2009年7月31日金曜日

人の生死について思う(20090731)
 
 トルネード投法はかつての大リーガー野茂の投球に対してつけられた名前である。トルネードとは竜巻のことである。アメリカ南部のトルネードは有名で、観測車がトルネードを追いかけて観測する映画があった。

 その竜巻はわが国でもよく起きている。男は庭先で起きる小さなくるくる巻きあげる旋風は見たことがあるが、人が飛ばされたり、車が横倒しになったり、家の屋根が外れて遠くまで飛んでゆくような大きな竜巻は昔はあまりなかったように思う。

 27日群馬で竜巻が起き被害が出た。去年だったか一昨年だったか、人や家屋が飛ばされ死んだ竜巻が関東地方で発生したことがあった。若田さんが4か月滞在した国際宇宙ステーションから見る地上では、様々な災害や紛争が起きている。男のパソコンには月周回衛星かぐやが撮影した青い地球が月の水平線の彼方から上ってくる映像がスクリーンセイバーになっている。宇宙の中の小さな地球の上の出来事を想像すると、命の有難さ、生きている喜びを感じずにはいられない。

 ところが、男が詩吟を教えているある女性はボランティアとして「いのちの電話」を担当しているが、世の中には生きる意欲を失い、死にたいと思う人たちが非常に多いということである。不慮の事故や災害で命を落とす人も多いが、生きる意欲を失って自ら命を断つ人も多いことを、男は非常に可哀そうに思う。

 戦前、特攻隊で国のため、愛する家族や恋人のため敵艦に突っ込もうとして、「トトツートト、トトツートト」と無電を打って向かうとき、隙間もないほど撃ちまくってくる敵弾に当たり、目的を達成することなく海中に墜落してしまい、無念な思いで命を失った若者が多かった。ブッシュ元アメリカ大統領はイラクの自爆テロと神風特攻を同じ次元で見ていたが、男はその時非常に腹が立っていた。

 今年も終戦の日がやって来る。片道の燃料で最期の決戦に出て、襲いかかってくる敵機の餌食になって3000人余りの男たちが果敢に戦って海の藻屑と消えた事実に全日本人は思い新たにして、彼ら英霊に対して深く頭を垂れなければならない。男は下の息子がまだ少年のころ、その息子を靖国神社に連れて行き、特攻隊員の遺書が展示されていたのでそれを見せ、その後戦艦大和の映画を一緒に観たことがある。国のため命がけで戦うということがどういうことか、今平和ボケの日本人たちは思いなおしてみる必要がある。今、インド洋やソマリヤ沖で活動している自衛隊の人たちは、崇高な気持ちで任務を遂行しているのである。男は男らしく、女は女らしくなければこの国の未来はない。

 折しも母親をその娘の前で刃物で殺し、その娘を恐怖のどん底に陥れて精神的自由を奪い去り、その娘を同行させて沖縄まで逃亡した男が逮捕された。その男は見た目は男であるがいわゆる男らしい男ではなく、腐った玉ねぎのような精神の持ち主である。こういう男は徹底的に絞り上げ、人権尊重など不要で一刻も早く裁判にかけ、法律に照らして厳しく処断するべきである。よくある「育った環境がどうのこうの」など同情は一切不要である。

2009年7月30日木曜日

逗子からバスで30分の佐島(20090730)

 横須賀で漁業の盛んな地域があるようなので、男は女房と二人で行ってみることにした。先ずJR逗子駅に降り、交番で佐島漁港までの行く道を聞いた。中年の女性の駐在員がそこまで行くため利用するバスについて丁寧に教えてくれた。「2番のバスで佐島マリーナ入口行きに乗って下さい。その方向のバスは沢山ありますが、佐島マリーナ入口行きは本数が少ないです。」と言う。時刻表を見ると10分ほど待てばちょうどそのバスが出ることが分かったので、駅のコンビニで鮭、昆布、梅干しのおにぎりを各2個ずつと「おーいお茶」を1本買ってバスに乗る。30分ほどかけて佐島漁港に着く。

 店で水揚げしたばかりの新鮮な魚を売っていて、数人の客あれこれ品定めをしながら魚を買っている。ちょうどお昼時なのでどこか日陰になるような場所を探しながら海岸通りを歩く。佐島マリーナ入口の方にこんもり緑の木立が見えるのでその方に行ってみることにして歩いて行く。そこは自然公園になっていて子供連れの家族が2、3磯遊びをしている。磯沿いに回って漁港側に出ると、そこは湾が開け海の方から涼しい風が吹いている。

 日照りでも海岸は暑さを感じない。ちょうど干潮時であったので、波打ち際に大きな岩の台が出ていて、そこに腰かけておにぎりを食べることにする。前の方で母親と小学校5年生ぐらいの男の子とまだ幼稚園生ぐらいの男の子の3人が磯遊びをしている。女房が「あのお母さんは男に子に海水パンツをはかせればいいのにね」と言う。男は「あの子は自分が海の中に入って遊ぶとお母さんは小さな弟だけではなく自分の方にも注意を向けなければならないので、お兄ちゃんだから磯遊びをしながらそれとなく弟の様子をみているのだと思う。」と言った。女房が声をかける。「お兄ちゃん、ここにカニがいるよ。」男の子は「カニは獲りました」としっかりした口調で答えてくれた。海岸の砂地に黄色い花、紫の花、赤い花など色とりどりの花が咲いている。女房はキャノンのデジカメで23枚写真を撮った。

 バスの本数が少ないので、マリーナ入口発のバスの時刻表を予め確認しておいた。243分のバスを逃すと4時何分かまではバスがない。気持ちの良い磯辺に小1時間ほどいて帰りのバスに間に合うようにそこを去った。「もう一度来ることはないね。」と女房が言う。
帰りの途中、鎌倉で下車し鶴岡八幡宮の池に植わっているハスの花を見に行く。小町通りの人通りは適度の多さで、男と女房はあちこちの店を楽しみながらゆっくり歩く。浴衣姿の若い女性たちが店の中にいるのを通りすがりの外国人が写真に撮っている。鶴岡八幡宮の池のハスは多くはないが、何枚か写真に撮っておいた。今年は花の写真が少ない。

 鎌倉駅に戻り駅舎に入る前で女性が通行人に何か渡している。男もつい無意識のうちに手を出したら何か渡された。見るとそれは建売住宅の宣伝であった。「ああして女性が営業活動をしているので、つい情け心を出した」と男が言ったら女房は「美しい女性だったからでしょう」と冷やかされた。男は「違うよ。配っているものは何だろうかと気になっただけだ」と言い訳をしたが、男は何にでも興味を持つ特性がある。

 横浜に立ち寄り東急ハンズで夜間ジョギングの保安用品などを買い求めて家に帰った。

2009年7月29日水曜日

麻生首相の失言(20090729)

 25日の某紙報道によれば、麻生首相は「60歳以上の人は働く能力があるが、働くしか能がない」と言ったとか。その報道が彼の真意を伝えているならば、彼は60歳以上の人たちの過去の人生に対する洞察が足りないと男は思う。60歳以上の人たちは、働き盛りの時自分の家に自分自身の部屋を持っていた人は少なかろう。今のようにコンピュータやインターネットも発達しておらず、遊ぶ場所も少なく、余暇に仲間とコントラクトブリッジやポーカーなどを楽しむという文化もなく、イギリスのようにあちこちにパブもなく、有るのはゴルフとか飲み屋とか金を浪費する遊びしかない時代を生き抜いてきた人たちである。

