2015年12月31日木曜日

20151231「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(4) ―― 日本 国家として懸念を払拭するための精神文化 ――


 日本の仏教は、6世紀の半ば、欽明天皇(在位:西暦539571年)の御世、百済から伝えられた。その韓国では西暦1393年に李氏による王朝時代(期間:西暦13921910年)に入ると、儒教の一派である朱子学のみが統治・支配のため崇拝され、仏教が弾圧された。近代に入ってキリスト教(カトリック)も弾圧された。

 日本においても仏教は、過去に時の政権によって弾圧された歴史がある。但し、それは時の政権による国家運営に大きな障害となっていた過激な武装集団としての仏教集団に対するものであった。信長による延暦寺焼き討ち、秀吉による寺院の武装解除、江戸幕府による日蓮の教義を信じない日蓮宗の一派の不受不施派に対する厳しい弾圧、明治新政府による神道重視の政策の結果行われた全国規模の廃仏毀釈や虚無僧が在籍する普化宗を廃止などがそれである。日本においても朱子学が統治・支配のため必要な学問として、各藩の学校で教育されていたが、一方で実用主義的な学問である陽明学の教育も私塾で行われていた。

 韓国における仏教は、儒教を国家運営の中心に据えていたため仏教は弾圧されたが、日本では過激派や異端の仏教団体のみが弾圧されただけである。日本では聖徳太子や聖武天皇が日本国内における仏教の普及に大きな影響を与えた。日本では仏教が国家運営の中心に置かれ続けた。江戸時代に入ると一般市民は皆、檀家制度により寺門に組み込まれ、仏教の寺院は行政の一端を担うようになった。国家の運営に関わる仏教の扱われ方が、日本と韓国におけるそれぞれの国民性の相違に大きな影響を与えたことは確かである。

 このたび、いわゆる従軍慰安婦問題が完全に解決する方向に向かった。しかし、日本人の間ではこの問題が再び蒸し返されるかもしれない、という懸念を払拭することができないでいる。この問題が再び蒸し返されないようにするためには何が必要か?もし万一、この問題が蒸し返されたとき日本人はどういう態度で臨むべきか、日本人はしっかりした心構えを持っておく必要がある。

 後者について、心構えの一つは仏教の精神文化を維持・増強させることである。仏教では、「死後の世界に目を向ければ、人生はより豊かになる」ことを教えている(『人間(ひと)は死んでも、また生き続ける』大谷暢順著・幻冬舎)。

 死後の世界を現世の者は誰も経験していないので、それがあることを信じるほかない。しかし、死後の世界は現世の生き様次第であると信じ、憤怒・激情を抑えきれずに他人の尊厳を平気で傷つけるような人たちの死後は、必ず修羅・餓鬼以下の存在となることを信じて、現世を正しく生きるならば、その人は現世できっと幸せになれるだろう。

 国家は人々の集合体である。個々の人々のそれぞれの心の持ち方次第で、国家の品格が定まる。日本人は、昔に帰って孟子の教えや「知行合一」を説く陽明学の教えを学び、仏教の教えを学び、和服を愛して畳の上の生活を大事にし、礼儀作法を学び、茶道の一期一会の精神を学ぶなど、いわゆる「和」の精神文化の世界に日本人の精神を再発見する必要がある。

 そうすれば、日本の周辺の国々が日本に対してどのように振る舞おうと、何も気にすることはなくなるであろう。欧米・東南アジア・大洋州諸国・印度・中央アジア・モンゴルなどの国々は、そういう日本を大切に思い、陰に陽に日本を助けてくれるであろう。

 ただ、日本の周辺の国々が日本を親しく感じない原因が過去の日本にあることを、日本人は深く自覚し、その因縁を解消させるため最善の努力を未来においても継続してゆく必要がある。『反日・愛国の由来』(呉 善花 著、PHP新書)に「日本人を倭人と呼んで蔑視した朝鮮通信使」という項がある。そこには “・・(前略)・・(朝鮮通信使の)申維翰の主張は「豊臣秀吉が朝鮮を侵略したから日本人を蔑称してよい」というものだ・・(中略)・・韓国・北朝鮮人はいまでも、同国人どうしで日本人の悪口をいうときには「日本奴」「倭奴」「猪足」・・(中略)・・などの蔑称を用いることが珍しくない・・(中略)・・現代韓国・北朝鮮人もまた、「日本人はわが国を侵略したから」という理由で、日本人に対する侮辱的な言葉や行為を正当化している・・(後略)”とある。私もかつて韓国を旅行したとき、バスガイドの韓国人女性から「豊臣秀吉と伊藤博文は韓国で最も嫌われている」と聞いたことがある。韓国人の間で「自分たちの国が日本に侵略された」という怨念は、世代が変わっても遺伝や教育によって決して変わることはないであろう。

