2012年6月30日土曜日


ナンバー2は難しい立場である(20120630)

 壬申の乱の大友皇子は、既に叔父である大海人皇子が父・天智天皇の皇太子であった。その大海人皇子は兄・天智天皇が皇太子のころからずっと天智天皇の朝廷のナンバー2であった。天智天皇に大友皇子という後継ぎができて以降、ナンバー2といいながら大友皇子を立てなければならない立場であった。だから、天智天皇が病に臥し天皇から呼ばれて「後を汝に託す」と言われたとき、「自分は病気がちであるのでうまくやってゆけそうもない。皇后に天皇になって頂き、皇子・大友皇子太政大臣として政務を行っていただき、自分は出家したい」と願い出た。天皇から許されて出家し、所持していた兵器を国に納め、妃とともに吉野に下った。そして天智天皇崩御後の近江朝廷の動静を注視していた。

 天智天皇崩御後、既に東宮職を返上して出家しているとはいえ大皇弟(天智天皇の実弟であるので「大皇弟」と尊称されていた)である大海人皇子は、朝廷内ではナンバー1の立場である。一方、ナンバー2である大友皇子は天智天皇の御子とはいえ影の薄い存在である。悪しき取り巻きにより天皇に担ぎ上げられて、最後は左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣連金に逃げられ、裸の皇子になってしまった。取り巻きの一人、右大臣・中臣連金は藤原鎌足の従兄弟である。彼は身の程も知らず、大友皇子を担いで朝廷内で権力を得ようとしたである。

鎌足は天智天皇が皇太子の時代から天智天皇の全幅の信頼を得ていた天下一の逸材であった。キラッと光る人材はたまにしか現れない。鎌足の従兄弟とはいえ鎌足に及ぶ人材はいない。中臣連金は右大臣にまで出征していたが、その資質は鎌足に遠く及ぶものではなかった。金は身の程を弁えず大友皇子について朝廷での権力を手中にしようとして失敗したと考えられる。友は類を呼ぶ。天智天皇崩御後、赤兄や金、特に金に、大友皇子に取り入って自分たちに都合の良い政治をやってもらおうとした勢力に利用されたに違いない。

天武天皇元年(673)八月二十五日、事件関係者が処分された。太宰府長官も歴任した赤兄は地方に流され、金は八虐の罪により斬刑に処せられた。赤兄の子、金の子らも地方に流された。金(中臣金連(なかとみのかねのむらじ)は天智天皇十年(670)春正月一日、大友皇子が太政大臣に任命されたときに神事の祝詞をあげている。そしてその日、赤兄は左大臣に、金は右大臣にそれぞれ任命されている。

 持統天皇元年(686)十月、謀反の罪で処刑された大津皇子も天智天皇の朝廷でナンバー2の地位にあった。大津皇子も天武天皇が崩御直後、謀反が発覚した。大津皇子は皇太子・草壁皇子よりも目立っていた。其処が問題であった。大友皇子の場合は大皇弟・大海人皇子が出家したので取り巻きが大友皇子を利用しようとした。大津皇子の場合は、皇子自身が目立つ存在であったので、これにすり寄って来る者がいた。その中に新羅人・僧行心がいた。

ナンバー2は自らの立場や状況をよく弁えていないと失敗する。聖武天皇の御世、太政大臣として剛腕を振るっていた長屋王も無位の中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじあずまひと)らの讒言により謀反とされ、一家無理心中のようにして死んだ。ナンバー2は公人中の公人であり、自分一人ではない。自分の言動が常に利用されることを警戒し、常に謹んで目立たないように振る舞わなければならない。もし、そのナバー2が、天下無双の逸材であり、しかも全く無欲で決して表に出ようとしないならば、時機が到来すれば自然のうちに上に立てられあるものである。

ある人物の自然体が「地位も名誉も金も要らぬ」といつも思っているような性格であれば、徳は自ずと現れる。天地の動きの中で時機が到来したら、自らは望んでいなくても引き出され、担ぎ上げられるだろう。「易経」の世界が其処にあるようである。

2012年6月29日金曜日


大津皇子・妃山辺皇女の悲劇について現在に照らし別の観方をしてみる(20120629)

