」である。叔母は94歳、このお正月には大変元気でお餅も沢山食べた由。戦争で夫を失い、まだ若かったが祖母に「辛抱しなさい」と励まされ、まだ舅や姑が存命のころ、二人の息子たち、二人の娘たちを育てながら、家業の農業に励んだ。長男は私より年長である。

 彼女の夫はビルマ戦線で戦死した。戦争未亡人として戦後を生きた。靖国神社には何度か行ったことがあると話を聞いている。その靖国神社や千鳥が淵にはそろそろ桜が満開の時を迎える。彼女は今病院で、あの世に逝けば夫に会えると思っているだろうか?

 花はインターネットで購入して届けて貰った。以前から日比谷花壇を利用しているが、ここは全国的なネットワークで利用客に良い情報を提供している。届け先に近い花屋さんを見つけ出すことができ、メッセージカードも台紙の背景を選ぶことができ、書いたメッセージの配置なども確認することができる。支払いはクレジットカードの他、コンビニで支払うことができるようになっている。

 男は自分の個人情報の流出が気になるので、今回コンビニでの支払いを選択した。支払先のコンビニのチェーンを選択し、印刷ボタンを押すとバーコードがある伝票が出る。それをコンビニに持って行けばカウンターですぐ支払うことができ、花屋さんから「入金があった」というメールがすぐ届く。花は出来るだけ早く届けてもらいたかったので、指定日よりも早く届けてくれるようにメールを返信したら、昨日それが届けられ、家族が叔母の入院先の病院に持って行ってくれると連絡があった。

 今の時代、インターネットを使いこなせない人はある意味で損である。昨日把瑠都が大関昇進を確実にした。彼の故郷エストニアで両親がインターネットで息子の取り組みを観戦している。その様子がテレビで紹介されていた。

 今朝、男はアメリカのサンディエゴに住む同じ年の友人・エルサに誕生日のお祝いの電話を入れようとSkypeで連絡を試みた。彼女は不在であったので話ができなかったが、このシステムを利用すればアメリカの固定電話に対する通話料は1分間0.017ユーロである。ユーロはクレジットで予め購入してあり、使った額が自動的に表示されるので、残額の確認ができるようになっている。相手が同じSkypeを使うことができれば、Skype同士では世界中どこにいても通話料は無料で、しかもウエッブカメラを使えばお互い相手の顔を見ながら話ができる。
今日は花曇りである。近くの川の堤防には20数年前桜の木が植えてあって、もうすぐ満開となる。20数年前の当時は堤防の上は舗装されていなかった。この川辺は年々美しくなっている。都会地のウオーターフロントの風景は、何とも言えない良さがある。妻と二人でこの川辺の風景を楽しみながらウオーキングをしようと思う。
32 歩んでいても、とどまっていても、ひとの命は昼夜に過ぎ去り、とどまりはしない。河の水流のようなものである。

2010年3月28日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(8) (20100328)

NHKハイビジョン特集『「復元・幻の大寺院」新薬師寺・天平の謎に挑む』を観た。夜9時半から『大発見謎の小型人類』に続き11時から約2時間の番組である。この遅い時間帯にこのような番組を観る人はそう多くないであろうと思う。後者の番組は元々古代のお寺や仏像に関心が深い妻が「観たい」と言い、私もインドネシアで17千年前に生きていたという全く別種の人類に関心があったので引き続き観たのである。
小型人類の方は成人の背丈が子供ほどで、脳の容積が400ccほどしかないのに鋭利な石器のナイフなどを使い、狩猟もしていたことが分かっている。人類の系統上常識外のことなので各国の学者の重大関心事となっている。彼らは我々の祖先である脳容積1350ccのクロマニヨン人類に追われたり、ウイルスに侵されたりして最期の生息地となったインドネシアの洞窟で滅びしまったのだろうか?
新薬師寺は8世紀、聖武天皇のお妃となった藤原の光明子が建立したものである。10世紀に倒壊してしまったが古文書にその建立の設計、資材、方法、建立のための組織など記録が残されている。奈良でその遺構が発見されその規模の大きさに関心が集まり、それぞれ専門が異なる学者たちが連携してコンピュータ上にその復元の作業を行っている。
学者たちはその作業の参考にするため中国遼寧省にある奉国寺を訪ねた。そのお寺は11世紀に建てられたもので、新薬師寺の規模に匹敵する大きさである。学者たちはその奉国寺で上記古文書の記録にある七仏などの配置状況、柱の間取りなどを復元の参考にした。
天平の時代、当時の日本は先進国の唐に追いつき、追い越そうと必死の努力をしていた。聖武天皇やその皇后・光明子は、仏教の振興、仏教による国論の統一、仏教による人々の救済などを国策の中心に据え、国を指導した。聖武天皇が薨去された後、光明子は天皇の御冥福を祈念して御遺愛品など六百数十点を東大寺の本尊盧舎那仏(大仏)に奉献された。その品々は同寺の正倉(現在の正倉院校倉宝庫)に収蔵された。
明治政府は列強諸国に追いつき、追い越そうとして必死の努力をした。悲惨な結果に終わった大東亜・太平洋戦争を経て、今日わが国はアメリカとの同盟をてこに中国に対峙し、ゆくゆくはアメリカと肩を並べようとしている。資源を外国に求めずとも四面海に囲まれたわが国が、もしすべての資源を海に求めることができるようになれば、またあまり認識されてはいないが世界に有数の農林業(潜在的)大国であるわが国が、食料の自給率を100%近くまで高めることができれば、わが国は世界のリーダーとなる可能性がある。
我々日本人の祖先は、ナウマン象やその他の獣たちを追い、食料を求め、生存競争に勝ったグループが7つの方面からこの日本列島に辿りつき、混血し今の我々日本人となった。その遺伝子は今日、わが国を世界の中心に導く可能性を秘めているのではないだろうか?

