2012年1月31日火曜日


石原新党に望む (20120131)

 石原慎太郎東京都知事・亀井静香国民新党代表・平沼赳夫たちあがれ日本代表の三人が新党立ち上げに動いた。これに対する国民の反応は様々である。この新党だけでは批判的な数が、この新党を歓迎する人たちよりも多いようである。これに橋下徹大阪市長・大阪維新の会代表が加わることについては国民の反応は様々のようである。

 男は、石原氏が国民の反応を考えながら行動する人ではないと思っておる。彼は信念の人であり、この日本を変えるために男は若い人たちは年寄りが凝り固まった観念を持っていると思い込んでいて、気分的に「若さ」に新鮮さを求めていると思う。

一般大衆は、石原氏ら三人は橋下氏が独走・暴走しないように石原氏ら年寄りが橋下氏を下からしっかり支えてくれるならば歓迎だと思っているだろう。一方橋下氏は自分たちが年寄り三人組に呑み込まれてしまうことを恐れているだろう。

男は石原氏らは消費税とか社会福祉とか郵政改革とか内政的なことで三人それぞれの考え方を集約し新党の政策に掲げるような馬鹿なことはしないと思う。いやそのように願っておる。何故ならばもしそんなことをするようであれば石原新党は従来立ち上がっては消えていったいろいろな新党と何等変わるところはないからである。

男は橋下氏の大阪都構想推進は日本の行政単位を変えるトリガーとして位置付ければよいと思っておる。この狭い日本に「都」は東京都だけで十分である。「都」は日本の行政中枢がある都市をして位置付ける。大阪は「準都」という名称とし、もし「都」が戦争や災害でその機能を失ったとき大阪「準都」がその代替の機能を発揮できるように平時からその準備をすすめておく。一方名古屋・福岡・仙台・札幌の各市は「特別市」という名称にし、平常時・非常時問わず運輸・通信・国防の支中枢としての機能を整備すべきであると思っておる。

男は自分のような一市井の老人のいうことなどは多くの人々に相手にされないことは分かっているが、石原氏らが次の理念を掲げて新党を立ち上げるならば嬉しいと思う。

    男子皇統の堅持
    憲法改正(国防軍の創建、集団的自衛権の容認、教育勅語の復活)
    わが領海・領土・領空・排他的経済水域の防衛体制強化
    外国人参政権反対
    夫婦別称反対
    人権侵害救済機関設置法案反対
    国家危機管理として大阪準都及び名古屋・福岡・仙台・札幌各特別市構想
    竹島不法占拠・従軍看護婦問題などに関する韓国の対日プロパガンダに対応
    電気事業の競争体制整備(発電・送電分離、無公害自然エネルギー積極推進)
    従来各政党が掲げた内政事項のうち大衆人気取り以外の政策を取捨選択推進

2012年1月30日月曜日


Facebookについて考える (20120130)

 Facebookに違和感があるという人が多いかもしれない。TwitterSNSではない。一方SNSであるFacebookは友達として承認するとフォローをしなければならない。友達が多いとフォローも大変で、そのためにかなりの時間を割かなければならない。「いいね!」をするためリンクされたYouTubeやニコニコ動画を見たり、記事を読んだりしなければならない。いいかげんに「いいね!」をするのは良くない。

 「あいさつ」があれば、その方のウオールを開いて投稿記事を読んだ上で「あいさつを返す」ことになる。Facebookの友達の誰が今日誕生日であるか通知がるので、今日が誕生日にあたる人のウオール投稿記事を読んだりしてお祝いのメッセージを送る。Facebook側にも何かシステム上の誤りがあるのかどうか、一旦「誕生日おめでとうございます」とメッセージを送ったのにもかかわらずそれが届いていなかったような表示になっていて、「彼にはメッセージをおくったのに」と思いながら誕生日を祝うメッセージを送ってしまうことがある。SNSとして人と人とのつながりを作るFacebookでは、このように煩わしい部分がある。その一方でそのつながりにより、これまで知らなかったことを知ることになり、情報を拡散したり集団行動に参加したりするので、Facebookは社会を動かす大きな力にもなる。Twitterにはそのような力はない。「言い放し・聞き放し」である。Twitterにも個人的なメッセージのやりとりができるが、あくまで当人の間だけのことである。

 Facebookに違和感を持つ人たちの中にはこのような「人と人とのつながり」に煩わしさを感じる人たちがいると思う。Facebookがある社会的問題を共有している人たちが大多数を占めている場合、その共有が無いか、少ない人たちにとっては、Facebookはあまり面白くないと思うだろう。それよりも「言い放し・聞き放し」のTwitterの方が気が楽だと感じるに違いない。

 スマートフォンでいつでもどこでもFacebookにアクセスできる。ブログをやっていればそのブログに投稿した記事についてFacebookに紹介をすることもできる。Facebookは時間を多く取られ煩わしい部分もあるが、社会参加をしていて何か世の中に役立っているという満足感を持てる。それは自己満足かもしれないが・・。

