2017年10月29日日曜日

20171029リベラル ―― 北朝鮮への対応 ――


 NHKの日曜討論を視聴した。北朝鮮との交渉について、「これ以上交渉の余地はない」とい言う立場と、「交渉の余地はある」と言う立場の二人の論者の間の議論を聴いて感じたことがある。それは、前者は非リベラルの立場で、後者はリベラルの立場で、それぞれ自分の見解を述べているのだということである。

 北朝鮮の核兵器について、リベラルの立場では北朝鮮の心情を察し、北朝鮮に対する圧力発言が無くなれば北朝鮮は核放棄の交渉に応じるだろうという観方をする。一方、非リベラルの立場では、北朝鮮は絶対に核兵器を放棄しないので交渉の余地はない、という観方をする。北朝鮮は南北統一を達成するため核兵器を捨てることは絶対ないに違いない。

 リベラルの立場の人たちは人間性を信じ、国家は野生の動物のような行動はしないものであると信じている、或いはそう信じたいのだろう。一方、男のように非リベラルの立場の者は現実主義者である。現実主義者は人間性を信じるが、人間は生存のために人間性を失うこともあると考える。現実主義者は、野生の動物たちがそれぞれ生存のための力を有しているように、国家も自存のため強力な軍事力を持とうとするものであると考える。

 旧日本帝国は自存のためアメリカ・イギリスと戦争をした。その過程で日本軍は蒋介石の中華民国軍とも戦った。その上日本軍は蒋介石に対抗する毛沢東の策略にはまってしまい、結果的に毛沢東の戦略に利用された。

日本は生存のため、圧倒的に強力な軍事力を持っているアメリカとの間で同盟を結んでいる。日本とアメリカとの間の双務的、但し日本の専守防衛の範囲に限る同盟関係を構築するため、自民党と公明党の連立与党はリベラル政党からの非常に激しい反発を受けたが、平和・安全の法制を整備するための諸法律を成立させた。

 この法律は日本の防衛のために行動するアメリカ軍に対して、自衛隊が支援を行うことを認める法律である。民進党を分裂に導いた前原氏はこの法律は憲法違反であるとし、これを廃棄すべきであると主張している。リベラルな立場の人たちは、たとえ専守防衛のためとは言え、自衛隊がアメリカ軍と一緒になって日本本土の防衛及び紛争地域に居住する日本人の救出のため行動することは危険であるとして、この法律を廃棄すべきと主張している。

 リベラルの立場の人たちは次に示す三つの現実をどうしても理解することができない。①国家は野生の動物のような側面を有していること。②軍隊は外交上有効な手段の一つであること。③日本国憲法前文にある“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼する”だけでは、日本の生存は保証されないということ。

 北朝鮮の脅威に対する感じ方は人それぞれにより違うものである。「人間の理性・高邁な道徳観」などを自分の日常の暮らしの中で高く位置づけていても、人は自分自身に危険が迫ってくれば、自分の身を守るため何かを為そうと行動するものである。

知識の障壁・感情の障壁・文化の障壁は将来起こりうる問題の事前認識を妨げる。北朝鮮の脅威に対する感じ方が十人十色であることはやむを得ない。北朝鮮の脅威が実際に表に現れれば、人々の考え方も変わるだろう。そうなればリベラル派の人たちの数も減るだろう。

 政策に関して情報や知識が広く一般の国民の間に共有されるようになれば、穏健・中道の政党の間の違いが一層明確になる。そうなれば、穏健・中道の政党である「希望の党」・「日本維新の会」や一部の無所属議員の会派の中から新たな政党を誕生させる動きがでてくるかもしれない。

 政権交代可能な野党の存在は必要である。その野党は穏健・中道思想の人たちだけの勢力でなければならない。上記の情報・知識に関しては、例えば①プライマリーバランスの黒字化を実現させるためには増税や緊縮財政を実行することだけが正しいやり方なのか?②増税や緊縮財政を実行しなくてもプライマリーバランスを適正にすることができる方法があるのではないのか? これらは与党と対立する政策のため採用することが出来るだろう。

新たに誕生して欲しい上記のような穏健・中道の大政党が財政運営に関して新しい政策を掲げ、国民的な議論を引き起こしてくれるならば、日本における政治は二大政党による円熟した時代に入ることができるに違いない。リベラルなの政治家たちが頼りにする「市民」は非リベラルの政治家たちが奉仕する「国民」ではない。北朝鮮による軍事的挑発は、日本の政治が生まれ変わることができる絶好の機会を提供してくれている。



