2011年9月30日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(31) (20110930)

 “天智天皇が中大兄皇子の時代に、朝鮮半島の同盟国である百済(くだら)が唐(とう)と新羅(しらぎ)の連合軍に攻められ、皇子は援軍を派遣した。しかし、白村江(はくすきのえ)の戦い(六六三年)に敗れ、百済の貴族とともに日本に帰国した。この敗戦に危機感を募らせた皇子は、壱岐(いき)・対馬(つしま)・筑紫(つくし)に防人(さきもり)を置き、筑紫に水城(みずき)と呼ばれる堤を築いて西国の防備を固めた。また、おそらくは国防上の理由で、六六七年に都を飛鳥(あすか)から近江大津(おうみおおつ)へ移し、翌年即位して天智天皇(在位六六八~六七一)となった。”

 “天武(てんむ)天皇(在位六七三~六八六)は、仏教を篤(あつ)く信じ、薬師寺(やくしじ)を建立(こんりゅう)したり、全国の家ごとに仏壇をつくって仏像を拝むように命じた。しかしその一方では、六八五年に伊勢神宮(いせじんぐう)の式年遷宮(しきねんせんぐう)(原則として二十年ごとに神社を建てなおすこと)を決めているのである。さらに、伊勢神宮のみならず全国の神社の修理も命じている。まさに神も仏も平等に扱っているのである。

 この天武天皇的発想はそのまま今に伝わり、新年には神社に初詣(はつもうで)に出かけ、お盆にはお寺詣(まい)りをし、クリスマスには教会へ讃美歌を聞きに行くといった平均的日本人のメンタリティの原型となっている。”

1350年ほど前に天智天皇・天武天皇御二人の天皇の治世下、今の日本の原型が出来上がったのである。昭和20(1945)8月、日本は有史以来初めて外国の軍隊によって占領され、天皇制の廃止の危機にさらされた。そのときその危機を救った一人のアメリカ人外交官がいた。ジョセフ・グルー(Joseph Clark Grew1880527 - 1965525日)である。彼は日米開戦時在日アメリカ合衆国大使であった。

グルーは日本への原爆投下と本土決戦回避に尽力された方である。その努力は実らなかったが、ポツダム宣言に「天皇の地位保障」を盛り込む事を再三トルーマンに進言したという。グルーのお蔭で今日まで天皇制が維持され、日本人は神代につながる日本独特の精神文化、「体外遺伝子」ともいうべきものを今日まで維持できている。

高良 勉という沖縄出身の詩人・批評家が『魂振り 琉球文化・芸術論』という本を書き、沖縄が日本国家から一方的にいいようにされたというような主張をしているようであるが。彼はその主張のために「文化遺伝子」という言葉を創設し用いている。

もし天皇制が廃止されてしまっていたらこの日本はどうなっていただろうか? 敗戦により日本人の精神はかなり傷ついてしまった。そのうえ日本人の精神・「体外遺伝子」を破壊しようとしている反日的な人や団体の活動によりさらに傷つけられている。人間の脳には脳梗塞で壊れた箇所を迂回して新たな神経回路が自動的に作られ、機能を回復させる「自存力」が備わっているらしいが、これと同じように傷ついた日本人の精神を戦前の状態に回復させ、「体外遺伝子」の補強を図らねばなければならない。       (続く)

2011年9月29日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(30) (20110929)

大化の改新(続き)

 当時は唐が強大な勢力を誇っていた。それに対応するため、天皇への権力集中と国政改革は緊急の課題となっていた。二人のクーデターの狙いも、実はそこにあったとされる。そのために唐の律令(りつりょう)制を手本として中央集権国家の建設をめざしたのが「大化の改新」であった。

大化二年(六四六)、「改新の詔(みことのり)」が出され、大化の改新がはじまった。・・(中略)・・日本の律令制が唐のそれと違うのは、神祇官(じんぎかん)を置き、いちばん高い位を与えた点である。唐には日本のような神様がいないので神祇官がいないのは当然なのだが、唐の真似をしたようでいちばん肝心なところは日本流になっているのは注目しておきたい。

さて、「改新の詔」の中心となるのは「公地公民制」であった。それは私有財産を廃止してすべての土地と人民を公有化する、すなわち天皇に帰属させるとした制度である。また、この公地公民制の基本となり、律令制の根幹となったのが「班田収受法(はんでんしゅうじゅのほう)」であった。

「班田収授法」は、天皇のものである公地を公民に貸し与えるために戸籍を作り、細かい規定を定めたものである。それに従って農民は土地を分け与えられ(口分田)、代わりに納税の義務を負った。その土地は六年後に返還しなければならなかった。・・(中略)・・

いったん豪族の土地を公民化した効果で、旧来の豪族の勢力は衰退し、代わりに律令制度による中央集権国家の官僚たちが力を持つようになり、新しい貴族が生まれてきた。その筆頭が中臣鎌足(なかとみのかまたり)を始祖とする藤原氏だったのである。”

談山神社で編んだ『大和多武峯(とうのみね)紀行』という小冊子がある。談山神社は鎌足を祀った神社であり、全国の約4千の藤原氏族のメッカのようなところである。ちなみに日本全国の氏族は15万から20万あるとされている。

この小冊子によれば、“鎌足公の氏名(うじな)は中臣(なかとみ)氏で、推古天皇二十二年(六一四年)八月、」大和国高市郡大原(今の明日香村小原)の邸で生まれ、幼名を鎌子と称した(別に茨城県鹿島の地の伝承もある)。父は御食子(みけこ)、母は大伴久比子(おおとものくひこ)の娘、大伴夫人であった。

中臣氏は、その名の通り、「なかつおみ」で人と神の間を取り持つ神官の家柄であった。・・(中略)・・僧旻(みん)の堂舎で『周易』(儒教の経典『五経』の一つ)の講義が始まっていた。たまたま遅刻してしまった公だったが、同席していた蘇我入鹿は彼にうやうやしくあいさつした。さすがの入鹿も公を認めていたのだ。授業が終わった後、旻は彼を近くに招き、「自分のもとに学ぶ学生のなかで優れているのは入鹿だが、君はそれを凌いでいる。自愛して将来を期して欲しい。」と励ましたという。”とある。

私と妻は明日香村の民宿に泊まり、村内を散策したことがあった。    (続く)

2011年9月28日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(29) (20110928)

大化の改新

 ただ仏教は日本に入ったときは誤解もあったし、新しい外国文明の持つ独特の毒もあった。つまり、仏教を崇拝する中心勢力であった蘇我氏が、仏教を背景にして強大な力を得たのである。