 岩波文庫『日本書紀』には、天武天皇崩御後、“皇后臨朝称制(みかどまつりごときこしめ)す。”とある。天武天皇の皇后は即位の式を挙げずに政務を執った。皇后は後に「持統天皇」と諡を贈られた。古代、皇后になる人は必ず皇女であった。天皇の血を引いていることが非常に重要であった。ところが、聖武天皇の皇后は藤原氏から出、桓武天皇の皇后は百済の王族の末裔の出であった。時代が下がるにつれ、出自は重要でなくなってきた。昭和に入り全くの民間人が皇后になった。そして今、女性宮家創設の話が出ている。ゆくゆくは女系天皇への道を開くことになるかもしれない。本当にこの日本の国はそれでよいのだろうか?

 『日本書紀』に“持統天皇元年(686)の冬十月(ふゆきあむなづき)の戊辰(つちのえたつ)の朔己巳(つちのとのみのひ)(二日)に、皇子(みこ)大津(おほつ)、謀反)(みかどかたぶ)けむとして発覚(あらは)れぬ。・・(中略)・・庚午(かのえうまのひ)(三日)に、皇子(みこ)大津(おほつ)を訳語田(をさだ)の舎(いへ)に賜死(みまかし)む。時(とき)に年二十四(としはたちあまりよつ)なり。妃皇女(みめひめみこ)山辺(やまべ)、髪(かみ)を被(くだしみだ)して徒跣(そあし)にして、奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ。見(み)る者(ひと)(みな)歔欷(なげ)く。皇子大津は、・・(中略)・・容止墻(みかほたか)く岸(さが)しくして、音辞(みことば)(すぐ)れ朗(あきらか)なり。・・(中略)・・長(ひととなる)に及(いた)りて弁(わきわき)しくして才学(かど)(ま)す。尤(もと)も文筆(ふみつくること)を愛(この)みたまふ。”とある。妃・山辺皇女の可哀そうな状況に同情して、見るひと皆すすり泣いたという。

 この事件の背後に新羅人の僧・行心(かうじむ)がいた。行心は父子とも金という姓であった。事件の関係者は行心を含め30人あまり居たが後に皆赦されている。行心は飛騨の寺に配置された。大津皇子の罪は国家(君主)を危うくすることを謀る罪であり、養老律で八虐の第一にあげられ、斬刑の処せられる。そのとおり、謀反の発覚は九月二十四日であった。関係者が逮捕され、十月二日に罪が明らかになり、翌日死刑されている。

 大津皇子は皇太子・草壁皇子に次ぐ地位にあり、しかも優れた資質をもっていたので、皇后(持統天皇)は自己の所生である草壁皇子の地位が脅かされるのを恐れ、暗に大津皇子を孤立させ、挑発させ、謀反に追いやったのではないかという説がある。

 しかしそれは現在生きる者が当時の状況を想像して言っていることである。何故、新羅人が事件に絡んでいたのか。日本書紀の原文はすべて漢文でシナの後漢書などに見習った文言である。これを書いた人はその時から400年前ごろ帰化していた文書専門の実務官僚たちであろう。新羅人行心だけでなく、そのころ帰化していた朝鮮半島新羅出身者は沢山いた。持統天皇は大津皇子事件の後、帰化した新羅人たちを各地に分散居住させている。

 それから1300年ほども経ち、その間戦国時代もあり、幕府体制となり、人々の移動は激しかったと考えられる。このため人々の血は混じり合い、今の日本人は誰でもその形質の何処かに帰化人の遺伝子に基づく要素があるはずである。

 しかし大津皇子の事件の当時は、帰化人という特殊な要素が日本の中にあったに違いない。今の時代のような堂々と女性宮家創設とかその先に垣間見える女系天皇への道を開くような構図は当時なかったにせよ、当時としては国家転覆につながるようなことが実際に起きたのではないだろうか?大津皇子自身、脇が甘かったのかもしれない。

