2018年7月29日日曜日

20180729「渡来氏族」について「後書き」



 再々放送だったようだが、NHK『こころの時代〜宗教〜韓国に生きる 在韓日本人妻を支えて』を視聴した。この番組に出演している國中房子さんは戦前に韓国人男性と結婚し、終戦直後韓国に渡った。結婚当時國中さんは22歳、ご主人・当時日本名「海野高啓」と名乗っていた朴起龍(パク・キリヨン)さんは6歳年長だった。ご主人の家は両班で大変裕福であった。両班は高麗・李氏朝鮮王朝時代の支配階級の身分である。彼は薬学の勉強のため日本に来ていたという。國中さんは戦後ずっと韓国に住み続けておられ、終戦前後韓国人と結婚した日本人妻を支援する会「芙蓉会」の会長を務めておられる。同会は当初在韓日本人妻の親睦会で、一時期700人の在韓日本人妻たちが同会に加入していたという。

 戦前韓国人と結婚していた日本人女性たちは戦後大変苦労していた。國中さんはご主人の協力によりそういう女性たちを支援した。そのご主人は87歳で他界された。國中さんは七人の子どもを育て上げ、十九人の孫と十一人のひ孫に恵まれて幸せな余生を送っておられる。この番組の内容の詳細はインターネットで紹介されている。

 その中で、國中さんにインタビューした人が「韓国で日本人だったからつらかったこと、苦しかったことがたくさんあったのではないですか?日本人であることを後悔したりとか、そういう人もいたんですかね?」と質問したら、國中さんは「日本人ですよ。後悔なんか…。日本人としての後悔がどこにあります。毅然(きぜん)としたもんですよ、あなた。そんなあなた、私が日本人だから韓国人だったらよかったなんて、とんでもございませんよ。日本人としてのちゃんとした気概を持ってますよ。そんなあなた、後悔なんて、そんなばかなそんな話がありますかよ。とんでもない話です」と答えておられた。

 國中さんは毎朝欠かさず自宅のアパートの屋上で手を合わせて拝んでおられる。上述のインタービュアーが「國田さんはいつも拝んでらっしゃるんですか?」と質問したら、國中さんは「あのね毎朝こうして拝んでる。国の安泰と家族の安泰とね、子どもたちがね健康で過ごせるようにと。日本もよくなって頂きたいし、韓国もね。両国がよくならないと駄目でしょう」と答えておられた。

 見たところ國中さんは一重瞼であるが、この番組に出たお子さんたちは二重瞼の方あり、日本人と全く変わらない容貌をしている。國中さんの子供には縄文人の血を引いているイヴの遺伝子が確実に伝わっている。

 日本を誤解していた李承晩初代韓国大統領が構築した韓国民に対する反日思想教育システムにより韓国民の間には根強い反日感情が漂っている。それが無くなると日韓の関係はきっと良くなるだろう。未来志向のため両国の政府がしっかり手を組んで、お互いに自国民を啓発するように成れば、東アジア諸国は皆平和で繁栄するWin-Winの関係になるだろう。先ずは日本人自身が自らのアイデンティティをしっかり保持しつつ、日本の古代史・中世史・近現代史をしっかり学ぶことが重要である。そうなればメディア関係者も気を引き締めるようになるだろう。上述インタービュアーに対する國中さんの返答ぶりは痛快であった。


2018年7月28日土曜日

20180721「渡来氏族」について(7)



西暦663年の白村江の敗戦を契機に、百済国の支配層の一部を構成していたに違いないと考えられる「倭人」たちとその縁者である百済人たちは白村江で戦い生き残った兵士らと共に倭国(日本)に戻ってきた。その行動は「倭人」たちが進出し影響を及ぼしていた土地からの撤退である。渡部昇一著『古代日本史入門 頼山陽「日本楽府」を読む』にはその史実が「引き揚げ」と書かれている。