 日本人は上記のことを深く自覚しつつ、上述のように「和」の精神文化の世界に日本人の精神を再発見する必要があるのである。


2015年12月21日月曜日

20151221「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(3) ―― 「煩悩」と「輪廻転生」。それは国家でも同じである。 ――


 ここに、昭和36年(1961年)初版発行の『正信聖典』(浄土真宗 親鸞会)という小冊子がある。これは、昭和54年(1979年)に他界した父が所持していたものである。この本には上段に親鸞聖人が作った七言絶句の長詩『正信偈』、下段にその訓読が書かれている。今までこの小冊子のことをすっかり忘れていたが、『正信偈』を持ち帰った筈だと書棚を探していたらそれが見つかった。私は、このお経は大変素晴らしいお経であると思っている。

 僧侶はお経を上げ、葬儀や法要の参列者はただ手を合わせて黙って聞いていて、そのお経の意味は分からずに、その厳粛な雰囲気の中でただ有難がっている。その儀式が終われば、人々は再び煩悩に満ちた日常に戻る。

 「煩悩」とは広辞苑によれば、「衆生の心身を煩わし悩ませる一切の妄念。貧・瞋・慢・疑・見を根本とし、その種類は多い」とある。因みに「瞋」とは「いかる・いからす」「目をわくいっぱいに開く・かっと目をむく」ことである。『仏教要語の基礎知識』(水野弘元著、春秋社)によれば、「煩悩」には根本煩悩として六種または十種あり、“中でも貪欲・瞋恚・愚痴(貧・瞋・痴)の三つはもっとも基本であり、この中でも愚痴すなわち無明が最も根本とされる。”この「無明」とは“無知であって、四諦や縁起の道理を知らないこと”である。“四諦は人々の苦しみや悩みをいやすための原理を説いたもの”である。“縁起とは「種々の条件によって現象が起こる起こり方の原理」である。なお、「瞋恚」とは『学研 漢和大辞典』によれば「①自分の心に反するものを怒り怨む。②目をむいて怒る」ことである。

 私自身も「瞋恚」であり、なかなか改まらない、但し「怨む」ことは全くないのであるが、人々は如何に「貪欲・瞋恚・愚痴」の日常を送っていることか!これが時に言葉による暴力・切傷・殺人の基になっている。良寛は「欲無ければ一切足り、求むる有れば万事窮す」と詠っている(『意に可なり』)。欲が無ければ怒ることも少なくなるだろう。

 煩悩は遺伝・教育・内省によりその顕れ方が異なるであろう。私は、煩悩の顕れ方は遺伝によるものが一番大きいと思っている。人の性格は生まれつきのものであるから絶対変わらないが、人の行動は教育や内省により変わり、一見その人の性格は変わったように見える。しかし、何かの折に突然その人の地が顕れて周囲の人を驚かすことがある。

 人は生きている限り煩悩を捨て去ることは絶対にできない。しかし、家庭や学校や社会による教育と、その結果身につく自己内省に基づく努力により、煩悩の顕れ方が変わってくる筈である。

 『人間(ひと)は死んでもまた生き続ける』(大谷暢順著、幻冬舎)に、“仏教には「輪廻転生(りんねてんしょう)」という思想があります。・・(中略)・・この輪廻思想は、仏教が開かれる前からインド人のなかにしみ込んだ教えです。・・(中略)・・キリスト教の場合は、人生は一度きりで、死者は最後の審判の日に復活して神の裁きを受け、神の国に受け入れられるか、地獄に落ちるかのどちらかとされています。イスラム教もほぼ同じで、ユダヤ教のほとんどの宗派は、死者は土にかえると考えられているそうです”とある。

