2011年2月28日月曜日

武士道(続)(20110228)

 新渡戸稲造『武士道』第13章は「刀」について、第14章は「女性」について述べられている。一読して思ったことは、近年の幼稚な大人のことである。大学入学式・卒業式に親が出席し、親が甘やかすから20歳をとっくに過ぎて30歳、40歳になっていても親の家に同居したがる子供のことである。これらはおかしな社会現象である。

 今ではどうだか判らないが、30年ぐらい前のアメリカでは、子供が18歳になってハイスクールを卒業するとき、男子はタキシード、女子はドレスに身をまとい、ダンスパーティに出席するという、大人になるためのある種の通過儀礼があった。また、父親は18歳の息子にボストンバッグを一つ与え、家から追い出した。今の日本で、自分の子供を厳しく、しかし深い愛情をもって教え導き、育て、自立させてゆこうという親が圧倒的多数であると言えるだろうか? 遠隔地の大学や専門学校に、自分の子供を下宿または寮生活をさせて通わせている親が、子供の要求に応じて自動車まで買い与えている親がいる。働きのない者にマイカーなど与え贅沢をさせる親ばかがいる。彼らは今その結果に苦しんでいる。

 新渡戸稲造のその本に書かれているが、武士の息子は数えの5歳になったらサムライの正装をして碁盤の上に立ち、それまでもてあそんでいた玩具の短刀の代わりに本物の刀を腰に差すという儀式があった。その儀式以降、その男子は屋敷の外に出かけるときは、その刀を腰に差していた。

勿論、外出時にはその男子に誰かがつき従って(付き添って)いた。そして、その男子が15歳になったら元服し、独りだちの行動が許されると、彼はいまやどんな時にも役にたちうる鋭利な武器を所持することに誇りを感じる。危険な武器を持つことは、一面、彼に自尊心や責任感を抱かせるのである。

昔、「刀」は「武士」としての忠誠と名誉の象徴であった。今の時代の「武士」の「役割」を担っている人びと、これまで再三言ってきた国会議員や地方議会議員、官僚、末尾に「官」がつく公務員、英語で自衛官のことをself defense official などと言わずsoldierまたはmilitary man というと思うが、そういった人びとの忠誠や名誉の象徴として、「刀」に代わるものは何だろうか? バッジや手帳、警察官なら腰のピストル、制服、制服の胸などにつける 徽章・階級章・勲章などがそれらに相当するのだろうと思う。

昔、武家の男の子なら5歳のときと15歳のとき、それぞれある種の通過儀礼があった。今の時代、それに代わるものは何だろうか? 近年の成人式には、以前のような厳粛さはなくなり、半ば何かのショーのようになっている。公的な通過儀礼がきちんと制度化されていないから、大人になりきれない大人が増え、いつまでも親にかかる無能な子供ができてしまうのである。

民主党は、「最小不幸を実現」しようという。それは今の時代の大衆に迎合した発想である。それよりは社会教育を充実させて親たちを再教育するシステムを作った方が良い。今の時代の「武士道」を確立するところに日本の再生の道があると確信する。

2011年2月27日日曜日

武士道(続)(20110227)

 新渡戸稲造は「知的生き方文庫」『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)の中で、「切腹」についてもう一つの例をあげている。ここにその全文を引用する。

「左近と内記という、それぞれ24歳と17歳になる兄弟が父の仇を討つべく、家康を襲おうとした。しかし無念にも家康の陣屋に突入する前に捕らわれてしまった。家康は彼の命を狙った若者たちの勇敢さを讃え、彼らに名誉ある死を与えるように命じた。

 この刑の宣告は、兄弟の一族すべての男子に命ぜられたので、二人の若者の末弟であるわずか八歳の八麿も同じ運命であることをいいわたされた。そしてこの三名は処刑が行われることになっている寺へ引き立てられていった。その場に立ち会った医者がその一部始終を日記に残している。そこには次のような情景が書かれている。

 「最期の時を迎え、三人が一列に着席したとき、左近は末なる弟に向かい、『八麿よりまず腹を切られい。切損じなきよう見届けてくれよう』といった。幼い弟は答えて、いまだ『切腹』を見たことがないので、兄たちの作法を見て、その後につづきたい、と申し述べた。二人の兄は涙ながら微笑んで『よくぞ申した。それでこそわれらが父の子なるぞ』といった。そこで二人の間に末弟八麿を座らせ、左近は自分の腹の左側に短刀を突き刺していった。

 『見よや八麿、会得せしか。あまり深く掻くべからず。仰向けに倒れるがゆえに。前に俯伏(うつぶ)せ、膝を崩すべからず』

 内記も同様に腹に刃を突き刺しながらいった。『目を刮(かつ)と開けよや。さもなくば女の死顔に似たるぞ。切先(きっさき)が腸(はらわた)に触るとも、力たわむとも、勇を鼓して引きまわせ』と。八麿は二人の兄を交互に見た。二人とも果てると、八麿は静かに上体を露わにして、両側から教えられた範に従って従容として死に就いた」

 「武士道における生きる勇気と死ぬ勇気」というサブタイトルで、新渡戸稲造は言う。もっとも悲しむべきことは、名誉にも「計算」がつきまとっていたことである。
真のサムライにとっては、いたずらに死に急ぐことや死を恋いこがれることは卑怯と同義であった。 
あらゆる困苦、逆境にも忍耐と高潔な心をもって立ち向かう。これが武士道の教えであった。それは孟子が教えたとおりのことであった。「天の将(まさ)に大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ず先(ま)ずその心志を苦しめ、その筋骨を労し、その体膚を餓やし、その身を空乏し、行い其の為(な)すところに払乱せしむ。心を動かし、性を忍び、その能(あた)わざるところを曾益(ぞうえき)せしむる所以なり」(「告子章句」下一七五)
真の名誉とは、天の命ずるところをまっとうするにある。そのためには死を招いても不名誉とはされない。天が与えようとしているものを避けるための死は、卑怯きわまりない。

 戦艦大和の最後の片道燃料の出撃、硫黄島の玉砕などについて、それを命じた側の海軍軍令部や大本営に勤めていた参謀たちは、武士道精神に照らしてどうであったか?

2011年2月26日土曜日

武士道(続)(20110226)

 再度、丁重な辞儀を繰り返した後、善三郎は次のように口上を述べた。その声には痛ましい告白をする人から予想される程度の感情の高ぶりと躊躇が表れてはいたが、その顔色や物腰には少しもそのような様子が見受けられなかった。

 ‘拙者はただ一人、無分別にも誤って神戸において外国人に対し、発砲の命を下し、その逃れんとするを見て、再度(ふたたび)撃ちかけしめ候。拙者今、その罪を負いて切腹致す。各々方には検視の御役目御苦労に存じおり候’

 再度の一礼ののち、善三郎は裃(かみしも)を帯のあたりまで脱ぎさげ、上半身を露(あら)わにした。慣例どおり。注意深く彼はその袖を膝の下へ敷きこみ、後方へ倒れないようにした。身分のある日本の武人は前向けに倒れて死ぬものとされていたからである。

 善三郎はおもむろに、しっかりした手つきで、前に置かれた短刀をとりあげた。ひととき彼はそれをさもいとおしい物であるかのようにながめた。最期のときのために、彼はしばらくの間、考えを集中しているかのように見えた。

 そして、善三郎はその短刀で左の腹下を強く突き刺し、次いでゆっくりと右側へ引き、そこで刃の向きをかえてやや上方へ切りあげた。このすさまじい苦痛にみちた動作を行う間中、彼は顔の筋ひとつも動かさなかった。短刀を引き抜いた善三郎はやおら前方に身を傾け、首を差し出した。そのとき、初めて苦痛の表情が彼の顔を横切った。だが、声はなかった。

 その瞬間、それまで善三郎のそばにうずくまって、事の次第を細大もらさず見つめていた‘介錯’が立ち上がり、一瞬、空中で剣を構えた。

 一閃、重々しくあたりの空気を引き裂くような音、どうとばかりに倒れる物体。太刀の一撃でたちまち首と胴体は切り離れた。

 堂内寂として声なく、ただわれわれの面前にあるもはや生命を失った肉塊から、どくどくと流れ出る血潮の恐ろしげな音が聞こえるだけであった。一瞬前まで勇者として礼儀正しい偉丈夫はかくも無残に変わり果てたのだ。それは見るも恐ろしい光景であった。

 ‘介錯’は低く一礼し、あらかじめ用意された白紙で刀をぬぐい、切腹の座から引下きさがった。血塗られた短刀は、仕置きの血の証拠として、おごそかにもち去られた。

 それから‘ミカド’の政府の検視役二人は座を立ち、外国の検視役の座っているところへ近づき、滝善三郎の死の処分が滞りなく遂行されたことをあらためられたい、と申し述べた。
 儀式は終わり、われわれは寺を後にした。」
滝善三郎辞世(同上の本、注より引用)
  幾(き)のふみし 夢は今更引きかへて 神戸が宇良に 名をやあけなむ
今の時代の「武士」の役割を担う海上保安官であった一色正春氏は、国の為尖閣ビデオを公開し、国家公務員としての罪に服し、「退官」という今の時代の「切腹」をしたのである。

2011年2月25日金曜日

武士道(続)(20110225)

 新渡戸稲造『武士道』(奈良本辰也訳・解説、三笠書房刊)より、Mitford Tales of Old Japan”「切腹」部分全文引用。Mitfordは、下記七人の外国人検視役の一人であった。

「われわれ(七人の外国使節団)は、日本側の検視役に先導されて、その寺院の本堂へ招じ入れられた。ここで切腹の儀式が行われることになっているのである。その儀式はまことに堂々としていて、忘れ得ぬ光景であった。