白村江の敗戦後日本軍の捕虜は後に日本に帰された。こうして朝鮮半島に進出していた「倭人」たちは朝鮮半島から殆ど姿を消してしまった。神功皇后による新羅征伐は朝鮮半島に進出していた「倭人」たちの軍事力により成功したと考えられている。朝鮮半島に進出していた「倭人」たちのお蔭で倭国(日本)400年間にわたり朝鮮半島で得ていた権益は、白村江の敗戦により完全に失われてしまった。

 ともかく、16000年前から3000年前まで13000年間も続いた縄文時代を通じて日本人の「心」が確立され、現在に至っている。日本人の「同胞意識」の根源は縄文時代とこれに続く弥生時代にある。被災地に非常に多くのボランティアたちが駆けつけ助け合う精神の起源はこの両時代にある。このことを我々日本人が自覚することにより、今後日本人が歩んで行くべき方向への道が明らかになるだろう。

 「渡来」という用語は上述「渡来系弥生人」のほか、散発的に個別に日本に来て日本人になった人たちのみに適用すべきである。そういう意味で戦後日本に永住権を得た人たちは「渡来人」である。渡来人が日本国籍を取得した場合は「帰化」である。「帰化」という用語について反発の向きもあるが全く問題にすべきではない。

しかし「渡来氏族」を含め日本に朝鮮半島から引き揚げた「倭人」及びその所縁のある人たちについては「渡来」・「帰化」とは言わず、「倭人」と所縁のある人たちも含め「帰来」と言うべきである。つまり古代の「渡来」・「帰化」は「帰来」の意味で捉えるべきである。

一方「渡来系弥生人」は「倭人」と混血し日本人の先祖になった人たちである。「渡来系弥生人」は縄文末期以降日本に渡来した人たちであって「渡来」の意味が特殊である。彼らは縄文人と混血して日本人の先祖となった人たちであるから「帰化」ではない。故に『日本書紀』に記述されている「帰化」は当時の客観的状況として理解されるべきことである。

後漢末期などに戦乱から逃れて、王権が確立されている日本に一族の将来の希望を託し日本に渡って来た人々の「帰化」と、先の世界大戦後日本に残留した人たちや、朝鮮戦争後日本に不法移住して日本で特別永住権を得ていた人たちが日本人になるための手続きとして帰化する場合の「帰化」とは意味が全く異なっているのである。(終わり)



2018年7月27日金曜日

20180721「渡来氏族」について(6)


古代に皇室を護った大伴氏や佐伯氏は今居ないが、皇室は日本の伝統の中で護られている。男系皇統の維持は危険な状況にあるが、その問題は必ず解決されるだろう。リベラルな人たちは「女系天皇」に関心を示している様であるが、「女系天皇」はあり得ない。もしそうなったらこの日本は日本で無くなる。日本人皆が不幸になる。そう言う事は起こらない。私はそのように非常に強く思っている。

「渡来氏族」がその出自を古代中国の霊帝・献帝・秦の始皇帝に求め、或は朝鮮にルーツがある氏族がその出自を百済王・高麗王に求めたのは、古代においてその氏族集団が日本の社会の中で生き残るためであった。

これに似たようなことは個々の「家」でも見受けられる。かつて地域社会では「家柄」が重んじられていた。その時代に自分の「家柄」を良く見せかけるため他人の「家」の系図等を買い取った「家」があった。その「家」では毎年正月に「本家」に親族が集まって系図や宝物を囲んで「先祖祭り」を行っている。例えば自分の「家」は「藤原氏族」であるという「家」がある。しかしその「家」を「藤原氏族」とするには確かな根拠がない場合がある。

東漢氏・西漢氏・秦氏などがその出自を古代中国の皇帝にあるとされていることも、他家の由緒を買い取って自家の由緒にしていることも両者同じ動機に基づくものである。その動機はそれぞれ生き残りのためである。

国家も生き物のようである。利己心をむき出しした生き残りの行動をしている。固体内にDNAを備えているあらゆる物及びその集合組織体は利己的に行動するものである。17世紀の哲学者スピノザは万物には「自存力」が備わっていると言った。