2017年10月28日土曜日

20171028リベラル ―― 皇統の維持を阻む勢力 ――


 リベラルとは自由主義のことであるが、左翼という意味でも使われている。左翼は「天皇制」という言葉を使い、「譲位」の代わりに「退位」という言葉を使っている。左翼は女系の天皇を容認しようとしている。少なくとも女系天皇を容認する動きを阻止しようとはしていない。

 リベラルの反対は権威主義である。日本で天皇は統治者ではないが国民統合の象徴として、絶対の権威をもっている。その権威は、政治には一切かかわらず、内閣の助言と承認に基づき憲法に定められている国事を行うだけのものである。その国事には、①憲法の改正・法律・政令・条約の公布、②国会の召集、③衆議院の解散などのほか、⑦栄転の授与、⑨外国の大使・公使の接受、⑩儀式を行うこと、がある。

 一方、大日本帝国憲法の第一条には「大日本帝國ハ萬世一系の天皇之ヲ統治ス」と書かれている。ここには「萬世一系」と、男系の皇統が重要視されている。

 男は、リベラルか、そうでないかの判断基準を以下のように考えている。リベラルの程度の度合いを大雑把に二つに分ける。

 超リベラル政党 : 日本共産党及び社民党
   日本共産党は、“一人の個人が世襲で「国民統合の象徴」となるという現制度は、民主主義及び人間の平等の原則と両立しない”とし、将来的には天皇の存在を認めない立場である。
   社民党は、“天皇という地位や、その地位が世襲であるとされていることによってさまざまな人権が制約されている”とし、天皇の世襲を人権保護の観点から認めない立場である。
   超リベラル派は、日本とアメリカの軍事同盟を認めない。だからといって日本が独自に日本を防衛することができるほどの軍事力を持つべきである、とも言っていない。

 リベラル政党 : 民進党及び立憲民主党及び無所属
   民進党は超リベラル派からリベラル派まで、さらに保守派を含む玉石混交の政党である。民進党は現政権を倒すことだけを目的としている政党である。この度の選挙では衆議院の民進党は「希望の党」・「立憲民主党」・「無所属」の三派に分裂した。
   立憲民主党を立ち上げた枝野氏は、「天皇制」・「退位」という言葉を使い、譲位を可能とする特例法案に反対した。その立憲民主党には天皇に対する侮辱発言をした辻元氏が加わった。このことを国会で追及された彼女は、「かつて30代の頃、天皇制に疑問を持っていた」と釈明した。

   無所属の野田元総理は女性宮家創設を推進し、女性天皇の実現を目指す立場である。因みに日本の歴史の中で男系皇統の中継ぎとしての女性天皇は重祚(再即位)を含めて第3335374143444648109117の各代の天皇がいる。いずれも男系皇族の女性であり、既婚の場合も即位に先立ち皇后であられた方々である。

野田元総理は、内親王(皇族女子)の結婚のパートナーが皇族でない方の家でも「女性宮家」とすることを認める立場である。小林よしのり氏も女系天皇を認める立場である。その女系天皇の子孫には神武天皇のY染色体遺伝子は伝わらない。

もし皇族の中で神武天皇以来の男系皇統を継承する男子が途絶えてしまった場合、男系の皇統を維持する方法はある。それは戦後GHQの指令により皇籍を離脱した旧宮家を皇族に復帰して頂くことである。古代にそれに似た先例がある。

今から1570年ほど前に即位された第26代継体天皇は、第15代応神天皇から五世(5代)後の子孫で、当時、近江国高嶋郡三尾郷(今の滋賀県高島郡高島町)で、今の村長のような立場におられた。日本の歴史書『日本書紀』にその記述がある。

 問題が起きた場合、原点に立ち戻って考えればよい。上記のような方法を全く考えず、ただ男系皇統維持の危機を煽るのは間違っている。そこに左翼が付け狙う隙がある。

男系皇統維持の危機を煽る立場の人たちの中には、「天皇制」とか「退位」とかいった言葉を使い、将来的には天皇がいない国を目指す人たちが含まれている。

彼らは男系皇統維持の危機を煽る立場の人たちのグループの中に入り込んで、最終目標として天皇を否定し、「改革」という言葉の陰に隠れて「革命」を目指す人たちではないのか? 彼らは穏健・中道の大多数の「国民」ではなく、彼らが意識している「市民」が革命を起こすことを期待しているのだ。立憲民主党・参議院民進党の国会議員の中には、彼らと同じ願望を抱いている人たちが居るかもしれない。