 輪廻転生の思想では、人は死んだら地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の何れかの世界に生まれ変わるとされている。この思想では、「前世→現世→来世」の繰り返しは死後も続くものであり、今生きている人は前世の宿業を負って現世を生きているとされている。現世で畜生と同じような生き方をした者は、死後、畜生に生まれ変わることになっている。

人間は死んだら何かに生まれ変わるが、この生まれ変わりは「意識(または自分自身では気付くことが出来ない意識(=無意識)」の継承と前世・現世の意識・無意識の共鳴・共振である、と私は考えている。意識・無意識は時空を超越し、広大無辺に自由自在・融通無碍である。これは霊魂でもあるが、意識・無意識は人間だけが持っているものである。

私は、意識・無意識について前世・現世間の共鳴・共振があるゆえに、畜生以下に堕ちた人も現世の人との間で意識・無意識と共鳴・共振して上位に引き上げられることもあり得ると考えるものである。大本山永平寺が出している『修證義』には「設(たとい)天上人間地獄鬼畜なりと雖(いえど)も、感應(かんのう)道交(どうこう)すれば・・(中略)・・帰依(きえ)し奉(たてまつ)るが如(ごと)きは生生世世處處に増長し、必ず積功累徳し」とある。

 ところで、私は人間の集団である国家も意識・無意識を持っており、それは政府が変わるたびに生まれ変わるものであり、国家にも煩悩と輪廻転生があると考えている。国家としての煩悩ゆえに国家は他の国家を見下したり、他の国家に対して攻撃的になったり、利害を調整して協調的になったりする。


 日本人(但し、日本では人が死んだ場合、仏式の葬儀を営む人が圧倒的に多いと思われるので、集合的に「日本人」と言う。)は古来、輪廻転生の思想をもって後世へと命を繋いできた。日本人は「貪欲・瞋恚・愚痴」の三つの最も基本の煩悩を遠ざけつつ、これまで歩みを進めてきた。日本は明治維新・大東亜戦争の終結・政権の交代のたびに大変化或は小変化で生まれ変わったが、私は、日本人が聖徳太子や聖武天皇について正しい教育を受け、日本が神武天皇以来の皇統を守り続けるかぎり、日本は生まれ変わるたびに「天上界の上位」に上って行くことだろうと固く信じている。

2015年12月18日金曜日

20151218「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(2)   ―― 母の命日 ――


 1218日は、私の生母の命日である。母は昭和21年(西暦1946年)のこの日、享年33歳でこの世を去った。母は大正3年(1914年)110日生まれであったから、享年は殆ど満年齢に近かった。死因は乳がんであった。

 叔父が二度目の出征前の昭和18年(1943年)に実家で祝言を挙げたときの集合写真がある。その叔父の長兄である私の父は当時朝鮮で国民学校(小学校)の訓導(教師)をしていて、青年訓訓練所の指導員もしていた。父は母と私たち兄弟及び乳飲み子だった妹の3人の子供を連れて一時帰郷し、その祝言に参加していた。祝言には近所の方々が手伝いにきてくれていて、仏間とそれに続く座敷で行われた。当時はそのような儀式があるときの会食には一人一人のお膳があり、その料理を作ることやお膳を並べることなどを近所の方々が手伝っていた。

 それから2年後日本は戦争に敗れ、母と私たち子供3人は終戦直後朝鮮から引き揚げてきた。当時国民学校長や青年特別訓練所所長・女子青年錬成所長などをしていた父は朝鮮に残留し、9月末に帆船で引き揚げ、博多に上陸した。そのとき既に母の乳房にはがんが出来ていた。母の乳房には小さいおできのようなものが出来ていた。母は別府の病院で片房ずつ両方の乳房を切除する手術を受けたが既に手遅れで、翌年のこの日(1218日)にこの世を去った。その時私は9歳、弟は7歳、妹は3歳であった。

 母は入院中見舞いに訪れた私と弟にマグロの刺身のお茶漬けを作って与えてくれた。米は入手困難であったに違いないが白米のご飯であった。その米は祖母が父に託したものであった。父は当時38歳であった。私たち兄弟は父に連れられて一面焼け野原になっていた大分市街地を路面電車に乗って別府に向かった。焼け野原は戦時中米軍による無差別爆撃によるものである。当時55歳であった祖母も米軍機による機銃掃射を逃れて橋の下に避難したことがあった、という話を私は祖母から聞いている。