 さて、「渡来」・「渡来人」という言葉は日本的である。日本列島に元々住んでいた人々の所に、朝鮮半島・中国大陸方面から新しい人々がやってきたことを我々日本人は「渡来」と呼び、その人々を「渡来人」と呼んでいる。これが共通的な観念になっている。それは今や固定観念になってしまっている。しかし其処に大きな誤りがあると私は考えている。

朝鮮半島には弥生時代から古墳時代にかけて「倭人」と称せられる人々が進出していた。このことは考古学的に確認されている。私は、古代において「渡来人」という語を用いる場合は、「渡来系弥生人」のほか古代中国の春秋・戦国時代戦乱から逃れて中国大陸方面から直接或は朝鮮半島経由で日本列島に移動してきた人々のことを言うべきであって、古墳時代に朝鮮半島から日本に移住してきた西漢氏・東漢人氏・秦氏たちの氏集団を「渡来人」と呼ぶことは正しいとは言えないと考えている。なお、後述するように現在における「渡来」は別の意味で定義されるべきである。(続く)



2018年7月26日木曜日

20180721「渡来氏族」について(5)



日本人のY染色体DNAは、日本人に特有のY染色体DNAハプログループD1b(注:その占有率は沖縄で55.6%・九州で26.4%・青森で38.5%・北海道日高アイヌで88%)の他、上記「渡来系弥生人」及び中国大陸・朝鮮半島から移動してきた人々のY染色体DNAであると考えられるY染色体DNAハプログループO系統が現代の日本人のY染色体DNAの殆どを占めている(Wikipedia)。

縄文人の特徴は二重瞼・えくぼ・シミ・湿った耳垢・ちぢれ毛・彫りの深い顔立ち・酒に強いなどである。日本人は混血の多さゆえに人々は色々な容貌・体つきをしている。何世代にも亘って血が混じり合って来たのでたとえ縄文人の特徴が無い容貌であっても日本人は身体の何処かに縄文人の要素を持っている。上述「渡来氏族」の人たちの長など主だった人たちは、縄文人の要素を持っていた人たちであったに違いない。

戦後特別永住権を得ている在日の人たちでも二重瞼の人たちがいる。その人たちの血にはもしかして古代朝鮮半島で「倭人」の血が混じっていたかもしれない。朝鮮半島には僅か4%という低頻度であるが、Y染色体DNAのハプログループD1bの人々が存在している(Wikipedia)。

この4%と言う数字には朝鮮半島に遠征した秀吉軍の一部の残留者や、明治時代以降韓国に渡り其処で没した日本人のDNAによるものが含まれていると考えられる。また白村江の戦いの後日本に帰れずやむなく朝鮮半島に残留した人たちも居たであろう。その人たちのDNAも含まれているに違いない。上述のとおり科学的な説明は出来ないが、生物学的な「群れ」の現象により戦後朝鮮半島から日本に移住した在日の人たちがいたかもしれない。

 頼山陽は詩集『日本楽府』の中で、西暦663年に白村江において42千人の日本軍が唐・新羅連合軍に大敗し、百済を復興させることが出来なかった史実をもとに『百済を復す』と題する詩を収めている。その詩の最後の行に「唐と日本とどちらが得をしただろうか。百済から天皇を慕い、天皇に忠義を尽くす人たちが海を渡って日本にやってきた。彼らは天皇の臣民となって何世代にもわたり皇室を護ってきたのだ」という趣旨の言葉を述べている。

 翻って戦後の日本には日本に残留した元日本国籍の外国人や、不法に入国した外国人が非常に沢山いる。それらの人々の多くは日本で特別永住権を得ている。一方で労働力不足を補うため、日本政府はブラジルなどから非常に多くの日系人の「出稼ぎ」を歓迎している。このため日系人の血を引く子孫も含め日本には非常に多くの日系外国人が居住している。上述頼山陽の詩にあるように彼らも何世代か後には純粋の日本人になり、皇室を護る力になることだろう。日韓・日中の間には愛国心教育の影響もあって両国家間にしこりがある。しかしこれは両国政府の確固たる未来志向により乗り越えられなければならない。(続く)


2018年7月25日水曜日

20180721「渡来氏族」について(4)



