2017年2月17日金曜日

20170217(臨時投稿)「財政ファイナンス」「国家は一種の生き物」


以前、フェイスブックで私が支持しているある政治家の投稿にコメントしたら、その人の「友達」から“「政府発行の国債は日銀が買い取り貨幣化」は財政ファイナンスであり、許されない。○○内閣補佐官は経済・財政・金融分野ではド素人である」”という趣旨の反論をされたことがあった。私は“「財政ファイナンス」とは何か”と反論したが、返事は無いままであった。その後暫く経った後、私は故あってフェイスブックから永久的に退出した。

 我が国は橋本政権以来、「財政規律」を問題にするようになったらしい。財務省のホームページによれば、平成28年度末でわが国では凡そ844兆円の累積債務があるとしている。財務省はその844兆円の債務を「国の借金」とは言わず「財政赤字」という言葉を用いて、その赤字額は「国民一人当たり669万円である」と言っている。おまけにその赤字額を「勤労者世帯の平均年間可処分所得約508万円」と比較して示している。さらに「財政赤字の累増は、①利払い費の増加に伴い政策の自由度の低下、②金利の上昇による経済への悪影響、③世代間の不公平拡大の三つをもたらす」、その結果「活力ある経済社会の実現に大きな足かせとなる」と結論付けている。

 財務省は「現在の年金・医療・介護の各サービス水準を維持するだけでも、税金投入を毎年1兆円以上増加させる必要がある」と言っている。財務省はその財源を消費税の増税により賄おうとしたが、消費者が我が国の先行きに不安感を抱いたため、消費支出が減り、結果的にGDPが上がらず、税収が増えない結果を招いてしまった。

私は、景気を良くするためには税収の不足分を国債の増発により補って公共投資を活発に行い、日本国中の隅々まで交通・通信・電気・水道等のインフラ(infrastructure)を整備し、国防関係予算を増額して我が国の防衛能力を高めたりして国(政府)による消費や国民による消費を増やし、一方で革新的な生産性向上の方策を編み出し、それを適用してGDPを底上げし、結果的に税収を増やすことを考える必要があると「ド素人」なりに考えるが、「財政フィナンス」という言葉に縛られてそのような思い切ったことは実行されていない。

一般国民は「財政ファイナンス」と言われても何のことかさっぱりわからない。一般国民は国債の発行により「財政赤字」が「国民一人当たり669万円」であると聞かされ、自分の家計のことを念頭に描いてできるだけ倹約的な暮らしをしなければならぬと考える。一般国民は「財政ファイナンス」という用語の意味に関心が無いのである。

「財政ファイナンス」とは「国債の貨幣化(monetization)」のことだと金融関係用語集には出ている。「財政ファイナンス」とは国(政府)が発行した国債等を中央銀行が直接引き受けることである。EUの諸国と違って我が国やアメリカや中国などは自国の通貨を持っているので、わが国の場合、国(政府)が発行した国債を日本銀行が買い取ると、国(政府)は投資に必要な資金を手にすることができる。これは日本銀行が国(政府)に資金(money)を供給(finance)することである。

「財政ファイナンス」を行うと「財政規律」が乱れるおそれがあり、急激にインフレが進行する「悪性のインフレ(Hyperinflation)」を引き起こす恐れがあるため、わが国においては財政法第五条に「すべて、公債の発行については、日本銀行にこれを引き受けさせ、又、借入金の借入については、日本銀行からこれを借り入れてはならない。但し、特別の事由がある場合において、国会の議決を経た金額の範囲内では、この限りでない。」と規定されている。因みに明治政府は戦費を賄うため公債を発行し、インフレ率が14%にまで跳ね上がったそうである。それでも我が国は公債発行により危機を乗り越えることができた。

「財政ファイナンス」は、政治家が決断し、実行して結果責任を取れば出来ることである。ところが国家の運営について見識が薄い政治家たちは「財政ファイナンス」の意味すら理解せず、これまで長年財務省の言うなりになっていたに違いない。その結果、安倍首相が幾ら「アベノミクス」と強調してもデフレからの脱却は出来ず、GDPは低迷しているのである。