 男が「これは皆怒るよ」と言ったら、男の女房は「そうなのよ、麻生さんは裕福だったから一般の人たちの気持ちがわからないのよ。」とうなずいた。

 男は自分が詩吟を教えているサークルにHさんという明るくて大変元気なご婦人がいる。彼女は首都圏に近いある県の出で、先日高校の同級生たちと会った話をしてくれた。彼女のお友達の中にはご主人を亡くした人達が何人かいるし、ご主人を亡くしてから再婚はせずある男性と交際している人もいるそうである。皆、男の女房と同じ年の60歳以上である。Hさんの話によれば、皆それぞれ趣味を持っていて、生き生きと暮らしているということである。麻生首相の言うように「働くしか能がない」ということはない。

 60歳以上の女たちに比べ60歳以上の男たちは、家のことは女房任せで一家の大黒柱として一生懸命働き、現在の日本を作り上げてきた人たちである。麻生首相のようにクレー射撃などのように金のかかる優雅な遊びをする暇も金もなく、アフターファイヴに会社を出てから一直線にわが家に帰ることよりは、仕事の延長のように会社の同僚や取引先の人と酒を酌み交わし、週末も付き合いのゴルフなどに明け暮れる毎日を送ってきて、定年を迎えた人たちである。働くしか能がないのではなく、働くこと以外に趣味などに能力を発揮する時間的余裕も経済的余裕もなかったのである。

 男の周りにも最近定年を迎えた男たちが数人いる。その中のある方は一時期シルバー人材センターで仕事を貰って短い期間アルバイトをしていたが今は何もせず、定年後カメラの趣味を持ってときどきカメラを持って出かけるようである。ある方は趣味もなく、毎日ぶらぶらしているようである。60歳以上の人たちは働くしか能がなくても、働く場所がなかなか見つからない状況がある。麻生首相は多分そのような人たちの働く能力を、国造りのため活用したいというのが真意であろうかと思うが、実際はなかなか難しいことである。

 男のように若い時から合気道や詩吟などに親しむ機会を得ることができた人は少ない。女性たちは別として、60歳を過ぎた男たちが急に何か趣味を持とうとしてもなかなか難しいことであると思う。趣味もなく、働く能力があるので働きたいと思っても働き口がないという実情をどのように改善するかという視点がないまま、単刀直入にあのような発言をしてしまうと、反感を呼ぶだけである。
(このブログであるが、男は息子たちに言われて文章の長さを短くするようにした。)

2009年7月28日火曜日

詩吟『青の洞門』(20090728)


  徳永英明というヴォーカリストの歌をBSハイビジョンで放送している。男の女房はこのヴォーカリストの歌が大好きで彼の歌のCDを何枚か持っている。男も彼の歌を聴いていてとても良いと感じている。心に訴えかけるようなメロディーと歌詞と彼の特徴ある声には無骨な男の心にも響くものがある。彼の歌は‘語り’である。今ヒットしている歌はどれにも‘語り’がある。歌曲に‘語り’がなければ人の心に訴えるものがない。

 男は長年詩吟を趣味としているが、詩吟にもその‘語り’がなければ聴く人に感動を与えない。しかし詩吟にはポピュラー性が少ない。徳永英明の歌曲と根本的な違いは、詩吟には今の時代に生きている人たちの感性に訴える部分が少ないということである。

 詩吟は古今の中国や日本の作者がその時代に生きていた当時の思いや感じたことを詩にしたものを、ほぼ共通した節回しで詠うので、そのことに関心がある人以外面白いものではないと思う。その上、詩吟の世界にも芸能界に共通したものがあると思うが、詩吟の組織にもちょっと固く苦しい雰囲気があって、若い人は簡単には馴染みにくい部分がある。

 男は数年前、70歳を過ぎたら自分の欲するところに従い自分の時間を大切に過ごすようにし、無理はせず、矩を超えず自然体で生きるようにしようと考えて、ある大きな詩吟の会を退会した。「子日、・・・七十而従心所欲、不踰矩」は2500年ほど前に生きていた孔子が晩年に自分の過去を顧みて述べた言葉である。その言葉に従い男は現在詩吟を楽しむことだけを目的としたあるサークルで詩吟を教えているほか、詩吟に興味を示してくれる人に詩吟を教えたり、男の吟詠を披露したりしている。多少時間的余裕もあるので、男は詩吟のブログを出して自分の吟詠を公開している。

 男にとってブログによる吟詠の公開は、初め勇気がいることであった。しかし時が経つにつれて「次はもっと良い吟詠を発表しよう」ということだけを考えるようになった。良い吟詠にするためには、公開するまでの間に公開する吟題の吟詠を何度も何度も録音しては自分で聴いて、詠い方を修正してゆく必要がある。つまり自分が生徒になり自分が先生になって稽古を重ねる必要がある。録音装置もエコーによる雑音が入らないようにあれこれ改善に改善を重ねる必要がある。男は多少工学的知識があるので、録音装置は以前から持っていたものを使って、金をかけずに良い録音をするように工夫を重ねている。もともと素人がやることなので、自分の家の中で出来る範囲のことをやればよいと思っている。

 男は詩吟を教えるため、毎年自分で詩吟のテキストを作っている。そのテキストには月ごとに練習する詩吟の題の詩文などを載せてある。8月は菊地寛が大正時代に書いた『恩讐の彼方に』という小説をもとに網谷一才というジャーナリストが創った『青の洞門』と、もう一つ、戦国時代から江戸時代前期にかけて生きた儒学者・藤原惺窩の『山居』である。男はその吟題の吟詠をインターネットで公開するため毎日練習している。

 『青の洞門』には、「罪を重ねし 償いに 立てし悲願の 奉仕行 南無観世音 大菩薩 諾い給え 我が願い」という今様の歌が挿入されている。舞台は大分県の耶馬渓、親を殺した仇である荒くれ僧侶が罪を償おうと一生懸命にトンネルを掘り、子供の時親を殺された青年がその仇と一緒に鑿をふるってついにトンネルが完成し、件の僧侶が「さあお切りなさい」と自分の首を前に差し出すが、その時青年の心には復讐心が消えてしまっていたという話。男は網谷一才の作詞の詩情をいかに上手く表現するか苦心している。

2009年7月27日月曜日

便利な都会暮らしと先祖の祭祀(20090727)

 男が住んでいるマンションは7階建て28戸、駐車場13台分の小さなマンションである。T川に面していて川の堤防の上を歩く人からこのマンションの駐輪・駐車場を覗き込むことができる。男と女房はこのマンションの7階の東側に面した4LDKに住んでいる。3方に窓があって、朝から夕方まで陽が入り込む。窓を開けておくと涼しい風が吹き込み、風鈴を鳴らしている。エレベーターは各階どまりなので、年寄りが住むには良い。近くに大型スーパーなどあり、道路もあるので多少騒音があるがあまり気にはならない。