ではなぜこのような現象が何故起きるのだろうか? 私はそのことを考えるキーワードとして「量子のもつれ」・「マヨナラ粒子」・「生体間シグナル」・「細胞間シグナル伝達」・「生体シグナル伝達」・「コロニー」のどの科学的用語と仏教用語の「縁」などを挙げる。しかしその用語を挙げてみたところで「群れ」が起きる確たるメカニズムは分からない。

人間とイルカの間、飼い犬と飼い猫の間などように、異生物間でも互いに親和することが出来る。この異生物同士はお互いに何かのコミュニケーションが出来ている。なぜそういうことができるのであろうか? 私は、両者の間で何か量子力学的なメカニズムが作用しているに違いないと思っている。

縄文人の骨100体の奥歯からY染色体DNAを取り出すことができた。その結果縄文人はチベット人・アンダマン諸島人の祖先と共通のY染色体DNAハプログループD集団に属していることが分かった(Wikipedia)。

 縄文人の祖先は人類の分岐系統の中で韓国・中国の人たちの共通祖先より1万年ほど前にヨーロッパ人の祖先と分岐していた。自然界では同一種類の生物の中で後に分岐した生物つまり「後発」の生物の方が、特定の環境下ではその分岐以前の生物つまり「先発」の生物より生き残る力が強い。しかし「先発」・「後発」両生物共にそれぞれ新たな環境に適応しながら進化を続けている。生物は他の生物を捕食しながら繁殖し、自分の種を遺す力の強い方、或は自分の種を遺すことが容易な環境にある方が生き残ってゆく。

縄文人の祖先の集団は自分たちより1万年ほど後に分岐した人々の祖先の集団に圧迫され、チベット・アンダマン諸島などの辺地に追いやられた。中国では現在でもチベット人やウイグル人たちの自由が奪われている。縄文人の祖先たちがカザフスタン南部から旅立って大陸を移動中、1万年ほど後に分岐した人々の祖先の集団に圧迫されたに違いない。その結果チベット・アンダマン諸島などのその辺地以外では父系の遺伝子であるY染色体DNAハプログループDは途絶え、大陸には母系の遺伝子(ミトコンドリアDNA)のみ残っているのである。日本列島に辿りついた縄文人の祖先たちは幸運であったのである。

縄文時代末期以降、散発的に少人数ずつ日本列島に渡って来た「渡来系弥生人」と縄文人との間では衝突はなく両者の間で混血が進み、後に「倭人」と称せられる人々の集団が現れた。初期の「渡来系弥生人」は、元は長江中流域で漁労・稲作(ジャポニカ種)の長江文明を築いていた人々であった。紀元前400年から紀元後100年までの間、長江中流域の山岳地帯にある滇池のあたりに築かれていた滇王国や現在のミャオ族の文化・習俗に似たものがある。このことは彼らが「渡来系弥生人」と同じ種族であることを裏付けるものである(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』)。(続く)



2018年7月24日火曜日

20180721「渡来氏族」について(3)



弥生時代に九州北部から「倭人」と呼ばれた人たちが朝鮮半島に進出して行った。「倭人」とは縄文人と「渡来系弥生人」が混血した人々である。それは前述「渡来氏族」と呼ばれている人たちが日本に渡って来た時から何世紀以上も前のことであった。

初期の「渡来系弥生人」は長江中流域で漁労・稲作の文明を築いていた民であった。彼らは4200年前に起きた地球の気候の寒冷化の影響を受けて北方から日本に南下してきた狩猟・畑作の民に圧迫されて一部は中国雲南省の山間部に逃れ、一部は長江河口から海を渡って九州南部に、一部は長江河口から海岸伝いに北上し、山東半島・朝鮮半島南部を経て九州北部にやって来た。縄文人たちは彼らと争うことなく混血した。彼らは島伝い・海岸伝いで徐々に島根県の淀浜・福井県の鳥浜・紀伊半島南部辺りまで移動して行った。(参考:安田喜憲著『古代日本のルーツ 長江文明の謎』)。