本堂の屋根は高く、黒ずんだ柱で支えられていた。天井からは仏教寺院特有の巨大な金色の灯篭や、飾りがたくさん垂れ下がっていた。正面の一段高く仏壇の前には、床から三、四寸高くなっている座が設けられている。そこには美しい新畳が敷かれ、赤い毛氈(もうせん)がのべられていた。等間隔にならんでいる丈の高い燭台はほの暗く、神秘的な光を放っていた。それはここで行われることの進行を見守るには十分な明るさであった。七人の日本人検視役が切腹の座に向かって右側に、七人の外国人検視役は左側に着席した。そのほかには誰もこの場所に居合わせる者はいなかった。

心落ち着かない数分が過ぎ、やがてたくましい32歳になる偉丈夫、滝善三郎(備前岡山藩士。同藩家老日置忠尚の乗った輿(こし)が神戸の外国人居留地を通過した際に起きた事件で、外国の圧力に屈した新政府から家老は謹慎、家老の警備責任者であった善三郎は自刃を命じられた。辞世は後に記す。)が、静々と本堂に歩を運んできた。

彼はこの儀式のために麻の裃(かみしも)に身を包んでいた。彼は一人の‘介錯’人と金糸の縫いとりのついた陣羽織を着た三人の役人をつき従えていた。‘介錯’という言葉は英語のexcutioner(処刑人)とは同義語ではない、ということをまずことわっておかなければならない。その役目は立派な身分がある者が行う。たいていは切腹する者の一族か、友人によって行われる。

この両者の関係は、犠牲者と処刑人という関係ではない。むしろ主役と脇役という関係である。今回の‘介錯’は滝善三郎の弟子の一人であった。彼は剣の達人だということで朋輩から選ばれたのであった。

やがて‘介錯’を左に従えて、滝善三郎はやおら日本人検視役のほうへ進み出た。二人は検視役に向かって丁重に辞儀をして、ついで外国人検視役のほうに近づいて、同様に一段と丁重な挨拶をした。どちらの検視役もおごそかな答礼でこたえた。

そこで、この咎人(とがにん)はゆっくり威風あたりを払う態度で切腹の高座に上り、正面の仏壇にニ度礼拝をしてから仏壇に背を向け、毛氈の上に正座した。‘介錯’は彼の左側にうずくまった。三人の付添いの役人のうち、一人が神仏に献げるときに用いる台――三宝をもって前に進み出た。その三宝には白紙で包まれた‘脇差し’がのせられている。‘脇差し’とは日本の短刀、もしくは匕首(あいくち)のことである。長さはおよそ九寸五分、切っ先と刃はカミソリのように鋭い。役人はこの三宝を咎人に手渡し、一礼した。善三郎は三宝を両手で頭の高さまで捧げ、うやうやしく受けとって、自分の前に置いた。(続く)

2011年2月24日木曜日

武士道(続)(20110224)

 新渡戸稲造は『武士道』第11章を「克己の理想とは、日本人の表現方法によれば、心の安らかさを保つことである。・・(中略)・・克己は次の章で考察する二つの制度、すなわち自殺と仇討の制度のうち、前者においてその極致が達せられ、かつもっともよくあらわれている」という言葉で締めくくっている。

 近年、我が国においては自殺者が毎年3万人以上いる。人口比でみる自殺率はアメリカの2倍で、世界でトップクラスという不名誉な数字である。政府も自殺防止のためいろいろ手を打っているが、成果は上がっていない。

 さて、その次の章・第12章は「切腹」というタイトルで、「生きる勇気、死ぬ勇気」というサブタイトルがついている。新渡戸稲造はソクラテスや、シェイクスピアの「悲劇」に登場するブルータスなど古代ギリシャ・ローマ時代の人物などを引き合いに出して、自殺と切腹の違いを強調し、「今や、読者の皆さんには、切腹が単なる自殺の一手段ではない、ということを理解していただけたであろう。切腹は一つの法制度であり、同時に儀式典礼であった。中世に発明された切腹とは、武士がみずからの罪を償い、過去を謝罪し、不名誉を免れ、朋友を救い、みずからの誠実さを証明する方法であった」と言っている。

 三島由紀夫は、自ら「武士」を演じ、日本人の精神の復興を願い、陸上自衛隊東部方面総監室で、益田総監の前で武士の作法に則り切腹した。介錯をした人が三島の首を一刀のもと離すことができず、益田総監から叱声があったらしい。

 彼が遺した檄文の一節に「われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を汚してゆくのを、歯噛みをしながら見ていなければならなかった」とある。我が国は、未だ彼が嘆いたような状況にある!

 新渡戸稲造は、切腹の実例を長い文章で紹介している。その部分を、明日以降全文引用しようと思う。その趣旨は、カミカゼ特別攻撃が多くの無実の人々を道連れにするテロリストの自爆攻撃、特に9.11テロとは全く同列でないということを、一日本人として世界に訴えたいし、日本は先の戦争に敗れてアメリカの良いところは吸収したが、日本人の心の深奥において決してアメリカナイズされてはいなかったことを主張したかったし、「日本は(アメリカによって)変わったのだから、イラクも変わる」というようなことを、かつてアメリカの某氏が日本との比較において言ったことに反発しているからである。

その一方で、我々日本人自身も目覚めなければならないと、たかが一無名の個人としてではあるが、叫びたいからである。特に一部の「政局」好き、「自己勢力拡大志向」の政治家たちには憤りを感じている。彼らは公言とは裏腹に、真に国のことを考えて行動してはいない。そういう諸々の動機で新渡戸稲造の全文を、明日以降引用するのである。 

2011年2月23日水曜日

武士道(続)(20110223)

 新渡戸稲造『武士道』第11章「人に勝ち、己に克つために」には、「武士(サムライ)」の心得とともに、日本人の表情、笑いの奥に隠された心情についても書かれている。冒頭、「サムライは、感情を顔に出すべからず」というサブタイトルで「武士道においては不平不満を並べ立てない不屈の勇気を訓練することが行われていた。そして他方では礼の訓練があった。それは自己の悲しみ、苦しみを外面に表して他人の愉快や平穏をかき乱すことがないように求めていた」と書かれている。

 新渡戸稲造は「(日清戦争で)ある連隊が出征するとき、連隊長や兵士たちに別れを告げるべく大勢の人が駅頭に集まってきた。そのとき、一人のアメリカ人が、さぞや別れの情景は騒々しいものだろうと予想していて、そこに見物に出かけてきた。・・(中略)・・だが、アメリカ人は期待はずれにがっかりしてしまった。その理由は、発車の合図の汽笛が鳴り、列車が動きはじめると、数千の人びとが静かに脱帽し、うやうやしく頭を垂れて別れの挨拶をしたからである。ハンカチは振られず、言葉も発せられなかった。注意深く耳を澄ましていた人だけが、数人の押し殺したようなすすり泣きの声をようやく聞けたという有様であった。」と、日本人の感情表現の有り様を説明している。

 先日横浜そごうの前で展示されていた一枚の写真を見た。それは、滑走路上を滑走している特攻機に搭乗しているわが息子を見送っている一人の父親の後ろ姿の写真であった。その父親は、これから死に行くわが息子を見送りながら、心中とどめなく悲しくもあり、その一方で「国の為しっかりやれ、みっともないことはするな」と願っていたに違いない。

 アメリカのダニエル・イノウエ上院議員は、ヨーロッパ戦線でドイツ軍と戦い、非常に多くの戦死者を出しながらも「アメリカ史上最強の陸軍」と称賛された日系442連隊の勇士であった。彼自身、戦闘で自分の右腕を失っている。彼が出征するとき、一世の父親は、「いいか、何をしようとも、決して家族と、お前の祖国アメリカに不名誉をもたらすようなことはしないように。この国は私たちによくしてくれた。だから、死ななければならないのなら、名誉ある死を遂げるように」(『歴史通』2010 11月号引用)と言ったという。

 今の時代、日本人のアメリカナイズされたものの考え方や行動について、良い面は沢山あると思う。しかし、日本人は日本人である。感情の表現の仕方は変わっても、その中身まで変えてはならないと思う。日本人は、「武士道精神」を今の時代に合った形でものの考え方や行動の中心に据えることが、今求められているのである。

 上述引用本に『日韓がタブーにする半島の歴史』と題して、室谷克己氏が寄稿している。その冒頭に「民主党の幹事長だった小沢一郎氏が200912月に韓国を訪問したさいに、当地の大学で講演し、‘天皇家の出自は朝鮮半島南部、今の韓国だ’といって喝采を浴びた」とある。桓武天皇のご生母の出自が朝鮮半島であったことは間違いないが、神武天皇以来男系一系である皇統の出自が朝鮮半島にあるという小沢氏の見識には、心ある日本国民誰もが大きな憤りを覚えるであろう。彼には「武士道精神」のかけらも感じられない。

2011年2月22日火曜日

武士道(続)(20110222)

 国会討論をちょっと視聴した。自民党の平沢議員が、民主党の参議院議員比例区代表で当選した某議員が、JR総連出身で革マル派某氏の運転手であったことについて質問し、枝野幹事長や北沢防衛大臣や中野国家委員長や与謝野特命担当大臣が答弁していた。この種の質問・答弁は昨年11月にも行われている。

 政治家を目指す者は、いろいろなバックグラウンドによる支援を頼みにせざるを得ない。ただ、政治家を目指す目的が、反国家的、反社会的な活動を行うことであってはならない。公安調査庁は、法務省の外局としてそのような活動に対して目を光らせていると信じるが、果たして十分機能しているのだろうか?