 このマンションに4基の防犯カメラが取り付けられた。その理由はこの20数年の間にバイクが盗まれたり、壊されたり、自転車の輪だけを外して持って行かれたり、下着ドロボーが2階に家族と一緒に住んでいる女性の下着を盗もうとしたり、何カ月も不法に400㏄のバイクを置いておかれたり、夜ごみ置き場の中にホームレスの若い男が寝ていたり、屋上に不審者が登ったり、女性が不審な男にエレベータの中まで付いて来られたり、駐車場への入口に早朝犬の散歩者が犬の糞の後始末をしないまま放置したりしたからである。防犯カメラの設置費用は30万円ほどかかったが、維持費は住民1戸あたり800円ほどである。このマンションの住民の高齢化が進む中、安心のため皆同意して設置されたのである。

 防犯カメラは最新式のもので、夜間でも昼間のようによく映る高感度カメラが使われている。コンピュータは2年に一度無料で交換される。プライバシーにも配慮して装置の操作は規則を決めて誰でも勝手に録画されたものを見ることができないようになっている。エレベーター・電気・給水の異常などは、ある警備会社との契約で自働警備されている。

 男は田舎に自分の家があるが、当分の間、田舎には時々帰るのが良いと思っている。男の家がある田舎は人口僅か18千人の小さな町ではあるが、大変住みやすい町である。男も女房もまだ元気でどこへでも出かけて行けるが、そのうち必ず弱って来る。その時何処に住むかが男と女房の気になっているところである。

 上を見ればきりがないが、男と女房にとって、このマンションでの暮らしは大変快適である。バスも始発、タクシーもコンピュータに男の名前が登録されていて呼べばすぐ来てくれるし、早朝の予約も確実で信頼感がある。空港や新幹線の駅へのアクセスも非常に便利である。住民お互いよく知りあっていて、男が「貧乏長屋」と冗談を言うほど和やかである。このマンションには光ケーブルが入っていて、100bpsの高速通信ができる。

 このマンションが水辺に建っているということは、とても良い。男と女房は毎晩川の堤防の上を一回りするスロージョギングをして健康維持に努めているが、ジョギング中夜景を楽しんだり、川面にボラの跳ねるのを見たり、雨上がりの時などは水たまりでカエルの鳴き声を聞いたりする。こんな良い環境はなかなかないと思う。

 女房は「私かお父さんかどちらかが先に死んだら、残った方は老人ホームにゆくことにしよう」という。男はその考え方に賛成である。田舎には男の親父や母親の墓がある。墓を守るためどうするか、860年前男の先祖が平安京から下ってきて住んだ土地に先祖を祀る何かある形を造らなければならないと男は思う。この点に関して女房はどうでもよいと思っている。女は先祖のことには昔から関心がない存在である。

 男の息子たちは大阪に住んでおり、連絡し合っている。男は先祖を祀ることに関して一度息子たちと話し合わなければならないと思っている。

2009年7月26日日曜日

衆議院の解散・抜けている国家理念(20090726)

21日、衆議院が解散された。麻生総理の記者会見は「愚直なまでに政策を訴えて行く」という、その愚直なまでの正直さがよく表れていた。初めに自分自身の失言について謝罪して頭を下げていた。そう、彼の最大の失言は、「郵政民営化に自分は反対であった」と言葉足りずに単刀直入に述べたことにある。だから郵政民営化を推進した議員たちは反発したのである。総理の真意は民営化そのものを否定しているわけではない。総理自ら言っておられるように民営化された郵政事業が「行き過ぎた市場主義」的経営に陥ってはいけないのだ。しかし民営化を推し進めた小泉元首相や竹中教授ら先人たちを決して非難してはいけないと男は思う。いかなる場合も弁証法的動きはあるものであるからである。
男は年のせいではなく、わが国は戦前の良かったところを冷静に見直し、再びその良いところだけを取り戻すようにすべきであると考える。日本がアメリカとの戦争に負け、新憲法により旧来の秩序が否定され、企業は国際社会で勝ち抜いて行くために家族主義的経営理念を下の方に押しやり、国も周辺新興国の安い労働力に企業が頼り、海外に生産の拠点を移してしまう状況の中、労働者の雇用を守るために派遣労働を推進したりして社会の中にひずみが生じてしまったが、それは、国や資本家や企業経営者だけの責任ではなく、日本国籍を有する大人たち全員がそのひずみの責任を負うべきものであると男は思う。
一部の政党では、自分たちの先祖の責任を問わず、一方的に当時の国が悪い、軍部が悪い、企業が悪いと言うが、それは間違っている。天に向かって唾を吐くようなものだ。彼らは現在でも弱者ばかりに目を向け、弱者が存在するのは政治が悪い、大企業が悪い、金持ちが悪いと非難する。マスコミもそれを煽る。一般大衆はその扇動に乗ってしまう。
われわれ日本人は天皇家を日本全国の家々の宗家とし、企業は社長を昔の藩主のように見立てて、藩士が浪人にならなくてもすむように藩に見立てる企業を上手に経営し、藩士が藩のため定年まで安心して働くことができるようにし、藩同士豊かさを目指して競い合いながらも困った時は互いに助け合うようにする、そう言った家族主義の良さに目を向けなければならない。明治天皇も「四方の海皆同胞と思う世に・・・」と詠われたように、われわれ日本人は皆、誰でも共通の祖先を持っているのである。仮に一世代25年とし、一世代が2人ずつ子供を持ったとすると、1000年も経てば二人の男女から1兆人の子孫ができることになる。千数百年前国家統一以来、地方から京へ、京から地方へと人の交流があり、当時の国策として東国から陸奥地方へ、地方から地方へと住民の移動があったり、戦国時代以降は九州から東北へ、東北から九州へと人々の移動が激しく行われたので、血は混じりあっている。誰にも天皇家の血が少しは混じっている。だから皆同胞なのである。
卒業式などで国旗掲揚時や国家斉唱時に起立しない教員が多い。われわれ日本人の各家々の宗家である天皇家、万世一系の皇統を守ることが国体を維持することであり、それは今でも必要な理念であると男は思う。『続日本紀』(講談社学術文庫)によれば、天平勝宝元年(749年)4月に聖武天皇は「大伴・佐伯の宿禰は常にも言っているように、天皇の朝廷を守りお仕え申し上げることに己の身を顧みない人たちであって、汝らの祖先が言い伝えていたように<海行かば水漬く屍、・・・>と言い伝えている人たちである。」と言っておられる。国家「君が代」も万葉集か採用した歌詞に曲をつけたものである。「海行かば」も「君が代」も皆同胞の歌なのである。皆同じ母親の血を引く同胞の歌なのである。

2009年7月25日土曜日

伴侶を亡くした人達の心の傷(20090725)

テレビで伴侶を亡くした人達のことを取り上げた番組を放送している。ペギー葉山もその一人としてゲストで出演している。伴侶を亡くし心の傷を負っている人たちは、皆一様に自分を責めている。その苦しみから抜け出したいと努力はしているが、なかなか抜け出せないでいる。それは過ぎ去った日々のことが忘れられないからである。