 Facebookで多くの時間を取られることについては、情報の取捨選択能力が高まるにつれ、時間をもっと能率的に使うテクニックが身に付いてくる。スマートフォンの利用により時間をさらに効果的かつ能率的に使うことができるようになったように思う。

Facebookに投稿する記事を楽しみにしてくれている人がいる。人生の先輩でもあるので、それなりの記事を投稿することを心がけている。Facebookの友達が自分を「先生」と呼ぶのことについては違和感があるので丁寧にお断りしている。「さん」付けでお願いしている。しかし自分自身として「先生」でなければならぬとも思っている。そういう心掛けがまた自分自身を成長させてくれるだろう。Facebookに違和感を抱いているFacebook上の友達もいるかもしれないことを念頭においてFacebookを楽しもうと思う。

2012年1月29日日曜日


新党結成の動きを注目する(20120129)

 新党結成の動きが加速している。男は新党がどういう理念を掲げるか注目している。もし新党が以下①から⑤にのべるような趣旨のことを凝集して理念に掲げるならば嬉しい。そうでない限り従来の立ち上がっては消滅していった一般大衆迎合の新党と何等変わりはない。

    皇統を断固守る。

Y染色体遺伝子は男子にしか受け継がれない。これに対してミトコンドリア遺伝子は男子にも女子にも受け継がれる。

恐れ多いが敢えて申し上げれば、神武天皇のY染色体遺伝子は最も若い皇族では秋篠宮悠仁親王に伝わっている。戦後マッカーサーによって皇籍離脱させられた旧宮家の直系男子にも神武天皇のY染色体遺伝子は伝わっている。

この神武天皇のY染色体遺伝子の継承を断固守る。


    日本の領海・領土・領空・排他的経済水域を断固防衛する。

世界地図を中国中心で見た場合の日本の防衛上の弱点について考えてもらう。
中国が第一列島線戦略の中で、奄美列島・沖縄列島・尖閣列島・八重山列島を占領する構想をもっている。中国は、尖閣列島は中国領であると公然と主張している。
(下記URLで引用する資料「中国共産党第2期日本解放工作要綱」ご参照。)

この資料には、「中国共産党第2期日本解放工作要綱」は昭和47年8月に掲載された国民新聞の記事であり現在でもこの綱領の威力は些かも衰えていないし、靖国・歴史認識・海底資源・戦争記念館・個人補償請求・人権擁護・安全保障理事国拡大等々の今日的問題は、この要綱に基づき今でも工作機関に逐次指令されているものと推測できる旨説明されている。


    韓国の反日的プロパガンダに対し断固対処する。

竹島不法占拠・日本海呼称・従軍慰安婦及び日本の伝統文化を韓国に起源があるとする韓国の国際的プロパガンダに対し、日本国家として強固に抗議し、対韓国逆プロパガンダを非常にスマートに品よく行う政府系機関を設立する。
(韓国のプロパガンダを放置していると嘘が真実のようになってしまうだろう。)


    外国人参政権・夫婦別称・人権侵害救済の諸法案は絶対実現させない。

中国・韓国・北朝鮮は日本の弱体化を狙っている。本来国家は野獣のような利己的な側面がある。日本国家は憲法前文にあるような「平和を愛する諸国民の公正と信義」は、本来国家にはない。それを恰も国家にあるごとくこれに「信頼」するのは日本人だけの美徳であり、中国・韓国・北朝鮮の諸国民の深層心理は、日本が自分たちと同じような夫婦別称の国になり、日本を見下げることである。

その深層心理の延長線上に外国人参政権・人権侵害救済の諸法案が実現することを期待する心理がある。

わしのようにちょとした愛国的発言をする者を抑圧しようとするのが人権侵害救済の法案である。この法案は反対が多かったためか名称を変更し、法案の意図を巧妙に隠し表に出さない表現になっている。

これらの法案には日本古来の精神性を破壊する目的が潜めている。最終的には日本から天皇を無くそうとする目的がある。

その目的を達成しようとする思想は「人民主権」「社会契約」を主張し、国家よりも個人を尊重するというルソーに遡ることができる。

共産主義思想信奉者・中華思想の権現である中国共産党は非常に長い時間をかけて自分たちの戦略を着々と実行に移している。表向き「人民のため」であるが、隠された意図は「中国共産党のため」である。これは一つの「王朝」であり、中国歴代の王朝と大して変わっていない。中国の農民は都市に自由に戸籍を移ることができない。中国共産党員はかつて中国で行われていた「科挙」試験に合格したエリートと変わらない。このエリートたちの出身は昔同様必ずしも漢族でなくてもよい。


    「政道」と「商道」を混同しない。

日本国家の「政道」は上記①及び②を柱にし、国民の安寧・繁栄を実現することである。これにより日本古来の精神性は維持され、高められ、日本は諸国の民に尊敬され憧憬される国であり続けることができる。