 日本は、韓国や北朝鮮やシナ(中国)と違って、万世一系の天皇がいる国である。天皇家は日本中の家々宗家のような存在である。日本という国は、世界に類例がない特殊な縄文人と、渡来系弥生人の混血種を基層にし、朝鮮半島から渡来してきた韓人や、後漢時代朝鮮半島にいた漢人、その後時代が下がってシナ江南の呉からはるばる日本に渡ってきた人々など非常に多くの帰化人たちが混血した。

いうなれば日本人は縄文人と長江中下流域からボートピープルとして渡ってきたと考えられる渡来系弥生人の混血種を基層とした多人種・混血の民族であり、しかも天皇がいるゆえに単一民族の国である。夫婦は別称ではなく、欧米と同様。同姓である。そういう国が戦後の状況の中で、女性天皇とか女系天皇ということが人々の話題に上がり、夫婦別称とか在日移住外国人の参政権とかが叫ばれるようになった状況である。大津皇子の事件のように、誰かがこの日本の「国家を謀反(かたぶけ)」ようとしていないだろうか? 日本はこれでよいのだろうか? 我々の子子孫孫の時代には、悠久の歴史を持っているヤマト・日本という国がなくなってしまうのではないかと心配される。

2012年6月28日木曜日


天皇がいる国の性格について考える(20120628)

 「万葉集に学ぶ」と題して万葉集を読みながら古代の歴史も学んできたが、この辺でちょっと一息入れることにした。天武天皇が即位する前に起きた大友皇子の悲劇、天武天皇が崩御された後に起きた大津皇子と妃・山辺皇女の悲劇の真の原因は何だろうかと疑問を持った。歴史家・学者らは簡単に皇位継承の争いのように片付けてしまうが、本当にそうだろうか?

 日本と云う国は古代からずっと世界に類例がない構図があるように考えられる。それは万世一系の天皇の存在である。ローマ皇帝もシナ(中国)の皇帝も、天皇とは全く異なる存在的性格がある。ローマ皇帝やシナの皇帝は人民との間に心理的な垣根がある。両者の間に祖霊を同じくするという‘血のつながり’が全くない。ところがわが国では古事記にあるように‘天皇と臣民’との間には‘血のつながり’がある。国の民は人民ではなく‘臣民’であった。天皇はその祖霊に最も近い存在で現人神であった。大東亜解放戦争終結後、天皇は‘人間宣言’をされたが、それは、言うなれば‘天皇と臣民’という言い方でなくGHQの圧力を受けて教育勅語を廃止したことにより‘天皇と国民’という言い方にしたというだけである。

 教育勅語には“朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシ世々厥ノ美ヲセルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ・・”とある。その‘臣民’は、普遍的な意味での国民ではなく、古事記にあるとおり、先ず天皇の祖先は神代のとき高天原から降臨された。その祖先の神は日本の国土をお造りになり、天皇に従う人々をお造りになられた。故に日本の国土に生まれ人々は天皇の臣民なのである。つまり、天皇と臣民とは一心同体なのである。天皇と臣民とは支配者と被支配者という関係ではない。英語で天皇のことをエンペラーというが、これは間違っている。英語でそういう言葉しかないから、英語でそう訳されているに過ぎない。

 このような日本に古代、非常に多くの人々が朝鮮半島から渡ってきて日本に帰化した。シナの呉(江南地方)からも若干の職業集団が日本に渡ってきている。そのことが『日本書紀』に書かれている。大東亜解放戦争終結後、日本国籍でなくなった何十万人という人々が日本に残り、あるいはGHQ支配下新たに日本に渡ってきて永住権を得ている。それら在日外国人たちの一部やその子供たちは徐々に日本に帰化している。日本に永住している在日外国人の殆ど多くは朝鮮半島人である。

 日本と言う国を構造的に観た場合、特殊的な部分は天皇・皇統(男系)・皇室・皇族である。普天的な部分は日本人・日本語・日本の文字(漢字・ひらがな・カタカナ・ローマ字)・伝統・文化・風習・神社・寺などである。この特殊性と普遍性は一体である。この特殊性が日本を日本としている非常に重要な部分である。