果たして天皇の「権威」が自由主義の対極にあるものなのか? 日米軍事同盟が自由主義の対極にあるものなのか? 悠々の歴史を持つ国体の維持のため危険な因子は何なのか? 「国民」ではなく「市民」という言葉が使われ、「リベラル」という言葉があたかも「理性的・高邁」な精神を表す用語のように扱われている現状に警戒が必要である。


2017年10月24日火曜日

20171024国政選挙の結果


 第48回衆議院総選挙の結果、自由民主党は追加公認を含め284議席を確保した。公明党は29議席・「希望の党」は50議席・「日本維新の会」は11議席を確保した。憲法の改正に前向きな政党の合計議席数は374議席となり、議席総数465議席の80%を超えた。これで多くの憲法学者や歴代の内閣法制局長官が「違憲」としてきた自衛隊を「合憲」にする動きが加速するだろう。自衛隊は憲法に違反する組織であるとされながらも、日本の防衛・災害派遣・人命救助・国際平和への貢献などのため忍耐強く、黙々としてその活動を続けて来た。

 実質「軍隊」である自衛隊を「軍」と呼ぶことを好まない一部の政治家・ジャーナリスト・学者・言論者たちは、穏健中道の人々の組織の中に入り込み、メディアを利用して自分たちの主張に協調する人々が国民の半数ほどは存在していると喧伝してきた。しかし彼らの隠れ蓑であった政党が左右の勢力に分裂し、彼らの影響力が大いに弱まった。しかし、彼らは「政権交代ができる政治勢力が必要である」という美名のもとに早速蠢き始めている。

 この度の総選挙では、安倍首相の演説会場にSNSを通じて呼びかけられた反安倍総理の立場の人々が集まり、安倍首相の演説を妨害した。この動きに対抗して安倍首相を応援する立場の人々がSNSによる呼びかけに応じて安倍首相の演説会場に「日の丸」の国旗を持参して集まった。安倍首相の演説を妨害する行為は起きなくなった。

 SNSやブログなどによる情報発信が盛んに行われるようになりフェイクニュースが増えたが、一部の声高に正義を唱える人たちの影響力は小さくなった。自分の主義主張を声高に叫ばない大多数の穏健中道の人々の選択が政治に反映されるようになった。

将来この傾向を抑えるような動きが出ないとも限らない。民進党の前身であった旧民主党が政権を取っていたころ、人権擁護法案・人権侵害救済法案・人権救済機関設置法案・人権委員会設置法案を審議し、その法律を制定しようとする動きがあった。「人権」という美名のもとに、個人の発言やテレビドラマ・小説・アニメーション等の表現については制限するが報道機関の発言は制限しないというものであった。その上、人権委員の資格について国籍条項はなく、各自治体の人権委員会の主観的な判断だけにより、外国籍の人権委員であっても令状なしに人権侵害についての捜査ができるというものであった。

民主党から党名変更した民進党は分裂し、上記のような法律を作りたいと考えていた人たちは「希望の党」に加わることが出来なかった。上からの目線ではなく国民の目線で政治を行うと宣言した立憲民主党が野党第一党となり、リベラルな政治家を排除した「希望の党」は今度の国政選挙でその地位を得ることができなかった。

 「改革」「リセット」「しがらみからの脱却」「安倍首相のもとでの憲法改正に反対」など、定義・理由のあいまいな旗印を掲げて声高に叫んでいる人たちがいる。彼らは大多数の穏健中道の人々のグループの中に巧みに入り込み、グループの力を巧みに利用して自分たちの理念を実現させようと蠢く。男はそういう人たちを監視しなければならないと思っている。
 
弥生時代以降日本に渡来してきた人々が縄文人たちと共に暮らして行く間に、縄文人たちが「大自然と共にある」という世界観のもとに行ってきた神々を畏敬する祭祀は、彼らの子孫に継承されている。アイヌのカムイ(kamuy)は神道の神(kami)として、今を生きている日本人の間で畏敬され、祈願されている。この儀式のときアイヌの人々が儀式のとき用いているイナウ(inaw)に似ている御幣(ごへい)や大麻(又は‘大幣’)(おおぬさ)が用いられている。