一方で、政治家も国民も「グローバリズム」・「リベラリズム」という呪文に縛られ続けて来た。アメリカに異色の大統領・トランプ氏が現れ、わが国の政治家も国民も意識が変わりつつあるように見える。我々は長年、善人面をしたインテリゲンチア(intelligentsia)(=知的生産をする社会層・知識層)・リベラリスト・又はこれらの層に自分が所属していると思いたがっているマスメディア従事者たちが用いる言葉を無抵抗に受け容れて来た。

しかし私のような無学の一市井の80歳になる老人でもこうしてネットを通じて発言している。言論が極めて自由なこの日本国であるからこそ、そういうことができる。国防の強化のため憲法を改正する必要があるが、この「自由」の権利が規定されている条文だけは断固守られなければならぬ。わが国は憲法を改正して自衛隊を国防軍にし、名実ともにわが国の軍隊(armed forces)にしなければならぬ。その一方で周辺の国々がお互いに「win win」の関係となるように、お互いの政府間で外交・経済の努力が粘り強く継続されるべきである。



わが国の国民は人種的に歴史的にも文化的にも周辺国とは異質である。国家は「一種の生き物」である。「一種の生き物同士」としてわが国は周辺の国々との間でお互い一定の秩序を保ちあうことを意識し合うようにしなければならぬ。その為にはわが国も「一種の生き物」であることを、我々は国民として強く意識する必要がある。その「生き物」の背骨となるものが正に軍隊(armed forces)である。これはリベラリストたちが好まないことであろう。

2017年2月7日火曜日

20170207『仏説阿弥陀経』について(10)


放送大学の講座に『博物館学』というものがある。この講座の講義内容はテレビ受信装置のハードディスクに収められているのでいつでも見ることができる。その講義の中で北海道の白老町にあるアイヌ民族博物館のことが紹介されていた。

アイヌの人々は独特の言語・文化を持っていたが明治政府による同化政策により日本人としての名字・名前を名乗り、和人(昔、大和民族の人々が自分たちとアイヌの人々を区別するため付けた自称)との混血が進み、現在ではアイヌ語を母語のように話すことが出来る人は全く居なくなってしまっているのではないかと思われる。しかしアイヌ語由来の地名は北海道・東北地方などに多い。

日本人は元々北の北海道から南の沖縄までの日本列島だけに暮らしていた縄文人という人種と、4200年ほど前以降長江中流域から徐々に、東シナ海を直接横断するルート、及び山東半島から朝鮮半島南部に渡り、其処からさらに北九州に渡るルートで、それぞれ日本に渡って来た渡来系弥生人が混血して生まれた人種である。縄文人たちと渡来系弥生人たちとは争うことなく混血して日本の古墳時代人になった。その中から後に大和民族を束ねる天皇(神武天皇)が現れ、今年皇紀2677年になるまで男系の皇統が続いて来ている。

白老町にあるアイヌ民族博物館の学芸員の方々の容貌はアイヌの血を引いているようで彫りが深い。その人たちと一部の沖縄の人たちの容貌は似たところがある。縄文人のDNAとアイヌの人々のDNAには同じ部分が多いことが分っている。一方アイヌの人たちと沖縄の人たちのDNAにも同じ部分が多いことも分っている。これは大和朝廷があった近畿地方から離れた地域では混血の度合いが少なかったということを示すものである。

2012年の秋私が妻と二人で北海道に旅行したとき、阿寒湖ある店で『アイヌ語を覚えちゃおう!』と題するリーフレットと『マンガ版アイヌ語辞典』を貰った。その店で私は豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』と言う本を買った。豊岡キイチ著『邪馬台国を見る』には日本各地の地名の中にアイヌ語との関係が深いと考えられるものが沢山あることが紹介されている。

『マンガ版アイヌ語辞典』には、昔アイヌの人々が和人と戦ったことや、江戸時代に松前藩による支配を受けて絶対的な服従を強いられていたことなどが描かれている。アイヌの人々も「和人」もルーツが同じ縄文人であるのに、これは悲しい史実である。「和人」たちはアイヌの人々をひどく差別していたのだ。