国会議員の定数削減のことについてはあまり関心が持たれず、公務員の2割削減のことが大きく取り上げられている。国家公務員は、必要なところに必要な人数、十分訓練されて配置されなければならない。国民の安心・安全にかかわる部署・組織に従事している公務員を、一律に削減するというのであれば、それは非常に大きな問題がある。

 新渡戸稲造の『武士道』に面白いことが書かれている。それは、「父親はその威厳を犠牲にして、子を抱くことはできなかった。夫はその妻に口づけをすることはできなかった。私室ではともかく、人前ではなしえなかったのである。ある機知に富んだ青年は‘アメリカ人の夫は人前で妻に口づけをして、私室で打つ。しかし日本人の夫は人前で妻を打って、私室では口づけをする’といった。この比喩の中にはいくらかの真実があるかもしれない」という部分である。

 今の時代、列車を待つホームや、混み合った列車内でキスをしている若者を見かける。周りの人びとは、内心‘みっともない’と思いながらそれを見て見ぬふりをしている。今の時代の日本人は、「恥」の観念が昔と変わってきている。

 国会中継を見ていると、一部の政治家たちは品のない野次や怒声を飛ばし、卑しい仕草や表情を見せている。テレビカメラが入ると、彼らは選挙区向けにパフォーマンスをしているのだろうか? 彼らは、国の事よりも何よりも、議員バッジを付け続けることのほうが大事なのである。国会議員という職業を失いたくないのである。パフォーマンスを「恥」と思っていないのである。

そのように、国会議員であることを職業としているような連中のために国家予算を浪費することは非常に馬鹿げている。同じことは地方議会でも言える。「職業議員」を一掃しなければ、この国の未来は危うい。愛知県や名古屋市や阿久根市で来ていることは、人びとの声なき声の現われである。国民は既成政党に嫌気がさしてきている。

人びとは「恥」を「恥」と意識できる国会議員、地方議員を、心の深奥で求めている。人びとは、今の時代にふさわしい「武士」の「役割」を担う人びとを求めている。それは、無意識的な願望である。名古屋市長・愛知県知事のコンビは、ピエロのように見えるが、そのコンビを実現させたのは、人びとのそのような無意識の現われである。

2011年2月21日月曜日

武士道(続)(20110221)

 民主党のマニフェストの内容は、誰が見ても初めて政権を取ろうとするための営業的な宣伝文句であったことは明白である。その宣伝文句を作った中心人物は何方であったか? その宣伝文句を作るとき、多分小市民的な、人生経験の少ない、物事を大局的に思考することが苦手の方々(女性議員も多かろう)の意見が、反映されていたに違いない。

 しかし、実際に政権をとってみると世の中はそう思うようには行かなかった。子供手当について考えてみると、「国家として子供の教育にもっと予算をかけなければならない」さらには「働きたい母親が働きやすいような環境にしなければならない」ということについて、誰も異論はない。そのことを達成すべき「目的」とすると、次に考えるべきことは、先ず、目的達成のための「方針」と「実施要領」を定めることである。

 その「方針」と「実施要領」は、「財政規律を守ること」及び「予算の最も能率的使用を行うこと」をコモンセンス的な「理念」として、記述されなければならない。その上で、「目的」達成のための「手段」が決定されなければならない。「目的」に対して「手段」が大きければ、それは「無駄」であり、「目的」に対して「手段」が小さければ「無理」が生じる。「目的」と「手段」が均衡してこそ、最も能率的になる。

 然るに、民主党は深く考えもせず、いきなり「手段」を掲げた。一般の大衆は、その「手段」に大きな期待を寄せた。そのようなやり方は、上述のように営業的な宣伝文句を並べ立てて、国民の関心を惹きつけるやり方である。其処には「武士道」の精神はなく、「商人根性」が有るのみである。そのようなことを主導した張本人は何方であったか?
 商人根性を持つものが政治に携わると、決して良いことはない。損得勘定をする人間に国家の命運を委ねてはならない。今こそ必要な政治家は、吉田松陰のように、「国の為に死ぬ」人間である。「武士道」の精神を持った人間である。

 ここに幕末、松下村塾で多くの志士たちを育成した吉田松陰が最期のとき、松陰自ら詠んだ辞世の歌と、処刑される7日前に詠じて郷里に送った詩を記す。松陰は取り調べに対して、自ら「(自分は)死罪に相当する」と述べ、満29歳の若さで小塚原で処刑されている。何とかして取り調べを逃れようとする某政治家の根性とは雲泥の差である。
 
辞世

身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂
親思う 心にまさる親心 けふのおとずれ 何ときくらん

   吾今爲國死 死不負君親
   悠々天地事 鑑照在明神
 
  吾(われ)今 国の為に死す 死して君親に負(そむ)かず
 悠々たり天地の事 鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り

2011年2月20日日曜日

武士道(続)(20110220)

 人びとは、理財(財貨を有利に運用すること)の道に長けた者に憧憬と羨望と、そして軽蔑の目を向ける。数を頼みにしたい政治家は、なんとしてでも理財の道に長け、金銭の力によって自分の配下の数を増やそうと努力する。そのため有能な秘書を雇い、利用できる人物を身近に置こうとする。秘書は、自分が死んでも主人を守り通すことが要求されている。利用できる人物として選ぶ対象は、‘利用する’ため外国人であっても構わない。彼にとって、一応‘国益’を口にするが、本心は、そんなことはどうでもよい。その外国人の‘秘書’(一応‘秘書’という名目であるが、実際は自分の意のままになる‘使用人’)に、たとえ国益を損じるようなことであっても、ある‘仕事’を任せる。彼は、とにかく自分の勢力を増やすことが最大の目標である。

 そのような政治家の出現を嘆いて、新渡戸稲造は『武士道』でこう言っている。「惜しいかな。現代においては、なんと急速に金権政治がはびこってきたことか」と。明治維新は西郷隆盛が自作の詩『天意を識(し)る』で詠じたように、「貧しい家で生まれ育った英傑の士(国難のとき国の為尽くす忠義のサムライ)は、多くの苦難を乗り越えて、叙勲されるに相応しい業績を上げることができる(貧居生傑士、勲業顯多難)」のである。

 新渡戸稲造は「わが武士道は一貫して理財の道を卑しいもの、すなわち道徳的な職務や知的な職業とくらべて卑賤なものとみなしつづけてきた。このように金銭や金銭に対して執着することが無視されてきた結果、武士道そのものは金銭に由来する無数の悪徳から免れてきた。このことがわが国の公務に携わる人びとが長い間堕落を免れていた事実を説明するに足る十分な理由である」と言っている。

 新渡戸稲造は「頭脳の訓練は今日では主として数学の勉強によって助けられている。だが当時は文学の解釈や道義的な議論をたたかわすことによってなされた」と言う。武士を育成する藩校等で使用されていた教材に『論語』がある。新渡戸稲造はその『論語』の一節「学んで思わざればすなわち罔(くら)し、思いて学ばざればすなわち殆(あやう)し」を引用して、当時の武士の子弟には、実践的な目的をもって教育が行われていたと言う。孔子の言葉のその部分は、『論語』巻一為政第二にあり、「子曰、學而不思則罔、思而不學則殆」とある。今度、東京都知事に立候補する渡邊美樹氏は、『論語』を愛読しているという。誠に素晴らしいことである。上述の政治家の精神を養った師は誰だっただろうか?

 日本では藩校、私塾、寺小屋など、公私の教育機関が発達していた。遠く聖武天皇(701-756)の御代には、奈良に東大寺と言う「総合大学」の役割を担う寺が置かれ、各地方に国分寺と国分尼寺という「高等学校」や「専門学校」のような役割も担う寺が置かれた。各地方から集まって来たおよそ1000人の人たちが、東大寺で言語学・論理学・仏教諸学のみならず工学・建築学・医学・薬学など理工系の学問を学んだ後、各地に散って人びとを教育していた。(『世界に開け華厳の花』森本公誠著、春秋社より引用)

 この国の未来は、今の時代の「武士」たちに「目覚めて」もらわないと非常に危うい!

2011年2月19日土曜日

武士道(続)(20110219)

 政治家は何か悪いことをする人たちだ、と小学校の子供たちが思っている。ある小学校でそういう子供たちの意識を改めさせようと、課外授業が行われた。子供たちに、それぞれ自分たちの身近にある問題を見つけさせ、それを解決するためのグループを結成させ、そのグループに‘党名’をつけさせ、自分たちが見つけた問題の解決のため、子供たちの‘○○党’としての活動を行わせた。その試みは成功だったようである。しかし、政治家に対する子供たちのマイナスのイメージや不信感はなかなか消えないだろう。

政治とカネの問題を引きずっている人たちは、現政権の崩壊または解散を念頭において活動を活発化させている。彼らは「国の為」という大義名分を掲げている。しかし、実際は「自分たちの利益の為」である。子供たちはまだその言葉を使うほど成長していないが、それは紛れもなく「私利私欲の為」である。

皇極4(645)、後の天智天皇、中大兄皇子は、「私利私欲の為」権力を行使していた蘇我入鹿を宮廷で討った。入鹿の父・蝦夷は自殺し、蘇我本宗家は滅亡した。当時、蘇我本宗家の長であった蝦夷は城廓のような屋敷を作り、その城廓内の自分の家を「上の宮門(みかど)」と名付け、入鹿の家を「谷の宮門」と名付け、宮廷内で権力をふるっていた。政治家の私利私欲を許すと、似たようなことが今の時代に起きるかもしれない。

既にある政治家が140人もの配下(全員国会議員)を引き連れ、某国の‘皇帝’に拝謁し、天皇に‘次期皇帝’に挨拶して頂こうと画策し、‘強い言葉’をマスメディアで流し、陛下は時の政府に求められるまま、その‘次期皇帝’に会われ、挨拶されたことがあった。そのことに怒った心ある今の時代の「武士」は、決して少なくはなかった。

新渡戸稲造は『武士道』第十章で、「武士は何を学び、どう己を磨いたか」「行動するサムライが追求した‘品性’とは何か」というサブタイトルを付けて、人が「武士」としてどのように育てられたか説明している。

 彼は「武士の訓育にあたって第一に必要とされたのは、その品性を高めることであった。そして明らかにそれとわかる思慮、知性、雄弁などは第二義的なものとされた。」「知能が優秀であることは勿論重んじられた。だが知性を意味するときに用いられる‘知’という漢字は、第一に叡智を意味し、知識は従属的な地位を与えられるにすぎなかった。」「武士道の訓育においては、その教科とされるものは主として剣術、弓術、‘柔術’もしくは‘やわら’、乗馬、槍術、戦略戦術、書、道徳、文学、そして歴史によって構成されていることは、驚くにあたらないだろう。」「武士道は損得勘定をとらない。むしろ足らざることを誇りにする。」と言っている。知能が高い宇宙人を「武士」にしてはいけなかったのだ。