「商道」は日本国家が「政道」をまっすぐ歩み続けるため必要なサブウエイである。これを正しく歩むことによって世界中から人々が日本に来訪し、日本人もまた世界中に安心して出かけられる。国境はあるが許されたものだけが自由に往来できる。

与野党の別なく一部の有力政治家は「政道」の何たるか、「商道」の何たるかをわきまえず、軽々に日中韓主軸の経済共同体を推進しようとしている。

「政道」には国境はあるが「商道」にはそれがない。「政道」の何たるか、「商道」の何たるかをわきまえない政治家たちは、アメリカに対抗してEUのような政治・経済・防衛の統合体を理想と考える人たちがいる。

彼らに共通しているのは日本の歴史観(単なる「歴史」に非ず、日本神話を日本人の精神性の要であるとする観方)の欠如であり、結局国家観の欠如である。


2012年1月28日土曜日


写真立ての中の母上に「お母さん」と呼びかける (20120128)

 男の書斎は広さ7.5㎡ぐらい、幅90センチの小ぶりの畳で換算すると4.5畳である。ここに机、書棚、プリンターなどコンピュータ周辺機器収納用ラックなど置いてあるから狭い。それでもわしにとって十分な広さである。夏用の冷房はないが冬用の暖房はある。

 今パソコンのキーボードを叩きながら目を右にやると男が10歳のとき乳がんで死んだ母上の写真立てが見える。この写真立ては確か男が勤めていた会社のOB会か何のとき貰ったものである。枠はステンレスにしてはぴかぴか光っていて模様など飾りはなくプラチナのように見える。男はこの写真立てに入れてある母上に向かって「お母さん」と呼びかける。母上は33歳で死んだが、写真の母上はわしが小学校に上がる前後だと思うので、30歳か31歳のときである。実はこの写真はわしがパソコンを使って拡大したもので、元の写真はこの4分の1ぐらいの大きさである。

 この母上が生きておれば98になるが、75歳にもなろうとする一人の老人が自分を生んで育ててくれた若い姿の母上の写真に向かって「お母さん」と呼ぶ、その気持ちは他人に分かるものではないだろう。男にとって写真立ての中の母上はとても身近で、何でも相談でき、話しかけることができる存在である。生母であるから言葉では表現できない深い絆がある。わしのそのような気持ちを70歳の時白血病で死んだ親父は墓場の陰から笑って見ているか、それともやきもちを焼いているか、多分その両方であろう。

 男が生母をそのように思うように、男の息子らは自分の生母である自分の女房を心から愛し、いたわっている。彼らが出張で上京のたびに時間を割いて男も一緒に何処かで食事をしたり、時には男の家に泊まったりしている。自分の乳をふくませ、畳の上に投げ出した膝の上に載せて、眼と眼を合わせながら両手を引っ張って我が子に語りかけていた女房は、そのころまだ20代の若さであった。母と特に男の子との間の絆はとても深いものがある。

 戦争や大災害はそういった母子の絆を無理やり断ち切ってしまう。こんな悲しいことはあろうか。わしはホームヘルプを行うあるNOPの代表をしていたとき、自分自身もヘルパーの講習を受けた。そのとき実習の訪問先の老婆が語ってくれた話は忘れられない。その方はもう他界されたと思う。その方は、横浜がアメリカ軍による空襲を受けたとき一面焼け野原になって自分の娘が焼け死んだ話をしてくれた。黒焦げになった遺体の一つが自分の娘と特徴が良く似ていたので自分の娘だと思っていた。ところが後で自分の娘でないことが分かった。自分の娘の遺体はとうとう見つからずじまいであったという。

 街に置いた老婆が立ち話をしている。苦労話である。表情こそ何もなかったように見えるが、何十年も前、まだ若かったころ人知れぬ苦労があったに違いない。人は老い、この世を去ってゆく。わしもそう遠くない時期にこの世を去る。それが人生というものである。

年を重ねれば、それに応じてその年相応の人格にならねばならぬ。だが、若いときのような純粋な気持ちを失ってはならぬ。また体力は落ちても気力まで失ってはならぬ。最後の最期まで一生懸命に生き、死ぬるときは一所懸命に死ぬ。そうでなくてはならぬ。

2012年1月27日金曜日


スマートフォンをいじくって徒然思う (20120127)

 スマートフォンは一口で言うなれば携帯のコンピュータである。電波が届くところならばいつでも何処でもそこでインターネットに接続ができる。YouTubeなどの動画を視聴することもできる。音楽を聴くこともできる。用意されているいろいろなアプリケーションを利用して自分の好みのライフスタイルを実現することができる。

 男はまだスマートフォンを十分使いこなすことはできていない。子供のようにいじり繰り回しているうちに分かってきたことは少しある。男が利用しているフェイスブックに流れる情報は、例えば男が何処かに外出しようとしてバスを待っている間にも、バスや電車の中でも入手でき、またコメントを書いて送信することもできる。