アメリカインディアンやオーストラリアのアボリジニなどはそれらの国々ではヨーロッパ人に武力で征服され支配された少数民族と言うことができるが、アイヌの人たちや沖縄の人たちにはそういうことは無かった。アイヌの人たちも沖縄の人たちも天皇の下、皆同胞である。同胞とは同じ母から生まれた血縁という意味である。そのことを知らないか、そのことを無視している人たちが「琉球独立」を掲げて運動している。

国連の人種差別撤廃委員会などは200810月以降、日本政府に沖縄の人々を先住民族と認めるよう複数回にわたって勧告しているが、これは沖縄を日本から分断しようとしている某国による陰謀である。日本列島には先住民族など全く居ない。

釈尊は私たちが生きている娑婆世界を五濁悪世であると仰っている。五濁とは劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・煩悩濁(ぼんのうじょく)・衆生濁(しゅじょうじょく)・命濁(みょうじょく)の五つのことである。劫濁は「時代の穢れ」、見濁は「邪悪で汚れた考え方や思想が常識となってはびこる状態」、煩悩濁は「欲望や憎しみなど煩悩によって起こされる悪徳が横行する状態」、衆生濁は「心身ともに人びとの資質が衰えた状態」、命濁は「自他の生命が軽んじられる状態」である。(真宗大谷派東本願寺ホームページより引用)

アイヌの人々に対する固定観念や先入観を取り払い、アイヌの人々に寄り添った先住民政策を再構築するための全国組織を持つことは上述五濁から離れるために大変結構なことである。しかし沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかける日本人は逆に五濁をつくる悪人たちである。

沖縄の人々を先住民族をとするように国連に働きかけることに理解を示す日本人や日本のメディアは、どう見ても奄美群島・沖縄諸島・宮古列島・八重山列島・大東諸島、八重山列島・尖閣諸島を自国の領土にしたいと思っている某国の野望に応えているとしか思えない。彼らは自らがこの日本国で恩恵と利益を得ている存在であるにもかかわらず、日本国の安全と繁栄・日本国民の安心と幸福を脅かそうとする悪い奴ら・非国民である。

しかしこのように彼らを「非国民」と呼んで蔑みたい気持ちも、私自身が娑婆世界に住んでいる以上絶対断ち切ることができない穢れである。私は和讃にある「法身の光輪・智慧の光明・解脱の光輪・光雲・清浄光明・仏光照曜最第一」と表現される阿弥陀如来の絵図に向かって「南無阿弥陀仏」と幾ら唱えても、その煩悩を断ち切ることはできない。私は娑婆世界に生きている以上、正義感に基づく怒りの気持も、本能的欲望とともに断ち切ることは絶対出来ない。それでも私は親鸞聖人に導かれたお蔭で、今生において既に阿弥陀如来に救われており、私の命終後も阿弥陀如来に救われる身である。


2017年2月2日木曜日

20170202『仏説阿弥陀経』について(9)


「五濁悪世」は『仏説阿弥陀経』に書かれている言葉である。「五濁悪世」は生物学上の生物である「ヒト」が必然的に作っている現象である。ところが善人面をして理想を追い求め、自分たちの知力・指導力で自分たちが理想とする社会の実現を目指すリベラリストたちも、「○○ファースト」と唱える政治家たちも、皆「五濁悪世」を作るのである。「五濁悪世」は人間社会の必然的現象である。

そういう中で現実を直視し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」が実現されたかどうかは、歴史のみが審判する。現状を分析し、状況を的確に判断し、国民の最大多数の「安全・安心・繁栄」のため最善の方策を選択した国家のみ、未来における安堵が保障される。

「ヒト」以外の生物は「快・不快」の本能で行動する。彼等には「五濁悪世」は無い。「ヒト」以外の生物は生き残り、自分たちの種を残すことだけで行動する。ところが「ヒト」種生物の中でリベラリストたちが陥りやすいのは、自分が所属し、其処で恩恵と利益を得ている社会「最大多数」の人々の「最大幸福」である。彼らは善人面をした理想主義のゆえに、「少数」の人々の「最大幸福」のみに目を向けがちである。