 古代、この特殊な部分に‘帰化人’があった。漢字そのものは魏志倭人伝にもあるとおり倭国(日本)の国々の間で文書が行き来していたので、すでにそのころ漢字が使われていたが、この漢字をよく使い、朝廷での文書業務を良く行わせるため応神天皇十五年(284)秋八月(あきはつき)朔(ついたち)丁卯(ひのとのうのひ)に朝鮮半島から渡来して帰化していた阿直伎(あちき)という人に「如(もし)(いまし)に勝(まさ)れる博士(ふみよみひと)(また)(あ)りや」との御下問に対し、阿直伎の推薦により、翌年春二月(はるきさらぎ)、朝鮮半島から王仁(わに)という人が渡来してきている。
 
 阿直伎は阿直岐史(あちきのふびと)の始祖(はじめおや)となり、王仁は書首(ふみのおびと)の始祖になって、それぞれ天皇から‘直’という氏姓を与えられている。彼らの子孫は朝廷における文書業務などに従事していた。‘直’姓は、阿直伎や王仁だけではなく東漢と呼ばれたすべて人々に与えられていた。天武天皇は天武天皇六年(677)六月、彼らに対して「お前たちの漢直(あやのあたひ)の氏(うじ)を絶さないようにと、これまでお前たちの不届きな行為を大目に見てきたが、今後はそのような先例によらず、赦さない」と言い渡している。

 古代の帰化人たちは、千数百年を経て古代の倭人と完全に同化し、血が混じり合った。今の日本人の誰も必ずその形質の一部に帰化人たちのDNAによるものが含まれている。在日外国人もいずれ年月を経て同様になるだろう。そして‘臣民’になってゆくだろう。それがそれぞれの子子孫孫に至る幸福につながるものであることは確かである。

日本民族はこのように‘多様な’出自、しかし混血した人々の集合である。それゆえに日本人は創造性に富み、協調性があり、規律がある。それも構造的に天皇・皇統(男系)・皇室・皇族という特殊部分と、日本人という普遍部分も総合的なものである。この総合性を大切に思い、永住権を持っている在日外国人であろうと、帰化した外国人であろうと、意識の上で積極的にこの特殊部分に自ら一体となるようにあることが、日本人及び日本に住むすべての人々の幸せにつながることは間違いない。

 今、わが国において天皇・皇統(男系)・皇室・皇族を重んじないような動きがあるが、これは我が国にとって非常に危険なことである。日本人は今一度、教育勅語の本旨に注意を向け、わが国の性格を普遍性と特殊性に分解して理解し、我々の子子孫孫に伝えてゆくようにしないと、日本は日本で無くなってしまうだろう。

2012年6月27日水曜日


万葉集に学ぶ「楽浪の 滋賀の唐崎 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ」(20120627)

第三八代天智天皇そして大友皇子(諡されて「第三九代弘文天皇」)の朝廷があった近江は、壬申の乱後荒れた野になった。その状況を柿本人麻呂が詠っている。万葉集巻第一に「近江の荒れたる都に過(よぎ)る時に、柿本朝臣人麻呂(かきのもとのあそみひとまろ)の作れる歌」と題して二九番、三〇番、三一番に、

たまだすき 畝傍(うねび)の山の 橿原(かしはら)の ひじりのみ代ゆ 或いは云ふ「宮ゆ」 生(あ)れましし 神のことごと つかがきの いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 或いは云ふ「めしける」 そらにみつ 大和を置きて あをによし 奈良山を越え 或いは云ふ「そらみつ 大和を置き あをによし 奈良山越えて」 いかさまに 思ほしめせか 或いは云ふ「思ほしめけか」 あまざかる 鄙(ひな)にはあれどいはばしる 近江の国の 楽浪(ささなみ)の 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 天皇(すめろき)の 神の尊の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと言へども 春草の 茂く生ひたる 霞立ち 春日の霧(き)れる 或いは云ふ「霞立ち 春日か霧れる 夏草か しげくなりぬる」 ももしきの 大宮所 見れば悲しも 或いは云ふ「見ればさぶしも」

    反歌
三〇 楽浪(ささなみ)の 滋賀の唐崎(からさき) 幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ
三一 楽浪の 滋賀の 一に云ふ「比良の」 大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも 一に云ふ「逢はむと思へや」