 以前、若い娘や成人の女性などが片手に携帯電話を持って画面に向かって指を動かしている姿を見て男は批判的だったが、今その男自身が同じようなことをやっている。可笑しくもある。多分男が所構わずスマートフォンをいじくっている様子を見て、内心嘲笑っている人もいるであろう。あるいは「年寄りがいいおもちゃを持って遊んでいる」と思っている人もいるであろう。

 男は近々九州の家に帰って来る。その家ではこれまで今年93歳になる婆さん独り住まいをしていた。その婆さんが介護老人施設に入所したため空き家になっている。これまで男はその家に帰るたびにノートパソコンをブロードバンドで使えるようにADSLを引いて、九州に帰ったたびにその家に置いてあるXPのノートパソコンに接続してブログ記事を投稿したりしている。そしてNTTコミュニケーションズに月々の料金を払っている。これはもう無駄な経費となるのでADSLは廃止しなければならない。

 そこで男はBluetooth機能を使ってスマートフォンを通じてノートパソコンから情報のやりとりができないかと考えた。このスマートフォンにはF-LINKというものがあってノートパソコンとの間に専用ケーブルでパソコンとスマートフォンを繋ぐとパソコンからインターネットを経由してデータを送信できるようである。しかしそれは写真やデータの送受であってブラウザをスマートフォン経由でノートパソコン上に表示することはできないようである。いろいろやってみたが結局ギブアップ。今のところADSLに代わる手段はなさそうだ。しかしいずれ近いうちにADSL,は解約することにして準備を進めている。

年金暮らしのひま老人だからこんなことをやっておれる、男は自分のような年寄りを支えてくれている現役世代には申し訳ないと思う。しかし男はパソコンやスマートフォンを使って、ただ遊んでいるのではない。男は自分なりにブログやフェイスブックやツイッターなどを通じてこの日本国の為役立つことをやっているつもりでいる。自己満足といわれればそれまでだが吟詠のブログには毎日70件前後のアクセスがある。アーメバの匿名のブログにも結構アクセスがある。それが必ずしも国の為になっているかどうかは自己満足であるが・・。

 いずれ5、年もすれば、男と女房は別府あたりの何処か有料の老人ホームに入ることにしている。そこで光ケーブルでブローバンドができれば一番良いが無線でも仕方ない。スマートフォンはそれを補完していろいろできる。女房は男が死んだら棺桶にパソコンなど一緒に入れてあげると言う。どちらが先に逝くかわ分からぬが・・

2012年1月26日木曜日


幸せは何処にあるのか (20120126)

 今日は久しぶり朝から雲一つなく穏やかな温和な日和である。わが家は女房と二人だけの落ち着いた平和な暮らしが続いている。子たちはそれぞれ良い会社に勤め、良い仕事をし、それぞれの家庭でも何一つ問題を抱えておらず、それぞれ落ち着いた平和な暮らしをしている。男の一族は「絵に描いた」のように幸せだと、7、8年前他界してしまった近所の女房の友だちがよく言っていたという。

 しかしそれは決して努力なしには得られている幸せではない。勿論幸運もあったがその幸運さえも努力なしに得られたものではない。一族の「中心」は女房である。男は「外心」のようなものである。「外心」は太陽のようなものである。自転する太陽を「中心」に太陽の周りを自転しながら公転している地球のようなものである。女房が「陰」なれば、わ男は「陽」である。同様に息子たち各夫婦においてもそれぞれ嫁が「中心」にあって「陰」であり、わしの血統の息子たちはそれぞれ「外心」にあって「陽」である。それぞれ陰陽相響き合って「中」を為す。かくして一族全体が暖かい光に包まれている。

 万物は永遠に同じ形をとどめるものではない。ある日突然何らかの原因で異変が生じ、わが一族の中に緊張が生じることもあろう。そのとき男はそれは「天」による「命」であると謙虚に受け止め、決して動じないつもりである。しかし男はそのようなことが起きないようには常々「天」に祈りの気持ちを捧げ、己の振る舞いは慎しみ深くしなければならぬと自戒している。小心で損得勘定をし、ケチを張り、見栄を張ったところで何の得ることがあるだろうか?それよりも一族の中で折り目節目に贈答をしあい、それを通じて暖かい心を通い合わせることの方がはるかに大事である。わが女房は自然にそれができている。嫁たちも姑を見習っていつの間にか良い習慣が身に付いてきている。

何故、それが自然にできるのだろうか?それは根本的には女房の性格にある。男の女房には天然のおおらかさが備わっている。嫁たちもそれぞれにいわゆる「悪気(わるげ)」は一切ない。かといっていわゆる頭の悪いお人好しでもないから、相手が善い人か邪気・陰気のある人かどうかは直感的に識別できる。例えば戸別訪問者に対しても電話による売り込みに対しても、その売り込みする人を傷つけないように丁寧にお断りしている。一般に子供の頃から大学時代の交友関係において、何かと自己主張し、相手より優位に立とうとする者は、交際上手かもしれないが本当の意味での親友はいないものである。淋しいから猶一層仲間との交歓を求め、一時の歓談の中に幸せを感じるだけに終わってしまうものである。男の女房や嫁たちにはそのようなところが全くない。