30 たとい百歳をきたとしても、終(つい)には死に帰着する。いか、病いか、またはが、この人につきそって殺してしまう。

2010年3月27日土曜日


ブッダ『感興のことば』を学ぶ(7) (20100327)

北朝鮮を旅行した人が書いた記事を読んだ。「市内には至る所にあきれるほど多くの記念碑的創造物が建立されているが、その中でひときわ目立つものが高さ170メートルのもので夜にはライトアップされる主体思想塔。・・(中略)・・塔基部に約67坪の空間があり、壁面に開口部を除いて賛助国の団体の銘板が埋め込まれている。長方形(約横40、縦15センチ)の大理石板に母国語で彫刻されたもので、・・(中略)・・「主体思想研究会、○○県教職員組合」がなんと9枚、関西圏が主で西日本では岡山と広島があった。」という。
中国の「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」(日本では「南京大虐殺記念館」と呼ばれている)の建設は、設計も含め日本からの支援により行われた。元日本社会党委員長であった田辺誠が1980年代に総評から3000万円の建設資金を得て南京市に寄付したという。
先般国会で義家議員が厳しく追及していたが、今話題になっている北海道教職員組合では、鳩山総理の出身地の小学校の組合員に国旗・国歌に対する敬意を表さないように、勤務時間中にFAXで通達していたという。
北海道のどの学校かは知らないが、「竹島は韓国の領土である」と教えていたそうである。夫婦別姓とか外国人参政権とか、これまで多くの国民の琴線に触れるようなことは国会で議論されることはなかったが、民主党政権になって積極的に推進されようとしている。
政治活動に熱心な先生たちとは少数であろう。しかし、彼らが組織の中核になっている。大多数の先生たちは真に子供たちのことを思って教務に励んでいるのだと思う。その中には教育に非常に熱心な先生たちも少なくないであろう。
遺伝子DRD4の繰り返し頻度は、殆どの日本人では4回、アメリカ人では4回と7回の割合が半々であるという。この遺伝子の繰り返し頻度が多い人たちは感度の低いドーパミン受容体しか作れない。そのため満足感を得るには大量のドーパミンを放出する必要があり、強い刺激を求める傾向が強くなってしまう、という仮説が提案されているという。
政治活動に熱心な先生たちも、教育に熱心な先生たちもDRD4遺伝子繰り返し頻度がアメリカ人ほどではないが多い人たちなのだろうと思う。大部分の先生たちは日本人の平均的性格(遺伝子DRD4繰り返し頻度4回)であろうから教務には励むが争いを好まず、長い物に巻かれるタイプかもしれない。長い物が誤った方向に集団を導くと悲惨な結果に終わる。そのことに気付いた民主党副幹事長生方氏は公に発言し、話題になっている。
奈良の法隆寺に安置されている釈迦像は天智天皇が命じて造らせたもので、白村江の敗戦後唐がわが国に侵攻してくることを恐れ、聖徳太子の遺徳にすがって国内の豪族たちをまとめるためだったという。優れた指導者がいないとこの国は危険にさらされるのだ。DRD4遺伝子の繰り返し頻度が4回である人が殆どであるというこの日本では、多くの一般大衆が賢くなければこの国は滅びることになるだろう。

28 いとも麗しき国王の車は朽ちてしまう。身体もまた老いに近づく。しかし善い立派な人々は互いにことわりを説いてきかせる。

2010年3月26日金曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(6) (20100326)