 人はこの世に生を享け、いずれは草木が枯れるように枯れて朽ちてゆく。草木は若い芽を出していずれ土に還るがその期間は一定でないように、人の一生も同様である。戦斗や戦火により短い生涯を終えた人も、生きながらえて天寿を全うした人も同様である。しかし、人は特異な死に方をした人のことを生涯思い続けるものである。人は志をもって短い生涯を駆け抜けた人のことを特別な思いで想うものである。私の母にも志があった。母は死の直前私に死に際の有り様がどうあるべきか示してくれた。侍の子孫であった母は私たちにがんの苦痛のことを全く示さなかった。そのことが私の精神的支柱を形成している。

 病院から見放され私の祖父母の家で死の床についていた母の背中には一面に多数のこぶが出来ていた。母は私に「起こしておくれ」と言い、私が母を床から起こしてあげると「背中をさすっておくれ」と言っていた。しかしこの日(19461218日)には「背中をさすっておくれ」とは言わず、「東を向けておくれ」と言い、「御仏壇からお線香を取ってきておくれ」と言い、私がそのようにしてあげたら、今度は「お父さんを呼んで来ておくれ」と言った。私は裏山で地面に落ちている枯れ松葉をかき集めに行っていた父を呼びに行った。父と共に戻って来たときには母は布団の上に寝かされていて、既に死んでいた。

 先祖が同じである新宅のH叔父さんは私たち小さい子供3人に「真剣にお経を上げるとお母さんに会えるよ」と言っていた。私たちは「帰命無量寿如来」で始まる七言絶句の長詩を暗唱するほど、毎日仏壇の前で熱心にお経を上げていた。

 私は前世・現世・来世にわたる因果応報を確信している。これまでの人生を振り返ると、「あの時は亡き母が守ってくれたに違いない」と思うような危険なことも何度かあった。私は、今享受している幸せは母や先祖の導きによるものであると思っていつも感謝している。

 私は、「人は死んでもその意識は無くなることはない。今生きている自分が意識をその死んだ人に向けるとき、過去に生きた人の意識は今生きている自分の意識と共鳴・共振する。意識には自分自身が気づかない深層の無意識もある。やがて自分もこの世を去るが、私の意識は後の世に生きる人の意識と触れ合うに違いない」と固く信じている。

 私は、「阿弥陀(Amitāyus無量寿・Amitābha無量光)」(『仏教要語の基礎知識』水野弘元著、春秋社より引用)は、宇宙そのものであると考えている。現代の科学では宇宙は無数に存在しているとされている。その宇宙は一点から光を発し、無数の星々や無数の星雲が生まれ、その星雲の中の太陽系の惑星の一つであるこの地球上に私は生きている。私は、宇宙は一つの「生命体」のようなものであると考えている。

私は、親鸞は釈尊が説かれた真理を紐解き、仏に帰依する方法の一つとして「阿弥陀仏が人々に救いの手を差し伸べて下さっているので、ひたすら阿弥陀仏を信じ、阿弥陀仏にすがりなさい」と教えられたのだと思っている。


私は、人は阿弥陀に全幅の信頼を置けば、人生における「苦」は無くなると思っている。今、母の命日に当り、報身仏である「阿弥陀如来」すなわち「阿弥陀仏」を信じ、手元に阿弥陀仏の画像が無くても心の中でその画像を思い描き、「南無阿弥陀仏」と何度も唱えれば、私の心は自ずと平安になる。真に有難いことである。

2015年12月5日土曜日

20151205「仏教」をキーワードに、思いつくまま綴る(1)


 この二ヵ月半ばかりの期間、非常に多忙であった。7月に96歳の誕生日を超えた母は、9月末、体調に変化が生じ、一週間後他界した。その母は私が13歳のとき父の後妻としてわが家に嫁いできた。その翌年、父母は生後5か月の乳飲み子を連れて実家を去り、山奥の村の小学校の助教諭として赴任した。父は3年後正規の教諭に復帰することができたが、それまでは助教諭の身分で、自分よりずっと後輩の校長の下、親子三人で懸命に生きた。私は今から何十年か前、その母から自分の半生を綴った手紙を貰っていた。それには母の苦労話が書かれていた。