 今の時代の「武士」、政治家として成長された菅総理は、損得勘定を一切せず「国の為」だけに行動すればよい。ご自分の考える新たなマニフェストの骨子を作り、過去のご自身の言動のうち誤っていたことについては率直に詫び、衆議院を解散して国民に信を問えばよい。そうすれば、「最大多数の最大幸福」への道が自ずと開かれるであろう。

2011年2月18日金曜日

武士道(続)(20110218)

 「人は何のために死ねるか」「日本人の忠義とはいったい何か」というサブタイトルで、新渡戸稲造は「忠義」について論じている。もともと『武士道』は欧米人に対し、日本の精神を紹介するため英語で執筆されているので、欧米人が理解しやすいように欧米の著名な人物とその言葉や聖書の言葉を引用して論じている。

 結論から言うと、新渡戸稲造は「武士道では個人よりも国を重んじる」とし、「西洋の個人主義は父と子、夫と妻に対してそれぞれ個別の利害を認めている。したがって人が他に対して負っている義務は著しく軽減している。しかし武士道においては、一族の利害とその個々の成員の利害は一体不可分であるとする」と断じ、「サムライの真の‘忠義’」について、シェイクスピアの悲劇『リア王』の作中の人物・ケント公がリア王を諌めたように、ある事柄に関して、家臣であるあるサムライが誠意をこめ、真心をもって主君を諌めるとき、「もしそのことが容れられないときは、そのサムライは自己の血をもって自分の言説の誠であることを示し、その主君の叡智と良心に対して最後の訴えをすることはごく普通のことであった。生命はここに主君に仕える手段とさえ考えられ、その至高の姿は名誉あるべきものとされたのである。サムライのすべての教育や訓練はこのことにもとづいて行われたのである」と言っている。

 この日本という国は、神代の昔から天皇を中心に一家をなすような国である。「天皇」「白地に赤い日の丸の国旗」「‘君が世’の国歌」は、日本人の心の深奥にあるものであって、それは日本人の「自分自身(セルフ)」そのものである。はるか昔この国に海を越えて渡って来た帰化人を先祖に持つ人びとも、皆、同胞(はらから、同じ母から生まれた子供)である。125年、1夫婦の子供2人の条件で指数計算をすると、1000年後1兆人となる。皆血が混じり合い、誰一人として純粋な血の者はいない。

50代・桓武天皇は白壁王(後の第49代・光仁天皇)の第一皇子であるが、ご生母の出自は身分の低い帰化系氏族の出である。桓武天皇の御代、主に朝鮮半島からの渡って来た多くの帰化人が天皇から氏姓を賜っている。

 最高裁で争われることになるが、「思想・信教の自由」の権利を掲げて国旗・国歌に敬意を表せず、子供たちに偏向教育をしている教職員は、法に基づき処罰されて当然である。彼らは、この日本の国で様々な恩恵を受けているにも関わらず反国家的な行動をしている。権利ばかりを主張し、義務を果たそうとしない。そもそも、「君が代」の「君」は天皇のことではない。天皇は古来「大君(おおきみ)」と呼ばれてきた。「君が代」の「君」は、この国の民一人ひとりのことである。

 今の時代の「武士」の役割を担っている人たちの中に不見識な連中がいる。日本国籍を有している者は、誰でも今の時代の「武士」になることができるのである。「武士道」について知れば知るほど、日本国籍を有しない者に「武士」の役割を担わせ、見返りの「権限」や「特権」を与えようとすることは絶対に間違っていると思う。

2011年2月17日木曜日

武士道(続)(20110217)

 新渡戸稲造は「名誉」について、「名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼時のころから教え込まれるサムライの特色をなすものであった」と言い、「およそ侮辱に対して人はただちに憤慨し、死をもって報いた。ところが一方で名誉は、たとえそれが虚名や世間一般の阿諛(あゆ)にすぎないようなものまでも、この世の中で‘最高の善’として称賛された」と言っている。

ここで言われる‘最高の善’の「善」は、「すぐれたこと、このましいこと、たくみなこと」という意味(広辞苑)であって、「正しいこと、道徳的にかなったこと、よいこと」という意味(同上)ではないと思う。だから新渡戸稲造は「もし名誉や名声が得られるならば、生命自体は安いものだとさえ思われていた」と言い、「寛容、忍耐、寛大という境地の崇高な高みにまで到達した人はごく稀であった」と言っている。

「武士道」における「名誉」とは、「人に笑われないようにする」「体面を汚さないようにする」「恥ずかしいことはしない」という意味が大きい。それゆえ、武士は「名誉」をかちとるため、新渡戸稲造が言うように「苦痛と試練に耐えるために」必要なことであったのである。このことは、「武士」でなくても人間誰でも同じである。名誉欲は、性欲、食欲、知識欲など普通の人間が持っている各種欲望の一つである。

昔「武士」には、その地位と特権ゆえに「名誉」が重んじられた。今の時代の「武士」である政治家、国家公務員、地方公務員、自衛官、警察官、海上保安官、消防官、税関検査官、国公立学校や私立小中高校・大学の教師などにはそれなりの地位と特権が与えられ、それなりの「名誉」が重んじられていると思うが、今の時代のこれらの人びと、今の時代の「武士」たちは、もしかして自分たち以外の一般大衆にたいして何かおもねってはいないだろうか? 別の言い方をすれば、一般大衆に「すり寄りすぎて」いないだろうか? 

今の時代の「武士」たちは、それなりの衿恃をもって、それぞれの「名誉」を重んじ、言動を制御して欲しいと思う。小沢氏は自分の側近が3名も起訴された。国会においてその不始末を説明しようともしなかった。そのうえ、インターネットができる人たちだけに向かってしゃべりまくっている。彼に「武士」としての「衿恃」があるとは思えない。鳩山元首相も「真意が伝わっていない」と弁解しているが、「普天間の海兵隊が‘抑止力’と言ったのは‘方便’であった」と言った。彼に「武士」としての「衿恃」があるだろうか?

今こそ心ある今の時代の「武士」たちは目覚め、この日本の未来のために、次の世代の人たちによい贈り物をするために立ち上がり、しっかり働いて頂きたいと願う。

2011年2月16日水曜日

武士道(続)(20110216)

 「武士道と商人道とは何が違うか」。このサブタイトルで新渡戸稲造は言う。「封建時代の日本の商人は仲間内で道徳律をもっていた。またそういうものがなくては、たとえ未熟な発達の程度であれ、株仲間、相場、裏判、手形、為替などのような基本的な商業制度を発達させることはできなかった。しかし、彼らの職業以外の人びととの関係においては、商人たちはその身分に与えられた世評どおりの接し方をした」と。

 ところが「正直がカネになる」、「‘正直’は‘名誉’や‘誠’につながる考え方である」ということであることを「武士」たちが理解し体得していたなら、「武士」たちの「誠」の観念は違ったものになったのではないかと新渡戸稲造は考えたようである。新渡戸稲造は「実際のところ、正直の観念は名誉と分かちがたく混合している。‘正直’のラテン語とドイツ語の語源は、‘名誉’と一致する」と言っている。正直であるということは名誉につながるのである。

 トヨタは、ブレーキ問題で社長自らアメリカ議会の公聴会に出席し、誠意ある態度で問題の解決に努力した。結局トヨタ車には一切の欠陥がなかったことが判明した。アメリカ運輸省は去る8日、プリウスなどのトヨタ車で意図しない急加速が発生した問題に対して「電子制御系に欠陥はなかった」という結論を明らかにし、運輸長官自ら自分の娘にトヨタ車を購入するように勧めたという。トヨタは名誉を回復することができたのである。

信用を得るまでには長い年月の地道な、誠実な努力の積み重ねが必要であるが、信用を失うのはたった一つの不誠実や、不正直な言動によることは間違いない。今の「武士」である政治家たちは、このことをしっかり胸に刻んで、日々努力してもらわねばならぬ。

幕末の地下浪人(先祖が郷士の株を売ったため元下級武士の身分であったが浪人となった者)・岩崎弥太郎が大成功を収めて、今の三菱財閥の基礎を築くことができたのは、岩崎弥太郎が商人道と武士道の両方の精神を持っていたからだと思う。
 
  実際、現在世界で活躍している日本の企業は、自然に武士道の「仁」「礼」「智」「信」の精神を実践しているようである。武士道の「義」と「勇」の部分は、国際関係の中で政府との調整、協同が必要である。「武士」の心である「刀」は、個々の「武士」たちにとっては権力や権限であるが、国家として見た場合、それは「軍事力」「警察力」「海上保安警備力」「消防力」などに他ならない。「武士道」は間違いなく日本再生の道である。
 
  元海上保安官・一色正春氏が初めて公の場で発言した。その会場には東京都知事・石原慎太郎氏も顔を見せていて、一色氏に「国民を代表して、敬意と感謝の気持ちを伝えたい」という趣旨の挨拶をした。尖閣諸島の中国漁船衝突問題で、当時の政府に「武士道」の精神は全く無かった! このことは真剣に反省して貰わなければならぬ。

2011年2月15日火曜日

武士道(続)(20110215)

 第七章「誠」――なぜ「武士に二言はない」のか――。「真のサムライは「誠」に高い敬意を払う」。新渡戸稲造は、そのように言っている。

 「武士」の立場にあった元総理は、「Trust me(私を信じてくれ)」と言って、二言になることを恥じ、総理の座から降りた。今、「武士」の立場にある菅総理も、「二言」に苦しんでいる。この日本国の経営のため、菅政権は国会で来年度予算案を何とか通して、関連法案の一部も何とか通して、国民との約束において「二言」無きようにするため、改めて国民に信を問うしかないだろう。

 新渡戸稲造の『武士道』という本に、「武士の言葉は重みをもっているとされていたので、約束はおおむね証文無しで決められ、かつ実行された。むしろ証文は武士の体面にかかわるものと考えられていた。‘二言’つまり二枚舌のために死をもって罪を償った武士の壮絶な物語が数多く語られた。‘誓うなかれ’というキリストの明らかな教えを絶えまなく破っている大方のキリスト教徒とちがって、真のサムライは誠に対して非常に高い敬意を払っていた。そのため、誓いをすることをみずからの名誉を傷つけるものと考えていた」と書かれている。

 民主党のマニフェストには、ともかく政権を取る目的のため、実現困難、または不可能、または実施することが必ずしも国民のため、日本国のためにならぬことが書かれている。マニフェストは選挙民に対する公の約束である。約束した以上、何としてでも約束を果たそうとするのは、「武士」的である。しかし、民主党は、その「約束」をしたとき、「誠」の精神があっただろうか? 「とにかく政権をとればよい、言い換えれば‘とにかく儲ければよい’」というような「商人根性」があったのではないか?