家庭の幸せ、一族の幸せは、一に母にある。母は「中心」にいて軸は一定でぶれずに周りを回し、父は外にあって全体を回す。そして「中」する。これが易経で説かれる理想の形であるとわしは理解しておる。そのハーモニーが男の家・一族において自然に出来上がっているのは、一に「天(てん)の命(めい)により自分たちが生かされているからである。生かされるのも死するのもすべて天の命によるものである」、と男は理解している。

2012年1月25日水曜日


東條英機閣下のご遺言 (20120125)

 男はフェイスブックで刑死された東条英機閣下の遺書を初めて読んだ。東条閣下の手書きの写しは読んだことがあり、それをコピーして保管しているが、閣下の遺書なるものはこれまで一度も目にしたことはなかった。その原因は男が積極的にそれを見つけようとしてこなかったからである。男が購入して読んだ本、『「東京裁判」を裁判する』にも『東条英機 天皇を守り通した男』にも閣下の遺言は出ていなかった。

 男が感動した部分を太字・アンダーラインで示す。これは男はこれを子らや孫たちに是非読ませたいと思うている。

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【遺言】

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。

今回の刑死は、個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は、死をもって贖(あがな)えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては、無罪を主張した。いまも同感である。

ただ力の前に屈服した

自分としては国民に対する責任を負って、満足して刑場に行く。
ただこれにつき、同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者にまでも刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、また国民に対しても申し訳ないことで、深く謝罪する。

元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部過ち犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。

このたびの戦争に従軍して斃れた人、およびこれらの人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。心から陳謝する。
 
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ。
もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。
この裁判は、結局は政治裁判に終わった。
勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
 
天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。
天皇存在の形式については、あえて言わぬ。
存在そのものが絶対に必要なのである。

それは私だけでなく多くの者は同感と思う。
空間や地面のごとき大きな恩は、忘れられぬものである。

東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。
東亜民族もまた他の民族と同様、この天地に生きる権利を有つべきものであって、その有色たることを、むしろ神の恵みとしている。

インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。
これをもって東亜民族の誇りと感じた。
今回の戦争によりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら、幸である。
列国も排他的の感情を忘れて、共栄の心持をもって進むべきである。

現在の日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本の米人に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。
また、日本人が赤化しないように頼む。

東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされなければならぬ。

実は東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。
今後、日本は米国の保護の下に生活していくのであらうが、極東の大勢はどうであらうか。

終戦後わずか3年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。
今後のことを考えれば、実に憂慮にたえぬ。
もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

今、日本は米国よりの食糧の供給その他の援助につき感謝している。
しかし一般が、もし自己に直接なる生活の困難やインフレや、食糧の不足等が、米軍が日本に在るがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

実際は、かかる宣伝をなしつつある者があるのである。
よって米軍が、日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる米英側の指導者は、大きな失敗を犯した。

第一は、日本といふ赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二は、満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は、朝鮮を二分して東亜紛糾の因たらしめた。

米英の指導者は、これを救済する責任を負うて居る。
従ってトルーマン大統領が再選せられたことは、この点に関して有り難いと思ふ。

日本は米国の指導に基づき、武力を全面的に抛棄(ほうき)した。これは賢明であったと思う。
しかし、世界全国家が、全面的に武装を排除するならばよい。
然(しか)らざれば、盗人がばっこする形となる。泥棒がまだいるのに警察をやめるやうなものである。

私は、戦争を根絶するには欲心を取り払わねばならぬと思う。
現に世界各国は、いずれも自国の存在や自衛権の確保を主としている。これはお互いに欲心を抛棄(ほうき)して居らぬ証拠である。

国家から欲心を除くということは、不可能のことである。
されば世界より今後も戦争を除くということは不可能のことである。

これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実はこの通りである。それゆえ第3次世界大戦は避けることができない。

第3次世界大戦に於いて主なる立場に立つものは、米国およびソ連である。
日本とドイツというものが取り去られてしまった。

それがため米国とソ連というものが直接に接触することとなった。
米・ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。
この見地からみても、第3次世界大戦は避けることはできぬ。

第3次世界大戦において極東、日本と支那と朝鮮が、その戦場となる。
この時にあって、米国は武力なき日本を守の策を立てなければならぬ。
これは当然米国の責任である。

日本を属領と考えるのであったならば、また何をかいわんや。
そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。

米国は、日本人8千万国民の生きて行ける道を考えてくれねばならない。
およそ生物として、自ら生きる生命は、神の恵みである。
産児制限の如きは神意に反するもので、行うべきでない。