昔戦国時代、武将たちは死を覚悟して妻子と別れ出陣した。武将に率いられた兵たちもそれぞれ家族があり、今生の別れと思いながら家を出た。戦前もあちこちの家でそのような状況があった。出陣式の人前では立派な態度を見せ、自分が死んだあと家族が後ろ指をさされないように心がけた。男たちは集団の中に入り、毎日集団で生活を送るようになって活動している間は、家族のことは全く忘れてしまっている。自分が今このようにしている間に、妻はどうしているかなど思いもしない。戦地で自分はここで死ぬことになると思った瞬間、愛する家族のことが頭によぎるだろう。戦場で「お母さん」と叫んで死んだ兵士のことが語られている。特攻隊員の遺書を読むと誰でも心を打たれ、胸が詰まる。

そのような戦時には自分の周囲に同じ境遇の人たちが多いから、夫や子を失っても「仕方ない」と諦めもつくだろう。男の今94歳になる叔母はビルマ戦線で夫が戦死している。男が訪問介護のNPO法人の代表として自己研鑚のためホームヘルパーの講習を受けているとき、実習先のおばあちゃんは、娘を空襲で失って黒こげになった遺体が娘だと思い受け取ったが、後でそれは違っていたことがわかった話を淡々としてくれた。

平和な今の時代、毎年交通事故で何万人もの人が亡くなっているが、ガンなどの病気や災害事故で愛する家族を失う人は多い。遺された人は、「あのときこうしてあげたらよかった」と自分で自分を責め続けている。男は女房に「皆、自分を責めて苦しんでいる」と言ったら、女房は「苦しんでいる人たちは皆情が厚い人たちだと思う」と言う。そう言われて男は、自分が女房に非難されているように思った。女房は本当に心が優しい人柄である。情も深く、男に最善を尽くしてくれている。子育ての時は、本当に必死の思いで一生懸命2人の男の子を育て上げた。「思い残すことはない」といつも言っている。

男は、仏教というものを今朝テレビで出た人たちはどれほど理解しているだろうかとふと思った。仏教には救いがある。人それぞれ理解のレベルがあり、信心の内容も違いがあるが、まず仏門をくぐることが救いの第一歩であると男は思う。誰でも自らが意識していないが自然に仏の方便を現している。いろいろな学者先生が仏教を解説しているような能力を微塵も持ち合わせていなくても、他者に喜ばれることを行うことはできる。テレビに出たある一人の老人は、自分が妻のために綿密に旅行計画を立て、妻を旅行に連れて行ったときのように、伴侶をなくした人達のグループの中で旅行の幹事役を買って出て、その人たちに喜びを与えている。愛他が仏門に入る第一歩であると男は思う。愛他は同時に自愛でもある。その老人は旅行の幹事役をして自ら生きがいを得ている。

愛他は押し付けではない。意識して他を愛する必要はない。自分の身近な人、自分とすれ違った人、電車の中でたまたま隣に座った人、自分と何かの形で縁がある人に対して、その時その時の無意識のうちに善の行いができればそれでよいと男は思う。

先ずは笑顔で、相手が子供であろうとお年寄りであろうと「おはようございます」「今日は」の日常の挨拶を言い「有難う」「すみません」を言う。それが善の行為の第一歩である。

2009年7月24日金曜日

陶芸(20090724)

男は一昨年暮れ、X陶芸スクールの自由制作教室に入り、昨年夏から秋にかけて同スクールの手びねり初級と中級コースを出て、今年4月から電動ロクロ初級と中級コースを出、再び自由陶作教室に戻った。男が電動ロクロのコースを出たというので、自由制作教室のメンバーは男が如何に上達したか興味津津であった。男は「電動ロクロは機械に自分がコントロールされているようで、どうしても馴染めなかった。」と本心を打ち明けた。それでも「菊煉りは上手くなったでしょう」とか「お手並み拝見」とかいろいろ言われるので、「いや、菊煉り3年と言うし、そう簡単には上手くならないですよ。」と答えておいた。
楽白を1kgずつ2個求め、早速荒煉りし、菊煉りしていたら、Kという30代の女性の先生が男の下手さを見かねて「手はこのように90度にし、押す時は左手も押すようにするのです」と実地にアドバイスしてくれた。男は一応電動ロクロの初級・中級を終えているので、ある程度のことはできる。土殺しをし、何度か失敗しては土を練り直して再利用し、K先生にちょっとアドバイスを貰ったりしながら、お惣菜を入れる深めの皿を大小2個作ってみた。残った土で小さな花瓶を創った。来週は土を3個、3kg求めて、同じサイズのお惣菜用深皿を2個創ろうと思っている。男がそのような皿を創るのは、創った作品を嫁たちや近所の懇意にしている人たちにプレゼントしたいためである。電動ロクロだと同じ程度のサイズのものを一度に何個もつくることができる。しかし形は均一に整うが手びねりのような味はない。男はいろいろ個性のある手びねりの方が好きである。
男は以前手びねりで創った皿や花瓶を二人の嫁たちにプレゼントしている。今度は電動ロクロで創るものをプレゼントするつもりである。それは、男が誕生日などに嫁たちからプレゼンを貰うので、そのお返しの意味もある。同じようなものを34個創ってあるので女房が「好きなものを持って行きなさい」と言いながら、なるべく良さそうなものを取って行かせる。従って家に残っているものは出来が悪いものばかりである。それでも男が創ったものが日常の食器としてよく使われている。
男は陶器を創る時は先ず形を重視して創っている。見た感じでなんとなく気に入るような形になるようにしている。次に削りが重要である。全体としてなんとなく味があり、素朴な美しさがあるように削る。抽象的な刻みを入れたりする。単純、素朴、飾りっ気なし、小細工や技巧なし、それでいて味がある、そのようなイメージの形にする。男は余分なものを一切そぎ落としたものが好きである。
芸術作品を創るには技術が必要である。また繊細さも根気も必要である。男は根気はあると自負するが、繊細さには欠けている。第一そのような神経をすり減らすような作業は嫌いである。従って、男の性格から見ると、男は芸術作品を創ることはできない。
男は以前、自分が創る陶芸作品をヨーロッパの展示会に出品したいと考えたこともあったが、今はその気は全くない。家庭で使う実用的なものを創り、人にプレゼントして喜んで貰えればそれで十分だと思っている。ごく稀に、たまたまヨーロッパなど外国での発表会に出品できるような素晴らしいものができることがあるかもしれない。しかしそれは初めから意図して創るものではないので、家に遺しておきたいと思う。
武蔵が晩年描いた一枚の絵、枝先に一羽の鳥がとまっている絵、その絵のように、男は自分があの世に逝った後、後世の者が評価してくれるようなものが出来ればよいのである。

2009年7月23日木曜日

仏教の勉強(20090723)

 男はよく思うことがある。それは、一事が万事、男や女房の望み、願っていた通りに事が運ぶのを実感することについてである。それは、仏教の経典に書かれている神通力であるのではないかとよく思う。一事が万事、望み、願っていた通りに事が運ぶのは、たまたまそうなったという偶然のことかもしれない。しかし、男はそれは自分たちが見えないある力が働いてのことであって、偶然のことではないと神仏に感謝している。