 厩戸皇子(うまやどのおうじ)(聖徳太子)と泊瀬部皇子(はっせべのみこ)(崇峻天皇)とともに物部氏を滅ぼした蘇我馬子(そがのうまこ)は泊瀬部皇子(はっせべのみこ)を用明天皇の次の天皇に据え、自らは政治の実権を握った。これに不満を抱いた崇峻天皇は馬子の排斥を願うが、逆に馬子の差し向けた部下によって暗殺されてしまう。

 その後、崇峻天皇の暗殺によって空位となった皇位を継いだのが、用明天皇と同じく欽明天皇と堅塩媛(きたしひめ)の間に生まれ、用明天皇の前の敏達(びたつ)天皇の皇后であった豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)、すなわち推古(すいこ)天皇であった。そして聖徳太子が推古天皇の摂政(せっしょう)となって国政を担うことになるのだが、その背後には相変わらず蘇我氏の存在があった。すなわち蘇我氏による朝廷支配である。

 馬子の子の蝦夷、さらにその子の入鹿の時代になると、蘇我氏の専横ぶりはますます激しさを増し、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)も皇位争いによって皇子とともに入鹿に討たれてしまい、太子の血を引く上宮王(じょうぐうおう)家は滅亡した。やがて入鹿は、自ら天皇家を継ごうと野心を示すようになった。・・(中略)・・”

 この蘇我氏の横暴ぶりを憎み、クーデターを企てる勢力があった。かつて仏教の問題で蘇我氏と対立していた中臣(なかとみ)氏の血を引く若き天才・中臣鎌足(なかとみのかまたり)(藤原氏の先祖)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)後の天智(てんじ)天皇である。二人は密かに蘇我氏打倒計画をめぐらし、女帝皇極(こうぎょく)天皇の四年(六四五)、三韓(新羅(しらぎ)、百済(くだら)、高句麗(こうくり)からの使者が来朝し、進貢の儀式が行われている最中に、そこに出席していた入鹿を切り殺した。息子の入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自宅に火を放って自害した。”

 推古天皇は女帝であった。推古天皇の同母兄が用明天皇である。その用明天皇の母方の曾祖父が蘇我稲目であり、稲目の子が馬子である。聖徳太子は馬子の娘を妃にしている。その聖徳太子の子・山背大兄王は、母方の曾祖父・馬子の孫・入鹿によって殺されている。

 推古天皇の父は第二六代継体天皇の皇子・欽明(きんめい)天皇であり、母方の祖父は蘇我稲目である。古代に推古天皇・皇極天皇と女帝が出ているが、その後は継体天皇の血を引く男系天皇になっている。神武天皇から今上天皇に至るまで間、途中リリーフの女帝がいても必ず神武天皇のY染色体遺伝子を受け継ぐ天皇が皇統を継いでいる。このように日本の君主は世界に類例がない血統である。もし愛子様が天皇になりその後男系が途絶えた場合、現状では神武天皇Y染色体遺伝子を受け継ぐ皇統が途絶えることになる。(続く)

2011年9月27日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(28) (20110927)

聖武天皇と奈良の大仏

 その後仏教はますます盛んになっていく。そして聖武(しょうむ)天皇(在位七二四~七四九)の時代になると、日本の各地に国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられ、総国分寺として奈良に東大寺が建造された。これはいろいろな意味で日本の本質を示しているといってよいだろう。

 第一には、仏教は外国から来たものであるのに、日本に入ると外国にもないような壮大なものができあがるという点である。・・(中略)・・

 第二に、奈良の大仏は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)(盧舎那仏(るしゃなぶつ)ともいう)であるが、これは太陽神が仏教に入ったとされる。すなわち大日如来(だいにちにょらい)のことである。大日如来は密教における仏の一つだが、当時、本質的に天照大神(あまてらすおおみかみ)と同じものだと考えられていた。・・(中略)・・つまり、日本の神々は仏教の仏(本地)が姿を変えて日本の地に現出(垂迹(すいじゃく))したものだと考えたのである。・・(中略)・・大仏を造営するときに、聖武天皇が橘諸兄(たちばなのもろえ)を天照大神を祀る伊勢神宮に遣(つか)わして寺を建てる神託(しんたく)を乞(こ)うているという事実からも明らかである。

 第三は、この大仏は天皇の権力で建てるというやり方はせず、すべての人々の協力で建てるという形がとられている点である。それは聖武天皇の「大仏造営の詔(みことのり)」にも述べられている。すなわち、自分は天皇であるから、天下の富も力もすべて自分が所有している。だから、自分だけで大仏像を建てることもできる。しかし、そうでなくて「知識」(寄進(きしん)する信者)が集まって協力して、一枝の草、一握りの土でもいいから資材を持ち寄ってみんなで建設しようではないか――というのである。すべての人がすこしでも献金をして、挙国一致という形をとっているわけである。衆生(しゅじょう)一致してやろうというのは、ほとんど神道的な「みんあの神様」という考えに近い、実に画期的な発想であった。・・(中略)・・

 ここで見てきたように、外国の高い文化文明も日本に入ると日本化して、さらにそれを超えることができるという発想が、奈良の大仏造営のときからすでに日本人の頭の中に定着したといえるだろう。”

 人の能力というものは計り知れないものがある。その能力も先天的な要素、いうなれば個人の資質によるところが大きい。遠い祖先から連綿として受け継いできたもの、それはDNA(=体内遺伝子)に記録されているものによるところが大きい。それに加えて生活環境によるもの、文化、文書などに記録されたもの、そういった要素(=体外遺伝子)も大きい。日本人の祖先の血、そしてこの島国のなかで培われた精神文化、そういったものが外国の高い文化文明も日本に入ると日本化して、さらにそれを超えることができる」能力に深い関係があると私は思う。  (続く)

2011年9月26日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(27) (20110926)

聖徳太子

 用明天皇の御子(みこ)である聖徳太子の時代になって、仏教は非常に盛んになる。聖徳太子はまさに天才中の天才といってよい人物である。例えば、いくつかの経文の教授を渡来人から受けると、ただちにそれを理解して注釈をつけ、その注釈が大陸で出版されて版を重ねたと指摘されている。

 聖徳太子は「さまざまな業績を残しているが、まず重要なのは隋(ずい)に送った国書であろう。・・(中略)・・当時大国であった隋は、周辺国はみな野蛮だと思っていた。そこに日本から対等な外交文書(「日出(イ)ズル處(トコロ)の天子、日没スル處ノ天子ニ書ヲ致ス。恙(ツィツガ9ナキヤ・・)」が送られてきたので(隋の煬帝(ようだい)は不愉快に思ったのである。