なお言いたきことは、公・教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
いまは既に、戦後3年を経過しているのではないか。
従ってこれは速やかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容な気持ちをもってもらいたい。

我々の処刑をもって一段落として、戦死病者、戦災死者、ソ連抑留者の遺家族を慰安すること。
戦死者、戦災死者の霊は、遺族の申出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。
従って遺族の希望申出あらば、これを内地へ返還されたし。
戦犯者の家族には保護を与えられたし。

青少年男女の教育は注意を要する。将来大事なことである。
近時、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響からきているものが少なくない。
この点については、我国の古来の美風を保つことが大切である。

今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民罹災者の一大追悼慰安会を行われたし。
世界平和の精神的礎石としたいのである。

もちろん、日本軍人の一部の間に間違いを犯した者はあらう。
これらについては衷心謝罪する。

これと同時に無差別爆撃の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。

最後に、最後に軍事的問題について一言する。

我国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。
あれでは陸海軍一本の行動は採れない。

兵役制については徴兵制によるか、傭兵制によるかは考えなければならない。
我が国民性に鑑みて、再建軍の際に考慮すべし。

再建軍隊の教育は、精神教育を採らなければならぬ。
忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。
この点については、大いに米国に学ぶべきである。

学校教育は従前の質朴剛健のみでは足らぬ。
人として完成を図る教育が大切だ。
いいかえれば宗教教育である。
欧米の風俗を知らすことも必要である。

俘虜のことについては、研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 辞 世

我ゆくも  またこの土地に かへり来ん
国に酬ゆることの足らねば

さらばなり 苔の下にて われ待たん
大和島根に 花薫るとき

散る花も  落つる木の実も 心なき
さそうはただに 嵐のみかは

今ははや  心にかかる 雲もなし 
心豊かに 西へぞ急ぐ

この度さるお方がフェイスブク上でそれを公開し、転載も可ということであったので、ここに転載させて頂くことにした。そのお方曰く、この遺書は一部改ざんされたものが出回っている、これはオリジナルである由。改ざんは戦後の自虐的風潮の中で大衆迎合して改ざんされたようである。

2012年1月24日火曜日


「あの世」の研究 (20120124)

 ナノテクノロジーによって再生医療分野は画期的な発達をみせているようである。近未来には人間の寿命を画期的に伸ばす医療技術が開発されるかもしれない。そのうち寿命がなかなか来ず不老不死のような人間が現れるかもしれない。男は哲学研究で「あの世」が存在を科学的に証明されるに違いないと考え、あれこれ資料を集めたり、考えたりしているが、もし人間が体の細胞や機関をナノ技術の人工品に置き換えて不老不死になった場合、その人の「あの世」はどうなるのかと馬鹿と思われるようなことを本気で考えている。

男は自分の手甲を見て「わしも人並み老いたな」とつくづく思う。左足の大腿四頭筋に何か異常があるらしく、整形外科の先生に診てもらいMRIも撮ったが異常がない。かといって坐骨神経痛でもない。運動を控えて休ませていると回復し、ある時はまったく異常がないことがある。異常がないからとエスカレータに乗らず、長い階段を駆け上がったりすると、後で筋肉に疲労がたまりまた元の状態になる。低い階段を上がるため左足を持ち上げるとき「痛みが来ないか」とつい緊張してしまう。入浴して体が温まるとそのような症状はほとんど感じなくなる。わしの体も以前のように頑健ではなくなってきた。

近ごろは放送大学の単位認定試験を受けるため勉強している女房が毎晩12時前後まで起きているので、男も自分の部屋でコンピュータに向かってブログを書いたりフェイスブックに目を通し「いいね!」をしたりコメントを書いたりしている。これは健康管理上褒められることではない。年寄りは早寝早起きし、朝空気が清浄なうちに外を歩き、体調を整えるようにするべきである。大腿四頭筋が痛むのは自業自得である。

女房は放送大学のそれぞれ別の専攻で2回卒業している。今度の専攻は「社会と産業」で、『国際経営』『社会と銀行』などあと少しの専門科目で単位をとれば卒業できると頑張っている。勉強が楽しいから頑張れるのだという。これまで知らなかったことを知り、世の中のいろいろな動きが分かるようになったから放送大学の勉強が一層楽しいのだという。男はわが女房ながら感心であると思っている。しかし男はどうもそんな気にはなれない。「あの世」の研究には市販の本や新聞の科学記事など耳学問で十分である。もともと分子生物学や量子論や素粒子論などある程度知っている。それ以上細かいことに踏み込んで勉強してもわしの「あの世」の研究には役立たないと直感的にそう感じている。だから女房のように勉強が楽しいとは思えないのである。

スイスにある欧州原子核研究機構(CERN)では日本の研究者も多数加わって、宇宙の本質をとらまえようと研究が行われている。日本にも同様の加速器が二つあり世界最強であるという。欧米からの依頼があって日本は更に大型の加速器を設置しようとしている。福岡の背振山山麓などには堅い岩盤層があって加速設置には有利だという。