 日本国民は、この2年間で非常に良い経験をした。経験は最良の学習である。今、野党の自民党、公明党などは民主党の失敗の経験から学び、旧弊から脱出しなければ日本国民にとって不幸である。

 政治家や官僚や「官」とつく職名の公務員などは、今の時代の「武士」である。「武士」は新しい「武士道精神」を持たなければならない。新しい「武士道精神は何か」、昔の武士たちが思索しながら「武士道精神」を身につけていったように、今の時代の「武士」は、先ず、新渡戸稲造の『武士道』から学び始め、思索を進めて行ったらよいと思う。

 イタリア人のザッケローニ監督が「武士道について学びたい」と言っているのに、日本人自身が「武士道」につて表面的なことだけしか知らなのは情けない。少なくとも、今の時代の「武士」の立場にある者は、「武士道」精神について真剣に学んで欲しいと思う。
 今の時代の「武士」たちが、「武士道」精神を身につけるようになれば、「武」の重要性も体得的に理解することができ、ロシアも中国も日本を軽く見下すような態度を取ることは出来なくなるだろう。『武士道』にこそ日本再生の道があるのだ!

2011年2月14日月曜日

武士道(続)(20110214)

 東京発信の「ギャル」が一つの文化として世界中に広がりつつある。遠くはイスラム教の中東の国にも「ギャル」が出現した。シンガポールのある街角は、まるで東京の渋谷、原宿のような雰囲気で、若い女性たちが「ギャル」になることに憧れ、そこに集まって来ている。店には東京で売られている「ギャル」向けの衣装やアクセサリーや化粧品などが、まるで渋谷や原宿の店のような雰囲気で店頭に並べられている。日本のアパレルメーカーは、シンガポールを拠点にして中国などに「ギャル」文化の進出を図ろうとしている。

 「ギャル」は「創られる」ものである。「盛る」と言うらしいが、化粧品や付けまつげなどで「盛って」顔を創る。「盛られた」顔は別人のように美しく、可愛くなる。衣装、アクセサリーなどを芸術的センスで選び、身につけ、ごく普通の娘さんがスターのように変身する。最近の日本の「ギャル」は、「大人」の雰囲気を漂わせるようになったらしい。化粧や付けかつげやなどについて、非常に高度な専門的知識と技術を見つけた日本の女性が、世界の「ギャル」たちから尊敬されている。「日本に行きたい」「日本語を学びたい」という若者・女性が沢山いる。日本は彼らの憧れの国である。

 さて、「ギャル」と「武士道」と何の関係があるのかと、疑問を持たれるかもしれない。新渡戸稲造の『武士道』第六章「礼」にこう書いてある。サブタイトルは「人とともに喜び、人とともに泣けるか」である。そして彼は言う。「礼とは他人に対する思いやりを表現すること」であると。また、こうも言っている。「私は、流行でさえ、単に虚しい気まぐれだとは考えていない。それとは逆に、流行とは美を求める人間の心の絶えまない探究そのものであるとみなしている」と。

 日本の若者たちは、「他者への思いやり」を表現している音楽、歌、それも日本人のアーティストが作詞・作曲した音楽・歌に非常に共感し、外出時は最新のプレーヤーを携行してそれを聴いている。漫画『ワンピース』もそうであるが、日本の若者たちが共感しているものは、「武士道」など日本の古い、しかし伝統的な価値観とは一見無縁のようであるが、実はそうではないのである。

 今、この国を動かしているオジサンたちは、日本の古い、しかし伝統的な価値観を非常に重要なものであると意識もせず、一方で、若者たちの上記のような文化にも深い関心、あるいは共鳴がないのではないだろうか? 漫画好きオジサン・麻生元総理は、国費をかけてアニメ文化発信の拠点を建設しようとしたが、政権が変わり、それは「ハコモノ」として斬り捨てられてしまった。

 私は日本の若者の文化の中にも、日本の古い、しかし伝統的な精神があると考えている。新渡戸稲造の言葉を借りれば、「人とともに喜び、人とともに泣ける」という武士道の「」の根本の精神が、若者の文化の中にあると思う。だから、東京が元祖である「ギャル」や「J-POPや、「アニメ」が、若者の間に人気を呼び、世界に広まっているのである。

2011年2月13日日曜日

武士道(続)(20110213)

 新渡戸稲造は、当時の日本が日本の文化について欧米先進国から見下されていたことを意識してか、武士道の精神についてイギリスやドイツなどの学者・知識人の名前を出し、その言を引用して武士道について説明をしている。新渡戸稲造は、著書『武士道』第五章「仁」―人の上に立つ条件とは何か―の項で、シェイクスピアとかフリードリッヒ大王を引き合いに出し、「仁」について次のように書いている。

 「プロシア王・フリードリッヒ大王(1712-1778)は‘朕は国家の第一の召使いである’と言ったが、あたかも時を同じくして日本の東北の山間部にある米沢では、出羽米沢藩主・上杉鷹山(1751-1822)は正に同一の宣言をしていたのだ。‘国家人民の立てたる君にして、君に立てたる国家人民には之無候’と。封建君主は自分の家臣に対しては相互的な義務を負っているとは考えなかった。しかしながら祖先や天に対しては高い責任をもっていた。」

 新渡戸稲造はまた、東西の名を残した人物、例えばアダム・スミス(1723-1790)、熊谷次郎直実(?-1208)、滝沢馬琴(1767-1848)、白河楽翁(1758-1829)、ケルナ―(1791-1813)らを引き合いに出し、「戦いの恐怖の真只中で他者への哀れみの心に貢献したのは、ヨーロッパにおいてはキリスト教であったが、日本においては音楽や書に対するたしなみがそれをなした。優しい感情を育てることが、他者の苦しみに対する思いやりの気持ちを育てる。他者の感情を尊重する謙虚、慇懃(いんぎん)さが礼の根源である。」と書いている。「仁」の心は「礼」の根源となるのである。

 新渡戸稲造は、「簡潔で、警句的な要素を盛りこみやすい日本の詩の形式は、素朴な感情を即興的にうたいあげることに特に適している。どのような教育程度の人であっても、和歌俳諧をものにすることができ、かつその愛好者たり得るのである。合戦の場に赴く武士が立ちどまり、腰から矢立をとりだして歌を詠むことは稀なことではなかった。」と言う。

 先の大戦で戦地に赴く兵士が所持することが奨励されていたものは『万葉集』であったという。作家・阿川弘之氏は広島高等学校時代に使っていた昭和13年刊行の『万葉集』を戦地に持って行ったという。

 戦後理工系大学が重要視され、政治家にも理工系大学出身者が多い。高等学校でも日本の歴史や文化に関する教育が重要視されない状況であるので、本来ならば少なくとも3年以上は教養課程で学び、日本人として必要な日本の歴史や文化について良く学ぶ時間が必要であるが、現状はそうなっていない。菅総理が「許し難き暴挙」と言ってロシアの感情的反発を招いてしまったのは残念である。日本は教育のあり方を見直す必要があると思う。
 

2011年2月12日土曜日

武士道(続)(20110212)

 台湾に純日本式の旅館「加賀屋」がオープンして数カ月を経た。接客係の従業員は殆ど台湾人である。彼女らは和服を着こなし、日本の「おもてなし」の心と日本式の接客マナーについて徹底的に教育・訓練を受けた。宿泊客は台湾人が圧倒的に多いという。

 この「おもてなし」の文化は、茶の湯「茶道」に発する。しかし、茶の湯が武士の間に広まる前に、茶の湯の文化の素地はすでに400年間続いた平安時代に出来あがっていた。もっとさかのぼれば万葉集の時代にその素地の元がある。

万葉集に収められている歌には作者が経験していた日常の状態が、例えば妻の死などによって崩れ、その非日常の状態にある自分の思いを歌にしたものがある。抒情といっても単なる抒情ではない。センチメンタルな歌と言えばそれまでであるが、其処には日本人独自の感じ方が見事に表現されている。たとえば、巻二、207の柿本人麻呂の歌では、人麻呂が旅先で妻の死を知らされ、どうしてよいか自分の感情の整理がつかず、「ひとりだに似てし行かねば すべをなみ妹(いも)が名呼びて 袖ぞ振りつる」と詠っている。

また、巻二、148の倭大后(やまとのおおきさき)の歌では、「青旗の 木幡(こはた)の上を 通ふとは 目には見れども 直(ただ)に逢はぬかも」と「大君(天智天皇)の魂が抜けだして山(木幡山)の上を漂っていることが目に見える」と詠っている。これは正に非日常的である。

古来、日本人は自然の風景の中に「非日常的な空間と時間」を意識してきた。「茶湯」や「生け花」の文化はその典型である。日本人の「おもてなしの心」は、その文化の中で日本独自なものとして発展してきた。

 「武士道」とその「おもてなし」の心とは、どのような関係があるだろうか? 新渡戸稲造の本にはそのとについて何も書かれていない。しかし、私は「武士道」と「おもてなしの心」の間には深い関係があると思っている。

「おもてなしの心」の根本には「一期一会」の精神があると思う。二度と巡って来ないその一瞬を大切にする心は、武士が「勇」をもって死するときに発揮される。切腹の作法も、切腹の介錯の作法も、煎じつめれば「おもてなしの心」に通じるものがあると思う。切腹ではなく斬首の刑に処される武士も、歌を作って後世に伝えることは許されている。武士として後世に名を恥じるようなことをしてはならないし、させてはならないのである。それは、死に行く武士への「おもてなしの心」でなくて何だろう? 