 しかしいくら相手が大国であろうと外交上は対等であると太子は考えたのだろう。その自信の裏づけとなったのは、日本が神話の時代から王朝が絶えることなく続く「皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国」であるという誇りであったのではないだろうか。

 それが証拠に、太子が二度目に煬帝に送った国書にも「東ノ天皇、敬(ツツシ)ミテ西ノ皇帝ニ白(モウ)ス」とある。どこまでも対等の姿勢を崩さなかったのである。それまでの日本とシナの交渉では、朝鮮を介して朝貢(ちょうこう)の形をとっていたから、これは記念すべき出来事であった。これが日本の自主外交のはじまりであったのである。

 一方、聖徳太子の数々の業績のうち、国内的に大きな意味を持つのは「十七条憲法」を定めたことであろう。この憲法は推古(すいこ)天皇の十二年(六〇四)の夏四月に太子自身が作ったものであり、憲法と書いて本来は「いつくしきのり」と読むらしい。

 憲法というのは、その国のあり方、その国の体質、すなわち国体を示すものである。国体は英語でコンスティテューション(constitution)というが、これも元来は体質という意味である。イギリスではいわゆる成文化された憲法はないが、「コンスティテューション」といえば「国体」を指しているとイギリス人には理解できるのである。

 聖徳太子は、日本の国体としてあるべき姿を、第一条の「和をもって貴(とうと)しとなす」からはじまる一七条にまとめて書き残した。これこそが本当の意味での憲法だと思う。詳しい法律を作った国は他の先進国にもあるが、その国柄をコンスティテュ―ションとして出してゆくという点で、一七条憲法は世界で最古の憲法の一つであると考えてよいだろう。・・(中略)・・第二条に「篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬(うやま)へ。三宝とは仏(ほとけ)・法(のり)・僧(ほうし)なり」とある一方で、神道のことは全く書かれていない。・・(中略)・・書かれていない点にこそ意味があるのである。つまり、日本の神を崇めるとは日本の先祖を尊敬せよというのと同じ意味であり、それをわざわざ憲法に書くという発想がないほど当たり前であったということである。”

 国旗国歌法に賛成しなかった民主党の保守派の議員の中には、「日本の国旗・国歌についてわざわざ法律に定めなくてもそれは当たり前のことだから」と反対の理由を述べた人たちがいた。それが詭弁でないことを信じたい。           (続く)

2011年9月25日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(26) (20110925)

仏教伝来をめぐる争い

 日本の国史編纂がはじまるより前、第二十九代欽明天皇(在位五三九~五七一)の一三年(五五二)に仏教伝来という重大な問題が起こった。

 それ以前より北九州など大陸との交通が多かった地域や帰化人の間で仏教はある程度広まっていたと考えられる。・・(中略)・・

 欽明天皇は「(百済の聖明王から献上された)この仏像を祀るべきであろうか」と大臣たちに尋ねた。すると蘇我稲目(そがのいなめ)(?~五七〇)は「西の国ではみなこれを礼拝しています。日本の国だけがどうして背(そむ)くことができましょうか」と強く崇拝を勧めた。これに対して、神武天皇以来の部族である大伴(おおとも)・物部(ものべ)・中臣(なかとみ)氏らの国粋派は「外国の神様を祀るのはよくない」と猛反対する。

 この両者の意見を聞いた欽明天皇は、日本の神の怒りに触れては大変だからと、蘇我稲目に試に礼拝させてみようと仏像を下げ渡した。稲目は自分の屋敷に寺を建て、仏像を拝みはじめた。するとその年、疫病(えきびょう)が流行し、多くの死者を出した。これは外国の神を拝んだ報いだと、物部・中臣両氏は天皇の許可を得て稲目の寺から仏像を奪い、難波の堀に投げ捨て、さらに寺を焼き払ってしまった。

 欽明天皇の子の敏達(びたつ)天皇(在位五七二~五八五)もまた仏教を信じなかったが、その后(きさき)の堅塩媛(きたしひめ)は仏教推進派の蘇我稲目の娘であり間違いなく仏教信者であったと考えられる。

 仏教は後宮(こうきゅう)から皇室に入り込むことになるのである。そして欽明天皇と堅塩媛の間に生まれ、稲目の孫娘を皇后に迎えた皇后に迎えた第三十代用明天皇(在位五八五~五八七)に至って初めて仏教を信するようになるのである。・・(中略)・・

 なぜ用明天皇の名前がほとんど無視されているのか。これは仏教というものが、強(し)いていえば一つの高い学問として入れられ、神道(しんとう)に代わるようなものとして捉(とら)える意識がなかったということを表している。「仏教はありがたい教えである」と天皇が考えたとしても、それは儒教を学んだのと同じで、従来の神道を捨てたのだとは日本人の誰も思わなかったのである。

 『日本書紀』の中にも、用明天皇について「仏の法(のり)を信じられ、神の道(みち)を尊ばれた」と書かれているように、仏教は神道に代わる宗教としては考えられていなかったのである。・・(中略)・・(仏教排斥派の物部守屋討伐軍に加わっていた)聖徳太子(五七四~六二二)は戦場で四天王像をつくり、「敵に勝たせてくだされば寺塔を建てましょう」と祈願し、その誓いの言葉どおり四天王寺を建てたといわれる。これ以降、日本では神社を尊びながら仏教を入れるという形に定着するのである。”

 インド・中国・朝鮮では仏教は廃れたのも同然である。日本では仏教の研究が発達し、「人間の学」として日本人の精神文化の根本を成している。        (続く)

2011年9月24日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(25) (20110924)

 (渡部昇一『日本史』引用続き)

“これは極めて近代的な書き方である。古代の歴史書でこのような書き方をしている例はほかにないのではないかと思われる。

また「古事記」と同じく、長歌、短歌、神の名前、人の名前、地名といったものは、すべて漢字を発音記号として使っている。

この意味をわかりやすくするために朝鮮半島の例を挙げると、最初の歴史である『三国史記』ができたのは一一四五年といわれ、日本では平安時代の末の頃である。これはすべて漢文で書いてある。その後、一三世紀末に書かれた『三国遺事』もまた漢文である。したがって、古代の朝鮮の言葉がどのようなものであったかは、一切わからないのである。