 例えば、京都の宿は山鉾巡行の日であったので、普通はなかなかそのような安さでは取れないとその宿をたまたまインターネットで探して取ってくれた息子は言った。バスも新幹線も電車も運良く接続の時間を取らずに、しかも良い席に座れた。かんかん照りの暑さは感じず、涼風、雨上がりの心地よさを感じた。その次の日だと大雨に遭うところだった。女房もそうであるが、お天気に恵まれれば一般に女は「わたしは天気女なの」と自慢する。しかし、もし自然現象が人の徳性によるものならば、一方だけがたとえ天気女であったとしても一方が雨男であれば、どちらか強い方の影響を受けることになるであろう。

 男は昔買っておいたいろいろな仏教関係の書物を取り出して、精読してみることにした。男にはそのようなことができる時間的余裕があることを神仏に感謝しなければならないと思う。男の年になってもそのような時間を持てず、毎日あくせく働かなければならない人が沢山いる。男は決して裕福ではないが、古の仏教修行者たちのように仏教を学ぼうと思えばいくらでも学ぶことができる余裕がある。その当時に比べ、今はいろいろな学者が研究して出した本や、解説書も沢山ある。勉強する気さえあれば、男の身の回りにはそれこそ豊富な資料が転がっている。数々の宝が転がって山積みになっている。

 男は手始めに『新訳仏教聖典』(大法輪閣版)を読むことにした。これは全ページ720ページの書物である。男は仏教の本が若い人たちの間でよく読まれるようになれば、世の中は良くなると確信している。問題は仏教関係の本の中身である。世尊とか釈尊とかいろいろな弟子たちの名前は、2500年前の人の名前を古代インド語から漢語に翻訳され、そのまま日本に伝わったものであるから、若い人たちには馴染みにくいのではないかと男は思う。

 例えば、聖徳太子が尊んだという勝鬘経に書かれている勝鬘は波斯匿王と后・末利夫人の娘の名前である。古代インドの発音では勝鬘はショーマンではなく、波斯匿王はハシノク王ではなく、末利夫人はマーリー夫人ではなかった筈である。男は昔、中国語を勉強したとき購入した『簡約 現代中国語辞典』(香坂順一編、光生館)を取り出して調べてみた。すると現代中国語の発音でカタカナで中国語の発音の四声を考慮して表記すると、勝鬘はシェンマンである。波斯匿は、ボーシー(ン)ニである。末利はモオリイである。しかし、名前を漢字ではなく、カタカナで表記したほうが親しみやすいと思う。

 女房は男がこのような勉強をし、毎日ブログを書いていることの意味を知らない。女房は男がただパソコンが好きで、朝食の時間も惜しむほど忙しげにしていることの方が変であると思っているに違いない。苦情を言う女房に男は「時間がなかなかとれないのだ」と言った。男は女房への愛情の量をできるだけ多くするように心がけながら、一方では自分自身の精神の向上のため、パソコンを活用し、このような随筆(っぽい)ブログの公開をしているのである。古の修行僧が大変な集中努力で学びとった仏教を、男は短い時間で、しかも左程苦労することなく学ぶことができることを感謝しなければならないと思っている。

2009年7月22日水曜日

鞍馬登山(20090722)

 京都洛北の地,鞍馬山に鞍馬寺あり、昔義経がこの山で天狗に兵法と剣術を習ったという。この鞍馬には京都からJR奈良線に乗り、すぐ隣の東福寺駅で下車して阪急伝電車に乗り換える。六つ目の出町柳(終点)まで行く。そこで叡山電車に乗り換える。終点が鞍馬、一つ手前の駅が貴船口である。叡山電車は大体20分間隔で出発している。電車の天井の部分までガラス窓の新車に乗れば、鞍馬川に沿って美しい景色を一層楽しむことができる。昨日山鉾巡行を楽しみ、今日は鞍馬を楽しむ。鞍馬駅を出たところに緑の木々をバックに大きな天狗の赤いお面がでんと飾られている。男は両側の土産物店とそのお面と鞍馬駅をバックに女房の写真を一つ撮っておいた。

 またここに戻ることはないと思い、山門の手前の岸本老舗山門店という店で女房が近所の親しくしている数軒に配るお土産を買った。それはそこでしか手に入らない山菜の佃煮の詰め合わせである。佃煮はいろいろあって味見したがどれにしようか迷うほどである。
山門の入口にちょっと一休みして仏像にお参りする施設がある。そこで無料で杖を貸してくれるので、男と女房それぞれ一本ずつ杖を借りた。幸い今日も曇天で、覚悟していたかんかん照りの暑さはなく、雨上がりの参道はとても気持ちが良い。魔王の碑、由岐神社、川上地蔵尊、源義経供養塔などそれぞれ謂れを書いてある立札を読みながら、九十九折りの道を登ってゆく。道は階段がよく整備されている。男は足腰が強い方なので自分の杖も女房に使わせ、女房のバッグなどを男が持ち女房が身軽な格好で両手で杖をつきながら階段を上って行けるようにしてやった。

 山道が折曲がっている角にベンチがあったのでそこで一休みし、京都を出るときコンビニのローソンで買っておいたおにぎりなどを食べる。前を若いカップルが前を通り過ぎてゆく。先をゆく頑丈そうな男が後ろを振り返りもせず女に「大丈夫?」と声をかけている。声をかけられた小柄な女の方はハアハア息を切らせてついて行きながら「大丈夫よ」と答えている。二人が通り過ぎたあと、男は女房に小声で「大丈夫でないよ、必死についていているのに。」とつぶやいた。

 一休みしてまたゆっくりした足取りで参道を登ってゆく。義経が子供のころ登った道に沿ってこの階段の参道はできているのであろうが、男には険しさは感じなかった。しかし、女房の方は結構きつい山道であったようだ。「わたし、一度鞍馬に行ってみたいと思っていたのよ。お父さんは私が誘わなければこんなところに来なかったでしょう。」という。全くその通りである。公園や植物園などに花を観にゆくにも、何処に行くにも、男は女房に誘われて行き、いろいろ新しい経験をしている。

 ようやく鞍馬寺につき、毎年除夜の鐘を人々が並んで突くという鐘を、先ず箱にお布施のお金をなにがしか入れ、静かに合掌し、心を静寂にして、一礼して静かにゆっくりと一つだけ鐘を突いた。女房がその時の写真を撮ってくれた。

 鞍馬山を越えまた九十九折りの道を貴船の方に下ってゆく。貴船側から登って来る人たちとすれ違い、「こんにちは」と挨拶を交わす。まだ相当登ってゆかなければならないので、「もうすぐですよ」とは言わなかった。ようやく貴船に着く。貴船川のせせらぎの上で涼を楽しみながら食事ができるようになっている。そこは料金が相当高い。二人は貴船神社に詣でたあと貴船口まで連絡バスで行き、電車で再び鞍馬にもどり、温泉につかった。

2009年7月21日火曜日

京都祇園祭(20090721)

 今からおよそ1100年前、清和天皇の時代の869年に京の都に疫病が流行したという。そのとき庶民の間に多くの病人や死者が出たという。人々はそれは牛頭天王(ごずてんのう)のたたりであると信じた。牛頭天王は仏教の守護神であり、日本の神道における神の一柱でもある。日本では素戔嗚尊(すさのおのみこと)と習合し、素戔嗚尊と同一神とされていた。しかしその起源は定かではないようである。