ヒトのゲノムの解読が進み、ヒトの全遺伝子の99%の配列が99.99%の正確さで判明しているという。この結果、やがてはガンやアルツハイマー病などの疾患の治療に役立つようになるという。将来、自閉症などの知的障害やうつなどの精神障害も遺伝子治療で克服されるようになるかもしれない。
Newton『知りたい!遺伝のしくみ』によれば、野菜の好き嫌いとかお酒に強い弱いということの原因となる遺伝子が発見されているそうである。また放火やレイプや露出癖などの衝動的な行動や攻撃的な行動をとる遺伝子も見つかっている。好奇心旺盛か内気かという気質の原因となる遺伝子も見つかっている。アメリカ人には新しもの好きで好奇心が旺盛である気質の遺伝子を持つ人が多く、日本人はその遺伝子が少ないという。
スポーツで特別な能力を示す遺伝子も見つかっている。スプリンター向きとかマラソン向きとかヒマラヤ登山向きというそれぞれの能力を発揮できる遺伝子である。身長に関わる遺伝子も見つかっている。ヒトの個人差にまつわる遺伝の多くは多因子遺伝であるが、顔つきはメンデルの法則に従うという。知能に関わる遺伝子はまだ見つかっていないが、頭がよい者が多い家系は実際にある。知能に関わる遺伝子は将来必ず見つかるだろう。
日本列島には北方、西方、南方各方面から人々が移動してきた。縄文人と渡来系弥生人との間で対立はなく混血が進んだ。われわれ日本人の遺伝子の構成は非常に複雑である。
わが国は、国土は狭く人口も多い。情報通信や交通機関が高度に発達している。そのため人々の移動も活発で、移動先で男女が結ばれる機会も多い。そのようなわが国では遺伝子の拡散が一層進むと思う。全国至るところに頭のよい人も頭が悪い人も、運動能力の高い人も低い人も、身体障害や知的障害や精神障害のない人もある人も増えてゆくことになると思う。社会福祉や医療技術が発達しているので、健常者も障害者も寿命が延びるだろう。
わが国でもし遺伝子治療の発達が遅れ、道徳を高める社会的仕組みの構築が遅れるならば、昔はそうでもなかったが、これからはごく普通の家でも、家族の中に障害者がいる家庭が増えるのではないかと思う。罪を犯す者がいる家庭が多くなるのではないかと思う。
遺伝子治療のことは、その基礎的な研究に国家予算が投入されるようなので、国としても真剣に取り組むことになっているようである。それはそれで良いのであるが、近年、犯罪が増えているように思う。それは遺伝子の拡散が影響していないだろうか?遺伝子が関わる社会的諸現象について、国として関心を持つ必要があると思うがどうだろうか?
「現代の自然観と仏教(仮題)」というテーマを掲げて哲学を始めているが、何かとんでもない大きなものにぶつかっているように思う。私にはアメリカ人に多いという好奇心が旺盛である気質の遺伝子「DRD4遺伝子」があるのかな?
26 この世においては、過去にいた者どもでも、未来にあらわれる者どもでも、一切の生き者は身体を捨てて逝くであろう。智ある人は、一切を捨て去ることを知って、真理に安住して、清らかな行いをなすべきである。

2010年3月25日木曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(5) (20100325)

今の政治を見ていてふと思った。執着心の強いある人が、その執着心のためにある政党を創建し、その党勢を拡大させるが、やがて人々の信頼を失い、国を危険にさらす。国の為という大義を掲げ、実は自分のために行動をしている。人々は象徴天皇を敬愛しつつ、真に国のことを考えてくれる政党の出現を願っている。次の選挙でその意思を示すだろう。
朝起きて、そのようなことを考えながら次の詩を作った。題して『誠』

何か問題が起きたときは、原点に立ち戻り
考え直せばよい。
原点に立ち戻るには、執着を断てばよい。

執着を断つには、自分自身が無の気持ちになればよい。
無の気持ちになるには、誰を頼るのでもなく、
自分自身だけを頼りにすればよい。

自らを危険に近づけるのは、君子の道ではない。
自ら危険に近づくのは、それに執着があるためである。

自らに危険が迫れば、まずそれを避ければよい。
避けようとしないのは、執着があるからである。

どうしても危険を避けることが出来なければ、
死を覚悟で戦えばよい。
戦い仮令死すとも、その名は残る。

昨日、書店でNewtonの『知りたい! 遺伝のしくみ』と『細胞のすべて』という2冊の図書を買ってきた。結構値段がするものである。しかし、放送大学で「分子生物学」などを勉強するため参考にしたいと思ったので買った。
これを読んでいて遺伝の怖さが分かった。人の外見はもとより能力、性格、病気などは遺伝の影響がある。人の個性は遺伝子だけでは決まるのではなく、環境が密接に影響しているというが、それは、ある意味で‘安心’をしたいためであると思う。

24 悪い行いをした人々は地獄におもむき、善い行いをした人々は善いところ(=)に生まれるであろう。しかし他の人々はこの世で道を修して、汚れを去り、安らぎに入るであろう。

2010年3月24日水曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(4) (20100324)

 男は一昨日NHKETV特集「死刑囚・永山則夫 獄中28年間の対話」という番組を女房と二人で観た。妻が観ようとしなかったら自分も観ずにいた番組である。

 本人は4人も殺したのだから死刑になるのは当然で、死刑になりたいと言いながら、自分をここまで追い込んだ社会の在り方を批判し、公判でもその考え方を主張していた。地裁で死刑の判決を受け、東京高裁に送られた。東京高裁の裁判長は彼の悲惨な生い立ちを憐れみ、無期の判決を下したが、その論拠は「すべての裁判官が死刑を当然と判断せざるをえないような事案でなければ死刑の宣告はできない。」という趣旨のものであった。これに対して検察は、それは死刑廃止につながる判断であると反対し、上告し、最高裁では差し戻しということで死刑が確定した。

 東京高裁で無期の判決が出たとき、彼はある女性と獄中結婚していた。彼女は彼の生い立ちに自分自身の生い立ちを重ね合わせ、彼との愛を深め、共に同じ屋根の下で暮らすことはないことも覚悟の上で彼と精神的な結婚生活を送った。彼女は彼の贖罪の行動の願いを入れて、外に出られない彼に代わって被害者の遺族の家を回り、謝罪し、彼が獄中で書いた本の印税を被害の遺族に渡し、一部の遺族から受け取って貰っていた。