時代が下がって日本列島側では弥生時代以降大和王権が確立されるまでの過程にあったとき、上記「倭人」や未だ縄文人のままであった人々と古代中国の春秋・戦国時代戦乱から逃れて朝鮮半島・中国大陸方面から移動してきた人々が居た。彼らも「渡来系弥生人」である。こうして縄文人と「渡来系弥生人」の間で数世紀以上にわたり混血が進み、縄文人は「倭人」に変わって行ったと考えられる。「倭人」は「渡来氏族」として渡来した古代朝鮮人・古代中国人との間でも混血して行った。江戸時代までに中国の呉越地方から日本にやって来た有能な人々が沢山いた。戦前も戦後も日本に来て日本人と結婚した外国人は多い。

戦後ヨーロッパ系やアフリカ系の人たちとの結婚が増えている。日本に帰化したスポーツ選手や力士も多い。これが日本人のDNAの非常な多様性を示す理由となっていると考えられる。将来その傾向は加速されるだろう。将来の日本人のDNAはさらに多様になるだろう。日本人は雑種である。雑種は生き残る力が強い。

私は、「渡来氏族」は元「倭人」が多い集団であるとしている。そうすると古代における「渡来氏族」は現代における日系ブラジル人など日本に出稼ぎに来ている日系人たちと似ている。日系ブラジル人たちは日本人の血を引いているが、言語・文化・習慣が日本人と全く違っている。彼らは国籍上でも「外国人」である。「渡来氏族」も同様である。しかし両者の違いは、日系ブラジル人の日本への入国は一世紀以内の「里帰り」であるが、「渡来氏族」の「里帰り」は数世紀を経た「里帰り」であると言う点である。

「渡来氏族」は「外国人」であっても、海を隔てた「倭人」同士お互いに惹きあうものがあったに違いない。生物は同じ「種」同士で群れる。野鳥もイワシも大きな群れになり、方向を変えるときは一斉に動く。人の手によって駆除されているアリたちは駆除により次第に少数になってくると一か所に集まり大きな群れを為す。後漢の末期前後朝鮮半島が平和で無くなってきたとき、非常に多数の元「倭人」やこれに所縁がある人々が平和で将来への希望に満ちている母国日本に「里帰り」したと考えられるが、これは上述の生物学的「群れ」現象であるということではないだろうか? (続く)



2018年7月23日月曜日

20180721「渡来氏族」について(2)



当時の総合商社は古代中国からも機織りの人材を引き入れ、ある豪族の保護下に入れた。そのことがうかがえる短歌が『万葉集』に載っている。それは巻七・一二七三の柿本人麻呂の歌「住吉(すみのへ)の波豆麻(はづま)の君が 馬乗衣 さひづらふ 漢女(あやめ)を据(す)ゑて 縫へる衣ぞ」である。「さひづらふ」とは異国の言葉をしゃべっていることである。

 古代中国の歴史書で「倭人」とされている人々は、縄文時代末期以降に縄文人と「渡来系弥生人」が混血或は混血しつつあった人々のことである。「渡来系弥生人」の第一陣は紀元前1000年前後に長江中流域から九州南部に渡って来た人々であったであろう。その後古代中国の春秋・戦国時代に戦乱から逃れ、自分たちの生き残りをかけて九州北部に渡ってきた人々が居たと考えられる。「渡来系弥生人」は数百年間にわたり少人数ずつ九州や本州西部にやって来て、徐々に日本各地に移動し縄文人たちとの間で次第に混血して行き「倭人」になって行ったと考えられる。

 日本人の先祖は縄文人である。縄文人は北方系(樺太経由)・中央系(朝鮮半島経由)・南方系(かつて存在していたスンダランドから丸木舟に分乗して台湾・沖縄など島伝い経由)の三方面から日本列島に辿りついた人々が、何千年以上と言う非常に長い年月の間に互いに混じり合って成立した人種である。その元は約5万年前に中央アジアカザフスタン南部からマンモスなど捕食対象の動物を求めて複数のグループに別れ、大陸を移動して行った人々である。上記3ルートの先祖は同じであるが話す言葉は長い年月の間に違って行ったであろう。