 京都の八坂神社は全国の素戔嗚尊を祭神とする神社の総本社である。869年に流行した疫病を鎮めるために京都の八坂神社の前身である祇園社で66本の鉾をつくり、御霊会を行って祈願したという。それが京都の祇園祭の初めであり、山鉾巡行の初めでもあるという。

 男は女房と初めてその山鉾巡行というものを見物した。大阪に住む息子が会社の福利厚生施設であるTホテルに宿をとってくれて宿泊費は一泊一人1500円という安さであったので、ジパング倶楽部の3割引きの交通費で京都まで一泊旅行をしてきた。17日はその山鉾巡行を京都中心部で迎える日で、クライマックスの日であった。以前ものすごく暑い日にその山鉾巡行を見たことがある息子から「覚悟して来るように」と言われていたので二人とも相当覚悟していたが、その日は幸い曇天で、四条河原町通りの交差点では鴨川からの風が吹き抜け、涼しさを感じた。二人は交差点の特等席で山鉾巡行を見物することができた。

 その交差点で山鉾は向きを変えるのであるが、その前に八坂神社に向って拝礼する。四条通りから河原町通りの方に90度方向を変えるとき、前輪の車の下に水をかけながら竹の板を何枚か敷いて、竹を滑らせる要領で一方の車の回転をコントロールする。鉾の車の先頭に乗っている34人の音頭取りが一斉に扇子を振って行う合図で3040人の曳子が綱を曳き、3回位少しずつ方向を変えながら鉾車の方向を変えて行く。

 曳子の先頭に背の高い欧米系の外国人、曳子の中に混じって多くの外国人が曳き、鉾車の屋根にも乗っていて日本の祭りを楽しんでいる。この祭り世界に全く例のない日本独自の歴史と文化に基づく行事である。早朝の新幹線で京都まで行ったのであるが、初めに八坂神社にお参りして時間をとたったため、先頭の長刀鉾など数台は見ることができなかった。その長刀鉾は全員が外国人であるとインターネットで入手した資料には書かれてあった。

 祭りは見ていて楽しい。やっていて楽しい。山鉾巡行は平安時代からの古い伝統を守って、行列の先頭をゆく裃を着た偉い方々も曳子も皆古代の衣装である。重さ1012トンもある大型の山鉾でも車は平安時代の牛車の輪のように見える。木製っぽいが車軸などに一部鉄が使われているのかもしれない。山鉾の一つである船鉾の車輪と車軸は新調されたが、取り外したものは明治25年製だという。

 山鉾のうち、山と鉾は大きさが違うが、山でも鉾ぐらい大きな山もある。両者の違いは山には松が飾られ、鉾にはその柱の下方に榊が飾られていることである。山鉾は全部で62基ぐらいあるようであるが、昭和54年(1979)には、国の重要民族文化財に指定された京都祇園祭では毎年32基もの山鉾の巡行が行われている。京都の1000の歴史と共に歩んできた“町衆の文化”としての祇園祭りは再三の中止、再興を繰り返してきたらしい。

 男はこの祭りが毎年盛大に行われ続けることを願っている。祭りは一つの宗教的行事である。宗教的行事には一個の家の祭祀から国レベルの祭りまである。歴史の浅いアメリカ合衆国は大統領選挙とか独立記念日などを国家統合の行事として重要視している。

2009年7月20日月曜日

現在、過去、未来の三世の因縁(20090720)

 今の時代は、何もかもテンポが速く推移し、人々は忙しく働き、人として本当の幸せを得るためどうすればよいのか考える暇もないほどである。男が子供のころはお寺で法会という催しがあり、男の祖母は近所の人たちとお寺に集まり、坊さんの話を聞くのを楽しみにしていたようである。今の時代、お坊さんは葬式の時お経をあげたあと、集まった人々に法話を語るが、聞いている人たちは「生臭坊主が何を言うか」というぐらいしか思っていず、折角の法話は何の役にもたっていないのではないだろうか。お坊さんが「皆いずれ白骨になる」と説いても皆、それは先刻承知のことぐらいにしか思っていない。

 今の時代、知っていなければならないこと、出来ることが当たり前のことが余りにも多すぎるのかもしれない。家庭の電気製品の知識、車の知識、パソコンを使う技術、車を運転する技術、政治や社会の情報等々数え上げればきりがない。

 たまに旅行してお寺や神社を訪れた時は、お賽銭を上げて手をあわせて何かを願ってお参りし、お正月には初詣して一年の初めに新たな気分になる。自分は確実にあの世に向かっていると思いながらも、自分の死はずっと先で、人の死は他人事のようである。

 男はこういう時代になったからこそ、今から2500年前にお釈迦さまが説かれたこと、2000年前にイエスキリストが説かれたこと、古の聖人が説かれたことを、せめて月に一回ぐらいは学ぶことを義務化するような社会的習慣があっても良いのではないかと思う。ただ、イスラム原理主義的な社会はよくない。彼らが世俗主義と非難するかもしれない ‘多様性’をキーワードにした、そのような文化がこの社会にあっても良いのではないかと思う。

 男は昔買った書物『新訳仏教聖典』(大法輪閣版)のページをめくり、関心がある個所に付箋をつけながら○○経、△△経の違いやそれぞれ説いているところについて調べ、その中の幾つかの注釈を試みた。この注釈は完璧ではないが、あまり外れてはいないだろう。

 聖徳太子が尊ばれた勝鬘経にはハシノク王と王妃・マーリー夫人(ぶにん)は娘・ショウマン夫人(ぶにん)に仏の功徳をほめたたえることが書かれている手紙を送ったところ、ショウマン夫人は「仏の言葉は世に並び無いと聞いていますので、私も仏にお仕えしたい」と言ったという。その仏は、今光明最勝王経によれば、仏には化身、応身、法身の三身あり、化身は仏が人々を救おうとするために仮に人の世に現れて人々の状況に応じ、いろいろな方便をもって身を現わして法を説く仏の形であり、応身は仏が仏への道を求める人々のために方便など一切使わず法を説く仏であり、法身はこの世のあるがままの原理とその原理を知る智慧とが一体となった法そのものであるという。男は自分が気づいていないのに仏の方便として存在し、他者に仏への道を仏が何か教えているのだと理解した

 大無量寿経によれば、王妃・マーリーが世尊(お釈迦様)に、ブスで貧しい女や、ブスだが金持ちの女や美人だが貧乏な女や、美人で金持ちの女などいろいろな女がいる理由を問うたら、世尊はそれは前世の行いが原因であり、今世の行いの結果が来世の生まれ方につながると答えておられる。一方で増一阿含経では、人がこの世で経験する苦楽や不苦楽もすべて前生の業だと言い張ることなど一方的な主張は間違っていると教えておられる。

 男は、苦楽や不苦楽の受け止め方はその人それぞれであり、煩悩の我欲があれば楽が苦になることもあるので、世尊はそう教えておられると理解した。この世が如何に合理的であろうと、人智を超えた過去世、現世、来世の因縁はあるのだと男は確信している。

2009年7月19日日曜日

脳のこと(20090719)