もし、そのような切腹の瞬間において、「装束」「場」「作法」などに見られるある種の「厳かな美しさ」を伴う「儀式」が伴わなければ、検視役の武士もその場にいる精神的苦痛に耐えられないであろう。切腹する武士も、後世に名誉を遺すことができず人生を嘆き悲しむことになるだろう。そういう意味で、私は「武士道」と「おもてなしの心」の間には、深い関係があると思うのである。

2011年2月11日金曜日

武士道(続)(20110211)

 One Piece(ワンピース)という漫画が爆発的人気を呼んでいるそうである。その漫画で語られているのは、古き良き時代の日本の「絆」「助け合い」「義理」「人情」「正義」「勇気」などの精神であるということである。

 この漫画には、登場する人たちはお互い非常に強い絆で結ばれており、絆で結ばれた人たちの間ではお互い他者のために自己を犠牲にすることを厭わない、主人公は非力ながら果敢に「悪」に立ち向かってゆき、堅い絆で結ばれた仲間がこれを助ける、兄が弟を助けるために自ら犠牲になる、いったようなドラマが描かれているようである。

この漫画を研究したある学者は、今の日本の社会で「空気を読む」 ということがかえって人間関係を希薄にしているのだという。その場の「空気を読む」という言葉は、「その場で自分の行動をどうするかということを判断し、実際にその判断に基づいて行動する」という意味を含んでいる。それは愛他的ではなく利己的な行動である。

 この漫画の下敷きになっているのは、黒澤明監督の『七人の侍』などで表現される日本人の精神である。「義」の為に、「絆」の為に自分の命を犠牲にすることを厭わない精神である。それこそは正しく「武士道精神」である。

 今の日本の社会では孤独な主婦が多いという。空気を読んで「助けて」と声を出せず、独り悩んでいる主婦たち、自分は社会に無縁な存在であると思い込んでいる主婦たちが多いという。そのような主婦たちだけではなく、不景気で職を失った男性たちや、就職できずにいる学卒者たちも多いが、彼らは皆、自分が社会との絆がない、或いは薄いと思っているようである。漫画『ワンピース』はそのような社会を反映していて、孤独に悩むそれらの人々の共感を得ているのであろう。

 一世代、二世代上の人たちも、そのような主婦たち、男性たち、学卒者たちをそっと見やるだけで、自分の方から積極的に声をかけようとしない。この国の社会は、人間関係が薄れてしまっているように見える。

 幸福は向こうからは決してやって来ない。幸福はごく身近なところにある。自分自身がそれに気がついていないだけである。戦場で任務遂行のため身の危険も顧みず、或いは必ず死ぬことが判っていながら行動する兵士が不幸であろうか? 幕末に斬首や切腹の刑で死んだ尊王攘夷の志士・吉田松陰や武市半平太は不幸であっただろうか?

 空気を読む政治家には志など全くない。『ワンピース』が流行る社会現象は、この日本の精神が行き詰っている証拠である。日本人は、特に「武士」と同じような「役割」を担って報酬を与えられる人たちは、戦前まで営々と日本人が築いてきた精神を改めて見直し、良いものはすべて取り入れるということが必要である。三島由紀夫はそのことを訴えて、武士の作法に則り、見事切腹を果たしたのである。それを三島由紀夫の美学であるという人がいるが、それは断じて彼の美学ではないのである。

2011年2月10日木曜日

武士道(続)(20110210)

 テレビで『史上最大の作戦』という題の映画を放送していた。この映画はナチスドイツをせん滅するため、アイゼンハワーを総指揮官に米英仏連合軍300万人が、フランス海岸への上陸作戦と空挺部隊によるフランス本土降下作戦を敢行した史実を描いている。
 
 この映画には、その作戦に従事した兵士たちは自分の死を覚悟し、果敢に戦った様子が描かれている。皆「武士道」にあるような「義」のため、「勇」を鼓舞して戦った。彼らにはどのような「義」があり、彼らの「勇」とは何であっただろうか? 顧みてわが日本軍の「義」と「勇」は何であっただろうか? この点をよく考え、整理しておかないと、日本は何かのきっかけで「義」もなく命を軽んじるようなことを起こしかねないだろう。
 
 そもそも「正義の道理」といっても、その「正義」にはその立場の違いによりいろいろな「正義」があると思う。ナチスドイツはユダヤ人をこの地上から抹殺しようとした。その作業に加担したドイツ人たちは、その行為が「正しい」と信じていた。ナチスドイツはかつての神聖ローマ帝国のように、ヨーロッパ全体をドイツ帝国にしようとした。

そこには、自己中心的な優越の観念があった。ゲルマン民族は他民族を「優秀な」ドイツ民族の支配下に置くことは正しいと信じ込んでいた。しかし冷静に考えてみると、それは野生の動物たちと同じような行動である。動物たちは自らの生存と種の存続のため、「快」を求め、「不快」を避けて行動する。自らの生存と種の存続に必要な生活圏を「縄張り」して確保しようとし、自分の「縄張り」に侵入しようとするものを威嚇し、侵入してきたものと争う。争うときは普段敵対するオスたちが団結する。これとよく似ている。

片や日本は、アジアから白人を追い出し、自らが盟主となって大東亜共栄圏を作ろうとした。その端緒は豊臣秀吉の時代にあった。スペイン(当時スペイン王の支配下にあったポルトガルを含む)は、キリスト教の宣教という一見高尚な目的をかかげながらその裏でアジアを植民地にしていった。豊臣秀吉が朝鮮半島に出兵させたのは、明(当時の中国)とその柵封方支配下にあった朝鮮に対するスペイン・ポルトガルの浸食を食い止めようとしたためであった。当時、一部の日本人が彼らの奴隷になっていた史実がある。

近代、アジアは白人国家の餌食になっていたことは確かである。アジアから欧米勢力を駆逐しようとした日本は戦争に負けはした。しかし、明治維新後の日本がロシアや欧米と戦ったことがきっかけで、アジア諸国は独立を果たし欧米の支配から脱することができた。日本は、明治以来の国家目標を達成することができたのである。

日本の「義」とナチスドイツの「義」は、その人道精神において根本的に違う。ナチスドイツ軍の兵士たちと日本軍の兵士たちは、「義」のため自分の命を投げ出して戦うという「勇」は同じであっても、その「義」の内容が根本的に異なっている。

日本軍の「義」が究極的に天皇への忠誠心にあるというのは一方的な見方である。日本は自存とアジア諸国を欧米支配から解放しようとする「正義の道理」があったのである。日本はアジアを自国の植民地にしてゆこうというような野心は全くなかったのである。

2011年2月9日水曜日

武士道(続)(20110209)
 
 昨日は「北方領土の日」であった。北方領土でNHKのロシア人スタッフが北方領土に住む15千人ぐらい(詳細な数字は失念)のロシア人の取材をした。ごつい一人の口ひげをはやした庶民のロシア人は「北方領土はロシア領である」と半ば怒り顔で話していた。

 戦後既に65年を過ぎ、北方領土に住むロシア人たちも2世、3世の時代になろうとしている。北方領土から彼らを追い出すことは、人道に反する。「人類皆兄弟姉妹」だと思えば、彼らが北方領土で安心して暮らしたいと思う気持ちはわかる。一方、終戦後、当時のソ連軍によって、強盗のようなやり方で北方領土を奪われた我々日本人の気持は決して収まることはない。双方の気持ちが満たされるように北方領土の問題を解決する道はないものかと思う。そのような道はきっとある筈である。

 ここで、北方領土の問題に関して「義」と「勇」について考えてみたい。北方領土からロシア人を追い出すことは「義」ではない。また追い出すために暴力をふるうことも「勇」ではない。「人類皆兄弟姉妹」という「仁」の心に、この問題解決の道があると思う。

 昨日、菅総理は「(メドベージェフロシア大統領が)北方領土を訪問したことは許し難い暴挙である」と言った。この発言は、一国の首長に対する「礼」を欠いている。また「智」の片鱗も見られない。悲しいかな、菅総理自身もそうであるが、菅総理のブレーンにも、対抗政党にも、北方領土を取り戻す戦略や戦術があるとは誰にも見受けられない。

 対抗する自民党や公明党などにしかりした「志」があり、「智」があるかと言えば、これもまた大いに疑問である。まして既成政党離れした愛知県や名古屋市や大阪府などの「指導者」にそのような「志」や「智」があるとは思えない。

 最良の方策は、現在の政権の主要メンバーやブレーンやスタッフが、「武書道精神」について学び、教養を高めて、「其処」から出発することである。過ぎ去ったことを重箱の隅をほじくり返し、非難し合うような馬鹿なことに一顧もせず、「其処」から再出発することである。「其処」は常に向上してゆくべき「点」である。これこそが「知行合一」である。

2011年2月8日火曜日

武士道(続)(20110208)

 私の手元に一冊の本がある。以前このブログで引用したことがある『図説・特攻』(太平洋戦争研究会編、森山康平著、河出書房新社)という本である。この本の結びに著者は「日本軍将兵とそれをささえる日本国民は、アジアから米英の勢力を駆逐するためだけに戦っていたのではなく、‘心の米英撃滅’のために、‘利己的唯物的米英観念’(九軍神を讃える際の海軍報道官の表現)撃滅のためにも戦っていたのである」と書いている。

 今、この日本は、北は北海道から南は沖縄、その先の台湾、さらにその先のフィリッピンに至る「列島線」、それはアメリカの強大な軍事力が及ぶ、ある意味ではアメリカの「縄張り」の中にあって、平和を享受している。米英は日本の敵であったが、今や味方である。