縄文人・アイヌの人々の精神文化は狩猟・採集の文化であり、言うなれば水平軸上の文化である。これに対して弥生時代以降日本に渡来した人々が持ち込んだものは「支配・組織・秩序」など垂直軸上の精神文化である。黄河文明よりも1000年古い漁労・稲作の文化が栄えていた長江中流域から、縄文時代末期日本に渡って来た人々がいた。縄文人がその人たちと交流した後誕生したと考えられる天皇は、奈良盆地に朝廷を開いて以来、天地自然を畏敬する祭祀を続けてこられ今日に至っている。神武天皇以来男系の皇統の今上天皇も、宮中で祭祀を行っておられる。天皇は日本中のすべての家々の宗家のような存在である。人々は気付いていないが、これが日本民族のアイデンティティの中心にある。男はそのように確信している。

このアイデンティティを無くす原因となりかねないような思想・信条を持つ一部の人々が穏健・中道の人々のグループの中に入り込み、そのグループとして発言し、従来の秩序を変えてしまうような動きをする可能性がある。右派と目されている野田元総理大臣も女系天皇推進派である。この状況をほくそ笑んで喜んでいる輩もいるだろう。

年内に政党の再編成が行われるだろう。すでにその動きが見られる。あるメディアはその動きに加勢するだろう。男はそのような動きを監視し、SNSやブログ等を通じて男の見解を発信し続けるつもりである。


2017年10月17日火曜日

20171017縄文人と渡来人から受け継いだ遺産


 今から16000年前から3000年前までの13000年間続いた縄文時代の遺産と、弥生時代以降大陸から渡来した人々からもたらされた遺産を、日本人は受け継いでいる。人は両親からそれぞれ半分ずつの遺伝子を受け継ぐ。戦後日本に永住している人々も数世代を経れば混血し、その子孫の遺伝子には縄文人のDNAが含まれることになるだろう。少ない体毛・一重瞼・比較的広い肩幅の人でも、その子供たちの一部の者は体毛が多く、二重瞼であり、ウインクすることができたりする。かくして皆自然に同胞となり、単一の日本民族となる。

 昨年12月末現在、在日外国人の数のビッグ3を挙げると以下のとおりである。日本は既に移民受け入れ大国である。(法務省の統計より引用)
 中国人    695,222人(内、教授1,532人・宗教  68人・高度専門職合計2,426人)
         他に特別永住者1,154人・永住者238,438人・定住者27,140人。
 韓国人    453,096人(内、教授 901人・宗教 879人・高度専門職合計 140人)
         他に特別永住者303,337人・永住者68,033人・定住者7,348人。
 フィリッピン人243,622人(内、教授   94人・宗教241人・高度専門職合計  21人)
         他に特別永住者47人・永住者124,477人・定住者47,633人。

 特別永住者は、米国戦艦ミズリー艦上での日本の降伏文書調印日以前から引き続き日本内地に居住している朝鮮人及び台湾人とその子孫を対象としているが、朝鮮・韓国系の特別移住者には、戦後の密航者も多く含まれる。(以上、ウイキペディアより引用。)
 参考までに、中記国以外の特別永住者でビッグ3を挙げると以下のとおりである。
  米国:777人・カナダ112人・オーストラリア123人。
 なお、永住者は在留資格取得後の更新は不要であるが、定住者は更新が必要である。

 日本は古来、男系皇統の天皇が日本民族統合の象徴であった。ところが今、夫婦の個別の姓を容認し、女系天皇も容認しようとする動きがリベラリストの間に見られる。彼らは多数を占めているわけではない。しかし彼らは発言量が少ないが多数を占めている穏健・保守の人々の間に入り込み、穏健保守団体としての発言を行い、世論の形成に影響を与えている。男は、戦後皇籍離脱をさせられた旧皇族の子孫が皇室との間で養子縁組するなどにより、男系の皇統を何としてでも維持できるようにするべきであると強く思っている。

 日本は米国との間で自動車の輸出・や米・牛肉・オレンジの輸入などをめぐる貿易摩擦があったが、総意と工夫・米国の利益に利する措置等により、それを乗り越えて来た。日本はEUとの間のEPA(経済連携協定)の発効により輸入乳製品の値下がりが想定される。牛乳の生産地北海道では搾乳の大規模ロボット化で作業効率を飛躍的に上げて、これに対処しようとしている。

 日本人の精神文化はどう形成されてきたのか。男は縦軸と横軸で考察する。男は、多数の縦軸の精神文化は大陸から渡来した人々からもたらされたものであり、多数の横軸の精神文化は13000年間持続した縄文の人々からもたらされたものであると考える。