「日韓併合」の時代に平壌(へいじょう)帝国大学の韓国語の教授であった小倉進平博士が、古代の朝鮮の言葉を一所懸命に探したことがあった。しかし、約七十から八十の古代コリア語らしい単語を見つけただけであった。これは日本の長歌短歌、『万葉集』の膨大(ぼうだい)な和歌などすべて日本語でわかるのに比べると、天地の差である。

このようにして編まれた『古事記』『日本書紀』は先の敗戦までに日本人の歴史観の根底にあった。少なくとも、敗戦までの一千数百年間にわたり、日本人は自分たちの歴史を『古事記』『日本書紀』によって認識し、それに従って行動してきたのである。”

私は亡父が私によく話していたことを思い出した。明治9年生まれの父は私の年よりも若い70歳で没した。私が子どものころ、「稗田阿礼が云々」などと話してくれたことがあった。戦前の人は皆そうであったと思うが、父は「神武天皇から今の天皇まで天皇の名前を全部言うことができるぞ」などと自慢していた。戦後教育の内容ががらりと変わって学校では歴史を教えなくなったので、教育者だった父は息子に日本の歴史を教えようとしていたのであろう。

今の政治家に国家観が乏しいのは彼らが日本の歴史について学んでいないためである。そのうえ書店には日本の歴史を捻じ曲げた説をさももっともらしく書き連ねた本が堂々と売られている、その本を読んだ読者は間違った歴史観を持ってしまうことになる。

日本の神話を事実と考える必要はないが、日本人は『古事記』『日本書紀』に書かれている神代のことについて、それは歴史につながる物語として、単純に素直に受け入れることが必要である。何故ならそれは日本人のアイデンティティの元であり、日本人が心の深奥で無意識の中にあるものであるからである。渡部昇一『日本史』にこう書いてある。

江戸中期の学者・伊勢貞丈(いせさだたけ)(一七一七~一七八四)は「いにしえをいにしえの目で見る」といった。ドイツから発達した文献学でも「古代の目線(めせん)(der Blick der Frühe)」を重んじている。古代を知るには古代人のものの見方や考え方を知らなければならないということだが、歴史を見るときにはこの姿勢を決して忘れてはならないと思うのである。”                         (続く)

2011年9月23日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(24) (20110923)

 “『古事記』『日本書紀』の持つ意味

 日本では最初に国史編纂を意図したのは聖徳太子(しょうとくたいし)(五七四~六二二)と蘇我馬子(そがのうまこ)(五五一?~六二六)であったとされる。各種の史料を集めた形跡があり、『天皇紀』と『国記』という史書が完成したといわれるが、これらは馬子の息子・蘇我蝦夷(そがのえみし)(?~六四五)が滅ぼされたときに喪失したといわれている。

 次に天武(てんむ)天皇(在位六七三~六八六)が天皇家の系図や古い伝承を保存するために国史編纂を試み、稗田阿礼(ひえだのあれ)に『帝紀』(天皇の系譜の伝承を記した書物)と『旧辞(きゅうじ)』(各氏族の古い伝承を記した書物)を暗誦(あんしょう)させた。しかし、完成する前に天皇が亡くなられたため、その後は天武天皇の遺志を継いで、息子の草壁御子(くさかべのみこ)の妃である元明(げんめい)天皇(在位七〇七~七一五)が太安万侶(おおのやすまろ)(?~七二三)に命じ、稗田阿礼の口述を筆録・編纂させた。こうしてできあがったのが、『古事記』である。

 『古事記』は表記法を漢文によらず、漢字を意味に関係なく表音文字として日本語に移して書いている。ただし、それでは文章があまりにも長々しくなるため、簡略化のために一部に漢語を使うという和漢混交方式をとった。そのため、漢語が混じり合った日本語という形になっているが、そこに出てくる和歌や神様の名前、人の名前、地名など無数のものは、厳密に漢字を表音記号として使っている。

 しかし、元明天皇は漢字を表音文字として使う表記方法が不満だったようである。そこから正式な漢文で史書を作ろうという機運が生まれ、『日本書紀』が編まれたのではないかと考えられる。

 『古事記』の完成から八年ほど後、元明天皇の娘で皇位についた元正(げんしょう)天皇)(在位七一五~七二四)が舎人親王(とねりしんのう)を総裁にして編纂させたものが『日本書紀』である。『日本書紀』は外国に見せるという意図もあったと思われ、堂々たる漢文で地の文が書かれている。

 『日本書紀』で注目すべきことは、第一巻として神代巻を作り、しかも、一つの話についての伝承をすべて併記している点である。すなわち、「一書ニ日(イワ)ク」「一書ニ日ク」「一書ニ日ク」という形である本にはこう書いてある、またある本にはこういっていると、いろいろな部族のもつそれぞれの伝承を集め、無理に一つにまとめずに諸説をずらりと並べてあるのである。

 『古事記』と『日本書紀』の二つの根本的な違いがある。『日本書紀』の編纂に携わった人たちが如何に真剣に、できるだけ正確な歴史書を作ろうとしていたかということが良く分る。江戸時代・本居宣長や戦前戦後・津田左右吉などによる歴史批判はあるが、日本人ならば『古事記』・『日本書紀』の「神代」を物語(神話)プラス史書として誇りに思い、学問的な「批判」には左右されないことが日本人のあるべき姿である。     (続く)

2011年9月22日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(23) (20110922)

 古代に天皇の宮殿に匹敵するような邸宅を造り、それを「上の宮門(みかど)」「谷の宮門」と呼ばせ、さらに自分の子女たちを「皇子」と呼ばせ、また畝傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した人物がいた。その名は蘇我入鹿(そがのいるか)である。その父・蘇我蝦夷(そがのえみし)は、天皇の許可なしに入鹿や弟を大臣にしている。

 蘇我本宗家は蘇我稲目(そがのいなめ)→蘇我馬子(そがのうまこ)→蘇我蝦夷→蘇我入鹿と続いたが、入鹿は中大兄皇子(後の天智天皇)に大極殿で誅伐され首を刎ねられた。その翌日父の蝦夷は自分の邸宅に火を付け自害し、代々大臣を出した蘇我本宗家は途絶えた。傍流に石川氏あり蘇我一族は一定の命脈を保つことができた。聖徳太子が蝦夷と語り合って書き上げられた『天皇紀』は蝦夷が自宅に火をつけた時焼失し、『国紀』はかろうじて焼失を免れ中大兄皇子に奉献されたが史料としては残っていない。

 蘇我本宗家一族は仏教の導入という今日の日本にとって重要な精神文化の礎を築いた功績がある。しかし天皇をないがしろにした罪は重かった。もし入鹿が誅伐されなかったら皇統は今日まで続いたかどうか、大化の改新という形で日本国の基礎が築かれたかどうか。