 最近超高磁場のMRIが出来て、脳の中を調べやすくなったようである。男はまだ脳のMRI検査を受けたことがないが、男の女房はK市のN病院でMRIMRA両方の検査を受けている。ある日の朝女房がめまいを訴えた。女房は以前、毎年検査を受けている施設で血管の老化度の検査を受けたことがある。その時の診断結果は血管の老化度が90歳の血管に相当するというものであった。男はめまいの原因が脳への血流の問題かもしれないと心配し、インターネットで医療相談を受け付けているN病院にメールで問い合わせたら、来院して検査を受けるように、という指示であった。病院では先ず耳鼻科でメヌエール氏病の検査を受け、異常がないことがわかると脳神経外科で検査を受け、MRI MRAとも全く異常ないことがわかり安心していた。男はこれらの検査がかえって心配・不安のもとをつくるという話を聞いている。脳の血管にほんの少しでも異常が見つかると、平素の生活習慣で用心しておりさえすれば大丈夫なものでも心配し、不安になるというのである。

 将棋の羽生名人の脳を調べるというテレビ番組があり、二人でその番組を見た。名人の脳は脳の奥の方にある大脳基底核という細胞群の中の尾状核というところが我々凡人と違うらしい。男は昔放送大学で勉強したが試験に受からず単位を逃した『脳と行動』という教材を書棚の奥から取り出して読み返してみた。大脳基底核は小脳と並んで運動制御の大きな中枢であるという。尾状核に病変が起きるとちょうどダンスをしているような運動が無意識のうちに起きてきて、意志の力では止めることができないとのことである。

 そのような尾状核は行動の習慣化と思考の習慣化をつかさどり、名人の直感を生みだすという。天才は努力なしでは生まれないのである。人並み外れた努力が必要である。一つのことを持続することが大切である。大脳の奥深いところにあるこの大脳基底核の下の方に進化的には古い大脳の部分で辺縁系と呼ばれる部分があり、記憶をつかさどる海馬や嗅周皮質という組織がある。天才は人並み外れた努力の結果、嗅周皮質が物体の記憶に、海馬が空間的記憶に関与し、直感を生みだすようである。

 自分の目標を達成するため毎日3時間、集中して努力を積み重ねると、自然に名人の域に達するらしい。14日、セントルイスのブッシュスタジアムで行われたアメリカ大リーグのオールスター戦で、オールスター戦9年連続出場のイチローは1回の第一打席でライト前にクリーンヒットを放った。ワールドカップでサムライ日本チームの優勝を決めたヒットを放った。それまでは無音であり、イチローはこの最終戦でヒットが出なければ野球人生が終わるという恐怖感のどん底にあった。その彼が胃潰瘍で長いこと休んでいたあと連続ヒットを重ね、今年も200本安打を達成しそうな勢いである。羽生名人といい、イチロー選手‘名人’といい、これは正に積み重ねた努力の結果身についたものである。

 人の脳は大部分休眠状態にあるらしい。特に人がまだ動物であったころの脳の部分は動物のような超能力を生みだすところなのであろうが、凡人はその部分を鍛えていない。人は目標を決めて努力を継続すれば、ものすごい力を発揮するものであると男は思う。

 辺縁系というのは哺乳類以前の下等な脊椎動物では脳の最高中枢として働いている部分であるが、この部分の中心部分に脳幹というものがあり、網様体では夢を見たその内容が記録される働きに関与しているらしい。電極を脳に付けると人の心の状態がわかるようになるという。女房はテレビ番組を見ていて「大変な時代になりそう」とぽつりと言った。

2009年7月18日土曜日

食の安全(20090718)

 夏の季節は麦茶が良い。先般「ためしてがってん」という番組でティーパック入りの麦茶をおいしくする技術が紹介されていたので、男は早速麦茶とエンハンス効果を期待して、試しに小さな瓶入りのインスタントコーヒーを買って来た。

 麦茶には「六条大麦」と書いてあったので、男はてっきりそれが国産であると思い込んでいた。女房が「ためしてがってん」で紹介されていたとおりに麦茶を作った。手順は初めにティーパックに湯をかけてむらし、その後麦茶を煮出し、1時間おいてインスタントコーヒーを一つまみ加え、冷蔵庫で冷やす。このように手間をかけた後に頂くのである。

 気のせいか確かに麦茶の香ばしさと味が出ていた。男は子供のころ祖母が作ってくれていた麦茶のことを思い出していた。男が子供のころは農家であったので何でも自給自足であった。茶は集落の女性たちが集まってまわり持ちでそれぞれの家の茶を摘み、揉んで炒っていた。農作業の休憩のとき、茶は「おこうこ」と呼んでいた沢庵を添えて飲んでいた。その沢庵も自家で作ったものである。味噌も醤油も自家製であった。蕎麦は祖母が石臼で挽き、ふるいにかけて粉を取り、それをこねて作っていた。混じり気なしの純正な蕎麦であった。家の周りには季節ごとに果物がなる木があり、みかん、柿、すもも、ざくろ、びわなど食べたいときにもぎ取って食べていた。肉桂の根っこを掘り出して洗ってしゃぶったり、自生のいちごを採って食べたりしていた。

 鶏小屋には卵が二つ、三つあり、餌をやったあとそれを取り出し、水路にはどじょう、なまず、うなぎなど生息していて、子供のころそれを獲って帰り、タンパク質を補っていた。家の入口の土間に大きなブリキの缶が設置されていて、その中に玄米が蓄えられていたが、搗いた米がなくなるとてこの原理で一方を足で踏めば先の石臼の中に入っている玄米の上からドスンと杵が落ちる仕組みの精米道具で時間をかけて精米していた。それは子供の仕事であった。子供は横にかけてあるワイヤに通したそろばん玉を一つずつ送って数を数えながら、玄米を精製して白米にしていた。その米も当時農薬などなく、結構害虫の被害はあったが、いなごは手で捕まえ空の一升瓶の中に詰め込み、持ち帰ってあられを炒る網の容器に入れて火にかけると緑色のいなごがえびのように赤く焼け、食べられるようになる。虫送りという行事があって、夜たいまつを持った子供たちが田んぼの周りを廻り、害虫を燃える火の中に誘って駆除していた。

 そのような自給自足的な生活を子供時代送っていたから、男は「六条大麦」と書かれていた麦茶が、まさか中国製である思ってもみなかったので急にその麦茶に嫌気がさした。それが中国製であると気づいたのは女房である、男は女房から「安いから買ったのでしょう」と非難されたが、男はその商品を買うとき裏面まで見ずに買ってきたのである。
その麦茶は株式会社Mという都内の会社が中国から輸入していたものを、大手のスーパーが仕入れ、店頭に並べていたのである。何の表示もないからその製品について残留農薬の検査は行われていないようである。しかも、Mという会社もあやしい。株式会社というがどうも社屋もない個人的な会社のようである。大手スーパーともあろうものが、購買担当者が大学の同期同窓のよしみか、巷の飲み屋で意気投合した男同志の話で決めたものなのか知らないが、それを仕入れ食の安全に関して一切触れず、顧客を騙すようにして売っている。男はこの商品の安全性について徹底的に調べ、追及してやろうと思った。

2009年7月17日金曜日

全自動電気洗濯機(20090717)