武士道精神の一要素「知行合一」の精神のもと、日本は日本古来の精神観念を保ちながらも、米英の合理的精神を学びとり、世界に冠たる経済大国・科学技術が非常に進んだ国になった。もともと日本と欧米は価値観を共有できる部分が多かったのである。

それに引き換え、日本と大陸側諸国と昔から価値観の共有は困難である。藤原仲麻呂が宰相の地位にあったとき、一時期日本は唐の様式・制度を取り入れたことがあったが、仲麻呂の失脚とともにすぐ元に戻された。

戦後アメリカは日本人の精神を徹底的に改造しようと非常な努力をし、東条英機元首相などを無理やりナチスドイツ並みの戦争犯罪人に仕立て処刑した。しかし日本は633教育制度とかPTAとか政治制度など、日本人が取り入れた方が良いと考えたものだけを取り入れただけであった。ゼロ戦や戦艦大和を建造した日本は、一時期打ちひしがれたが蘇り、今や欧米の、特にアメリカの良きパートナーになった。

特攻隊員の犠牲は決して無駄ではなかった。私は、その本を読み、閉じるとき、思わずその本を自分の額に近づけ黙とうした。その本を読むたびに胸に迫りくるものがある。彼らは、「」のため「」をもって死んで行ったのである。

銃後の女性たちも健気であった。戦闘機を作る工場で働く若い女性たちや出撃する特攻機を見送る女性たちの写真をみるとき、私はあの頃一億国民総動員して戦ったことに思いをはせ、感動する。今の日本があるのは、皆あの方たちのお陰である。

新渡戸稲造は著書『武士道』(「知的生き方文庫」三笠書房)に、徳川御三家の一つ・水戸藩主・水戸光圀の言葉「一命を軽んずるは士の職分なれば、さして珍しからざる事にて候、血気の勇は盗賊も之を致すものなり。侍の侍たる所以は其場所を引退(しりぞ)いて忠節に成ることもあり。其場所にて討死して忠節に成る事もあり。之を死すべき時に死し、生くべき時に生くといふなり」を引用し、「武士道の教えるところは、死に値しないことのために死ぬことは‘犬死’とされた」と言っている。

正しくそのとおりである。私も含め小学校のとき戦後教育を受けたものの中には、特攻隊員が「犬死」だと言う人がいる。彼らは日本人の心を失った人たちである。特攻隊員は自爆テロリストとは全く違う。特攻隊員は「正義の道理」の為散っていった方々である。

2011年2月7日月曜日

武士道(続)(20110207)

 一つの国のことについて、「人」「指導者」という言葉よりも「支配者」という言葉に共感を覚えるかもしれない。ここでいう「人」とは、志のない人たち、自虐的な人たち、そのくせもし自分たちが国の指導者の階層に属したら、途端に頭が高くなる人たちのことである。そのような人たちは、自分の理想や希望が叶えられていないとき、自己主張をし、徒党を組んで、自分たちが「支配者」と思っている人たちを引きずり降ろそうとする。

 どんな国でも「指導者」階層は必要である。ここで最も大事なことは、その「指導者」階層の人たちが、「武士」のような心構えをもち、態度や行動が「武士」のようであるかどうかと言うことである。上述の「人」たちは、そのような心構えもなく、そのような態度や行動もない人たちである。

 ここで私がいう「武士」はかつての武士とは違う。かつての武士に求められた「義」や「勇」などの精神は、今の時代に合う「義」や「勇」である。そのことを考えてみたい。

われわれは「指導者」と「支配者」を峻別しなければならない。この国で「支配者」は全く必要ない。この国で、もしある人たちが「指導者」階層に入ろうとする場合は、その階層の「役割」をきちんと果たすことができるような「準備」ができていなければならない。ここでいう「準備」とは、「指導者」の「役割」を担う人たちの資質や教育や訓練について一定の基準を満たしていることである。「友は類を以って集まる」というが、そのような「準備」なしでは、「烏合の衆」しか集まらず「指導者」しての体をなし得ない。

この日本では、誰でもかつての武士階級のような「指導者」(或いは上述の「人」たちが言う「支配者」)になることができる。日本人であるならば、誰にも新しく定義される「武士」になる門戸は開かれている。政治家や行政職員や自衛官(私は‘軍人’と呼びたい)や警察官や海上保安官や消防官、税関職員や農林水産・建設などの現業職員などは、今の日本の「武士」たちである。

ひとたび選ばれてそのような「武士」になったならば、その人は新しい「武士道」精神をもって、この国の「指導者」階層の人として、ロール・プレイングで与えられた「役割」を演じるように、「指導者」階層の人としての「役割」を自覚し、その「役割」をきちんと果たしてもらわなければならない。

新しい「武士道」精神とは何か、その‘新しい「武士道」精神’でいう「義」や「勇」とはなにか、考えてみたい。2000以上続いている天皇の王朝、そして「武士道」は、われわれ日本人の宝であると私は思う。この宝を「知行一致」の精神で大切に守り、次世代に引き継ぐことが、われわれの共通的「役割」である。テレビドラマ『篤姫』の篤姫が自分の「役割」をしっかり自覚し、行動したように、「役割」を自覚していない「人」は、ここで定義する「武士」ではない。彼らは私利私欲の輩、烏合の衆の一人一人である。敢えて固有名詞は挙げないが、政治家にそのような人たちは沢山いる。

2011年2月6日日曜日

武士道(続)(20110206)

 熱心なキリスト教徒(クエーカー教徒)であった新渡戸稲造は、「義」の観念を、以下のとおり「ある高名な武士・林子平」と「他の武士・真木和泉守」及び孟子の言を引き合いに出して説明している。

 江戸中期の経世家・林子平(17381793 )は、「勇は義の相手にて裁断の事也。道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。死すべき場にて死し、討つべき場にて討つ事也」と述べた。

また江戸末期の真木和泉守(18131864)は、「士の重んじることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ることを得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つこと得ず。されば人は才能ありても学問ありても世に立つことを得ず。節義あれば武骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」と言った。

また、武家の子弟が学んだ孟子(紀元前372~紀元前289)は、「仁は人の安宅なり、義は人の正路なり」と言った。

新渡戸稲造は、「義理」は「疑いも無く義務である」と言い、義務がわずらわしく感ぜられるときには「正義の道理」が私たちの怠惰を防ぐためにのりこんでくる、と言う。そして、「義理」は、「人間がつくりあげた慣習の前にしばしば自然な情愛が席を譲らなければならぬような社会で生まれるものである」が、もしそれが「正義の道理」からはるか別のところへ持ち運ばれてしまった場合は、もはやそれは義理ではなく、「驚くべき言葉の誤用である」という。

私は、武士の「義」は時代が変わっても変わらぬ観念であるが、「義理」の観念は時代が変われば変わると思う。たとえば、戦前、老親をどんなことがあっても子供が看ることは「義理」を果たすことであったが、今は、介護保険制度や医療保険制度などで子供だけではなく、社会全体で看るようになった。たとえば幼い時から親子の情愛が薄い関係であった場合、子供が老親に世間体に恥じない程度に看ている場合は、戦前ほど「義理」について責め立てられることなくなっているだろう。

しかし私は、時代が変わっても今の時代に昔の武士と同じ立場、すなわち政治家や官僚や軍人などは、林子平や真木和泉守が言っているような「義」「節義」の観念をしっかりと持って欲しいと思う。そうでなくては、この国が外国から軽く見られてしまうと思う。

私は、この日本が、象徴天皇を崇敬し、今の時代の「武士」たちが、しっかりとした「義」の観念を持っている国ならば、日本は世界から尊敬され続ける国となると確信している。

2011年2月5日土曜日

武士道(続)(20110205)

 新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、武士道の基本原理を「義」「勇」「仁」「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」「切腹」「刀」「妻女」「大和魂」の各面から説明している。「義」は「武士道の光輝く最高の支柱」であるとし、自分の「義」に関する解釈について、「義の観念は誤っているかもしれない。狭きにすぎるかもしれない」とも言っている。

 日本は、「大政奉還」により、封建時代と決別した。戦前まで「家長制度」や華族、士族などの家柄の呼称は残っていたが、「士農工商」の四民は平等となり、それ以下の階層の人たちも新しい平民、「新平民」とされた。たとえ華族や士族の出であっても実力のない者は、社会的に相応の扱いしか受けることができなかった。昨日のこのブログの記事に書いた竹田恒泰氏の本に書かれているように、「封建制度」という価値は、時間の流れの中で新しい価値観により淘汰された。

 新渡戸稲造は『武士道』の中で天皇についてあまり触れていない。しかし。天皇は時間の流れの中で2000年以上の昔から、日本国民の間で大きな価値を占め続けて今日に至っている。サッカーのザッケローネ監督が「武士道」について学びたいと言っているが、彼には「武士道」とともに「天皇」についても学んでもらいたいと思う。なぜなら、「武士道」精神には、天皇への崇敬の精神が無意識のうちに包み込まれているからである。

尊王攘夷派の吉田松陰は、斬首の刑に処せられる前に「吾(われ)今国の為に死す。死して君親に負(そむ)かず。悠々たり天地の事。鑑照(かんしょう)明神(めいしん)に在り。」と詠い、「志半ばで処刑されても天皇や父母にそむくことは少しもない」と心情を述べている。また同じ尊王攘夷派の武市半平太は切腹の刑に処せられる前に、「花は清香(せいこう)に依って愛せられ、人は仁義を以って栄(さか)ゆ。幽囚(ゆうしゅう)何ぞ恥ずべけんや。只(ただ)赤心(せきしん)の明らかなる有り。」と詠い、「自分の行いには嘘・偽りは全くない。それは天皇や藩主への忠義の心によるものである」と述べている。

武士は封建制度の社会秩序を維持するという「役割」とともに、士分としての名誉と誇りを守ることが求められた。「義」はそのため必要な、重要な精神要素であった。「義」の為に自らの命を投げ出すことは当然のことであった。大東亜解放戦争中、特攻隊の兵士たちも「義」のために自分の命を捨てたのである。