 日本人の創造と工夫の能力の源は縄文時代と弥生時代にある。縄文人たちは北海道から沖縄まで同じ紋様の土器を作り、採集する栗などを栽培していた。日本人は寒冷地の北海道でも品種の改良により高品質の米の大量栽培を可能にした。日本人はマグロやうなぎなどの栽培漁業を発展させている。これは縄文人本来の資質のみならず、弥生時代以降大陸から渡来した人々が会得していた組織力や情報力に負う部分もあるであろう。

 古代の日本について、中国の隋書(隋王朝の歴史書)には、「新羅・百濟・皆以倭爲大國多珍物、並敬仰之」とある。(意訳:新羅・百済の両国は、‘日本が大国で珍しい物が多い国である’と、日本を尊敬している)。その時代、「倭」は日本のことである。当時、日本の天皇は隋の皇帝に国書を届けた。隋書には「日出處天子、致書日没處天子、無恙、云々、帝覧之不悦。」とある。(意訳:太陽が昇って来る処の国の天皇は、太陽が没する処の国の皇帝に書を送ります。ご機嫌いかがですか。皇帝はそれをご覧になって不愉快になった)。

 その古代人は神(ローマ字のKami・アイヌ語のKamuy・自然界の神格を有する様々な霊的な存在)を祀っていた。それは、現在、神道の神として日本人の心の支えになっている。日本には縄文時代の昔から、山の神・海の神・岩の神・火の神・水の神など様々な神がいる。縄文人の子孫であるアイヌの人たちの祭祀の仕方は神道にも見られる。大陸から日本に渡って来た人々は縄文人と混血しつつ、縄文人の伝統・文化の中に融合したのである。特別永住者たちも、世代を経るうちに自然に完全な日本人になってゆくことだろう。

人の交わり・混血はものの考え方の多様性・創意工夫能力・創造性を発展させる。縄文人自身も北からマンモスを追ってやってきた人々と、南から黒潮に乗ってやってきた人々と混じり合い、狩猟・採集・栗や穀物の栽培・稲作・航海・料理の能力を高めていた。日本人のアイデンティティの深淵には混血がある、と男は思っている。

三内丸山遺跡など日本各地の縄文遺跡の発掘調査により、13000年間も続いた縄文時代の全容が次第に明らかになりつつある。我々日本人は、縄文人及び大陸から日本に渡って来た人々から受け継いだ遺産の尊さを知り、先祖に対する感謝と祈りの心を失わず、天皇の下に心を一つにして自らの安全と生存を保持しつつ、世界の平和に貢献することが大事である。


2017年10月8日日曜日

20171008ある医師・僧侶の最期


 今、日曜日の午後である。女房が「お父さん、お父さんが好きそうなことがテレビに出るよ」という。それは夫婦そろって医師であり僧侶であるお方の、夫が末期がんに罹り、その最期までの450日間をNHKが映像で記録した番組であった。新聞に出ているテレビの番組表には『ありのままの最期』という題で出ていた。

 男は昨夜、『仏教の教え』という題でこのブログに記事を投稿していた。その記事に関連しているようなことが今日のテレビで放映されている。そのようなことはよく起きている。そのような現象は不思議と言えば不思議である。しかしそれは「たまたま起きた偶然の現象である」、と言えば不思議でも何でもない。

 男はその番組を視聴して、「人は自分の思い通りには死ぬ事は出来ない」と思った。しかし、昔、侍の切腹はある意味自分の思い通りの死に方であったように思われる。新渡戸稲造著『武士道』(奈良本辰也訳・知的生き方文庫)の第12章に「切腹」という題でその様子の一例が示されている。

 「人は思い通りの死に方が出来ない」という理由の一つに、正に人生の終わりに立ち向かおうとする人と、その人に親密な所縁のある人との間に何か心情的な関わりがあることが挙げられる、と男は思う。

 女房の叔父は死ぬ数日前、農協の銀行に連れて行ってもらって自分の葬式の費用とするお金を引き出し、葬式での焼香の順番まで決めていた。32歳の時乳がんで死んだ男の生母は死ぬ直前、当時9歳であった男に「起こしておくれ、東に向けておくれ、仏壇から線香をとってきておくれ、お父さんを呼んできておくれ」と言った。この例では「思い通りの死に方」が出来ているように見える。それでも当の本人たちにしてみれば、「自分の思い通りにはならなかった」部分も多々あったに違いない。

 煩悩多き身でありながらも阿弥陀仏を信仰し、全てを阿弥陀仏のお力にすがって生きることは、最も理想的な生き方ではないだろうか?真宗の経典には「不断煩悩得涅槃(HUDAN  BONNO TOKU NEHAN)(煩悩を断たずに涅槃を得る)」「往還廻向由他力(OGEN EKO YU TARIKI)(往くも還るも廻向は他力に由る)」などの文言がある。