中大兄皇子の腹心の中臣鎌足は蘇我氏傍流の石川麻呂を味方につけ、中大兄皇子が入鹿を成敗することを助けた。蝦夷誅伐は中大兄皇子にしかできないことであった。古代ではそういう形でしか、正道を外れる強力な政治家を排除することはできなかったのだ。

天智天皇系の聖武天皇の皇女・阿倍内親王(あべないしんのう)(後の孝謙・称徳天皇)が孝謙天皇であったとき道鏡によって皇統が途絶えそうなときがあった。このとき正しい道に戻そうとして行動を起こし失敗した大伴氏族は謀反の罪で没落してゆく状況になってしまった。大伴氏・佐伯氏は古来代々天皇を護る役目を負ってきた氏族であった。

聖徳太子が初代女性天皇・推古天皇の皇太子・摂政であった時、聖徳太子は天皇になることはなかったが、推古天皇の次は神武天皇以来の男系の皇統で続いた。孝謙天皇の時も宇佐神宮のお告げで道鏡が宮廷から追い出され、男系の皇統を維持することができた。

日本は有史以来初めて外国の軍隊によってこの国土が支配され、「勝てば官軍」のような極東軍事裁判の判決で天皇を護りとおした東条英機元首相・陸軍大将ら七人の侍がナチス同様の罪を着せられ処刑された。
古来いろいろな事件がありながらも、その時々に皇統を護ろうとする人物が現れ、男系の皇統が今日まで続いている。小泉首相のとき自虐史観に捉われているとしか思えない学者らにより、危うく女性天皇でない女系天皇を認める法案が作られそうになったが、秋篠宮に男子が授かり、男系の皇統がかろうじて続く状況にある。しかし非常に心細いかぎりである。旧皇族を皇族に戻し、男系天皇が維持されるようにすることが必要である。

そのためには、この国に皇国史観を取り戻さなければならない。天皇をないがしろにするような勢力は一掃されなければならない。渡部昇一『日本史』は日本人を自虐史観から脱皮させ、日本人に皇国史観をもってもらうための非常に適切な書物である。  (続く)

2011年9月21日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(22) (20110921)

日本人の思想を形づくる二本の柱

 当時の日本人の思想をしる知るためには、山上憶良(やまのうえのおくら)の「好去好来(こうきょこうらい)の歌」という長歌(ちょうか)が参考になる。

 その一節に、「神代(かみよ)より言ひて伝(つ)て来(け)らく そらみつ 大和(やまと)の国は 皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国 言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国と 語り継(つ)ぎ 言(い)ひ継がひけり」とある。 

 ここで山上憶良は日本の特徴を「皇神(すめらぎ)の厳(いつく)しき国」すなわち王朝が神代から変わらない国であるといい、また「言霊(ことだま)の幸(さき)はふ国」すなわち言葉に対する信仰があると述べている。それゆえに尊い国であるというのである。

 これは山上憶良が述べているところが非常に重要である。山上憶良の父親は朝鮮半島に駐在していた日本の武人であり、天智二年(六六三年)白村江(はくすきのえ)の戦いで日本軍が唐と新羅の連合軍に敗れたとき、四歳であった憶良を連れて日本に引き揚げてきた。つまり憶良はその頃の朝鮮を見ているのである。

 また憶良は、その後、大宝二年(七〇二年)に第七次遣唐使とともに唐に渡り、唐の都、長安(ちょうあん)にも行っている。つまり憶良は、当時の人としてはきわめて稀(まれ)な日本の知識人なのである。

 その人が朝鮮半島やシナ大陸の王朝を頭に入れながら、日本の特徴として王朝と言語の二点を挙げている点に注目したいと思う。シナや朝鮮と比べて日本を際立たせるものは、神話の時代から続いている万世一系(ばんせいいっけい)の皇室であり、「やまとことば」であるというのである。

 実際、和歌には外国語と意識される単語は入れず、「やまとことば」しか使わないというのが伝統であった。・・(中略)・・和歌に外来語は使わないという伝統は明治時代まで

ずっと続いていた。”

 山上憶良の「神代より・・」の長歌は、万葉集巻五・八九四に収録されている。この歌を『NHK日めくり万葉集』の選者として、リービ英雄(本名リービ・ヒデオ・イアン)というアメリカ人で法政大学国際文化部教授が解説している。以下“”で引用する。

 “自分の国を称賛する表現は、世界中どこにでもありますが、私の国は言葉の魂が活発な国であるという、この表現こそ、僕は日本独自のものではないかと思いました。

 憶良は異国から日本に渡り、この島国の表現者となった、ということがわかったときに、僕はすごい解放感を感じました。自分が何人(なにじん)だとか、どこの生まれだなどということは、じつは近代的な発想です。はたして奈良時代の人たちに、そんな意識があったのかどうか。・・(中略)・・朝鮮や中国と並べたなかで、日本語の特徴は「言霊」にあると書いている。これは僕にとってちょっとした発見でした。”

 日本人自身が気づいていないことを外国人が気づいてくれている。有り難い! (続く) 

2011年9月20日火曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(21) (20110920)

 「中国出身の金さんは、大谷大学の大学院で日本の古典文学を学ぶ留学生です。十一年という年月をかけて「万葉集」全四千五百十六首を中国語に翻訳し、北京で出版しました。

子どものころから詩を作ってきた金さんは、万葉集に出合い強くひかれたといいます。」

『NHK日めくり万葉集』に選者の金さんの言葉が出ている。

 「万葉集を読んで感動して、昔の日本人の自然や人に対する優しい気持ちを、いまの中国人に伝えたいと思いました。」「この「序詞」の部分は栲島を引き出すだけではなく、歌中の少女、織り機、櫛、島、浪間など一連のイメージが、豊かな創造空間を作り上げています。」

 「金さんの中国語訳です。想像力を刺激された金さんは、歌を詠んだ旅人の心情にまで思いを馳せます。」

(万葉集)

 娘子(おとめ)らが 織(お)る機(はた)の上(うえ)を ま櫛(くし)もち

       掻上(かか)げ栲島(たくしま) 波(なみ)の間(ま)ゆ見(み)ゆ

(金 偉 訳・中国語)

 少女的織布机上 透過細密的梳歯 能看見浪間栲島 (『NHK日めくり万葉集』より)