 彼は自分をそのような人生に追い込んだとする社会を批判しながらも、無期の判決が出たときは生きて罪を贖う気持ちも出ていた。しかし最高裁からの差し戻し判決により、その気持ちは打ち砕かれた。かれは彼女と離婚した。再び社会への批判を強め、望み通り死刑に処せられた。判決文には「改悛の情がない」旨書かれていたようである。

 この番組を見て男も女房も重い気持ちになった。先ず、彼の幼少時代のような貧困である。ばくちに明け暮れる父親とカタカナの文字しか書けない無教育の母親、そしてまだ4歳であった彼を、まだ児童の姉、兄たちと共に置き去りにして、逃げるようにして郷里の青森に去った母親、そういうような生活も心も本当に貧しい人がいたという現実である。男も女房もまだ見ていないなかったが、この実話が映画になったということである。

 上の大きな子供たちはともかくも、まだ4歳の子供を置き去りにはできない、どんなに貧しくても人に助けを求めることはできるだろう、彼を生みの母親憎さゆえに自暴自棄の凶悪犯罪に駆り立てたもの何だったのか。

 男は死刑制度について女房と語り合った。地下鉄サリン事件で死刑の判決を受けた者たちの中には改心しない者もいる。改心して死刑により罪を贖いたいと考えている者もいるだろう。そのような凶悪な、社会を不安に陥れたような犯罪行為は厳しく処断されるべきである。彼が最期まで自分をそのような不幸に陥れたのは社会が悪いといって、裁判官に「改悛の情がない」と言わしめた者に対して死刑は止むを得なかったのではないかと男は思う。

23 生きとし生ける者どもは死ぬであろう。生命は終(つい)には死に至る。かれらは、つくった業(ごう)の如何にしたがっておもむき(それぞれ)善と悪との報いを受けるであろう。

2010年3月23日火曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(3) (20100323)

この日本で優れた素質を持った人々も難病で苦しむ人々も、凶悪な罪を犯す人々も増えてゆくのではないかとふと思った。
一世代が平均25年間だと仮定し、仮に千年前に遡って両親の数を計算して見ると、240乗という数になる。これは13桁、つまり一兆人という数になる。勿論、千年前にこの日本に一兆人もの人口がいたわけではないから、今の私たちの祖先はかなり重複していることになる。また昔は人口移動が限られていたからその重複度は相当密度が高くなる。
逆に千年前の一組の両親から現在一兆人の子孫がいる計算になる。勿論今の日本に一兆人もの人口は居ないから、私たちは千年前共通の両親がいた割合は相当高いと考えられる。
この日本国内での人口移動は奈良・平安時代朝廷の政策により推進されたが、戦国時代には武士の、或いは落ち武者の移動があり、幕末には平民の軍隊が組織され、移動し、特に明治以降富国強兵政策の下、全国民が平等の身分になり軍隊が組織され、全国規模の企業活動が行われるようになって人口移動が進み、遺伝子の拡散が進んだ。
今では交通や情報通信が高度に発達し、企業活動も国内や海外で非常に活発になり、人口移動はさらに進んでいる。そればかりではなく結婚も家柄や国籍などに縛られることなく全く自由になった。その結果、遺伝子はさらに広く拡散している。
同じ親から生まれた兄弟姉妹でも、単純な計算で親から2分の1の遺伝子しか受け継いでいない。まして、上記のように遺伝子は拡散している。そうすると冒頭に書いたように、優れた素質も拡散するが、難病などの悪い因子も拡散する。この日本で優れた人材も数多く出るが、一方でALS(筋萎縮性側索硬化症)患者や自閉症など知的障害者や、がん患者が出る家族歴が重視されるようにがん患者も多くなる。
遺伝子治療の技術が進めばそれらの患者や障害者の増加を抑制することが出来ると思うが、日本のような高度な社会では福祉や医療が一層改善されるので、寿命も延び、それらの数が減ることはないと思う。遠い将来、非常に優秀な子供がいる家族も増えると思うが、同じ家族の中に遺伝性の難病や障害者もいるという家庭も増えつづけるのではないかと思う。
日本のような高度な文明社会では、人々は血の濃さに多少があっても皆血縁関係にある。皆一つ屋根の下の家族のようなものである。人々はそのことを認識するようになるのではないかと思う。その前に、難病や障害者の増加に付け込んで、オカルト宗教や似非仏教の団体が活動を活発化する。すでにそのような兆候がある。そのような活動に人々が惑わさないようにする必要があると思う。宗教法人の定義を厳密にする必要があると思う。

ブッダ『感興のことば』第1章つづき;
21 男も女も幾百万人と数多くいるが、財産を貯えたあげくには、死の力に屈する。
22 いくら財産を貯えても、最後には尽きてなくなってしまう。高い地位身分も終(つい)には落ちてしまう。生命は終には死に至る。

2010年3月22日月曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(2) (20100322)