母は60歳の時、30年間連れ添った夫、つまり私の父が他界した。それ以降、母は一人暮らしをしながら家を守っていた。母は84歳の時大腸がんに罹ったが、その時は手術でその腫瘍を取り除いた。その一年後大腸がんが再発したが、そのときは抗がん剤の投与により完治した。しかしその後母は微熱を出すことが多くなり、認知症の症状も出始め年月を経るにつれその症状は進行した。84歳になって大病を患って以降、母は訪問介護・デイサービス・ショートステイなどのサービスを受けていたが、94歳のとき地域密着型の特別養護老人施設に入居した。母は他界する4か月前、携帯トイレ使用時に大腿骨脛部を骨折して4週間ほど入院していた。退院後、母は施設内で車いすを利用する生活になった。

私たちは毎夜8時半過ぎに施設に入居中の母に電話をかけていた。電話口で母は「皆とおしゃべりしていて今(自分の部屋に)戻ったところ。よく歩けるし、よく食べれるし、毎日楽しくて仕様がない。皆元気かえ?」と言うのが口癖であった。施設からの電話で母が「微熱を出した」と連絡を受けて、私はその施設に依頼して、母が父の他界後その施設に入居する前までの間ずっとお世話になっていたK病院に母を入院させた。K病院は母が父他界後35年間ほど独り暮らしをしていた家の近くにある。私たちはその家から毎日K病院に通い母を見舞い、母と会話を交わしていたが、母が急変したのは死亡する前日のことであった。その時母は「入れ歯をしたい」とか「トイレに行きたい」などとぐずっていた。それが最後であった。

その母が死んで仮通夜・本通夜・告別式が終わり、その後「中陰」という七日ごとの法要を檀家になっている寺の住職(「ご院家さん」と呼ぶ)に自宅に来て頂いて行い、七七日(「満中陰」、一般に「四十九日」と呼ばれる)の法要が終わって一先ず忌明となった。その法要の後、近くのホテルで法要に参列した家族・親族・ご近所の方々がご院家さんを囲んで会食し、会食が終わった後に予め用意してあった菓子包みを参列者全員に配り、「香典返し」や弔電へのお礼など済ませてようやく一連の行事が終わった。

都会では主に家族だけで行う仮通夜をしないし、初七日は告別式の直後に行い、その後も七日ごとの法要はしない。しかし私はそれは間違った習慣であると思っている。葬儀・法要を「儀式」の側面のみをとらえて考えるのか、仏教の深い教えに触れることができる機会であると考えるのか、その違いによって人々の意見が分かれる。いわゆる「葬式仏教」という悪い文化を生み出したのは、僧籍にある人たちの堕落と、人々の間違った観念・習慣によるものである。貧しければ貧しいなりにも法要はきちんと行われるべきである。

仏教は古代インドで起こり、中国・朝鮮を経て日本に伝わり、日本で興隆した。報身仏である阿弥陀仏にひたすら帰依し、自らの精神を高めて行く「他力本願」の信仰は戦前までの日本人の精神を形作っていた。一方、厳しい修業により仏の法に近づこうとする「自力本願」の信仰も日本人の精神要素の一部になっている。その他現世ご利益にすがろうとする信仰も根強いものがある。


親鸞も日蓮もそれぞれ釈尊(お釈迦さま)の教えを紐解いて人々に伝えているものであって、決して親鸞や日蓮がそれぞれ自ら新たな宗教を生み出したわけではない。私にとって、親鸞の教えは最高である。私は阿弥陀仏にすべてを預けていて、非常に心やすらかである。お蔭様で私は「これが神通力なのだ」と思うようなことを毎日のように経験している。それは観方によっては「たまたま起きた偶然のこと」かもしれないが、私はそれを「起きるべくして起きた必然のこと」と受け止めている。私は生老病死他「愛別離苦」「求不得苦」などの四苦八苦をそのまま受け入れるつもりである。たとえ自分に、或いは自分の身近な人に、思いもよらぬことが起きたとしても、私はそれを従容として受け入れる心がけでいる。