天智天皇が病に臥していたとき大友皇子は太政大臣になった。天智天皇の皇太子であった大海人皇子は兄・天智天皇が崩御される前、天智天皇の皇后・倭姫王を次の天皇にし、大友皇子を太政大臣として「諸政(もろもろのまつりごと)を奉宣(のたま)はしむ。臣(やつかれ)は請願(こ)ふ、天皇の奉為(おほみため)に、出家(いへでして脩道(おこなひ)せむ」と申し出、許されて天皇から袈裟など賜い吉野に下っている。その大友皇子の妃は大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女である。

天智天皇崩御後、左大臣・蘇我臣赤兄(そがのおみあかえ、右大臣・中臣連金なかとみのむらじかね)、大納言・巨勢臣比等(こぜのおみひと)以下群臣が大海人皇子不在間朝廷を建て、近江朝廷とした。其処に渡来人たちの影響がなかったかどうか? 大友皇子は側近の進言や渡来人たちが重要な役職を担っていた実務官僚の影響もあって「天皇」に祭り上げられたのではないかと考えられる。

出家していた大海人皇子は出家前から近江朝廷の動静に注意を払っていたのでないかと考えられる。大海人皇子は吉野に下るとき妃・菟野皇女らを伴っている。天智天皇崩御後、近江朝廷(大友皇子側)は天智天皇の山稜を造ると称して兵を集め、大海人皇子出家先に京から物資を送る要路・菟道(うじ(宇治))に見張りを立てその運搬を遮る行為に出た。事は大海人皇子が洞察していたとおりであった。ここに壬申の乱が勃発した。

古来天皇の親衛隊である大伴氏・佐伯氏らは初めから大海人皇子に従っていた。大海人皇子は天智天皇崩御後も近江朝廷側に残っていた高市皇子(たけちのみこ)・大津皇子(おほつのみこ)等を密かに脱出させ父・大海人皇子の下にはせ参じさせた。山部王は脱出を試みたが察知されて近江朝廷側に殺害された。

結局左右大臣・大納言らは逃げ大友皇子は丸裸同然となり、自殺した。ここに近江朝廷は倒れ、大海人皇子が国の政治を司ることになった。乱の後、近江朝廷側についていた右大臣・中臣連金だけ処刑され、他は配流された。中臣連金は藤原鎌足の従兄弟である。中臣連金は朝廷に取り入って権力を手にしたいと考えていたのかもしれない。

十市皇女は、夫・大友皇子が自殺に追いやられた乱の後、父・大海人皇子(天武天皇)のもとに帰った。なお、十市皇女は近江朝廷側の動きを吉野に居た大海人皇子に通報していたとう説もある。






2012年6月26日火曜日


万葉集に学ぶ「ももづたふ 磐余の池に 鳴くかもを 今日のみみてや・・」(20120626)

 伊勢神宮で姉・大伯皇女に会って都に戻った後、国家転覆の罪で処刑された大津皇子もその時代の日本国内の状況に翻弄されたのだと考えられる。大津皇子をそそのかしたのは、金という姓の新羅人の僧・新羅沙門行心であった。万葉集巻第三に大津皇子の辞世が収めらいる。

 大津皇子(おほつみのみこ)、死(し)を被(たまは)りし時に、磐余(いはれ)の池の堤(つつみ)にして涙を流して作らす歌一首
四一六 ももづたふ 磐余の池に 鳴くかもを 今日(けふ)のみみてや 雲隠(くもがく)りなむ

物事は「普遍性」と「特殊性」の二重構造で捉えて考えてみる必要がある。古代の日本は構造的に観ると下図のようにあった。当時の人口推定550万人中、渡来人たちは『日本書紀』記載の人数だけでも何万人という数になる。応神天皇の十四年(283年)から二十年(289)にかけて朝鮮半島から非常に多くの人々が渡来して来た。後漢の滅亡時、後漢の霊帝の子孫も多くの職業部集団を伴って渡来してきた。血統・職能をもって朝廷に仕えた人々も多い。彼らは天皇から忌寸・宿祢・直などの姓を与えられている。