「子供を社会全体で育てる」という理念は良いと思う。ただ、これまで誰も言っていないようであるが、子供を社会全体で育てるため5.5兆円もの国家予算を投入することになる以上、社会のためどのように子供を育てるのかという視点が是非必要であると考える。
その額よりも低い防衛予算を割り当てられる防衛省は、法律により国の安全を守る義務が課せられている。自衛隊員は「身の安全を顧みず任務を果たす」と宣誓している。しかしそれよりも多い国家予算を投入する教育の現場で、公的な義務が明文化される動きはない。
かつてのナチスドイツのヒットラーユーゲントのように、子供を国家の目的のために特別な教育を行うようなことは論外であるが、少なくとも反国家的ではない方向に子供を育てるという考え方は無くてはならないのではなかろうか?
国旗や国歌に対する敬意を示すことを教えることは最低限必要であるし、公衆道徳や隣人愛ということの大切さを実践的に教えることは義務付けられるべきではなかろうか?
権利には義務を伴うこと。学校や家庭内で皆で話合って決めたルールは必ず守らなければならないこと。そのようなことを一定のガイドラインに従って教育の現場で教え込むことは必要ではなかろうか?  
国会の論議をテレビで視聴していたら、北海道の教組は勤務時間中にFAXを使って国旗や国歌に敬意を表さないことを指導したという。新着任の校長にペーパーを示し、自分たちの言いなりになるようにチェック項目にチェックを入れさせ、署名させたという。これは北海道だけのことではあるまい。由々しきことである。
選択制夫婦別姓の法案の取り扱いは子供の将来を考えて慎重の上にも慎重に取り扱われるべきである。地下鉄サリン事件など凶悪な事件については、被害者のご遺族や重い後遺症に苦しんでいる人たちの小さな声に耳を傾けるべきである。政権政党は声なき一般大衆の思いに心を致し、選挙で勝つことだけを考えず、損得抜きに考えて行動して欲しいと思う。そうしなければ決して一般大衆の支持は得られず、選挙で大敗するであろう。

『感興のことば』第1章つづき;
3 諸のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。
8 「わたしは若い」と思っていても、死すべきはずの人間は、誰が(自分の)生命をあてにしてよいだろうか? 若い人々でも死んで行くのだ。男でも女でも、次から次へと。
14 死刑囚が一歩一歩と歩んで行って、刑場におもむくように、人の命も同様である。
18 昼夜は過ぎ行き、生命はそこなわれ、人間の寿命は尽きる。小川の水のように。
20 「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

2010年3月21日日曜日

ブッダ『感興のことば』を学ぶ(1)(20100321)

ブッダ「真理のことば」の詩は全部で423あった。長い日数をかけてゆっくり読んでいったが、私なりに得るところは非常に多かった。今から約2500年前のお釈迦様の語録であるパーリ語の原典『ダンマパダ』が中国の三国時代(220280年)の呉の国で漢語に翻訳されたものが『法句経』である。中村元や友松円諦ら現代の学者はその『法句経』を参考にパーリ語やサンスクリット語の原典から再翻訳したものが『真理のことば』である。これまで「真理のことば」と書いてきたが、釈尊の語録として『』で囲むべきであった。
今から約700年前夢窓疎石という人は「一日の学問千載の宝、一書の恩徳万玉に勝る」と足利氏ら当時の指導者に説いている。今に生きるわれわれ日本人はこのような先達に恵まれていることを大変有り難く思わなければならないと思う。(関連記事:2009102日金曜日、「夢窓国師の作詞『修学』(20091002)」、関連吟詠:http://takaban.seesaa.net/2月の吟題『修学』(夢窓疎石)」)
情報過多で巡るましく変わる現代社会にあって、われわれはとかく自己を見失いがちである。かくいう私自身もそうであった。今毎日が日曜日のように日々を過ごすことができる身分になって、初めて先達の有り難さが身にしみて分かるようになった。
今から約800年前、西行は「一日を一生として興究(きょうきわま)りなし、老楽はただ至善を行うにあり」と詠った。古の賢人たちは「幸せな生き方」の根本がブッダの教えにあるとよく分かっていた。(関連記事:20091210日木曜日、「老楽は唯至善を行うにあり(20091210)」、関連吟詠:http://takaban.seesaa.net/1月の吟題『至善』(西行)」)
そういう人たちは若い時から先輩の教えに導かれ、勉学にいそしみ、自らに厳しく修行し、その結果会得し、そして会得したとおりに無為自然のうちにできるように体得し、最も幸せな生き方が何であるかということを書き物により後世に遺した。そのような本当の宝が今を生きるわれわれの手の届くところに散らばっている。それを求めようと思えばすぐ手に入る。こんな有り難いことはないのだ。日本は有り難い国なのだ。
私はその宝を大事に頂きながら、現代人の精神の混迷を無くす道が何であるか探ってゆきたいと思う。まるで視力を失った人が象をなでてそれが何物であるか分かろうとするようなものである。私にとってとてつもなく大きな課題である。

ブッダ『感興のことば』第1章の題は「無常」である。
冒頭に「円満な完成!」と書かれている。
1      この世で、心が暗くふさぎ込んで眠くなるのを取り除いて、心を喜ばせ、勝利者(=仏)の説かれたこの感興のことばをわれは説くであろう。さあ聞け。

訳注によれば、『感興のことば』はブッダが感興を催した結果、問われないのに自ずから表明された言葉であるとされている、とある。

2010年3月20日土曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(57(20100320)