CERNでは粒子を高速でぶっつけて5次元の世界の存在を確認しようとしているが、地元では危険を恐れて反対があると聞く。限度を超えたナノ技術による再生医療や5次元の証明の実験などは、神を恐れぬ人間が神を超えるようなことをする試みかもしれぬ。

2012年1月23日月曜日


日本に今、リーダーはいない (20120123)

 NHKで『危機の時代のリーダーを生み出す決定打は何か?』と題して幾人かの学識者らを集めて討論を行うような番組があった。男はその学識者らの顔ぶれをみて「これじゃあめだ」と思い、その番組は見ずじまいであった。何故駄目なのか、誰が駄目なのかここでは言わぬが花である。直感でそう思っただけである。

 さて、昨日男は「易経のことが少し分かってきた」と題して書いた。男の心の中には革命待望がある。今の日本では三島由紀夫が隊長であるような決起武装集団が突然出現し、日本の国家制度を一挙に変えてくれればよいと心の奥底では願望している。しかし、今の時代はそんなことは絶対できないであろう。

 安岡正篤先生の『易経講座』を読みながら男は一番興味がある箇所に差しかかっている。それは「革命」の易断のことである。

 先生は云う。「沢火革(たくかかく)」の卦、すなわち上が☱(011)、下が☲(101)の卦について、二爻から五爻まで取り出し、三爻を上下に共有してできる卦、それは「互卦(ごか)」あるいは「互体」というのだそうであるが、上が☰(111)、下が☴(110)の卦は、「天風姤(てんぷうこう)」と言って革命に関係がある卦ということである。

 先生は“世を思い、自己を空しうしてこそ本当の革命である。しかし腹黒い陰険な悪心の人間によっても革命はなされることがある。しかし良かれ悪しかれ革命には姤が必要であります。おおよそ在来のいき方に変革をなさんとする時には、大衆を集めるだけでは駄目なんで、その中心となるべき母体が必要である。それにはこの姤の初爻が大事であります。”と説いておられる。そして、“初爻が九で上爻が六であれば、せっかくの革命も決潰する”として、「互卦(ごか)」の上が☱(011)で下が☰(111)の場合を夬(かい)の卦、沢天夬(たくてんかい)の卦というと説明しておられる。

 そして、“政府でも国家でも、改革をやろうと思えば、この初爻が大事である。そしてこれに五爻が応じなければならん。他を包容し自己を空しうするような人間に家を国をまかさなければならん。”と強調しておられる。

 日本は東日本大震災に遭い、アメリカからTPP開国を迫られ、韓国ではものすごい反日の風が吹き荒れ、中国では沖縄の占領を本気で考えているという危機の最中にある。また国内では財政赤字が緊迫化し、民主党政権下日本の国体を危うくしかねない女性宮家創設・外国人参政権、・夫婦別姓制・人権侵害救済などの法案が出されようとしている。

いま、大阪では橋下市長が大阪から日本を変えようと意気込んでいる。人々の中には彼に危険を感じている人もいる。男も多少そんな危惧を抱いている。しかし、橋下市長がもし易断で「天風姤(てんぷうこう)」の卦を得るならば、彼によって日本が変わる可能性があると思う。その卦を得るかどうかは、一に彼の行動にかかっている。命も金も名誉も要らぬという全くの無心、純粋さ、そして人々を惹きつける人格が見えてくるならば、彼によって日本は変わるかもしれない。男は密かにそう願っている。

2012年1月22日日曜日


易経のことが少し分かってきた (20120122)

 昨日、男は「愚痴をこぼし、評論家的なことを言っていても時は過ぎてゆく。男には、自分の人生の終末に向けてやっておかなければならないことがある」と書いた。このことを肝に銘じておこう。年甲斐もなく色気を出すとろくなことはない。

 安岡先生は『易経講座』で人は年をとると易に興味を持つようになる、とおっしゃった。男も自分の事に照らしてそう思う。安岡先生は“(64卦の)一卦が六爻から成り立っているから三百八十四爻、これ以上延ばす必要はないんで、六十四卦で必要にして十分である。この八卦のことを小成の卦、六十四卦のことを大成の卦という。これによって人生百般の問題を大別して六十四の原型に、小分けして三百八十四の範疇(はんちゅう)に属せしめることが出来る。如何なる問題、いかなる現象も、六十四卦、三百八十四爻の枠内に入らぬものはない。これによって悉(ことごと)く皆解釈し、行動に移して行くことができる。易は解釈ばかりでなく行動の学問である。”と易経講座の中で語っておられる。