 昭和20815日正午、前日に交付された「大東亜戦争終結の詔書」が天皇陛下の肉声で発表された。ポツダム宣言受託は前日の14日であった。この時から日本人の精神は連続性を絶たれることになり、翌年102日にマッカーサーが指揮するGHQ(連合国総司令部)が設置されて以降、次々出された命令により日本人の精神構造を変えさせられて行った。なおこの年(相和21年)429日、天皇誕生日に極東軍事裁判所で戦犯とされた人たちの起訴が行われた。何故、それが天皇誕生日になったのかと悪意を感じる。

 極東軍事裁判(「東京裁判」ともいう)が昭和231112日に結審し、東条英機元首相ら七人にナチスドイツ並みの罪で死刑を宣告された。東京裁判は日本人に自虐史観を植え付けた。こうして戦前の良い精神までもすべて否定され、日本人の精神は完全に断絶された。菅元首相ら民主党の主要なメンバーや多くの民主党員が国旗国歌を否定し、国家観なき首相が入れ替わり、この日本を混迷状態にしている。

 このままでは、我々の子孫は悲しい思いをすることになる。この国は今暗い闇に包まれている。その闇の元はこの日本が再び往時のような強く輝いている国に戻ることを嫌う近隣諸国の指導層の一部の人々や、日本国内に住む反日的な外国人や、日本人でありながら反国家思想を持ち、行動している人たちが作っている。私自身を含め国を憂える人々は、やり場のないような不安感を募らせている。

 そういう中、金 氏やドナルド・キーン氏や、台湾で和歌に親しむ台湾の人たちのように、日本の精神を理解する外国人が現れ、心ある日本人を励ましてくれている。非常に有り難いことである。                         (続く)

2011年9月19日月曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(20) (20110919)

 “「和歌」の前の平等

 古事記』や『日本書紀』だけでなく、日本は意外に古代の文献が残っている国である。八世紀に成立した『万葉集(まんようしゅう)』には身分にかんけいなく、天皇から乞食(こじき)や遊女に至るまでの歌が載せられている。まさに国民的歌集と呼ぶべきものである。

 一方で、乞食や遊女の歌が天皇と同じ歌集に載るとはどういうことなのかと不思議になるが、これは当時の日本人の考え方を見る一つの鍵(かぎ)になる。

 ある国民の特徴を見るとき、彼らが「何の前において万人が平等であると考えているか」という見方をすると、大いに参考になる。例えば一神教の国では、万人は神の前に平等である。古代ローマでは法の前に平等であった。また、シナでは皇帝の前に平等で皇帝だけが偉かった、という見方ができる。

 ところが日本の場合は変わっていて、「和歌の前に平等」という思想があったようである。・・(中略)・・

 「日本には言霊(ことだま)信仰があって、言葉に霊力があると信じられていた。それゆえ日本語というものに対して特別の尊敬心があった。それを上手(うま)く使える人間は、人の心を動かすことができる。ゆえに、和歌ができる人は天皇と同じ本に名前を入れる価値があるという発想があったと思われる。

 しかしこれは後年になると多少緩(ゆる)んできて、あまり身分の低い人や罪人の場合は「読み人知らず」として勅撰(ちょくせん)集の中に入れるようになった。ただし「読み人知らず」とされても、だいたい誰だかわかっているようなものであった。”

 かくのみに ありけるものを 萩(はぎ)の花(はな)

       咲(さ)きてありやと 問(と)ひし君(きみ)はも 

              巻三・四五五  余明軍(よのみょうぐん)

 (このように はかなく亡くなられる お命でしたのに 「萩の花は咲いているか」と  お尋ねになった君は ああ) (『NHK日めくり万葉集』 選者・壇 ふみ より引用)

 余という氏姓は663年白村江の戦いで日本軍が唐・新羅連合軍に敗退した後、日本に引き揚げてきた百済の王族の子孫であることを示すものであろう。上記本にある解説によると、大納言大伴旅人が薨(こう)じたとき、資人(従者のこと)の余明軍が五首の挽歌を作り旅人を追悼した、その中の一首であるという。

 娘子(おとめ)らが 織(お)る機(はた)の上(うえ)を ま櫛(くし)もち

       掻上(かか)げ栲島(たくしま) 波(なみ)の間(ま)ゆ見(み)ゆ

              巻七・一二三三 作者不詳

 (おとめたちが布を織る 織り機の上の糸を 櫛で 掻き上げ、束ねる 「たく」という名の栲島が 波の間から見える) 選者・金 偉 (大学院留学生・中国)  (続く)

2011年9月18日日曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(19) (20110918)

 反皇室左翼史観と、コリア人の圧力に媚びた卑屈な歴史学者たちが合流して

 “神武天皇以下の記事を見ると『古事記』にも『日本書紀』にも天皇の悪行は悪行としてそのまま書いてあることに注目すべきだろう。

 例えば『古事記』には、第十二代景行(けいこう)天皇の息子である日本武尊(やまとたけるのみこと)が叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に向かって「このように父が私を酷使(こくし)なさるのは、私が死ねばいいと思っていらっしゃるからに違いない」といって嘆く場面がある。

 これは天皇に対する重大な悪口である。しかも、これは『古事記』という皇室御用の語部(かたりべ)による伝承を記録した正史に載っている話である。皇室が編纂した史書であれば、わざわざこのような創作を指示するはずがないから、当時の伝承どおりに書いたとしか受け取れない。

 戦後、記紀は「皇室正当化の書」であうと決めつけてその史的公平さを頭から疑い、問題にしない風潮があった。だが悪事は悪事として書き、また後で述べるように異説も併記してあるのだから、現在の社会主義国の公文書などと比べれば、ずっと自由で公平なものといえるだろう。むしろ、古代においてそのような歴史書があったことに感嘆すべきである。戦後に記紀が無視されたのは、反皇室の左翼史観と、コリア人の圧力に媚(こ)びた卑屈な歴史学者たちが合流したためである。

 その点で、『古事記』や『日本書紀』のような公平な歴史書があるというのは日本の誇りといってもよい。それを無視して大陸の歴史書の記述を無批判に受け入れるというのは、本末転倒というものである。”

 そう、コリア人に媚びた学者たちがこの日本でオピニオンリーダーのようになって一般大衆を扇動しているようなことが実際に起きていないだろうか?戦後間もない昭和48年にコリア人のルーツである騎馬民族がこの日本にやってきて大和朝廷を建てたという仮説を立て学会に大きな影響を与えたのが東京大学東洋史学者江上波夫氏であった。彼は文化勲章まで貰ったが彼の唱えた説は本になり多くの日本人が詠み、彼の所説を担ぐ小説家も現れ、日本人の中には天皇の祖先はコリア人であると思った人も少なくない。小沢一郎氏は韓国を訪れた際、韓国人の前でそのような発言をした。