一組の夫婦から二人づつ子供が生まれ、25年で世代交代すると仮定すると、1000年後には1兆人となる。たった一組の夫婦でもその子孫はその人数になる。従って今の日本人の形質の何処かに渡来人たちの遺伝子による部分が混じっている筈である。

現在の日本は下図の特殊性の部分の「渡来人」と「朝廷に帰順していない蝦夷」は無くなり、代わりに、「日本に帰化していない多数の在日永住外国人」と「一時滞在の多数の外国人」が存在している。

特殊性の部分は「天皇・皇統(男系)・皇室・皇族」の存在により、日本国全体としての矛盾を起こさないようなバランスが取れている。「天皇・皇統(男系)・皇室・皇族」の存在は、わが国の現在の状況においても大変重要な要素となっている。これを無くしたら、日本は日本でなくなる。「女性天皇」まして「女系天皇」はとんでもないことである。

岩波文庫『日本書紀』天武天皇六年(677)六月の条に、“是の月に、東漢直等(やまとあやのあたひら)に詔(みことのり)して日(のたま)はく、「汝等(いましら)が党族(やから)、本より七(なな)つの不可(あしきこと)を犯(おか)せり。是(ここ)を以(も)て、小墾田(をはりだ)(推古天皇のこと)の御世(みよ)より、近江(あふみ)の朝(みかど)に至(いた)るまでに、常(つね)に汝等謀(はか)るを以て事(わざ)とす。今(いま)朕(わ)が世(よ)に当(あた)りて、汝等の不可(あ)しき状(かたち)を将責(せ)めて、犯(をかし)の随(まま)に罪(つみ)すべし。然(しか)れども頓(ひたぶる)に漢直(あやのあたひ)の氏(うじ)を絶(たや)さまく欲(ほつ)せず。故(かれ)、大きなる恩(めぐみ)を降(くだ)して原(ゆる)したまふ。今より以降(のち)、若(も)し犯(をか)す者(もの)(あ)らば、必(かなら)ず赦(ゆる)さざる例(かぎり)に入(い)れむ」とのたまふ。”とある。

小墾田の御世とは推古天皇の御世のことである。漢直は朝鮮半島より帰化した後漢の霊帝の子孫と称する人々に与えられた姓で多くの氏に別れている。大友皇子の事件も大津皇子の事件も朝廷の実務官僚として能力を発揮していた漢直姓の人々の影響が全く無かったと言えるだろうか? 3世紀末日本にやってきた朝鮮半島からの渡来人たちは、1700年も経てば皆血が混じり合い皆完全な日本人になっているが、当時は下図の「特殊性」の部分があったと考えられる。そういうグループが自分たちの立場を強めるため皇室を利用しようとしたかもしれない。大友皇子も大津皇子もそういう勢力に利用されたのかもしれない。









2012年6月25日月曜日


万葉集に学ぶ「我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて 暁露に ・・」(20120625)

 天武天皇の皇子である大津皇子は、天武天皇崩御後謀反の罪で処刑された。妃の山辺皇女は髪を振り乱して裸足でその場に「奔(はし)り赴(ゆ)きて殉(ともにし)ぬ」とある。歴史書などにはこれは、天武天皇の皇太子となった自分の子・草壁皇子尊(くさかべのみこのみこと)を天皇にしたいため、持統天皇側が仕掛けたものであると、まことしやかに書いてあるものが。そのような見方をする人たちの中には、もしかして、その深層心理として藤原氏に対する妬みや反感が全くないだろうか?

 大津皇子の妃となった山辺皇女の母・常陸娘の父は蘇我赤兄である。大津皇子は天武天皇の皇子であり、山辺皇女は天智天皇の皇女であるが、両者とも蘇我の血を色濃く引いている。一方、天武天皇の皇太子・草壁皇子尊(後の第四二代文武天皇)の夫人(ぶにん)(皇族以外の出自の妻を‘夫人’と言った)は藤原朝臣宮子娘(ふじわらのあそんみやこのいらつめ)(不比等の娘、聖武天皇の母)である。