ある合唱団の代表からその合唱団の20周年記念公演の案内状が来た。その合唱団の名前はフランス語で、日本語では「三人の友人とそれ以上」という意味である。その合唱団は私の中学校時代の友人(女性)が立ち上げ、自ら指揮している。このたび5年ぶりに演奏会を行うとある。彼女には年賀状以外連絡はないが、久しぶりハガキに一筆書いて出そう。
懐かしくもあり、今回は是非在京の同級生たちに声をかけて一緒に応援に行こうと思う。ただ、別府で行われる同級会に参加して帰ってきた翌日のことなので、少しきついところがある。でもこれが5年ぶりの、しかも合唱団創立20周年記念公演でもあるので、是非行かなければならぬと思う。お互い72歳、彼女がそのように活動していることは喜ばしい。
私と彼女は中学校時代の音楽の先生を通じた共通の思い出がある。その音楽の先生は美人であったが若くして他界してしまった。私はその先生が担任であった組に所属していた。教室の後ろ壁の上のほうにシューマン、シューベルト、モーツアルト、ベートーベン、バッハなどの音楽家たちの肖像画が掲げられていた。私はその先生の影響もあってのことだと自分では思うが、『新クラシックの快楽』とか『名曲観賞辞典』とか『音楽用語の知識』などを買ってたいして読みもせず書棚に飾ったままにしてあるが、この際それらを取り出してページをめくってみた。
彼女が指揮する演奏種目の作曲家についてそれらの書物に出ていない人がいる。荻久保和明とかW.アンドリーゼンとかF.プーランクなどである。そこでインターネットで調べた。作曲家の名前など調べて暇なんだなと思われそうであるが、調べてみると「ああそうなんだ」と分かる。分かって何に役立つか、いずれ忘れてしまうかもしれない。しかし、何も知らずに演奏会を聴きに行くよりは善いだろう。調べるのにたいして時間がかかるわけでもないのだから。それに久しぶり会う友人に対する敬意、礼儀でもある。
前にも書いたことがあるが、今ここに生きている‘私’という一個人は、可視出来る姿、物質としての‘私’だけではなく、可視出来ない私の心のありよう、意識、思考、精神としての‘私’もいる。さらに、その非可視の部分には、遠い過去から遠い未来までの大きなものがあり、その大きなものの中心に、それらの‘私’、つまり物質としての‘私’と精神としての‘私’がある。そしてそれらの‘私’を包み込む大きな非可視のもの、つまり遠い過去から遠い未来までのものは、宇宙の時間軸にそって動いている。‘私’を包み込む大きな非可視のものを一つの球体とイメージすれば、その球体が動いている。
この物質としての私、肉体としての私は朽ちて行くが、それは精神としての私とともに過去から受け継がれたものである。そして子孫を通じて未来につないでゆく。伴侶によって得られた私の子孫に伝わってゆく。それが生と死の有りようである。
ブッダ「真理のことば」は次の一つで終わる。次は「感興のことば」である。
425 前世の生涯を知り、また天上と地獄を見、生存を滅ぼしつくすに至って、直感智を完成した聖者、完成すべきことを完成した人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

2010年3月19日金曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(56(20100319)

 温暖な良いお天気である。桜の開花も横浜は23日と予想されている。女房の帯状疱疹も殆ど快癒した。橋本の方にはかたくりの花が沢山咲く場所があるらしい。今年は其処にも行ってみようと語り合っている。なによりも健康が一番である。健康を害すれば時間的にも経済的にも損失は大きい。普段健康維持に心がけさえすれば健康を損なうことは全く無くなるとは言わないが、相当抑えられると思う。

 爪もみ、腹式呼吸、足の裏の刺激、大腰筋の鍛錬、外出後の手洗いとうがい、食事は食べ過ぎず良く咀嚼する、などなど普段習慣的に行えばそれを行うことは億劫ではなくなる。要はそれらを習慣的に行おうとする意志の強さである。

 しかし勤め人は時間に追われ、仕事に追われ、精神的にも肉体的にも疲れる。毎日が日曜日のご隠居ようにはできない。だからその分金をかけてスポーツクラブに通ったり、ゴルフをしたり、親しい仲間と山登りしたりして日頃のストレスを解放しようとする。しかし世間にはそれすらできない人たちも多い。働きたくても働く場所がない人たちも多い。就職したくても就職できない学卒、高卒の若者も多い。

 福沢諭吉は「天は自ら助くる者を助く」と言ったが、そのように自ら必死で自らを助けようとせず、夢や希望がかなえられないことを社会のせい、親のせいなど自分以外の他者のせいにする者も多いだろう。たとえ他者のせいにしても問題は解決されない。そんなことが分かっていても自分の意志の弱さゆえに自暴自棄か精神病になる人もいるだろう。

 勿論、そういう人たちにも社会は救いの手を差し伸べなければならない。行政は勿論、ボランティアの団体がいろいろ活動してはいる。しかしそれも社会が国家が存続・繁栄の妨げにならない程度に自動的に制御される。国家であろうと、地域社会であろうと、個人であろうと、あらゆる有機的なものは自ら存続しつづけようとする。自存力が作用する。
分子生物学を学び始めてふと思ったことがある。そのような集団や個人の動きは、すべて遺伝子に組み込まれた情報に動かされているのではないかと。善い行いも悪い行いもその行動を起こすなにか根源的な要素が遺伝子の中に組み込まれていて、それが環境の条件によって発動し、或いは発動が抑えられるのではないかと。