 新石器時代(日本では縄文時代)以降について言えば、コリア人と日本人とはルーツが違うのである。勿論、縄文以前の段階では、ルーツは同じの場合がある。そのことはミトコンドリア遺伝子とY染色体遺伝子についてほとんど日本人にしかない遺伝子、あるいは日本人以外ではチベット人にしかない遺伝子、黄河文明よりも1000年古い長江文明の遺跡から発見された物が日本の遺跡から発見されたものとよく似ていること、北方漢族の圧迫を山間部に逃れた苗族の風習・食べ物・建物などが日本のそれとよく似ていることなどから指摘される。                           (続く)

2011年9月17日土曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(18) (20110917)

 三韓征伐と広開土王碑

 その大陸との関係といえば、戦前の歴史では神功(じんぐう)皇后の三韓征伐(さんかんせいばつ)というものが重視されていた。『日本書紀』によれば、これは西暦200年頃、急死した仲哀(ちゅうあい)天皇に代わって、その后(きさき)である神功皇后が朝鮮(当時の三韓)を征伐したという話である。韓国側の史料でも、369年から390年代にかけて日本がかなり大規模な遠征を行ったことになっている。

 戦後は多くの歴史家から異論が出て、あまり語られなくなったが、戦前は神功皇后の補佐役の武内宿禰(たけのうちのすくね)がお礼の肖像にもなっており、三韓征伐は日本人に広く知られていた。

 しかしその事実が単なる作り話ではないことを示唆する非常に重要な史料がある。それは北朝鮮との国境に近い旧満州のあたり(中国吉林(きつりん)省の鴨緑江(おうりょくこう)中流北岸に残っている高句麗(こうくり)の広開土王(こうかいどおう)の碑である。これは現存する東アジアで最大の碑であるが、その中に西暦400年前後の倭の軍隊が百済(くだら)・新羅(しらぎ)を征服し、今の平城近くのあたりまで攻め込んだという話が刻まれているのである。

 百残新羅旧是属民/由来朝貢而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民
 九年己亥百残違誓与倭和/通王巡下平壌而新羅遣使白王云倭人満其国境潰破
 城池以奴客為民帰(□は欠字。『国史大辞典』吉川弘文館より)

 百済(くだら)新羅(しらぎ)は旧(もと)(これ)属民(ぞくみん)なり。由来朝貢(ちょうこう)す。而(しか)るに倭(わ)、辛卯(かのとう)の年を以(もっ)て来(きた)り、海を渡り、百残□□新羅を破り、以(もっ)て臣民と為(な)す。九年己亥(つちのとい)、百残誓(ちかい)に違(たが)い倭と和通す。王巡りて平壌(へいじょう)に下る。而るに新羅使(つかい)を遣(つか)わして王に白(もう)していわく、倭人国境に満ち、城池(じょうち)を潰破(かいは)し、奴客を以て民となして帰る。

 これは当時の碑に刻まれているわけであるから、多少事実が不正確であったとしても、全くの嘘ということではあるまい。

 ではこの碑文は何を示しているかというと、当時の日本には非常に強大なる中央政権がすでに成立していて朝鮮半島に兵を出し征服するという相当な軍事力を持っていたという事実である。同時に、日本が南朝鮮に任那(みまな)のような植民地を持っていたという伝承も嘘とはいえないという傍証(ぼうしょう)になるだろう。”

 このことについて、『日本列島の大王たち』(朝日文庫)を書いた古田武彦氏は、銅鐸などの考古物の分布その他を検証しながら「朝鮮半島南部には北九州にいた豪族に支配下の倭人が住んでいてその倭人の軍隊が三韓征伐を行った。その豪族の親族である日向の一族(後の神武天皇)が各地の豪族の協力により東征し即位したあと、北九州の豪族の歴史を自分の歴史にしてしまった」というようなことを言っている。        (続く)

2011年9月16日金曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(17) (20110916)

 “無意味な『魏志倭人伝」

 その後の天皇に関する記録は、日本において非常に詳しく記されているが、それに相応する大陸の記録がないという理由で、歴史学の世界では無視されがちである。しかし、それはないのが当たり前である。日本の中で起こっている出来事を、海を隔てた隣の国が細かく知るわけがないではないか。そもそも日本の歴史を解釈するのにシナの古い歴史書を拠りどころにしようとするのがおかしい。これは江戸時代の山片蟠桃(やまがたばんとう)という人も指摘しており、戦前の歴史でもその常識は守られていた。戦後は『魏志倭人伝』からはじまって、大陸の歴史から日本の歴史を理解しようという動きがある。しかし、これほど滑稽なことはない。・・(中略)・・「魏志倭人伝」は昔の日本人の学者も知っていたが、戦前はまともに取り上げられなかった。それは以上のような理由で、大陸の学者に日本の歴史が正確にわかるわけはないという常識が生きていたからである。”と渡部昇一先生は言う。

岩間 弘という方が書いた『大東亜解放戦争』上・下巻(創栄出版)という本がある。岩間 氏は昭和3(1928)に台湾台中市で生まれた方で、昭和15年にこの本を出版した岩間書店を設立している。その本は日本人皆が是非一読すべき本であると私は思っている。

 その本に“日本神話を抹殺した教科書が文部(科学)省の検定に合格している。合格させた文部(科学)省の見識を疑う。一例をひくと東京書籍の歴史には次の様に書いてある。「・・・・そのころ、日本には邪馬台国(やまたいこく)という国があり、魏(ぎ)と交わりを結んだ。・・(中略)・・魏の皇帝から倭王という称号と金印を授けられ、また銅鏡百枚など、たくさんの贈り物を授けられた」と書かれている。どこにも日本の神話として古事記、日本書紀に書かれている天照大神も三種の神器も神武天皇も出て来ない。・・(中略)・・ 

文字が無かったのである。その日本語を悪意を持って書いたのが魏志倭人伝(ぎしわじんでん)である。「邪馬台国(やまたいこく)は大和国(やまとのくに)・・(中略)・・「卑弥呼」は「日御子(ひみこ)或いは「日美子(ひみこ)即ち「天照大神」・・(後略)。”

岩波文庫『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭國伝・隋書倭國伝』の隋書倭國傳に「都於邪痲靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。」とある。靡は摩の誤写である。堆は中国音で‘トゥイ’臺は‘タイ’である。古代の日本語の音を中国人が聴いて中国の文字を当てて書いたものであるので、「痲靡堆」も「邪馬臺」も、講談社学術文庫『倭国伝 中国正史に書かれた日本』にあるように「やまと」であると思う。