 封建制度が無くなっても、政治家、官僚、軍人、教師らがあらたな「武士」としてその「役割」を担った。「武士」の精神要素の一つ「義」は形を変えて残った。戦争に勝ったアメリカは日本人の精神構造の徹底的破壊を目論んだが、それはアメリカの誤りであった。アメリカとの同盟関係を結び、今日まで維持してきた日本は、「義」の精神を新しい形で大切にしてゆかなければ、この国はいずれ滅びてしまうだろう。

 尖閣ビデオを漏出させて退職した元海上保安官一色正春氏は、その名字からして源氏の末裔だろうと思うが、彼は正しく「義」のため、昔で言えば切腹の刑の形で、自身を国の為捧げたのである。

2011年2月4日金曜日

武士道(続)(20110204)

 新渡戸稲造『武士道』によれば、武士道の基本原理について、フランスの学者、ド・ラ・マズリエールが16世紀の日本について、「インドや中国においてさえ、人間は主として精力や知能によって差異があるとされている。日本ではそれらの差異とともに、性格の独自性においても差異があるとされているようである。いまや個性はすぐれた種族や、発展した文明の特徴である。もしわれわれがニーチェの好んで用いる表現によるならば、‘アジアでは人間の性状を語ることはその平原を語ることである。日本ではヨーロッパと同様に、人間の性質はとりわけ、その山岳によって代表される’といえるだろう」と語っていることを引用している。

 古事記を読めばわかるとおり、日本人は古代の昔からヨーロッパ人同様個性的であった。ヨーロッパの中世のような暗黒的な社会は日本にはなかったが、ヨーロッパでルネッサンスがあった同じ時期に、日本では茶の湯、絵画、芸能、文芸などが花開いた。そしてヨーロッパよりも早く近世に入った。江戸時代は近世である。

 何故日本はそのようにあるのか。日本には万世一系の天皇がましまして、平安時代には摂関政治の形で天皇は国家の中心にあられ、既に象徴的存在となられた。日本には昔から八百万の神々がいて人びとの信仰の対象となっている。日本には神道と仏教がごく普遍的なものとして人びとの暮らしと密着している。私はそれら諸々の事が、日本がそのような国であることの非常に大きな要素であると思う。

 そのような日本の社会で秩序を保つ役割を担ったのが武士たちであった。人びとを支配者階層と被支配者階層に分けるならば武士は支配者階層に属するが、その身分は必ずしも100%世襲的、固定的ではなかった。「封建時代」という言葉の響きは、何か暗いイメージを与える。しかし実際は暗いものではない。「士農工商」という区分は一見上下関係のようであるが必ずしもそのとおりではない。日本の社会ではそれぞれの「役割」ということが最も重視されていた。「士農工商」は日本の社会を秩序づけるための「役割」にすぎない。日本の「士農工商」の区分は、インドのようなカースト制とは全く異質である。

 日本の社会の中で「武士」は「支配者」という「役割」を担っていた。その「役割」を果たすため、「武士」は社会の中で高い地位を与えられていた。高い地位を与えられているゆえに、「武士」は「役割」を果たす上で「義」を最も重要に考え、行動しなければならなかった。「武士」は日本の社会の中の「役割」の一つであったのである。しかし「士農工商」の各「役割」は、必ずしも100%世襲・固定的というわけではなかった。

 旧皇族・竹田家に生まれ、明治天皇の玄孫にあたる竹田恒泰氏が書いた本『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(PHP研究所発行)という本に、「日本は建国から現在までの二千年以上、一つの王朝を保ってきた。無価値なものは時間の流れの中で淘汰され、ほんとうに価値があるものが守られる」とある。

「義」は現在の日本の社会で価値を失っただろうか?このことについて考えてみたい。

2011年2月3日木曜日

武士道(続)(20110203)

 日本人は、知識を行動に移し、知識の足りない部分は新しい知識を学んで自分のものにしてきた。幕末、ペリー来航時、英語を日本語に訳すことができた素養は、蘭学(オランダ語の文献による学問)にあった。先ずオランダ語と英語の違いを調べ、漢語を日本語に読み下すときの似たような手法で英語の文法を知った。ペリー来航時、英会話は出来なかったが、英語で書かれた公文書を日本語に翻訳することはできた。会話は、英語からオランダ語に訳したものを聞いて、その逆もして、幕末の役人はペリーと意思疎通ができた。

このような実践的な勉学の方法は、日本人が古来、自然のうちに身につけていたものである。江戸時代朱子学や陽明学が入ってきたが、日本人のそのような実践的勉学の態度が、新渡戸稲造が言うように「王陽明を(日本人のそのような実践的な勉学の態度を説明する)その最大の解説者として見出した」にすぎないのである。(カッコ内は私見)

日本ではウナギの稚魚を育てて成魚にして市場に出している。成魚から卵子と精子を取り出して卵から稚魚を人工で育てる試みをしているが、なかなかうまくゆかない。そこで、日本の調査研究の船は稚魚を追って、ついにマリアナ海域でウナギの卵を発見することに成功した。その方法は成長過程の稚魚を探し求め、5mm、3mm、1mmと徐々により小さいウナギの稚魚を探し続け、1mmの稚魚を見つけたのちその海域付近で6年もかけて卵を探し求め、ついにそれを発見したのである。船上でDNAを調べた結果、それがウナギの卵であることを突き止めた。その中心の学者、お名前は失念したが40年かけた研究の成果が実ったのだ。今後はその卵がどのような環境条件で稚魚になるのか突き止め、その環境を人工的に作って、日本得意の工場で生産される野菜のように、将来、工場でウナギが生産されるようになるだろう。特殊な膜を通じて海水から飲料水を製造することなど、日本の実用的な技術は世界でトップである。人工えらも日本の技術で効率の良いものが開発されている。実用の学、実践の学の発達は、日本人の生まれ持ったDNAと無関係ではない。

武士道の精神は、日本人の間で忘れられてしまっているが、日本人は無意識のうちにその精神を発現させている。中国では隋・唐から宋、元、明と王朝が変わった時、新王朝の体制強化のため新たな学問・朱子学、陽明学が利用された。今、中国は共産党綱領が体制の維持のためだけではなく、日本工作のため利用されている。

一方、日本では万世一系の天皇のもと、実践的な学問が発達した。武士道精神の中心には天皇への崇敬がある。日本人は、今改めて自分たちの精神構造を顧みる必要がある。

日本との戦争に勝ったアメリカは、日本人の精神構造を徹底的に変えようと試みたが、それは所詮無駄なことであった。一時期、「戦前の日本は悪いことをした」と思い込まされていた人びとは、徐々に第一線から退きつつある。

今後の日本人は、もっと賢く、昨日の記事に書いた「縄張り」を「維持しよう」とする側と、それを「浸食しよう」とする側とを見据え、決して中途半端な行動はしないようにしなければならない。今、正に日本人には「武士道」の精神が必要なのである。

2011年2月2日水曜日

武士道(続)(20110202)

 孟子は孔子やソクラテスよりおよそ100年後、紀元前372年~289年の人である。孟子はアリストテレスより10年ほど遅く生まれ、30年ほど遅く没している。

 武家の子弟はソクラテスのことは勿論知っていたわけではないが、新渡戸稲造は『武士道』という本の中で、昨日の記事に書いたように「知識は、人生における実際的な知識適用の行為と同一のものとみなされた。このソクラテス的教義は、‘知行合一’をたゆまず繰り返し説いた中国の思想家、王陽明をその最大の解説者として見出したのである」と言っている。つまり、江戸時代の日本人は西洋から遠く離れたこの島国にいながら、西欧人と同じような思考パターンを持っていたのである。『武士道』精神の中に、このような西欧人的思考パターンがあったことを、我々日本人は改めて思い致す必要がある。

 幕末から明治初期にかけての短い期間に、日本は西欧列強に伍する実力を持ち、未開の、と言えば語弊があるかもしれないが、朝鮮や清(当時の中国)を導き、これらの国々が西欧・ロシアの列強の餌食になるのを食い止めたのである。それは、そのようにしないと、この日本が特に南下を企むロシアに侵略される危険があったからである。

朝鮮や清国から多くの留学生たちが日本に近代化を学びに来ている。これらの国々は、日本を憎みつつも、特に朝鮮は日本のお陰で2000年間の中国の王朝による支配から脱することができ、鉄道・電気通信などのインフラが整備され、政治制度や教育制度が整備されたのである。日本は、先ず東アジアを、はっきり言えば白人の支配から解放したのである。

日本は国際連盟で「人種差別撤廃」の提議をし、議決させた。連盟脱退後日本は無謀にも戦線を拡大し、結果的に東南アジア諸国は欧米の植民地から解放された。日本は300万人以上の犠牲者を出し、戦争に敗れはしたが、結局は大東亜の解放という目的は達成した。

そのようなことが出来たのは、この日本で、武家の教養である「知行合一」の精神が、ただ単に武家の人びとだけではなく、百姓・町人に至る広範囲に広がっていたからである。

日本は、アメリカにとって危険な国であった。戦争が始まる前、アメリカのルーズベルト大統領は、はっきりそのように言った。日本が強くなれば、アメリカが「縄張り」として考えていた(今でもそう考えている)日本列島から台湾、フィリピンに至る「列島線」が脅かされる。そこで、アメリカは日本に罠を仕掛け、後に「Remember Pearl Harbor! (真珠湾を忘れるな!)」の合言葉を作った。少数の自国民を犠牲にして、多数のために富を勝ち取る。「アラモを忘れるな!」「メイン号を忘れるな!」と同じパターンである。

日本は原爆を2個も投下され、何10万人という人が一瞬のうちに死んだだけではなく、非常に多くの人々が思い後遺症で苦しんでいる。それでも日本は、‘西側’の主要な一員となることにより、今日の繁栄を築きあげることができた。それは、意識の上では忘れられてしまっているが、「武士道精神」と無関係ではないと思う。