 もしそうだとすると、その要素は太古の昔から受け継がれたものである。人類みな太古に遡れば共通の母親に辿りつく。太古の昔以来、男女の交わりによってわれわれの身体の中には何億、何十億の他者の遺伝情報が組み込まれている。何世代にもわたってよい婚姻関係を保ってきた家系には比較的よい遺伝情報が伝わっているであろうし、そうでない家系には玉石混交、あるいは石が玉よりも多い、あるいは石が殆どというような状態になっているであろう。表に見える顔つきや身体からは見えないものがあるのかもしれない。

419 生きとし生ける者の死生をすべて知り、執着なく、よく行きし人、覚った人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

2010年3月18日木曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(55(20100318)

放送大学から印刷教材と放送番組表などが送られてきた。印刷教材は先ず学ぶことにした『分子生物学』と『生物界の変遷』の2科目である。今回とった科目はテレビで放送されるものであるが、それらをテレビで予約録画するようにセットしておこうと思う。
早速勉強の準備をした。通信指導の設問の中に専門用語が沢山ある。それらをメモ用紙にメモしておく。専門用語を理解するため書物やインターネットから必要な情報を得ておき、それを頭にいれて教材を読むことにする。教材を読みながら文中の専門用語の部分にアンダーラインを引いて起き、後日専門用語を整理するノートを作る。これは1ページごと差し替えができる方式のノートとし、書き記した用語をアイウエオ順に並べ替える。
これまで長年このように頭脳をきりきり使うことを休んでいた。16年ぶりに放送大学に再入学し、学問をする。老いてますます頭脳が活発に働く。頭脳に必要な酸素と糖分を十分補給しながら、身体を動かし血のめぐりを良くしながら、限られた時間を如何に効率的に使うか考えながら勉強する。これは楽しい。
つまらぬことにあれこれ頭を悩ませることは馬鹿馬鹿しい。「つまらぬこと」は、「執着心」と密接な関係がある。執着心を捨てればつまらぬことに時間を費やすことはない。自然体で心の赴くまま善きことをすればよい。その「善きこと」の中には多少の執着があってもよいと思う。在家である以上、なにも戒律厳しい修行僧のような日々を送る必要はないと思う。しかしその辺の考え方は長年自分自身に問いかけながら会得するしかないだろうと思う。少なくとも自分自身は善人として自由自在でありたいと思う。
そういう態度で世間を見る。子ども手当と高校無償化の2法案は月内成立の運びとなった。議論された問題への対処は、問題意識を持ちながら先送りとし、先ずは法案を成立させることにエネルギーが注がれた。財源の措置については6月に税制をどうするかが決められ、その中で手当ての目途をたてようとしている。それも一つのやり方であろう。何事も矛盾を内包しないものはない。矛盾が何であるか既に分かっているので、矛盾に気づかず走り出すよりはまだ良い。しかし矛盾はいずれそれが無くなる(解決される)方向に向かう。
鳩山邦夫氏が新党を打ち立てるとして自民党を離れた。民主党への支持率が低下しているのに自民党への支持率が上がらないことに危機感を持ってご自分自身は坂本竜馬のような働きをして与謝野氏、桝添氏らを仲間に引き入れ誰かを代表に推して新党を作ろうというのである。鳩山邦夫氏は当面は孤独を強いられるだろう。先ずどのような新党にしようとしているのか、新党の名前は何か、理念は何かなど、その辺のところがはっきりと描かれていないと同調者は集まらないだろうと思う。うがった見方であるが彼が兄の総理を意識して行動を起こしたとすれば、それは執着心から起こしたものであるので不純である。
第二十六章「バラモン」(=煩悩を去り罪悪を為さぬ人。(訳注による))
397 すべての束縛を断ち切り、怖れることなく、執著を超越して、とらわれることの無い人、かれをわれは〈バラモン〉と呼ぶ。

2010年3月17日水曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(54(20100317)

 クータンが去った。1週間ばかり預かっていて一層可愛いさが増していたが、大阪から帰ってきた嫁に引き取られて一緒に狭山の自分の家に帰って行った。男も女房もいっぺんに疲れが出た感じである。毎朝まだ目が覚めきれない内に散歩に連れて行き、午後2時ごろまた連れて行き、時には夕方一度、そして夜10時ごろ連れて行って一日が終わる。その間、いろいろ語りかけたりボール遊びしたりしてかまう。子犬一匹とはいえ小さい子供の家族が一人増えたようなものである。子犬は1週間程度預かるのは楽しいが、それ以上だと多分苦痛になると思う。

 今日は昼過ぎ最後の散歩に連れて行った。いつもより1時間早い時間だったせいでなかなかオシッコをしない。川の堤防に沢山の鳩が遊んでいた。クータンはそれを見て近寄ろうとし、鳩たちが一斉に逃げる。するとそれをまた追いかける。空に舞い上がる鳩を見上げ、目で追う。本来それが犬の習性である。そのようなことをして時間を費やし、家に戻ってくる途中、近くのトラックなどの駐車場になっている空き地に入り、そこでようやくオシッコをした。昨日は午後もウンチをしたが、今日は無い。ようやく家に帰り、いつものように女房に迎えられ、女房がペットショップで買ったウエットティッシュでで手足や顔やおちんちんやお尻などを丁寧に拭きあげた。