 男の家の洗濯機はS社製で電気分解により漂白や殺菌ができるワンドラム方式の全自動である。これから老いてゆく身、洗濯に費やす造作が少なくてすむ機械任せの楽な洗濯機の方が良いと女房も言うので、通りがかりのS電気店の店頭に展示してあったものに興味をそそられ、機械に強い(?)男が決断して相当高い価格で買ってしまったものである。

 それはS社が開発した新製品であった。しかしその洗濯機はどういうわけか洗濯物が白く洗えず、洗っているうちに黒ずんで来る。家事が大好きな第一級主婦である男の女房は相当頭に来ていた。そこで男は同社に苦情を申し入れたら技術者が来て部品を取り換えたり、洗濯の方法を教えてくれたりした。洗濯の方法というのは、洗剤の使用量を洗剤メーカーが指定している分量の半分以下にするようにということであった。

 それでも洗濯が真っ白く仕上がらず、はじめ真っ白だったものが洗濯を重ねるうちに黒ずんでくる。そこで男はメーカー側に申し入れ、今使っている洗濯機を一度工場に持ち帰りテストしてみて欲しい、代わりの洗濯機は要らない、と言ったら暫くして新方式の新品のものを届けてきて設置してくれた。

 しかしこの新式の全自動電気洗濯機でも結果は同じであった。初め白かったものが洗ううちにだんだん黒ずんでくるという問題は解決しなかった。今度こそ真っ白に洗えると女房も期待していたがやはり結果は同じであることにがっかりした。女房は使う洗剤の種類をいろいろ変えてみたりして憂鬱な日々を送っていた。

 全自動電気洗濯機は機械である。男はこの新式の洗濯機を使いこなしてやろうと女房に代わって洗剤の量などいろいろ研究し、この洗濯機に備わっている電気分解(電解)による殺菌や漂白の機能も試した。確かに電解モードにすると洗濯したものが清潔な匂いになる。漂白もよくできる。男は女房に「この機械を使いこなすようにしよう」と言っていた。

 しかし電解漂白モードでは一度30分近くかけて洗ったものをさらに電解モードで漂白するので51分も余計に時間をかけなければならない。合計80分かかる。それだけ時間をかけさえすれば、洗ったタオルが屋外で真っ白に輝いている。そのことは女房も認めていた。
漂白剤を使うよりは電解モードにした方が繊維の間に残っている黒ずみ成分を除去できるので、その辺のメカニズムに詳しいと自認している男は女房に、「漂白剤は使わない方がよい、漂泊したいときは電解モードが良い」などと知ったかぶりのことをのたまっていた。

 女房の皮膚過敏症は洗剤のせいであると思っている男は、女房に自分自身で洗濯機の機種選定をするようにと言った。女房は近くの量販店で洗濯機売場の担当者に使っている洗濯機の経緯を話していろいろアドバイスを貰い、H社製のある機種にしたいと言ってきた。そこで男は女房とその機種を見に行き、女房の云うとおりその製品は期待できると確信した。女房が後で「わたしも洗濯機のことはあきらめかけていた」とぽつりと言う。

 男は毎晩9時頃女房と川べりを一周するスロージョギングをしている。橋の上の歩行路で対向者の通路を開けるため女房の斜め後ろに回って走るとき女房の細い肩の線を見やりながら、男は長年連れ添った女房が急に愛おしくなった。人の一生は短い。その短い間に人は人を愛さなければならない。イエスキリストでさえ、釈迦牟尼でさえ、自分の傍にいる人にしか愛を示すことはできなかった。男はこの女房のため至善を尽くそうと思った。女房も男に心からそう思ってくれている。

2009年7月16日木曜日

鯛汁(20090716)

男の女房が美容院に行った帰りに、その美容院の近くのスーパーで大きさ30センチ以上もありそうな大きな鯛を買ってきた。そのスーパーはそこからそう遠く離れていないところにある大型スーパーに対抗して、品質の良い野菜や魚などを安い値段で売っている。大型スーパーの購買システムではなかなかできないことであろうが、地産地消の理念で地域の農家が生産している野菜を仕入れ、また特別なコネクションがあるのであろうか新鮮で良質な魚を仕入れているようである。女房はよくその店で野菜や魚などを買って来る。
鯛は鯛味噌にするため初め魚焼き機で焼き、そのあと肉の部分だけをむしりとって、予め調理してある味噌の汁と混ぜ合わせすり潰す。そのようにして完成した汁を暖かいご飯の上にかけて頂くのである。これはとても旨い。
女房から「手つだって」と言われて男は焼きあがった熱い鯛の身を箸やフォークで丁寧にむしり取った。この鯛汁を女房はよく作る。そのたびに女房は自分が小さかったころ祖父母や叔父叔母に育てられていたときの大家族の夕食の様子をよく語っている。
女房の祖父は人望厚く、頼まれて幾組もの仲人を務めた。結婚式があるたびに、祖父、祖母それぞれ一匹づつの鯛を貰って帰った。それをその当時若い嫁であった叔母が鯛汁にするのであるが、なにせ10人を超える大家族であるので、たった2匹の鯛を鯛汁にするためには、汁をできるだけ多くしなければならない。必然的に鯛の味は薄くなる。その時に比べ、今既に老境の女房が作る鯛汁は鯛の身が沢山詰まっていて味の濃いおいしい汁である。
女房の祖父母には男4人、女3人の子供がいて(間に無くなった子もいたかもしれない)一番上と一番下の間には年が20歳ぐらい離れていた。そういう家族の中で女房はその子たちとは実の兄弟姉妹の関係ではなかったが一番年下で、実の妹のように可愛がられていた。女房の母親は当時4歳だった女房を実家に残し再婚した。以後女房が17歳になるまで母親と女房の姓は別々であった。しかも祖父母の大家族の中で女房の姓は母親の死別した夫の姓のままであった。子供の時は年がそう離れていない叔父さんや叔母さんたちと兄弟姉妹のように、遊ぶ時はいつも一緒であった。というよりは、その叔父さんや叔母さんたちからよく遊びに連れて行ってもらっていた。三番目の叔父は当時中学生であったが雀などをとりもちで捕まえるのが上手で、またゴム銃で鳥を撃つのも上手だったらしい。
女房と年がそう違わない食べ盛りの叔父は当時子供であるから食べることには遠慮がない。そういう中で一番年下の女房は小食で祖母が「これはM子の分だからね」と注意しないと、女房の口に入らないうちにおいしいものが無くなってしまう。学校に行くときには女房は子供ながら顔色をうかがいながら、旅行代の積立か何か学校に収めるお金を祖母から貰っていた。女房は自分が子供であった頃のことを思い出しながら鯛汁を作っているのである。男も女房のそのような気持ちが分かるから、丁寧に鯛の身をむしり取り、今宵の食卓のことなどあれこれ会話する。
そうしながら男は、この鯛汁のことで俳句か短歌を創りたいと思った。男は若い頃‘五星’という俳号で職場の俳句のクラブに入っていた。その作った句が褒められて今でも鮮明に覚えている。「風除けに 雀の夫婦 寄り添いて」「チューリップ 赤い花びら 高く載せ」などである。短歌はまだ創ったことがない。しかしこの鯛汁を題材に創ってみた。「薄延べの 鯛の味汁懐かしみ 鯛汁(しる)拵えつつ 歳月思う」