縄文人の先祖たちは日本列島に辿りつくまでの間に動物の骨で縫い針や釣り針を創作し、石器を改良して丸木舟を作るため丸型石斧を創作し、煮炊きのため大釡の土器を創作した。彼らはものづくり・協同作業・意志疎通のため様々な創意工夫を凝らし、ノウハウを蓄積し、社会的な進化を遂げることができた。その結果彼らは上述のように3方面から「エデンの園」のようなこの日本列島に辿りつくことが出来た。そして混じり合いながらお互い知識を交換し、個々の能力を高め合い、社会的に進歩することが出来た。

日本列島という大陸から離れた孤立の島々に辿りつくまでの過程で、人類として社会的に進化した人たちが縄文人の先祖であった。互いに協力し合い、新たな道具を創り出すことが得意な人々が縄文人であった。縄文人は16000年前から3000年前までの13000年間もの長期間、この日本列島で平和に暮らしていた。日本列島だけにしか存在していなかった縄文人という人種は世界的に観て稀有であり、特殊な人種である。このような縄文人の特質がDNAに深く刻み込まれていて、現在の日本人に受け継がれているに違いない。(続く)



2018年7月22日日曜日

20180721「渡来氏族」について(1)



 古代に東漢氏・西漢氏・秦氏など「渡来氏族」と呼ばれている人たちが朝鮮半島から海を渡って日本にやって来て、朝廷に仕え、学問・芸術・産業の発展に貢献した人たちが居た。これはあくまで素人の思い付きであるが、私は、彼らの長を含む一部は当時の日本から見た純粋の「外国人」では無く、「倭人」であったのではないだろうかと思っている。但し当時の人たちはそのことを認識することは出来なかったに違いない。そういう観点で私がこれから書くことは恐らく嘲笑され、無視されるだろう。或は怒りを買うかもしれない。

東漢氏・西漢氏・秦氏などは自分達の先祖が中国の後漢の霊帝・献帝・秦の始皇帝であるとか、或は百済王・高麗王であるされている。近年の歴史研究結果では、出自をそのように見せることは自分達の存在が日本で認められるようにするためであったとされている。

しかし彼らの力なしでは『日本書紀』は完成されなかった。蘇我氏の滅亡など政変も彼らの武力が背景にあった。私は、「渡来氏族」とは一体何者かと想像をたくましくして考えた。私は、「渡来氏族」は現代の全国展開の商社のようであったと思う。その本社は京都にあり、営業分門は学問・芸術・産業・警備保障などの分野別に複数あって、末端組織が全国に展開していた。そのような管理運営形態で各地の豪族のニーズに応え、朝廷の政治に貢献した。そのように私は考えている。

『日本書紀』には「渡来氏族」が「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」を率いて来日したと書かれている。しかし実際は「渡来氏族」の長が知識・技能を有する人たちを連れて日本に渡って来て、各地の豪族の下に配置し、豪族配下の民を教育・訓練して自分たちの組織に組み入れた結果が、『日本書紀』に記述された「人夫(たみ)百二十県」や「党類(ともがら)十七県」であると考えられる。しかも日本に渡って来た彼らの多くは元々「倭人」や「倭人」の血を引く人たちであったに違いない。

もし実際に何千人・何万人もの「外国人」が大挙して日本に渡来してきたら、日本人との間で衝突が起きたであろう。そういうことは起こらなかった。以前私は、後漢滅亡後何千人・何万人もの人たちが大挙して日本に渡来して来たと思っていたが、そうでは無かったのだ。

なぜそういうことが出来たのか?当時の日本では大伴氏・佐伯氏が天皇の親衛隊として「渡来氏族」に睨みを利かせていた。一方で、地方の豪族たちは朝鮮半島の元「倭人」たちと交流して利益を得ていた。朝廷が「渡来氏族」と手を結び日本の発展に利用しようとしたとき、その仕組みに乗ることが地方の豪族たちにとって好都合であったに違いない。だから地方の豪族たちは朝廷の指示に従い「渡来氏族」による事業に協力した。私は、部民という知識・技能集団はそのようにして生まれ、『日本書紀』に上述のように書かれたのだと思っている。(続く)