 隠居・年金暮らしの優雅な身分と人は思い、ある人は男と女房の句足ぶりを見て羨むだろう。ぶらりと出かけ一生懸命に働いている人たちを見かけると自然に頭が下がる。彼らがこのような老人たちを支えてくれているのだ。かつて男も現役の頃は社会保険を払っていた。子供たちについてはまだ学生である20歳のときから彼らが就職するまで健康保険を払っていた。今は生産に従事せず、消費だけの生活をしている。特別に何かして社会に貢献しているわけでもなく、せいぜい社会福祉か国際貢献のための寄付をほんの少しばかり出す程度である。

 世の中には時間を持て余している年金生活者も多いだろう。年金暮らしになって急に何か創造的な活動や趣味ごとをしたいと思っても、その素養や過去の蓄積がないとそれは簡単には出来ないことである。一日中テレビの娯楽番組をみたり、川釣りをしたり、地区センターで囲碁将棋などをしたり、パチンコに行ったりして時間をつぶす人が多いと思う。

 男は何か生産的な活動をする能力はないが、幸い詩吟とか陶芸などの趣味があり、学問も好きである。ここ1週間ばかりはクータンの世話で時間を費やしていたが、これからは他のことに時間を振り向けることができる。生産的な活動はしていないが、月2回、詩吟の会に集ってくれる方々には何かの喜びを感じて貰っているのではないかと思う。しかし、もっと多くの喜びを他者に感じてもらうようなことをしなければならぬと思っている。

379 みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。修業僧よ。自己を護り、正しい念(おも)いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。
380 実に自己は自分の主(あるじ)である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

2010年3月16日火曜日

ブッダ「真理のことば」を学ぶ(53(20100316)

 今日も温暖な日であった。朝いつものようにクーちゃん(クータン)を散歩に連れてゆきうんちとオシッコをさせ、多少の運動をさせる。うんちをさせるときはクーがそれを催したときすかさずお尻にビニール袋を当ててその中にさせる。そうでない場合はビニール袋に手を突っ込み袋を裏返しにしてひった(大分の方言で‘放った’の語音が転じたものであろう)糞を拾う。この犬はこれまでの躾がよくないのか、オスのくせに屈んだままオシッコをする。その時は足が地面のオシッコに触れて汚れないように、引いている綱を持ち上げる。それでも前足の一つが地面のひったオシッコの跡に触れて汚れることが多い。

 今朝もそうであった。散歩を終えて連れて帰るときゴミ置き場のところでコンクリートの地面に水道の水を流し、その上をクータンに歩かせ足の裏を洗うことにする。そのつもりですこし散歩させる。途中弁当の空き箱とかビニール袋とかゴミが散らばっているのを目にし、クータンのうんこを入れてある袋を逆さまにして枯れ茅の茂みの中に捨て、その袋に拾ったゴミを入れる。その作業をしているときたまたま今持っている袋よりも大きい袋を見つける。それは汚れていて汚いが、それに持っていた袋と一緒に集めたごみを入れる。

 その間、クータンは紐を引っ張られたり緩められたりする。ゴミは素手で拾うが後でよく洗えば良い。このようにしてその辺りに落ちていたゴミを拾い上げ、綺麗になった。自分自身も気持ちがよい。拾ったゴミは分別せずにそのままマンションのゴミ置き場のポリ容器の中に袋の口を縛って入れる。ゴミ収集車は分別されていないゴミ、例えば空き缶やペットボトルなどが混じっていたりすると、そのゴミ袋に警告の黄色い紙を貼って置き去りにしてしまう。そこで、拾ったごみは外から分別されていないものが見えないように包みこんでおく。ばかばかしいことであるが自宅から出すゴミでないので仕方がない。行政に環境美化の奉仕活動をした結果集めたゴミについては別扱いするように申し入れようかと思う。アイデアはそのような奉仕者に専用の袋を無償で提供することである。

 すぐ近くのスーパーで店頭に並べられたばかりの新鮮な「熟っこバナナ」や「アボガド」や「静岡のいちご」を買う。これらは午後になると新鮮度も落ち、夜になると売れ残りの品質の悪いものしか残っていない。先日買ったその売れ残りの「熟っこバナナ」は値段が同じなのに実も細く、堅く、表面の熟し度は見かけだけで不味かった。

 近所の内科クリニックにピロリ菌の検査結果を聞きに行く。患者は少なかったのですぐ順番がきて診察室に入る。懇意の先生に「結果は陰性です」と言われる。検査結果のデータのコピーを貰う。わが胃袋は「びらん性胃炎とか食道裂孔ヘルニア」という問題を抱えているが胃炎の方はその先生が処方してくれた薬のお陰で良くなったようである。ともかくわが胃の中にピロリ菌が生息していないことが判ったので、後は食べ過ぎないとか良く噛むとかして胃の負担を減らすように心掛けることである。

376 その行いが親切であれ。(何ものでも)わかち合え。善いことを実行せよ。そうすれば、喜びにみち、苦悩を滅すであろう。