 大津皇子の謀反は、国家転覆を図る目には見えない何かの力が作用していたのかもしれない。後に釈放されたが、『日本書紀』天武天皇崩御の年(686)冬十月(ふゆかむなづき)の条に新羅の金姓の「新羅沙門行心(しらぎのほうふしこうじむ)、皇子大津謀反(みかどかたぶ)けむとするに与(くみ)せれども、朕(われ)加法(つみ)するに忍(しの)びず。飛騨国(ひだくに)の伽藍(てら)に徏(うつ)せ」とのたまい、その新羅僧は釈放されている。

 その翌年三月十五日、日本に帰化していた高麗人56人を常陸国に居住させ(居(はべ)らしむ)、耕作田を与え生活を安定させ(田賦(たたま)ひ稟受(かてたま)ひて、生業を安からしむ)、さらに二十二日、帰化している新羅人14人を下野野国に居住させ同様にし、また夏四月十日に帰化している新羅の僧尼及び百姓(たみ)の男女22人を武蔵国に居住させ同様にしたという記事がある。

 大津皇子は容姿端麗・言辞優れ・才能あり・学問に熱心で・文筆を愛す24歳の青年であったので、帰化人たちの処遇について一見識あり、帰化人たちから期待されていたのかもしれない。また妻の山辺皇女も才色兼備で帰化人たちとの接点があったのかもしれない。そのことが不安になり、大津皇子は密かに姉がいる伊勢神宮に出かけたのかもしれない。

 岩波文庫『日本書紀』の天智七年二月(きさらぎ)の条に「蘇我赤兄大臣(そがのあかえのおおきみ)の女(むすめ)(あ)り、常陸娘(ひたちのいらつめ)と日(い)ふ。山辺皇女(やまへのひめみこ)を生めり」とある。その山辺皇女の父は天智天皇であり、母は蘇我赤兄の娘・常陸娘である。なお、蘇我赤兄は蘇我馬子の子である雄当(雄正子)の子である。蘇我入鹿は蘇我馬子の長男・蝦夷の子である。従い赤兄は入鹿の従兄弟である。

 一方、天智天皇の妃となった遠智娘(をちのいらつめ)の父・蘇我倉山田石川麻呂も入鹿の従兄弟であるが心正しい人であった。皇太子・中大兄皇子が全幅の信頼を置いた中臣鎌子(後の藤原鎌足)らに勧められて、皇太子は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのまろ)の長女・遠智娘(をちのいらつめ)を妃にしている。

 その蘇我倉山田石川麻呂は、異母弟・蘇我臣日向(そがのおみひむか)の讒言で自害し、妻子など8人が殉死した。そのことを聞いて蘇我倉山田石川麻呂の娘であり、中大兄皇子の妃であった遠智娘は傷心のあまり自殺してしまった。中大兄皇子は妻の死に心を傷め、痛く哀泣された。

 その遠智娘に二人の娘あり、二人とも中大兄皇子の同母弟・天武天皇の妃となった。妹・鸕野皇女(うののひめみこ)は後に皇后となり天武天皇崩御後即位された。これが第四一代持統天皇である。一方、姉・大田皇女(おおたのひめみこ)は、悲劇の姉弟・大伯皇女(おほくひめみこ)と大津皇子(おほつのみこ)の母である。

 大伯皇女も大津皇子も蘇我氏の血を引いているがこちらは蘇我倉山田石川麻呂の血を引き、大津皇子の妃の山辺皇女の方は蘇我赤兄の血を引いている。

 万葉集に大津皇子の姉・大伯皇女の歌が出ている。

 大津皇子(おほつのみこ)、竊(ひそ)かに伊勢の神宮に下りて上り来る時に大伯皇女(おほくひめみこ)の作らす歌二首
一〇五 我が背子を 大和へ遣(や)ると さ夜ふけて 暁露(あかときつゆに 我が立ち濡れし
一〇六 二人行けど 行き過ぎかたき 秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

  大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女(おほくひめみこ)、伊勢の斎宮(いつきのみや)より京に上がる時に作らす歌二首
一六三 かむかぜの 伊勢の国にも あらましを なにしか来けむ 君もあらなくに
一六四 見まく欲り 我がする君も あらなくに なにしか来けむ 馬疲らしに

 大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首
一六五 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟(いろど)と我が見む