 「易は解釈ばかりでなく行動の学問である」から、男は自分の人生を振り返り易経のとおり解釈し、その後のことについて行動してゆこうと思う。

 天地のことを易で「乾坤」という。ここでは二つの記号を上下に重ねて書けないが、記号では上側に☰(2進法的に111)、下側に☷(同じく2進法的に000)を上下に重ねる。上から111000となる。この一番下の0のことを初爻、一番上が六爻といい、下から000111となる。陽爻を九(きゅう)、陰爻を六(りく)と呼ぶので、乾坤の卦は下から初六、六二(りくじ)、六三、九四、九五、上九となる。」

 安岡先生は一番大事なのは二爻と五爻であるという。すると乾坤の場合、六二と九五が一番大事となる。つまり2進法的に下から2番目の0と下から5番目の1が一番大事だということになる。乾坤を例にとったが、安岡先生は「沢火革(たくかかく)」を例にあげ、☱(011)が上で、☲(101)が下に二つが重なった記号で表すことを示している。すると二爻の六二と五爻の九五が一番大事だと云うことになる。この二爻と五爻について、先生は、例えば会社でいえば六二が課長、九五が社長、国でいえば六二が中央官庁の課長、九二が内閣総理大臣だという。

 国に例えて出た卦の五爻が九(陽)であるか六(陰)であるのか、二爻が九(陽)であるか六(陰)であるのかによって、国政がどうなるのか解釈され、それに応じてとるべき行動はどうあるべきか判断するのだろう。

 ここまで理解できて、男は易経の意味が少し分かりかけた。安岡先生の講座ではこの上が☱(011)、下が☲(101)の並びの二爻・三爻・四爻と三爻・四爻・五爻の組み合わせで、上が☰(111)、下が☴(110)の卦について、革命の成就の有無について語っておられる。☰(111)は「天」、☴(110)は「風」であるので、「沢火革(たくかかく)」の卦は、「天風姤(てんぷうこう)」の卦を含んでいる。安岡先生は、「姤」は「遇」の義で「一緒に遇(あ)う」ことであるから、革命は陰徳を持った者でないと出来ない、革命のためには是非とも「姤」が必要であると説いておられる。

2012年1月21日土曜日


今日は寒いから家の中で (20120121)

 男も年をとったものである。女房から「この家を買ったのはいつだったかねえ」と聞かれた。「19863月だよ。今から26年前」と答える。あの頃はまだ若かった。女房はここに引っ越してきたばかりのとき、買い物などのためバイクに乗っていた。勿論、男も女房も車を運転してどこまでも出かけていた。

 今日は朝小雪が舞っていた。午後3時の今では冷たい小雨である。こういう時は温かい家の中で好きなことをやっているのが一番である。そう思いながらふと思った。この寒空の下、仕事もなく、ホームレスをしている40代、50代の人たちがいる。政府は社会保障と税の一体改革を掲げて消費税を上げようとしている。福島第一原発事故で電気代も値上げされる。購買力が落ち、景気は悪くなって行くことだろう。働き盛りの世代のホームレスが増えるかもしれない。人生を悲観して鉄道自殺をする人が増えるかもしれない。

 毎年社会保障費は1兆円づつ増え続けている。税金を上げないと国の借金は増え続け、遂には国家の財政は破たんしてしまうだろう。それは誰にも理解できることである。税金を上げるため、先ず国が身を削ると言って、公務員給与削減・定員削減、国会議員定数削減などを打ち出している。それは掛け声だけで実質進まず、消費税を値上げすることだけが先行している。国民をごまかしているとしか思えない。

 まず先にやることは、国会議員の定数削減と、納税義務・社会保険料支払い義務を確実に行わせるため国民宋背番号制度を決めることである。それと同時に働き盛りの世代の雇用を増やすことである。それらのことが実現し、国民の顔が明るくなったならば、消費税を上げることにすればよい。順序が全く逆なのだ。

 政府もそれなりに一生懸命にやっているのだろう。ニワトリが先か卵が先かという議論もあるが、国会議員たちは建前として議員定数削減には賛成だが、本心としては議員バッジを失いたくないと思っているに違いない。だからこのことはどうしても後回しになってしまう。官僚たちも行政改革で自分たちの第二の人生の道が狭められてしまうことに抵抗するだろう。一方で国会議員たちは官僚いじめのようなことをして一般大衆の喝采を得ようとしている。だから国会議員と官僚の両者が反対しない「社会保障と税の一体改革」というスローガンは彼らのとって心地よいものであるに違いない。

 男がもし20代に逆戻りできるならば、このような政治の現状を変えるため相当過激な行動を起こすかもしれない。しかし、今の若者たちは本当に大人しい。大人しいだけならばまだ増しだが、「自分たちは年金ももらえなくなるだろう」と将来に対して悲観的でさえある。そのように諦めているのか、将来に日本を自分たちのもものと意識できないのか、わしは、今の若者たちは覇気がないように思う。

 このように愚痴をこぼし、評論家的なことを言っていても時は過ぎてゆく。男には、自分の人生の終末に向けてやっておかなければならないことがある。今後はその方面にもエネルギーを割かねばならぬ。早速、そのことに手を付けることにしよう。