リベラリストたちの発言はメディが喜んで取り上げる。一方で武力・経済力・宣伝力で国家の覇権を拡大しようとしている国々は、そういうメディアの動きを歓迎する。現に日本の国内・周辺でそういう現象が起きている。国民の「最大多数の最大幸福」の核心は、国家・国土・領土・領海・領空・排他的経緯水域・国民・社会の「安全と安心」であり、「繁栄」である。リベラリストたちはそういうことに十二分の注意を払おうとしない。

『仏説阿弥陀経』には「釈迦牟尼仏(shakamunibutsu)。能為甚難(nouijinnan)。稀有之事(keushiji)。能於娑婆国土(nouoshabakokudo)。五濁悪世(gojokuakuse)。劫濁見濁(koujoku-kenjoku)。煩悩濁(bonnoujoku)。衆生濁(shushoujoku)。命濁中(myoujoku-chu) 得阿耨多羅(tokuanokutara)。三藐三菩提(sanmyakusanbodai)。(釈迦牟尼仏は大変困難で稀有な仕事をやり遂げた。釈迦牟尼仏は五つの穢れに満ち溢れた人間世界で、最高に平等で正しい悟りの境地を得た。)」と書かれている。「釈迦牟尼仏」とは「仏(Buddha)になられた釈迦牟尼(Śākyamuni)シャーキャ族の聖者)」(=日本で言う「釈尊」)のことである。

「仏(Buddha)」とは「法(dharma)」を覚った人」の意味である。後世において「仏(Buddha)」は「如来(tathāgata)」と同じ意味になった。dharmaとはBuddhaによって説かれた教えである。それは人々をして現実の不安や苦悩から脱せしめ、苦しみの無い安穏な理想郷に向かわせる教えであり、社会全体を平和で幸福に導く教えである。(水野元博著『仏教要語の基礎知識』を参考として記述。)

『仏説阿弥陀経』には、“これより西の方の十万億のBuddhaの国を過ぎたところに「極楽」という国がある。その国に阿弥陀仏(Amitāyus buddha)という「量りしれない寿命を持つ者」がおられ、無量光(amitāba)(量り知れない光)を放っておられて、今現在も「法(dharma)」を説いておられる。その国には楽しみだけがあって一切の苦しみは無い。

そこではいろいろな美しい鳥たちが皆にBuddhaの教えの真実を知らせている。その鳥たちは罪の報いにより鳥の姿に変えさせられているのではなく、Amitāyus buddhaご自身がその鳥たちに変身している姿である。

その国の東方・西方・南方・北方・上方・下方にはそれぞれ数えきれないほど非常に多くのBuddhaや菩薩(Bodhi-sattvaの音写でBuddhaになるための修業者のこと)などが住んでいる国があって、それら数えきれないほど非常に多くのBuddhaたちがそれぞれの国にいて大いに弁舌を振るって真実の言葉を発している。(諸仏。於其国。出広長舌相。徧覆三千大千世界。説誠実言)という趣旨のことが書かれている。

「友は類を以て集まる」という諺のように、普段誠実で、謙虚で、他者を思いやる温かい心の持ち主の周囲・交友関係には同じような人がいる。そのような人たちはお互いの人柄の中に無意識にBuddhaを見ているのだろう。そのような人たちの間ではお互い無意識に「極楽」という国を見ているのだろう。

そのような人たちは五濁悪世の娑婆世界に生きていても、その人たちのところに自然に福徳が及んでいるのだろう。それは神通力が働いているようなものであろう。偶然の良い出来事は「起きるべくして起きた」必然の出来事なのだろう。

そういうことは国際社会では到底有り得ない。国家は「一つの生物種」と見なすべきものである。国家と国家の間では「Give and take」の関係のみで福徳があるかどうか定まる。これは言うなれば生物と生物の間の共生関係のようなものである。勿論、国家は一時的には人道主義と友愛精神に基づく「善」なる行動をとる場合もあるだろう。しかし国家としてのそのような行動が、その国民の「最大多数の最大幸福」を阻害するものになるならば、それを継続することは難しくなる。所詮国家は利己的な存在である。

 「国家」と一口に言っても、一人または一党独裁の国家もある。史実を捻じ曲げ偽りの歴史を国民に堂々と教えている国家もある。日本の周辺にある国々はそういう国家である。