 なお隋書倭國傳には、「新羅・百濟皆以倭爲大國多珍物、並敬仰之、恆通使往來。(新羅(しんら)・百済(ひゃくさい)は、皆倭を以って大国にして、珍物多しと為し、並に之を敬仰して、恒に使いを通じて往来す。)」とある。聖徳太子の昔、日本に朝鮮半島から朝貢があったことが記されている。ちなみに『日本書紀』(岩波文庫)推古天皇の時、百済から駱駝やロバなどが貢がれたとか、新羅を攻めたなどの記述がある。 (続く)

2011年9月15日木曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(16) (20110915)

 「皇国史観」について考える――「皇国」の意味

 広辞苑によれば、「皇国」とは「天皇が統治する国の意。我が国の旧称。すめらみくに」とある。また「統治」とは「統(す)べおさめること。主権者が国土及び人民を支配すること」とある。

 旧憲法(大日本帝国憲法)には第一章に天皇のことが書かれており、第一条に「大日本帝國は萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。そしてその統治の仕方については第四条に「統治権を総攬シ此ノ憲法の條規ニ依リ之ヲ行フ」とある。「総攬」とは「(政事・人心などを一手に掌握すること)である。天皇は統治権を一手に掌握するにあたり、法律の「条文の規定・規則」に依ることが定められている。つまり、天皇といえども勝手に日本国土や国民を支配するようなことはもともと出来ないようになっているのである。

 大日本帝国憲法第五条には「天皇ハ帝國議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」とあり、第十一条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥スル」とある。この「統帥」とは、「軍隊を統(す)べ率いること」である。この天皇の統帥も法律の条文の規定・規則によって行うものであって、天皇が勝手に行うものではない。

 大日本帝国憲法第二章タイトルは「臣民権利義務」である。第十八条に「日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ム所ニヨル」とある。「臣民」とは、「明治憲法のもとで、日本の人民。天皇・皇公族以外の者」とある。ちなみに「人民」とは「①国家社会を構成する人。特に、国家の支配者に対して被支配者をいう。②官位を持たぬ人。平民」である。

 今の憲法では「統治権」や「臣民」という言葉はない。旧憲法でその言葉があるが、それも天皇が勝手に人民を支配するのではなく、法律の条文の規定・規則に依るものであり、法律を作るにあたっては議会の協賛をもって行うものである。

つまり旧憲法下でも天皇は象徴的存在であったのである。ただ、天皇の祖先は『古事記』『日本書紀』の「神代」にあることが不文律として強調されていたので、その分天皇は象徴以上の権威を持っていただけである。

天皇が「象徴」的存在であったのは何も現憲法で明記されていなくても、平安時代の昔から天皇は事実上「象徴」であった。天皇が幼少の時には「摂政」が置かれたし、天皇を補佐して政治の実務を行う「関白」も置かれた。「関白」が置かれる前は、このブログの記事「渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(13) (20110912)」に書いたように天皇の意思を示す「詔書」を発する場合、今の閣議に似た手続きを経た後でなければ発布されることはなかった。

「皇国」や「臣民」という言葉に関して、「神代」の神々が天皇だけの祖先ではなく、一般国民の祖先も『記紀』の「神代」につながるものであるという遺伝学的な歴史観が一般国民に理解され共有されれば、現憲法下でもこの日本国は「皇国」であり、日本国民は「臣民」であることに全く変わりはないのである。             (続く)

2011年9月14日水曜日

渡部昇一『日本史』を読んで日本人はどうあるべきか考える(15) (20110914)

 『古事記』『日本書紀』に書かれた「神代」は、全日本人が共有している。

 記紀の「神代(かみのよ)」は天皇家の御先祖につながる歴史物語である。この歴史物語は全日本人の先祖につながるものである。なぜかと言うと我々日本人はそれぞれの形質の何処かに天皇家の御先祖の形質が含まれているからである。極端なことを言えば、例えば山手線のある列車の座席に座ったとき、隣に座っている人とは何百年、何千年かの昔、共通の親がいたということが起きているのである。

 1000年前、日本の人口は500万人ぐらいだった。一組の親に二人子供がいたとし、25年で世代が代わると仮定する。1000年後(西暦2000年、平成12年)には単純計算で240乗、つまり1兆人になる。実際は127百万人である。ということは西暦2000年に生きている人が1000年前にさかのぼると、同じ母親だったり父親だったりするということである。まして「神代」においてはもっと凝縮されるということである。

従って記紀の「神代(かみのよ)」は天皇家の御先祖につながるだけでなく、全日本人の先祖にもつながっているのである。従って記紀に書かれている「神話」は全日本人共有の歴史物語であるのである。

我々日本人は縄文人や渡来系弥生人の形質を、また日本に渡来して帰化した漢人・ツングース系の人々・モンゴル系の人々など雑多な形質を、目とか瞼とか鼻とか口とか歯とか髪とかからだの何処かに持っている。戦後日本に帰化した在日韓国・北朝鮮の人々の形質も、今後何世代も交雑して行くうちにその形質の特徴が薄められ、日本人と全く変わらなくなる。それが「同化」ということである。かくして日本人は誰でも「神代」の歴史物語に登場する神々を先祖にもつことになる。

記紀の「神代」は天皇家の御先祖につながる歴史物語である。同時にそれは全日本人の先祖につながる神話でもある。反日的な思想家・活動家たちは皇国史観に強い反発心を抱いている。デモで「日の丸は要らない」「天皇制は要らない」などと叫ぶ。彼らは天に唾をするようなものである。自分自身のアイデンティティを否定しているようなものである。

日本には万世一系の天皇がいる。天皇家は全日本人の家の宗家のようなものである。このようにしてこの日本には秩序が保たれている。このような歴史観が皇国史観である。皇国史観は全日本人の共通の先祖を崇める歴史観であり、天皇家ための歴史観ではない。

日の丸の国旗や「君が代」の国歌を尊重し、国旗に敬意を表し、天皇を崇敬し、「教育勅語」を道徳の基本とすることが、日本人のアイデンティティを高めることになる。子供の時から家庭で、学校で機会あるたびにそのアイデンティティについて教え込まれれば、この国は本当に素晴らしい国になる。上述反日的な思想家・活動家たちはそのような教育を全く受けていないからアイデンティティの不安を抱えている。アイデンティティの不安があるため、日本人でありながら反日的な活動をし、社会の秩序を乱しているのである。(続く)