現世で死後自分の魂が「極楽」に往くことができるような「廻向」も、また極楽に一時居る自分の魂が来世に新たな生を受けて還ってくることができるような廻向も、阿弥陀如来のお力に由るものである。「廻向」とは、自分の修めた功徳を他に巡らして、自他ともに仏果を成就しようと期することである(『広辞苑』より)。

 その現世においては煩悩を断つことなく涅槃を得ることが出来る。その方法はただ一つ、阿弥陀如来を信仰し、功徳を積むように修業しつつ正しい道を歩むことである。

人は誰でも自分の煩悩を断つことは極めて困難であり、殆ど不可能である。しかし、自分の最期のときは一切の未練を断ち、「もう少し生きて居よう」などと誰の為にも一切思わぬほどに、冷厳であらねばならぬ、と男は思っている。


 

2017年10月7日土曜日

20171007仏教の教え


 以下はネットに出ていた記事の一部である。(“”で引用。)

 “・死有(しう)  : 前世における死の瞬間
・中有(ちゅうう): 死の瞬間から次に生を受けるまでの中間
・生有(しょうう): 次の世に生を受けた刹那の瞬間
・本有(ほんう) : 生を受けてから死に至るまでの間

以上の四つのサイクルに分けておりまして、死の瞬間である死有(しう)の状態を過ぎますと中有と呼ばれる「生きているでも無く、死んでいるでも無い」意識だけの状態を迎えることになると説かれています。・・(中略)・・身体の動きが止まっても潜在的な余力によって心の働きが暫く続く状態を指し、いわゆる命の残り火のような状態で心の相続によって辛うじて意識が残留しており、モノを見たり聞いたりする事が出来ると言われ、次の行き先を必死で探す状態であるとも言われます。”

古代インドにおける七進法により、死者が七日ごと次の段階に進んでゆく考え方がある。そして死者は七回目の七日、つまり四十九日目に次の世に生を受ける。その有り様は死者の生前の行為によって様々である。それは天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の何れかの世界における「生」である。

死者が受けた新たな人生がより良い世界になるように、その死者に所縁がある者は追善供養を行う。それが百箇日・一周回忌・三回忌などの法要である。例えば生前の行いの如何によって、もし修羅界に「生」を受けた人がいるとして、その人を人間界に導くために追善供養の法要を行う。人間界に生まれた人についても、その人の人生がよいものであるように追善供養を行う。その追善供養を行う人自身もその行為によって、人間界でより徳が高いレベルに上ることができる。

釈尊入滅後、釈尊の弟子たちによって釈尊の教えをまとめるための会議(結集)が何度か行われた。その結果まとまったものが経蔵(sutta-pițaka、スッタ・ピタカ)などである。その経蔵は阿含(āgama、アーガマ)または部(nikāya、ニカーヤ)という名で呼ばれた。(Wikipediaより引用。)

男が所持している『新訳仏教聖典』(大法輪閣版)・『原始仏典』(中村 編、筑摩書房)には、輪廻転生・死後の運命・供養のことなどが書かれている。男は折に触れこれ等の本を読み、仏教の知識を深めようと思っている。

量子科学においては、量子の不思議な振る舞いが次第に明らかになりつつある。男も意識を凝らし意識における量子の不思議な振る舞いと共鳴したいと思っている。そう思うと、釈尊の教えを素直に受け容れることが出来るような気分になる。

『仏説阿弥陀経』には、極楽の世界が書かれている。この極楽は阿弥陀仏に帰依した者が住むことが出来る世界である。極楽とキリスト教の天国との違いは何か。「極楽」は死者の魂が命そのものになるための期間を過ごす場所である。一方「天国」は魂が永遠に住む場所である。

男は、その魂は「意識」そのものである、と考えている。意識も量子で生まれる。人が死ねばその人の意識は量子として宇宙に存在するようになる、と男は考えている。

人が見て認識する対象はその人だけの物であり、他の人がその同じ対象を見て認識することとは同じではない。ただ、人は想像力でその対象を同じように認識している、と考えられているにすぎない。それは量子エンタングルメントの働きによるものかもしれない。

仏教の教えは仏教の教えを学ぼうと望む人だけにしか伝わらず、仏教を信仰する人の歓びは仏教を信仰する人しか味わえないものなのだろう、と男は思っている。